このブログを読んでいただいている方々のご愛顧に感謝し、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。ここ最近年賀状を書いておりませんので(←横着かつ失礼。信頼なくすぞ 汗)、この記事と下のメッセージカードで年末年始の御挨拶とさせていただきます。2009年がよい年でありますように!
柳瀬陽介
このブログの主目的は、(1)英語教育について根本的に考え直すこと、(2)英語教育現場の豊かな知恵をできるだけ言語化すること、(3)英語教育に関する良質のコミュニケーションを促進すること、です。このブログでの見解などは柳瀬個人のものであり、柳瀬が所属する組織や団体などのものではありません。
このブログを読んでいただいている方々のご愛顧に感謝し、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。ここ最近年賀状を書いておりませんので(←横着かつ失礼。信頼なくすぞ 汗)、この記事と下のメッセージカードで年末年始の御挨拶とさせていただきます。2009年がよい年でありますように!
柳瀬陽介
自分はどうしょうもない奴やと思うたり、もうどないしてええかわからんわと泣いたり、お人好しで損ばかりしたり、おべっかが言えず出世でけへんかったり、「まあまあ怒らんとってや」と仲裁して逆に怒られたりしとっても・・・
まあ、ええんとちゃうか。考えようによっちゃ、そっちの方が幸せやで。
左の頬にエルボー・スマッシュをくろうたら、連続してミドル・キックも右腹に受けてやるのが、プロレスラーとしてのたしなみと違うか。
まあ、怒ったり、裁いたりばっかりしとってもあかんで。赦したりや。そうせんと、あんたも赦された気になれんとちゃうか。
やっぱ、最後は愛やで。ラブ・アンド・ピースいうやっちゃ。イエィ!
<対象学年>
○ 小学校第6学年、中学校第3学年の原則として全児童生徒を対象
<実施教科>
○ 教科に関する調査(国語、算数・数学)
・ 主として「知識」に関する調査
・ 主として「活用」に関する調査
○ 生活習慣や学習環境等に関する質問紙調査
・ 児童生徒に対する調査
・ 学校に対する調査
<調査の目的>
○ 国が全国的な義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から各地域における児童生徒の学力・学習状況をきめ細かく把握・分析することにより、教育及び教育施策の成果と課題を検証し、その改善を図る。
○ 各教育委員会、学校等が全国的な状況との関係において自らの教育及び教育施策の成果と課題を把握し、その改善を図るとともに、そのような取組を通じて、教育に関する継続的な検証改善サイクルを確立する。
○ 各学校が各児童生徒の学力や学習状況を把握し、児童生徒への教育指導や学習状況の改善等に役立てる。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/zenkoku/07032809.htm
(1) 各地域の学力・学習状況を把握する
(2) 各学校の学力・学習状況を把握する
全国的な学力調査につきましては、昨年11月に私が発表しました「甦れ、日本!」の中で、その実施について提案したところであります。本年6月21日に閣議決定されました「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005について」や、中央教育審議会義務教育特別部会の審議経過報告などにおいても、その実施の方向性が既に示されているところでございます。これらを受けまして、平成18年度概算要求に盛り込むべく準備を進めた結果、各学校段階の最終学年の小学校6年生と中学校3年生の国語、算数・数学について、全児童生徒が参加できる規模で平成19年度に調査を実施することとしたいと考えております。私といたしましては、全ての学校に対して、児童生徒の学習到達度・理解度を把握し検証する機会を提供することが重要であると考えておりまして、調査が円滑に実施されるように引き続き努力してまいりたいと考えております。
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/05090201.htm
小学校英語の開始,ゆとり教育からの完全脱却,中学校の単位増,高校での科目再編成など,英語教育に大きな変化が起きている今,そうした変化に振り回されず,変えるべきものは変えても,変えてはならないものは守る,それを見極めるにはどうすべきか。「変えてはならないもの」を理念的な考察と実践の両方向から導き出す。
(1)これまでの言語学・応用言語学での議論とその問題(2)言語コミュニケーション力の三次元的理解(3)言語のpowerに関するアレント的分析(4)Mind-Body ProblemとCommunication-Mind Problem:ルーマン的分析その1(5)現代社会と言語コミュニケーションの共進化:ルーマン的分析その2(6)ポストモダン・ポストコロニアル的言語コミュニケーション力論
・日時: 12月27日(土) 10時~16時30分(9時30分より受付)・場所: 広島県立生涯学習センター・会費: 5000円 (大学院生 3000円 大学生 1000円)・内容:10:00-11:00 講座1 「これがナッちゃんの授業だ!」竹石奈津子 (横浜市立蒔田中学校)11:15-12:30 講座2 「これがサチコの授業だ!」森川幸智子 (広島県立海田高等学校)12:30-14:00 ランチ (一緒に食べに行きましょう)14:00-15:00 講座3 「こだわりのビンゴゲーム~10周年記念原点回帰」西山正一 (米子市立福米中学校)15:15-16:30 講座4 「チャットで、楽しくコミュニケーション活動」樫葉みつ子 (徳島市立富田中学校)
科学主義は、権力をイデオロギー的に正当化する様式のなかでも、もっとも洗練されたものである。というのも、科学主義は、普遍主義をイデオロギー的に中立なもの--「文化」とは無関係なもの、さらにいえば政治の領域とも無関係なもの--として提示して、科学者が獲得する理論的知識の応用を通じて、人類にもたらしうる善を主たる源泉として、その正当性を引き出しているからである。(151ページ)
しかし、もっとも重要なことは、科学が、道徳的批判の説得力と客観性を低く評価することで、権力を道徳的批判から守る盾となったということである。人文学者は--批判的人文学者は特に--無視しうる存在となった。彼らの分析は科学的ではないからである。これは、近代世界システムの自己正当化過程の最後の仕上げであった。(154ページ)
European universalism is used to justify imperialism, Western expansionism. Obviously, variants exist in sophisticated arguments. The first, the most brutal (as in Iraq today), consists in saying that the others are barbarians, whom we must tame. A second variant, a little more subtle, studied by Edward Said under the name of "Orientalism," claims that the others are different beings, fixed in their differences, to whom we must bring true civilization -- an argument that one finds in Samuel Huntington in particular. Lastly, a third type of argument is that of scientific truth to which one appeals to impose the Western point of view. And, as it so happens, this alleged scientific truth is held by the most powerful countries in the world!
http://www.monthlyreview.org/mrzine/doubre260308.html
ギデンズは英語圏で、そして英語しか読めない社会科学者から、先駆的な理論として高く評価されてきたが、ルーマンの著作を真面目に読んだ人間なら誰でも気づくように、ルーマンの薄い模写(コピー)でしかない。だからこそ、広く読まれ広く受け入れられている。英語かドイツ語かのちがい以前に、その薄さ濃さが、現時点での二人の受容の広さ狭さを決めている。私たちはまだルーマンに追いついていないのだ。(25ページ)
例えば、ルーマンと同じ主題を後追いするA・ギデンズなどと読み比べると、それ[=議論の展開のさせ方、その深度の開き方が魅力的であること]はよりはっきりする。ギデンズは良識的であり(現代においてそれは決して無視できない次元(ディメンジョン)である)、現在の英語圏では例外的に深い社会学者でさえあるが、至高の密度の差はいかんともしがたい。(184-185ページ)
カントは、経験の対象の認識に限られる理性の認識能力を踏み越えて形而上学的対象(例えば「神[の存在]」「魂[の不滅]」「世界[の涯て]」)を認識使用とする試みを超越的(transzendent)として、厳しく批判しこれを斥ける一方で、経験を成り立たせている、その可能性の条件の究明、経験構造の分析(例えば経験の形式としての「時間」「空間」「カテゴリー」)に関しては経験対象の領野を踏み越えはするが超越論的(transzendental)と称し、これを認めたのだった。(243ページ)
ディスコースとディスコース・オーダー:実際のディスコースは、社会的に形成されるディスコース・オーダー、つまり社会制度と関連する様々な慣習の集合、によって決定される。
資本主義社会における階級とパワー:ディスコース・オーダーは社会制度および社会全体の中のパワー関係によって、イデオロギーを基に形成される。
構造と実践の弁証法:ディスコースは社会構造によって決定されると共に社会構造に対して影響力をもち、それゆえ、社会の継続と社会の変化に貢献する。(19ページ)
教育とは、子どもの自分を取り巻く環境に対する批判的意識と批判的な自己意識、そして自分の協同社会の形成と再形成に貢献する能力を発達させることである。
したがって、子供たちに、人間によって作り出され、人間によって変えられる社会環境のどの要素をも、まるでそれが自分たちが制御できない自然環境の一部であるかのように示すことは教育ではない。しかし、伝統的に学校で伝えられてきたのは、まさに、言語に対するそのような疎外的な見解なのである。(291ページ)
多くの批判研究が、現在、新自由主義批判を中心に収束しつつある。私の考えでは、ここが、批判的談話分析がまた、新自由主義的新世界秩序をめぐる現在の闘争にその努力を集中すべきところなのである。新しい資本主義の結果である人間の共同体と自然資源の大規模な破壊が、それが作り出す富みによって正当化されるか否か以上に大きな問題は存在しない。(318ページ)
批判的社会研究を、偏っていると批判する人たちがいる。もちろん、解放のための知識的関心に献身的に関わることは、実際に、一方の側に立つことを意味する。しかし、学術的研究の中立性に関する錯覚は、確かに、現在までに粉砕されるべきであった。過去20年間にわたり、大学は、経済を支配している人たちの要求を満たすための先例のないほどの社会生活の動員の一部として、ますます公然と新しいグローバル経済の片腕になるよう変貌してきた。大学や他のレベルでの教育とは、ますます還元主義的な考え方で、人々を仕事に備えさせるべきであると見なされている。資金を提供されている研究のほとんどが、企業や政府のための国家的優先事項として指定されている分野のものである。(318ページ)
あたかも私たちの個性の内容を書き込むだけであるかのように、私たちは「何者なのか」と問うべきではない、とレヴィナス的な--おそらく、さらに明白にアレント的な--手法で、アドリアナ・カヴァレロは論じている。(55ページ)
彼女[=アドリアナ・カヴァレロ]の見方では、私とは、自分自身に閉じこもった、独我的な、自分自身についてだけ問いかけるような、いわば内的主体ではない。私は重要な意味であなたに対して存在しており、あなたのおかげで存在している。もし私が呼びかけの条件を喪失すれば、もし私が呼びかけるべき「あなた」を持たないなら、私は「私自身」を失ってしまう。彼女の考えでは、人は他者に対してのみ自伝を語ることができ、「あなた」との関係でのみ「私」に言及することができる。「あなた」が存在しなければ、私自身の物語は不可能になってしまうのである。(57ページ)
結局のところ、呼びかけられることなしには誰も生き延びることはできないのであり、呼びかけられ、何らかの物語を与えられ、物語の言説的世界に参入させられることで言語のなかに創始されることなしには、誰も生き延びて自分の物語を語ることはないのである。言語が課され、何らかのかたちで情動を分節するような関係の網目を言語が生み出した後にのみ、ただ事後的にのみ、人は言語のなかに自分の道を見出すことができる。人は呼びかけられ、その結果として呼びかける何らかの方法を学ぶような幼児、子供として、コミュニケーション環境に参入する。この関係性の初期パターンは、いかに自分を説明しようとも、そこに不透明性として現れる。(115-116ページ)
この「私」は語られ、分節されているのであり、「私」が私の物語る語りを基礎づけているように思われるにもかかわらず、それは語りのなかで最も基礎を欠いた契機である。「私」が語ることのできない物語の一つは、語るだけでなく自分自身について説明するような「私」として、自分自身が出現する物語である。(122ページ)
始まりにおいて、私はあなたに対する関係であり、両義的に呼びかけられ、呼びかけており、「あなた」に託されているのであって、私は「あなた」なしでは存在しえず、生き残るために「あなた」に依存しているのだ、と。(146ページ)
おそらく最も重要なのは次の点だろう。私たちは、倫理とはまさしく非知の瞬間に自分自身を危険に曝すよう命じるものだ、ということを認められなければならない。非知の瞬間とはつまり、私たちを形成しているものが、私たちの目前にあるものとは異なるときであり、他者への関係において解体されようとする私たちの意志が、私たちが人間になるチャンスを与えてくれるときである。他者によって解体されることは根本的な必然性であり、確実に苦しみである。しかし、それはまたチャンス--呼びかけられ、求められ、私でないものに結ばれるチャンスでもあり、また動かされ、行為するよう促され、私自身をどこか別の場所へと送り届け、そうして一種の所有としての自己充足的な「私」を無効にするチャンスでもある。もし私たちがこうした場所から語り、説明しようとするなら、私たちは無責任ではないだろうし、あるいはもしそうであれば、私たちはきっと赦されるだろう。(248ページ)
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PageDown (ページ単位で下にスクロール) [そのままの名前]
F6 (ひらがな変換) [丸暗記]※さらにパソコンを快適に使いたい人は、「周辺部キーの打指固定とショートカットキー」 をお読みください。
F7 (全角カタカナ変換) [丸暗記]
F10 (半角英数変換) [丸暗記]
(1) 基礎から学ぶExcel2003入門(エクセルをほとんど使ったことがない人向け)
(2) Excel入門(エクセルをあまり使ったことがない人向け)
(3) Excelの印刷オプション(エクセルで作った文書を印刷したことがない人向け)
(4) Excelの優れた機能(エクセルをある程度使ったことのある人向け)
(5) グラフI:グラフの作成法(グラフ作りの基本)
(6) グラフII:適切なグラフを選択する(グラフの表現力を上げるための工夫)
入力
セル操作
■セルの中でも各種書式(フォントの種類や色、斜線や下線など)が使えることを覚えておくこと。■セルの中で文章を改行入力するためには、Alt+Enterを使う。■文字入力に伴う「セルの書式設定」についてきちんと理解しておく。特に「配置」と「表示形式」は重要。「配置」に関しては、「横位置・縦位置」の」「両端揃え」、「表示形式」に関しては「数値」の「小数点以下の桁数」や「負の数の表示形式」が重要。■シートを方眼紙にする。左上の三角形をクリックしてシート全体を選択し、列の幅を適当に揃えて方眼紙を作る。複雑な表はこの方眼紙の任意のセルを結合して作る。■「ヘッダー/フッター」に自動的に年月日や時刻を自動入力しておいて、印刷した時にどれがどのバージョンか混乱しないようにする。
カリキュラム(パスワード必要)
ライフハック
もし私たちが自分そのものであると言うところの同一性が、私たちを把握できないかもしれず、同一性のカテゴリーの外部にこぼれ落ちてしまうような剰余と不透明性を徴しづけているとすれば、「自分自身を説明する」ためのいかなる努力も、真理に近づこうとして失敗してしまうはずである。私たちが他者を知ろうと務める際に、あるいは他者に自分が最終的、決定的には誰であるかを述べるよう求める際に重要なのは、絶えず満足を与え続けるような答えを期待しないことだ。満足を追求せず、問いを開かれたままに、さらには持続したものにしておくことで、私たちは他者を自由に生かすのである。というのも、生とはまさしく、私たちがそれに与えようとするいかなる説明も超えたものだと考えられるからだ。もし他者を自由に生かすことが承認に関するあらゆる倫理的定義の一部をなすなら、こうした承認の説明は、知に基づくのではなく、認識論的諸限界の把握に基づくことになるだろう。
ある意味で倫理的姿勢とは、カヴァレロが示唆するように、「あなたは誰か」と問いかけ、いかなる完全で最終的な答えも期待することなくそう問いかけ続けることにある。私がこう問いかける他者は、その問いを満足させるような答えによっては把握できないだろう。したがって、もし問いのなかに承認への欲望が存在するなら、この欲望はそれ自体を欲望として生かし続け、決してそれ自体を解消しないという義務を負っているだろう。「ああ、ようやく私はあなたが誰だかわかった」と言った瞬間、私はあなたに呼びかけることをやめ、あるいはあなたに呼びかけられることをやめてしまう。(81-82ページ)
以上、ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸,・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判』月曜社より
非難は極めてしばしば、非難される者に「見切りをつける」行為であるだけでなく、「倫理」の名のもとに、非難される者に暴力を加える行為でもある。(87-88ページ)
たとえば「クイア(変態)」という語の価値が変わったことは、発話がべつの形で発話者に「返され」当初の目的とは正反対の意味となって引用され、逆の効果を演じる可能性をもつことを示している。もっと一般的に言えば、そのような語彙のなかに潜む可変力こそ、個々の一連の発話行為ではなっく、起源も目的も固定されず、固定されえない連綿とつづく意味づけなおしの儀式である言説がおこなう行為遂行性を特徴づけている。この意味で「行為」は瞬時の出来事ではなく、時間の地平をもつ繋がりであり、発話の瞬間を超えた反復の凝縮である。発話行為によってもとの文脈を意味づけなおすことが可能となるには、発言時の文脈や意図と、それが生みだす効果とのあいだに、隔たりがなければならない。たとえば脅しが当初意図したのと違う未来をもつには--つまり、脅しがべつの方法で語り手自身に返され、その過程で脅しが無害になるには--発話行為の意味や効果が、当初意図されていた意味や効果を超えたものになる必要があり、現在の文脈が発話時の文脈と同一のものでなくなることが(たとえ起源はあるにしても)必要なのである。(23-24ページ)
発話行為の力を、その中傷の力に対抗するように再稼働させる政治的可能性があるとすれば、それは、発話の力をそれ以前の文脈から別の方向へと流用することである。その場合、発話がおこなう中傷に対抗しようとする言語は、中傷を再演せずに、中傷を反復しなければならない。(63ページ)
ハーバマスの主張では、コンセンサスを得るには、語は単声的意味に対応しなければならない。いわく、「理解のプロセスにおける生産性が問題ないものでありつづけるには、それに参与するすべての者が、同一の発言に同一の意味を付与する相互理解の参照点を、しっかりまもっていなければならない」[補注:これはハーバマス(1997)『近代の哲学的ディスクルス』岩波書店に見られる発言だそうです)]。だがわたしたちは--「わたしたち」が誰であろうとも--そのように一度で意味を確定することができる集団なのか。政治の理論化において逆転のない状況を作っている意味論的領域に、はたして永続的な多様性というものはないのか。解釈をめぐる争いを超越して、同一の発言に同一の意味を「付与する」位置にいるのは誰なのか。またなぜそのような権威がもたらす脅威の方が、拘束を受けない多義的解釈がもたらす脅威ほど、深刻でないと考えられるのか。(136ページ)
ある種の発話形態を排除することによって、語りえるものを生産するこの境界は、まさに普遍を仮定するときに起こる検閲を稼働させる。普遍を現存のもの、所与のものとみなせば、そのような普遍が仮定されるさいの、排除という行為を慣例化することになりはしないか。このようなとき、またこのようにすでに確立された普遍の慣習に頼る戦略によって、わたしたちはすでに確立された慣習の境界の内側で自足して、普遍化の過程を無意識に差し止め、それがおこなう排除を自然化してしまい、それをラディカルに変革する可能性をまえもって阻止することになりはしないか。(141ページ)
表現し尽くすことができると主張することこそ、わたしたちがすでにそうなっているものとは別物になる可能性を予め排除する(フォアクローズ)ことであり、つまりは、言語の内部で私たちが生きることができる未来、つまりシニファンが民主主義の再分節化に有用な論争の現場でありつづけるような未来を、予め排除することなのである。(195ページ)
ブルデューは社会制度を静的なものとみなしたので、社会変容の可能性を取りしきる反復の論理を把握できなかった。社会制度を間違って、曲げて引き合いに出すことも反復とみなせば、いかに社会制度の形態が変化や変更を経験しうるかを知ることができるし、また先行の正統性をもたない形で引き合いに出すことが、いかに既存の正統的形態に挑戦し、新たな形態の可能性へと切り拓く効果をもつかを知ることができる。ローザ・パークスがバスの前方の席に座ったとき、彼女は南部の人種分離の慣習によって保障されていた先行的権利をもっていなかった。だが事前には権威づけられていない権利を主張することによって、彼女は自分の行為にある種の権威を付与し、既存の正統的慣例を転覆させる反乱のプロセスを開始したのである。(228ページ)
埴谷雄高がカントに出会ったのは、転向においてである。転向とは共産主義という理念を放棄することだ。しかし、その意味では、埴谷は転向したと同時に、転向しなかった。つまり、彼は共産主義を構成的理念として放棄したが、統整的理念として保持したのである。カントがいう「目的の国」と同様に、それは将来の「無限遠点」にあり、実現されることはない。だが、この理念(超越論的仮象)は、たえず現在あるものを批判しそこに導く「統整的」な機能を果たす。埴谷がいう「永久革命者」――未来の無限遠点から現在を見る――の視点はそのようなものだ。この意味で、彼は一貫して共産主義者だった。そして、それ以外に、共産主義者でありうるかどうかは疑わしい。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/gunzo9704.html
言説(discourse, discours)とはフーコー独自の概念である。これにもとづく言説分析は、フーコーの一連の業績(『臨床医学の誕生』『言葉と物』『狂気の歴史』『知の考古学』『監獄の誕生』)を通じて練り上げられていった。
言説は、言語の形態の一種であり、中間的なまとまりをもった秩序である。言語のもっとも小さな単位は、言表(e'nonce')という。これは、社会学の最小の分析単位である行為にほぼ相当するもので、これ以上小さな単位に分解できない、ひとかたまりの発話や書字、行為(の記録)などをいう。これに対して、そうした言表が残らず集まった全体、ある時代・ある地域(社会)を満たしている言語的な活動の全体を、集蔵庫(archives)という。この両極の中間にある、何らかの秩序をもった言表の集合が、言説である。(「知識社会学と言説分析」 191-192ページ)
意外に聞こえるかもしれないが、本来、言説分析はテクストとかテクスト空間という概念とはあいいれない。いいかえれば、テクストとかテクスト空間という概念は、よほど慎重にやらないと、確定単位境界や特権的な観察者といった外部をすべりこませてしまう。(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 13ページ)
言説分析では一般に、積極的な根拠づけが成立しがたい。正しさの保障、すなわち認証は認証されるものの外部からなされる操作だからだ。それゆえ、言説分析では正しさを積極的に保証するという「真理」化が成り立たない。そして言説分析も言説である以上、それが何であるかも関係的にしか成り立たない。語った言葉がいかなる意味で発効するかを、語る者があらかじめ指定できないのだ。言説分析という語りをする者ももちろん例外ではない。(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 15-16ページ)
[他者の]力に開かれ、力を開いてしまう苦さを受け取りながら、それでも今語らなければならない何かをもってしまうこと。言説分析とはそういう経験なのだ。
そこに言説分析固有の「遂行性 performativity」がある。言説分析は言葉を「遂行的」なものとしてあつかうだけでなく、それを通じて自らを「遂行的」でしかありえなくする。(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 21ページ)
社会の安易な実体視をあれほど強く批判する構築主義だが、やっていることは要するに、「社会は客観的に取り出すことはできない、だが社会に対する言説は客観的に取り出すことができる」という、「客観性」の一段ずらしであるということだ。「厳格派」にせよ「コンテクスト派」にせよ、ずらされた「客観性」の調達先がちがうだけで、この点については本質的な差異はない。(「言説分析とその困難」 37ページ)
現在の社会学における言説概念の導入は、ミシェル・フーコーの歴史記述(考古学/系譜学)および知と権力の共犯をめぐるディスクール分析の手法がもたらした複数的な衝撃に負うところがきわめて大きい。フーコー理論やその言説概念が大衆的に平板化することで、現在の諸理論における「言説」の繁茂がもたらされたのである。(「言説分析とその困難」 40ページ)
高度な反省的思考を駆動させながらも、あえて理論の平面上で展開せずに記述のなかに込めることで、記述自身を出来事化するといえばよいだろうか。ある意味で、フーコーの思考がもたらした最大の衝撃は、こうした記述の出来事性を出現させたことにある--それ自体を理論化しても意味ないが、それでも記述の臨界点に「ある」というほかのない何かとして。(「言説分析とその困難」 44ページ)
言説分析の生命は、通常の社会学的思考が素朴に前提している全域性への超越的視線を、多重的なかたちで解体することにこそある。全体性/全域性をどこかで信憑してしまったとたんに、それは本質的な意味を失う(いうまでもないが、「個別的」な言説の閉域に閉じこもればよいということではない(→3節を参照))。こうした多重的解体は、分析対象の事実的複数性によって駆動しながら、同時にそれを呑み込むよにして、記述自身の生々しい出来事化に果てしなく近づいていこうとする。(「言説分析とその困難」 48ページ)
われわれにできるのは、たまたま残された資料群の秩序を想定し、そこへの漸近を考えてしまうと、「資料体の(不可視の)秩序」自体が全体性の代補として機能してしまう。描き出そうとする形象の定義あるいは外延を予め密輸入することなしに、カヴァーするべき資料の「全体」を語ることはできないはずだからだ。資料を読まねば言説分析にならないが、全体性を信じて資料経験を積み上げていくような想像力のありかたは、やはり言説分析の衝撃力を弱体化する。(「言説分析とその困難」 50ページ)
言説分析の運動は、必然的に、閉じることのない多角形、読解/記述が進むにつれて面の数が増えていく多面体として出現することになる。ジャンルの本源的複数性は、あるべき閉じた分類一覧表上で見いだされるものとしてではなく、むしろ積極的に発散していく何かとして把握されている。(「言説分析とその困難」 52ページ)