先日に参加したある授業研究会で、ある若い先生に声をかけていただき、研究会でもいろいろ意見交換させていただきました。さらにメールまでいただき、ことさらに共感しましたので、下に一部を変更(固有名等の削除と、改行と太字強調の追加)した上で転載します(この転載に関してはその先生の許可をいただいております)。
昨日の○○研究会に参加しました○○の○○です。日頃先生のブログで勝手に学ばせてもらっている者としては直接先生のお話が聞けてとても貴重な経験となり、勉強になりました。大変ありがとうございました。教育研究会の中で、○○中の○○先生や○○先生が先生方の個性を生かし、よりよい授業方法を創造しようとする姿勢に私は多くのことを学ぶことができたように思います。
それに関わって先生のブログにある『この私の日本語のまとめを表面的に読んだだけの「ギロン」なんて止めて下さい』というこのコメントに、私自身の心に引っかかっている実践をする上での課題を解決する糸口があるような気がしてなりません。というのは、「授業は創造するもので、コピーするものではない」ということです。
私自身教員採用試験の時の模擬授業では達人の先生の授業を「真似したもの」を実践しました。VTRなどを何度も見て、授業のエッセンスを完全コピーすることでその場を乗り切りました。晴れて英語教師となってからも、授業の腕を上げるべく、「技」の本を読んだり、セミナーに参加をしたりしました。
今現在では自分の欲しい情報がすぐに手に入る時代です。ネットを見れば、学習指導案や特定の文法をどのように教えるかなど、すぐに役立つ資料はごまんとあります。そんな環境の中で、自分自身の考えをもとに授業を創造するということがあやふやになっている気がしています。失敗を恐れるが余りに、達人のアイディアの傘の下で生かされているだけの存在なのではないかと感じることが多くありました。英語教師として、自分の目の前にいる生徒に「精度の落ちた達人の技」のくり返しばかりをしていたのでは、達人の先生や何より生徒に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
昨日の帰りの電車の中で、『リフレクティブな英語教育をめざして』の先生の「自主セミナーを通じての成長」を読み返しました。達人の先生の技を解釈し、工夫しながら取り組むこと、つまりは技の取り入れ、工夫、そしてその技を超えていくことが大切なことを再認識することができました。そして、まとめに先生が述べている『「やり方」(HOW)以上に、教師としての自分の「あり方」(BEING)を学ぶべきなのかもしれません』というコメントを私自身が実感することができ、それが本教育研究会を通して学ぶことができたのだとわかりました。
当たり前のことかもしれませんが、教えること、英語教育についての本質的な学びを深めていかなければと感じることができました。そんな意味で本当に充実した時間を過ごすことができました。今回の研究会の関係者の皆さまや参加者の方々に感謝いたします。
(後略)
私に対する過分の評価はさておき、この先生のメールは私も最近改めて強く思っていることを書いてくださっていましたし、何より『「やり方」(HOW)以上に、教師としての自分の「あり方」(BEING)を学ぶ』というのは、私が
『リフレクティブな英語教育をめざして』の「自主セミナーを通じての成長」 ― 博士論文を除くなら一番苦しんで書いた文章 ― 、を書き上げる中で到達した結論であり、そこをまさに引用してくださったので嬉しく思い、ここに転載しました。
「英語授業」で教師がやること言えば、事実上「文法説明と英文和訳」でしかなかった時代では、英語教師の様々な教授法 ―「技」― は、幅広く紹介される必要がありました。私の個人的印象では、90年代後半から
「英語教育達人セミナー」(達セミ)の開始や、VHSからDVDへのメディアの進化、個人ブログの増加、そしてそれらに連動したような英語教育技術の出版物の増加により、ここ15年間で英語授業のあり方は ―少なくとも研究授業で見られるような授業では― 大きく変わりました。随分前、研究社の『現代英語教育』は、英語教師の典型像として分厚い眼鏡をかけて分厚い辞書と文法書を持ち歩いている教師を描き出しましたが、いまやそのような英語教師は絶滅危惧種であり、現在の英語教師の(やや誇張された)像はストップウォッチやタイマーを首から下げ、iPodなどのメディアを駆使するものかもしれません。
ストップウォッチやタイマーで短く時間管理をする英語教師というのは、実際、少し前まではとても新しい考えでした。この時間管理が英語授業によい影響を与えたことは疑いないと私も思っています。
しかしこの時間管理という「技」も、ただ表面的に真似られるなら、何をやっているかよくわからない授業を作り出してしまいます。昔、ある授業で教師が、レストランでの会話(ウェイターと客の間での注文に関する会話)を、極めてマジメな顔をして高速で生徒に音読させたり、シャドーイングさせたり、Read & Look Upさせたりと「トレーニング」しているのを見て、私は思わず笑い出してしまったことがあります。
もし仮にレストランで私たちが英語を使わなければならないとすれば、それはリラックスした笑顔でウェイターとアイコンタクトをして、互いにいい関係を築くことを最優先とした上でのことでしょう。そこでの英語使用に厳密な正確さや過剰な高速発話などは必要ありません。しかしこのような会話まで「トレーニング」の対象としてしまうことは、そういった現実世界での英語使用について、生徒に誤った感覚を植えつけてしまうとは言えませんでしょうか。
あるいは最近はどうも「思考力・判断力」などが研究授業の流行のようですが、ゆっくりと英語表現の意味合いや響きを感じさせた上で思考を紡ぐべきところを、「ハイ、3分で考えて」と指示し「ピピピピピ」という耳障りで品のない音で思考を中断させるのは、趣味の問題と言われればそれまでかもしれませんが、私などにはどうも馴染めません。
仮に時間管理をしなければならないにせよ、それは教師が密かに腕時計などを見つつも、何よりも生徒の顔つきや姿勢などを観察しながら、「もういいかな?」と静かに声をかけるぐらいが適当ではないでしょうか。そういった配慮こそは、感覚と思考を働かせている生徒にとって必要なことではないでしょうか。
上の二つはわずかな例に過ぎませんが、どうも多くの英語教師が「技」に振り回されてしまっているようにも思えます。「技」がどこか「上」 ― 達人や文科省やエライ先生 ― から降ってきて、それを使わないといけないとばかりに、どこか浮き足立ってしまっている、あるいは「上」が(そのつもりはなくとも)そのように現場教師を浮き足立たせてしまっているのではないか ― 時にそう思えてしまい、私は
『リフレクティブな英語教育をめざして』や
『成長する英語教師をめざして』の文章を書きました(ここにはウェブで広く「技」を紹介してきた一員としての責任感もありました)。
技を知ることは大切です。何も技を知らないよりは、知っていた方がいい。ただ、だからといって無闇に技を覚えればいいというわけではない。また武術メタファーで恐縮ですが(笑)、たとえば相手が左に崩れている時には、相手をそのまま左に崩せばいいだけの話なのに、そこで相手を逆に右に崩す技をかければ「何をやっているんだ」ということになる。さらには、強引に相手を左から右に崩した上で、改めて相手を左に崩す技をかければ、もう何をやっているのかわからなくなる ― 技も、技のHowだけを知るだけでなく、技のWhatとWhy(そもそもこの技は何であり何のために使うのか)を知らなければ、技を覚えただけ愚かになってしまいかねません。技を覚えて、自らの
「正中線」を失ってしまえば、何もなりません。
技に表面的に従うだけで、自分で何をやっているのかかえってわからなくなることは、
とでも言えるのかもしれません(スミマセン、造語は私の悪趣味の一つです 笑)。
必要なことは、私達が技に振り回されることなく、地に足をつけて、自分のやっていることが何なのか(What)、何のためなのか(Why)を見つめ直した上で少しずつやり方(How)を改善していくことでしょう。
そして、このWhat-Why-Howをめぐる私たちのあり方 ― 私たちの例なら、教師と生徒がこの現代において学校という場で出会い時間を共有しているということ ― の「理」を究明しようとすること、つまりは私達が生きていることの根本の原理を少しでも明らかにしようとすることを目指すべきではないでしょうか。
ことばが大げさになってしまいましたが、地に足のついた工夫を重ね、「天」とでも表現したいことの理を探ることは、
工夫窮理
とでも表現できるかもしれません。(←造語性中2病www)
「工夫」はともかく「窮理」とは大げさなと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、授業技術でも格闘技術でも、技の改善だけに囚われてしまうと、新しいことは新しいのだけれど、何のためにそんな変更をしているのかわからないような奇っ怪な「工夫」が見られると私は観察していますので、敢えて「工夫窮理」と四文字熟語を作りました。(←病識のない中2病www)。
まずは自分が置かれた状況、自分という人間、そして目の前にいる生徒を見つめ直し、これまでの日常に少しずつ工夫を加えて、その工夫の中で英語教育という営みの理を根本から考えつつ、日常を続ける ― こんな「あり方」(BEING)を大切にしたいと思います。
そうすれば、各種メディアがふんだんに提供してくれる「やり方」(HOW)の情報も活用できるでしょう。各種メディアを使いこなすためにも、私たちは自分たちの存在という根本について考える必要があるかと思います。
結論この記事の書き手は、病識のない造語性中2病に罹患しながら、中高年性説教症を併発している恐れがあります。関係者は特別の注意を払うようにしてくださいwww。
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