2008年11月27日木曜日

ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社

なぜ人は、友情や愛情を感じ始めた他人には、進んで自らのことを語ろうとするのだろう。うぬぼれた時にあたりかまわず繰り返す定型の自慢話ではなく、友情や愛情を感じる人へは、新たに自分を語りだすのはなぜなのだろう。なぜその語りは万人向きの履歴書の記述のようではないのだろう。

アレントなら、「語り」(speech)の力からそのことを説き起こすかもしれない。バトラーは、アドリアナ・カヴァレロを引用する。


あたかも私たちの個性の内容を書き込むだけであるかのように、私たちは「何者なのか」と問うべきではない、とレヴィナス的な--おそらく、さらに明白にアレント的な--手法で、アドリアナ・カヴァレロは論じている。(55ページ)


「私」とは、私一人で完結した存在ではありえず、また無人空間で自存しているような存在でもないとバトラーはアドリアナ・カヴァレロに即して考える。


彼女[=アドリアナ・カヴァレロ]の見方では、私とは、自分自身に閉じこもった、独我的な、自分自身についてだけ問いかけるような、いわば内的主体ではない。私は重要な意味であなたに対して存在しており、あなたのおかげで存在している。もし私が呼びかけの条件を喪失すれば、もし私が呼びかけるべき「あなた」を持たないなら、私は「私自身」を失ってしまう。彼女の考えでは、人は他者に対してのみ自伝を語ることができ、「あなた」との関係でのみ「私」に言及することができる。「あなた」が存在しなければ、私自身の物語は不可能になってしまうのである。(57ページ)



「私」が存在するということは、「私が生きる」ということである。「私」が他者に関係することにおいてのみ、(生物学的な意味ではなく、精神的な意味で)生きることができるとすれば、「私」に呼びかけてくれる「あなた」、あるいは「私」が呼びかけることを許してくれる「あなた」は、私の生命である。


結局のところ、呼びかけられることなしには誰も生き延びることはできないのであり、呼びかけられ、何らかの物語を与えられ、物語の言説的世界に参入させられることで言語のなかに創始されることなしには、誰も生き延びて自分の物語を語ることはないのである。言語が課され、何らかのかたちで情動を分節するような関係の網目を言語が生み出した後にのみ、ただ事後的にのみ、人は言語のなかに自分の道を見出すことができる。人は呼びかけられ、その結果として呼びかける何らかの方法を学ぶような幼児、子供として、コミュニケーション環境に参入する。この関係性の初期パターンは、いかに自分を説明しようとも、そこに不透明性として現れる。(115-116ページ)


私の命とは、実は私とは他人であるあなたであるのなら、私は私自身にとっても不透明な存在であるにすぎない。「私」という存在は、自前の基盤を欠いている--これは近代的自律性概念からすれば噴飯ものの弱音なのだろうか。それとも近代的自律性概念というのが、不可能なフィクションなのだろうか。いや待て、カントが自律性を語ったとき彼は他者を必須の前提としていなかっただろうか--。


この「私」は語られ、分節されているのであり、「私」が私の物語る語りを基礎づけているように思われるにもかかわらず、それは語りのなかで最も基礎を欠いた契機である。「私」が語ることのできない物語の一つは、語るだけでなく自分自身について説明するような「私」として、自分自身が出現する物語である。(122ページ)


「私」は「あなた」を必要としている(願わくば「あなた」も「私」を必要としているように!)


始まりにおいて、私はあなたに対する関係であり、両義的に呼びかけられ、呼びかけており、「あなた」に託されているのであって、私は「あなた」なしでは存在しえず、生き残るために「あなた」に依存しているのだ、と。(146ページ)


かくして「私」は「あなた」を求める。しかしそこにエゴイズムが浸食してくるなら、「私」は「あなた」を「私」の中に取り込もうとする。「あなた」を「私」に同化させようとする。「あなた」を「我がもの」にしようとする。

だがそのようなエゴイスティックな試みは、「あなた」という他者を精神的に抹殺してしまうことである。そうして「あなた」が抹殺されてしまったのなら、「私」も精神的に消滅してしまう。エゴイズムは自己破壊につながる。だからエゴイストでさえ、倫理が必要なのだ。


おそらく最も重要なのは次の点だろう。私たちは、倫理とはまさしく非知の瞬間に自分自身を危険に曝すよう命じるものだ、ということを認められなければならない。非知の瞬間とはつまり、私たちを形成しているものが、私たちの目前にあるものとは異なるときであり、他者への関係において解体されようとする私たちの意志が、私たちが人間になるチャンスを与えてくれるときである。他者によって解体されることは根本的な必然性であり、確実に苦しみである。しかし、それはまたチャンス--呼びかけられ、求められ、私でないものに結ばれるチャンスでもあり、また動かされ、行為するよう促され、私自身をどこか別の場所へと送り届け、そうして一種の所有としての自己充足的な「私」を無効にするチャンスでもある。もし私たちがこうした場所から語り、説明しようとするなら、私たちは無責任ではないだろうし、あるいはもしそうであれば、私たちはきっと赦されるだろう。(248ページ)


倫理とは「私」が「あなた」のために保つものであり、その倫理によって「私」は赦され、生きることができる。


関連記事:J.バトラーの言葉

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2008年11月24日月曜日

「文化」に関する脱臼的駄文

[このブログで、私はしばしば(というよりしょっちゅう)生煮えの考えを書きつけています。今回は特にそうで、とにかく私が感じたことを文章にしようとしましたので、主張は二転三転し、あちこちで論旨は「脱臼」しています。というより私は明快な論旨を自ら「脱臼」させることを目指していました。この前書きでも「脱臼」という言葉を繰返し「脱構築」と言わない謙虚な身振りの嫌らしさもこのエッセイは含んでいます。そのような試みに興味のない方はどうぞこの記事は読まないで下さい。]





私が見たその小学校の英語授業は、現在全国各地で展開されている研究授業の好例と言えるのかもしれない。その小学校は、校長以下の教員集団の力で小ぎれいに保たれ、児童も明るい表情を見せている。研究開発指定校ということもあり、周りの人々の関心も高く、研究授業は普通教室よりは一回り大きな図書室で行われたものの、参観者はその部屋にも入りきれないほどであった。

その注目の中、チャイムが鳴り、授業が始まる。19世紀ヨーロッパの例にならって作られ、その後の独自の発展を経て、今や日本の「伝統」となった制服を着た児童が一斉に立ち上がる。子ども達の視線が注がれるのは、日本人担任教師の横に立つイギリス人教師(ALT)である。児童の制服姿や、観衆のスーツ姿に比べると明らかにゆるいドレスコード(しかしおそらくその場の誰もが不快には思わない選択)の服装でリラックスをした表情を保つ彼は"Hello, guys!"とコミュニケーションを開始する。それに応じるのは"Hello, Mr. ..."という一斉唱和の英語表現である。この周りと呼吸を合わせる感覚は教室文化そのものである。

最初のこの挨拶の頃は、児童もまだ多くの観衆の存在に緊張していたのかもしれない。だが活動が進むにつれ、子ども達はリラックスしはじめる。日本人教師もイギリス人教師も特に指示していないのに、子ども達のジェスチャーは、日本語の言語生活ではあまり見られないぐらいに豊かになる。

その身体行動の「豊かさ」は、別の角度からすれば「大げささ」となるのかもしれない。イギリス人教師の好みで数ヶ月前からこのクラスでの定番となった"Hoo!"というかけ声は、子ども達に屈託なく使われている。それどころか、数ヶ月前は決してそのような気勢を上げることのなかった日本人教師(中堅の女性)までもが今は"Hoo!"と裏声をあげている。

彼女にしてもここ一年半あまりの経験である英語授業は、自己変容の経験であったであろう。教師が英語コミュニケーションを教える中で、戸惑いながらも行動様式が変わってゆくのは、小学校だけでなく、中学校や高校でもしばしば観察されることである。文法訳読式という日本語使用を基盤とした安定した行動様式から英語教師が引き離され、彼/彼女らが英語使用をほぼ常時要求される時(そしておそらくは彼/彼女らが自ら英語使用をほぼ常時自らに課す時)、彼/彼女らの身振りや表情そして声の表情や使い方は、それまでの日本語文化の影響下のものから大きく変わる。

子ども達は、大人ほどに戸惑いなく身体様式を変える(無論、子どもの中にも変化を拒む子もいるのだが、ここでは話を簡単にするため、そういった個性記述には立ち入らないでおこう)。この授業の子ども達にしても、「ボランティア」発言を求められると--この「ボランティア」という概念もなかなか大和言葉では表現できない--「ハイ、ハイ」とひな鳥が餌をねだるように手を挙げ、次々に自らの英語を紅潮した顔で披露する。授業最後の「ふり返り」では、ジェスチャーが豊かだった子を褒める発言が次々に続き、それには自然といえるぐらいの同意の拍手が注がれる。子ども達は、それが教えられたものであれ、自発的に学び取ったものであれ、自分たちの身体作法の変容を肯定的に捉えている。

肯定的に捉えているのは子ども達だけではなかった。私が観察した限りでは、「英語教育導入」という国策を一身に背負うような形で教室に登場した(しかしリラックスした服装と雰囲気をもつ)イギリス人男性がもたらした、日本語文化よりは大きく、制限の少ない身体行動様式は、観衆である保護者や他校の教師にも肯定的に受け入れられていた。彼の大きな動きと声は観衆の笑顔に迎えられていた。彼につられて、子ども達も日本語文化ではなかなか見られないぐらいに身体と声の動きの振幅を大きくすると、観衆の笑顔はいっそう明るくなった。多くの大人がこの子ども達の変容に肯き、未来への希望さえ感じているようにも思えた。

この子ども達の変容は「解放」なのだろうか。

明治以来の「脱亜入欧」、「西洋化」、「国際化」、「グローバル化」--これらの言葉はいつ頃言い換えられてきたのだろう--によって日本人が「自由」になってきているのだろうか。

しかし敢えて逆の見方をすれば、これは日本文化の--それが何を意味するものであれ--「破壊」とすら言えるのかもしれない。江戸時代の身体文化の多くを日本人は失ってしまった。その喪失はこれらの「破壊」によってもたらされたという議論は可能だろう。

いやこの文化変容を「解放」とか「破壊」とかの、一面的な価値を担った言葉で語るべきではないのかもしれない。ちょうど生物の進化が、道徳とか善とかの価値とはまったく無関係に展開するのと同じように、こういった文化変容もただ起っていると言うべきなのかもしれない。

だが人間の自己同一性の大きな基盤となる文化の変容を、生物進化と同じように扱っていいものなのだろうか。私たちは文化に関して確固たる方針を必要とするのではないか--こういった反論は十分に可能である。

だがその確固たる方針とは何なのだろうか。それは日本文化の「解放」を進めることなのだろうか。それともその「破壊」を阻止することなのだろうか。

しかしある種の人々は「解放」を求め、ある種の人々は「保守」を求める。いや(私という人間を観察してもそうなのだが)一人の人間もある時には「解放」の喜びを感じ、ある時には「保守」の喜びを感じる。

そうなると「文化に関する確固たる方針」とは何なのだろう。もしそれが国を挙げての一律の、曖昧さや矛盾を許さない、一方向への邁進なら、それは怖い。大石五雄『英語を禁止せよ』(ごま書房)が教えてくれることは、日本人が日本人としての自覚を高め、この上なく一致団結しようとした時代をあげるとすれば、それは昭和13年からの数年間だということだ。しかしその時代は日本史の中でどのように評価されるべき時代なのか。

さらに「西洋」対「日本」という構図についても考え直そう。「解放」にせよ「破壊」にせよ、これらの言葉は、あたかも彼方に「西洋」という動作主(agent)があり、此方に「日本」という被動者(patient)があるような図式を私たちの思考にもたらす。しかし「西洋」は現在においても不動のままであり、「日本」(あるいは「東洋」)だけが変化を被っているのだろうか。

大きな議論はできないので授業のことで語ろう。件のイギリス人にしても、この日本での英語教育経験で何も変わらないままなのであろうか。教師の指示で、床にひざまずき、さっきまで座っていた椅子を机にして一斉に授業のふり返りを書く子どもを前にして、あるいは授業が終わればこれまた教師の指示で観衆に"Thank you.  Bye, bye!"と一斉に集団で英語を発話する子どもの姿を見て、彼はどう感じたのだろうか。彼はこの日本の体験でもまったく変わらないのだろうか。こういった日本の行動を見ても、特に何も感じなくなるぐらいの変容は彼も経験するのではないだろうか。

仮に「イギリス文化」と「日本文化」という言葉を使うにせよ、これらの二つの文化はおそらく「共変」している。同じ経験を契機にして、それぞれがそれぞれに変容している。経験の前後でまったく変化しない「自己同一性」は二つの文化で保たれているのだろうか。

そもそも「イギリス文化」や「日本文化」という概念こそは、「自己同一性」を私たちが想像し、創り上げなければ保てないものではないのか(近代国家の成立時に、それは必要なことであったにせよ)。その「イギリス文化」や「日本文化」を、それらが交わった後にでも「自己同一性」が保たれているものと考えることはどのような思考様式なのだろう。その思考様式は何のために保たれるべきなのだろう。どのような機能を果たすのに有効なのだろう。

「異文化交流」という言葉は、二つの文化が、それぞれにとって「異なる」文化と接し、そしてまた元に戻るといったイメージがあるように私には思われる(そもそも"intercultural"という言葉がどうして「異文化」という日本語になるのか私にはわからない)。上記の英語授業にせよ、「異文化」が接し、そして授業の後には、またそれぞれの文化は元に戻るのだろうか--他愛のない無害な思い出だけを残しながら--。

ひょっとすればこの英語授業にしても「異文化交流」ではないと言うべきなのかもしれない。ただ文化が変容しているだけなのではないか。そして文化とは常に変容を重ねてゆくものなのではないか。

文化(culture)は英語では可算名詞でもありうる。しかしそれはどのような意味で数えられるのだろう。私たちは文化を数えられるもの、つまりは離散的で、自己同一性を保つものとして捉えようとする時、どのような決定をしているのだろう。その決定の中で、どのような権力(power)が働いているのだろう。

文化を可算名詞として考え、自らと「異なる文化」と接するなどと語る時の政治学(politics)とは何なのだろう。私たちはそのような言葉遣いによって、どのような権力(power)配置を保とうとしているのだろう。

逆に言うなら文化を不可算名詞として扱い、文化を一でも多でもないものとみなす言葉遣いをしようと私たちが決意するのなら、それはどのような政治行為なのだろう。私たちはその時、どのような権力を創り上げようとしているのだろう。

この駄文を書き終えようとしている今の私は、文化を不可算名詞として考える用法に惹かれている。文化を誰かが、一律一様に決定し、その決定によって「他」にして「異」なる文化を創り上げてしまうシステムの暴走を怖れるからだ。

だがそうだといって私が言葉の警察になるわけでもない(そちらの方がはるかに怖ろしいことだろう)。私とて文化の内に区分を引き、「こちらの文化」と「あちらの文化」というように、文化を可算名詞として使うこともあるだろう。

しかしその離散性や差異は、決して固定的なものでも決定的なものでもない。次の機会に、きっと私は異なるやり方で文化を数えていることだろう。いやまた文化という言葉を不可算名詞として使っているかもしれない。

私という人間の中で、文化は多種多様に理解され使用される。私をほんの一人としかしない社会の中で、文化はさらに多種多様に理解され使用される。文化は様々に受容され、様々に抵抗される。私たちはそういう「文化」という得体の知れないものを、一律にコントロールしようとするのではなしに、ただそのあり方と変容に対して、そのあり方と変容を規定している私たちの言語使用に注意しながら、自覚的であることだけを目指すべきではないのか。








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右クリックとショートカットキー

パソコンを操作する際には、右クリックとショートカットキーを駆使する習慣をつけておくと、作業が非常に迅速にできます。


右クリック

右クリックに関しては、とにかく作業をしたいところにカーソルを合わせて、右クリックをとにかく押してみる習慣をつけてください。そうすればたいていの場合に便利なメニューが現れますから、そこから機能を選択して下さい。



ショートカット

ショートカットとは、キーボードのある一定のキーを押すことで、よく使う機能を実行するものです。以下のショートカットキー(Windowsアプリケーションの多くで使われているもの)は常時使いこなすようにするととても便利です。コンピュータをガンガンに使う人は、ショートカットを最大活用し、指をできるだけキーボードから離さずにに(つまりはマウス使用を最小限にして)作業を進めます。その方が明らかに作業は速いです。

(  )の中に機能を、[  ]の中にそのショートカットの覚え方を書きました。皆さんもマスターして下さい。


Ctrl+C  (コピー) [CopyのC]

Ctrl+X  (切り取り) [ハサミの形のX]

Ctrl+V  (貼り付け) [XとCの隣にある関連機能]

Ctrl+A  (全てを選択] [AllのA]

Ctrl+S  (保存) [SaveのS]

Ctrl+Z  (直前の操作のやり直し) [失敗をしてしまった時の最後の手段]

Ctrl+Y  (直前の操作の繰返し) [Zの前のYということで関連づけて]

Ctrl+F  (検索) [FindのF]

Ctrl+P  (印刷) [PrintのP]

Ctrl+N  (新規作成) [NewのN]

Ctrl+O  (開く) [OpenのO]
Ctrl+W (閉じる)  [Windowを閉じるのW]

Ctrl+Alt+Delete  (プログラムの強制終了) [丸暗記して!]
Ctrl+クリック (複数選択:複数のファイルを選択してそれらを一括処理) [クリック選択の応用1]
Shift+クリック (範囲で選択:さらに大量の複数ファイルを一括選択・処理) [クリック選択の応用2]

Shift+矢印  (範囲指定:マウスではうまくゆかない時に便利) [矢印の特別な使い方]

Shift+CapsLock  (全ての入力を大文字にする) [CapsLockの特別な使い方]
Tab (エクセルやWebの次の入力項目へ移動する) [ワープロと同じ感覚]
Tab+Shift  (エクセルやWebの前の入力項目へ戻る) [Tabの応用]
Alt+Tab  (アクティブウィンドウの切り替え) [画面をALTernateしてTab移動]

PrintScreen  (ディスプレイ画面全体のハードコピーをクリップボードへコピー) [そのままの名前]

Alt+PrintScreen  (アクティブウィンドウのハードコピーをクリップボードへコピー) [PrintScreenのバリエーション]

Windows  (Windowsのスタートメニューを開く) [そのままの名前]

Windows+D  (デスクトップを表示する) [DesktopのD]
NumLock  (テンキーの数字を入力できないようにする) [Number Lock]
PageUp  (ページ単位で上にスクロール)  [そのままの名前]
PageDown  (ページ単位で下にスクロール)  [そのままの名前]
F6  (ひらがな変換) [丸暗記]

F7  (全角カタカナ変換) [丸暗記]

F10 (半角英数変換) [丸暗記]
※さらにパソコンを快適に使いたい人は、「周辺部キーの打指固定とショートカットキー」 をお読みください。




快適にパソコンを使うための小道具

パソコンは内部の処理速度が速いことも重要ですが、人間が使うものである以上、人間とパソコンのインターフェイスである入出力装置の使い心地が非常に重要になってきます。








関連記事

周辺部キーの打指固定とショートカットキー

GmailとGoogle Calenderの作業効率を高める



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Microsoft Office Onlineトレーニング

この記事は、私のようにコンピュータには詳しくないヘタレが、それでもなんとかエクセルを使えるようになるためのオンラインガイドです。

ヘタレらしく、オンラインにあるリソースは、片っ端からリンクして使いまくるという他人任せのアプローチを取ります。というわけで、ど真ん中ストレートでMicrosoft Office Onlineトレーニング を使います。(ここにはパワーポイントなどのトレーニングもありますので、ヘタレの皆さん、どうぞお使い下さい)

授業では、Office 2003トレーニングコースのExcel 2003 を使います。(Excel 2007を常用する人はこちらをどうぞ)。

トレーニングには「演習」や「自己診断テスト」がありますが、最初はこれらは省略して下さい。まずは、だいたいエクセルではどんなことができるのかについての直観的な理解を得ましょう(この、たるんだ態度がヘタレにとっては心地よいのです)。

以下の(1)から(4)のトレーニングコースを順番にやっていって下さい。エクセルをよく知っている人は確認するだけで結構です。(4)まで終えたら、友だちを助けて上げてください。エクセルをまだ知らない人はゆっくり時間をとってやってください(で、残ったトレーニングは宿題ね 笑)。とにかく誰でもわからないことがあれば気軽に友だちやTAや私に尋ねて下さい。つまらないことから苦手意識をいだいてしまったら、もったいないですからね。

(1) 基礎から学ぶExcel2003入門(エクセルをほとんど使ったことがない人向け)

(2) Excel入門(エクセルをあまり使ったことがない人向け)

(3) Excelの印刷オプション(エクセルで作った文書を印刷したことがない人向け)

(4) Excelの優れた機能(エクセルをある程度使ったことのある人向け)




以下の(5)と(6)はグラフについてです。これについては、今後の授業でおいおいやってゆきます。時間のある時にやっておいてください。

(5) グラフI:グラフの作成法(グラフ作りの基本)


(6) グラフII:適切なグラフを選択する(グラフの表現力を上げるための工夫)









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『日経PC21』の薦め/エクセルの使いこなし

仕事のためにパソコンを使うための情報誌としては、私は『日経PC21』をお勧めします。この雑誌を毎月読んでおけば、仕事の上でのパソコンの使いこなし方は、だいたいのことはわかるようになるのではないでしょうか。


『日経PC21』のホームページには、「便利テクニック」として



があります。これらは非常に便利なガイドになっていますので、ぜひ活用して下さい。



特に「エクセルの技43」の中の以下の15は便利な技ですから、ぜひ覚えておいてください。

入力

セル操作




また、上にはあがっていませんが、以下のような使いこなしも覚えておくと便利かと思います。

■セルの中でも各種書式(フォントの種類や色、斜線や下線など)が使えることを覚えておくこと。

■セルの中で文章を改行入力するためには、Alt+Enterを使う。

■文字入力に伴う「セルの書式設定」についてきちんと理解しておく。特に「配置」と「表示形式」は重要。「配置」に関しては、「横位置・縦位置」の」「両端揃え」、「表示形式」に関しては「数値」の「小数点以下の桁数」や「負の数の表示形式」が重要。

■シートを方眼紙にする。左上の三角形をクリックしてシート全体を選択し、列の幅を適当に揃えて方眼紙を作る。複雑な表はこの方眼紙の任意のセルを結合して作る。

■「ヘッダー/フッター」に自動的に年月日や時刻を自動入力しておいて、印刷した時にどれがどのバージョンか混乱しないようにする。

このような技は、以下のような文書を作るときに重要になってきます。


カリキュラム(パスワード必要)




仕事を始めると、エクセルをある程度使いこなせることが前提となりますので、学生時代のうちにどうぞエクセルに慣れておいて下さい。


加えて、マイクロソフトが用意している「テンプレート」もうまく使えば便利かもしれません。









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LifeHackとGetting Things Done

学生さんから「パソコンなどを使いこなして生活を豊かにするための情報はどこから得ればいいのか」という質問をよく受けます。私自身、情報通とは言えませんが、"LifeHack"と"Getting Things Done"をキーワードにしておけばいいのではないかと思います。

ライフハック




どうぞ皆さんも、これらのキーワードで適当にググって、お気に入りのブログなどを見つけて、それをチェックしながらより快適な生活をおくる方法を見つけて下さい。







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2008年11月20日木曜日

J.バトラーの言葉

「裁くな。裁かれんがためなり」という言葉や、「アダムとイブは知恵の木の実を食べたがゆえに楽園から追放された」というエピソードを子どもの時に知ったとき、私は「どうして?」と思ってしまいました。「裁くことのどこが悪いの?裁かないと世の中無茶苦茶になってしまうのではないの?」「知恵をもち正邪を知ることのどこが悪いの?」と疑問をもってしまいました。

そのような子どもは、大きくなっても、うぬぼれや自己に対する過信をなかなかぬぐい去ることができませんでした。彼は「決めつけ」を「判断」と呼び、「見切りをつける」ことを英断と呼んで、自らの正しさをなかなか疑おうとしませんでした。彼はことばの力を信じていました。「ことばで全てが語れる」とまでは思っていないにせよ、可能な限りことばで明晰に語ることを、万人に対して要求するほどにことばを操る自分を偏愛していました。

そのような子ども=大人にはジュディス・バトラーの次のような言葉を贈りましょう。


もし私たちが自分そのものであると言うところの同一性が、私たちを把握できないかもしれず、同一性のカテゴリーの外部にこぼれ落ちてしまうような剰余と不透明性を徴しづけているとすれば、「自分自身を説明する」ためのいかなる努力も、真理に近づこうとして失敗してしまうはずである。私たちが他者を知ろうと務める際に、あるいは他者に自分が最終的、決定的には誰であるかを述べるよう求める際に重要なのは、絶えず満足を与え続けるような答えを期待しないことだ。満足を追求せず、問いを開かれたままに、さらには持続したものにしておくことで、私たちは他者を自由に生かすのである。というのも、生とはまさしく、私たちがそれに与えようとするいかなる説明も超えたものだと考えられるからだ。もし他者を自由に生かすことが承認に関するあらゆる倫理的定義の一部をなすなら、こうした承認の説明は、知に基づくのではなく、認識論的諸限界の把握に基づくことになるだろう。

ある意味で倫理的姿勢とは、カヴァレロが示唆するように、「あなたは誰か」と問いかけ、いかなる完全で最終的な答えも期待することなくそう問いかけ続けることにある。私がこう問いかける他者は、その問いを満足させるような答えによっては把握できないだろう。したがって、もし問いのなかに承認への欲望が存在するなら、この欲望はそれ自体を欲望として生かし続け、決してそれ自体を解消しないという義務を負っているだろう。「ああ、ようやく私はあなたが誰だかわかった」と言った瞬間、私はあなたに呼びかけることをやめ、あるいはあなたに呼びかけられることをやめてしまう。(81-82ページ)


非難は極めてしばしば、非難される者に「見切りをつける」行為であるだけでなく、「倫理」の名のもとに、非難される者に暴力を加える行為でもある。(87-88ページ)
以上、ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸,・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判』月曜社より








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2008年11月18日火曜日

中学三年生向けの言語コミュニケーション力論

2008年11月19日に下関中等教育学校で三年生に講演をする際のパワーポイントスライドを掲載します。



内容は、「言語コミュニケーション力の三次元的理解」を簡単に説明して、その観点からの言語コミュニケーション力の育て方について述べるものです。


内容はかなり簡略化していますし、口頭説明にかなり依拠する講演になりますので、スライドだけで十二分にわかるとはいえないかもしれませんが、もしご興味があればご覧下さい。








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2008年11月17日月曜日

ジュディス・バトラー著、竹村和子訳(2004)『触発する言葉』岩波書店

生徒というのは、自分のいらだちをしばしば教師にぶつけます。それは例えば女性教師に対する「ババア!」という言葉だったりします。しかしベテラン教師は、そう言われても慌てず「そうよ、私ババアよ。さ、次の問題やろうか」と受け流したりします(おぎ・やはぎ流なら「ババアですけど、何か?」と返すことになるのでしょうか 笑)。この受け流しから私たちは何を学べるのでしょう。

「ババア!」という発話を「憎悪発話」(hate speech)の一例と考えて、ここではジュディス・バトラー(Judith Butler)の論考を導入します。


Locutionary act, illocutionary act, perlocutionary actの区別をしたオースティンにとって、perlocutionary actはやっかいな存在のようでした(How to do things with wordsを再読したいと思っているのですが、なかなか機会を見つけられません)。Illocutionary actが聞き手に自分が意味した言外の意味をほぼ慣習で伝えることができるのに、聞き手に一定の行動を引き起こそうとするperlocutionary actにおいては、聞き手がしばしば話し手が期待したようには行動しないからです。このギャップは、言語研究者としてはやっかいなものに思えるかもしれません。

しかしこのギャップ(隔たり)こそは、前出の「ババア」を無効化するどこか、罵倒しようとした者を逆に懐柔するベテラン女性の発話を可能にしていると考えられます。


たとえば「クイア(変態)」という語の価値が変わったことは、発話がべつの形で発話者に「返され」当初の目的とは正反対の意味となって引用され、逆の効果を演じる可能性をもつことを示している。もっと一般的に言えば、そのような語彙のなかに潜む可変力こそ、個々の一連の発話行為ではなっく、起源も目的も固定されず、固定されえない連綿とつづく意味づけなおしの儀式である言説がおこなう行為遂行性を特徴づけている。この意味で「行為」は瞬時の出来事ではなく、時間の地平をもつ繋がりであり、発話の瞬間を超えた反復の凝縮である。発話行為によってもとの文脈を意味づけなおすことが可能となるには、発言時の文脈や意図と、それが生みだす効果とのあいだに、隔たりがなければならない。たとえば脅しが当初意図したのと違う未来をもつには--つまり、脅しがべつの方法で語り手自身に返され、その過程で脅しが無害になるには--発話行為の意味や効果が、当初意図されていた意味や効果を超えたものになる必要があり、現在の文脈が発話時の文脈と同一のものでなくなることが(たとえ起源はあるにしても)必要なのである。(23-24ページ)


もう少し抽象的な言い方でまとめればこうなります。


発話行為の力を、その中傷の力に対抗するように再稼働させる政治的可能性があるとすれば、それは、発話の力をそれ以前の文脈から別の方向へと流用することである。その場合、発話がおこなう中傷に対抗しようとする言語は、中傷を再演せずに、中傷を反復しなければならない。(63ページ)


こうなりますと、言語の多義的解釈を積極的に評価すべきということになるのかもしれません。この点でバトラーはハーバマスを批判します。


ハーバマスの主張では、コンセンサスを得るには、語は単声的意味に対応しなければならない。いわく、「理解のプロセスにおける生産性が問題ないものでありつづけるには、それに参与するすべての者が、同一の発言に同一の意味を付与する相互理解の参照点を、しっかりまもっていなければならない」[補注:これはハーバマス(1997)『近代の哲学的ディスクルス』岩波書店に見られる発言だそうです)]。だがわたしたちは--「わたしたち」が誰であろうとも--そのように一度で意味を確定することができる集団なのか。政治の理論化において逆転のない状況を作っている意味論的領域に、はたして永続的な多様性というものはないのか。解釈をめぐる争いを超越して、同一の発言に同一の意味を「付与する」位置にいるのは誰なのか。またなぜそのような権威がもたらす脅威の方が、拘束を受けない多義的解釈がもたらす脅威ほど、深刻でないと考えられるのか。(136ページ)


こうしてみますと、「憎悪発話」(hate speech)でさえ、一概に検閲して排除するべきなのかというラディカルな問いが生まれてきます。


ある種の発話形態を排除することによって、語りえるものを生産するこの境界は、まさに普遍を仮定するときに起こる検閲を稼働させる。普遍を現存のもの、所与のものとみなせば、そのような普遍が仮定されるさいの、排除という行為を慣例化することになりはしないか。このようなとき、またこのようにすでに確立された普遍の慣習に頼る戦略によって、わたしたちはすでに確立された慣習の境界の内側で自足して、普遍化の過程を無意識に差し止め、それがおこなう排除を自然化してしまい、それをラディカルに変革する可能性をまえもって阻止することになりはしないか。(141ページ)


別にバトラーにしても「普遍」が悪いというのではないでしょう。「普遍」は、永遠に到達できない理念として私たちに省察をもたらすものであり、現時点あるいは過去のある時点で、実際に到達されたものではなく、未来のある時点で到達できるものでもないと考えるべきでしょう。柄谷行人の言い方を借りるなら(注)、「普遍」は「統整的理念」であり「構成的理念」ではないと言えましょうか。

ことばの意味を私たちは語り尽くすことができると考えることは、実は危険なことではないかとバトラーは警告します。


表現し尽くすことができると主張することこそ、わたしたちがすでにそうなっているものとは別物になる可能性を予め排除する(フォアクローズ)ことであり、つまりは、言語の内部で私たちが生きることができる未来、つまりシニファンが民主主義の再分節化に有用な論争の現場でありつづけるような未来を、予め排除することなのである。(195ページ)


かつてブルデューは、オースティンの理論に社会制度の権力についての考察が少ないことを批判したそうですが、しかしそのブルデューも、社会制度をあまりに固定的に考えていたとしたら批判されるべきなのかもしれません。


ブルデューは社会制度を静的なものとみなしたので、社会変容の可能性を取りしきる反復の論理を把握できなかった。社会制度を間違って、曲げて引き合いに出すことも反復とみなせば、いかに社会制度の形態が変化や変更を経験しうるかを知ることができるし、また先行の正統性をもたない形で引き合いに出すことが、いかに既存の正統的形態に挑戦し、新たな形態の可能性へと切り拓く効果をもつかを知ることができる。ローザ・パークスがバスの前方の席に座ったとき、彼女は南部の人種分離の慣習によって保障されていた先行的権利をもっていなかった。だが事前には権威づけられていない権利を主張することによって、彼女は自分の行為にある種の権威を付与し、既存の正統的慣例を転覆させる反乱のプロセスを開始したのである。(228ページ)


言語のperformativity(行為遂行性)を考えさせられる面白い本でした。

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(注)柄谷行人「埴谷雄高とカント」『群像』1997年四月号で、柄谷は「統整的理念」であり、「構成的理念」を次のように使い分けています。


埴谷雄高がカントに出会ったのは、転向においてである。転向とは共産主義という理念を放棄することだ。しかし、その意味では、埴谷は転向したと同時に、転向しなかった。つまり、彼は共産主義を構成的理念として放棄したが、統整的理念として保持したのである。カントがいう「目的の国」と同様に、それは将来の「無限遠点」にあり、実現されることはない。だが、この理念(超越論的仮象)は、たえず現在あるものを批判しそこに導く「統整的」な機能を果たす。埴谷がいう「永久革命者」――未来の無限遠点から現在を見る――の視点はそのようなものだ。この意味で、彼は一貫して共産主義者だった。そして、それ以外に、共産主義者でありうるかどうかは疑わしい。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/gunzo9704.html







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2008年11月15日土曜日

佐藤俊樹・友枝敏雄(編)(2006)『言説分析の可能性』東信堂

「言説分析」とは何か。

この本で、橋爪大三郎氏は、この概念がフーコーに由来することを強調します。


言説(discourse, discours)とはフーコー独自の概念である。これにもとづく言説分析は、フーコーの一連の業績(『臨床医学の誕生』『言葉と物』『狂気の歴史』『知の考古学』『監獄の誕生』)を通じて練り上げられていった。
言説は、言語の形態の一種であり、中間的なまとまりをもった秩序である。言語のもっとも小さな単位は、言表(e'nonce')という。これは、社会学の最小の分析単位である行為にほぼ相当するもので、これ以上小さな単位に分解できない、ひとかたまりの発話や書字、行為(の記録)などをいう。これに対して、そうした言表が残らず集まった全体、ある時代・ある地域(社会)を満たしている言語的な活動の全体を、集蔵庫(archives)という。この両極の中間にある、何らかの秩序をもった言表の集合が、言説である。(「知識社会学と言説分析」 191-192ページ)


かくしてフーコー的な「言説分析」が日本の社会学においても隆盛するにいたりましたが、遠藤知巳氏は90年代以降、「言説」という術語によって社会学関係者が第一に想起するのはむしろ「構築主義」(constructivism)であると指摘します(「言説分析とその困難」 34ページ)。

しかし佐藤俊樹氏が「私の考える言説分析」として挙げるのは、フーコーにとどまらず、J.デリダ、F.A.キットラー、G.スピヴァク、J.バトラー、W.ベンヤミン、K.バークです(そして佐藤氏はそのような言説分析は「もはや少数派」であり、言説分析のフォーマライゼーション(制度化、あるいは健全化)によって「滅びる」と述べています)(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 5ページ)。

いずれにせよ、この「言説分析」に関する社会学者の論文を集めたのが本書です。以下、私にとって印象的だった箇所を引用し、それに駄文を加えます。

前出の佐藤俊樹氏が主張するのは、言説分析が、従来の「テクスト」概念のように「外部」を想定しないということです。


意外に聞こえるかもしれないが、本来、言説分析はテクストとかテクスト空間という概念とはあいいれない。いいかえれば、テクストとかテクスト空間という概念は、よほど慎重にやらないと、確定単位境界や特権的な観察者といった外部をすべりこませてしまう。
(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 13ページ)


つまり、言説分析も一つの言説である以上、特権的な高み(「外部」)に立つことができないのではないかというのが佐藤氏の見立てかと思います。


言説分析では一般に、積極的な根拠づけが成立しがたい。正しさの保障、すなわち認証は認証されるものの外部からなされる操作だからだ。それゆえ、言説分析では正しさを積極的に保証するという「真理」化が成り立たない。そして言説分析も言説である以上、それが何であるかも関係的にしか成り立たない。語った言葉がいかなる意味で発効するかを、語る者があらかじめ指定できないのだ。言説分析という語りをする者ももちろん例外ではない。
(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 15-16ページ)


かくして言説分析の「遂行性」が強調されます。


[他者の]力に開かれ、力を開いてしまう苦さを受け取りながら、それでも語らなければならない何かをもってしまうこと。言説分析とはそういう経験なのだ。
そこに言説分析固有の「遂行性 performativity」がある。言説分析は言葉を「遂行的」なものとしてあつかうだけでなく、それを通じて自らを「遂行的」でしかありえなくする。
(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 21ページ)



日本の「言説分析」への構築主義の影響を指摘する前出の遠藤氏も、言説分析を行なう者が、特権的に「客観的」な分析を行えるわけではないことを述べます。


社会の安易な実体視をあれほど強く批判する構築主義だが、やっていることは要するに、「社会は客観的に取り出すことはできない、だが社会に対する言説は客観的に取り出すことができる」という、「客観性」の一段ずらしであるということだ。「厳格派」にせよ「コンテクスト派」にせよ、ずらされた「客観性」の調達先がちがうだけで、この点については本質的な差異はない。
(「言説分析とその困難」 37ページ)


遠藤氏は構築主義の影響が強い現状の「言説分析」においては、フーコーのインパクトを思い出すことが重要であると主張します。


現在の社会学における言説概念の導入は、ミシェル・フーコーの歴史記述(考古学/系譜学)および知と権力の共犯をめぐるディスクール分析の手法がもたらした複数的な衝撃に負うところがきわめて大きい。フーコー理論やその言説概念が大衆的に平板化することで、現在の諸理論における「言説」の繁茂がもたらされたのである。
(「言説分析とその困難」 40ページ)


フーコーのインパクトも、上述の「遂行性」と読み替えられるものだったのかもしれません。


高度な反省的思考を駆動させながらも、あえて理論の平面上で展開せずに記述のなかに込めることで、記述自身を出来事化するといえばよいだろうか。ある意味で、フーコーの思考がもたらした最大の衝撃は、こうした記述の出来事性を出現させたことにある--それ自体を理論化しても意味ないが、それでも記述の臨界点に「ある」というほかのない何かとして。
(「言説分析とその困難」 44ページ)


遠藤氏は、言説分析の核心を、これまでの学的思考が素朴に前提していた「自らが全体を把握できる」という信憑を、多重的に解体することにあると述べます。


言説分析の生命は、通常の社会学的思考が素朴に前提している全域性への超越的視線を、多重的なかたちで解体することにこそある。全体性/全域性をどこかで信憑してしまったとたんに、それは本質的な意味を失う(いうまでもないが、「個別的」な言説の閉域に閉じこもればよいということではない(→3節を参照))。こうした多重的解体は、分析対象の事実的複数性によって駆動しながら、同時にそれを呑み込むよにして、記述自身の生々しい出来事化に果てしなく近づいていこうとする。
(「言説分析とその困難」 48ページ)


自らが扱う資料に何らかの「全体性」を読み込まないこと、かといって、資料を丹念に読む努力は怠らないこと、このあたりの緊張的なバランスが重要と言えましょうか。


われわれにできるのは、たまたま残された資料群の秩序を想定し、そこへの漸近を考えてしまうと、「資料体の(不可視の)秩序」自体が全体性の代補として機能してしまう。描き出そうとする形象の定義あるいは外延を予め密輸入することなしに、カヴァーするべき資料の「全体」を語ることはできないはずだからだ。資料を読まねば言説分析にならないが、全体性を信じて資料経験を積み上げていくような想像力のありかたは、やはり言説分析の衝撃力を弱体化する。
(「言説分析とその困難」 50ページ)


こうしますと言説分析は、多面的に展開する運動であるとも言えそうです。


言説分析の運動は、必然的に、閉じることのない多角形、読解/記述が進むにつれて面の数が増えていく多面体として出現することになる。ジャンルの本源的複数性は、あるべき閉じた分類一覧表上で見いだされるものとしてではなく、むしろ積極的に発散していく何かとして把握されている。
(「言説分析とその困難」 52ページ)



さて、ここから蛇足を加えます。私のルーマン理解に関しては、今回は特に大黒岳彦(2006)『<メディア>の哲学』(NTT出版)に依拠していますが、いつものように私は自らの誤解を怖れます。


「私たちはコミュニケーションの外部に出ることはできない。コミュニケーションに外部はない」というのはルーマンの論とも通底するかと思います。ルーマンの論では、社会を作り上げているのはコミュニケーションですが、そのコミュニケーションは近現代では様々な機能ごとに特殊化し、それぞれが他の特殊化したコミュニケーションを排除しつつ閉域を形成しています。これにより生じているのが機能的分化です。これはセグメント的な分化や中心/周縁的分化のような「水平的」分化でも、成層的分化のような「垂直的」分化でもない、いわば「次元的」分化とでも呼ぶべき新たな社会的分化です。

言説分析という言説も、そのように特殊化したコミュニケーションと考えることができます。言説分析というコミュニケーションは、もちろん他のコミュニケーションと独立しているわけではありません(それは他のコミュニケーションについてのコミュニケーションです)。しかし、言説分析とて、コミュニケーションの総体の中心に立っているわけではありません。だからといって周縁に立っているわけでもありません(「周縁」の設定は「中心」を含意します)。かといって、言説分析というコミュニケーションは、他のコミュニケーションの上層に立つこともなく、他の言説というコミュニケーションを「多文脈性」(Polykontextualität)の中で観察しているわけです。

「観察」(Beobachtung)というのもルーマンの用語です。ある特殊なコミュニケーション(言説)を産出(というより自己再生産)する「システム」は、ある「区別」(Unterscheidung, distinction)をもって対象を記述します。その「区別」によってある特定の事柄を「指定」(Bezeichnen, indication)するのが第一次観察です。

しかしその第一次観察を行なうもの(=一般的な言い方からすれば「者」、ルーマン的な言い方でいえば「システム」)にとっては、自分が使っている区別自体を観察することは困難です。通常、自分が依拠している区別自体は、自覚しがたい前提であり「盲点」となりがちです。

盲点になっている区別を吟味するためには、別の区別による第二次観察が必要となります。言説分析も、この第二次観察の一種と考えることができます。

しかしこの第二次観察とて、最終の絶対的な観察ではありません。この第二次観察も、第三次観察の対象となります。社会はこのようなコミュニケーションの連続の総体です。しかし誰もその総体を鳥瞰する特権的な高み(あるいは外部)に立つことはできません。

観察は対象に応じて、次の三つに分類されます。(1)機能:機能分化システムが社会全体を観察対象とするとき、(2)効能:機能分化システムが他の機能分化システムを観察対象とするとき、(3)反省:機能分化システムが自分自身を観察対象とするとき、です。(1)は例えば学問が、そのディシプリンに従って言説を産み出すことです。言説分析は、その言説を、その言説を産み出すシステムとは異なる機能分化システムとして、観察をすること(つまり(2)の効能としての観察)と言えましょうか。しかしその言説分析という言説とて、最終的な「真実」の陳述(constative)ではなく、それ自体が行為遂行(performative)に過ぎません。言説分析とて、他のシステムによる観察や、自分自身による自分自身の観察((3)の「反省」としての観察)を招くべきでしょう。

と、おそらくは的外れの駄文を加えましたが、この本で「言説分析」とは何かを考えることができました。英語教育研究でももしこれから言説分析が導入されてゆくのなら、こういった原理的考察はきちんとやっておく必要があるかもしれません。私も勉強を続けたいと思います。


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2008年11月13日木曜日

言語使用の倫理?

二項対立の間でデイヴィドソンを考える」という小文で、デイヴィドソンの復習をし、内田樹氏の身体論について授業をしたら、デイヴィドソンに対する私の考えが少しだけ変わりました。

私はデイヴィドソンをしばらく学んだ後に、関連性理論を学んだこともあって、言語コミュニケーションを理解するためには、関連性理論(Relevance theory)の方が洗練された議論を展開していると思っていました(それと同時に、デイヴィドソン哲学と関連性理論の相似性をなぜみんな語らないのだろうと不思議に思っていました)。

確かに、relevance概念により、言語処理のeffortとeffectのバランスを考える関連性理論の方が、truth概念とprinciple of charityでコミュニケーションを考えるデイヴィドソンの根源的解釈(radical interpretation)よりも、言語表現を具体的に考えるには適しているかと思います。それは端的に関連性理論が例示する文の多さ・豊かさによっても示されていると言えましょう。

しかしそれは、相手にとってのrelevanceを考えながら言語を表現できる同等の能力をもつ人間同士でのコミュニケーションについていえることだけなのかもしれないと今日思い始めました。


内田樹先生は、子どもに接する大人について次のように言います。


コミュニケーションの現場では、理解できたりできなかったり、いろんな音が聞こえてくるはずなんです。それを「ノイズ」として切り捨てるか、「声」として拾い上げるかは聞き手が決めることです。そのとき、できるだけ可聴音域を広げて、拾える言葉の数を増やしていく人がコミュニケーション能力を育てていける人だと思うんです。

もちろん、拾う言葉の数が増えると、メッセージの意味は複雑になるから、それを理解するためのフレームワークは絶えずヴァージョン・アップしていかないと追いつかない。それはすごく手間のかかる仕事ですよね。そのとき、「もう少しで『声』として聞こえるようになるかもしれないノイズ」をあえて引き受けるか、面倒だからそんなものは切り捨てるかで、その人のそれから後のコミュニケーション能力が決定的に違ってしまうような気がする。
内田樹・名越康文 (2005) 『14歳の子を持つ親たちへ』新潮新書、48ページ


ここでいう「コミュニケーション能力」とは、一定の記号体系を正確に受発信すること、さらにはその記号使用の枠組みを堅持する能力ではなく、子どもの、声にならぬ声、ことばにならぬことば、コミュニケーションとして死産に終わりそうなコミュニケーションを絶望寸前のところで目指す試みを、どう聴くか・読み取るかに関する能力です。


パロールについて偉大な思想家が教えることはほとんど寸分も変わらない。それは、聴き取る用意のある者、外部から到来することばを解そうと欲望する者の耳にだけ、ことばは届く、ということである。読む用意のある者は「白紙」からでも聖賢のメッセージを読み取ることができ、聴く用意のある者は「豚の鳴き声」からでも人間のことばを聴き取ることができる。内田(2004:119)
内田樹(2004)『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』海鳥社、119ページ


理想化された、あるいは標準化された「言語」から少し自由になってコミュニケーションを考え直せば、内田先生がここで述べているような「コミュニケーション能力」の方が、言語学・応用言語学での標準的な「コミュニケーション能力」より基盤的であるように思われます。


そこでデイヴィドソンの根源的解釈が再登場します。


Radical interpretation is a matter of interpreting the linguistic behaviour of a speaker ‘from scratch’ and so without reliance on any prior knowledge either of the speaker's beliefs or the meanings of the speaker's utterances.
(...)
The basic problem that radical interpretation must address is that one cannot assign meanings to a speaker's utterances without knowing what the speaker believes, while one cannot identify beliefs without knowing what the speaker's utterances mean. It seems that we must provide both a theory of belief and a theory of meaning at one and the same time. Davidson claims that the way to achieve this is through the application of the so-called ‘principle of charity’
(...)
In fact the principle can be seen as combining two notions: a holistic assumption of rationality in belief (‘coherence’) and an assumption of causal relatedness between beliefs -- especially perceptual beliefs -- and the objects of belief (‘correspondence’) (see ‘Three Varieties of Knowledge [1991]). The process of interpretation turns out to depend on both aspects of the principle. Attributions of belief and assignments of meaning must be consistent with one another and with the speaker's overall behaviour; they must also be consistent with the evidence afforded by our knowledge of the speaker's environment, since it is the worldly causes of beliefs that must, in the ‘most basic cases’, be taken to be the objects of belief (see ‘A Coherence Theory of Truth and Knowledge’ [1983]).
Stanford Encyclopedia of Philosophy


言語コミュニケーション力をまだ発達させていない子どもは、大人の想定するrelevanceでもって自らの発話を組み立てることはできません。そうならば、そのような子どもの発話に、relevanceのバランスが取れていることを期待してはいけません。

もちろん理論的には、relevance概念を「子どもなりのrelevance概念」に読み替えればよく、「子どもは子どもなりにrelevantな発話を試みている」と言えばいいのでしょう(実際、関連性理論はそのように説明していたと記憶します)。

しかしそれなら、いっそのこと、relevance概念よりも洗練されておらず、より始原的で、粗雑ともいえるぐらいのtruth概念をコミュニケーションを前提にした方がいいのではないでしょうか。

・・・この子どもはわけのわからない行動を示している。大人である私の感覚からすれば、とてもrelevantとは思えない行動だ。
しかしこの子は、この子なりのtruth概念に基づいてこの行動をしているはずだ。子ども相手とはいえ、truth概念に関しては、明らかな錯誤や例外的な悪意がある場合を除くなら、私も同じ基盤に立てるはずだ。Truth概念を基にしてこの子が表現しようとしていることを理解することができるはずだ。
少なくとも理解不可能と諦めるのはまだ早い。私のこれまでの知識を必要に応じてどんどん捨てて、この子の行動、環境・状況、そしておそらくこの子がもっている基本的な信念をできるだけ整合的に解釈しよう。その解釈が自分の中に芽生え始めるまで待とう。
その解釈は、必要な情報がないままに連立方程式を解くようなものかもしれない。しかし耳を傾けよう。よく見よう・・・


こういった態度こそは子どもとのコミュニケーションにおいて私たち大人が身につけておかなければならないのかもしれません。

さらに拡張して考えるなら、これは大人と子ども、あるいは教師と生徒の間の関係だけにとどまらず、母語話者と外国語話者、学校教育で標準語の書き言葉を習得した者とその習得の機会を得ることができなかった者の間でも言えるのかもしれません。「言語強者」は「言語弱者」に対して、言語表現のrelevanceではなく、一般的なtruth概念を基にコミュニケーションを図るべきと言えるのかもしれません。これは「言語強者」の倫理でしょうか。

日本での英語教師は、高等教育を受けた者として日本語においても言語強者の立場にあり、英語という言語を操るという点でも言語強者の側にいます。実態はともかく、社会心理的には二重の意味で言語強者であると言えましょう。そうならば、言語弱者の「言語」ではなく、彼/彼女らの「真実」を見つめるというのは、英語教師を一例とするような「言語強者」が自らを律する原理として掲げなければならないのかもしれません。

しかしもしその原理が「倫理」なのなら、そして「倫理」とは万人が掲げるべき原理なのなら、「言語弱者」もこの原理を自らに対して掲げるべきだということになるかもしれません。

・・・言語コミュニケーションでは、そこに使われる言語表現ではなく、その言語表現が基づいているはずの「真実」に目を向けよ。コミュニケーションを促進するのは言語の共有というよりは、真実の共有である。
言語表現の根底にあるはずの真実が姿を現すまで判断を控えよ。言語表現に熱狂するな。しかし拒絶もするな。
真実を言語よりも大切にせよ。解釈においてはradicalであることを怖れるな。だが真実を伝えうる言語の力を信じよ。そしてその言語の力を自ら獲得せよ・・・


言語強者も言語弱者も、言語において対等な者も、言語のためではなく、truth概念のために可能な限り収束すること、そのためには時に使用されている言語に即しながら、そして時には使用されている言語に抗しながら、truth概念に即して言語を使い・再生し・創造することーーこれが言語使用の倫理と言えるかもしれません。


いつものように生煮えの思考をとりあえずブログに書きつけました。おそまつ。


デイヴィドソンの関連論文
1973, ‘Radical Interpretation’, Dialectica, 27, reprinted in Davidson, 2001b.
1983, ‘A Coherence Theory of Truth and Knowledge’, in D. Henrich (ed.), Kant oder Hegel?, Stuttgart: Klett-Cotta, reprinted in LePore, 1986, and Davidson, 2001c.
1991, ‘Three Varieties of Knowledge’, in A. Phillips Griffiths (ed.), A.J.Ayer Memorial Essays: Royal Institute of Philosophy Supplement 30, Cambridge: Cambridge University Press, reprinted in Davidson, 2001c.
2001b, Inquiries into Truth and Interpretation, Oxford: Clarendon Press, 2nd edn.
2001c, Subjective, Intersubjective, Objective, Oxford: Clarendon Press.






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二項対立の間でデイヴィドソンを考える

デイヴィドソン(Donald Davidson)のコミュニケーション論を二項対立的に単純にまとめてしまうなら、下のまとめの左項を強調する伝統的・標準的なコミュニケーション理解に対して、右項のコミュニケーション理解を提示したということになるでしょう。




COMMUNICATION AS:
Convention -- Creation

LANGUAGE AS:
Synchronic -- Synchronic/Diachronic

BASIS OF COMMUNICATION AS:
Language -- Truth (Relevance)

COMMUNICATION MADE POSSIBLE
Prior Theories -- Passing Theories

UNDERSTANDING AS:
Shared -- Converged



たしかにデイヴィドソンには、右項を主張するあまり、左項をあまりにも否定してしまっているような表現が散見されます。しかし私はデイヴィドソンを、右項の主張者とみるよりも、左項と右項の二項対立の間でコミュニケーションを考えようとした哲学者として解釈する方が生産的だと思います。

コミュニケーションは慣習(convention)の再生産でもあり、新たな行為の創造(creation)でもあります。

言語は、近代言語学では共時的(synchronic)に理念化されていますし、また私たちもそのような言語の表象に辞書や文法書を通じて親しんでいます。しかしながら言語は時間の流れの中で使用されるものであり、時間的(diachronic)な変化も勘案しなければなりません。それは数十年という単位だけでなく、数十秒といった単位でもです。

コミュニケーションの基盤は、多くの場合、言語(language)が共有されていることです。言語の共有によって、どれだけコミュニケーションは容易になり正確になっているでしょう。しかし言語をまったく共有しない人間の間にもコミュニケーションは成立します。私たちは真理(truth)概念を共有し、発話は(例外的状況を除くなら)その真理概念に基づいてなされていると想定することができるからです(しかし共有されるのは「真理」とするよりも、関連性理論がいうように「関連性」(relevance)として考えた方が理論的にはいいでしょう)。

コミュニケーションは、聞き手と話し手が、それぞれ世界と言語について、そのコミュニケーション以前にもっていた整合的な知識(prior theories)によって可能になっているといえます。しかししばしば、それだけでは十分でなく、聞き手と話し手は、それぞれにそのコミュニケーションの流れに即して、臨時の整合的な知識体系(passing theories)を作り上げてゆきます。

コミュニケーションの理解は、話し手と聞き手との間で共有される(shared)ことを目的にして私たちはしばしばコミュニケーションを行ないます。しかし一方で、理解は二者の間で収斂する・近似する(converged)に過ぎないとするという現実的な認識も持つべきでしょう。

二項対立図式は、相互排他的に"A or B"で考えたり、"A or B" ⇒"C"と弁証法的(?)に考えるよりは、"A and B"で考える--さらには二項対立を脱構築する(?)--方が、より現実を理解できるのではとも思ったりしています。






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2008年11月7日金曜日

江利川春雄『日本人は英語をどう学んできたか』研究社

今、最も注目すべき英語教育研究者の一人である江利川春雄先生が新刊を出されました。私はまだ入手したばかりですが、「はしがき」と「あとがき」を読むだけで、この本が読書の喜びと深みを教えてくれる本であることを教えてくれているようです。

「はしがき」の冒頭で江利川先生はこう述べます。

日本の英語教育をどうすべきか。進むべき方向を見定めるためには、日本人が英語をどう学んできたかの歴史を謙虚にふり返り、その足跡を確かめるしかない。そうしないならば、現にしばしば目にするように、「改革」は歴史と現実を無視した「思いつき」の域を出ないのではないだろうか。

まさしく同感です。「改革」とは無条件に正しいことで推進すべきことであり、いったん「決まったこと」、特に予算がついたことには、異を唱えてはいけないといった空気が現代日本に蔓延し、どんどん現場のやる気を奪い、人々の心身を疲れさせているような気が私にはしているからです。

そうして「改革」がうまくゆかないと、さらに誰か(無責任で無思考な人が)が、新しい改革を「思いつき」、予算がつけられ、人々がさらに思考放棄せざるを得ないような負担が現場に課せられる・・・こういった悪循環を断つには、私たち一人一人が立ち止まって考えることが必要です。立ち止まって考えるためには、本書のような良書が必要です。


本書は「英語教育の社会文化史」という副題がつけられています。これを江利川先生は次のように「はしがき」で説明します。

本書で意識的に追求したように、英語教育の歩みには各時代の社会文化状況が鏡のように反映されている。また逆に、日本人は英語の学びを通じて西洋文化を摂取し、近代日本の社会文化史を主体的に形成してきた。副題を「英語教育の社会文化史」としたのはその二重の意味からである。

私などは思わずこの一節だけで、本書を読みたくなります。この本をゆっくり楽しみながら読むことは、これからの私の喜びです。


とはいえ、本書は小難しい本ではありません。「あとがき」に江利川先生は次のように書いています。

本書は、これまで約20年にわたって研究・執筆してきた日本人と英語との関わりに関する論考を一本にまとめたものである。どこからでも気楽にお読みいただき、日本の英語教育史がどれほど面白いか、また今日的な教訓や示唆に富んでいるかを知っていただければ幸いである。

本書のもとになった論考の多くは英語教育関係の雑誌に寄稿したものである。英語教育史という日頃なじみのないテーマの文章を、疲れて職員室にもどった先生たちや、英語教育に関心を寄せる一般の人々にも面白く読んでもらいたい。そんな思いで読みやすく書くように努め、図版も多くした。

しかし、注目すべきは続く以下の一節です。

だだし、他人の研究の安易な受け売りはしていない。ほとんどが自分で発掘し、自分の目で確かめた史資料にもとづいて執筆したつもりである。

本文を読まずに、このように本の紹介をすることは無責任のように思われるかもしれませんが、これまでの江利川先生の研究活動・執筆活動を知る人間としては、江利川先生のことばを全面的に信頼します。みなさん、この本にご注目を!



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SSJデータアーカイブ

あるとても優秀な若い研究者に「SSJデータアーカイブ」のことを教えてもらいましたので、ここで紹介します。

Social Science Japan Data Archive
http://ssjda.iss.u-tokyo.ac.jp/


このデータベースの説明を、上記ホームページからコピーします。


データアーカイブは、統計調査、社会調査の個票データ(個々の調査票の記入内容。マイクロデータ)を収集・保管し、その散逸を防ぐとともに、学術目的での二次的な利用のために提供する機関です。

データアーカイブは、欧米諸国のほとんどで設立されており、社会科学の実証研究、教育に活用されています。しかし、我が国にはこれまで組織的なデータアーカイブがなかったため、多くの調査が実施されているにもかかわらず、それらの個票データは、当初の集計が終わるとともに徐々に消えていくのが現状でした。

東京大学社会科学研究所附属日本社会研究情報センターは、我が国における社会科学の実証研究を支援することを目的として、SSJデータアーカイブ(Social Science Japan Data Archive)を構築、個票データの提供を1998年4月から行っております。



このデータベースにより、データの二次分析が可能になり、多くの新しい研究が可能になります。


統計調査、社会調査からは、通常、多くの質問項目に対する回答が得られます。これらをすべて組み合わせた集計は極めて膨大になるため、一般には、調査実施者の問題意識の下で、特定の組合せによる集計が行われます。ところが、異なった問題意識からは、当然、それとは異なる集計のニーズがあります。従来ですと、既存の個票データを二次的に利用することは考えられないことでしたので、その分析をあきらめるか又は新しい調査を自分で行うしかありませんでした。データアーカイブに個票データが寄託され、二次分析ができるようになると、従来できなかった新しい研究が可能となります。



データベースの利用対象者は、「大学又は公的研究機関の研究者、教員の指導を受けた大学院生」となっています。ご興味のある方は、上記サイトまで。






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2008年11月4日火曜日

"Evidence-based"の限界?

内田樹先生のエッセイにまた共感しましたのでここでもご紹介します。

「人を見る目」
http://blog.tatsuru.com/2008/11/03_1337.php



内田先生は、「人を見る目」というちょっと前までは、日本で当たり前に語られていたことが、急速に語られなくなり、それどころか社会的に抑圧されていることを懸念します。その傾向の根源には、「『誰にでもわかるもの』を基準にして、すべての価値を考量すること」という前提があります。内田先生は、その前提の限界について考察します。

その過程で"evidence-based"についてこう語ります。


Evidence based という考え方それ自体はむろん悪いことではない。
けれども、evidence で基礎づけられないものは「存在しない」と信じ込むのは典型的な無知のかたちである。


古来、私たちは「人を見る目」を尊重してきましたが、そういった総合的で「曖昧な」判断はevidence-basedという文化にはそぐいません。少なくとも、その判断の根拠を、目の前に誰にでもわかる証拠の形で列挙することはできないからです。


「人を見る目」というのは、突き詰めて言えば、目の前にいる人の現実の言動を素材にして、その人の「未来」のある瞬間における言動をありありと想起することである。

別にむずかしいことではない。

それは「こういう状況でこういうことを言っていた人間」が「それとは違う状況」に置かれた場合にどのようにふるまうかについての先行事例の膨大な蓄積がこちらにあれば、数年後のその人の表情や口ぶりくらいは簡単に想像できる。

私たちは根拠にもとづいて「推理」しているのである。

しかるに、この推理の根拠は数値的にはお示しすることができない。

推理の根拠が存在しないからではない。推理の根拠が限られた時間内に列挙するには「あまりに多すぎる」からである。



古来日本では、禅仏教などの伝統に基づき、以下のような態度を重んじてきたかと思います。


臨機応変

当意即妙

円転滑脱

縦横無尽

融通無碍

自由自在


禅仏教では「不立文字」とまでも言います。しかしこういった態度は現代日本では、社会的には認知されないものに急速になっていませんでしょうか。ですがこういった高度な判断、文字面にとらわれない解釈こそは人間が例えば「知恵」といった言葉で尊重してきたものかとも思います。現代日本の知性は、古来からの知恵を殺そうとしていると言えば、また私のいつもの悪い癖の悲憤慷慨口調かもしれませんが、現代日本では「小学校の学級委員的正義観念」が必要以上に幅をきかせているのではないかという懸念をぬぐい去ることができません。

ハーバマスは、かつて『イデオロギーとしての技術と科学』で「目的合理性」が人間の営みを乗っ取ろうとしていることに警鐘を鳴らしました。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060222

ブログ「英語教育にもの申す」が「マスコミの無責任」で語っている問題も、「『誰にでもわかるもの』を基準にして、すべての価値を考量すること」、"evidence-based"、「目的合理性」の考えが強くなりすぎているのではないかという観点で考えることもできるかと思います。


追記(2008/11/05)

阿川弘之氏の『大人の見識』には、戦前の日本人の、原理原則を大切にしながらも枝葉末節の形式には必ずしも束縛されない見識を示すエピソードが多く紹介されてよい読み物になっているかと思います。思い出しましたので、追記しておきます。








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「地道にマジメに英語教育」の「英語教師の発達段階」

本日ブックマークの整理をしていて、実にひさしぶりに「地道にマジメに英語教育」を読みましたら、「英語教育論」の「英語教師の発達段階」という文章を大変面白く読みましたのでここでもご紹介させていただきます。

http://hb8.seikyou.ne.jp/home/amtrs/developmental_stages.html


著者の言葉を借りますと、


結論としては

・英語教師が授業を作る力には、発達段階を想定することができるのではないか

・発達段階を想定することで、教員養成や現職教員研修の中で、英語教師のよくやるつまづきに、よりよく対処する道筋が見えるのではないか

という2点を提案する、ということになります。


ということで、この論考を、七つの具体的な授業類型を通じて行ないます。

最終的には、


いくら優れた英語教師が高次元の授業をしているからといって、それをもって他の英語教師を啓蒙していこうというのは、安易にやってしまうと、結局、「あの人だからできるんだ、あの学校だからできるんだ」という自我防衛反応を引き出して終わる可能性が高いと思います。

生徒の英語力が一定の段階を踏みながら伸びていくのと全く同様に、英語教師の授業力も一定の段階を踏みながら伸びていくものではないでしょうか。そう考えると、充分なケアをしないままトップクラスの英語教師の授業をモデルとして研修することや、howだけが焦点化されがちな形でワークショップや実践発表をすることは、避けたほうが良いと思うのです。


という示唆も提示しています。

すでに有名になっている文章かもしれませんが、私は本日までうっかり知りませんでしたし、ご存じない方のために紹介する次第です。







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2008年11月3日月曜日

「Education 2.0」について

2008年10月31日にNHK教育テレビで「Education2.0」という特集がありました。このタイトルはいささか安直なような気がしましたが、この言葉はWiredの記事から来ています。


Wiredの記事が紹介しているサイトは、「WikipediaやGoogleに取って代わるものではない」とWiredも言っていますが、これらのサイトおよびNHKの番組で紹介されたサイトは、インターネットに接続されたパソコンをみんなが使うようになったらどんな大変化が起きるのかの予兆を示しているようでした。そのうちのいくつかをここでも紹介します。これらは日本の英語教師が教材を探すのにも便利かもしれません。

Cosmeo
http://www.cosmeo.com/welcome/

Education.com
http://www.education.com/

Smithsonian Education
http://www.smithsonianeducation.org/students/

Smithsonian Research
http://www.si.edu/research/


記事でも番組でも紹介されているのはCURRIKIです。

CURRIKI
http://www.curriki.org/

CURRIKIは、教師が教材・教案を共有するシステムです。最近は校内LANで教材・教案を共有する学校も出てきましたが、CURRIKIはこれを世界規模でやろうというものです。教師同士が教材・教案を通じてコミュニケーションを取り合う姿も番組では紹介されました。

記事では取り上げられていないものの番組では紹介されていたのが、

SparkNotes
http://www.sparknotes.com/

CliffsNotes
http://www.cliffsnotes.com/WileyCDA/

です。

SparkNotesはハーバード大の学生によって始められたサイトを出版業のBarnes & Nobleが買収したものだそうですが、文学作品、歴史、映画、哲学などの分析やコメントが無料で入手できます。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sparknotes


CliffsNotesは文学、外国語、数学、科学などでの学習ガイドが無料で得られます。このサイトは教師、プロのライターやエディターによって書かれているとサイトは説明しています。
http://en.wikipedia.org/wiki/CliffsNotes


イギリスには

York Notes
http://www.pearsoned.co.uk/bookshop/subject.asp?item=108

があるようです。


これらは、ウィキペディア以上の知の世俗化を示しているのかもしれません。知は断片化され、質もどんどん落ちてゆくと嘆くことは正当なことでしょう。しかし一方でこれらは知の一層の社会化を示しているとも考えられます。これらの知の共有財産をベースに、使用者がより高い知、より複合的な知の生産を目指したら、人類の(あるいは英語とパソコンが使える者の!)知は、これまでとは異なる展開を示すのかもしれません。

グーテンベルクの活版印刷機は宗教改革をもたらし、ひいては「近代」を作る大きな要因の一つになりました。現在は、活版印刷機をパソコンを使える者全員が手に入れたと言えるのでしょうか。いや現在のパソコンは音声も画像も動画も使えるのですから、全員が出版社と放送局になれる可能性を手にしたと言うべきでしょうか。これらが相互作用を起こし、その相互作用が知の高度化に向かうとしたら・・・

ウェブに対する批判精神を忘れてはいけませんが、人間は発明したものを忘れることはできません。「未来に迷ったら、ウェブが示す方向に賭けろ」とはシリコンバレーの合い言葉だとも言います。私もその言葉に賭けたいと思います。


その他の関連サイト

Project Gutenberg

青空文庫

Wikisource (ウィキソース)








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コンピュータ上で「思考」をするために

ここでは前の勉強(「コンピュータと人間知性の共進化について」)に引き続いて、コンピュータ上で思考をすること--コンピュータを使って、今までにはなかったような思考スタイルを進化させること--を学びます。


■デスクトップに「レポート」というファイルを保存するA君

具体例から考えてみましょう。A君はパソコンを入学時に買ってもらったものの、実は日頃あまり使っていません。ある授業でレポート提出を電子媒体で提出することが求められたので、レポートを作成しました。ファイルに「レポート」という名前をつけてデスクトップ上に保存しました。こういったA君のやり方は、まだまだパソコンの使い方としては未熟と言わざるを得ません。しかしどういった点で未熟なのでしょう。以下、何点かにわたって考えてみます。


■ファイルとフォルダの管理の重要性

A君のデスクトップに「レポート」というファイルを保存するという行動からいくつかのことがわかります。例えば(1)A君は他にレポートを作成したことがないし、これから作成することも考えていない。(2)A君は、たくさんの数のファイルを管理するという発想がない、といったことです。

このようにファイルにどのような名前を付けるのか、ファイルをどう保管するのか、などについて私たちはきちんと考えておくことができます。そうしないとせっかくパソコンを持っていても、ファイル管理などでもたつき、コンピュータは面倒くさいし使いにくいとなりがちです。逆にファイル管理がきちんとできていると大量のファイルを楽々と管理できますから、パソコンによってこれまででは経験できなかったほどの知的生産ができるようになります。

さあ、それではどうファイルを管理しましょうか。ファイル管理にはフォルダで行ないます。ファイルとは、ワードやエクセルなどの個々の文書を指します。フォルダとはそれら個々の文書を収納する入れ物です(ウィンドウズでは茶色のポートフォリオの形をしたアイコンで示されています)。以下、ファイルとフォルダの管理について考えましょう。



■ものごとの並べ方四種類

ウェブの仕事力が上がる標準ガイドブック2 Webデザイン』という本は、Wurman氏によるLATCH法という分類方法を紹介しています。それは

(1) Location (地理的、物理的な位置で整理する)

(2) Alphabet (アルファベットや五十音で整理する)

(3) Time (時間軸で整理する)

(4) Category (分野で整理する)

(5) Hierarchy (重要度、頻度、大きさなどで整理する)

です。

(注)ただ、上の(5)は記憶法としてH(ierarchy)とされていますが、実際はMagnitudeなどと呼ばれるべきでしょう。(5)には必ずしも階層関係の分岐性が含意されていないからです。

以下のサイトではLATCH法が手際よく説明されています。
http://slideology.com/2008/08/organizing-information-is-finite/
http://www.infovis-wiki.net/index.php?title=Five_Hat_Racks



■ファイルのネーミング

ファイルのネーミングに関して、私は(3)Timeを使った整理をしています。ファイルの名前は基本的に「年月日+具体的名前」にしています。例えば2008/11/03に作ったこの記事の原稿は「081103コンピュータ上で「思考」をするために」と命名しています (ファイルの名前は英数字だけにして空白箇所を設けないようにしておきますと数々の問題から解放されますが、最近のコンピュータはファイル管理が楽にできるようになりましたので、私はこのような命名をしています)。

この時系列的な方法は、野口悠紀雄先生の「超整理法」の考えに基づいています。この方法のメリットは、いちいちカテゴリー化で悩まずに、だいたいいつ頃ファイルを作ったかで整理できるということです。人間は、だいたい何月頃、あるいは何年頃にファイルを作ったかというのは案外に覚えているものです。また、この方法ですと、ファイルを少しずつ改訂していったバージョンを日付で管理できます。仕事をやっていると最新版のファイルだけでなく、過去のバージョンのファイルが必要になることもよくあることです。この方法はそのニーズにも対応できます。ファイルはフォルダ内で随時「表示→アイコンの整理→名前」で並び替えます。


逆にいいますと、非常に重要なファイルに関しては、年月日を入れない名前にしておきますと、そのファイルは目立ちます。最新版だけが必要な大切なファイルにはこの方法は有効です。



■フォルダのネーミング

しかしもちろんファイルのネーミングだけでは管理は不十分です。ファイルは適切な数のフォルダに入れて整理しなければなりません。フォルダはウィンドウズの場合、通常「マイドキュメント」の中に作ります。私はその中に「Yanase's documents」という親フォルダ(第一階層フォルダ)を作っています。親フォルダを作っていると、バックアップを一括して行えますので便利です(バックアップは非常に重要です!!)

親フォルダの下には4-5個ぐらいの子フォルダ(第二階層ファイル)を作っておくといいでしょう。それ以上多いと分類が面倒になり、どの子フォルダにファイルを入れればいいのかが判断しにくくなります。フォルダのネーミングには私は(4)Categoryを基本にしています。ここでは私の場合は「研究」「教育」「行政」「生活」というのを基本的な子フォルダにしています。皆さんは自分の子フォルダをどのように設計しますか?これから5-10年ぐらいの皆さんの活動を考えて、設計してください(5-10年と言いますのは、フォルダはこれから数々のパソコンを乗り換えながらも継承されるものだからです)。

子フォルダの下にはいくつかの孫フォルダ(第三階層フォルダ)を作ります。この階層ではフォルダの数は少し多くなってもいいかもしれません。分類しやすいフォルダのネーミングをしてください。

しかしフォルダの数が多くなると、すぐに思い通りのファイルにたどり着けなくなることがあります。その際は(4)Categroyに(5)Hierarchyを併用します。例えば私は「研究」の第二階層の下の第三階層には、10以上のフォルダを入れていますが、それには「01論文」「02講演」「03商業原稿」「04科研」・・・などとネーミングされています。これをやっておきますと、「表示→アイコンの整理→名前」で並び替えると重要度順にフォルダが並ぶので便利です。



■色による整理

色で整理することについてもここで述べておきます。私は2008年の現在Windows XPを使っていますが、これにシェアソフトをインストールして、Macのようにフォルダに色を付けられるようにしています。こうしますとさらに直観的に作業が進められます。だいたい私は赤色、オレンジ色、黄色を重要な事柄に、青色を他人の都合で決められる事柄に、緑色を個人的な事柄に使い分けるようにしています。フォルダやスケジュール管理 (Googleカレンダー、ファイルファックス手帳) 、タスク管理 (エクセル) もこの原則で一貫しています。色はすばやく知覚できますので、非常に便利です。

また手書きのペンも色分けをすると便利です。私は四色ボールペンと黄色のマーカーを原則にしています。黒は基本の色、赤は重要事項、青は批判したい事項(自分ではコントロールできない事項)、緑は個人的に気になったり大切に思ったりしている事項で書き分けます。それぞれ、特に重要な事柄には黄色のマーカーを重ね塗りします。この使い分けによって、ノートテーキングが自覚的になりますし、ノートの記述を活かして知的生産がしやすくなりますので、皆さんにもお勧めします。



■フォルダの階層構造をデスクトップ検索でリゾーム化する

しかしどんなにうまくフォルダの階層構造を作っても、特定のファイルをどのカテゴリーに入れるべきか・入れたかで迷ってしまうことはしばしば起ります。こういった時に素早く目的のファイルを探り当てるためには、デスクトップでの検索を行ないます。Windows Vistaでしたら「デスクトップの検索」の機能があるはずです。Windows XPやそれ以前のOSでしたら「Googleデスクトップ」をインストールしておけば、デスクトップ検索ができます。

日付(Time)+階層構造(Tree/Category)+デスクトップ検索(rhizome)でファイルとフォルダを管理しているというのが私のやり方です。参考にして合理的なシステムを作って下さい。



■ファイルの種類

ファイルには、プログラム(ソフトウェア)ごとに「拡張子」が付けられます。これは普段の作業では意識していないかもしれませんが、他人とファイルを交換する時にはとても重要になってきます。

ワードとエクセルの場合:例えばワードでファイルを作った場合、あなたの環境がWindows VistaあるいはOffice 2007の場合、docxという拡張子がつきます。ですがこの拡張子がついたファイルはWindows XPやOffice 2003という環境では読めません。同じようにエクセルでも現時点(2008年)の最新環境ではxlsxという拡張子がつきますが、そのファイルは古い環境では読めません。ですから現時点では他人と共有するファイルは、それぞれdoc、xlsで保存することがマナーとされています(保存するときに「保存の種類」で決定する。ワード全体の「Wordのオプション→保存」で一括して設定しておくと便利)。

追記 (2014/11/11)
さすがに最近はdocxなどのファイルを読めるコンピュータも増えてきましたので、上記の配慮はそれほどに必要なくなってきました。 ですが、私はアプリに関しては、できるだけ最新版を使うのは控え、少々古いコンピュータを使っている人にも利用できるように古いバージョンでファイルを保存することを原則としています。

ちなみに新しいdocx、xlsxはXML (EXtensible Markup Language)という国際標準の規格に基づいたものです。ですから将来はこちらの方が主流になるかと思われます。コンピュータの場合、とにかく国際的に標準化された規格が好まれる傾向にあります。これはインターネットにつながれたコンピュータという環境が、人間の思考や行動を変え、協調行動を促進しているので、できるだけ標準化され、公開された規格が必要とされているという背景があると思います。私がいうコンピュータと人間の共進化というのはこういった事態を指しています。



PDF:PDF (Portable Document Format)とはアドビシステムという会社が開発した規格ですが、2008年には国際標準化機構で標準化されました。ファイルをこのPDF形式(拡張子はPDF)で保存しておくと、どんなコンピュータ環境でも、ファイルの作成者が意図したとおりの形で読むことができます。

例えばワードですが、同じようなコンピュータ環境を持つ人にファイルを送っても、図や表が崩れてしまうことがしばしば生じます。これはワードの余白などの設定が異なることにより生じることですが、かなり不便なものです。こんな時にワードファイルをPDF化して送ると、相手も自分が意図したとおりの形のファイルを読むことができます。

PDFを読むことは、アドビシステムからAdobe Readerを無料でダウンロードすれば誰でもできますが、ファイルをPDFにするためにはPDFなどのソフトを有料で買う必要があります(Office 2007ではPDF化が容易にできます)。PDFは各種ファイルを変換するのにも便利です。私がよく行なうのはワードで作った図をPDF化して、それを各種の画像ファイルに変換することです。



(X)HTML:皆さんはこの記事をウェブで見ているはずです。皆さんのコンピュータやブラウザはそれぞれに異なるはずですが、この記事もきちんと読めるはずです。これはウェブではHTML (Hyper Text Markup Language)という規格で文書が書かれているからです。これも国際的な標準規格ですが、技術的にはいろいろな不備がありますので、現在は上で説明したXML規格に基づいたXHTML (EXtensible Hyper Text Markup Language)が推奨されています。現在のブログはたいていXHTMLで作られていますので、この普及が進んでいます。これらの事情については岡嶋裕史『構造化するウェブ』(講談社ブルーバックス)を読んでください。良書です。「セマンティック・ウェブ」(Semantic Web)の考えなどがわかりやすく解説されています。



テキストファイル:実はワードファイルやエクセルファイルを(X)HTML化すること、あるいはその逆は案外面倒だったりします。ワードでもそうなのかと思うかもしれませんが、ワードにはフォント(後述)などの各種書式の情報が入っているからです。コピーをしたら、文字の種類や大きさがずいぶん異なっていて戸惑った経験はみなさんにはありませんでしょうか。

その点、テキストファイル(text file)は、文字入力しかできませんが、それだけに互換性が非常に高いので、原稿はまずテキストファイルで作っておいて、それをワードやエクセル、あるいはホームページやブログに移植する方法が役立ちます(この記事もそうやって作っています)。また例えば、ワードとエクセルなどの異なるソフト間で、文字情報をコピー・アンド・ペーストする際に、各種書式情報がわずらわしかったら、いったん、テキストファイル(を扱うエディタ 後述)に文字情報をコピーしておくと便利です。
コンピュータを使うメリットは、大量の文書を様々な形で作成することですから、テキストファイルの利用は、パソコンをどんどん使うようになったらお勧めの方法です。テキストファイルの拡張子はtxtです。
 



■エディタ

テキストファイルは「メモ帳」(Windowsのプログラム→アクセサリ→メモ帳)でも、ワードでも(保存の種類を「書式なし」にする)でもできますが、これらの方法は非常に不便です。テキストファイルを高速に作るにはエディタ(text editor)と呼ばれるソフトを使います。ソフトの中には無料でダウンロードできるものもありますので、いろいろ探して見てください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A8%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BF

ちなみに私は有料ですが、WZ EDITORを使っています。これは個人的にはかなりお勧めです。文書をたくさんつくるようになったらぜひいいエディタを使ってください。仕事がかなり楽になります。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/wz-editor.html

追記:その後、私はNo Editorもよく使うようになりました。私は短い文章やブログ記事などのHTMLを使う文章はNo Editorで、しっかりとしたアウトラインを必要とする長い文章はWZ EDITORで書くというように使い分けをしています。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/04/no-editor.html

なお、WZ EDITORやNo Editorといった優れたエディタでは、画面背景の色やフォントの種類や大きさ、各種表示の色分けが自由に設定できます。これらを自分好みに調整することで、目に優しくかつ作業しやすい画面を作り出すことができますので、非常に便利です。(逆に言いますとMS Wordは長い年月にわたり世界中のユーザーから高い金を取っていながら、使い勝手がよくないので私は不満です。私はMicrosoft社に別に恨みをもっているわけではありませんが、Wordは世界標準になるべき優れた製品とはとても思えません)

参考:Microsoft’s Creative Destruction
http://yosukeyanase.blogspot.com/2010/02/too-much-success-in-past.html

エディタは、いったんフォントを決定したら、フォントの種類を途中で変えることはできません。エディタはひたすらに文章を書くためのソフトです。Wordなどのワープロは、フォントを途中で色々変えられるので便利なように一見思えますが、実際は文章を書いている途中で勝手にフォントが変更されたりしてイライラします。文書をひたすら書くときには、フォントなどについては考えずにとりあえずエディタで文書を書き上げる方が効率的です。

エディタで書き上げた文書はWordなどに流し込みます。フォントはテキストを流し込んだ後に設定します。ちなみにフォントは、印刷文書では本文は明朝/Times New Roman、見出しはゴシック/Arialを使うこと、ウェブ文書ではゴシック/Arialを使うことが多いです。フォントに関してはデザイン上、あるいは読みやすさのことをよく考えて設定してください。印刷文書では本文は明朝/Times New Romanを使うことが無難です。(英語文書にTimes New RomanでなくCenturyを使うのは日本だけの習慣のようです)。

エディタは、絵文字や機種依存文字を使うこともできません。機種依存文字とは、特定のハードやソフトでしか読めない文字です。
http://apex.wind.co.jp/tetsuro/izonmoji/

仕事でコンピュータを使う時は、これらの機種依存文字を使わないことがマナーです。特に丸付き文字をよく使う人がいますが、やめた方がいいと思います(ちなみに私は英語文書に丸付き文字を使われると違和感を覚えます)。

また英数字は半角で作成することが標準的です。日本の官庁などではまだ英数字を全角で作成するところもありますが、個人的には英数字は半角で作るということを徹底しておいた方がいいかと思います。

ただコンピュータは基本的にはアメリカで開発されたシステムなので、英語アルファベット以外の文字の扱いには不親切だったりします。いわゆる「文字化け」が生じるのも、日本で使われているパソコン環境の多くが、SHIFT_JISといった日本固有の文字コードを使っていることに起因しています。こういった問題を解消し、多言語の文字を一元的に扱うために作られた文字コードがUNICODEです。現在はUTF-8が使われることが多くなったので、このブログでもUTF-8を使っています。ウェブで文字化けが起った場合は、ブラウザの「表示→エンコード」を調節してください。

ちなみにWordでは、ソフトが妙に賢くフォントや半角/全角を自動的に決定したりしますので、これが大きなストレスになったりします。私の愛用するエディタはこういったことをきちんと設定したら、このあたりでストレスを感じることはありません。

またWordはしばしばフリーズし、非常にイライラさせられますが、エディタはまずフリーズしません(私は今までエディタでフリーズを経験したことが一回もありません)。多くの文章を書かなければならない人は、Wordを止めてエディタを使うことをお勧めする次第です。

またWordは日本語入力システムにIMEを使っていますが、私はこのIMEは駄目なシステムだと思います。文章を高速で作成していると、このシステムの変換の馬鹿さ加減にかなりストレスを感じています。ですから私は日本語入力システムだけは、ジャストシステムのATOKを使っています。ATOKは日本語変換がIMEに比べて賢いですし、「きょう」と入力して変換すると「2008/11/03」、「いま」と入力して変換すると「17:36」などと現在の日付・時刻などが自動入力できるので、大変便利です。

ちなみに使うと便利なのが、自分専用の日本語変換です。例えば私の場合、「y」、「h」、「b」、「じゅうしょ」、「めあど」などと入力し、スペースバーを押して変換しますと、それぞれ、「柳瀬陽介」、「広島大学大学院教育学研究科英語文化教育学講座」、 「http://yanaseyosuke.blogspot.com/」・「http://yosukeyanase.blogspot.com/」、 「739-8524東広島市鏡山1-1-1広島大学教育学研究科」、「yosuke@hiroshima-u.ac.jp」と変換されます。こういった変 換はぜひ自分が使いやすいように設定してください。

追記:その後、グーグルが無料の日本語入力システムを提供しはじめました。
http://www.google.com/intl/ja/ime/

追追記:Microsoft社も、正規ユーザーへのサポートを始めました。
http://www.microsoft.com/japan/office/2010/ime/default.mspx

別に自慢でも何でもありませんが、私はしばしば「よくあれだけの大量のアウトプットができますね」と人に驚かれますが、文書の質はさておき、量に関しては、こういったエディタなどの知的環境を整えているといった要因があるからこそ大量に文書を作り出すことができています。




■アウトラインプロセッサ

前回の勉強で、ツリー、マトリックス、リゾーム、タグ、マインド・マップなどの情報の組織化・構造化の方法について学びましたが、これらは時間的制約がほとんどない、無時間的あるいは超時間的な組織化・構造化です。

しかし言語表現は、話し言葉であれ、書き言葉であれ、線状(linear)でなければならないという強い制約を持っています。これは簡単に言うと「一時期に一つの単語しか聞けないし、読めない」ということです。皆さんが、まとめた各種の情報も、一直線上に順序づけなければなりません。

この順序づけは実は非常に知的な作業です。わかりやすい説明をするためには、どの順番で何を並べればいいか。無駄な説明を避け、その順番に読む・聞くだけですらすらわかる配列を作ることは、実はそれほど簡単なことではありません。しかし多種多様な無時間的・超時間的情報を、一直線の線状に並べるというのが、言語コミュニケーションで非常に大切なことなのです。論文であれ、授業であれ、プレゼンテーションであれ、言語を主な媒体とするコミュニケーションでは、この線状という制約にどう対処するかが発表者の腕の見せ所です。

パラグラフライティングというのは、この線状的制約に、階層構造が加わった文章の構成法です。「一つのパラグラフには一つの考えだけを書く」というのはしばしば言われて  (そして実行されていない)  ことですが、パラグラフライティングはそれだけでなく、パラグラフの順序が、読者がそのままで読んでサクサクわかる順番になっていなければなりません。また、複数のパラグラフが節、複数の節が章、複数の章が文書全体を構成しており、この文書全体→章→節という関係は、複数に分岐する階層構造となっています。

パラグラフライティングの利点の一つは、この階層別の説明ができることです。時間がないときは、文書全体の説明をタイトルや要約で行ないます。もう少し時間があれば、章レベルだけの説明を行ないます。さらに時間があれば節レベルまで説明をします。きちんとしたパラグラフライティングは伸縮自在の説明を可能にします。

この線状的制約と階層構造制約を、わかりやすく表記しようとすれば、ウィトゲンシュタインが『論理的哲学的論考』で示したように、数字で表記できます。章は1桁の数字、節は2桁の数字、項は3桁の数字で表現します(一般に3桁以上の階層はわかりにくくなりますので作りません)。

1
1.1
1.1.1
1.1.2
1.2
1.2.1
1.2.2
1.2.3
1.3

2
2.1
(以下略)

といったように表現します。

ただ、アイデア形成や下書きの段階で、上のような表記をするのは、階層構造だけでなく線状的性質も表現するので困難です。通常、一つ一つの考えの階層構造(重要度)の区分けを考えるのは容易ですが、それらの構造をどのような順番で並べたらよいかについては何度も考え直さなければならないからです。例えば最初は1.2としていたものを、1.3にもってゆこうとしたら、いちいち数字表記を訂正せねばならず、とても面倒です。

これを解決するために、私は単純な記号に特定の重要度を与える原則を一貫しています。

私の場合、最重要レベルは■、二次的重要度は▲、三次的重要度は●にしています。(角の多いものから少ないものへという順番です)。

この表記ですと、上の数字表記は



となります。

考えを書く度に、その重要度を三段階で判断して、■、▲、●の記号をつけるだけですから、この方法は容易であり、簡単なメモを作成するとき、私はこの方法をしばしば使っています。


こういった線状的性格と階層構造という制約をもった(また持たなければならない)パラグラフライティングを、本格的に行なわなければならない時に便利なのが、アウトラインプロセッサと呼ばれるソフトウェアです。


アウトラインプロセッサは、ワードの「表示→アウトライン」でもできますが、ここでもフォントの自動設定などが私にとっては非常にわずらわしいので、私はこういった観点からもWZ EDITORを愛用しています。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/03/wz-editor.html

ただし短いアウトラインだけでしたらワードでも十分ですから、アイデアを整理するには私も昔はワードのアウトライン機能を使っていました。ある資料を何度も読みながら、マインド・マップなどを作って、かつフローチャート的に時系列分析で一桁レベルまでのアウトラインを作った(この例。パスワードが必要です)後にワードのアウトライン機能を使ったのがこの例です(パスワードが必要です。ダウンロードしたら「表示→アウトライン」を選んでください。)。

たかだかこのような分析でも、自由に書き足しができるアウトライン機能がなければ行なうことは不可能でした。皆さんもコンピュータを使うことによって初めて可能になる思考と知的生産をぜひ体験してください。

アウトラインプロセッサの勧め、およびパラグラフライティングを行なうためのワークフローに関しては下のサイトをぜひご覧下さい。よくまとめてあります。
http://pctraining.s21.xrea.com/knowledge_tools/outline-proccessor.html

コンピュータ上で快適に「思考」をして、コンピュータ無しではできなかった知的活動を行なうためには、上記の点などを自覚し、自分にとっての最適な環境を作り上げてください。あなたのPCは「パーソナル」ですか?

コンピュータに関する基本的な事柄は
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/computer.html
にまとめていますのでご参照下さい。






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2008年11月1日土曜日

浅野博先生のエッセイ:「中学指導要領解説(外国語)」のこと

浅野博先生のエッセイ:「中学指導要領解説(外国語)」のこと、を読みました。共感しましたので、ここでも紹介します。

http://blog.livedoor.jp/cpiblog01676/archives/51117391.html



特に賛同するのは以下の箇所です。


私が問題にしたいのは、この「解説」は誰を対象に書かれているのかということである。「対象は英語教師に決まっているではないか」と言われそうだが、あまりにも内容が平凡で、少し経験の長い教師にはわかりきったことしか書いてない。しかも、英語教員になりたての人や、英語教員志望の大学生などが読んでもほとんどわからないであろう。指導要領で用いられている用語について、「言語活動とは何か」とか、「現代の標準的な発音とはどういうものか」といった疑問に対する回答は見つからないからである。しかも、文献からの引用もなく、そのリストを示すことさえしないから、無味乾燥な、言い換えにすぎない記述ばかりになるのである。


私が賛同するのは、学習指導要領に

(1)基本用語の明確な定義がなく、曖昧な意味のまま記述が続いている。

(2)参考文献の引用がなく、用語や考えがどのような学術的背景を持ったものなのかがわからない。

という点です。


この結果、学習指導要領が文部科学省とゆかりが深い「関係者」や「識者」だけが深く理解するものとなり、理解が一般の英語教育関係者や学界関係者にもなかなか広がりません(また側聞するところ、「関係者」や「識者」の発言にも個人的ばらつきがあるともいいます)。さらに、学習指導要領を独力で深く理解しようとする人も、学術的情報が指導要領に記載されていないので、自分で参考文献にあたって勉強することができません。こうなると学習指導要領という公的文書の理解が公的になりません。きちんとした理解が普及しないだけでなく、学術的な議論も事実上不可能ですから、学習指導要領の理解や解釈が恣意的になることすらありえます。これではいつまでたっても組織的な英語教育はできないのではないでしょうか。

言語教育の指針が、十分に言語化されていないとすれば、これは皮肉なことです。







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