2011年12月24日土曜日

メリー・クリスマス 2011 「山上の垂訓」の翻案




「山上の垂訓」として有名な箇所の一部を、自分なりに言い換えてみました。


神など信じられないと言うあなたへの神様からの恵みは、神様が実はあなたを待っておられることを知ることができることです。

嘆き悲しむあなたへの神様からの恵みは、神様がいつかあなたを癒してくださることです。

弱いあなたへの神様からの恵みは、この大地のすべてが実はあなたを支えていることに気づくことができることです。

正しさを求めてやまないあなたへの神様からの恵みは、人ではなく神様がいつか大きな正義を示されることです。

気持の優しいあなたへの神様からの恵みは、あなたが他人の優しさに気づくことができることです。

澄んだ心をもつあなたへの神様からの恵みは、神様がいつかあなたの前に姿を現してくださることです。

争いを好まないあなたへの神様からの恵みは、人々があなたの中に神々しさを感じることです。

(新約聖書『マタイの福音書』5章3-9節を翻案)



ちなみに以下は、New International Versionの英語です。



Blessed are the poor in spirit,
for theirs is the kingdom of heaven.

Blessed are those who mourn,
for they will be comforted.

Blessed are the meek,
for they will inherit the earth.

Blessed are those who hunger and thirst for righteousness,
for they will be filled.

Blessed are the merciful,
for they will be shown mercy.

Blessed are the pure in heart,
for they will see God.

Blessed are the peacemakers,
for they will be called children of God.






この2011年の冬にこそ、メリー・クリスマス





2011年12月14日水曜日

山岡洋一さん追悼シンポジウム報告、および「翻訳」「英文和訳」「英文解釈」の区別




12月11日(日)に関西大学で開催されました翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウムでなんとか発表と講演をすますことができました。染谷泰正先生(関西大学)を始めとしました関係者の皆様には改めて深く感謝申し上げます。

今回の研究会は、私にとって山岡洋一さんの名前が入った会であるため、そこで発表することを実はかなり恐れ緊張しておりました。私の発表の愚かさで山岡洋一さんの名前を汚すことがあってはならないと思ったからです。

山岡洋一さんについては、私も短い追悼記事を書きましたし、何より、没後一度は閉鎖されたネット版の「翻訳通信」が復活されましたので、そちらをお読みになれば山岡さんが翻訳界および日本語文化に対してなされた貢献の一部を具体的に知ることができます。


翻訳通信 ネット版
http://www.honyaku-tsushin.net/


しかし山岡さんの素晴らしさを簡潔に表現している文章の一つとしては、芝山幹郎氏による「さらば、果敢な友よ 山岡洋一追悼」があげられるでしょう。私はこの文章を、研究会当日に配られた小冊子「翻訳家・山岡洋一さん その仕事と思想」で知ったのですが、以下にその一部を引用します。


翻訳とはなにか。名訳とはなにか。辞書とは何か。古典とはなにか。

要するに、山岡さんは翻訳の急所に迫りつづけたのだ。横着な仕事や安易な態度に怒りを叩きつける一方で、彼は翻訳の楽しみを謳った。日本語のこまやかさを賛え、翻訳と英文和訳の決定的な違いを喝破した。

しかも、彼には広い視野があった。思いつきや出来心で発言するのではなく、長い眼で将来を見据えていた。全体を構想する力もあった。つまり彼の身体には、歴史感覚が早くから備わっていたのだ。

(中略)

それにしても、と私は思う。山岡洋一のあの寛容さとフェアな精神はどこから来ていたのだろうか。

山岡洋一は、翻訳という仕事を心底真剣に考えていた。翻訳を見くびらず、翻訳を祭壇に祀り上げず、なおかつ思考と言葉に深い愛情をそそぎつづけた。

逆にいえば、山岡さんは無私の人だった。自己愛や自己憐憫といっためそめそした感情と無縁の男だった。だからこそ、彼を慕う後輩や若者の数はあんなに多かったのだろう。

嫉妬や意地悪が幅を利かせがちなこの島国で、山岡さんのような姿勢を取りつづけるのは、けっして容易な業ではない。だが、彼はその姿勢を崩さなかった。胸を張り、頭を上げ、果敢に戦って、大股で去っていった。(後略)




以下に、私は当日発表した資料を一部修正したものを掲載しますが、この業績とて山岡さん(および他の先人)が明らかにしたことを、私が少し整理した(あるいはしそこねた)ものに過ぎません。(また、講演スライドは、私が2010年8月21日に日本教育学会で口頭発表したものを改訂したものであることをお断りしておきます。この発表はまだ活字化できていないので、今回、ぜひ活字化できればと思っております)。




講演の発表内容の中で、皆さんに多少なりとも評価していただいたのが、「翻訳」、「英文和訳」、「英文解釈」の区別です。以下にその区別を掲載しますが、これは私が2010年8月26日のブログ記事「翻訳教育の部分的導入について」で発表したものを元にした当日発表に対して加えられました皆さんのコメントを参考にして、本日作成したものです。(コンテクストの重要性をご指摘くださり、さらに"trans-coding"という用語を教えてくださいました染谷泰正先生(関西大学)には特に感謝します。






上の画像をクリックすると大きくなります。
PDF版のダウンロードはここ



念のため表の中身をテキストで以下に転載します。


翻訳
Translation of language use that is embodied and contextualized

言語使用をその言語を発している者の心身やその者がおかれた状況を理解した上で、一読して原典(起点言語)の意味と機能がわかるように目標言語化しそれを書記化すること。時に「意訳」とも呼ばれる。書記化に伴い、ほとんどの場合、翻訳は推敲される。

同化(目標言語重視)と異化(起点言語重視)の二極の志向をもち、その超克に目標言語の革新の可能性がある。



英文和訳
Trans-coding of language that is not regarded as embodied or contextualized
言語を発している者の心身やその者がおかれた状況をほとんど理解することなしに、記号としての言語の部分に専ら注目した上で、構文ごとの訳出「公式」に辞書の訳語を当てはめて、起点言語を機械的に目標言語化し、それを書記化したもの。しばしば「直訳」とも言われる。

機械的な変換なので訳出もそのチェックも容易だが、その読解はしばしば困難。

「英文和訳」は様々な言語間での直訳の典型表現(提喩・換喩)としての表現。いわゆる独文和訳や仏文和訳もこの用語で表現している。



英文解釈
Interpretation in interaction for translation or trans-coding

教室で学習者と教師の間で典型的に行われる、原典を理解するための音声での目標言語化。目標言語化に際して、教師からの質問や解説などのメタ言語が多用され、その相互作用により原典理解が促進される。目標言語化は「翻訳」を志向することもあれば、「英文和訳」を志向することもある。

実際は口頭での目標言語化は、しばしば不完全のままで終わるが、この活動の目的は原典の理解であるので、目標言語化が完成しないことは問題視されない。

「英文解釈」は様々な言語間での直訳の典型表現(提喩・換喩)としての表現。いわゆる独文解釈や仏文解釈もこの用語で表現している。

通用では「英文解釈」を、左項の「翻訳」や「英文解釈」の意味で使うこともあるが、ここでは「英文解釈」は言語が音声化されるだけで書記化されない活動として「翻訳」や「英文解釈」とは区別して考える。

この相互作用としての英文解釈は、学習者と教師との間で行われることを典型例とするが、学習者がこの相互作用を内面化するなら一人でも自分自身を相手にこの英文解釈の相互作用を行うこともできる。





私がこの区別をした上で、主張したことの主な点は、次の通りです。


(1)「英文和訳」には教育的な意義はあまり認められないので基本的に行うべきでない(作業的に行うことはありうるだろうが)。

(2)「英文解釈」は授業中のメタ言語の効果的な使用として適切に使われ続けるべきである。もちろん解釈内容によってはメタ言語を英語にすることも可能であり、「英文解釈は日本の英語教育の財産」といった言葉を金科玉条にして、英語授業を日本語使用ばかりにするのは戒めるべき。

(3)「翻訳」は、ほんのわずかの分量の英文しか扱えない集中的な複合的言語文化能力あるいは多言語能力の教育手段として考えるべきであり、全英語教育にかけられる時間のせいぜい5%もかければ十分であろう(逆にいうとその少ない時間は、徹底的に翻訳を教えるべきである)。また翻訳は英語から日本語の方向だけでなく、これからは日本語から英語への方向でも行うべきである(もちろんこれは機械的な「和文英訳」(=「英文和訳」の逆方向の営み)ではない)。



多くの英語教育の議論は「翻訳」「英文和訳」「区別」の区別をしないまま、(ここでいう)「英文和訳」を禁止すべきだからという勢いで「翻訳」や「英文解釈」まで排斥しようとしているように私には見えます。

今回の私の論点は、「一般教養としての翻訳教育」でした(詳しくはシンポジウムスライドをごらんください。「英文解釈」擁護の議論は今回は割愛しています)。

私のいう「翻訳」 ―つまりは翻訳家が誇りをもっている営みとしての「翻訳」― は、日常的で惰性的な言語使用とはまったく異なる試みです。藤本一勇(2009)は『外国語学』で次のように言います。


通常、言語コミュニケーションを、たとえば日常的に口頭でいわばプラグマティックに行っている場合、その場の実務的な目的が達せられればよいのであって、外国語や自国語といった言語の境界線(限界=極限、あるいは臨界)の問題や、相手の言語や意図にどこまで肉薄できるか(あるいは不可能か)といったような根本的な問題は、ほとんど意識しないで済まされるだろう。その意味で、翻訳は、外国語との関係において、翻って自国語との関係において、ある意味、極限的な経験ではある。しかし、翻訳があぶりだす極限的構造は、自国語であれ外国語であれ、日常的・一般的に言語を使用する場合にも、その基礎にあることは忘れてはならない。(藤本 2009, 82)


私はこのような意味での「翻訳」は、限定的に日本の英語教育に導入すべきものだと思います。もっとも、私も含めた英語教師のどれだけが「英文和訳」でない「翻訳」をできるのか、という現実的な問題は大きいです。そもそも現在の英語教師の何割が、「英文和訳」でない「翻訳」を行ったことがあるでしょうか・・・




当日は、この他にも翻訳のデメリットについて質問をいただき、私なりに考えを深めることができましたし、翻訳家の岩坂彰さんがよくおっしゃる翻訳とプリズムの話をよりよく理解もできました。参加者の皆様の鋭い(しかし温かい)コメントに感謝します。


私は「英語教育」という立場からですが、これからも「翻訳を見くびらず、翻訳を祭壇に祀り上げず、なおかつ思考と言葉に深い愛情をそそぎつづけ」てゆきたいと思います。

翻訳家・山岡洋一さんに、改めて御礼申し上げます。




追記

シンポジウムの発表者の一人である河原清志さんが、山岡洋一さんの代表翻訳作品としてあげたのが以下の古典です。どうぞぜひこの機会に山岡さんの日本語でこの世界的な古典をお楽しみください。



また著作の代表作としては次があげられるかと思います。





木の実を頬に貯めるのではなく、時間をかけて消化する



「山岡洋一」という名前を汚してはいけないという思いから、私にとって山岡洋一さん追悼シンポジウムで発表をすることは大きな重責となりました。加えて当日の参加者には百戦錬磨の実力者の翻訳家が多いわけですから私は結構ビビっておりました(笑)。

たとえて言うなら、コミカルなパフォーマンスを売り物にしている地方団体プロレスラーが、サンボの全国選手権(無差別級)に出場するぐらいのビビりかたでした(格闘技に詳しくない方、わかりにくくてごめんなさい)。「まともに関節をとられたら、大怪我させられるかもしれないよなぁ」と怖がっておりました。

しかし「実力ある人は優しい」の一般則はここでも通用し、当日は皆さん、鋭い論点を出しながらも決して私を個人的に追い詰めることもなく、議論を高めて下さいました(このあたり、空手の稽古でも一緒です。本当に実力のある人は、私のようなヘタレを相手にする時は寸止めにしてヘタレが怪我をしないように配慮してくれます。中途半端な先輩と稽古をするのが最悪で、その場合はその先輩が自らの不安からか劣等感を払拭し優越感に浸りたいからかムキになってガチガチで攻撃してきますので、こちらも必死で応戦するしかありません。その結果、空手の実力が上がればいいのですが、たいていの場合はヘタレは怪我をし、先輩は自分の得意技ばかりを出して癖を強くするだけに終わります。両者ともに空手の上達がないわけです。実力と自信そして優しさというのは連動しているものだと思います。閑話休題)。

とはいえ、シンポジウムなどで次々にくる質問に対応する際には、こちらも真剣に考えなければなりません。その際、何とか私が対応できたとしたら、それは私がこれまでに聞いた話と読んだ話を自分なりに消化できていたからだと思います。



「消化」というのはもちろんメタファーです。生物での消化でしたら、一塊の食べ物を咀嚼などでまずは体内に入る大きさにし、それを各種の生化学的過程で時間をかけて体内に吸収できる大きさの分子までに分解します(分解された分子は、体内で新たに結合され、新たな形で活用されます)。

聞いた・読んだ話の消化でしたら、一塊の話を、まずは自分で整理できるぐらいに分析します。それをさらに自分の心と身体に浸透させるぐらいに細かな要素に分解します。浸透した要素は、いつしか新たな形で自分の心身の一部となり、時がくれば新たな形で活用されます。

私がシンポジウムで応答した話も、そのように(自分なりに)消化した話でした。消化されてしまっているから元の話の形をとどめていないことも多いのですが、自分の心身の中で消化され再結合されたものですから、それなりに自然な形での応答になったのではないかと思っています(もちろんこれは私の単なる思い過ごしで、傍目にはおかしな応答だったのかもしれません(笑))。


と、自分のことは棚に上げた話を続けますと、昨今の教育では、情報や知識の「消化」を大切にせずに、すぐに「インプット」を「アウトプット」にすることを求めてばかりのようにも思えます(いつものような過度の一般化です。ご用心あれ)。

聞くところによれば、一部の猿は、木の実などを見つけるとそれを頬にためておくそうです。(ひどい)たとえをするならば、昨今の学習者は、そんな猿のように、情報や知識を「インプット」として貯めて、それを消化せずにそのままの形でテストで「アウトプット」ばかりしているようにも思えます(ひどいたとえでごめんなさい)。


「先生、ボクは一気に木の実を五つも頬に貯めておくことができるようになりました。明日のテストではこの五つをそのまま吐き出すことができますよ、ウキィ」。

「おお、学力がついたな。でも先生は一気に十個ぐらいは木の実を貯めておくことができるぞ。ほれ、プッ、プッ、プッ。な、今でも木の実を貯めておったのじゃ、ウキィ」

「わあ、先生すごい。ボクも先生のようにすぐに木の実を多く集めて頬に貯められるようになろう。そしてすぐに吐き出すんだ、ウキィ!」


ーー 情報や知識を、テストで問われる形でそのまま覚えて、それをできるだけ多く貯めておいて、テストで一気に吐き出す ーー そんな「学習法」は、私にとってこのようなお猿さんの営みのように思えます。


木の実を頬に貯めて吐き出すだけでは、消化がありませんから、木の実はそのお猿さんの身につきません。それと同じように、現代の学習者は、できるだけ速く多くの木の実を頬に貯めては、それをすぐにテストで吐き出すだけで、ほとんど学んだことが身についていないのではないかと、私はイメージしてしまいます。おそろしいほど応用が効かないからです。(また私の悲観癖です。ご用心、ご用心)。

しかし私が見る所、英語の学習では英単語の丸暗記、教採対策では問題集の問題と解答(あるいは教育法規)の丸暗記が、未だに学生さんの間では定番の「勉強法」となっています。私などが「それではいざという時に使えないでしょう」と言っても、「いや、やっぱりこれが一番確実ですから」と学生さんはかなり頑固で丸暗記方法を改めようとしません。

この「丸暗記=最善の勉強法」というのは小中高や塾で徹底的に叩き込まれた習慣なのでしょうか。(本日学生さんから聞いた話によると、ある高校では英作文は模範解答だけをテストでの正解として、他の(それなりに意味の通る)解答はすべて不正解としているそうです。ちょっとひどい話だよなぁ)。


多くのインプットをすばやくアウトプットし次々にテストに合格するのではなく、不器用にわずかなことをゆっくりと考えじっくりと自分の中で熟成させそれがいつか思わぬ形で活用される ―― 牧歌的なようですが、私はそれこそが生きる力につながる学びだと思います。

熟考し、考えを深める ― そんなすぐには結果の出ない営みを軽視する文化の未来は暗いと私はいつものように悲観します。





2011年12月12日月曜日

寺村秀夫『外国人学習者の日本語誤用例集』(大阪大学、1990年)のPDF版とデータベース版の公開




翻訳家・山岡洋一さん追悼シンポジウムでは、非常に実りある議論と思いがけない出会いなどあり、関係者の皆さんには本当に感謝をしています。本来ならその報告を書きたいのですが、今は非常に疲れていますので、取り急ぎ、その際に得た情報の一つをここで共有させて下さい。


シンポジウムでお会い(再会)できた方の一人に赤瀬川史朗先生がいらっしゃいます。




その赤瀬川先生が、国立国語研究所からのオンライン・データベース公開で尽力されましたのが、


寺村秀夫『外国人学習者の日本語誤用例集』(大阪大学、1990年)
http://teramuradb.ninjal.ac.jp/


です。このサイト説明にもありますように、この資料は、


諸外国からの留学生が書いた作文に見られる日本語の誤用を収集・分類した資料として、日本語教育の研究者だけでなく理論的・記述的な日本語学・言語学の研究者にとっても学術的に大きな意義を有するにもかかわらず、科学研究費の報告資料としての性格上、これまでは限られた図書館・研究者が所蔵するだけに留まり、広く一般に活用されることはありませんでした。[強調は柳瀬が付加]


それが今回、PDF版だけでなく、使いやすいオンライン・データベースでも無料一般公開されたことの学術的な意味は非常に大きいことと思います。



寺村秀夫『外国人学習者の日本語誤用例集』(大阪大学、1990年)の
オンライン・データベース
http://teramuradb.ninjal.ac.jp/db/




あの『日本語のシンタクスと意味』をまとめられた寺村秀夫先生による研究ですからいやがおうにも期待は高まります。

私も先ほどアクセスしたばかりですが、まずは多くの方々に知っていただくために、このブログでお知らせする次第です。




2011年12月9日金曜日

英語子音の発音法のわかりやすい表記




運動技能習得の王道は、正しいフォームをまずはきちんと理解して、それをゆっくりと行えるようになること、そして少しずつ速くできるように練習することだと私は信じています。最初から見よう見真似で素早く行おうとすれば(天才でもない限り)自分の癖をつけてしまうだけだと思います。

下手でもいいからきちんと原理に忠実に行う「下手な稽古」と、最初から上手にやろうと闇雲に行う「駄目な稽古」という区別をするのは黒田鉄山先生ですが、英語の発音に関しても、愚直かつ丁寧に「下手な稽古」を重ねて、決して「駄目な稽古」で自分をごまかさないことが大切かと思います。

英語学習者(あるいは英語教師!)も発音について原理に忠実な練習を積み重ねる必要があります。「駄目な稽古」はすぐに「それっぽい」発音を生み出しますが、後々上達しませんし癖が強くなるかもしれません。ですが「下手な稽古」を辛抱強く続けると、数カ月後・数年後とその分だけ英語発音の原理に忠実な音が出せるようになります。


しかし英語発音の原理である調音音声学(acoustic phonetics)の本を見ると、難しく見える専門用語に圧倒されてしまいます。それぞれの用語が意味していることは非常に単純なことなのですが、専門用語が難しく見えるという理由だけで多くの人は英語発音の原理を理解することを諦めてしまいます。

これは非常にもったいない。繰り返しますが、難しいのは用語だけであり、その中身は簡単だからです。


そこでここでは、通常の調音音声学の専門用語をわかりやすく言い換えた表を提示します。最初にわかりやすい表現、次に日本語での専門用語表現、最後に英語での専門用語表現をつけておきます。



表1 子音の発音法のわかりやすい表記
(クリックすれば大きくなります。ダウンロードはこちらから)



表2 上の表の灰色の部分に入る発音記号
(クリックすれば大きくなります)
出典:George Yule (2010) The Study of Language Cambridge University Press. p.34




まずは、子音の出し方を理解しましょう。次の4つを理解して下さい。


(1) 子音とは、口の中で空気の流れを妨害することによって出す音です(ですから強い呼気(吐く息)が必要です)。

(2) 空気の流れを妨害する場所が、表の上に書いてあります。「子音を作り出す場所 (調音点) place 」です。

(3) 空気の流れを妨害するそれぞれの場所でどのように子音を作り出すかが、表の左端に書いてあります。「子音の作り出し方 (調音法) manner」です。

(4) それぞれの場所でそれぞれの方法で空気の流れを妨害しながら強く息を吐くことで子音を作りますが、その時に喉を震わせない(無声 voiceless)か、喉を震わせる(有声 voiced)かで音が変わってきます。



子音は、以上の4つのポイントを組み合わせることで区別して発音します。上の表の灰色の部分にはどんな音が入るでしょう。




Phonetics: The Sounds of American English

http://soundsofspeech.uiowa.edu/english/english.html


で確認して下さい。上の表に英語での専門用語もつけておきましたから、このサイトの使い方もわかるはずです(使ってみたら感動するぐらい便利なサイトであることがわかっていただけると思います)


次に子音発音の原理を頭で理解し身体に叩きこむために、表1の灰色の部分を見ながら発音してみてください。必要に応じて表2や上のサイトを参照して下さい。


発音は原理に従えば必ずできます。どうぞ、わかったふりをして「駄目な稽古」を繰り返すのではなく、上の表やサイトを使って原理を身につけて下さい。その原理をものさしにして、辛抱強く「下手な稽古」を続けてゆけば、必ず「上手」になれますから。





2011年12月8日木曜日

木村敏(2010)『精神医学から臨床哲学へ』ミネルヴァ書房

私は2009年から2010年にかけての冬に集中的に木村敏の著作を読んだのだけれど、きちんとまとめる機会を失ったまま今日に至っている。私の場合は、本を読んだらこのようにブログに書くか、自分専用のノートにまとめないとどうもわかった気にならない。

だから後日この自伝的な『精神医学から臨床哲学へ』が発刊され読んだ時には、せめてこの本ぐらいはまとめておこうと思っていたのだけれど、これも機会を失い続けてしまっていた。しかし今度の日曜日の翻訳シンポジウムの準備をしていて、この本から多く引用したくなったので、ついでにこのブログ記事も書くことにする。

といってもここではその本の中で翻訳に関するところをまとめるだけである(音楽論についてもぜひまとめておきたいのだが、今は時間がない)。

翻訳と自作については、最近では村上春樹のように両方を行いその2つを相補的に働かせている小説家もあるが、研究者ではやはり「一般論として、翻訳の多い人は自説を展開した著書をあまり書かず、逆に独創的な思想をもって何冊も本を書いている人は翻訳をほとんどしない」(298ページ)とされている。しかし木村敏は、オリジナルの著作を多く出版しながら翻訳書も20冊近くある(298ページ)という点でまさに異例ともいえる存在である。木村は言う。


これは結局、私は翻訳が好きなのだということらしい。原著者が外国語で表現しようとしている思索の内容を日本語で表現し直すとどうなるか、それをあれこれ考えるのはなかなか魅力的な仕事だし、外国語の勉強というだけでなく日本語の訓練にもなる。若い人の教育に読書会を利用するという私の昔からの習慣も、その延長上にあるのだろう。(298-299ページ)


だが、これを木村の個人的嗜好だけの問題として語るのはあまりにももったいない。というのも以下に一部を紹介するように、木村の翻訳論は豊かな経験と鋭い洞察に満ちているからである。

若き日の木村に翻訳の何たるかを教えたのは、木村が学ぶ京都大学の教養部でドイツ語を教えていた佐藤利勝である。佐藤との共同翻訳を振り返り、木村は次のように翻訳についてまとめる。


この翻訳の共同作業を通じて、私は佐野先生から、外国語を日本語に移すというのはそもそもどういうことなのか、それを徹底的に勉強させていただいたという気がする。なによりもそれは、外国語の語学力の問題であるよりもはるかに、日本語の表現力の問題である。著者が自らの言語で表現しようとした、それ自体は言語以前の思想を、原文の言語表現を歪めることなく、つまりいわゆる「意訳」することなく、そのまま忠実に日本語に移しながら、しかもそれが日本語として読めるものとならなくてはならない。原文の言語構造を導きの糸にしながら言語以前の思想を別の言語で表現する、これは紛れもなく立派な創作である。(68ページ)


こうして翻訳の意義を実感する木村は、教師として着任した名古屋市立大学で若い医局員を育てる際に、「自分が若いとき京大精神科で精神病理学を勉強したのと同じ方式で、つまり外国文献を逐語訳しながら著者の思想を学ぶという読書会形式」(215-216ページ)を選ぶ。このような翻訳による学習の意義について木村は次のように論じる。


精神病理学で重要なのは、結論として何が言われているかであるよりも、その結論が導き出される思索の過程である。それを知るためには、著者が書いた一語一語についてその辞書的な意味の背後を「読む」ことによって、その思索に「同行」しなければならない。これは、精神科で患者を診るときに、患者の症状からその表面的な意味の底にある深い動きを読み取る心がけともつながっている。(中略)フロイトはドイツ語の原文で読まなければだめだということをラカンもいっているようだが、私もまったく同感である。日本語の翻訳で読んだり、英語版で読んだりしてフロイトを論じているのは、それこそ論外だと思う。それにフロイトのドイツ語は、ゲーテ賞を受賞しただけあって非常に名文である。そのドイツ語の見事な書き手であるフロイトが、たとえば「快原則の彼岸」などであちこち言い淀んだり不明瞭な書き方をしたりしている箇所にこそ、彼が本当に言いたくて十分に表現しきれていない重大な意味がひそんでいる。それを掘り出す喜びは、ドイツ語の原文からでなければ味わえない。(216-217ページ)


木村は自らの著作を、翻訳家によってドイツ語やフランス語に翻訳された経験も持つが、その時の洞察は次のようなものである。


私の本のフランス語への翻訳のときもドイツ語への翻訳のときも、私はいつも訳者といっしょに仕事をして、訳文や個々の訳語を検討することにしている。この作業は私自身にとっても、ときに思いがけない発見をもたらしてくれるいい勉強になった。その一例を挙げると、私は自分が日本語で書く自己論に「自我」という表現をほとんど使わない。「自我」というのはドイツ語のIch、フランス語のmoi、英語のegoなどの翻訳語であって、日本語の日常用語には含まれていない、というのがその理由である。日本語でものを考えるときには、純粋な日本語を使わなければならない。「自我」という用語を書いたとたんに、その思索は西洋的思索の圏内に引きずり込まれてしまう。これに対して「自己」というのは、中国から仏教を通じて古くから伝わって、すでに完全に日常語になっている由緒正しい日本語とみなすことができる。

ところが、私が自分の書いたもので「自己」と表現しているところを、これらの翻訳者はみな、Ichやmoiを使って訳してくる。あなたが「自己」と書いているところは、われわれの言葉にすれば「自我」なのだ、と言ってゆずらない。ドイツ語で「自己」というのはSelbstである。しかしこの語には元来、一人称的な「私」の意味はない。英語のselfでもフランス語のsoiでも同じことである。それはせいぜい、「それ自身」の意味しかならない。これに対して日本語の「自己」は、一人称的な意味を強く備えている。この違いをはっきり認識したのは、自分の本の外国語への翻訳を通じてだった。西洋との思想交流というものは、小さな言葉一つにこれほどまでに強く縛られている。(230-231ページ)



もちろん木村は、自ら外国語で書くことも行う。それには印象的なエピソードがあった。木村が若い時にピアノを習った中瀬古先生が語ったエピソードである。


先生がドイツへ留学してヒンデミットに入門されたときのこと、まず提出したのは日本古来の旋法を使った曲だったらしい。ところがヒンデミットはそれを聴いて、異国趣味で効果を狙うのは邪道だ、西洋音楽の作曲を学びたいのなら、ハイドンの音楽を徹底的に勉強して、ハイドンの書き方で曲を書いてみなさい、と言ったそうである。この逸話は、のちに私が外国語で精神病理学の論文を書くことになったとき、自分自身に対する戒めとしてよみがえってきた。あとからも書くことになるだろうように、私がそこで試みたのは、日本的ないし東洋的な思考法や言語表現を導入することによって、従来の西欧中心的な精神病理学を脱構築しようとすることだった。私の試みが西洋の同僚たちに単なる異国趣味やもの珍しさで受け入れられるのではなく、そこに真の意味での革新をもたらしうるためには、私もひとまずは徹底的に西欧的な思考に同化した上で自説を展開するのでなければならないと考えた。そんなことを考えているときにいつも念頭を離れなかったのが、中瀬古先生がヒンデミットから受けた忠告だった。(40ページ)


かくして木村は、西欧的思考をマスターした上で日本的概念を導入したドイツ語論文を書く。その時のエピソードが以下である。


そのような趣旨のことをドイツ語で書いてマイヤーさんに見せたら、非常に面白がってくれた。ドイツ語についても、ドイツ人だったらこんなドイツ語は書かないだろうが、日本人が日本の考え方を踏まえて書くのなら大体これでいいだろうと言ってくれて、この生まれてはじめて、しかもドイツ語で書いた精神医学論文を、当時ドイツでもっとも権威のあった『ネルフェンアルツト』という学会誌に載せてくれることになった。それだけではなく、彼は数年後に、自分の手で古今の有名な離人症論文を集めて編纂した『離人症』という学術書に、私のこの論文を収録してくれた。(99ページ)


19世紀後半から20世紀後半にかけての日本の人文系知識人は、異質な西洋言語による思想を翻訳する中で新たな日本語を創り出すことを課題とした。その後、人文系知識人は理系研究者が次々に英語などの西洋言語で業績を出すのを横目で見ているだけだった。非西洋語である日本語の思考をを西洋語に載せて表現するのは困難だからだ。

無論、人文系知識人の中でも英語で業績を出す者もいたが、その多くは業績の思考を、日常的な日本語の思考とは無関係の、英語での学術的論文での思考に合わせただけのものだった。理系研究者と同じように、日本語的な思考をいったん忘れて英語で書いていた。学術的業績の思考と日々の暮らしの思考は切断されたままだった。

だが少しずつだが、日本人人文系知識人の中にも、単に英語世界に同化した論文を書くのではなく、自らの日本語世界の思考や感情を英語表現に導入した論文を書く人間も現れはじめた。

現代のグローバル社会では、英語を使うことがますます当たり前になってきている。「ネイティブ並に英語を話す」だけの価値はどんどん下がっている。価値は話す英語の内容の方に移ってきている。

そんな中、木村敏は、「西洋化」という近代の論理を習得した上で、自らが根ざす非-西洋文化(日本文化)を西洋の論理で理解できる形で導入し、そのことによって西洋・近代を脱構築しようとする。木村敏こそは、21世紀日本の人文系知識人の一つのあるべき姿であるとは言えまいか。



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2011年12月5日月曜日

従技無明ではなく、工夫窮理




先日に参加したある授業研究会で、ある若い先生に声をかけていただき、研究会でもいろいろ意見交換させていただきました。さらにメールまでいただき、ことさらに共感しましたので、下に一部を変更(固有名等の削除と、改行と太字強調の追加)した上で転載します(この転載に関してはその先生の許可をいただいております)。


 昨日の○○研究会に参加しました○○の○○です。日頃先生のブログで勝手に学ばせてもらっている者としては直接先生のお話が聞けてとても貴重な経験となり、勉強になりました。大変ありがとうございました。教育研究会の中で、○○中の○○先生や○○先生が先生方の個性を生かし、よりよい授業方法を創造しようとする姿勢に私は多くのことを学ぶことができたように思います。
 
 それに関わって先生のブログにある『この私の日本語のまとめを表面的に読んだだけの「ギロン」なんて止めて下さい』というこのコメントに、私自身の心に引っかかっている実践をする上での課題を解決する糸口があるような気がしてなりません。というのは、「授業は創造するもので、コピーするものではない」ということです。

 私自身教員採用試験の時の模擬授業では達人の先生の授業を「真似したもの」を実践しました。VTRなどを何度も見て、授業のエッセンスを完全コピーすることでその場を乗り切りました。晴れて英語教師となってからも、授業の腕を上げるべく、「技」の本を読んだり、セミナーに参加をしたりしました。
 
 今現在では自分の欲しい情報がすぐに手に入る時代です。ネットを見れば、学習指導案や特定の文法をどのように教えるかなど、すぐに役立つ資料はごまんとあります。そんな環境の中で、自分自身の考えをもとに授業を創造するということがあやふやになっている気がしています。失敗を恐れるが余りに、達人のアイディアの傘の下で生かされているだけの存在なのではないかと感じることが多くありました。英語教師として、自分の目の前にいる生徒に「精度の落ちた達人の技」のくり返しばかりをしていたのでは、達人の先生や何より生徒に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 昨日の帰りの電車の中で、『リフレクティブな英語教育をめざして』の先生の「自主セミナーを通じての成長」を読み返しました。達人の先生の技を解釈し、工夫しながら取り組むこと、つまりは技の取り入れ、工夫、そしてその技を超えていくことが大切なことを再認識することができました。そして、まとめに先生が述べている『「やり方」(HOW)以上に、教師としての自分の「あり方」(BEING)を学ぶべきなのかもしれません』というコメントを私自身が実感することができ、それが本教育研究会を通して学ぶことができたのだとわかりました。
 
 当たり前のことかもしれませんが、教えること、英語教育についての本質的な学びを深めていかなければと感じることができました。そんな意味で本当に充実した時間を過ごすことができました。今回の研究会の関係者の皆さまや参加者の方々に感謝いたします。
(後略)



私に対する過分の評価はさておき、この先生のメールは私も最近改めて強く思っていることを書いてくださっていましたし、何より『「やり方」(HOW)以上に、教師としての自分の「あり方」(BEING)を学ぶ』というのは、私が『リフレクティブな英語教育をめざして』の「自主セミナーを通じての成長」 ― 博士論文を除くなら一番苦しんで書いた文章 ― 、を書き上げる中で到達した結論であり、そこをまさに引用してくださったので嬉しく思い、ここに転載しました。


「英語授業」で教師がやること言えば、事実上「文法説明と英文和訳」でしかなかった時代では、英語教師の様々な教授法 ―「技」― は、幅広く紹介される必要がありました。私の個人的印象では、90年代後半から「英語教育達人セミナー」(達セミ)の開始や、VHSからDVDへのメディアの進化、個人ブログの増加、そしてそれらに連動したような英語教育技術の出版物の増加により、ここ15年間で英語授業のあり方は ―少なくとも研究授業で見られるような授業では― 大きく変わりました。随分前、研究社の『現代英語教育』は、英語教師の典型像として分厚い眼鏡をかけて分厚い辞書と文法書を持ち歩いている教師を描き出しましたが、いまやそのような英語教師は絶滅危惧種であり、現在の英語教師の(やや誇張された)像はストップウォッチやタイマーを首から下げ、iPodなどのメディアを駆使するものかもしれません。

ストップウォッチやタイマーで短く時間管理をする英語教師というのは、実際、少し前まではとても新しい考えでした。この時間管理が英語授業によい影響を与えたことは疑いないと私も思っています。

しかしこの時間管理という「技」も、ただ表面的に真似られるなら、何をやっているかよくわからない授業を作り出してしまいます。昔、ある授業で教師が、レストランでの会話(ウェイターと客の間での注文に関する会話)を、極めてマジメな顔をして高速で生徒に音読させたり、シャドーイングさせたり、Read & Look Upさせたりと「トレーニング」しているのを見て、私は思わず笑い出してしまったことがあります。

もし仮にレストランで私たちが英語を使わなければならないとすれば、それはリラックスした笑顔でウェイターとアイコンタクトをして、互いにいい関係を築くことを最優先とした上でのことでしょう。そこでの英語使用に厳密な正確さや過剰な高速発話などは必要ありません。しかしこのような会話まで「トレーニング」の対象としてしまうことは、そういった現実世界での英語使用について、生徒に誤った感覚を植えつけてしまうとは言えませんでしょうか。

あるいは最近はどうも「思考力・判断力」などが研究授業の流行のようですが、ゆっくりと英語表現の意味合いや響きを感じさせた上で思考を紡ぐべきところを、「ハイ、3分で考えて」と指示し「ピピピピピ」という耳障りで品のない音で思考を中断させるのは、趣味の問題と言われればそれまでかもしれませんが、私などにはどうも馴染めません。

仮に時間管理をしなければならないにせよ、それは教師が密かに腕時計などを見つつも、何よりも生徒の顔つきや姿勢などを観察しながら、「もういいかな?」と静かに声をかけるぐらいが適当ではないでしょうか。そういった配慮こそは、感覚と思考を働かせている生徒にとって必要なことではないでしょうか。

上の二つはわずかな例に過ぎませんが、どうも多くの英語教師が「技」に振り回されてしまっているようにも思えます。「技」がどこか「上」 ― 達人や文科省やエライ先生 ― から降ってきて、それを使わないといけないとばかりに、どこか浮き足立ってしまっている、あるいは「上」が(そのつもりはなくとも)そのように現場教師を浮き足立たせてしまっているのではないか ― 時にそう思えてしまい、私は『リフレクティブな英語教育をめざして』『成長する英語教師をめざして』の文章を書きました(ここにはウェブで広く「技」を紹介してきた一員としての責任感もありました)。

技を知ることは大切です。何も技を知らないよりは、知っていた方がいい。ただ、だからといって無闇に技を覚えればいいというわけではない。また武術メタファーで恐縮ですが(笑)、たとえば相手が左に崩れている時には、相手をそのまま左に崩せばいいだけの話なのに、そこで相手を逆に右に崩す技をかければ「何をやっているんだ」ということになる。さらには、強引に相手を左から右に崩した上で、改めて相手を左に崩す技をかければ、もう何をやっているのかわからなくなる ― 技も、技のHowだけを知るだけでなく、技のWhatとWhy(そもそもこの技は何であり何のために使うのか)を知らなければ、技を覚えただけ愚かになってしまいかねません。技を覚えて、自らの「正中線」を失ってしまえば、何もなりません。


技に表面的に従うだけで、自分で何をやっているのかかえってわからなくなることは、

従技無明


とでも言えるのかもしれません(スミマセン、造語は私の悪趣味の一つです 笑)。


必要なことは、私達が技に振り回されることなく、地に足をつけて、自分のやっていることが何なのか(What)、何のためなのか(Why)を見つめ直した上で少しずつやり方(How)を改善していくことでしょう。

そして、このWhat-Why-Howをめぐる私たちのあり方 ― 私たちの例なら、教師と生徒がこの現代において学校という場で出会い時間を共有しているということ ― の「理」を究明しようとすること、つまりは私達が生きていることの根本の原理を少しでも明らかにしようとすることを目指すべきではないでしょうか。

ことばが大げさになってしまいましたが、地に足のついた工夫を重ね、「天」とでも表現したいことの理を探ることは、


工夫窮理


とでも表現できるかもしれません。(←造語性中2病www)

「工夫」はともかく「窮理」とは大げさなと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、授業技術でも格闘技術でも、技の改善だけに囚われてしまうと、新しいことは新しいのだけれど、何のためにそんな変更をしているのかわからないような奇っ怪な「工夫」が見られると私は観察していますので、敢えて「工夫窮理」と四文字熟語を作りました。(←病識のない中2病www)。


まずは自分が置かれた状況、自分という人間、そして目の前にいる生徒を見つめ直し、これまでの日常に少しずつ工夫を加えて、その工夫の中で英語教育という営みの理を根本から考えつつ、日常を続ける ― こんな「あり方」(BEING)を大切にしたいと思います。

そうすれば、各種メディアがふんだんに提供してくれる「やり方」(HOW)の情報も活用できるでしょう。各種メディアを使いこなすためにも、私たちは自分たちの存在という根本について考える必要があるかと思います。




結論

この記事の書き手は、病識のない造語性中2病に罹患しながら、中高年性説教症を併発している恐れがあります。関係者は特別の注意を払うようにしてくださいwww。




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