以下の文章は、『
15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること』のために私が書いて、結局は没になった第三原稿です。本日、英語教育における文学の重要性についてゼミで話していたら、ふとこの原稿のことを思い出しました。ハードディスクの隅に置いたままにしておくとこの原稿も成仏してくれそうもないので、ここに掲載します。ナンマイダ。
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詩を書く、ましてや英語で詩を書くなどというと、およそ役に立たないことのように思われている。それよりも「論理的な文章を書くべきだ」、「英語はビジネスのためにこそ必要」というのが世間の意見というものだろう。
なるほど。でも事はそんなに単純なのだろうか。
私はそうは思わない。人間の知性、そして言語というものは奥が深いからだ。
で、その奥の深さをこれから語ってゆこうと思う。だが退屈な話はしない。だからとても挑発的な形で結論を先に言ってしまおう(やたらと情報ばかりが行き交って、深い話ができない現代においては、話をするためにもいろいろな策略が必要なのだ)。
言い切ってしまうとこうなる。
詩がわからない奴はバカだ。そして、バカには金儲けはできない。
と、ここで話が終わってしまってはインターネットの2ちゃんねると大差なくなる。だから説明しよう。とりあえず「詩がわからない奴」から始める。
詩がわからない奴をイメージするために、そういった奴を「正確で論理的な文章しかわからない奴」と言い換えてみよう。だって詩なんて、およそ非論理的で曖昧な文章の代名詞みたいに考えられているからね(もちろん、それはけっこう正しい認識なんだけど)。「正確で論理的な文章しかわからない奴」って表現は長いから、ここから彼のことは(彼女でもいいんだけど)正くんと呼ぶことにしよう。
正くんは、実はとっても学校の成績はよかったりする。なんせ正くんは言われたことはすぐにやっちゃうから。でも正くんの弱点は、何から何まできちんと言われないと、行動に移すことができないということだ。そう、つまり「正確で論理的な文章」じゃないと受け付けないんだ。
だからいい加減な学校の先生が説明を「・・・と、まあこんな感じだね」と締めくくろうなら大変だ。正くんはくってかかる。「こんな感じとは、どんな感じですか。正確に言ってくれなければわかりません。ノートも取れません。覚えられません。そんないい加減な授業なんてしないでください」などともう大変だったりする。そこで先生は恐縮し、「こんな感じ」ということを、家に帰って大学卒業以来開くこともなかった学術書やら資料をひっぱりだして書き連ねてくる(ときには元指導教官に泣きついたりもする)。そうやって先生は「こんな感じ」に関するとびきり正確で論理的な文章を次の授業でプリントにしたりして渡すわけだ。
正くんは、まあとりあえずそのプリントで落ち着いたりするんだけど、当然クラスはしらけている。先生もうかつに物が言えないと萎縮したりしてしまう。あんまりハッピーな状況ではないんだけど、正くんの成績は抜群によかったりするもんだから、みんな何も言えないでいる。んでもって正くんはそのことに気づかないでいたりする。(なんせ彼は正しくて論理的なんだ!)
まあ当然、正くんは詩なんて嫌いだ。というより詩を読んだり書いたりすることを軽蔑したりしている。詩なんて頭の悪い奴が書くでたらめな文章ってわけだ。それどころか、正くんは小説も嫌いだ。ある時、現代国語の宿題である長編小説を読まされた正くんは、先生に「結局はこの小説は何を言いたいのですか!」と先生にくってかかった。かわいそうな新任のその先生は「いや、その、なんというか、・・・」とうろたえる。「結局テーマは『人生における愛の重要性』ですか。だったらそうと先に言ってください!『人間には愛が大切』と最初のページに書いておけば、この本は終わりじゃないですか。小説なんて紙の無駄です。私も小説なんて読んで数日を損しました!」とにべもない。
それなのに正くんにあこがれる女の子が出てきたりする。恋ってまったく不思議だ。んでもって正くんと彼女はデートしたりするんだけど、当然のことながらデートは楽しくない。正くんは遠目でみているにはよかったんだけど、なんせ会話がはずまないからね。だから彼女も次のデートの約束ははぐらかしてしまう。でも恋の魔法で、その女の子はなぜか正くんへの気持ちは断ち切れない。
でもそんな曖昧な状況が続くと正くんはおさまらない。「どういうことなのさ」と正くんは問い質す。「つきあうのかつきあわないのか、はっきりしろよ」。電話口で彼女は絞り出すように言う「そんなこといっても、わかんない」。
実はこのとき彼女はちょっと涙ぐんでいた。「そんなこといっても」の後には、一瞬のためらいがあった。「わかんない」の声には哀しみがこもっていた。彼女のことばの後には秒数に換算できない沈黙の長さがあった。
でもそれは正くんにはわからなかった。彼は彼女の言葉を聞くやいなや、すぐに明朝体の活字に変換していたに違いない。彼には言葉がどう語られるかなんて関心がない。何が言われたかだけが問題だ。正くんはその活字を文法解析した。そして出した結論。彼女の言ったことは曖昧すぎる。愚かだ。自分の気持ちがわからないなんて非論理的すぎる(「自分のことがわからない自分」なんて正くんには形容矛盾のようにしか思えない)。
かくして正くんの生涯一度の女の子とのつきあいは短く終わった。正くんはその後、勉強によりいっそう専念し、最高に偏差値が高い大学を優秀な成績で卒業し、最高に世評が高い会社に入社した。
さて、ここで問題。正くんはこの後どんな人生を送るのだろう。
幸せな結婚生活を送れるだろうかというのは、簡単すぎて面白くもなんともない。おそらく正くんは一生独身だろうし、結婚するとしてもせいぜい政略結婚で、あとは氷のように冷たい家庭内別居が待っているだけだろう。
考えてほしいのは、正くんが仕事で成功するだろうか、ということだ。
同僚や取引先とのコミュニケーションがうまくゆかないだろうというのは想像に難くない。だからそういうことも除外していい。彼はほぼ一人で仕事をするとしよう。彼は会社に、いや社会に必要とされるだろうか。金儲けができる人間となるだろうか。
むずかしいというのが僕の考えだ。
なぜって、それは簡単。彼の能力はすぐにお払い箱にされるからだ。彼のライバルはあまりにも多数で強力で、さらにもって毎年毎年増えるし力量を上げてくるからだ。
彼のライバルはコンピュータ。
「正確で論理的な事柄」の処理速度なら人間はコンピュータに勝てない。正くんの「正確で論理的な指示」を受けて行う仕事は、どんどん進歩するコンピュータに取って代わられた。
というより「正確で論理的な指示」に従うことなら、訓練されればどんな人間にだってできる。もちろん正くんの仕事の速さはたいていの人間より速いが、正くんはあまりに高給取りすぎる(安い労働力ならいくらでもいるというのがグローバリゼーションの現実なのだ)。正くんの存在価値は、コンピュータあるいは安価な労働力によって否定された。
ペーパーテストの成績とか言う意味ではなくて、本当に優れた知性というのは、つまり真に社会が求めている知性というのは、----さらには詩なんて役に立たないと思っている人を挑発するために言うと----、金儲けができる知性というのは、正くんのような知性ではない。曖昧な状況の中で出された、必ずしも正確でも論理的でもない言葉の中ででも、柔軟かつ適切に行動できるような知性こそが求められているのだ。
もちろん、そのような指示をより正確かつ論理的にすること、つまりは行動のマニュアルを作ることも次に求められる大切な仕事の一つなのだが、残念ながら現代社会はマニュアルで対応できるほど単純ではない。またマニュアルを作った頃には、その状況は終わっていたりもする。第一級の人材に求めてられているのは、曖昧な言葉を適切に理解できることだ、としてここでは話を進めよう。本当はこのあたり、いくらでも語りたいんだけどね。
このような曖昧な言葉の理解とはどういうことかを考えるためには、さきほどと同じように、逆の例を考えてみよう。曖昧でない言葉とは、もちろん正確で論理的な文章。そんな文章の例としてはマニュアルが考えられる。
マニュアルとは、誰でもその文章を読んだら、あることができるようになるようになっている文章だ。それは言語学的に言ったら、「文字通りの意味」(literal meaning)の理解だけで、行動に移せる文章と説明することができるだろう。
「文字通りの意味」の理解とは、辞書と文法書があれば可能な理解のことだ。英語の直訳を考えてもらえばわかる。わけのわかんない英文の単語一つ一つに、辞書に出てきた「意味」(ここでは訳語ってことだ)をつけて、それを英文法の本が教える通りの語順にならべた和文を書いて、テストでは丸をもらったことはないかい?
まあ上の説明は外国語理解のことだけど、日本語でも同じだ。「文字通りの意味」とは辞書と文法書通りの意味のこと。
この「文字通りの意味」というのは、言語を少しでも知っているものなら誰でも理解することができる。マニュアルというのは、文字通りの意味の理解だけですむように書かれた文章のことだ。
だからたとえば電子レンジのマニュアル(取り扱い説明書のことだね)なら、電子レンジのそれぞれの箇所やボタンに番号なんかがついたりして、「まず1に温めたいものを入れてドアを閉めます。次に2のボタンを押して加熱時間を決めます。そして3のボタンを押したらスタートです。ブザーがなったら温めたものを取り出してください。」なんて指示が書いてある。簡単だね。便利だね。
でもさあ、これはアメリカで本当にあった話らしいんだけど、そうすると電子レンジに猫を入れる人がいたらしいんだ。なんでも猫が濡れていて可愛そうだったんだって。で、猫を電子レンジで温めて、大騒ぎってわけだ(飼い猫の生活がこんなにハードになりうるって知ってた?)。
こんな悲劇を防ぐにはどうしたらいいんだろう。マニュアルを整備しようか。「ただし猫は入れてはいけません」。すると今度は濡れた小鳥を乾かそうとする奴が出てくるかもしれません。「猫と小鳥は入れてはいけません」。ハムスターは?「生き物は入れてはいけません」。すると真面目そうな奴がおそるおそるコールセンターに電話で問い合わせをしてくる。「あのお、エビ料理を作ろうと思うんですが、このエビ、まだピチピチして生きています。やっぱり電子レンジに入れてはいけないんですよね」。
ふう。ため息だ。
こんな時、日本語ではなんて言うんだろう。
そう。「バカにつける薬はない」だ。
このようにマニュアルでしか動けない奴のことを今後はバカと呼ぶことにしよう。(そう、実は正くんも偏差値が高いバカだったんだ)。
バカを直すには、マニュアルは実はあまりよい解決策でない。マニュアルはどんどん厚くなり、「こんなの読めません」あるいは「どこを読めばいいのか教えてください」となるに決まっているからだ(正くんは、処理能力が高いからマニュアルをどんどん作れば事態は解決すると思うかもしれないが、おいおい説いてゆくように、事態はそれほど単純ではない)。
バカを別様に定義するなら、バカとは文字通りの意味だけでコミュニケーションを取ろうとする奴と定義できる。彼(いや彼女だろうか)は、言葉には、文字通りの意味以外の「話者の意味」(speaker meaning)と呼ばれている意味があるということがわかっていない。
人はたいていの場合、自分の思いのすべてを言葉に込めることはできない。人が発した言葉は、まずもって文字通りの意味を持つけど、その文字通りの意味だけで、その人が意味していることがすべて表現されているなんてことは、実はとっても珍しいことなんだ。たとえばさっきの電子レンジの例。「温めたい物を入れてドアを閉めます」にせよ、当然マニュアルを書いた人は「温めたいと思っている食べ物あるいは飲み物を入れてよね。もちろんあんまりでかいものとか変なもの入れちゃ駄目だよ」ということのはずだ(まあ猫なんて予想もしていないだろうけど)。でもそこまで書くとめんどくさい。読む文章も長くなる。だから「温めたいものを入れて」とだけ書く。あとはわかってくれよ、というわけだ。
言語学の教科書(このような言葉の使い方に関する領域を言語学では語用論というのだけど、それはそれとして)では、よく「この部屋寒すぎませんか」などという文が使われたりする。僕はよく夏休みにいろんなところで講演をしたりするんだけど、時に冷房がきついことがある。そんな場合に「この部屋は寒すぎませんか」などと言うと、事務局の人はすぐに冷房のスイッチを調節してくれる。考えてみれば不思議だよね。僕の言葉の文字通りの意味は<この部屋の温度が下がりすぎているような気がするが、あなたはどう思うか>といったものだろう。だからその言葉の返事としては「そうですね。私もそう思います」か、「そうは思いません」が適切なような気もする。だがそんな返答をする人は、「気の利かない奴」と呼ばれるだろう。口の悪い奴は「バカ」と呼んでしまう。
こうすると
言葉の意味 = 文字通りの意味 + 話者の意味
とまとめられて、話はとっても簡単なような気にもなってくる。文字通りの意味は単語の意味と文法がわかっていれば、誰でもわかるのだから、後は話者の意味を正しく同定できればいいだけのような気がする。
確かに僕が講演中に「この部屋は寒すぎませんか」という時に、主に意味している話者の意味は「部屋の温度を調節してもらえませんか」といったものである。でも実はそれだけではない。「ひょっとして僕だけ寒がっているのなら、さっき脱いだ上着を着ますよ」といったことを意味している場合もあるし、場合によっては「ちょっとここの責任者は万事において配慮が足りないのではありませんか」であったりすることもありうる。僕は、僕でも正確には把握していない微妙な境界線をもった一連の範囲のことを意味している。
話者の意味とは、実はしばしばはっきりしていない。話者でさえ、自分の気持ちや言いたいことが常に完全にわかっているわけでない。「意味したいことを、とりあえず、この言葉に託してみる。そうしたら、当座のところはうまくいくんでないのかと僕は思っている」というのが話し手の実情というものだろう。いつもいつも、どんなバカにも誤解されないような言い方をしていたら、僕らは話す前から疲れ果ててしまってコミュニケーションどころではない。言葉の意味とはたいてい「ま、こんなところ」なんだ。その「こんなところ」を、良い加減で、適当にだいたい理解できるのが、言葉を操る人間の知性なのだ。コンピュータにはこれができない。バカにもこれができない。
だから正くんの彼女が「わかんない」といった時に、正くんは、彼女の言いたいことを、身体全体で理解するべきだったのだ。彼女の声色。言葉の緩急。言いよどみ方。なぜこんな言い方をするのか(あるいはなぜこんな言い方しかできないのか)。彼女の前の言葉はなんだったのか。どうして次の言葉が続かないのか。これまでの自分と彼女の関係はどうだったのか。彼女はどんな気持ちでいたのか。自分はそんな彼女のことをどう理解していたのか、などなど。そんな、言葉には正確には表現されないけれど、とりあえずはそう言うしかない話し手が託した意味を、その意味の広がりと深まりを、過剰解釈をすることも過小解釈をすることもなく、いい具合に理解すること、それが言葉を理解することなんだ。
もちろん、これは簡単なことではない。聞き手は、もっと理解しようと、問いかけをするだろう。それでいいんだ。それがコミュニケーションなんだ。
と、ここまでは聞き手のやるべきことを中心に語ってきた。聞き手は文字通りの意味を理解するだけでは駄目で、話し手が言いたい話者の意味を適切に理解しなければならないと言うことだ。
でも話し手も努力する必要がある。いつもいつもわずかな言葉しか言わなくて、「わかってくれないのはあなたが悪い」なんて言っている女性(あるいは男性)は、明らかに努力不足だ。話し手というのは、聞き手がちゃんと自分(話し手)が言いたいことをだいたい理解してもらえるように言葉を選ばなければならない。
こうすると言葉を使うとは、単語の意味と文法を知ってそれらを適用するだけのことではない。相手の心を読むことも言葉を使うことの一部なんだ。聞き手は相手(話し手)の心を読む。「この言葉で話し手はどんなことが言いたかったのだろう」。話し手も相手(聞き手)の心を読む。「聞き手にうまくわかってもらうための必要にして最小限の言い方はどんなものだろう」。
相手の心がわからない奴は、いくら言葉が正確で流暢でも、よいコミュニケーションをしているとは言わない。お偉い先生によくいるよね。正確なのかもしれないけれど、決して聞き手の理解を配慮することなくしゃべりつづける先生。その先生に言わせれば「わからない方が悪い」のかもしれないけど、僕に言わせれば悪いのはその先生だ。
現代社会というのは、単純なやり取りをするだけではなく、高度で複雑で微妙なことを的確に言葉にし、理解することが求められている。お金儲けしようとしたら、そんな言葉の使い方ができなければならない。辞書と文法書の暗記だけならコンピュータに任せな。近い将来、かなりの有用度で文字通りの意味を操つるコンピュータ(電子翻訳機)はできるだろう。でもその文字通りの意味に託された意味を的確に理解できる知性、広くて深いから自分でもうまく表現できないことを適切に言葉に託す知性はコンピュータにはできない。バカにもできない。そんな知性が大切なんだ。
で、ようやくここで詩を書くことに話題を戻す。
詩を書くということは、言葉を丁寧に選んで並べて、できるだけ少ない言葉で、読みようによってはどんどん深く広くなる世界のあり方に読み手を誘うことだ。
ここでは文字通りの意味が主役ではない。文字通りの意味を、慎重に重ねることによって、話者の意味を、ある時は強く、ある時はきわめて微妙に、ある時は書き手にも予想のつかないようなやり方で、しみじみと読み手の心に伝えてゆくのが詩を書くということだ。
さらに詩では文字通りの意味さえぐらつくことさえある。文字通りの意味とは、言葉を記号としてとらえたときに想定できる意味のことともいえる。記号においては、シンプルな鉄則がある。A=A。AはどこまでいってもAで変化することはないということだ。
ところが詩では言葉の同一性すら揺らぐことがある。ある言葉が、数行の他の言葉の連なりを経た後は、様相を変えて現れることも詩ではよくあることだ。
A=Aが成立しないのに、Aをどんどん理解してゆくということ。これは絶対にコンピュータはできない。高度な人間の知性こそができることだ。
もちろんそうだからといって、詩ではでたらめに言葉を選んで並べていいというわけではない。独りよがりで書いてはいけない。読み手を、ある一定の方向へ、しかしどこか広がりを持った形で導けるように書かなくてはならない。強引で有無を言わせないやり方でなく、繊細でまるで自然に導けるように書かなくてはいけない。
そう、詩を書くとはとてもデリケートな知性によることなんだ。
電卓の親玉ができるようなものではない。
さらに詩(あるいはそれに類した書き物)を書くことの特徴がある。
それは書き物が、記号から記号への変換(以後、記号変換と呼ぼう)ではないということだ。
コンピュータの言語処理とは、少なくとも今のところ、記号変換にすぎない。電子翻訳なら、英語を記号として入力して、記号としての日本語を出力する。これがコンピュータの知性だ。
正くんが得意なのも実はこの記号変換だ。英語が与えられればそれを記号としてとらえ、記号規則(文法だね)に従って別記号(訳語だね)にして和訳文を作り出す(英文和訳ってやつだ)。日本語が与えられれば、それを記号として別記号の英語に変える(英作文ってやつだ)。
これが受験英語の王道だ。
なんでこんなにつまんない記号変換が、受験で重宝されるかっていうと、それは採点しやすいから。記号変換で文字通りの意味だけを扱っていれば、文字通りの意味というのは、みんなにとってほぼ同じ幅の意味しか伝えないから、「正解」「客観的な答え」を決めやすい。採点しやすいわけだ。
詩のように話者の意味が微妙に広がり深まる書き物は、この点で受験では嫌われる。「受験生の個性が出てしまう」し、「採点者の個性が出てしまう」からだ。「客観的な採点ができない」ってわけね。
僕なんかに言わせれば、それは採点者にきちんとした人を選んだらいいだけで、それで個性を見ればいいと思うんだけど、四角四面な人はそんなことを嫌う(さらに最近は、四角四面な人が「説明責任」や「アカウンタビリティー」なんていう流行語を振り回すもんだから、僕のような奴はますます生きにくくなっている)。
話がそれてきた。話題を戻そう。詩を書くということは、記号変換ではないということだった。
僕が言いたいことわかるよね。詩を書く人の前にあるのは、記号ではない。記号になる以前の、書き手にもうまく把握できない世界だ。にわかには表現できない世界の相貌。自分でも測りかねる自分の心の動き。わかりそうでわかりえない彼女あるいは彼の振る舞い。さらにはそれらが渾然一体となって、簡単な言語化を拒んでいる、世界のあり方----自然があって、僕がいて、彼女がいて、他人がいて、それらが絡み合っている。だから、自然の見え方も、自分自身の捉え方も、彼女やほかの人との関係も、すべてのあり方が連動していて、自分でもよくわかんない。
そんな存在。世界のあり方。
それを言語で表現するのが詩なんだ。
これこそ人間だけに許された知性だ。
このような知性を持つ人間を私たちは求めている。なぜならそれはコンピュータやバカには不可能な知性だからだ。
コンピュータやバカでもできる仕事はしないこと。高度な知性を持つ人間でしかできないことをすること。それが金儲けの方法だと僕は思う。
わかってもらえただろうか。
詩がわからない奴はバカだ。そしてバカは金儲けができない。
英語で詩を書くなんて役に立たないという考えがいかに薄っぺらいということはわかってもらえただろうか。
そう願いながら、とりあえずここで僕はワープロを閉じる。
でもまた文章を続けるからね。だって、上の文章は、「金儲けをしたいなら詩をわかるようになれ」みたいな書き方になっちゃったからね。正くんと正くんの友達を説得するために僕はこんな書き方をしたけど、詩というのは、金儲けとはまったく独立して、すばらしいことだと僕は信じている。
次の文章ではそういったことを書く。
じゃ、それまでバイバイ。
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追記:この原稿は没になりましたので、「次の文章」は書きません(笑)。
でも『
15(フィフティーン)―中学生の英詩が教えてくれること』は買ってね。
読まなくてもいいから、とりあえず一人五冊ということで(笑)。
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