2008年12月28日日曜日

年末年始のご挨拶

このブログを読んでいただいている方々のご愛顧に感謝し、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。


ここ最近年賀状を書いておりませんので(←横着かつ失礼。信頼なくすぞ 汗)、この記事と下のメッセージカードで年末年始の御挨拶とさせていただきます。


2009年がよい年でありますように!




柳瀬陽介








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2008年12月20日土曜日

メリー・クリスマス

[以下の駄文は、私個人の信仰理解(と言うより曲解)です。敬虔なクリスチャンの方々は眉をひそめ、クリスチャンでない方々は引いてしまう内容であり表現かもしれませんが、ご興味のある方はどうぞお読み下さい。]



全ての創造主である旧約聖書の神は、かなり怒る神です。最初の人間であるアダムとイブも、最初神は二人を楽園に住ませていましたが、二人が神との約束を破り善悪の知識の木の実を食べると、「おめーら、俺のたった一つの戒めも守れんのかい、オラ! もうおめーら、ここから出てけ。あほんだら。楽園なんぞおめーらに住ませるかい!!」と二人を追放してしまいました。

その後もいろいろあるのですが、旧約聖書の神は、「あかん、こんな人間なんぞ生かしとっても何もならへん」と地上を洪水で滅ぼそうとしたり(←スケールでかい 笑)、都市ソドムの乱れに対しては「もう堪忍ならん」天から硫黄と火を注いで滅ぼす(←かなりエグイ 汗)とか、もう人間に対して相当怒っています(←上司だったら、忘年会で部下が寄って来ないタイプ 爆)。

そうはいってもその神は、洪水の時にはノアに希望を託したり、都市ソドムの破壊に際しては、厳しいのか優しいのかわからない人間の父親のようにロトとの交渉に応じたりしています。神は人間に対して失望し怒らざるを得なかったのですが、同時に人間を見捨ててしまうことはできなかったのでしょう。

そこで神は考えます。「まあ、ワシが創ってしもうたものとはいえ、この人間というものはどうもアカンわ。ワシもたいがい堪えて、たいがい怒ったが、それでもこいつら改めようとせん。ワシ、八方手を尽くしたで。もうどないしょ。」


というわけで、旧約聖書の神は、前々からちょっとずつ口にしていたように、自分の一人息子(神の子)を人間のもとに送り出すことにします。「我が子、イエスよ、ワシはもうこいつら人間をどないにして更生させたらええのか、わからんわ。お前、ワシの代わりに、あんじょうやってや。ま、お前なら何とかなるやろ」。旧約聖書の神様は、こうしてイエスによって人間を救おうという新しい約束(新約)を人間に対して実行したわけです。

そういうことでイエスは地上に人の子の形で姿を現しました。彼も父に似て激しい気性を見せる時もありましたが、しかしたいていは温厚で慈愛に満ちた人--というより驚くほど深い愛情をもった人でした。「人間は仕方ない奴や。だから父ちゃんの怒りもわかるけど、あんなに怒ってばっかりでもうまくいかん。まあ、ぼちぼちやろか」と思われていたのかもしれません。



自分はどうしょうもない奴やと思うたり、もうどないしてええかわからんわと泣いたり、お人好しで損ばかりしたり、おべっかが言えず出世でけへんかったり、「まあまあ怒らんとってや」と仲裁して逆に怒られたりしとっても・・・
まあ、ええんとちゃうか。考えようによっちゃ、そっちの方が幸せやで。

左の頬にエルボー・スマッシュをくろうたら、連続してミドル・キックも右腹に受けてやるのが、プロレスラーとしてのたしなみと違うか。


といったイエスの教えは当時においても現代においてもまあ、革命的といっていいぐらいに斬新な考え方でした。それは実現不可能と思えながらも、人間の思考と感情を大きく揺さぶりました。

しかし人間はその優しいイエスにも難癖をつけ、ついには彼を十字架にはりつけました。弟子達は「ああ、どないしょ。何とかならへんのか」とオロオロしておりましたが、イエスは「ええねん、ええねん、こいつら自分で何やっとるかわかっとらへんによって、赦したれ。ま、ワイは死んでも三日後に帰ってくるさかい、よろしくな」と言って絶命されました。

で、イエスは三日後に「よっ!」と帰ってきたのですが、弟子達ですら最初はそれを信じられませんでした。(弟子でない人たちにとって、この「復活」などは噴飯もののおとぎ話であることは言うまでもありません)。しかし弟子達は「ああ、やっぱ、イエスはええ人やった。ちゅうか、やっぱあの人は神の子やで」と思い、以来、弟子、弟子の弟子、弟子の弟子の弟子・・・が、世界各地で福音を伝えています。この福音のおかげで、各種小売業は、十二月にある程度の売り上げを期待することができるようになっています。



イエスが本当に神の子であったのか、それとも人の子に過ぎなかったのか--これは各人で大きく見解が異なるでしょう。でもまあ、今から約二千年前に人々に「イエス・キリスト」と呼ばれた人がいて、その人のメッセージは以来人類に大きな影響を与えたというのは事実として揺るがないでしょう。



まあ、怒ったり、裁いたりばっかりしとってもあかんで。赦したりや。そうせんと、あんたも赦された気になれんとちゃうか。

やっぱ、最後は愛やで。ラブ・アンド・ピースいうやっちゃ。イエィ!





クリスマスは、そのイエス・キリストが生まれたとされる日です。


苦しんでいる人も、ブイブイいわせている人も。謙虚すぎて弱気になってしまっている人も、威張りすぎて自分がイヤな奴になっていることに気づかない人も。お金や健康に見放された人も、お金や健康は自分が偉いから得られたと思い込んでいる人も--

どんな人にも、私たち人間には、キリスト教的解釈によれば、「こらボケ、ええ加減にしとかんと、どつくで!」という旧約の神の怒りと同時に、「ええねん。気がつけば。あんたらの罪はワイがぜーんぶ被って償うさかい。ワイの父ちゃんには、ワイからよう言うとくから、あんたらは心配せんでええで。あんたらは赦し合い、愛し合いや」という新約の神の赦しと愛が与えられているわけです。


クリスマスは新約の関連行事ですから、日頃怒ったり裁いたりばかりしている人は、どうぞそれだけで人間は救えないことを思い出して下さい。旧約的なやり方も、新約的なやり方もおそらく両方必要なのでしょう、私たち人間には。

そして他人を赦し愛することで、ご自身が赦され愛されて下さい。

偉そうな言い方してますが、私自身、赦され愛されるよう、悔い改めますよって(汗)。



メリー・クリスマス。

まいど、おおきに。









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2008年12月18日木曜日

全国学力・学習状況調査(通称「全国学力テスト」)について考える

[以下は、学部二年生向けの授業「英語教師のためのコンピュータ入門」の中の「エクセルで簡単な統計処理を行なう」の学習のために配る補助プリントの一部に使った資料です。]


※考えてみよう:全国学力・学習状況調査(通称「全国学力テスト」)について

文部科学省では、全国的に子ども達の学力状況を把握する「全国学力・学習状況調査」を平成19年度から実施することとしています。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/index.htm


その概要は次の通りです。

<対象学年>
○ 小学校第6学年、中学校第3学年の原則として全児童生徒を対象

<実施教科>
○ 教科に関する調査(国語、算数・数学)
・ 主として「知識」に関する調査
・ 主として「活用」に関する調査

○ 生活習慣や学習環境等に関する質問紙調査
・ 児童生徒に対する調査
・ 学校に対する調査


この調査の意義問題点は様々に論じられています。



国際基督教大学(教育社会学)の藤田英典先生は、岩波書店の雑誌『世界2009年1月号』の「有害無益な全国学力テスト--地域・学校の序列化と学力・学習の矮小化」という記事(232-240ページ)において、全国の学校・生徒を対象にした「悉皆」(しっかい)学力テストの実施により、大阪府・橋下知事、秋田県・寺田知事、鳥取県・平井知事などが市町村別あるいは学校別の成績開示を求め、その実施の有無により教育予算を差配する方針を打ち出したことを重く受けとめ、「教育予算を差配するといったことは、義務教育の機会平等を保障するという点でも、その質向上を公平に支援・促進するという点でも、あってはならないことである」(234ページ)と批判しています。(藤田先生はその他にもテスト学力という一元的な物差し(尺度)で子どもを評価する傾向が高まること、さらにそれにより学校・地域の序列化・格差化が進行することなどに対しても懸念を表明しています)。

しかし悉皆調査で事実上全ての学校の児童・生徒の成績情報が得られた以上、その情報を開示せよという要求はこれからも出てくることかと考えられます。


ここで悉皆テストという母集団調査(全体調査)は、適切な調査方法だったのかを、授業で学んだ母集団調査と標本調査の違いから検討したいと思います。


全国学力・学習状況調査の目的は次の通りです(注)。

<調査の目的>
○ 国が全国的な義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から各地域における児童生徒の学力・学習状況をきめ細かく把握・分析することにより、教育及び教育施策の成果と課題を検証し、その改善を図る。
○ 各教育委員会、学校等が全国的な状況との関係において自らの教育及び教育施策の成果と課題を把握し、その改善を図るとともに、そのような取組を通じて、教育に関する継続的な検証改善サイクルを確立する。
○ 各学校が各児童生徒の学力や学習状況を把握し、児童生徒への教育指導や学習状況の改善等に役立てる。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/zenkoku/07032809.htm


ここでは上記の表現を受け、同調査の目的を

(1) 各地域の学力・学習状況を把握する
(2) 各学校の学力・学習状況を把握する

とまとめます。

さて、ここで問題です。

Q1
悉皆調査という母集団調査・全数調査は、上記の目的(1)を達成するために必要なことですか? 

Q2
悉皆調査という母集団調査・全数調査は、目的(2)の達成のためには必要ですか? 必要だとしても、これが最も合理的な方法ですか?  (時間があれば目的(1)と(2)それぞれの意義と波及効果についても考えてみましょう)。


ちなみに全国学力・学習状況調査の費用は、上記の藤田先生の記事によりますと、初年度は実施業者への委託費60億円以上に諸経費を加えて100億円を越えており、二年度も60億円以上かかっているそうです。また労力面でも大学入試センター試験並みの厳格な一斉実施方法のために莫大な労力がかかっているそうです。これは母集団調査として同調査を行なったための金額と労力だと考えられます。



(注)全国学力・学習状況調査実施決定の際の文部科学大臣である中山成彬氏は記者会見で次のように述べています。

 全国的な学力調査につきましては、昨年11月に私が発表しました「甦れ、日本!」の中で、その実施について提案したところであります。本年6月21日に閣議決定されました「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005について」や、中央教育審議会義務教育特別部会の審議経過報告などにおいても、その実施の方向性が既に示されているところでございます。これらを受けまして、平成18年度概算要求に盛り込むべく準備を進めた結果、各学校段階の最終学年の小学校6年生と中学校3年生の国語、算数・数学について、全児童生徒が参加できる規模で平成19年度に調査を実施することとしたいと考えております。私といたしましては、全ての学校に対して、児童生徒の学習到達度・理解度を把握し検証する機会を提供することが重要であると考えておりまして、調査が円滑に実施されるように引き続き努力してまいりたいと考えております。
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/05090201.htm

しかし一方で、中山氏は同調査を「日教組の強いところは学力が低いのではないかと思ったから」実施したと述べてもいます(朝日新聞2008年9月26日)。

Q3
仮に上記の見解が中山氏の真意だったとして、全国学力・学習状況調査は中山氏の目的を達成するために適切な方法だったといえるでしょうか?


さらに考えますと、近年、文部科学省は「観点別評価」という形式で、いわゆる「絶対評価」を学校現場に普及させようとしています。

Q4
全国学力・学習状況調査は、観点別評価(絶対評価)と整合的ですか?








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ある礼状への返信

○○中等教育学校 ○○ ○○様

先日は私の拙い講演に対して丁寧な礼状をありがとうございました。読んでとても嬉しく、温かな感情に満たされました。お返事が遅くなり大変申し訳ありません。

礼状の中で○○君は「今こうして、先生へのお礼を述べているこの手紙は、僕からの一方的なものですが、先生が読んでくださることで、僕の思いが伝わり、一種のコミュニケーションとして成立するのかもしれません。こう考えるとコミュニケーションとは、様々な種類や手段があり、おもしろいなと思いました」と述べていました。私もその思いにとても共感します。

今、私はこの手紙を書いていますが、残念ながら私は○○君の顔を思い出すことができません(○○君は講演終了後、代表で挨拶をしてくれた生徒さんでしょうか?)。また、今この瞬間、○○君にしても、私が○○君に対して返事を書いているなどとは思いもよらずに時間を過ごしているでしょう。かくいう私にしても、○○君がこの手紙を読んでくれる瞬間には、おそらく他のことに熱中しているでしょう。

ある意味で○○君の心と私の心は直接につながることはありません。しかし時間差・空間差を超えて、○○君と私の間にはコミュニケーションが成立します。

しかしその成立したコミュニケーションとて、○○君は思いの全てを文章に込めることができたわけでなく、また私にしても、その文章に込められた○○君の限られた思いの全てを理解したわけではないかと思います。○○君は○○君なりの不完全な表現しかできず、私は私なりの不完全な理解しかできません。また逆も同じことで、私もこの手紙で私なりの不完全な表現しかできず、この手紙を読む○○君も○○君なりの不完全な理解しかできません。

こうしてみますと世の中には「完全なコミュニケーション」などないことがわかるかと思います(そもそも「完全なコミュニケーション」とは何でしょう?)。しかしそれでも人々はコミュニケーションを行ないます。コミュニケーションを求めます。コミュニケーションを続け、止めません。(コミュニケーションが終わってしまう時とは、個人や社会が死を迎える時だけなのかもしれません)。

さらに、実はこの手紙は、私が○○君の許可を得ないまま、勝手に、○○君の名前などは伏せたまま、私のブログ(「英語教育の哲学的探究2」)に掲載しています。そのブログで私の知人・友人だけでなく、私が知りもしない人たちが、○○君のこともほとんど知らないままに、私たちのこのコミュニケーションについて知るでしょう。彼/彼女らが私たちのコミュニケーションに接してどう感じ、どう考えるかは私は知るよしもありません。しかし彼/彼女らは彼/彼女なりに(「不完全に」!)理解し、コミュニケーションは続いてゆくでしょう。

こうして見ますと、各種メディアが発達し、直接対面しての方法以外でもコミュニケーションが可能になった現代はとても面白く複雑な時代であるように思えます。書き手の思いや予想を越えて、様々な時空でコミュニケーションが成立するからです。

かつて字を書くことを覚えた人々は手紙というメディアで、時空を越えたコミュニケーションを可能にしました。グーテンベルクの活字印刷の実用化以来、人々は出版というメディアで、手紙の相手のように直接には知らない相手(=著者・読者)ともコミュニケーションができるようになりました。そして現代、インターネットの普及により多くの人がブログなどのメディアで、自分たちの予想を超えた範囲のコミュニケーションを可能にしています。

このように様々な種類のコミュニケーションが、時空を越えて莫大な量で存在している現代はとても複雑な社会です。しかしその複雑さは私たちに予想もできない可能性をもたらしてくれています。もちろん可能性の中には悪い可能性もあるでしょう。しかし私たちは少なくとも良い可能性を願い、そのために行動し、反省し、再び行動することができます。一人一人がよいコミュニケーションをしようとすることにより、現代社会は、誰もが予想しなかったように良くなることができるはずです。

実は考えてみますと、歴史認識も、社会認識も、人間理解も、多くのことは言語によるコミュニケーションによってできあがっています。目の前のリンゴを手に取るように、私たちは「歴史」を手に取って観察することはできません。私たちは日々様々なものを見ますが、「社会」そのものを目にすることはありません。目の前にいる人間も、見るだけではわからず、私たちはコミュニケーションを重ねることでしかその人を理解することはできません(正確に言いますと、私たちは他人を完全に理解してしまうことはできず、少しでも理解しようと努力し続けることができるだけです)。こうしてみますと私たちは言語を使ったコミュニケーションで、歴史も、社会も、人間も理解しているわけです。コミュニケーションは私たちにとって本当に重要なものだと思わずにはいられません。

私はこの手紙で私の思いを「完全に」伝えることができたでしょうか。○○君は私のこの手紙を「完全に」解読できたでしょうか。答えは「否」です。しかしその「否」は悲観的なものではありません。それは人間が人間である限り、避けることができない不完全さからくる「否」です。さらに人間はその「否」を自覚できることにより、よりよいコミュニケーションを目指すことができます。自分の不完全さを知る人間の方が、自分が完全だと思い込んでいる人間よりは、よりよいコミュニケーションができるのではないでしょうか。少なくとも私は、自分の不完全さを自覚している人の方が、自分は完璧だと思い込んでいる自信満々の人より好きです。

とりとめがなくなりました。ここでとりあえず、私から○○君への返事を書くというコミュニケーションは終えることにします。しかしこれはコミュニケーションの完全な終結ではなく、このコミュニケーションは○○君や私やこの手紙を読む様々な人々の中で、少なくとも部分的に受け継がれてゆくことでしょう。コミュニケーションは続きます。

○○君が、これからもよいコミュニケーションが続けられますようにお祈りします。

お元気で。よい勉強をしてください。


2008/12/18
柳瀬陽介








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2008年12月16日火曜日

金谷憲(2008)『英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます』研究社

ちまたでかなり評判になっている本でしたが、一読してその理由がわかりました。いろいろな所で「いやまったくそうなんだよね。でもなぜ世間や業界ではこの常識が通用していないのだろう」と思えますし、しばしば「そういえば、そうだよなぁ」と小さく目からウロコが落ちたり、時に著者のユーモアにくすっと笑えたりと、いい読書の時間がもてました。

でもこの本は、著者の温厚な語り口の中に、実はかなり厳しいメッセージも込められているようにも思います。

例えば72-73ページの「まか不思議、学習指導要領の世界」のエピソード。私はプライベートな会話ではこれに類した話を何度も聞いたことがあったのですが、その情報入手の事情ゆえ、公言できませんでしたが、この本でこうして活字になった以上、私はこのエピソードは何度も引用させていただきます(笑)。

また169ページの結語も、常識で考えれば当たり前なのに、なぜか現代日本では語られていない言葉。こういった言葉は、みんなで口にしましょう。そうしないと、現代日本の制度も方々でガタガタになってしまうような気にすらなります。

ともあれ1400円で英語教育に関する常識と良識を取り戻せます。あるいは得られます。一読をお薦めします。


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大修館書店『英語教育2009年1月号』の特集記事

大修館書店『英語教育2009年1月号』の特集は、「'09英語教育--変わるもの・変えられないもの--」です。


主旨は

小学校英語の開始,ゆとり教育からの完全脱却,中学校の単位増,高校での科目再編成など,英語教育に大きな変化が起きている今,そうした変化に振り回されず,変えるべきものは変えても,変えてはならないものは守る,それを見極めるにはどうすべきか。「変えてはならないもの」を理念的な考察と実践の両方向から導き出す。

で、私はその一貫として、「英語教育界:枠組みの中の小変化か、枠組み自体の大変化なのか」という記事を書かせていただきました(25-27ページ)。


「国民教育」を主機能とする初等教育に英語が入った意味は大きく、これは私たちは次世代の子ども達にどのような「国民」となってほしいと願っているか、私たちはどのような社会を創り上げてゆきたいのかを、英語教育関係者は、従来よりもより広い観点から考えなければならないことを意味する--そもそも「日本国民」とは誰のことか--といったことを、短くですが歴史的・社会的に考察しました。「変えてはならないこと」としては、「人間とは何か」「『私たち』とは誰か」といった古来からの問いを、英語教師は授業を通じて答え続けようとすることだと結びました。


ご興味があればぜひお読みいただけたらと思います。


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2008年12月13日土曜日

2009/3/6(金) 東京で「言語コミュニケーション力論の展開」の公開講座を行います

大津由紀雄先生(慶應義塾大学)のブログでも告知していただきましたが、2009年3月6日(金)の10:00-18:00まで、慶應義塾大学言語文化研究所の言語学コロキアムの一環として私柳瀬がお話しさせていただくことになりました。

歴史と伝統ある同コロキアムの名誉を汚さないように、これからも準備を重ね、当日は私としてのベストを尽くしたいと思います。ご興味のある方は、皆様どうぞお誘い合わせの上お越しください。


演題: 言語コミュニケーション力論の展開(仮)


要旨:この講義では、(a)言語学・応用言語学で発展してきた言語コミュニケーション力論を概括し、その上で、(b)相互作用の過程の説明を拡充した言語コミュニケーション力の三次元的理解を説明し、さらに(c)相互作用よりも広い概念である社会的な意味での言語コミュニケーション力を考察する試みを紹介します。


計画:2時間講義を3コマですが、今のところの計画はその合計6時間を1時間ずつに分けて、以下のような順序で講義を進めてゆきたいと思います(多少の変更はあるかもしれません)。上記の(a)に相当するのが(1)、(b)が(2)と(3)、(c)が(4), (5), (6)です。
(1)これまでの言語学・応用言語学での議論とその問題

(2)言語コミュニケーション力の三次元的理解

(3)言語のpowerに関するアレント的分析

(4)Mind-Body ProblemとCommunication-Mind Problem:ルーマン的分析その1

(5)現代社会と言語コミュニケーションの共進化:ルーマン的分析その2

(6)ポストモダン・ポストコロニアル的言語コミュニケーション力論

方法:パワーポイントスライドとレジメによる講義スタイルです。パワーポイントスライドによって、学部三年生程度でもわかるように話の流れを説明し、しかし同時に研究者の方々には深く詳しい論点をレジメで提示できるように準備したいと思います。積極的に質疑応答と討議の時間を取ってそれこそみなさんとコミュニケーションを発展させてゆきたいと思います。


なお以上の講義は「言語コミュニケーション力論の構想」に基づいていますが、その後のわずかばかりの研究・教育活動を反映したものとなっています。


申し込み方法などの詳細については大津由紀雄先生のブログで告知されることと思いますので大津先生のブログに今後ともご注意ください。

本日は第一報まで。







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2009/12/27(土)広島市内で英語教育達人セミナー

ここしばらくなぜか達セミ関連の投稿を「広場」にしようとするとエラーではねつけられていますので、「広場」でのお知らせを行なっていませんでしたが、私の地元の広島市で以下のように達セミが行なわれますので、このブログでお知らせします。私も当日は参加するつもりです。広島近辺の方、どうぞお越しください!

・日時: 12月27日(土) 10時~16時30分(9時30分より受付)


・会費: 5000円 (大学院生 3000円 大学生 1000円)

・内容:
10:00-11:00 講座1 「これがナッちゃんの授業だ!」
 竹石奈津子 (横浜市立蒔田中学校)
11:15-12:30 講座2 「これがサチコの授業だ!」
  森川幸智子 (広島県立海田高等学校)
12:30-14:00 ランチ (一緒に食べに行きましょう)
14:00-15:00 講座3 「こだわりのビンゴゲーム~10周年記念原点回帰」
 西山正一 (米子市立福米中学校) 
15:15-16:30 講座4 「チャットで、楽しくコミュニケーション活動」
 樫葉みつ子 (徳島市立富田中学校)








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2008年12月10日水曜日

知的エンターテイメントとしての論文

論文とは、やたらと細かい作法に縛られて、本当は簡単なはずのことが小難しく書かれた面白くない書き物ではありません。

論文とは、あるトピックに特段の知識も興味ももっていない読者に、面白くそのトピックに関しての知的納得を与えるエンターテイメントです。高度で複雑な内容を、速読や拾い読みしかしない人でもわかるように、またあまり興味をもっていなかった人も思わず引き込まれるように、つまり<読者に親切に>なるように最大限に工夫されて書かれたものが論文です。

論文は単純で簡単なことをわかりやすくまとめただけではありません。論文の内容は高度で複雑なものです。ですが論文は<読者に親切に>書かれているので、上記のように知識や興味のない人も、その高度で複雑な内容の概略をきちんと理解することができます。ですから自ら知識や興味をもって読む人には、とても深い内容が短時間で伝わります。だから論文を書くという技術は現代社会で価値があるのです。

ですから論文を書くことは、学術的に大切なだけでなく、ビジネスをする上でも、学校で授業をする上でも重要です。ビジネスでのプレゼンテーションでは、短時間に必ずしもあなたの会社の商品や企画に興味をもっていない人に、あなたの会社の商品や企画の良さを訴えなければなりません。学校の授業では必ずしもその授業を聞きたく生徒にも授業内容を面白いと思ってもらわなければなりません。大学・大学院で論文を書く技術を学ぶことで、みなさんはこのように広く社会で活用できる知的な技術を集中的に学ぶことになります。

ですから論文で強調される、パラグラフライティングの原則の徹底(Topic sentence, Body, Conculsion)、アウトラインの明示化(論文構造を明確に示しておく)、章・節・項のモジュール化(必要な内容はすべて所定の章・節に入っている)、章・節・項のヒエラルキーの徹底(項の集合が節の包括的一貫性となり、節の集合が節の包括的一貫性となっている)、章・節・項のブロック化(章・節が組み上がることによって全体の構造ができあがっている)、章・節・項のレベルでの説明の伸縮自在性(章のレベル、節までのレベル、項までのレベルのそれぞれで短くも長くも語れるようになっている)、hookやbridgeの使用(読者の関心を引き、途切れさせない工夫:後述)、図や表についての決まり(例えば統計結果は何を表示するべきか)、はては参考文献の書き方の作法などすべてが<読者に親切に>という原則に貫かれています。

ですから論文の書き方について何かを学ぶ際は、「うるさい作法を学ばなければならない」などと考えるのではなくて、「この作法を守ることによって、どのように<読者に親切>になれるか」ということを考えるようにしてください。極論を言いますと、<読者に親切>であれば、私は細かな作法はAPAであろうがMLAであろうが、何でもかまわないと思います。

<読者に親切>と言いましたが、これは知的納得をするために親切ということです。知的納得は、読者が必要にして十分な情報を、整理された形で効率的に提示された上で、重要な判断は読者自身が下せるような形で論考が進められることによって得られます。読者はその思考と判断の過程を楽しみたいのです。論文とはその知的楽しみを供給するエンターテイメントです。ですから、論文ではただリサーチ・クエスチョン(RQ)とその答えを出すのではなく、なぜそのRQが大切なのか(背景・先行研究・意義)、どうやればそのRQに答えられるか(方法)、そのRQの答え(結論)からどんなことが考えられるか(考察・結論)などを、読者にも考えてもらった上で納得してもらえるように論文は書かれます(注)。<読者に親切>というのは、そのように読者に思考・判断をしてもらうために便利なように情報が整理されているということを意味します。

大学・大学院で論文を書く指導を受けると、最初は、なぜ「こんなにうるさく言われなければならないのだ」「自分には自明のこの文章になぜ『わかりにくい』などと文句をつけられなければならないのか」などとイライラするかもしれませんが、これは高度知識社会で非常に有益な技術をマスターするためです。どうぞ論文執筆の意義を考えて、自分のベストを尽くして論文を書いて下さい。



(注)高度に専門的な集団のためだけに書かれる論文では、エンターテイメント性が減り、速報性や記述の簡潔性が重んじられます。この記事でいう「論文」とはそのように特殊な専門的読者層に対して書かれるものでなく、いわゆる「一般読者」を含む比較的広い読者層に対して書かれるものを指しています。

追記
読者に親切な知的エンターテイメントとしての論文執筆は、意外に理系の研究者の方が心がけていたりすることがあります。アメリカで活躍する世界最先端の研究者が書いた金出武雄『素人のように考え、玄人として実行する』(PHP文庫)は読みやすい文庫本です。ぜひご一読ください。

追追記
The Purdue OWL (Online Writing Lab)は英語で文章を書く際に本当に役立つ良質なサイトです。ぜひ皆さんブックマークして常用して下さい。





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Hook, bridge, outline

パラグラフライティングは通常トピックセンテンスから始まると教えられますから、論文全体や、章・節の冒頭は「この論文/章/節では○○を論ずる」という形で始まる書き方を多用する学生さんは多くいます。

決して悪い習慣ではないのですが、学生さんが長時間かけて考えてきたトピックに対して格段の知識も理解も興味ももっていない読者からすれば、そのような冒頭の宣言が章や節で次々に続くと、その章や節でやりたいことはわかるのですが、その章や節と、その前後のつながりがわからずに、読みにくさやとまどいを感じてしまうことがあります(The problem of a writer is that she knows too much!)。

前後のつながり(あるいはcoherence:一貫性)を明確にするための工夫にhook, bridge, outlineがあります(細かい文章表現としてのdiscourse markersやcohesionの示し方などは今回は割愛します)。

Hookとは文章冒頭に読者の興味関心を得るための練られた導入文です。例えばいきなり「本論文ではルーマンのMitteilung概念の・・・」と論文が始まるとします。ルーマンを専門とする学者仲間に書く論文ならこれでもOKでしょうが、「そもそもルーマンって誰?」という人々も読者層にいる場合、この書き方は明確ではあるかもしれませんが、読者に配慮した書き方であるとは言えません。ですから例えば「コミュニケーション理論においてのルーマンの重要性は多くの人に認められ始めているが、しかしその中で議論が多いのがMitteilung概念である」などという文をhookとして冒頭に置きますと少しはこのトピックについての知識・興味をもたない読者も「ああ、そうなの」と思うことができます。さらに「英語教育でコミュニケーション能力は中心概念であるが、その理論的基盤は意外に脆弱である。コミュニケーション理論においてのルーマンの重要性は多くの人に認められ始めてきたが、彼の理論の中のMitteilung概念に関しては様々な議論があり、その概念理解が十分でないため、ルーマン理論の受容の障害となってきた」などとつけ加えて「従って本論文ではルーマンのMitteilung概念の・・・」と続けるともっと読者に親切になるかもしれません。

難しい例が続いたので、hookの簡単な例をあげます。それは売り子の第一声です。あなたはあなたの会社のミキサーを売るために、デパートのエスカレーターの踊り場で販売をしています。あなたは近づいてくるご婦人に「うちのミキサー、MX-3 Mark IIを買って下さい」と呼びかけますか?それではご婦人の関心は得られないでしょう。もう少しいいのは「奥さん野菜足りてます?」とか、「お肌のためには化粧品よりも新鮮な野菜ですよ」とかいった文句かもしれません。こうやって他人を引っかけるのがhookです。


Bridgeというのは、複数の文章をつなぐ文です。章から章へ、節から節へと移動する時、前の章・節の末尾、あるいは次の章・節の冒頭に、前後のつながりを明らかにする文章をいれます。章・節の冒頭でしたら「前章・前節では○○について論じてきた。しかしその中でわかってきたことは、△△については以前不明であり、この△△の理解を欠いては、○○だけでなく本論文のテーマは究明できないということである。したがって本章・本節では△△の理解を得るため、△△についての代表的な論二つを導入し整理すると共に、その限界点を示す」などといった文をつなぎ(bridge)として入れておくわけです。そうしますと読者はすぐに論のつながりを理解することができます。Bridgeを前の章・節の末尾に書く場合も同じようなものです。私の経験では、学生さんの論文は、bridgeがないぶつ切りの章・節から構成されていることが少なくありません。論文の書き手はそれだけでも論文のつながりや流れはわかるのかもしれませんが、そのトピックに書き手ほどの知識・理解・興味をもたない読者は、bridgeがないと、一瞬、自分は論全体の中のどこにいるのかがわからなくなります。くどくなりすぎないようにうまくbridgeを入れて下さい。


現在の論考が論全体のどこにあるのかを示すのがアウトラインです。通常これは論文の目次や、序論での「本論の構成」のセクションなどで示されます。しかし読者は書き手ほどにはこのアウトラインを頭には入れていません。読者にとって適切なタイミングで論文全体のアウトラインを再提示したり、それぞれの章においてのアウトラインも提示するようにして下さい。


ただし「読者にとって適切な」というのがくせ者です。書き手はしばしば読者の理解の程度や気持ちがわからなくなります(The problem of a writer is that she knows too much!)。ここでは書き手本位の研究的知性とは異なる、読み手本位のプレゼンテーション的知性を磨き、育てなければなりません。いくらいい研究をしても他人にわかってもらえなければ意味がありません。また研究職にも多くの場合教育の責任も伴います。教育つまり他人を育てる営みにおいては自分の心と異なる他人の心を適切に理解することが必要となります。自分本位の知性の発揮には優れていても、他人本位の知性の働かせ方が苦手な人もいます。しかし自分の心とは異なる他人の心を読むことは重要なことです。Hook, bridge, outlineあるいは他の工夫も、他人の心を読もうとする努力の中で使いこなしてください。ただhook, bridge, outlineを機械的に入れればいいというのではありません。<読者に親切>であるための工夫としてこれらを使用して、社会的に有用な知性をあなたも身につけて下さい。







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2008年12月5日金曜日

イマニュエル・ウォーラーステイン著、山下範久訳(2008)『ヨーロッパ的普遍主義』明石書店

「ヨーロッパ的普遍主義」(European universalism)とは明らかに矛盾した用語です。この撞着語法でウォーラーステインが語ろうとしているのは、「権力の普遍主義がつねに、部分的で、歪められた普遍主義であったこと」(14ページ)です。

そのヨーロッパ普遍主義の代表例としてあげられているのが、(1)「野蛮」に対する干渉の権利(the right to intervene against barbarians)、(2)「オリエンタリズム」における本質主義的個別主義(essentialist particularism)、そして(3)科学的普遍主義(scientific universalism)です。

(1)の「野蛮」に対する干渉の権利は例えば16世紀のスペインによるアメリカ大陸の征服時でのラス・カサスとセプルベダの間の議論に見られます。

(2)の「オリエンタリズム」における本質主義的個別主義は、ヨーロッパが、単に「未開」として片付けることができない「高度文明」をもつ地域に出会った時に生み出した言説で、オリエンタルを「他者」として実体化・本質主義化し、それらの「文明」には「近代」に進むことができないなにかがあるとした言説です(「原理主義」とは、この論理を逆用した「転倒されたオリエンタリズム」です(149ページ))。

(3)の科学的普遍主義についてウォーラーステインは次のように言っています。

科学主義は、権力をイデオロギー的に正当化する様式のなかでも、もっとも洗練されたものである。というのも、科学主義は、普遍主義をイデオロギー的に中立なもの--「文化」とは無関係なもの、さらにいえば政治の領域とも無関係なもの--として提示して、科学者が獲得する理論的知識の応用を通じて、人類にもたらしうる善を主たる源泉として、その正当性を引き出しているからである。(151ページ)


しかし、もっとも重要なことは、科学が、道徳的批判の説得力と客観性を低く評価することで、権力を道徳的批判から守る盾となったということである。人文学者は--批判的人文学者は特に--無視しうる存在となった。彼らの分析は科学的ではないからである。これは、近代世界システムの自己正当化過程の最後の仕上げであった。(154ページ)



このように歪められた「ヨーロッパ的普遍主義」に代わるものとして、ウォーラーステインは「普遍主義の多元性」、あるいは「いくつもの普遍的普遍主義のネットワークのようなもの」(163ページ)をあげます。ですがその概念についてはこの本ではこれ以上詳しくは論考されず、またその道筋に対しても彼は必ずしも楽観的な見通しは示していません。


この本を私は少し前に読んでいましたが、今回、Pennycook (2001) Critical Applied Linguistics第三章の授業準備をしている時に、この本を併せて読めば面白いかと思い、ここにまとめました。以下は私が英語ブログに掲載した関連部分です。


*****
Immanuel Wallerstein (2006 ) European Universalism: The Rhetoric of Power (The New Press) may give you a good understanding of "central categories of Western thought (Pennycook 2001, p. 67)". What Wallerstein terms as "European universalism" (a case of oxymoron -- how can 'universalism' be a regional notion?) consists of three types:the right to intervene against barbarians; essentialist particularism and scientific universalism.


The publisher gives a brief synopsis.
http://www.thenewpress.com/index.php?option=com_title&task=view_title&metaproductid=1365

In a short interview, Wallerstein himself summarizes the book as follows:

European universalism is used to justify imperialism, Western expansionism. Obviously, variants exist in sophisticated arguments. The first, the most brutal (as in Iraq today), consists in saying that the others are barbarians, whom we must tame. A second variant, a little more subtle, studied by Edward Said under the name of "Orientalism," claims that the others are different beings, fixed in their differences, to whom we must bring true civilization -- an argument that one finds in Samuel Huntington in particular. Lastly, a third type of argument is that of scientific truth to which one appeals to impose the Western point of view. And, as it so happens, this alleged scientific truth is held by the most powerful countries in the world!
http://www.monthlyreview.org/mrzine/doubre260308.html


There are some reviews, both positive and negative, of this book on the web.
http://www.complete-review.com/reviews/ghistory/wallersi.htm
http://www.culturewars.org.uk/2006-01/wallerstein.htm


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2008年12月4日木曜日

学会言説という権力を活かす(2)

[この記事は、前の記事からの続きです]

<前の記事の要点>

■前提:学会言説という知識は権力となる。

■第一の問題:しかし学会言説という知識の獲得によって権力を得た者が実際に権力を行使する際には、案外、学会言説以外の常識論や印象論を語っている。現在の学会言説は、実は現実世界での力となっていない場合が多い。

■第二の問題:なぜ必ずしも現実を捉えきれない学会言説の権力構造が、崩されず再生産されるのだろうか。

■目指すべき方向:学会言説という知識/権力をいたずらに否定するのではなく、積極的・肯定的に使いこなすにはどのようにすればよいのだろう。


*****

第一の問題(=多くの研究者は、現場実践に対して、研究に基づいてでなく、常識的な印象論しか語っていない)については、日本の学会言説の多様性が、英語教育研究では著しく制限されたままだということを繰り返し語っておきたいと思います。

英語教育という総合的な現象を語るためには、言語学や心理学に限らず、教育学、社会学、政治学、哲学などでの様々な知的訓練が必要だと私は考えていますが、日本の英語教育関連の学会は量的心理学に偏り、質的研究や社会科学系さらに哲学系、それどころか教育学系の議論さえないがしろにされているのではないかという疑義は私も過去に述べたとおりです(「学会誌のあり方について」)。

欧米の第二言語教育研究と比べても、この日本の英語教育学会言説の偏りは明らかです。例えば、Zoltan DornyeiによるResearch Methods in Applied Linguistics (Oxford University Press)では、当たり前のように量的方法と質的方法が並記されているだけでなく、"mixed method"についても語られています。

社会科学系そして哲学系(特にポストモダン)については、私自身が今、PennycookによるCritical Applied Linguisticsを教えているから特に思うのですが、この種の研究は欧米では完全に市民権を得ているのに、日本の英語教育界ではほとんど際物扱いです(この点、日本の日本語教育研究の状況は、英語教育研究の状況よりはるかに進んでいます(例として佐々木倫子、他編『変貌する言語教育』くろしお出版など)。



第一の問題である「多くの研究者は、現場実践に対して、研究に基づいてでなく、常識的な印象論しか語っていない」については、この日本の英語教育学界の偏りが原因になっているかと思います。日本の英語教育学界に量的研究が導入されたのは、私が理解する限り1980年代のことですが、以来、量的研究法は--学習しやすい、再生産しやすいからでしょうか--日本の英語教育学界における支配的言説となってしまっています。

もし大学の研究者がその量的研究法にしか通じていなかったら、正直、彼/彼女は、自分の研究に基づいて現場教員にまっすぐに語ることが難しいと思います。もちろん量的研究法で初めて捉えられる現象も沢山あります。また数回の講座でしたら自らの量的研究で現場教師を魅了することも十分に可能でしょう。

しかしこれは講師が一方的に話すだけの講座でなく、協働的に授業について語り合う研究会などでは、もし彼/彼女が量的研究法だけにしか慣れておらず、数値化しがたい現象、数値化するべきでない価値観についての語り方の作法(質的研究法、社会科学的・哲学的・教育学的言説など)について無知ならば、おのずから彼/彼女の語り方は、多くの場合において、誰でもできる常識的な印象論にならざるを得ないでしょう。かくして第一の問題が生じるわけです。

しかしここで大切なことは、現場における常識の理解や印象の獲得にに関しては、現場教員の方が、量的研究しか行なわない大学研究者らよりもはるかに精通しているということです。ここでは学会言説の権力が空回りして、まったく活かされていません。いや、学会言説を操れることで得た権力を行使するのに、その言説は学会言説ではない、ただの床屋談義のようなものであるとしたら、これは権力の誤用・濫用とすらいえるのかもしれません。

こうなると英語教育といった現場的・臨床的で総合的な現象について語るには、多数の研究方法を学んでおくことが必要になるかと思います。私は、英語教育学界の人間は、たとえそれぞれの研究法の専門家からは二流扱いされるようなレベルであっても、多くの研究法について学び、それらを何とか使いこなす(二流や三流であっても失格ではない)ことが英語教育の研究者には求められていると思います。

私がなぜこれほどに方法論の複数性・多元性を強調するかと言いますと、現代は「方法論こそがtruthを決定する」と言わんがばかりの風潮が強いからです。「truthとは何かを考え、それを検討するための方法論を考え出し、使う」という「truth --> method」の思考や、「方法論とtruth概念がお互いに『汚染』されている」ことを自覚した「truth <--> method」の思考ではありません。「社会的に認められた方法論だけがtruthを語ることができる」といった「method --> truth」という風潮です。

そうするとmethod --> truth --> knowledge --> powerといった一方向の流れが出来てしまいます。ある一定の方法論を握る者だけが、真理、つまりは知識を語ることを許されます。その種類の知識を操る者だけが権力を握るという一元的なあり方は、私は教育の現実に合わないものであり、ひどい場合にはknowledge/powerの濫用にさえつながりかねないと懸念しています。

私があるべきと考える姿を、図式的に表現しますなら、methods <--> truths <--> knowledges <--> powersと、敢えて英語使用の標準的用法に反してでもmethod, truth, knowledge, powerなどの複数性を強調し、それらがフィードバック回路が成立しない一方向の流れになるのではなく、フィードバックが成り立つ相互影響関係にある関係です。

方法論も多元化するなら、複数の方法論が何を「真理」とし、何を「知識」とするのかについての多元的な考えを生み出すことができます。さらにそれらの複数の真理概念と知識概念は、多種多様な「権力」(power:複数の人々に認められた社会的な力)を生み出します。その多種多様な権力の働きが、また方法論・真理・知識に様々な働きかけをし、それらを洗練させるという多元的な相互影響関係の図式が、私が今考えていることです。

これをさらに言い換えるなら、知識/権力という重大な問題は、異なる人間が共生する開かれた空間での、最終解決を求めない終わりなきコミュニケーションの連続によって、何とか扱ってゆく方が健全なのではないかとなるかと思います。「方法=真理=知識=権力」を単一者(あるいは単一者の複製が集まった均質集団)が一元的に掌握し、それでもって社会をコントロールしようとする図式は怖ろしいのではないかということです。


ではなぜそのように方法論の多元化に日本の英語教育学界が変わってゆかないのか。1980年代の量的研究の導入は、先行世代からすれば驚くべき変化だったと思います。90年代、2000年代にはなぜそのような変化が、質的研究や、社会科学的・哲学的・教育学的研究について起らなかったのか。これが私の第二の問題です。

[続く]







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佐藤俊樹(2008)『意味とシステム』勁草書房

佐藤先生は、以下の引用に見られるように、ルーマンを高く評価します。

ギデンズは英語圏で、そして英語しか読めない社会科学者から、先駆的な理論として高く評価されてきたが、ルーマンの著作を真面目に読んだ人間なら誰でも気づくように、ルーマンの薄い模写(コピー)でしかない。だからこそ、広く読まれ広く受け入れられている。英語かドイツ語かのちがい以前に、その薄さ濃さが、現時点での二人の受容の広さ狭さを決めている。私たちはまだルーマンに追いついていないのだ。(25ページ)

例えば、ルーマンと同じ主題を後追いするA・ギデンズなどと読み比べると、それ[=議論の展開のさせ方、その深度の開き方が魅力的であること]はよりはっきりする。ギデンズは良識的であり(現代においてそれは決して無視できない次元(ディメンジョン)である)、現在の英語圏では例外的に深い社会学者でさえあるが、至高の密度の差はいかんともしがたい。(184-185ページ)


しかし佐藤先生は、ルーマンの理論には「裂け目」があり、ルーマンのシステム論は成り立たない(そして他のほとんど全ての理論はもっと成り立たない)と考えています(6ページ)。

佐藤先生のこのルーマン理解は、かつて長岡克行先生の『ルーマン/社会の理論の革命』(1996, 勁草書房)で徹底的に批判されました。この本はその長岡先生の批判への反論といった意味合いも大きいかと思います。

というわけで私もできるだけこの佐藤先生の本を丁寧に読もうとしましたが、私は長岡先生の『ルーマン/社会の理論の革命』を何度も読み返して自分のルーマン理解のよすがとしているせいか、どうも納得できないところが残りました。

具体的に言いますと、特に私は佐藤先生の「超越的」、「超越論的」のことばの使い分けがわからず、とまどっておりました。

佐藤先生のルーマン批判の一つの論点は、ルーマンのこの「超越(論)的」機制にあります。ですが、この本では、ルーマンの理論を記述・説明する際に、「超越的」、「超越論的」ということばが、ある所では「超越的機制」(例、24ページ)ある所では「超越論的機制」(例、5ページ)、あるいはある所では「超越的定義」(例、110、119ページ)ある所では「超越論的定義」(例、115ページ)、またある所では「超越的」(例、269ページ)あるところでは「超越論的」(例130ページ)・「超越論的視点」(例、59、62ページ)」といったように使い分けられています。

私は、この本を読む前に大黒岳彦先生の『<メディア>の哲学』(2006, NTT出版)を読んでおりました。そこで大黒先生は次のように「超越的」と「超越論的」の区別を説明しております。私はカント哲学も廣松哲学も十分に勉強したとは言えませんが、以下のような区別は少なくとも廣松渉先生のカント解釈では標準的なものかと思います(というより私は、このような区別がカントの「超越的」「超越論的」の標準的理解かと思っておりました)。[言い忘れておりましたが、大黒先生は廣松先生の薫陶を受けたそうです]


カントは、経験の対象の認識に限られる理性の認識能力を踏み越えて形而上学的対象(例えば「神[の存在]」「魂[の不滅]」「世界[の涯て]」)を認識使用とする試みを超越的(transzendent)として、厳しく批判しこれを斥ける一方で、経験を成り立たせている、その可能性の条件の究明、経験構造の分析(例えば経験の形式としての「時間」「空間」「カテゴリー」)に関しては経験対象の領野を踏み越えはするが超越論的(transzendental)と称し、これを認めたのだった。(243ページ)



しかしこの区別を使って、佐藤先生の「超越的」と「超越論的」の使い分けを理解することは私には不可能でした。私の読みが足りないのかもしれません。あるいは佐藤先生がカント以外の意味(例えばヘーゲル的な意味--私は勉強していないのでヘーゲル的意味についてはわかりません)で「超越的」「超越論的」の用語を使い分けているのかもしれません。

こういった理由で、残念ながら私は納得しながらこの本を読み終えることはできませんでした。

ある方が、ルーマン理論を理解しようとして、最初にこの本を読んだらさっぱりわからなかったと言っていましたが、この本は上で述べたように長岡先生の批判への再反論の部分が多い本ですから、ルーマンをこの本から理解しようとするのはやはり難しいかと思います。

私がルーマンの入門書として個人的に好んだのは、ゲオルグ・クニール、アルミン・ナセヒ著、舘野受男、池野貞夫、野崎和義訳『ルーマン社会システム理論』(1995, 新泉社)と、長岡克行『ルーマン/社会の理論の革命』(1996, 勁草書房)です。特に後者は今まで四回読み返しましたし、あと数回は読み直すつもりです。大著ですが、この本を何度も読むことがルーマン理解にはよい方法でないかと個人的には思っています。


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大黒岳彦(2006)『<メディア>の哲学』NTT出版

大黒岳彦(だいこく・たけひこ)先生による『<メディア>の哲学』はメディア論としても、ルーマンの研究書としても非常に素晴らしいもので、読んで私は大変勉強させていただきました。

特に第二部「ルーマン・メディア論の構図」は非常に勉強になりましたので、下のファイルに私なりに再整理(というより歪曲)してまとめました。まとめでは大黒先生の表現を多く使っていますが、様々な箇所で私の言い換えを行ないました(ただしルーマンの術語の訳に関しては、大黒先生の訳語を基本的に踏襲しました)。

ですがやはりあまりにも引用が多くなったので、著作権保護のため、ファイルは私が授業で使う際に受講生にのみパスワードを教えてこのファイルを参照できるようにします。


ルーマンにご興味のある方は、ぜひ『<メディア>の哲学』をお読み下さい。


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2008年12月1日月曜日

学会言説という権力を活かす(1)

ある地方学会に参加しました。教師としてのセンチメンタルな思いを語れば、私が指導してきた大学院生(M2)が二人、どこに出しても恥ずかしくない学会発表をしてくれたのが個人的な大きな喜びだったのですが、ここでは、学会に参加し質問者として振る舞う自分を省みて考えたことを書き連ねてみます。

学会発表とは大学・大学院教育のいわば集大成です。大学・大学院のために費やした長い年月と多くのお金、そしてなによりも努力が、社会でも通用するかを、その学問に興味をもつ者なら誰にでも開放された空間で試されるわけですから。

そういう意味で発表を吟味する学会の質問者は、大学・大学院という制度で教えられている学問と呼ばれる知識の作法を体現した者でなければなりません。私も今回、及ばずながら、その知識の作法に即していろいろな発表に質問を投げかけました。

今回の学会は量的研究ばかりでしたので、私の質問も、統計に関するものばかりになりました。およそ数字を操って推論をするならば、どうしても守っておかなければならない作法(というより思考法)は「統計学」という形で制度化されています。私は、私なりにその制度化された知識を身につけた限りで、それに則さないと思われる解釈や結論に対して疑義をぶつけました。

もちろん質問をする私とて、最低限の人間的・社会的な配慮はしていますが、学会でのコミュニケーションは基本的に「知識」の作法(だけ)に則ったものです。ハーバマスのいう「理想的発話状況」に近いものといっていいでしょう。重要な主張には根拠と証拠を示し、その妥当性によってのみどちらの主張が「良い」かを定め、そういった理性以外の要因--例えば論争者間の社会的地位--などは一切排除してコミュニケーションを続けるといった状況です。

しかしこの「理想的発話状況」で発言をするために「知識」の作法を身につけるのにはたくさんの時間とお金と努力が必要であることは先ほど述べた通りです。学部においても大学院においてもこの「知識」の作法を習得してもらうのはそれほど容易なことではありません。ですがこの「知識」は「権力」(power)につながります。

フーコーの知識/権力概念を持ち出すのが恥ずかしくなるぐらいに、学会での知識の作法--以下、「学会言説」と呼びましょう--は、権力と結びついています。卒業論文として認められるぐらいの学会言説の作法を学ばなければ、日本では教壇に立つことすらできません。修士論文として認められるぐらいに学会言説に慣れれば、教員としての処遇の点で有利になります。博士論文という学会言説を生産できる能力は、現在、大学教員となるにはほぼ必須の要件となっています。大学教員であり続けるには、事実上、学会言説を論文の形で生産し続けることが必須の条件となっています。私は日々、この権力を行使し、この権力関係の中に生きています。

大学教員であることは、時に、教育行政での権力を行使するための重要な条件となっています。例えば来年から本格実施される教員の免許更新制ですが、その講師となるには基本的に大学教員であることが求められています(大学教員以外が免許更新制の講師となるには特別な書類が必要となります)。

教員免許更新制度(あるいはその他の教員相手の講座)の講師であるということは、ちょっとした権力行使です。といっても講師ががっぽりお金を儲けるとかいうことではありません(たいていの場合、謝金はほんのわずかなものです)。そうでなく、各地の小中高の教師を集め、各種校務で忙しい教師を所定の時間座らせ、さらにはその間に講師が聞いた話をレポートなどにしてまとめなければ、最悪の場合、教師であり続けることができないシステムの中で話をするということは、制度化された強制力を伴う行為であるという意味です。

しかしその講師というものが存外にくだらない話をするというのはよく知られたことです(もちろん優れた例外は多くありますが、まだ少なくとも英語教育界で、大学の研究者の話を小中高の教員の過半数が聞きたがっているとは私には思えません)。

私はここで「すべての大学研究者はくだらない」とか「すべての権力は悪である」とかいう安っぽい難詰に荷担しようとしているのではありません。

私が言いたい第一の点は、ある優れた実践者であり研究者でもある高校教員も述べたことです。「なぜ大学の研究者の多くは、小中高の授業について語るときに、常識的、あるいは印象的なことしか語らず、自分の専門の研究の観点から語らないのだろう。もっと自分たち現場の人間は、学術的にもきちんとした話で、現場の実践に関して切り込んで欲しいのに」というのがその高校教員が私につぶやいたことです。学会言説と、現場で実際に権力を行使している言説の間にギャップがあるというのがこの第一点です。

私が述べたい第二の点は、なぜそういった現実を捉えきれていない学会言説が、現場教員を縛るシステムの中でなかなか崩れずに再生産されているのだろうということです。なぜ学会言説の権力構造が、現場が求める力(power=権力)につながらないままに保たれているのだろうということです。

とりあえずこの二点を考えることにより、どうやって学会言説という権力を活かす--肯定的に使いこなす--かを考えてゆきたいと思います。

しかし、なんだか疲れましたので、本日はここで論を切り上げておきます。おそまつ。

[続く]







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ノーマン・フェアクロー著、貫井孝典他訳 (2008) 『言語とパワー』大阪教育図書株式会社

PennycookはIntroduction to Critical Applied Linguisticsの中で、Norman Faircloughらの研究を高く評価しながらも、それらを"emancipatory modernism"と呼び、これらの研究が自らを問い返すことを怠っているかもしれないという懸念を表明しています。

今回この『言語とパワー』を初めて読んで(←勉強足りないぞ!)私もその懸念を共有すると同時に、一方でその理由だけでこの本を読まないのは明らかな間違いであり、言語教育に関係する人間は、やはり一度はこのような本をきちんと読んでおくべきだと痛感しました(反省)。今回この翻訳が刊行されたことで、日本の英語教育関係者のみならず国語や日本語あるいは他の言語の教育関係者も、この本に容易にアクセスできるようになることは、やはりありがたいことかと思います。

この本は、社会的パワー関係の生産・維持・変化において言語がもっている意味を理解し、言語が人の人に対する支配にどのように寄与しているかについての意識を高めることを目的としています(1ページ)。

しかし著者は自らを「社会主義者」と規定し(5ページ)、階級関係を「他の関係よりももっと根本的な位置にあるもの」(39ページ)と考えていることを明言し、その上でできるだけ学術的なアプローチを取ろうとしていることを明確に述べるなど、この本の政治的姿勢は鮮明です。

その結果として、著者は明快な分析を示します。


ディスコースとディスコース・オーダー:実際のディスコースは、社会的に形成されるディスコース・オーダー、つまり社会制度と関連する様々な慣習の集合、によって決定される。

資本主義社会における階級とパワー:ディスコース・オーダーは社会制度および社会全体の中のパワー関係によって、イデオロギーを基に形成される。

構造と実践の弁証法:ディスコースは社会構造によって決定されると共に社会構造に対して影響力をもち、それゆえ、社会の継続と社会の変化に貢献する。(19ページ)


教育に関する次のような指摘も、マルクスの遺産の上に立ってこそ言えるものかもしれません。


教育とは、子どもの自分を取り巻く環境に対する批判的意識と批判的な自己意識、そして自分の協同社会の形成と再形成に貢献する能力を発達させることである。
したがって、子供たちに、人間によって作り出され、人間によって変えられる社会環境のどの要素をも、まるでそれが自分たちが制御できない自然環境の一部であるかのように示すことは教育ではない。しかし、伝統的に学校で伝えられてきたのは、まさに、言語に対するそのような疎外的な見解なのである。(291ページ)


また第二版で追加された章での次のような時代分析も、マルクスの問題意識を継承する中で培われたものかもしれません(この本の原書は第一版が1989年に、第二版が2001年に刊行されています)。


多くの批判研究が、現在、新自由主義批判を中心に収束しつつある。私の考えでは、ここが、批判的談話分析がまた、新自由主義的新世界秩序をめぐる現在の闘争にその努力を集中すべきところなのである。新しい資本主義の結果である人間の共同体と自然資源の大規模な破壊が、それが作り出す富みによって正当化されるか否か以上に大きな問題は存在しない。(318ページ)


しかしこういったアプローチは「偏っている」のではないかとの批判に対して、フェアクローは次のように言います。

批判的社会研究を、偏っていると批判する人たちがいる。もちろん、解放のための知識的関心に献身的に関わることは、実際に、一方の側に立つことを意味する。しかし、学術的研究の中立性に関する錯覚は、確かに、現在までに粉砕されるべきであった。過去20年間にわたり、大学は、経済を支配している人たちの要求を満たすための先例のないほどの社会生活の動員の一部として、ますます公然と新しいグローバル経済の片腕になるよう変貌してきた。大学や他のレベルでの教育とは、ますます還元主義的な考え方で、人々を仕事に備えさせるべきであると見なされている。資金を提供されている研究のほとんどが、企業や政府のための国家的優先事項として指定されている分野のものである。(318ページ)


とはいえ、「批判的談話分析」(批判的言説分析=Critical Discourse Analysis)の「解答」が随所で示され、「批判的言語認識」(=Critical Language Awareness)が、「支配者集団に対する抑圧された社会的集団の闘争の一部として、支配的なディスコース・オーダーに挑戦し、突破し、最終的には変容させるかもしれない『解放のディスコース』の進行役なのである」(292ページ)と宣言されると、私はその主張の妥当性は認めながらも、それほどに単純に考えてしまっていいのかと躊躇してしまいます。

パワー関係をそれほど単純な関係に還元してしまっては、かえって共感・理解してくれる読者を遠ざけ、本来このような本が目指している読者層をますます遠ざけてしまうのではと懸念してしまいます。この強力な図式ゆえに私たちが見落としてしまう現象もあるのではないかと思ってしまいます。私たちはもっと精妙に考えなければならないのではないでしょうか(それとも私がこの本を粗雑に読んでいるだけでしょうか)。

この本の第五章で示されている分析記述の枠組みなど(ここからダウンロード。著作権保護のためパスワードは授業の受講生だけに教えます)は、もっと自由に使われるべきかとも思います。これはCritical Discourse Analysis/Critical Language AwarenessがDiscourse Analysis/Language Awarenessの連続体であることを明らかに示している枠組みであると思えます。極端な話、この枠組みとその使用例を知るだけでもこの本を読む価値はあるかと思います。こういった枠組みからは、上記のような問題意識に限らず、様々な問題の分析が可能だろうと考えるからです。また私たち文章の書き手も、このような枠組みで自らの文章表現を振り返ることができるかと思います。いや、高校教師は、読解の授業の発問作りにこの枠組みを活用することができるでしょう。この翻訳書もしくは原書での一読をお勧めします。


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メタサーチエンジンkeyboadr

ブログ「百式」で知ったのですが、メタサーチエンジンkeyboadrはかなり便利かもしれません。検索語を一度入れるだけで、Google, Wikipedia, YouTube, Google Blogs, Gooble Imagesの検索結果を一気に知ることができますからね。まだちょっと動作が不安定な時もありますが、私は現在、愛用しています。

やっぱ、ウェブはすごいや。

keyboardr



あ、それから蛇足ですが、私はブックマークをこれで管理しています。ブックマークもいろいろみんなで共有できればと思っています。








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2008年11月27日木曜日

ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること』月曜社

なぜ人は、友情や愛情を感じ始めた他人には、進んで自らのことを語ろうとするのだろう。うぬぼれた時にあたりかまわず繰り返す定型の自慢話ではなく、友情や愛情を感じる人へは、新たに自分を語りだすのはなぜなのだろう。なぜその語りは万人向きの履歴書の記述のようではないのだろう。

アレントなら、「語り」(speech)の力からそのことを説き起こすかもしれない。バトラーは、アドリアナ・カヴァレロを引用する。


あたかも私たちの個性の内容を書き込むだけであるかのように、私たちは「何者なのか」と問うべきではない、とレヴィナス的な--おそらく、さらに明白にアレント的な--手法で、アドリアナ・カヴァレロは論じている。(55ページ)


「私」とは、私一人で完結した存在ではありえず、また無人空間で自存しているような存在でもないとバトラーはアドリアナ・カヴァレロに即して考える。


彼女[=アドリアナ・カヴァレロ]の見方では、私とは、自分自身に閉じこもった、独我的な、自分自身についてだけ問いかけるような、いわば内的主体ではない。私は重要な意味であなたに対して存在しており、あなたのおかげで存在している。もし私が呼びかけの条件を喪失すれば、もし私が呼びかけるべき「あなた」を持たないなら、私は「私自身」を失ってしまう。彼女の考えでは、人は他者に対してのみ自伝を語ることができ、「あなた」との関係でのみ「私」に言及することができる。「あなた」が存在しなければ、私自身の物語は不可能になってしまうのである。(57ページ)



「私」が存在するということは、「私が生きる」ということである。「私」が他者に関係することにおいてのみ、(生物学的な意味ではなく、精神的な意味で)生きることができるとすれば、「私」に呼びかけてくれる「あなた」、あるいは「私」が呼びかけることを許してくれる「あなた」は、私の生命である。


結局のところ、呼びかけられることなしには誰も生き延びることはできないのであり、呼びかけられ、何らかの物語を与えられ、物語の言説的世界に参入させられることで言語のなかに創始されることなしには、誰も生き延びて自分の物語を語ることはないのである。言語が課され、何らかのかたちで情動を分節するような関係の網目を言語が生み出した後にのみ、ただ事後的にのみ、人は言語のなかに自分の道を見出すことができる。人は呼びかけられ、その結果として呼びかける何らかの方法を学ぶような幼児、子供として、コミュニケーション環境に参入する。この関係性の初期パターンは、いかに自分を説明しようとも、そこに不透明性として現れる。(115-116ページ)


私の命とは、実は私とは他人であるあなたであるのなら、私は私自身にとっても不透明な存在であるにすぎない。「私」という存在は、自前の基盤を欠いている--これは近代的自律性概念からすれば噴飯ものの弱音なのだろうか。それとも近代的自律性概念というのが、不可能なフィクションなのだろうか。いや待て、カントが自律性を語ったとき彼は他者を必須の前提としていなかっただろうか--。


この「私」は語られ、分節されているのであり、「私」が私の物語る語りを基礎づけているように思われるにもかかわらず、それは語りのなかで最も基礎を欠いた契機である。「私」が語ることのできない物語の一つは、語るだけでなく自分自身について説明するような「私」として、自分自身が出現する物語である。(122ページ)


「私」は「あなた」を必要としている(願わくば「あなた」も「私」を必要としているように!)


始まりにおいて、私はあなたに対する関係であり、両義的に呼びかけられ、呼びかけており、「あなた」に託されているのであって、私は「あなた」なしでは存在しえず、生き残るために「あなた」に依存しているのだ、と。(146ページ)


かくして「私」は「あなた」を求める。しかしそこにエゴイズムが浸食してくるなら、「私」は「あなた」を「私」の中に取り込もうとする。「あなた」を「私」に同化させようとする。「あなた」を「我がもの」にしようとする。

だがそのようなエゴイスティックな試みは、「あなた」という他者を精神的に抹殺してしまうことである。そうして「あなた」が抹殺されてしまったのなら、「私」も精神的に消滅してしまう。エゴイズムは自己破壊につながる。だからエゴイストでさえ、倫理が必要なのだ。


おそらく最も重要なのは次の点だろう。私たちは、倫理とはまさしく非知の瞬間に自分自身を危険に曝すよう命じるものだ、ということを認められなければならない。非知の瞬間とはつまり、私たちを形成しているものが、私たちの目前にあるものとは異なるときであり、他者への関係において解体されようとする私たちの意志が、私たちが人間になるチャンスを与えてくれるときである。他者によって解体されることは根本的な必然性であり、確実に苦しみである。しかし、それはまたチャンス--呼びかけられ、求められ、私でないものに結ばれるチャンスでもあり、また動かされ、行為するよう促され、私自身をどこか別の場所へと送り届け、そうして一種の所有としての自己充足的な「私」を無効にするチャンスでもある。もし私たちがこうした場所から語り、説明しようとするなら、私たちは無責任ではないだろうし、あるいはもしそうであれば、私たちはきっと赦されるだろう。(248ページ)


倫理とは「私」が「あなた」のために保つものであり、その倫理によって「私」は赦され、生きることができる。


関連記事:J.バトラーの言葉

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2008年11月24日月曜日

「文化」に関する脱臼的駄文

[このブログで、私はしばしば(というよりしょっちゅう)生煮えの考えを書きつけています。今回は特にそうで、とにかく私が感じたことを文章にしようとしましたので、主張は二転三転し、あちこちで論旨は「脱臼」しています。というより私は明快な論旨を自ら「脱臼」させることを目指していました。この前書きでも「脱臼」という言葉を繰返し「脱構築」と言わない謙虚な身振りの嫌らしさもこのエッセイは含んでいます。そのような試みに興味のない方はどうぞこの記事は読まないで下さい。]





私が見たその小学校の英語授業は、現在全国各地で展開されている研究授業の好例と言えるのかもしれない。その小学校は、校長以下の教員集団の力で小ぎれいに保たれ、児童も明るい表情を見せている。研究開発指定校ということもあり、周りの人々の関心も高く、研究授業は普通教室よりは一回り大きな図書室で行われたものの、参観者はその部屋にも入りきれないほどであった。

その注目の中、チャイムが鳴り、授業が始まる。19世紀ヨーロッパの例にならって作られ、その後の独自の発展を経て、今や日本の「伝統」となった制服を着た児童が一斉に立ち上がる。子ども達の視線が注がれるのは、日本人担任教師の横に立つイギリス人教師(ALT)である。児童の制服姿や、観衆のスーツ姿に比べると明らかにゆるいドレスコード(しかしおそらくその場の誰もが不快には思わない選択)の服装でリラックスをした表情を保つ彼は"Hello, guys!"とコミュニケーションを開始する。それに応じるのは"Hello, Mr. ..."という一斉唱和の英語表現である。この周りと呼吸を合わせる感覚は教室文化そのものである。

最初のこの挨拶の頃は、児童もまだ多くの観衆の存在に緊張していたのかもしれない。だが活動が進むにつれ、子ども達はリラックスしはじめる。日本人教師もイギリス人教師も特に指示していないのに、子ども達のジェスチャーは、日本語の言語生活ではあまり見られないぐらいに豊かになる。

その身体行動の「豊かさ」は、別の角度からすれば「大げささ」となるのかもしれない。イギリス人教師の好みで数ヶ月前からこのクラスでの定番となった"Hoo!"というかけ声は、子ども達に屈託なく使われている。それどころか、数ヶ月前は決してそのような気勢を上げることのなかった日本人教師(中堅の女性)までもが今は"Hoo!"と裏声をあげている。

彼女にしてもここ一年半あまりの経験である英語授業は、自己変容の経験であったであろう。教師が英語コミュニケーションを教える中で、戸惑いながらも行動様式が変わってゆくのは、小学校だけでなく、中学校や高校でもしばしば観察されることである。文法訳読式という日本語使用を基盤とした安定した行動様式から英語教師が引き離され、彼/彼女らが英語使用をほぼ常時要求される時(そしておそらくは彼/彼女らが自ら英語使用をほぼ常時自らに課す時)、彼/彼女らの身振りや表情そして声の表情や使い方は、それまでの日本語文化の影響下のものから大きく変わる。

子ども達は、大人ほどに戸惑いなく身体様式を変える(無論、子どもの中にも変化を拒む子もいるのだが、ここでは話を簡単にするため、そういった個性記述には立ち入らないでおこう)。この授業の子ども達にしても、「ボランティア」発言を求められると--この「ボランティア」という概念もなかなか大和言葉では表現できない--「ハイ、ハイ」とひな鳥が餌をねだるように手を挙げ、次々に自らの英語を紅潮した顔で披露する。授業最後の「ふり返り」では、ジェスチャーが豊かだった子を褒める発言が次々に続き、それには自然といえるぐらいの同意の拍手が注がれる。子ども達は、それが教えられたものであれ、自発的に学び取ったものであれ、自分たちの身体作法の変容を肯定的に捉えている。

肯定的に捉えているのは子ども達だけではなかった。私が観察した限りでは、「英語教育導入」という国策を一身に背負うような形で教室に登場した(しかしリラックスした服装と雰囲気をもつ)イギリス人男性がもたらした、日本語文化よりは大きく、制限の少ない身体行動様式は、観衆である保護者や他校の教師にも肯定的に受け入れられていた。彼の大きな動きと声は観衆の笑顔に迎えられていた。彼につられて、子ども達も日本語文化ではなかなか見られないぐらいに身体と声の動きの振幅を大きくすると、観衆の笑顔はいっそう明るくなった。多くの大人がこの子ども達の変容に肯き、未来への希望さえ感じているようにも思えた。

この子ども達の変容は「解放」なのだろうか。

明治以来の「脱亜入欧」、「西洋化」、「国際化」、「グローバル化」--これらの言葉はいつ頃言い換えられてきたのだろう--によって日本人が「自由」になってきているのだろうか。

しかし敢えて逆の見方をすれば、これは日本文化の--それが何を意味するものであれ--「破壊」とすら言えるのかもしれない。江戸時代の身体文化の多くを日本人は失ってしまった。その喪失はこれらの「破壊」によってもたらされたという議論は可能だろう。

いやこの文化変容を「解放」とか「破壊」とかの、一面的な価値を担った言葉で語るべきではないのかもしれない。ちょうど生物の進化が、道徳とか善とかの価値とはまったく無関係に展開するのと同じように、こういった文化変容もただ起っていると言うべきなのかもしれない。

だが人間の自己同一性の大きな基盤となる文化の変容を、生物進化と同じように扱っていいものなのだろうか。私たちは文化に関して確固たる方針を必要とするのではないか--こういった反論は十分に可能である。

だがその確固たる方針とは何なのだろうか。それは日本文化の「解放」を進めることなのだろうか。それともその「破壊」を阻止することなのだろうか。

しかしある種の人々は「解放」を求め、ある種の人々は「保守」を求める。いや(私という人間を観察してもそうなのだが)一人の人間もある時には「解放」の喜びを感じ、ある時には「保守」の喜びを感じる。

そうなると「文化に関する確固たる方針」とは何なのだろう。もしそれが国を挙げての一律の、曖昧さや矛盾を許さない、一方向への邁進なら、それは怖い。大石五雄『英語を禁止せよ』(ごま書房)が教えてくれることは、日本人が日本人としての自覚を高め、この上なく一致団結しようとした時代をあげるとすれば、それは昭和13年からの数年間だということだ。しかしその時代は日本史の中でどのように評価されるべき時代なのか。

さらに「西洋」対「日本」という構図についても考え直そう。「解放」にせよ「破壊」にせよ、これらの言葉は、あたかも彼方に「西洋」という動作主(agent)があり、此方に「日本」という被動者(patient)があるような図式を私たちの思考にもたらす。しかし「西洋」は現在においても不動のままであり、「日本」(あるいは「東洋」)だけが変化を被っているのだろうか。

大きな議論はできないので授業のことで語ろう。件のイギリス人にしても、この日本での英語教育経験で何も変わらないままなのであろうか。教師の指示で、床にひざまずき、さっきまで座っていた椅子を机にして一斉に授業のふり返りを書く子どもを前にして、あるいは授業が終わればこれまた教師の指示で観衆に"Thank you.  Bye, bye!"と一斉に集団で英語を発話する子どもの姿を見て、彼はどう感じたのだろうか。彼はこの日本の体験でもまったく変わらないのだろうか。こういった日本の行動を見ても、特に何も感じなくなるぐらいの変容は彼も経験するのではないだろうか。

仮に「イギリス文化」と「日本文化」という言葉を使うにせよ、これらの二つの文化はおそらく「共変」している。同じ経験を契機にして、それぞれがそれぞれに変容している。経験の前後でまったく変化しない「自己同一性」は二つの文化で保たれているのだろうか。

そもそも「イギリス文化」や「日本文化」という概念こそは、「自己同一性」を私たちが想像し、創り上げなければ保てないものではないのか(近代国家の成立時に、それは必要なことであったにせよ)。その「イギリス文化」や「日本文化」を、それらが交わった後にでも「自己同一性」が保たれているものと考えることはどのような思考様式なのだろう。その思考様式は何のために保たれるべきなのだろう。どのような機能を果たすのに有効なのだろう。

「異文化交流」という言葉は、二つの文化が、それぞれにとって「異なる」文化と接し、そしてまた元に戻るといったイメージがあるように私には思われる(そもそも"intercultural"という言葉がどうして「異文化」という日本語になるのか私にはわからない)。上記の英語授業にせよ、「異文化」が接し、そして授業の後には、またそれぞれの文化は元に戻るのだろうか--他愛のない無害な思い出だけを残しながら--。

ひょっとすればこの英語授業にしても「異文化交流」ではないと言うべきなのかもしれない。ただ文化が変容しているだけなのではないか。そして文化とは常に変容を重ねてゆくものなのではないか。

文化(culture)は英語では可算名詞でもありうる。しかしそれはどのような意味で数えられるのだろう。私たちは文化を数えられるもの、つまりは離散的で、自己同一性を保つものとして捉えようとする時、どのような決定をしているのだろう。その決定の中で、どのような権力(power)が働いているのだろう。

文化を可算名詞として考え、自らと「異なる文化」と接するなどと語る時の政治学(politics)とは何なのだろう。私たちはそのような言葉遣いによって、どのような権力(power)配置を保とうとしているのだろう。

逆に言うなら文化を不可算名詞として扱い、文化を一でも多でもないものとみなす言葉遣いをしようと私たちが決意するのなら、それはどのような政治行為なのだろう。私たちはその時、どのような権力を創り上げようとしているのだろう。

この駄文を書き終えようとしている今の私は、文化を不可算名詞として考える用法に惹かれている。文化を誰かが、一律一様に決定し、その決定によって「他」にして「異」なる文化を創り上げてしまうシステムの暴走を怖れるからだ。

だがそうだといって私が言葉の警察になるわけでもない(そちらの方がはるかに怖ろしいことだろう)。私とて文化の内に区分を引き、「こちらの文化」と「あちらの文化」というように、文化を可算名詞として使うこともあるだろう。

しかしその離散性や差異は、決して固定的なものでも決定的なものでもない。次の機会に、きっと私は異なるやり方で文化を数えていることだろう。いやまた文化という言葉を不可算名詞として使っているかもしれない。

私という人間の中で、文化は多種多様に理解され使用される。私をほんの一人としかしない社会の中で、文化はさらに多種多様に理解され使用される。文化は様々に受容され、様々に抵抗される。私たちはそういう「文化」という得体の知れないものを、一律にコントロールしようとするのではなしに、ただそのあり方と変容に対して、そのあり方と変容を規定している私たちの言語使用に注意しながら、自覚的であることだけを目指すべきではないのか。








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右クリックとショートカットキー

パソコンを操作する際には、右クリックとショートカットキーを駆使する習慣をつけておくと、作業が非常に迅速にできます。


右クリック

右クリックに関しては、とにかく作業をしたいところにカーソルを合わせて、右クリックをとにかく押してみる習慣をつけてください。そうすればたいていの場合に便利なメニューが現れますから、そこから機能を選択して下さい。



ショートカット

ショートカットとは、キーボードのある一定のキーを押すことで、よく使う機能を実行するものです。以下のショートカットキー(Windowsアプリケーションの多くで使われているもの)は常時使いこなすようにするととても便利です。コンピュータをガンガンに使う人は、ショートカットを最大活用し、指をできるだけキーボードから離さずにに(つまりはマウス使用を最小限にして)作業を進めます。その方が明らかに作業は速いです。

(  )の中に機能を、[  ]の中にそのショートカットの覚え方を書きました。皆さんもマスターして下さい。


Ctrl+C  (コピー) [CopyのC]

Ctrl+X  (切り取り) [ハサミの形のX]

Ctrl+V  (貼り付け) [XとCの隣にある関連機能]

Ctrl+A  (全てを選択] [AllのA]

Ctrl+S  (保存) [SaveのS]

Ctrl+Z  (直前の操作のやり直し) [失敗をしてしまった時の最後の手段]

Ctrl+Y  (直前の操作の繰返し) [Zの前のYということで関連づけて]

Ctrl+F  (検索) [FindのF]

Ctrl+P  (印刷) [PrintのP]

Ctrl+N  (新規作成) [NewのN]

Ctrl+O  (開く) [OpenのO]
Ctrl+W (閉じる)  [Windowを閉じるのW]

Ctrl+Alt+Delete  (プログラムの強制終了) [丸暗記して!]
Ctrl+クリック (複数選択:複数のファイルを選択してそれらを一括処理) [クリック選択の応用1]
Shift+クリック (範囲で選択:さらに大量の複数ファイルを一括選択・処理) [クリック選択の応用2]

Shift+矢印  (範囲指定:マウスではうまくゆかない時に便利) [矢印の特別な使い方]

Shift+CapsLock  (全ての入力を大文字にする) [CapsLockの特別な使い方]
Tab (エクセルやWebの次の入力項目へ移動する) [ワープロと同じ感覚]
Tab+Shift  (エクセルやWebの前の入力項目へ戻る) [Tabの応用]
Alt+Tab  (アクティブウィンドウの切り替え) [画面をALTernateしてTab移動]

PrintScreen  (ディスプレイ画面全体のハードコピーをクリップボードへコピー) [そのままの名前]

Alt+PrintScreen  (アクティブウィンドウのハードコピーをクリップボードへコピー) [PrintScreenのバリエーション]

Windows  (Windowsのスタートメニューを開く) [そのままの名前]

Windows+D  (デスクトップを表示する) [DesktopのD]
NumLock  (テンキーの数字を入力できないようにする) [Number Lock]
PageUp  (ページ単位で上にスクロール)  [そのままの名前]
PageDown  (ページ単位で下にスクロール)  [そのままの名前]
F6  (ひらがな変換) [丸暗記]

F7  (全角カタカナ変換) [丸暗記]

F10 (半角英数変換) [丸暗記]
※さらにパソコンを快適に使いたい人は、「周辺部キーの打指固定とショートカットキー」 をお読みください。




快適にパソコンを使うための小道具

パソコンは内部の処理速度が速いことも重要ですが、人間が使うものである以上、人間とパソコンのインターフェイスである入出力装置の使い心地が非常に重要になってきます。








関連記事

周辺部キーの打指固定とショートカットキー

GmailとGoogle Calenderの作業効率を高める



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Microsoft Office Onlineトレーニング

この記事は、私のようにコンピュータには詳しくないヘタレが、それでもなんとかエクセルを使えるようになるためのオンラインガイドです。

ヘタレらしく、オンラインにあるリソースは、片っ端からリンクして使いまくるという他人任せのアプローチを取ります。というわけで、ど真ん中ストレートでMicrosoft Office Onlineトレーニング を使います。(ここにはパワーポイントなどのトレーニングもありますので、ヘタレの皆さん、どうぞお使い下さい)

授業では、Office 2003トレーニングコースのExcel 2003 を使います。(Excel 2007を常用する人はこちらをどうぞ)。

トレーニングには「演習」や「自己診断テスト」がありますが、最初はこれらは省略して下さい。まずは、だいたいエクセルではどんなことができるのかについての直観的な理解を得ましょう(この、たるんだ態度がヘタレにとっては心地よいのです)。

以下の(1)から(4)のトレーニングコースを順番にやっていって下さい。エクセルをよく知っている人は確認するだけで結構です。(4)まで終えたら、友だちを助けて上げてください。エクセルをまだ知らない人はゆっくり時間をとってやってください(で、残ったトレーニングは宿題ね 笑)。とにかく誰でもわからないことがあれば気軽に友だちやTAや私に尋ねて下さい。つまらないことから苦手意識をいだいてしまったら、もったいないですからね。

(1) 基礎から学ぶExcel2003入門(エクセルをほとんど使ったことがない人向け)

(2) Excel入門(エクセルをあまり使ったことがない人向け)

(3) Excelの印刷オプション(エクセルで作った文書を印刷したことがない人向け)

(4) Excelの優れた機能(エクセルをある程度使ったことのある人向け)




以下の(5)と(6)はグラフについてです。これについては、今後の授業でおいおいやってゆきます。時間のある時にやっておいてください。

(5) グラフI:グラフの作成法(グラフ作りの基本)


(6) グラフII:適切なグラフを選択する(グラフの表現力を上げるための工夫)









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『日経PC21』の薦め/エクセルの使いこなし

仕事のためにパソコンを使うための情報誌としては、私は『日経PC21』をお勧めします。この雑誌を毎月読んでおけば、仕事の上でのパソコンの使いこなし方は、だいたいのことはわかるようになるのではないでしょうか。


『日経PC21』のホームページには、「便利テクニック」として



があります。これらは非常に便利なガイドになっていますので、ぜひ活用して下さい。



特に「エクセルの技43」の中の以下の15は便利な技ですから、ぜひ覚えておいてください。

入力

セル操作




また、上にはあがっていませんが、以下のような使いこなしも覚えておくと便利かと思います。

■セルの中でも各種書式(フォントの種類や色、斜線や下線など)が使えることを覚えておくこと。

■セルの中で文章を改行入力するためには、Alt+Enterを使う。

■文字入力に伴う「セルの書式設定」についてきちんと理解しておく。特に「配置」と「表示形式」は重要。「配置」に関しては、「横位置・縦位置」の」「両端揃え」、「表示形式」に関しては「数値」の「小数点以下の桁数」や「負の数の表示形式」が重要。

■シートを方眼紙にする。左上の三角形をクリックしてシート全体を選択し、列の幅を適当に揃えて方眼紙を作る。複雑な表はこの方眼紙の任意のセルを結合して作る。

■「ヘッダー/フッター」に自動的に年月日や時刻を自動入力しておいて、印刷した時にどれがどのバージョンか混乱しないようにする。

このような技は、以下のような文書を作るときに重要になってきます。


カリキュラム(パスワード必要)




仕事を始めると、エクセルをある程度使いこなせることが前提となりますので、学生時代のうちにどうぞエクセルに慣れておいて下さい。


加えて、マイクロソフトが用意している「テンプレート」もうまく使えば便利かもしれません。









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LifeHackとGetting Things Done

学生さんから「パソコンなどを使いこなして生活を豊かにするための情報はどこから得ればいいのか」という質問をよく受けます。私自身、情報通とは言えませんが、"LifeHack"と"Getting Things Done"をキーワードにしておけばいいのではないかと思います。

ライフハック




どうぞ皆さんも、これらのキーワードで適当にググって、お気に入りのブログなどを見つけて、それをチェックしながらより快適な生活をおくる方法を見つけて下さい。







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2008年11月20日木曜日

J.バトラーの言葉

「裁くな。裁かれんがためなり」という言葉や、「アダムとイブは知恵の木の実を食べたがゆえに楽園から追放された」というエピソードを子どもの時に知ったとき、私は「どうして?」と思ってしまいました。「裁くことのどこが悪いの?裁かないと世の中無茶苦茶になってしまうのではないの?」「知恵をもち正邪を知ることのどこが悪いの?」と疑問をもってしまいました。

そのような子どもは、大きくなっても、うぬぼれや自己に対する過信をなかなかぬぐい去ることができませんでした。彼は「決めつけ」を「判断」と呼び、「見切りをつける」ことを英断と呼んで、自らの正しさをなかなか疑おうとしませんでした。彼はことばの力を信じていました。「ことばで全てが語れる」とまでは思っていないにせよ、可能な限りことばで明晰に語ることを、万人に対して要求するほどにことばを操る自分を偏愛していました。

そのような子ども=大人にはジュディス・バトラーの次のような言葉を贈りましょう。


もし私たちが自分そのものであると言うところの同一性が、私たちを把握できないかもしれず、同一性のカテゴリーの外部にこぼれ落ちてしまうような剰余と不透明性を徴しづけているとすれば、「自分自身を説明する」ためのいかなる努力も、真理に近づこうとして失敗してしまうはずである。私たちが他者を知ろうと務める際に、あるいは他者に自分が最終的、決定的には誰であるかを述べるよう求める際に重要なのは、絶えず満足を与え続けるような答えを期待しないことだ。満足を追求せず、問いを開かれたままに、さらには持続したものにしておくことで、私たちは他者を自由に生かすのである。というのも、生とはまさしく、私たちがそれに与えようとするいかなる説明も超えたものだと考えられるからだ。もし他者を自由に生かすことが承認に関するあらゆる倫理的定義の一部をなすなら、こうした承認の説明は、知に基づくのではなく、認識論的諸限界の把握に基づくことになるだろう。

ある意味で倫理的姿勢とは、カヴァレロが示唆するように、「あなたは誰か」と問いかけ、いかなる完全で最終的な答えも期待することなくそう問いかけ続けることにある。私がこう問いかける他者は、その問いを満足させるような答えによっては把握できないだろう。したがって、もし問いのなかに承認への欲望が存在するなら、この欲望はそれ自体を欲望として生かし続け、決してそれ自体を解消しないという義務を負っているだろう。「ああ、ようやく私はあなたが誰だかわかった」と言った瞬間、私はあなたに呼びかけることをやめ、あるいはあなたに呼びかけられることをやめてしまう。(81-82ページ)


非難は極めてしばしば、非難される者に「見切りをつける」行為であるだけでなく、「倫理」の名のもとに、非難される者に暴力を加える行為でもある。(87-88ページ)
以上、ジュディス・バトラー著、佐藤嘉幸,・清水知子訳(2008)『自分自身を説明すること―倫理的暴力の批判』月曜社より








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2008年11月18日火曜日

中学三年生向けの言語コミュニケーション力論

2008年11月19日に下関中等教育学校で三年生に講演をする際のパワーポイントスライドを掲載します。



内容は、「言語コミュニケーション力の三次元的理解」を簡単に説明して、その観点からの言語コミュニケーション力の育て方について述べるものです。


内容はかなり簡略化していますし、口頭説明にかなり依拠する講演になりますので、スライドだけで十二分にわかるとはいえないかもしれませんが、もしご興味があればご覧下さい。








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2008年11月17日月曜日

ジュディス・バトラー著、竹村和子訳(2004)『触発する言葉』岩波書店

生徒というのは、自分のいらだちをしばしば教師にぶつけます。それは例えば女性教師に対する「ババア!」という言葉だったりします。しかしベテラン教師は、そう言われても慌てず「そうよ、私ババアよ。さ、次の問題やろうか」と受け流したりします(おぎ・やはぎ流なら「ババアですけど、何か?」と返すことになるのでしょうか 笑)。この受け流しから私たちは何を学べるのでしょう。

「ババア!」という発話を「憎悪発話」(hate speech)の一例と考えて、ここではジュディス・バトラー(Judith Butler)の論考を導入します。


Locutionary act, illocutionary act, perlocutionary actの区別をしたオースティンにとって、perlocutionary actはやっかいな存在のようでした(How to do things with wordsを再読したいと思っているのですが、なかなか機会を見つけられません)。Illocutionary actが聞き手に自分が意味した言外の意味をほぼ慣習で伝えることができるのに、聞き手に一定の行動を引き起こそうとするperlocutionary actにおいては、聞き手がしばしば話し手が期待したようには行動しないからです。このギャップは、言語研究者としてはやっかいなものに思えるかもしれません。

しかしこのギャップ(隔たり)こそは、前出の「ババア」を無効化するどこか、罵倒しようとした者を逆に懐柔するベテラン女性の発話を可能にしていると考えられます。


たとえば「クイア(変態)」という語の価値が変わったことは、発話がべつの形で発話者に「返され」当初の目的とは正反対の意味となって引用され、逆の効果を演じる可能性をもつことを示している。もっと一般的に言えば、そのような語彙のなかに潜む可変力こそ、個々の一連の発話行為ではなっく、起源も目的も固定されず、固定されえない連綿とつづく意味づけなおしの儀式である言説がおこなう行為遂行性を特徴づけている。この意味で「行為」は瞬時の出来事ではなく、時間の地平をもつ繋がりであり、発話の瞬間を超えた反復の凝縮である。発話行為によってもとの文脈を意味づけなおすことが可能となるには、発言時の文脈や意図と、それが生みだす効果とのあいだに、隔たりがなければならない。たとえば脅しが当初意図したのと違う未来をもつには--つまり、脅しがべつの方法で語り手自身に返され、その過程で脅しが無害になるには--発話行為の意味や効果が、当初意図されていた意味や効果を超えたものになる必要があり、現在の文脈が発話時の文脈と同一のものでなくなることが(たとえ起源はあるにしても)必要なのである。(23-24ページ)


もう少し抽象的な言い方でまとめればこうなります。


発話行為の力を、その中傷の力に対抗するように再稼働させる政治的可能性があるとすれば、それは、発話の力をそれ以前の文脈から別の方向へと流用することである。その場合、発話がおこなう中傷に対抗しようとする言語は、中傷を再演せずに、中傷を反復しなければならない。(63ページ)


こうなりますと、言語の多義的解釈を積極的に評価すべきということになるのかもしれません。この点でバトラーはハーバマスを批判します。


ハーバマスの主張では、コンセンサスを得るには、語は単声的意味に対応しなければならない。いわく、「理解のプロセスにおける生産性が問題ないものでありつづけるには、それに参与するすべての者が、同一の発言に同一の意味を付与する相互理解の参照点を、しっかりまもっていなければならない」[補注:これはハーバマス(1997)『近代の哲学的ディスクルス』岩波書店に見られる発言だそうです)]。だがわたしたちは--「わたしたち」が誰であろうとも--そのように一度で意味を確定することができる集団なのか。政治の理論化において逆転のない状況を作っている意味論的領域に、はたして永続的な多様性というものはないのか。解釈をめぐる争いを超越して、同一の発言に同一の意味を「付与する」位置にいるのは誰なのか。またなぜそのような権威がもたらす脅威の方が、拘束を受けない多義的解釈がもたらす脅威ほど、深刻でないと考えられるのか。(136ページ)


こうしてみますと、「憎悪発話」(hate speech)でさえ、一概に検閲して排除するべきなのかというラディカルな問いが生まれてきます。


ある種の発話形態を排除することによって、語りえるものを生産するこの境界は、まさに普遍を仮定するときに起こる検閲を稼働させる。普遍を現存のもの、所与のものとみなせば、そのような普遍が仮定されるさいの、排除という行為を慣例化することになりはしないか。このようなとき、またこのようにすでに確立された普遍の慣習に頼る戦略によって、わたしたちはすでに確立された慣習の境界の内側で自足して、普遍化の過程を無意識に差し止め、それがおこなう排除を自然化してしまい、それをラディカルに変革する可能性をまえもって阻止することになりはしないか。(141ページ)


別にバトラーにしても「普遍」が悪いというのではないでしょう。「普遍」は、永遠に到達できない理念として私たちに省察をもたらすものであり、現時点あるいは過去のある時点で、実際に到達されたものではなく、未来のある時点で到達できるものでもないと考えるべきでしょう。柄谷行人の言い方を借りるなら(注)、「普遍」は「統整的理念」であり「構成的理念」ではないと言えましょうか。

ことばの意味を私たちは語り尽くすことができると考えることは、実は危険なことではないかとバトラーは警告します。


表現し尽くすことができると主張することこそ、わたしたちがすでにそうなっているものとは別物になる可能性を予め排除する(フォアクローズ)ことであり、つまりは、言語の内部で私たちが生きることができる未来、つまりシニファンが民主主義の再分節化に有用な論争の現場でありつづけるような未来を、予め排除することなのである。(195ページ)


かつてブルデューは、オースティンの理論に社会制度の権力についての考察が少ないことを批判したそうですが、しかしそのブルデューも、社会制度をあまりに固定的に考えていたとしたら批判されるべきなのかもしれません。


ブルデューは社会制度を静的なものとみなしたので、社会変容の可能性を取りしきる反復の論理を把握できなかった。社会制度を間違って、曲げて引き合いに出すことも反復とみなせば、いかに社会制度の形態が変化や変更を経験しうるかを知ることができるし、また先行の正統性をもたない形で引き合いに出すことが、いかに既存の正統的形態に挑戦し、新たな形態の可能性へと切り拓く効果をもつかを知ることができる。ローザ・パークスがバスの前方の席に座ったとき、彼女は南部の人種分離の慣習によって保障されていた先行的権利をもっていなかった。だが事前には権威づけられていない権利を主張することによって、彼女は自分の行為にある種の権威を付与し、既存の正統的慣例を転覆させる反乱のプロセスを開始したのである。(228ページ)


言語のperformativity(行為遂行性)を考えさせられる面白い本でした。

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(注)柄谷行人「埴谷雄高とカント」『群像』1997年四月号で、柄谷は「統整的理念」であり、「構成的理念」を次のように使い分けています。


埴谷雄高がカントに出会ったのは、転向においてである。転向とは共産主義という理念を放棄することだ。しかし、その意味では、埴谷は転向したと同時に、転向しなかった。つまり、彼は共産主義を構成的理念として放棄したが、統整的理念として保持したのである。カントがいう「目的の国」と同様に、それは将来の「無限遠点」にあり、実現されることはない。だが、この理念(超越論的仮象)は、たえず現在あるものを批判しそこに導く「統整的」な機能を果たす。埴谷がいう「永久革命者」――未来の無限遠点から現在を見る――の視点はそのようなものだ。この意味で、彼は一貫して共産主義者だった。そして、それ以外に、共産主義者でありうるかどうかは疑わしい。
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/karatani/gunzo9704.html







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2008年11月15日土曜日

佐藤俊樹・友枝敏雄(編)(2006)『言説分析の可能性』東信堂

「言説分析」とは何か。

この本で、橋爪大三郎氏は、この概念がフーコーに由来することを強調します。


言説(discourse, discours)とはフーコー独自の概念である。これにもとづく言説分析は、フーコーの一連の業績(『臨床医学の誕生』『言葉と物』『狂気の歴史』『知の考古学』『監獄の誕生』)を通じて練り上げられていった。
言説は、言語の形態の一種であり、中間的なまとまりをもった秩序である。言語のもっとも小さな単位は、言表(e'nonce')という。これは、社会学の最小の分析単位である行為にほぼ相当するもので、これ以上小さな単位に分解できない、ひとかたまりの発話や書字、行為(の記録)などをいう。これに対して、そうした言表が残らず集まった全体、ある時代・ある地域(社会)を満たしている言語的な活動の全体を、集蔵庫(archives)という。この両極の中間にある、何らかの秩序をもった言表の集合が、言説である。(「知識社会学と言説分析」 191-192ページ)


かくしてフーコー的な「言説分析」が日本の社会学においても隆盛するにいたりましたが、遠藤知巳氏は90年代以降、「言説」という術語によって社会学関係者が第一に想起するのはむしろ「構築主義」(constructivism)であると指摘します(「言説分析とその困難」 34ページ)。

しかし佐藤俊樹氏が「私の考える言説分析」として挙げるのは、フーコーにとどまらず、J.デリダ、F.A.キットラー、G.スピヴァク、J.バトラー、W.ベンヤミン、K.バークです(そして佐藤氏はそのような言説分析は「もはや少数派」であり、言説分析のフォーマライゼーション(制度化、あるいは健全化)によって「滅びる」と述べています)(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 5ページ)。

いずれにせよ、この「言説分析」に関する社会学者の論文を集めたのが本書です。以下、私にとって印象的だった箇所を引用し、それに駄文を加えます。

前出の佐藤俊樹氏が主張するのは、言説分析が、従来の「テクスト」概念のように「外部」を想定しないということです。


意外に聞こえるかもしれないが、本来、言説分析はテクストとかテクスト空間という概念とはあいいれない。いいかえれば、テクストとかテクスト空間という概念は、よほど慎重にやらないと、確定単位境界や特権的な観察者といった外部をすべりこませてしまう。
(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 13ページ)


つまり、言説分析も一つの言説である以上、特権的な高み(「外部」)に立つことができないのではないかというのが佐藤氏の見立てかと思います。


言説分析では一般に、積極的な根拠づけが成立しがたい。正しさの保障、すなわち認証は認証されるものの外部からなされる操作だからだ。それゆえ、言説分析では正しさを積極的に保証するという「真理」化が成り立たない。そして言説分析も言説である以上、それが何であるかも関係的にしか成り立たない。語った言葉がいかなる意味で発効するかを、語る者があらかじめ指定できないのだ。言説分析という語りをする者ももちろん例外ではない。
(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 15-16ページ)


かくして言説分析の「遂行性」が強調されます。


[他者の]力に開かれ、力を開いてしまう苦さを受け取りながら、それでも語らなければならない何かをもってしまうこと。言説分析とはそういう経験なのだ。
そこに言説分析固有の「遂行性 performativity」がある。言説分析は言葉を「遂行的」なものとしてあつかうだけでなく、それを通じて自らを「遂行的」でしかありえなくする。
(「閾のありか--言説分析と「実証性」--」 21ページ)



日本の「言説分析」への構築主義の影響を指摘する前出の遠藤氏も、言説分析を行なう者が、特権的に「客観的」な分析を行えるわけではないことを述べます。


社会の安易な実体視をあれほど強く批判する構築主義だが、やっていることは要するに、「社会は客観的に取り出すことはできない、だが社会に対する言説は客観的に取り出すことができる」という、「客観性」の一段ずらしであるということだ。「厳格派」にせよ「コンテクスト派」にせよ、ずらされた「客観性」の調達先がちがうだけで、この点については本質的な差異はない。
(「言説分析とその困難」 37ページ)


遠藤氏は構築主義の影響が強い現状の「言説分析」においては、フーコーのインパクトを思い出すことが重要であると主張します。


現在の社会学における言説概念の導入は、ミシェル・フーコーの歴史記述(考古学/系譜学)および知と権力の共犯をめぐるディスクール分析の手法がもたらした複数的な衝撃に負うところがきわめて大きい。フーコー理論やその言説概念が大衆的に平板化することで、現在の諸理論における「言説」の繁茂がもたらされたのである。
(「言説分析とその困難」 40ページ)


フーコーのインパクトも、上述の「遂行性」と読み替えられるものだったのかもしれません。


高度な反省的思考を駆動させながらも、あえて理論の平面上で展開せずに記述のなかに込めることで、記述自身を出来事化するといえばよいだろうか。ある意味で、フーコーの思考がもたらした最大の衝撃は、こうした記述の出来事性を出現させたことにある--それ自体を理論化しても意味ないが、それでも記述の臨界点に「ある」というほかのない何かとして。
(「言説分析とその困難」 44ページ)


遠藤氏は、言説分析の核心を、これまでの学的思考が素朴に前提していた「自らが全体を把握できる」という信憑を、多重的に解体することにあると述べます。


言説分析の生命は、通常の社会学的思考が素朴に前提している全域性への超越的視線を、多重的なかたちで解体することにこそある。全体性/全域性をどこかで信憑してしまったとたんに、それは本質的な意味を失う(いうまでもないが、「個別的」な言説の閉域に閉じこもればよいということではない(→3節を参照))。こうした多重的解体は、分析対象の事実的複数性によって駆動しながら、同時にそれを呑み込むよにして、記述自身の生々しい出来事化に果てしなく近づいていこうとする。
(「言説分析とその困難」 48ページ)


自らが扱う資料に何らかの「全体性」を読み込まないこと、かといって、資料を丹念に読む努力は怠らないこと、このあたりの緊張的なバランスが重要と言えましょうか。


われわれにできるのは、たまたま残された資料群の秩序を想定し、そこへの漸近を考えてしまうと、「資料体の(不可視の)秩序」自体が全体性の代補として機能してしまう。描き出そうとする形象の定義あるいは外延を予め密輸入することなしに、カヴァーするべき資料の「全体」を語ることはできないはずだからだ。資料を読まねば言説分析にならないが、全体性を信じて資料経験を積み上げていくような想像力のありかたは、やはり言説分析の衝撃力を弱体化する。
(「言説分析とその困難」 50ページ)


こうしますと言説分析は、多面的に展開する運動であるとも言えそうです。


言説分析の運動は、必然的に、閉じることのない多角形、読解/記述が進むにつれて面の数が増えていく多面体として出現することになる。ジャンルの本源的複数性は、あるべき閉じた分類一覧表上で見いだされるものとしてではなく、むしろ積極的に発散していく何かとして把握されている。
(「言説分析とその困難」 52ページ)



さて、ここから蛇足を加えます。私のルーマン理解に関しては、今回は特に大黒岳彦(2006)『<メディア>の哲学』(NTT出版)に依拠していますが、いつものように私は自らの誤解を怖れます。


「私たちはコミュニケーションの外部に出ることはできない。コミュニケーションに外部はない」というのはルーマンの論とも通底するかと思います。ルーマンの論では、社会を作り上げているのはコミュニケーションですが、そのコミュニケーションは近現代では様々な機能ごとに特殊化し、それぞれが他の特殊化したコミュニケーションを排除しつつ閉域を形成しています。これにより生じているのが機能的分化です。これはセグメント的な分化や中心/周縁的分化のような「水平的」分化でも、成層的分化のような「垂直的」分化でもない、いわば「次元的」分化とでも呼ぶべき新たな社会的分化です。

言説分析という言説も、そのように特殊化したコミュニケーションと考えることができます。言説分析というコミュニケーションは、もちろん他のコミュニケーションと独立しているわけではありません(それは他のコミュニケーションについてのコミュニケーションです)。しかし、言説分析とて、コミュニケーションの総体の中心に立っているわけではありません。だからといって周縁に立っているわけでもありません(「周縁」の設定は「中心」を含意します)。かといって、言説分析というコミュニケーションは、他のコミュニケーションの上層に立つこともなく、他の言説というコミュニケーションを「多文脈性」(Polykontextualität)の中で観察しているわけです。

「観察」(Beobachtung)というのもルーマンの用語です。ある特殊なコミュニケーション(言説)を産出(というより自己再生産)する「システム」は、ある「区別」(Unterscheidung, distinction)をもって対象を記述します。その「区別」によってある特定の事柄を「指定」(Bezeichnen, indication)するのが第一次観察です。

しかしその第一次観察を行なうもの(=一般的な言い方からすれば「者」、ルーマン的な言い方でいえば「システム」)にとっては、自分が使っている区別自体を観察することは困難です。通常、自分が依拠している区別自体は、自覚しがたい前提であり「盲点」となりがちです。

盲点になっている区別を吟味するためには、別の区別による第二次観察が必要となります。言説分析も、この第二次観察の一種と考えることができます。

しかしこの第二次観察とて、最終の絶対的な観察ではありません。この第二次観察も、第三次観察の対象となります。社会はこのようなコミュニケーションの連続の総体です。しかし誰もその総体を鳥瞰する特権的な高み(あるいは外部)に立つことはできません。

観察は対象に応じて、次の三つに分類されます。(1)機能:機能分化システムが社会全体を観察対象とするとき、(2)効能:機能分化システムが他の機能分化システムを観察対象とするとき、(3)反省:機能分化システムが自分自身を観察対象とするとき、です。(1)は例えば学問が、そのディシプリンに従って言説を産み出すことです。言説分析は、その言説を、その言説を産み出すシステムとは異なる機能分化システムとして、観察をすること(つまり(2)の効能としての観察)と言えましょうか。しかしその言説分析という言説とて、最終的な「真実」の陳述(constative)ではなく、それ自体が行為遂行(performative)に過ぎません。言説分析とて、他のシステムによる観察や、自分自身による自分自身の観察((3)の「反省」としての観察)を招くべきでしょう。

と、おそらくは的外れの駄文を加えましたが、この本で「言説分析」とは何かを考えることができました。英語教育研究でももしこれから言説分析が導入されてゆくのなら、こういった原理的考察はきちんとやっておく必要があるかもしれません。私も勉強を続けたいと思います。


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