2015年5月29日金曜日

山下桂世子先生による講演会 (「多感覚を用いたシンセティック・フォニックスと特別支援教育」)



■ シンセティック・フォニックスについて

一昨日(2015/05/27)、本学で開催された講演会「多感覚を用いたシンセティック・フォニックスと特別支援教育」とその後の討論会に参加しいろいろと学ぶことができました。講師は山下桂世子先生でした。とても魅力的な実演と、現場を知り尽くしたご発言から多くを学ぶことができました。



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Jシンセティック・フォニックス研究会

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山下先生は、Jolly PhonicsとJolly Grammarの公式トレーナーですが、このJolly Phonicsとはライセンス付きの名称だそうで、この種のフォニックスは英国では一般には、synthetic phonicsあるいはsystematic synthetic phonicsとして呼ばれているそうです。


講演では簡単に英国における読み書き指導の変遷が紹介されましたが、それによると英国では以下の様な変遷があったそうです。

(1) Look-and-sayの時代: 見て覚える「暗記」が主流
(2) whole-languageの時代:「言語はそのままとらえる」
(3) analytic(al) phonicsの時代:「単語を分解」
(4) synthetic phonicsの時代:「文字を合成」


日本で「フォニックス」として認識されている教授法も、「既習の単語を文字に分割していき、文字と音の関係を子どもたちが学習する」(配布資料12ページ)アナリティック・フォニックスであることがありますが、今回紹介されたのはアルファベット文字の「音読み」(「名前読み」ではない、実際の発音)を一つずつ丁寧に教えた上で、それらの文字を複数連続させた単語を統合 (synthesize)(別の表現ならblend)させて発音することを学ぶシンセティック・フォニックスです。


このシンセティック・フォニックスの指導法は、2008年に英国の教育省(Department of Education)から発行されたLetters and sounds: principles and practice of high quality phonicsでもまとめられているそうです。



Letters and sounds: principles and practice of high quality phonics



英国教育省はさらに2010年の教育白書の中で、systematic synthetic phonics(英国教育省はこの表現を使っています)が "the best method for teaching reading"であり、英国のどの学校でもsystematic synthetic phonics教育のサポートが得られるようにすることが肝要としています。


 Ensure that there is support available to every school for the teaching of systematic synthetic phonics, as the best method for teaching reading. (p. 11)



The importance of teaching: the schools white paper 2010
のページにある




英国教育省はこのsystematic synthetic phonicsに対してかなりの自信をもっているようで、systematic synthetic phonicsを、p.22-23では下記の文献32を示した上で"the proven best way to teach early reading"とも表現していますし、p.43では文献56を示した上で" the most effective way of teaching young children to read, particularly for those at risk of having problems with reading"とも言っています。


32 Camilli, G., Vargas, S. and Yurecko, M. (2003) Teaching Children to Read: the fragile link between science and federal education policy. Education Policy Analysis Archives, 11, no.15. http://epaa.asu.edu/epaa/v11n15/. National Institute for Child’s
Health and Human Development accessed 28th October 2010 http://www.nichd.nih.gov/health/topics/national_reading_panel.cfm

56 Ehri, L.C., Nunes, S.R., Stahl, S.A. and Willows, D.M. (2001), Systematic phonics instruction helps students learn to read: Evidence from the National Reading Panel’smeta-analysis, Review of Educational Research, 71(3): 393-447. Camilli et al (2003). Torgerson, C. and Brooks, G. (2005), A systematic review of the use of phonics in the teaching of reading and spelling; DfES. National Institute for Child’s Health and Human Development (2010). Torgerson, C., Hall, J. and Brooks, G. (2006), A Systematic Review of the Research Literature on the Use of Phonics in the Teaching of Reading and Spelling, DfES, University of York and University of Sheffield.


(Systematic) synthetic phonicsの有効性は、山下先生の実演付きの説明からもよくわかりましたが、英語圏である英国も、フォニックスの重要性を痛感した上で、analytic phonicsではないsynthetic phonicsをこれだけ推奨していることは大変印象的でした。



■ 日本で適用する場合の注意点など


英語圏の子どもがこれだけ英語の文字と音の関係に苦しみ教師も指導法を求めている中で、英国教育省がこれだけこの(systematic) synthetic phonicsを推奨していることからすれば、非英語圏での日本の英語教育でもこの(systematic) synthetic phonicsは注目すべきであることは言うまでもないでしょう。

講演でこの(systematic) synthetic phonicsの有効性に対して信頼を感じるようになった私としては、この方法を日本に輸入した場合に気をつけるべき点は何かということを考えました。

講演会の後の別室での討論会で、私はその点を以下の5つの質問で尋ねました。以下はその問答の要約です。


Q1:
教材であるFinger Phonics(http://jollylearning.co.uk/shop/finger-phonics-books/)などを見せてもらうと、シンセティック・フォニックスは、生活の中での子どもの身体実感を基盤にしていると考えられる。

例えば、多感覚 (multisensory)指導として、行動 (action) もフォニックス指導に取り入れているが、"a"の場合は蟻 (ant) を例に出して、肘の上に蟻がもぞもぞと這い上がってくるように指先を細かに動かしながらaの音を繰り返すとか、"m"の場合はお腹をさすりながら美味しいものを食べたという満足感を想像しながらmの音を繰り返すという例があげられている。

これらの行動が英語圏の子どもには身体実感を伴うものであることは間違いないが、蟻 (ant) という英単語を知らなかったり、満腹した時に"Mmmm"とは言わない日本語圏の子どもにとって、これらの行動は身体実感を伴いがたいものではないか?

A1:
その問題点がありうることは自覚している。今、この教材の日本語翻訳版を準備しているが、そこでは例えば蟻の場合は「蟻が這い上がっているのに気づいたので驚いて『アッ!』と驚きます」などと翻案して訳すなどの工夫もしている。また満腹した時の"Mmmm"の場合は、英語圏の人はそのような音声で満足感を表現するんだということをあえて異文化教育の題材として残すつもりである。


Q2:
フォニックスに伴う行動としては、生活上の実感だけでなく、発音(構音)の際の口蓋の動きを手で模写するなどの音声(学)的なものもありうると思う。特に日本語にない音の場合は、そのような行動を通じて、口蓋運動を自覚させることは重要ではないか。

A2:
その通りで、例えば"r"の場合、犬がタオルを噛んで引っ張りながら唸る絵を見せて、子どもに実際にハンカチなどを噛みながら発音することをさせる。こうすると舌先が口蓋に接触することがないのでrの発音がしやすい。

[これを受けての参加者(米国で英語のスピーチセラピストをやっていた日本人研究者)の発言: 米国でもrの発音ができない子どもにはよくそのように指導していた]。


Q3:
英語の場合は、一つのアルファベットの名前の発音(「名前読み」例えば"a"なら「エィ」)に対して、複数の発音(「音読み」例えば"a"ならいわゆる「アとエの中間音」など)があることが常態だが、日本語でのひらがな・かたかなではそれは例外的である。

もちろんその例外を示して、例えば「私は」をわざと"watashiha"と発音して子どもの笑いを誘った上で、一つの文字に対して複数の文字があることを自覚させることもできるが、いかんせん日本語話者は文字と音の一対多対応に慣れていないので、フォニックスそのものをなかなか理解できない子どももでてくるのではないか?

A3:
私も「ははは(母は)」をわざと"hahaha"や"wawawa"と発音して子どもにその点を自覚させたりしている。

だが漢字の場合だも、例えば「一」(いち)と「人」(ひと)を合わせて「一人」(ひとり)と発音するなどの現象があるから、実は一つの文字が複数の読み方をもつことは、日本語話者にとってもそれほど奇異というわけではない。私の実践でも、丁寧に教えれば日本語圏の子どももフォニックスの原理を体得してゆく。

[その答えを受けての柳瀬の追加発言:日本語のそういった側面に注目させることは、狭義の「英語教育」を超えた言語教育としても重要だと思う。


Q4:
英語圏の子どもは、たとえ他国からの移住者の子どもですらも日頃からアルファベットを目にしているのだから、アルファベットの識別や書写(複写)にはそれほど大きな問題を抱えていないと考えられる。だが、日本の子どもにとってアルファベットの識別や書写は大問題である。シンセティック・フォニックスはこの問題に対応できるだろうか?

A4:
シンセティック・フォニックスの特徴の一つは体系性であり、例えば最初はアルファベットの小文字とその「音読み」しか扱わないし、その導入順序にもさまざまな工夫が凝らされている。

また、先ほどの質問にあったアルファベットの名前読みと音読みの間での混同を避けるためもあって、名前読みの導入は、小文字とその発音について十分に習熟した後に、大文字を教え始めた時に行うなどもしている。

もちろん日本の子どものアルファベット識別や書写に対する十分な配慮は必要だが、それはよく考えぬかれたカリキュラムにより対応できるのではないか。


Q5:
今回の講演ではシンセティック・フォニックスの多感覚性を強調し、子どものさまざまな個性には、さまざまな感覚で子どもに訴えかけていることがわかり、私もそれは実践上有効だと思う。

だが、それは言ってみるなら"multisensory integration"であるべきであり、文字・音・単語・生活・身体実感などが統合的になっていないと、子どもによっては多彩な刺激にかえって混乱してしまうこともあるのではないか?

A5:
それもその通りで、私も授業では毎回活動の順番を決めて、場合によってはその順番を黒板に書き、生徒にそれぞれの活動に集中させて学習の狙いを達成するようにしている。シンセティック・フォニックスの中でもJolly phonicsは多感覚やストーリーなどを取り込む点で非常に優れているので、それらを統合的に豊かに学んでほしいと思っている。



質疑応答の概要は以上です。大変勉強になった講演会と討論会でした。討論会には特別支援の研究者や英国教育事情の研究者も来ていたので、そういった方々の発言からもいろいろと学べました。

上記の質問からもわかるように、私は外国の教授法をそのまま輸入するだけで物事がすべてうまくゆくとは思っていませんが、これだけ英国で評価が高い方法から日本の英語教育界が学ばない手はないと思います。これからシンセティック・フォニックスに注目してゆきたいと思います。



追記 (2015/06/02)

山下佳世子先生も広大での講演の様子についてブログ記事を書かれました。どうぞお読みください。



追追記 (2015/11/16)

上記講演会の資料が公開されました!
『多感覚を用いたシンセティック・フォニックスと特別支援教育』の資料が公開されました
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/11/blog-post_16.html







大修館書店『英語教育』(2015年6月号)の書評(『小学校からの英語教育をどうするか』)および生産的・建設的な批判についてのダニエル・デネットの見解について




大修館書店『英語教育』(2015年6月号)に拙著(『小学校からの英語教育をどうするか』、以下「本書」))が掲載されましたが、この書評は著者の一人として大変ありがたいものでした。

「ありがたい」といっても、それは肯定的評価をしてもらったから、といった単純な理由ではありません。確か武術家の甲野善紀先生のことばだったかと思いますが、「理解されていない相手からの褒めことばには困惑するだけだし、それが大げさなものであれば、とても愉快には思えない」といったものがありました。

この大修館書評は、本書を正確に理解した上で、その問題点(足りないところ)を的確に指摘してくださっているので、正確な読解に基づかないままのコメントが少なくない昨今においてはまさに「有り難い」ものとして感謝している次第です。

また、この書評は、先日私がたまたま読んだ、現在、自然科学者を含めた一般読者からもっとも信頼され尊敬されている哲学者の一人であるダニエル・デネット (Daniel Dennett) による生産的な批判的コメントの出し方とも合致しているように思えました。ですから、ここではこれを機会に、生産的あるいは建設的な論争を行うために必要なことを本書への評を題材にしながら確認し、最後にネットと出版や学会活動についての愚考を加えたいと思います。



■ 生産的・建設的な論争をするために必要なこと

デネットの "How to compose a successful critical commentary" については、学術や芸術について良質な記事を提供してくれているBrain Pickingsから知りました。このサイトは有益なものと思いますので、ご興味のある方はぜひ適切な手段でご購読ください(無料ですが、寄付を歓迎しています)。



How to Criticize with Kindness:
Philosopher Daniel Dennett on the Four Steps to Arguing Intelligently

Brain Pickings

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以下が、その記事の主要部分です。


How to compose a successful critical commentary:

1.  You should attempt to re-express your target’s position so clearly, vividly, and fairly that your target says, “Thanks, I wish I’d thought of putting it that way.

2.  You should list any points of agreement (especially if they are not matters of general or widespread agreement).

3.  You should mention anything you have learned from your target.

4.  Only then are you permitted to say so much as a word of rebuttal or criticism.


念の為に読みやすさを優先させた拙訳を提示しておきます。


1 批判しようとする相手から「ありがとう。そう言いたかったんです」と言ってもらえるぐらいに、相手の立論を明晰に、活き活きと、そして公正に言い直せるように努力せよ。

2 批判しようとする相手と同意できる論点を列挙よ(それが一般的に、あるいは、広い範囲の人々の同意を得ていないようなことである場合には、特に)。(注)

3 批判しようとする相手から学ぶことができたことをすべて述べよ。

4 反論や批判のことばを一言でも発する資格が得られるのは、以上の三つを終えてからである。

(注) この2の(  )の部分の翻訳は、ブログ記事の下のコメント欄にあるRoof様のご指摘を受けて本日訂正しました。Roof様の親切なご指摘に感謝します。(2015/06/02記)

もちろん現実世界では、批判を展開する際にも時間や紙幅の限界がありますから、上記の1~3を十二分に行うことなどできません(十二分に行おうとすれば批判対象の文章以上の分量の文章を書かねばならない(!)とすらいえるかもしれません)。

しかし、デネットが言いたいことは、「批判の前にまずは正確な理解が必要」ということでしょう。彼は、アメリカでは激烈・過激になりがちな進化論などの論争を経て、なおかつ一般読者の信頼と尊敬を得てきた人ですから説得力があります。



■ 大修館書店書評について

この点、今回の大修館書店『英語教育』の書評は、本当に「有り難い」ものでした。まず、書評者は(ここではウェブ上での不要の騒ぎを避けるため、念のため名前を伏せてX先生としておきます。知りたい方は同誌をごらんください)、元文部科学省官僚で現在はとある大学で英語教育の研究活動をおこなっていらっしゃる方です(私は10年ぐらい前に一、二度お会いしたことがあります)。

文科省で以前勤務なさっていたという履歴からするなら、X先生が、とにかく文科省の政策に安直な反対や批判を続ける書を評価することは決してないでしょう。同時に、X先生は現在は文科省を離れていますので、現役で文科省に在籍している時よりは「立場」(関連記事:安冨歩 (2012) 『原発危機と「東大話法」―傍観者の論理・欺瞞の言語―』 明石書店 )から自由に発言ができるでしょう。この二つの意味で、文科省の政策に対して批判的な本書を書評するには、X先生はまさに適任だったといえるかもしれません。

実際、私は本書を書く際に「文科省や政権与党の人にさえにも読んで考えてもらえるような批判を書こう」という目標を立てていました。ですから、今回のような書評者の人選をしていただいた大修館書店『英語教育』編集部には感謝しています。

そのX先生は、本書全体に対して「この書は単なる批判に終わらせず、小学校英語教育を含む英語教育が依拠するべき理念を示そうとしている」と評してくださいました。理論編である第1・2章に対しては「出色なのは、理論に裏付けられた説得力」であるとし、実践編である第3章に対しては「小学校英語教育の現状に失望を覚えた読者も、第3章で紹介される実践例に救われる思いを抱くだろう」と肯定的に評価していただきました。著者としては嬉しい限りです。

しかし冒頭に述べたように、私としては肯定的に評価されたから喜んでいるのではありません。X先生が本書を丁寧に読み、かつこの書評を丁寧に書かれていることが、書評のはしばしから伺え、かつ最後に本書の問題点・限界を提示してくださっているから私としては嬉しく思っています。つまり、デネットの1~3の点(「批判対象を正確に読解していることを的確な表現で伝える」、「同意できる点を伝える」、「学べた点を伝える」)をきちんとなさってくださった上で、問題点を指摘してくださったので「有り難く」思ったわけです。

ちなみにX先生が指摘する本書の問題点とは、本書が「反省的実践」の重要性を訴えるわりには、小学校英語教育における反省的実践をどのように行うべきかの具体的提言が少ない、というものです。これは、書評を読んだ瞬間、私も「あっ、そうだった」と反省させられました。

これが「具体的なノウハウが少なすぎる」といったよくある批判(あるいはざっくりとした表現)でしたら、「研修会で学んできた授業をそのまま実行しても、まずうまくいきません」(本書21ページ)、つまり言い換えるなら、「あまりにも多くの要因が絡む教育現場の問題が一つ(あるいは少数)の処方箋で解決することはない」(関連記事:5/17講演のスライド、および、「処方箋が与えられることでなく、反省的実践を積み重ねることこそが必要だ」)という主張を本書でも展開している私としては、「いや、具体的なノウハウを教師に与えることが必要だとして、教師を受け身の存在にしすぎていること自体が問題だと本書で主張しているのです」と反論したくなります。

しかし今回のX先生の書評は、「本書が言うように、反省的実践の繰り返しこそが小学校英語教員を育てるのであれば」と本書の主張を(必ずしも完全肯定ではないにせよ)仮説的に認めてくださり、「現職教員研修は「小技」を伝授する場でなく」とまさに著者が「ありがとうございます。そう言いたかったんです!」と感謝したくなる言い換えをされた上で、それならば「その面での提案がもう少し具体的になされてほしかった」と注文を出しています。そうなると、上記のようなざっくりとした表現による批判は予期していた私も、「あ、そうだ。そこまで踏まえた上での提言はしていなかった」と反省させられました(この反省点は今後の課題にします)。




■ 生産的・建設的な論争のための出版や学会などについて

それにしてもデネットが言うような丁寧な作法で批判を行うことは容易ではありません。ネット文化は誰もが発言をすることを可能にしましたが、匿名や短文が好まれがちな現状では、批判対象を痛罵することが流行っているようにも思えます。また、ネットでは論争は果てしなく続くこともありますが、猪子寿之氏の「ネットはしつこい方が勝つ」という言葉(確か今年元旦の『ニッポンのジレンマ』での発言だったと思います)が正しいとすれば、ネット上での論争は、瑣末な論点に拘ったものになりがちで、生産的・建設的な論争を行うことが(不可能とまでは言わないものの)困難なのかもしれません。

そこで再評価されるべきは、今では古いメディアと思われがちな出版や学会といった制度ではないでしょうか。

出版では、原則として匿名は認められず、原稿は編集者(たいていは複数)によって注意深くチェックされます。そのチェックに基づき著者は何度も書き直しを行います。出版社としては、変な原稿を出してしまえば自社の経営上の問題につながりますから、チェックは丁寧に行われます(もちろん、訴訟沙汰もいとわず爆弾発言をウリにしているような出版社があれば別でしょうが、まあ、それは例外です)。

経営と言いましたが、お金が関わるということも近代社会では重要なことだと思います。出版社で働く方々は、その出版活動で生活をしているわけですから、出版される書物・雑誌に書かれる文章に対しては真剣にならざるをえません。著者は、文筆活動だけで生計を立てている方はもとより、他の本業があって執筆している人も、原稿料という形で金銭の授受がある以上、それ相応の責任を感じざるをえません。それがたとえ巨額でなくわずかのお金であろうとも、近代社会ではお金が関わることによりそれだけ責任が大きくなります。このことのプラスの面は忘れるべきではないかと思います。

もちろんプラスがあればマイナスもあるわけで、出版はお金が絡むだけに、執筆への参入障壁が大きくなってしまいます。その点、自分が書いた文章を広範囲の人々に読んでもらうことを可能にした自由なネットというメディアは、私たちの文化を豊かにしたと言えるでしょう。

しかし自由で無料のネットがあるから有料の出版物は要らなくなるだろうというのは短絡でしょう。「お金を出して読むだけの価値がある文章」を出版することは、文化の質の担保と向上のためには必要なことと考えられるからです。

逆に言うなら、もし出版社が、ネットの文章をそのまま印刷するような安直な本ばかり出すようになれば、出版は必ず衰退するでしょうし、またそのような「出版」なら衰退すべきとも考えられます。

さらに金銭の授受はほとんどないものの、個々人が実名で自分の名誉をかけて発言・執筆し、学会は学会の名誉をかけてその発言・執筆の場を整備する学会における言論活動というのも、文化の質を向上させるには、やはり重要かと思います。学会には学会のさまざまな問題がありますが、やはり学会というメディアは重要なものかと考えます。

と、話が大きくなりすぎましたが、ネット文化の創成期であった1990年代後半ならともかく、出版や学会などを一概に「古い」と切って捨てることは、そのこと自体が「古い」ことかと思い、この文章を書きました。

自由なネット、金銭授受がある出版、名誉をかけた学会活動といったさまざまなメディアがこれからうまく共進化していくよう、私たち一人ひとりが努力すべきかと思います。





 





 関連記事

『小学校からの英語教育をどうするか』に関するウェブ上のコメントについて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/05/blog-post.html

柳瀬陽介・小泉清裕 (2015) 『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/03/2015.html


2015年5月27日水曜日

「質的な実践研究における非合理性・自己参照性・複合性」のスライドとレジメ



5/30(土)の午後に東洋英和女学院大学六本木キャンパス 大学院201教室 (東京都港区六本木5-14-40)で開催される「英語教育における質的研究ワークショップ」(JACET言語教師認知研究会と外国語教育質的研究会の共同開催)で、私は講演(「質的な実践研究における非合理性・自己参照性・複合性」)をさせていただきます。

さきほどようやくその投影用スライドと配布用印刷レジメができました。ダウンロードできるように、このブログでも公開しますので、ご興味のある方は御覧ください。






ワークショップの詳細については、http://www3.plala.or.jp/sasageru/ELTqualitativeresearch0530.pdf  をお読みいただきたいのですが、下記のような構成となっており、私の講演はさておき(苦笑)、大変面白そうなグループディスカッションとワークショップが予定されておりますので、ぜひ皆様お越しください。


■講演 (全体)
 柳瀬陽介(広島大学) (聞き手 笹島茂)
「質的な実践研究における非合理性・自己参照性・複合性」

■ グループディスカッション(全体)
髙木亜希子(青山学院大学)(課題設定)      
「質的研究におけるreflexivity(再帰性)について考える」

■ ワークショップ(同時進行)
(1) 宮原万寿子(国際基督教大学)(コーディネーター) 
「A dialogue on theoretical and methodological issues in narrative studies」
(2) 飯田敦史(群馬大学)(コーディネーター)
「Literacy Autobiographies as Research: Theoretical and Methodological Issues」
(3) 東條弘子(順天堂大学)(コーディネーター)      
「教室談話分析の方法と実際」
(4) 武田礼子(青山学院大学)(コーディネーター)   
「会話分析で英語学習者の発話を分析する」








追記 (2015/06/03)

この講演の直前の週の授業は特別編成授業で、週二回私の授業がありました。ただでさえ予習の量が多い私の授業を週に二回もやるのは酷かなと思い、学生さんに週に二回目の授業は通常授業がよいかそれとも(予習のいらない)特別授業がよいかと尋ねたところ、後者という答えが返ってきたので、その時間、私は学生さん相手に上記の講演を行いました。

私は特に口頭言語では、聴衆の理解を得るために、聴衆の興味を引きそうな例をよく使いますが、この時は少林寺拳法をずっとやっていた学生さんがいたので、武術(合気道)の例を使いました。以下はその学生さんによる感想です。


今回の授業では、質的研究や授業実践などにおける非合理性、自己参照性、複合性について教わった。先生による合気道の例が一番自分にとってしっくり来たので、私も大学でやっていた少林寺拳法と照らし合わせて今回の授業を振り返りたい。

<非合理性>
「非」と「反」は紙一重であると思ってしまうことがあり、「非合理的」という文字のみを見ると悪い印象を受けていた。しかし「割り切れないもの、割りきって説明することが困難なもの」と考えると、世界ではむしろ非合理的な事象の方が多いように思われた。

例えば柔法(掴まれる攻撃に対して抜く、相手を投げるなど)を指導される際、よく「『いい感じのところ』で~して」と指導されることがあった。自分の感覚でしか相手が倒れるタイミングを見極めることはできないからである。自分が指導する立場になった時もその「いい感じ」を正確に説明することができず、数をこなすことで感覚を体に染み込ませてもらっていた。

一方で、少林寺拳法には理論も存在する。少林寺拳法はどのように・何のために創設されたか。当て身の要素とは。なぜ力が必要なのか。身体で覚えることも大切だが、このように成文化された理論も理解しておかなくてはならない。理論がわからなければ効果的に技を修得することができない。仮にできたとしても、力の使い方を誤り他人を傷つけることがある。おそらく、どのスポーツも合理的なもの(理論)と非合理的なもの(実践)で成立している競技なのではないかと思う。


<自己参照性>
少林寺拳法は、教わる先生によって方法が違うことが多い。時には完全に矛盾していることさえある。先輩に相談した際に受けたアドバイスは、自分のやりやすい方法を真似ることであった。その先生ご自身も、色々なやり方を教わった上でその方法を選択している。すべての方法を鵜呑みにすることは到底不可能である。教わった方法を大学の道場に持ち帰り、自分であれこれ試してみる。すると、自分の体格や身体的特徴にしっくりくる方法が必ず見つかる(しかし他の方法も頭の片隅に置いておき、後輩の指導に用いることもある)。


<複合性>
ヒトの身体はただでさえ複雑なのに、個人によって特徴があまりにも違う。私が技の練習で難しさを感じるのは、主にこのことが原因であった。本当にスタンダードな方法をAとすると、A'にしないと効かない人がいる。時にはBやCを使わなければならないことさえある。

例えば、私は肩と肘が非常に柔らかい。そのため、私には肩を固定したり腕の急所を捉える技はほとんど効かない。その場合はバランスを崩されたり、同時に別の急所を捉えることで落とされることが多い。このように「絶対に」効く方法など存在しないため、一つの技について何パターンもの落とし方を教わってきた。先輩や監督のように絶対的な答えがない問題に対して多くの引き出しを持っている人は、試行錯誤を重ねて本当に学んできた人だと思う。

授業の中で、「真似れば誰にでも同じ効果が期待される方法など存在しない」という言葉が印象的であった。当たり前のことであるが、上手くいかない時はどうしてもそれを追求してしまう気がしたからである。しかし、「最低限これをしなければ絶対に上手くいかない」ことは存在すると思う。部活では、どの技においても自分の体勢をキープすること、手足だけでなく腰など体幹を使って攻撃することの大切さを耳にタコができるほど聞いた。

上記のように、世の中には一つの問題に対しいくつも正解があり、私たちはその一つを選択しているにすぎない。しかし、それは最低限のことができた上で成り立つこと。基礎が補完できていなければ、どれを選択しても不正解になるのではないかと思った。



2015年5月23日土曜日

『小学校からの英語教育をどうするか』に関するウェブ上のコメントについて



この度、ニックネーム「英語教師」さんから、拙著『小学校からの英語教育をどうするか』(以下「本書」)を読んでのブログ記事を書いたとのお知らせを受け、そのブログ記事を読ませていただきました(私はその方の実名を存じ上げておりますが、ブログにはその実名が少なくともすぐにわかるような形では書かれていないのでここで実名はあげません)。著者としては本当にありがたい読者に恵まれたと思いましたので、ここにその簡単な紹介をします。

また、私はこれまで本書がブログなどでどのように評価されているかを調べたことがありませんでしたが、これを機会に簡単に調べてみました(検索語「小学校からの英語教育をどうするか」+「岩波」でグーグルを使用し、最初の10ページのみを見る)。書店や図書館などの書誌情報だけと思われるもの、および著者としてあまりに面映ゆく思われた感想は除いて、以下に簡単に紹介させていただきます。批評のあり方、英語教育の考え方にとって有益と思われる箇所を中心に言及しますので、よろしかったら以下をお読みください。




 「英語教師」さんによる
英語教師の研修ノート


英語教師さんは、この本が、「自分の実践について考えさせられるメッセージにあふれたもの」であるがため、「短時間で読み飛ばせるような軽い本ではありませんでした」と記事の冒頭で述べています。

この本は岩波ブックレットの1冊で、全体で63ページという、非常に手に取りやすい薄い本ですが、その内容は決して短時間で読み飛ばせるような軽い本ではありませんでした。読みながら自分の実践について考えさせられるメッセージにあふれたものでした。

これは著者としては本当にありがたい感想です。私は「岩波ブックレットは、たとえ薄い本であれ、それなりの内容をもつべきものであり、一度速読したらもう二度と読み返す必要がないような軽い本であるべきではない」と考えていたからです。ですから、私は読者にいろいろなことを想起して考えていただけるような仕掛けを随所に盛り込んだつもりでした。

しかし、その狙いも次のような「英語教師」さんの述懐を読むと欲張りすぎたのかもしれないとも思えます。

印象的だった部分に線を引きながら「精読」を2度してみましたが、線を引いた箇所があまりに多くなったので、まとめをどうすればいいか悩んでしまいました。

ですが、ここからが本当によい読者に恵まれたと私が感謝せざるを得ない点なのですが、「英語教師さん」は、そこから「下線部を再度読み返す→その中で厳選したものに数字をつける→それでも22箇所になったのでさらに再読しさらに強く響く箇所を選ぶ→5つの論点にまとめる」という作業をして、ブログ記事を書いてくださいました。

こういった繰り返しの読解と論点の再構成というのは、学術書を読むときに行う方法でしょうが、その方法を本書に対して行ってくださったことに対しては感謝の他ありません。そういったように繰り返し読まれることを著者としては望んでいたからです(同時に、あまりに内容を詰め込みすぎたのかという反省の念も浮かびかけていることは上に述べた通りです)。

「英語教師」さんが、まとめてくださった5つの論点は以下の通りです。詳しくは実際のブログ記事(および本書)を読んでくださらないとわからないかもしれませんが、本書の狙いを的確にまとめてくださっていますので、ここにその論点だけを掲載します。

(1) 私たちが教育で目指すところは何か。(テストの得点だけを指標とできない。)
(2)  客観試験(テスト)の得点と実際のコミュニケーションは異なることを意識しておこう。
(3)  本書の主張(これからの英語教育再創造の指針)とは?
(4) 「引用ゲーム」で終わらず、「自分の考えを自分の言葉で伝えること」
(5)  授業の方法論について、もっと研修しよう。

特にありがたいのは、(2)の論点が(1)を踏まえたものであることを理解してくださっていること、および、(3)の論点を理解してくださった上で(4)と(5)について考えてくださっていること、です。

(2)の論点の中でも特に「客観試験(テスト)批判」の部分だけを取り上げて反論される方は時にいらっしゃいますが、「英語教師」さんは著者の意図を読み取ってその論点を(1)の論点と結びつけて、さらに(3)以降の論点につないだ読解をしてくださっているので、大変にありがたいです。

また、主に第一章と第二章を担当した著者として私が一番力を入れていたのは(3)の論点であり、そこを本書の核としたことも私が意図していたことですが、そこを理解してくださったことも嬉しい限りです。

著者として何より嬉しいのは、著作を的確に読解してもらえることだということを再認識しました。「英語教師」さんには心から感謝します。







ある方の、ある公開ウェブ媒体(SNS)でのコメント


本書は、薄い割には濃い(あるいは重い)本であることもあり、ともすれば「理屈が多すぎる」といったコメントが寄せられるかと思いますが、その当時私と面識がなかったある方は、ある公開ウェブ媒体(SNS)で本書に関して以下のように書いてくださっていました。後日、私はその方とSNSでつながり、許可を得ましたので以下の部分を転載します。


本書に対して、「小学校の英語教育について述べるだけなのに、近代とか資本主義とか身体とか話が大きすぎる」といった批判もあるようだが、教育関係者にとって必要なのは、むしろまさに本書が行っているように、教室での学習-学校のカリキュラム-これからの社会像をつなげて考えられることではないか。

(中略)

英語教育について論じるときにはどうしても「英語教育」の枠内での議論にとどまりがちだけれど、小学校での学習の全体像に注目し、それとの関係で英語教育のあるべき姿を論じているのもよかった。


私が本書に込めた狙いを非常に的確に表現してくださっていたので、私は知己を得た思いでした。

「理屈の多い」第二章は、教師の方々にも一般市民の方々にも、「いかに公教育が近代社会の潮流の影響を受けているか、そしてもし近代社会に歪みがあるとすれば、公教育はそれについて何を(直接的でなく、学びを通じて間接的に)することができるか」、を考えていただくために書いたものです。

世間では「要は『語学』なんだから、理屈はいいからとにかく具体的なやり方を示しなさい(そして目に見える結果を出しなさい)」といったコメントがよく見られます。しかし、私はそれではいろいろな意味で公教育は成立しないと考え、多くの文章を書いています。教育の公共的側面を考えるためには、もちろん社会について考えなければなりません。そのために私は本書に「理屈」を書きましたが、その狙いを理解してくださった上の方に対しては本当に感謝しています。






寺沢拓敬氏(応用言語学者)の書評
YAHOO!JAPANニュース


上で述べた、「語学には難しい理屈はいらず、とにかく鍛えて結果を出せ」といった考えは、本書の用語でいうなら「トレーニング中心主義」となるでしょう。本書ではトレーニング中心主義の限界を指摘した上でその批判しています。その論点からの書評を書いてくださったのが寺沢拓敬氏です。

寺沢氏は本書のその部分を短く的確にまとめてくださっています。

著者らがトレーニング中心主義に対し批判的な理由は明快である。つまり、トレーニング中心主義は公教育の理念と反している、ビジネスパーソンや軍人ならまだしも、児童・生徒に押し付けてはいけない、というものである。

一方、著者らがトレーニング中心主義に対置するのは、感情・身体・思考を統合した状態での外国語学習である。トレーニング中心主義では感情、身体、思考がばらばらに扱われてしまい、それは公教育が保障すべき豊かな学びを阻害するものである、と。

その上で寺沢氏は、上記のような批判方法とは別の批判方法があると指摘します。その論法は、上記のような「語学=トレーニング」論に基づき、「仮に「学校英語教育は英語のトレーニング、それ以上でも以下でもない」という主張(いわばトレーニング中心主義の強い型である)を認めてしまうと、様々な点で論理的矛盾が噴出してしまい、当初の主張は瓦解してしまう、よってダメだ!といったタイプの批判」です。

これについてはぜひ寺沢氏のブログ記事を読んでいただきたいですし、場合によっては寺沢氏の著作(『「なんで英語やるの?」の戦後史 ——《国民教育》としての英語、その伝統の成立過程』 および『「日本人と英語」の社会学 −−なぜ英語教育論は誤解だらけなのか』 )を読む必要があるかもしれませんが、私としては新しい視点を得られ啓発されました。

実は私は2013/14年冬、2014年夏、2014/15年冬と体調を崩し、春と秋も学内の行政仕事などに追われて、ここしばらくきちんと読書ができていませんでした。寺沢氏の本も読めないままになっていますので、これらはいつか読んでその感想をこのブログに掲載しようと思っています。

ちなみに先日発刊された『総合教育技術2015年6月号』(小学館)での寺沢氏の記事「社会の実態を正確に把握しエビデンスに基づいた教育を」は見事でした。上記の論点は「【図3】英語教育のトリレンマ」としてまとめられています。

また、そもそも受験者層が国によって異なるTOEFLやTOEICのスコアをもって「アジアで英語をしゃべれないのは日本人だけ」といった主張は、対象者を(原則として)ランダム抽出した「アジア・ヨーロッパ調査」(http://www.asiaeuropesurvey.org/index.html)によると否定されるとした「【図2】英語力保持者の割合」は、英語教育をめぐる論争で必ず参照されるべきデータとも思えます。

寺沢拓敬氏が英語教育界に新風を巻き起こしていることについては私も注目しており、2009年に私がコーディネータを務めたシンポジウムにも登壇していただいたり、論文についても言及したりしていましたが、寺沢氏を一躍世間に知らしめることになった上記二冊については上のような事情についてまだ読めてもいない状況です。これについては必ず読んで私なりの感想をこのブログに書くつもりです。






ある私信から


「公教育としての英語教育」についての話になりましたので、その流れでついでながら紹介しますと、ある方からいただいた本書に対する私信の中で、ぜひとも皆さんと共有しておきたい箇所があります。幸い、その方からは転載許可をいただいたので、ここで公開させていただきます(ブログでの読みやすさのため、改行を追加しています)。


ここまで書いてきてさらに思うのは、私達が本当に「心を含めた教育の価値」をどこまで信じ切ることができるかということが問題なのだということです。

受験英語批判の定番は、考えない教育、感じない教育、無味乾燥の教育であるというものです。それに対する反動として、コミュニケーション主義というものがあったはずなのに、コミュニケーション主義もまた、近代主義と日本人特有というべき潔癖主義がわざわいして、それを数値化し、パッケージ化しようとしています。TOEFLだとかTOEICとかの外部試験を重視せよ、といっている人たちは何のことはない、受験英語を信じている人たちと、思考上は同型です。

しかし、こういう一種の客観主義でない教育の価値を信じてもらうためには、ある種の具体的なイメージが必要だということですね。そういう教育が最終的には英語学習にも寄与することになる、ということを、まだまだ私たちは伝えていないというように感じています(学校内部においては、それなりに共有されているのかもしれませんが)。誰にとってもむずかしいことではありますので、これは無い物ねだりですが。


数値で割り切れない部分の教育(成果)をどう当事者以外に伝えてゆくかというのは公教育にとっては非常に重要な問題です。これについては、質的研究の成熟も含めて関係者が課題としなければならないところです(ちなみに私は5/30(土曜)の「英語教育における質的研究ワークショップ」では、「目的に応じて量的研究も質的研究も使い分けることが当たり前であって、それをことさらに"Mixed Method"などと呼ぶ必要はないのではないか」といった主張も含めた対談式講演を行う予定です)。







教職ネットマガジン
(株式会社 福分堂)
今週の一冊



話を、ウェブ上での本書に関するコメントに戻します。

この「教職ネットマガジン」では本書を「今週の一冊」として取り上げてくださっていました。この記事では、本書の性格をまずきちんととらえてくださっています。

本書は、そのタイトルだけ見ると、小学校の英語教育に反対する立場であるように思えます。しかし、実際には、現在学校で行われている英語教育を冷静に分析し、問題の所在を明らかにした上で、小学校で実施可能な英語授業の姿を具体的に提案している本でした。

そして、本書が「小学校からの英語教育」というテーマを通じて、中高の英語教育はもとより、他教科も含めた教育のあり方について考え直すことを目指しているという狙いもきちんと理解してくださっています。

ブックレットということで、文章量は非常に少ない本書ですが、中身は非常に濃いと感じました。そして、ここに提案されていることは、英語という窓から、今後の教育のあるべき姿です。英語に関わる人も、関わらない人も、広く読んでいただきたい一冊です。

これらのまとめをありがたく思うのは、これらの点について根本的に誤解・誤読されているレビューがアマゾンに一つあったからです。そのレビューによると、本書は「批判対象の資料を正しく読めていない、あるいは正しく読もうとしていない、もしくは意図的に拡大解釈して捻じ曲げているようにしか考えられない」ものであり、「はっきり書くなら、この著者は、英語教育を語る以前に、自身の日本語の読解力の基本から勉強し直した方がいい」と断言されています。

しかし、本書は、文科省や「実施計画」の推進者の方々にも最後まで読んでいただけるような本であることを著者としては目指していました。

出版の前にも後にも本書は担当編集者以外のいろいろな方々に読んで頂きましたが、本書が「実施計画」を根本的に誤読あるいは曲解しているなどといった指摘はもちろん皆無でした。また大修館書店の『英語教育2015年6月号』では、元文部科学省の大学教授の方(ここではあえて名前は伏せます)にも、「この書は単なる批判に終わらせず、小学校英語教育を含む英語教育が依拠するべき理念を示そうとしている」との評をいただいております。

さらに私とはまったく面識がない、「教職ネットマガジン」(「会社概要」 によると代表は、教科書会社勤務を経てIT会社で文教事業を創設し、教育書・教育雑誌を発行された上で現在の福分堂を立ち上げたそうです)の方からも上のように書いていただき、さらに下のコメントまでいただけたのは著者としては本当にありがたい限りです。

本書は、原典の紹介や引用の仕方についても好感が持てました。参考文献や先行研究の提示は大切ですが、ありすぎたり、少なすぎたりすることがままあります。本書は編集者がそのあたりの調整をうまくやったのではないでしょうか。論文作成の観点からも参考になる本です。

ちなみに、上記のアマゾンレビューを書かれた方は「殿堂入りレビュアー」であり「トップ10レビュアー」だそうですから看過もできないのかなとも思えます。これに対しては私の方で後日、その方の読解が誤読であることを具体的に示すコメントを書く必要があるのかもしれません。







一般社団法人アクラス日本語研究所 
嶋田和子先生による記事


嶋田和子先生は日本語教育の研究者で、私はあるシンポジウムの準備段階で大変お世話になったので、手土産代わりにこの本をプレゼントさせていただきました。

上記は、その嶋田先生による記事です。直接本を著者からもらった方が、ブログという公開媒体で自発的に書かれる文章ですから、否定的なことは書かないでしょうが、上の記事には本書(およびそのシンポジウムでの私の講演)に触発されたことが書かれています。

その記事の冒頭で、嶋田先生は本書をこうまとめてくださっています。

岩波ブックレットですので、63ページという分量。しかも小学校英語教育の課題が実に分かりやすく解説してあり、他の言語教育にも大いに役立つ内容です。ぜひ英語教育だけではなく、日本語教育に携わっていらっしゃる方々など、さまざまな方々に読んでいただきたいと思います。

英語以外の言語教育関係者にも読んでいただくことは実は私としては当初から狙っていたことであり、その狙いが多少なりとも達成されたことは嬉しいことでした。

しかし、嶋田先生といった言語教育の研究者には「実に分かりやすく解説してあり」とのコメントをいただけても、冒頭の上山先生のような実践者の方には「短時間で読み飛ばせるような軽い本ではありませんでした」といった正直な感想をいただくということからすれば、本書はその内容を少し減らしてでも、もっと平易に書くべきだったのかもしれません。これについてはもちろん担当編集者からかなり助言をいただきいろいろと書き直していましたが、主に第一章と第二章を書いた私としては、今後の課題としたく思います。






その他の公開ウェブ書評
Booklog

読書メーター



検索では、上記の公開ウェブ書評が見つかりました。これらは、登録した人が自由に書ける媒体なようです。わざわざ本書のために時間を取ってこれらの書評を書いてくださった方々には感謝します。

大学で教えている私として特にありがたかったのは以下のコメントです。

著者たちは読者として保護者及び一般市民、小学校教師、中高大の英語教育関係者を想定しているが、英語によるコミュニケーション力を身につけたい大学生にもお勧め。どういう教育を受けてきたのか、何が問題なのか、どうあるべきか、大学生であればそれに自覚的であることが、これからの学びには必要だろう。遠回りしたかもしれないが、自覚的であれば、今からいくらでも学び直せる。(http://booklog.jp/item/1/4002709221


私としては、「一見遠回りに思える道こそが一番の近道であること」はよくあると思っています。「この教材を使って、このように教えなさい」という近道は善意にあふれたものかもしれませんが、その積み重ねは、時代の大きな潮流に流されるだけでしょう。そして教師が自ら感じ考える力を衰退させてしまいます。そうなると複合的な変化が次々に押し寄せる教育現場には対応できません。私としては教育に関わる一人ひとりが丁寧に考えること、そして自分の率直な「身体実感」を信じることが大切だと信じて、本書を執筆しました。







と、長々と書きました(ここまで読んでくださった読者の方、ありがとうございます)。

ここまで長く書くのは、もちろん自分が関っているからではありますが、出版は、著者を超えて、出版社や読書文化一般へと影響を(たとえわずかとはいえ)及ぼしうるものです。そのことを考えると、出版後も著者としてなすべきことはなさなければならないのかなとも思え、この記事を書きました。


もし本書を読んでも論点が今一つよくわからない方々が集って読書会を開くことがあれば、私(柳瀬)にご一報いただければ幸いです。本業と私の健康に支障がでない限り、できるだけその会合に参加し、私なりに口頭で説明させていただきます。もちろん謝礼はいりませんし、交通費も私が何か他の用事で近辺に寄った時でしたら当然不要です。


読書文化一般のための僅かな努力としては、このブログでさらに上記の大修館書評とダニエル・デネットの「どのようにして生産的な批判的コメントを書くか」(How to compose a successful critical commentary)についての4原則を絡めた記事も書く予定です。


How to Criticize with Kindness: 
Philosopher Daniel Dennett on the Four Steps to Arguing Intelligently



日本語の読書・言論の文化が豊かになりますように。




 





2015年5月15日金曜日

5/17講演のスライド、および、「処方箋が与えられることでなく、反省的実践を積み重ねることこそが必要だ」という論点の強調



5月から7月にかけての講演の一つとして、5月17日(日)に広島国際大学広島キャンパスで開催される日本児童英語教育学会中国四国支部研究会で90分の講演をさせていただきます。



主催者によるウェブ広報
http://www.jastec.info/2015meeting/20150517.pdf




その際のスライドをここでも公開しますので、ご興味のある方は御覧ください。




日本児童英語教育学会中国四国支部研究会講演(2015/05/17)


小学校からの英語教育をどうするか
―いくつもの分断を乗り越えるために―






スライドでは、私がよく言及するダマシオやルーマンはおろか、カント、アレント、ユングのことばが引用され、さらには安倍晋三首相とハイエクの顔写真が(異なる考えの持ち主として!)連続登場しますので、「理屈はたくさんだ。もっと現場がどうすればよいか具体的な指示を出してくれ!」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、私が『小学校からの英語教育をどうするか』でも、『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』でも、『成長する英語教師をめざして』でも、『生徒の心に火をつける―英語教師田尻悟郎の挑戦』でも、一貫して言い続けているのは、あまりにも多くの要因が絡む教育現場の問題が一つ(あるいは少数)の処方箋で解決することはないということです。(関連記事:教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ

「複雑(複合的, complex)である」という意味での「現場」の人間ができることは、状況をできるだけ観察した上で明確な意図をもって実践を行い、その結果を観察しなおして言語化し、その言語化によって他者とコミュニケーションを図りながら、その言語化された観察を再観察(二次観察)して、自らの観察力と言語力を練り上げて新たに実践を試み、さらにその結果を観察して・・・といった「反省的実践」 (reflective practice) を繰り返すことです。

その経験の積み重ねを抜きにして、一気に実践者としての力量をあげよう・あげさせようとすると、いろいろな無理が生じてしまうということは、実践者が痛感していることかと思います。この論点が、教師を含めた実践者でない方はおろか、時には教育関係者の方々にすらも、なかなかわかってもらえないことはとても残念です。(古典的な作品でいえば、ドナルド・ショーンの著作デューイの著作、あるいは西岡常一氏らの著作などをお読みいただけたらと思います)。

私がこの講演で訴えたいことの一つは、コミュニケーションを教えているはずの私たち英語教育関係者が、(小学校)英語教育に関してきちんとコミュニケーションをしているか、ということです。「東大話法」という命名でも明らかになったように、「立場」からのタテマエばかりが語られたり、自分の腑に落ちていないことばを使い続けていたりしないか、といったことです。そうやって、私たちのコミュニケーションについて考えなおすためには、ダマシオ、ルーマン、カント、アレント、ユングといった人々のことばが有効であると私は考えています。

回り道に見えても、万能薬的な処方箋を求めず、実践についてのコミュニケーションにおける私たちのことばを練り上げることが、実践を向上させるために取るべき方法だと私は考えています。なぜなら、ことばこそが反省的実践における重要なメディアだからです。

練り上げたことばと共に、多くの実践を深く、多面的に観察し、そこからことばをさらに練りあげて同僚とコミュニケーションを重ねてゆく ― この地道な反省的実践に多くの教師が参画すること(そして参画できるだけの余裕を教師に与えること)が、私たちが取るべき方策だと私は考えています。









柳瀬・山本・樫葉 (2015) 「英語教育の 「危機」 と教育現場」 (草稿)


以下は、『中国地区英語教育学会研究紀要』 (2015, 45号 pp.31-40)に掲載された論文の草稿(査読コメントに基づく修正が反映されていない原稿)です。掲載された正式の論文は、いずれ「広島大学 学術情報リポジトリ」などで閲覧できるようになるはずですが、その前にこの論文について言及する便をはかるため、ここに草稿を掲載する次第です。




英語教育の「危機」と教育現場


広島大学     柳瀬  陽介
大阪国際大学 山本  玲子
広島大学     樫葉 みつ子



1 背景

  教師の仕事の加速する忙しさは、教育委員会や学校からの依頼を受けて学校を訪れる筆者らも実感している。生徒指導上の課題や保護者への対応、説明責任のための書類作成など、教師の仕事は増えるばかりである。実際、2013年度版のOECD国際教員指導環境調査(The OECD Teaching and Learning International Survey: TALIS)においても、日本の教師の平均勤務時間は一週間53.9時間で、調査国の中で最長となっている(平均は38.3時間)。それ以外にも、教師一人あたりの生徒数、クラスサイズ、事務仕事の時間数、クラブ活動指導時間数などでOECD平均を大きく上回っている。また看過しがたいのが教師観で、「社会全般が教師に敬意を払っていると思うか」では日本がアジア圏で唯一OECD平均を下回り、教師自身の満足度でも日本は調査国の下から二番目である(OECD, 2014)。部活動や行事のために休日もなく、連日遅くまで職員室でパソコンに向かっているような、心身ともにゆとりのない教師にとって、英語教育に関する最近の様々な要請は、違和感を覚えるものであるだろう。

  そういった中、英語科においては他教科にもまして、改革が矢継ぎ早に要求されている。最近の英語教育改革をめぐる動きの中から教師に直接関係するものを挙げてみても、まず、平成23年に「外国語能力の向上に関する検討会」から出された「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的な施策」がある。平成28年度までの達成を目指す具体策の一つが「学習到達目標をCAN-DOリストの形で設定すること」であり、現在、中・高等学校には、学校ごとにCAN-DOリストを作成することが求められている。また、この時点で地域ごとに指定された拠点校には、英語教育改善への積極的な取り組みが求められた。

  続いて平成25年に出された「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」には、「中・高等学校における指導体制強化」の内容として、「中・高等学校英語教育推進リーダーの養成」「中・高等学校英語科教員の指導力向上」「外部検定試験を活用し・県等ごとの教員の英語力の達成状況を定期的に検証」が盛り込まれている。これを受けて、平成26年度からは、自治体主催の研修が開催され、「英語教育強化地域拠点事業・教育課程特例校」においては、新たな英語教育が先取りで実施されている。小学校においては高学年で教科化、さらに中学年にも外国語活動を下ろすなど、14万4千人に対する研修が必要となる大改革となる。

  だが、近年の、このような「新たな英語教育」実現への動きは、本来は生徒や教師のためのはずであるが、実際に生徒や教師を育てることに結びついているのだろうか。これが筆者らの懸念である。


2 英語教育改革の特徴

  現在の英語教育改革は、経済・工業・政治の論理に深く影響されているように思える。「経済成長が至上命題であり私たちはグローバル競争を勝ち抜かねばならない」として経済成長を英語教育の目標とする考え方、「そのために英語ができる学習者(そして教師)を短期間で計画的・合理的に養成せねばならない」として学習者・教師を工業製品のように短期間に大量生産できるかのようにみなす考え方、「国威発揚できる東京オリンピックまでに英語教育改革を完遂する一方、『日本人としてのアイデンティ』を育成しなければならない」として政治的に国家意識を強調することを英語教育の柱とする考え方が、「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」には組み込まれている。これがはたして公教育の改革案としてふさわしいかについては既に批判も出されている(江利川・斎藤・鳥飼・大津、2014)。

  この改革案は、新自由主義と新保守主義の複合体とも捉えることができる。個人間競争を強く奨励する新自由主義は、その競争に疲弊する人々を集団的に束ねる新保守主義的な愛国心としばしば表裏一体となるというのはハーヴェイ(2007)の指摘だが、今回の英語教育改革案も、経済と工業の論理で、英語学習者と英語教師を目標に向かって駆り立てる一方で、『日本人としてのアイデンティ』という単純な括り(1)で人々をまとめあげようとする複合体となっているように思える。この複合体は表側で資本主義という近代的教理により正当化され―英語教育における資本主義的発想の影響については、柳瀬(2014)を参照されたい―、裏側で国家主義という近代的教条に裏づけられて、意識面での合理性が保証された「正論」として通っている。英語教育改革案に対して疑義を唱えたりする者は、反動的守旧派として捉えられがちであり、だからこそ英語教育改革批判も「迫り来る破綻」といった強いことばを使わざるを得ないのかもしれない(大津・江利川・斎藤・鳥飼、2013)。


3 正論の暴走という危険性

  仮に改革論が「正論」として異論を許さない言説となり、それを批判しようとする言説が過激な言葉を使うようになっているとしたら、それは英語教育界全体に抑圧的な空気をもたらしかねない。「正論」は声高に語られながらも、その提唱者・代弁者が現場の声にほとんど耳を傾けようとせず「とにかく国が言うからやるしかないのです」と眼尻を上げ、肩を怒らせる様子からは、人々の無意識が抑圧されていることが推測できる。論の正しさに心身の深いところから来る静かな確信をもつ者はからだを強張らせないからだ。また「正論」を「仕方ない」として受け入れる教師の抑うつ的な様子からは、無意識が抑圧され、その人の生命力が損なわれていることが伺える。

  人間は合理的(rational=割り切れる)側面と、合理外的(irrational=割り切れない―ここでは「非合理的」という訳語の否定的含意を避けるため敢えて「合理外的」と訳している―)側面をもつ生き物であり、社会もその両面をもつ。それにもかかわらず、ある特定の割り切り方(=合理的教条)が「正論」としてあまりにも権力をもちすぎ、それに対するためらいや批判を一切認めないイデオロギーになってしまうと、それは絶対的な価値を付与されたように感じられ始め、感情的複合体(コンプレックス)となる。感情的複合体は、人々に憑依し熱狂を産み出すと同時に、その論理では割り切れない人間の側面を抑圧してしまう。

  ある国・時代が強烈な感情的複合体に憑依され熱狂が生じることの危険を指摘したのは、無意識がもつ「内なる世界」の重要さを知る深層心理学者として、第一次大戦後から第二次大戦にいたるドイツの悲劇を隣国スイスで目にしていたユングであった。彼は1934年の時点で、「人々は政治や経済の巨大なプログラムという、いつもきまって諸国民を泥沼に引きずり込んできた代物にばかり喜んで耳を傾けています」、と当時の社会の傾向を指摘する。為政者が政治や経済の大事ばかり語り、それにつられて人々が日々の暮らしの小事への気遣いを忘れ始める時、社会は暴走へと近づいてゆく。その上でユングは、「私たちの文化的所産が天から下ったものなどではなく、私たち一人一人の人間が最終的な作り手なのだということを信じて疑わない少数の人々」に対して語りかける。「大きなところが歪んでくるとしたら、それはなによりも一人一人が、私自身がおかしくなっているからにほかなりません。それなら何よりもまず、私自身を正すのが理性に適った道でしょう」―かくしてユングは危機的な状況でこそ「人間のこころというものの永遠不変の事実の上に、自らの基礎を築くしかありません」と述べる(ユング、1996)。大言壮語的な議論が社会で横行する時にこそ、私たちは日々の暮らしの細やかな営みのあり方を大切にし、それらがいつのまにか荒廃してしまわないように配慮しなければならない。

  熱狂的で頑迷な立論に対して、同じように熱狂的な糾弾や頑迷な反対運動で対抗しても、それは立論のイデオロギー性によりナンセンスと決めつけられるだけかもしれない。あるいはせいぜい、感情的複合体性により感情的な嵐の中に引き込まれてしまうだけなのかもしれない。もしそうだとしたら、私たちは、感情的複合体となった時代のイデオロギーが抑圧し隠蔽している私たちの無意識的な側面に静かに向き合うことを試み、その静穏に基づき新たな立論を構築するべきではないだろうか。

  時代の「正論」に私たちが熱狂する時(あるいはそれを力なく是認する時)、私たちはその理屈で私たちが抑圧している無意識からのメッセージに耳を傾けるべきだろう。無意識からのメッセージは「こころ」のざわめきや「からだ」の違和感といった形をしばしば取る。私たちはその違和感を言語化するべきだろう。私たちがそのメッセージを無視しつづければ、「正しい理屈」に憑依した熱狂は、暴走と破滅に至りかねないというのは、歴史上さまざまな個人や社会の歴史が語ることだ。
  それでは、学校において、英語という教科指導を第一責務としながら、子どもの成長支援という社会的役割を担う英語教師は、この状況において、何をし、何をするべきでないのか―筆者らは今後敢えて「学習者」という呼称を避け、まだ「大人」でないがゆえに配慮を必要とする「子ども」という呼び方をする―。

  ユングの見立てにしたがえば、私たち英語教師は、まず自らの歪みを正し、人間の「こころ」にまっすぐ向き合わなければならない。強行される改革への直接抗議が不要だというのではない。だが、それ以上に、私たちは、命令体系の末端でYesかNoを言うだけの存在としてではなく、自ら息づく「こころ」と「からだ」をもった一人の人間として、現場で感じる実感を基に、子どもの「こころ」と「からだ」に向き合うべきだろう。

  経済と工業の論理で補強された政治の論理にYesかNoを言うというだけのコミュニケーションでは、結局は現状の制度的権力を有する政治の論理に絡め取られてしまう。英語教師は、経済・工業・政治の論理に基づくコミュニケーションよりも、教育の論理によるコミュニケーションを始めるべきではないか。若き生命を育むという教育の論理を、経済・工業・政治の論理に絡め取られてしまった人々に提示して理解と共感を得ながら、教育の論理に基づく営みを正々堂々と学校で行うべきだろう。教育に政治の力が必要だとしても、それは教育の論理を私たちが教師としての営みで明らかにして、教育の営みがどのようなものであるかを一般市民に行動と言説で広く知らせてから、政治的な力の獲得に向かうべきではないのか。英語教師は、政治のゲームに深入りする前に、まずは自らの「からだ」と「こころ」の実感、そして子どもの「からだ」と「こころ」の様子を世間に伝えるべきではないのか。

  英語教師として日々子どもに向き合う私たちの「こころ」は、何を感じているだろうか。私たちの「からだ」は何を伝えようとしているだろうか。そして、何よりも子どもの「こころ」は何を感じているのだろうか。それを知るためには、十分に「こころ」の表現を成し得ない子どもの「からだ」の表情・動き―身体性―を共感的に理解する必要があるだろう。


4 「からだ」と「こころ」

  「身体性」をごく簡単に定義するなら、それは「からだ」の動きと、それが直結する「こころ」の動きである。手が震えているから恐怖を感じるのか、恐怖を感じているから手が震えるのかを問うことが無意味であるように、「からだ」はすべての意味づけを行っており、我々は「からだ」を抜きにして他者とかかわることはできない。人は「からだ」を通して他者と「こころ」の交流をする。

  もう少し詳しく述べるなら、ここでいう「こころ」とは、無意識的な「からだ」が生み出す情動(emotion)―身体の生理学的・生化学的反応―が、感知され自覚された上で生じる感情(feeling)の意識を基本的に意味している。私たちのいわゆる「知的」(intelligent)な認知活動―思考や言語使用―はすべて、「からだ」の情動に起因する「こころ」の感情の意識を基盤としている(Damasio, 2012)。

  この定義に基づいて言い直すなら、英語教師の重要課題とは、子どもから英語や日本語の発話を要求する以前に、子どもの「こころ」の中で感じられているはずの感情を感知することである。子どもの、いわばことば以前のメッセージである「こころ」の感情を教師が的確に感知しないままに、英語にせよ日本語にせよ子どもに発話を強要するなら、子どもは予め定められた「正解」を自らの実感とは無縁に口にするか、そのような一種の儀式に意義を見いだせず口を閉ざすだけだろう。教師が、ことば以前の子どもの「こころ」の感情を感知するためには、子どもの「からだ」が自由に情動を生み出せるように、子どもの存在が―子どもが有しているかもしれない種々の問題にもかかわらず―肯定的に受容されていなければならない。存在を肯定された子どもは、身体内に多様な情動を生み出し、それは子どもの「こころ」の中では豊かな感情として立ち現れ、身体外でも微細な表情、時には大きな動きを生み出す。子どもはその感情に促されて、思考や言語使用へと向かう。周りの人はその子どもの表情や動きに促されて、その子どもの思考や言語使用を支援しようとする。

  逆に言うなら、子どもから内発する情動と感情を否定・無視して、子どもを外から支配し操作しようとしても、その効力は一時的なものに過ぎず(Dewey, 2004)、そこで「学習」されたはずの行動は、子どもの「身につかない」。「心ここにあらず」だったからである。だが教師は、時に子どもをいかに支配し操作するかという発想に取り憑かれてしまっている(2)―それはそもそも教師自身が、自らの情動と感情を否定され、外側から支配し操作されてしまっているからかもしれない―。教師は自分と子どもの情動と感情を再発見しなければならない。

  そもそも母語習得では、親も教師も自然に「からだ」を通して子どもとかかわり、同時に子どもと「こころ」の交流をしている。ところがなぜか英語教育になると身体性という概念がすっぽりと抜け落ち、ルールや語彙や型通りの表現を注入することだけが中心になってしまう(山本、2013)。身体性という概念なしには、たとえば、「英語で授業」はなぜ望ましいのかの答えが出せない。リスニング力をつけるだけならCDを流しっぱなしにしてもいいはずだ。実際には、TVをずっと見せられていた幼児と、親と「からだ」と「こころ」の交流をしていた幼児(幼児は親の動きを真似したり、親の発話に合わせてからだを動かしたりする)では、母語習得が著しいのは後者である。それと同じで、一方通行の「英語で授業」では意味がない。そのような定義づけがなされないまま「英語で授業」が独り歩きした場合、教師の一方的な発話をぼんやり聞いている中高生たち、という授業風景が予想される。

  理想的な「英語で授業」とは、教師の英語がたどたどしくても、少ない語彙であっても、子どもの「からだ」と「こころ」が教員の「からだ」と「こころ」に添っている授業である。筆者の一人は、ほとんど英語を知らないはずの小学生相手の授業でそれを体験したことがある。単語をゆっくり並べただけの教師の発話やジェスチャーに子どもが呼応し、教師の伝えたい内容を全身で受け止め、呼吸のタイミングさえ一致するほどであった。まさに、それは子どもの「こころ」が、教師の「こころ」と交流できている状態である。またそのような教室では、子どもと教師の「波動」のようなものが互いに共鳴し増幅していく。教師として最高の幸福感を感じる瞬間である。そういう英語授業の中で子どもは、相手の「こころ」を理解する方法は英語でも日本語でも同じだと感じ、「からだ」で英語に浸るすべを身につけることができる。逆に、こちらがどんなに流暢な英語で授業をしても、どんなに子どもが行儀よく座っていたとしても、何かがちぐはぐで子どもの「からだ」がこちらのタイミングに合ってこず、「こころ」が動いてくれない時もある。どうにも居心地が悪く、気持ちが悪く、授業に「乗れ」ない、授業経験のない第三者には分かり難い感覚である。

  身体の微細な動きが他者と合っていく状態、つまり身体的同調があって初めて他者との同調(Synchrony)が生まれる。その同調が促進するのは、他者の情動を自らの情動として感じることで他者を真に理解する、認知的かつ言語的な能力である(Richardson et al., 2012)。つまり、英語教師は、子どもに伝わる「からだ」と「こころ」の動きを自らが生み出せる身体性を身につけなければならない。英語に限らずあらゆる教科で言えることであろう。しかし、この身体性がもっともその威力を発揮する教科は、コミュニケーション能力を育てることを目標とする英語に他ならない。

  PISAのアンケート結果が話題になるよりも先に、教育現場では子どもの変容に実感があったと筆者らは考えている。「与えられたことはこなすけれど、自らわくわくしながら学ぶ子どもが減った」、「日本語でさえ、教師の言葉に情動を動かさなくなった、感動しなくなった」という、これらの現場の教員の声は、一見英語教育と直接的には関係ないように見える。しかし、学級担任や学年主任として子どもに接しダイレクトにそれらを感じてきた教員は、こういった子どもの変化は、コミュニケーション能力を育てる科目である英語の授業での実感と重なると感じているだろう。昔よりずっと複雑で多忙となった教育現場で起こっているのは、英語教育の危機だけではなく教育そのものの危機ではないか。逆に言えば、英語教育の復活は教育の復活に貢献するのではないか。身体性に着目することで、英語教育は、教育の再生に先鞭をつけることができるのかもしれない。

  外からは観察しがたい情動と感情という「内なる世界」が、子どもにおいても教師においても守られなければならない。次世代の「内なる世界」が、新自由主義と新保守主義によって強化されたグローバル資本主義社会という「外なる世界」に塗りつぶされてしまうなら、それは社会の未来の可能性を損なうことではないのか。英語教育改革を無視することも全面否定することもできない。だがグローバル資本主義的な憑依的熱狂に現場教師もが取り憑かれてしまい、子どもと教師自身の「からだ」と「こころ」を置き去りにしてしまうなら、それこそが英語教育の「危機」ではないのか。
英語教育の危機とは、近代社会が必要とする資本主義と国家に基づくがゆえに全面否定できない新自由主義と新保守主義が英語教育に侵入していることであることではなく、その侵入に煽られて、教師が本来の使命である子どもの「からだ」と「こころ」に配慮することを忘れてしまうこと、そして、自らの「からだ」と「こころ」のあり方にも気を配らなくなることではないか(外的に来襲した危機が、致命的になるのは、それが私たちの内面を蝕んだ時である)。

グローバル資本主義を一掃することなど誰もできないし、誰も望むべきではないだろう―それが20世紀の壮大な社会実験で私たちが学んだことかもしれない―。だが、グローバル資本主義が私たちの、そして子どもの「からだ」と「こころ」の自然を一掃してしまうことは避けなければなるまい。教師は、子どもと自分の「からだ」と「こころ」を守ることを本務としなければならないのではないか。


5 現状で何ができるのか?

  しかし、現状はどうか。英語教師は、子どもが生きているということを、数値(例えば、観点別評価の評定、標準テストの得点、CAN-DOリストの達成状況など)にひたすらに還元することを強いられていないか。また教育行政者・教師教育者も、教師が教師として生きているということを、数値(例えば、子どもが獲得したテスト得点、教師自身のCAN-DOリストの達成状況など)だけで管理しようとしていないか。子ども、そして教師の、数値に還元しがたい「こころ」と「からだ」―「内なる世界」―のメッセージは無視されていないか。それどころか「こころ」と「からだ」のメッセージは、数値目標達成の邪魔になる「問題」あるいはせいぜい「ノイズ」としてしか認識されていないだろうか。子どもや教師のためではない、管理のための管理ばかりが横行していないだろうか。まじめな現場教師ほど、国策の「正論」と現場の実態の乖離と矛盾を感じながら、板挟みになったまま、自分の「こころ」と「からだ」を苦しめているのではないだろうか。

それでは英語教育学という学術的言説権力は、抑圧されがちな教師そして子どもを守り、彼・彼女らに力を与えるために行使されているだろうか。ここでも楽観視はできない。数値目標達成のために子どもと教師を操作・管理することが「科学」としての英語教育学と少なからずの研究者に思われているようにも感じられるからである。英語教育学は、制度的権力の維持と強化の道具となっていないだろうか。英語教育学は子どもと教師の「からだ」と「こころ」を十分にとらえているだろうか。
Foucault(1980)も言うように、学術的言説は「真理の体制」として君臨することにより、それから外れる人々や事象を抑圧する道具となる。現在主流の「英語教育学」は、これまであまり語られていなかった「からだ」と「こころ」のトピックを抑圧する言説権力となっていないだろうか―そもそも本稿のような批判的言説が、「科学的でない」として学会誌から排除されることはないだろうか―。

メリアム(2004)は、研究を、おそらくはハーバマスにしたがって、実証主義的(positivist)、解釈的(interpretive)、批判的(critical)の三種類に分けたが、日本の英語教育学においては、1980年代半ば頃から実証主義的研究(量的研究)が台頭し主流となり、positivismという特定の哲学的見解が「研究」を定めるものと思い込まれた。やがて「質的研究」の名の下、日本の英語教育学においても解釈的研究の妥当性を認めることを求める要求が2000年代ぐらいからなされはじめてきたが、本稿のような批判的研究の存在はまだあまり認められていない(例えば、JACET SLA研究会による『第二言語習得と英語科教育法』は、SLAと英語教育の関係を包括的に扱おうとした力作であるが、そこには批判的研究はほとんど取り上げられていない)。現在の批判的研究(応用言語学では、例えばPennycook(2001)やBlockら(2012)などが例に上がるだろう)は、一時代前の、「権力を否定することが正義である」といった小児的思い込みを超克することを前提としている。だが、批判的研究は、それ以外の研究と異なり、権力の存在を正面から捉えようとする。その際に、批判的研究の言説を書く者も、それを読む者も、そしてそれを査読する者も自ら権力関係の網目に絡まれているため、批判的研究は、とりわけ自己の客体化・客観化を要求される。したがって書く者は自らの正しさを信じたいとする心を、読む者は自らの価値観を、それぞれが問い直さねばならない。そして、査読する者は、「評価できない」「評価したくない」という思考と判断の放棄への頽落を避け、自ら考え判断しその結果を公的に示すという責任を負わなければならない。自らの主体性・主観性とは乖離・独立した客観性でなく、自らの主体性・主観性が組み込まれた客観性の探究を引き受けなければならない―これは西洋哲学の伝統を真正面から受け止めたフッサールが引き受けた人間を主題とする学問の課題でもあった―。日本の英語教育界は、そういった重荷を背負うことはできるだろうか。


6 結語

これまで私達は、世界でも有数に忙しい日本の教員の現状、そしてとりわけ改革の波にもまれる英語教員の様子を概観し、改革が、(英語)教育の論理というよりも、経済・工業・政治の論理によって動かされているのかもしれないことについて論述してきた。さらにこの経済・工業・政治の論理は、資本主義と国家制度という近代の基盤に立脚しつつもそれらを加速的に相互強化しようとしている新自由主義と新保守主義の複合体により駆動されているかもしれないと説いた。多くの英語教育関係者が、グローバル資本主義競争での勝利を英語教育の目的として受け入れ、その目的から規定される英語力を東京オリンピックまでに「日本人としてのアイデンティティ」と共に獲得させ、そのために必要な英語教員(特に小学校)を大規模に短期的に養成するという英語教育改革は、もはや異論を許さない「正論」として推進者の肩を怒らせ、反対者の表現を先鋭化させ、同意できない者の違和感を抑圧する言説権力となりつつあるのかもしれない。「教育の成果は、短期間のうちに得られる数値化されたエビデンスで示されなければならない」と至るところで言われるのを私達は聞くが、そう言う者に「それはなぜか。誰がそう言っているのか」と尋ねても明確な答えは出てこない。この意味で、経済・工業・政治の論理で(英語)教育のあり方を決めようとする近年の改革論は、それ以外の考え方・感じ方を許さないイデオロギーとなっているのかもしれない(ハーバマスは20世紀中頃から、科学技術の形式的合理性が、工業はもちろん経済や政治といった人々の営みに侵食しイデオロギー化していることを指摘していたが、そのイデオロギーは今や新自由主義と新保守主義の鎧をまとって一層強化されているのかもしれない)。

  このように私達の思考が硬直化し、世の中がある一定方向だけに突き進もうとする時にこそ、私達は自らの「こころ」に注目しなければならないと警告していたのはユングだった。「こころ」の感情と意識は「からだ」の情動から生み出されるという神経科学の知見も得て、私達は「こころ」と「からだ」のあり方に耳を澄まさなければならない。本来、英語教育ということばの教育は、外国語という異質なことばとの邂逅を通じて、子どもの「こころ」と「からだ」に深く訴える力をもちうる教育である。しかし近年の英語教育学言説を見る限り、感情・情動や身体性は正面から取り扱われておらず、むしろそれらを否定した上で成立できる議論のみが「科学的」として妥当化されているようにも思える。とはいえ熟練した現場教師は、子どもと自分自身の「こころ」と「からだ」のあり方に対して鋭敏な感性的直感を有している。その感性をいかにして知性的な概念にするか、そしてその知性的概念をもっていかにして英語教育の目的という理性的な理念にするかが英語教育学関係者の課題となろう(3)。

  しかしそういった知性的概念と理性的理念を生み出す「真理の体制」である英語教育学会誌も、その他のあらゆる言説と同様、権力の網の目の中に組み込まれている。その網の目には、政治権力、教育行政権力、反体制的権力などがあり、私達が「真理」と称する現象もそれらの権力関係の影響を不可避的に受けながら生成される。特定の大きな権力およびその権力が好む「真理の体制」に無批判的に追従することは容易であり、しばしば大きな利権の獲得にもつながるが、権力の網目に絡まれながらもその権力関係性を自覚し、そこから少しでも覚めた眼で英語教育の現象を記述し分析、その上で「こころ」と「からだ」のあり様の解明をすることこそが英語教育学の課題であろう。もしそのような試みを放棄したり嘲弄したりするようなことがあれば、それは英語教育の深刻な危機であろう。




(1) 平成22(2011)年度の厚生労働省・人口動態統計の「第2表 夫妻の国籍別にみた婚姻件数の年次推移」によると、日本の婚姻総数のうち、いわゆる「国際結婚」(=夫妻の一方が外国籍)が占める割合を、1970年から2010年まで5年ごとにあげると、0.54%, 0.64%, 0.94%, 1.66%, 3.55%, 3.50%, 4.54%, 5.71%, 4.31%と推移し、2000年代からは5%前後となっている。こういった多様性から考えても、また価値観の多様化から考えても、アイデンティティの問題を、「日本人としてのアイデンティティ」として一本化することは妥当かどうかには議論が分かれるところであろう。

  (2) 辻本(2012)によれば、日本の教育観は明治以前と以後、つまり西洋的教育学の輸入以前と以後で根底的に変容した。多数の生徒に対して大量の知識を、一定の合理的なカリキュラムやプログラムにしたがって「教え込む」教育観は、子ども(そして教える者)の個性・能動性・内発性を尊重する江戸時代の教育観と大きく異なる。無論、この違いには制度の問題があり、いたずらに明治以降の近代的教育観を否定するつもりもないが、近代の歪みがさまざまな点で指摘されているポスト・モダンの現代において、私達が当然視している近代的思考法を相対化して考え直すことは必要であろう。

  (3) 感性(直感)・知性(概念)・理性(理念)の三分法はカント(特に中山元による新訳を参照されたい)に基づいている。


参考文献

Block, D., Gray, J., Holborow, M. (2012). Neoliberalism and applied linguistics. New York: Routledge.

Damasio, A. (2012). Self comes to mind: Constructing the conscious brain. New York: Vintage.
Dewey, J. (2004). Democracy and education. New York: Dover Publications.

Foucault, M. (1980). Power/knowledge: Selected interviews and other writings, 1972-1977. New York: Vintage.

OECD (2014). TALIS 2013 Results: An international perspective on teaching and learning. doi: 10.1787/9789264196261-en

Pennycook, A. (2001). Critical applied linguistics: A critical introduction. New York: Routledge.

Richardson, M. J., Garcia, R. L., Frank, T. D., Gergor, M., Marsh, K. L. (2012). Measuring group synchrony: A cluster-phase method for analyzing multivariate movement time-series. Frontiers in Physiology, 405(3), 1-10.

江利川春雄・斎藤兆史・鳥飼玖美子・大津由紀雄.(2014).『学校英語教育は何のため?』東京:ひつじ書房.

大津由紀雄・江利川春雄・斎藤兆史・鳥飼玖美子.(2013).『英語教育、迫り来る破綻』 東京:ひつじ書房.

カント,I.(著)・中山元(訳).(2010).『純粋理性批判(1)~(7)』東京:光文社.

厚生労働省.(2011).「人口動態統計」(最終閲覧日:2014年10月16日)http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/suii10/dl/s05.pdf

JACET SLA研究会.(2013).『第二言語習得と英語科教育法』東京:開拓社.

辻本雅史.(2012).『「学び」の復権―模倣と習熟』東京:岩波現代文庫.

ハーヴェイ,D.(著)・渡辺治(監修)・森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝(訳).(2007).『新自由主義―その歴史的展開と現在』東京:作品社.

ハーバマス,J.(著)・長谷川宏(訳).(2000).『イデオロギーとしての技術と科学』東京:平凡社.

フッサール,E.(著)・細谷恒夫・木田元(訳).(1995).『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』東京:中央公論社.

文部科学省.(2013).「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」(最終閲覧日:2014年10月18日)http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/25/12/__icsFiles/afieldfile/2013/12/17/1342458_01_1.pdf

文部科学省.(2011).「『国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策』について」(最終閲覧日:2014年10月18日)  http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2011/07/13/1308401_1.pdf

メリアム,S.B.(著)・堀薫夫・久保真人・成島美弥(訳).(2004).『質的調査法入門―教育における調査法とケース・スタディ』京都:ミネルヴァ書房.

柳瀬陽介.(2014).「学習者と教師が主体性を取り戻すために」柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂(編)『英語教師は楽しい―迷い始めたあなたのための教師の語り』127-140.東京:ひつじ書房.

山本玲子.(2013).『子どもの心とからだを動かす英語の授業』神奈川:青山社

ユング,C.G.(著)・松代洋一(訳).(1996).『創造する無意識―ユングの文芸論』東京:平凡社.

追記:本研究は、第45回中国地区英語教育学会で行われたシンポジウム「今日叫ばれる“英語教育の危機”とは?―そのとき教育現場は?―」の発表を再構成したものである。なお、この発表は、科研「英語教師実践ナラティブにおける書記言語・音声言語、および日本語・英語の選択」(課題番号24520622)の成果発表の一部である。 



2015年5月3日日曜日

2015年5月~7月に行う4つの講演の予定



岩波ブックレット『小学校からの英語教育をどうするか』を出版させていただいたこともあり、今年の5月から7月にかけて4つの講演をさせていただくことになりました。招待してくださった主催者・事務局の皆様に感謝します。

以下にそれらの講演の予定を現時点でわかる範囲で書きます。小学校英語教育に関する(1)と(3)と(4)に関しては、若干内容が重なるところもありますが、基本的には別種の講演です。講演スライドは準備ができ次第、このブログで公表します。

私としては、せっかく岩波ブックレットという媒体で出版させていただいたので、この本をできるだけ多くの方に読んでいただきたいと思っています。著者の一人として講演の機会をいただいたら、できるだけわかりやすく語るつもり(そして可能な限り、本では語りきれなかったことを語るつもり)ですので、どうぞ皆様お越しください。







(1) 日本児童英語教育学会中国四国支部研究会


■ 日時
2015年5月17日(日)10時20分から16時10分までの学会のうち、14時20分から15時50分の90分の講演

■ 場所
広島国際大学広島キャンパス (広島市中区幟町1-5)
http://www.hirokoku-u.ac.jp/access/hiroshima/index.html

■ 講演タイトル
小学校からの英語教育をどうするか
―いくつもの分断を乗り越えるために―

■ 概要
現在の小学校英語教育は、さまざまな分断に苦しんでいるように思えます。教育行政では官邸と文科省の間で、教員養成では実践者の感覚と研究者の認識論の間で、教育界では小学校と中高の間で、小学校現場では担任と専科や外部人材の間で、そして英語と国語や算数などの他教科の間で、それぞれに分断が生じているように思えます。肝心の英語授業では、「あたま」と「こころ」と「からだ」の間に分断があります。これらの分断のうち、「あたま」「こころ」「からだ」の分断が言語教育にとってもっとも本質的であり深刻であると発表者は考えますので、講演では岩波ブックレット『小学校からの英語教育をどうするか』での議論を基に解説します。さらにその分断の克服から、他の分断の克服へとどうつなげてゆくべきかについての方向性を提示します。この提示は、多くの人をがっかりさせたり、いらつかせたりするものかもしれません。しかしこの方向性こそが、もっとも現実的であると発表者は考えます。講演から実りあるコミュニケーションが生まれればと思います。

■ 主催者によるウェブ広報
http://www.jastec.info/2015meeting/20150517.pdf







(2) 「英語教育における質的研究ワークショップ」
JACET言語教師認知研究会外国語教育質的研究会の共同開催)



■ 日時
2015年5月30日(土) 13時~17時45分の中の13時~14時までの1時間

■ 場所
東洋英和女学院大学六本木キャンパス 大学院201教室 (東京都港区六本木5-14-40)
http://www.toyoeiwa.ac.jp/daigakuin/daigakuin-annai/access.html

■ 講演タイトル
質的な実践研究における非合理性・自己参照性・複合性

■ 概要
近現代の認識論は、非合理性・自己参照性・複合性の概念により自らを拡張させ、単純に割り切れない複雑な状況の中で実践という人間的な営みの解明への途を拓きつつある。今後の言語教育研究の(質的)展開について考えたい。

■ 主催者によるウェブ広報
http://www3.plala.or.jp/sasageru/ELTqualitativeresearch0530.pdf







(3) 関西英語教育学会2015年度(第20回)研究大会


■ 日時
2015年6月13日(土) 12時10分~17時45分の中の14時40分から16時05分までの85分
(学会は翌日6月14日(日)の10時~16時25分にも開催されます)。

■ 場所
神戸学院大学ポートアイランドキャンパス (神戸市中央区港島1-1-3)
http://www.kobegakuin.ac.jp/access/portisland.html

■ 講演タイトル
小学校からの英語教育をどうするか
―「引用ゲーム」の限界を自覚する―

■ 概要
岩波ブックレット『小学校からの英語教育をどうするか』の主要なメッセージの一つは、小学校にこれまでの中学・高校の英語教育を押し付けるのではなく、小学校の実践からわかり始めたことを活かして中学・高校の英語教育を変えてゆくべきだ、というものです。今回の講演では、これまでの中学・高校の英語教育の大半が「引用ゲーム」に過ぎないという同書の批判的主張を特に取り上げ、「引用ゲーム」とは何かを確認したうえで、なぜそれでは「言語」と「コミュニケーション」が成立しないのかを、それぞれ、ダマシオの身体論とルーマンの自己参照の議論を援用しながら説明します。そうして「引用ゲーム」の限界を自覚した上で、それをどう克服してゆくかについての大まかな道筋を示します。講演だけでも理解できるようにお話するつもりですが、ページ数の都合で同書では展開できなかった議論を導入しますので、可能ならば同書を予めお読みいただければ当日の理解が進むかとも思います。

■ 主催者によるウェブ広報
http://www.keles.jp/news/2015_20program/




(4) 一般社団法人「ことばの教育」

小学校英語でどんな力を育むか
---あるいは、どんな力を育もうとしてはいけないか---

小泉清裕氏(昭和女子大学附属昭和小学校)
柳瀬陽介氏(広島大学)
大津由紀雄(明海大学、本法人代表理事)




小学校への教科型英語の新規導入、活動型英語の前倒しが世間でも話題となる中、小学校英語の関係者の間では少なからぬ混乱が生じています。そんな中、貴重な分析、提言がたくさん盛り込まれた柳瀬陽介・小泉清裕『小学校からの英語教育をどうするか(岩波ブックレット922)』(2015年、岩波書店)が出版されました。今回はこの重要なブックレットの共著者のお二人をお迎えし、本法人代表理事の大津由紀雄とともに、小学校英語について話し合います。参加者の皆さんとの議論の時間もとってあります。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

■ 日程: 7月4日(土曜日)

■ 場所:郁文館夢学園 (東京都文京区向丘2-19-1) 220番教室
http://www.ikubunkan.ed.jp/utility/access.html

■ 進行予定:
14:30 開場
15:00 - 15:10 開会
15:10 - 15:40 小泉氏講演
15:40 - 16:10 柳瀬氏講演
16:10 - 16:40 大津講演
16:40 - 17:00 休憩
17:00 - 17:30 3人談義
17:30 - 18:00 フロアとのやりとり
なお、休憩後の進行状況により多少の延長があるかもしれません。
終了後、学内食堂にて懇親会



事前申し込み(必要)
https://goo.gl/GydJLf



■ 参加費:一般1000円(一般社団法人ことばの教育会員・学生・大学院生は入場無料)
■ 懇親会費:3000円程度

参加希望の方は、事前に、柳瀬陽介・小泉清裕『小学校からの英語教育をどうするか(岩波ブックレット922)』(2015年、岩波書店)を読んでおかれることをお勧めいたします。



■各講師の演題と概要

小泉氏

● 演題:小学校英語と出合って20年―その間に考えたこととやってきたこと

● 概要:1994年度から、私個人の意志ではなく、学校の都合で小学校英語教育に足を踏み入れ、それから20年以上が経ちました。この20年間に、小学校英語教育の波は日本中に広がり、2020年度からの新しい展開に向けて急速に動いています。しかし、今進もうとしている道は、20年前に私が実践し始めた時に歩んだ、「間違った道」と同じ道のように思えてなりません。恐ろしいことに、どんな道でも皆で歩めば「間違った道」とは感じなくなってしまいます。全国の680万人の小学生にとって、彼らの20年後に活きる小学校英語教育にするために、大人たちが何をして、何をすべきでないかについて私の考えをお伝えします。



柳瀬氏 

● 演題:意味論の比較から考える小学校英語教育のあり方 ―子どもの未分化の統合的な力を分断してはいけない―

● 概要:初等教育では教科担任制をとらず一人の担任教師がほぼすべての時間を担当することの背景には、子どもの知性・感性がまだ大人のように分化していないことがあります。子どもの力は、未分化のまま統合的である方が、その後の人生での成長のためには重要であると考えられます。しかし、外国語としての英語教育では、言語学の伝統的な意味論の考え方が強すぎて、英語の意味はもっぱら指示(reference)の問題として授業が展開されがちです。今回の講演では、ダマシオ、デューイ、ルーマンの意味論を提示し、子どもが英語を「あたま」で覚えるのではなく、「こころ」と「からだ」で丸ごと経験できるような授業を行うための基礎理論を提示します。岩波ブックレット『小学校からの英語教育をどうするか』の第一章の議論の発展編です。



大津氏 

● 演題:やはり、小学校英語はやらないに越したことはない。しかし、そうは言っていられない小学校の先生がたへの応援歌

● 概要:わたくしは小学校英語に関して、それが活動型であれ、教科型であれ、その導入に一貫して反対してきました。いまでも、その考えに変わりはありません。実際、英語狂想曲はその騒々しさを増す一方です。同時に、《災い転じて福となす》をスローガンに、現実的な対処方法を探るとともに、小学校英語導入を年来の主張である言語教育の実現へ向けた第一歩とする方策を模索してきました。今回の講演では、柳瀬・小泉『小学校からの英語教育をどうするか』に触発されたところをもとに、「ことばへの気づき」育成のために英語をどう利用することができるのかを考えてみたいと思います