今回の私の講演は、「多文化共生社会における日本語教育研究」というプロジェクトの中でのものです。このテーマで何ができるかと考え、現時点での私の言語コミュニケーション力論を総括して報告し、その中でも多文化・多言語に関わることを少し丁寧に語ろうと決めました。
以下は、予稿をそのまま掲載したものです。
単一的言語コミュニケーション力論から
複合的言語コミュニケーション力論へ
柳瀬 陽介
1 これまでの単一的言語コミュニケーション力論
本発表は、多文化共生社会における日本語教育研究について考えるために、複数の言語が同じ一つの脳・心・身体において働く「複合的言語話者」 (plurilingual speaker)の複合的言語コミュニケーション力 (Ability of plurilingual communication) を検討することである。この検討の前段階として、これまでの単一的言語コミュニケーション力論 (Theories of ability of monolingual communication) ―あたかも学習者の脳・心・身体での目標言語のみしか検討しないようなモデル― について整理する。これまでの単一的言語コミュニケーション力論は、(1)個人内的なもの、(2)相互作用的なもの、(3)社会的なもの、の三段階に整理できる。
1.1 個人内的な言語コミュニケーション力論
個人内的な言語コミュニケーション力論* (Individualistic theories of linguistic communication)、応用言語学における論考のほとんどが採択している枠組みである。応用言語学の初期は要素並列型であったが、その後、力を二層で考える型が出てきた。(* これまでの言語コミュニケーション力論においては、 ‘linguistic’はほぼ同時に ‘monolingual’を含意しているので、以下も含めていちいち‘monolingual’という表記は付けないことにする)。
1.1.1 要素並列
要素並列型は、例えばコミュニケーション能力を、文法的能力・社会言語学的能力・ディスコース能力・方略的能力という四要素の列挙でもっぱら説明しようとするものである (Canale and Swain 1980, Canale 1983)。正確にはこれらの要素の「相互関係と相互作用」がコミュニケーション能力だとされているのだが、この論点はあまり前面に出ず、要素を並列させるだけで説明が終わる。遺憾ながら、日本の英語教育界においては、このレベルのコミュニケーション能力論がいまだに横行している。
1.1.2 知識と活用力の二層性
コミュニケーション能力論は、Widdowson (1983) の活用力 (capacity) 概念で次の段階に進んだ。彼は、コミュニケーション能力とは、固定的な言語的な知識 (彼の用語ではcompetence) を、状況に応じて動的にかつ創造的(creative)に活用する力 (capacity)であるとし、コミュニケーション能力を知識と活用力の二層で説明した。彼の論には、用語の上でChomskyの用語との齟齬があるという問題があるものの、この二層の発想はその後のBachman (1990)、Bachman and Palmer (1996, 2010)などにも受け継がれた(しかしBachmanはこの ‘capacity’ を ‘strategic competence’ と呼ぶなど、応用言語学における用語は必ずしも整理されているわけではない)。
1.2 相互作用的な言語コミュニケーション力論
上記のコミュニケーション能力論では、コミュニケーションとは、単に標準的とされる言語を発話するだけにとどまらず、特定の状況下での特定の相手に対して最適化された言語を発話し、かつその相手からの反応に応じてさらに言語発話を続けるという、Hymes (1973) も指摘していたコミュニケーションの相互作用 (interaction)(および創発 (emergence))といった課題に関する考察が十分ではない(ただしBachman and Palmer (2010) には若干の言及がある)。この課題を扱うのが、相互作用的な言語コミュニケーション力論 (Theories of ability of interactive linguistic communication) であり(柳瀬 2006, 2008, 2009)、この枠組では、「心を読む力」の働きが重視される。
1.2.1「心を読む力」
「心を読む力」(mind-reading ability)とは、もともと動物行動学・認知科学の概念であるが、人間は(非言語的にも言語的にも)相手の心を予測し、その予測に基づいてその相手・状況に最適な(あるいはもっとも関連性 (relevance) の高い)発話をしようとする。この力が不足していると、単に饒舌なだけで要領を得ない発話になる。
1.2.2 心・身・言の同調
相互作用的な言語コミュニケーション力論を単純化するなら
心を読む力 x 身体を使う力 x 言語知識
という掛け算で表現できる。ただしこの「掛け算」というのは比喩に過ぎない。この比喩が表し得ていないことの一つは、この三要因(心・身・言)が同調していなければならないことである。三要因を三次元空間の合成ベクトルとして表現すれば(柳瀬 2008, 2009)、この同調は含意されるが、しばしば「それでは『心を読む力』をどのように授業でつけたらいいのか」といった、一要因だけを単独で育てようとする質問が筆者に寄せられることから、この心・身・言の同調は必ずしも十分に理解されているとは言えない。
1.3 社会的な言語コミュニケーション力論
上記の論は、話者と聴者が同じ時空間で話しあう言語コミュニケーションを典型例として考えているが、昨今の情報革命は、異なる時空にいる者の間での言語コミュニケーションの機会を飛躍的に増やしている。そのような言語コミュニケーションを、社会学者ルーマンの用語法に倣って、社会的言語コミュニケーションと名づける。社会的言語コミュニケーションでは、心を読む力が、相互作用的言語コミュニケーションの時以上に、高度に要求される。
1.3.1 メディア生態学
言語コミュニケーションのメディアが、同じ時空での視聴覚から、紙、印刷製本、電子メディアなどと変化するにつれ、実は言語コミュニケーション自体も変化を受ける。私たちが諸メディアの中でどう生きて、どう生かされているかというメディア生態学は、言語コミュニケーションを考える上で必須の観点と言えよう。
1.3.2 音声言語と書記言語の区別
メディア生態学から明らかになることの一つは、音声言語と書記言語の違いである。両者は、しばしばmodeだけで区別され、それぞれのstyleの違いは看過されている。例えば親しい間柄でのメールなどはwritten-modeにおけるspeaking-style言語使用 (written-speaking) であり、学会口頭発表などはspoken-modeにおけるwriting-style言語使用 (spoken-writing) である。だが一部の第二言語教育者の間では、依然として前者は「ライティング」、後者は「スピーキング」として扱われかねない。ジャンル分析と共に、音声言語と書記言語の区別は、言語教育で今後重視されなければならない。
2 意識と身体の問題
言語コミュニケーション力論は以上のように、個人内的・相互作用的・社会的に展開してきたが、まだ本格的に複合的言語観を導入する以前に、検討するべき論点がある。それはメディア生態学が明らかにしたもう一つの論点である、人間における「意識」の出現によって導かれるものであり、言語習得・言語使用における意識と身体の関係を検討することである。
2.1 非意識の働き
意識と身体の関係について検討する場合、まず確認しておかなければならないのは意識の対概念である。対概念として、これまでは精神分析のフロイトの影響を強く受けた「無意識」 (unconsciousness) が使われてきたが、この用語が指すのは、現在意識されていない思考と感情の連合ともいうべきものであり、これが精神科医の促しなどにより後に意識化・言語化されることは周知の通りである。これに対して、身体の動きの多くは、どうあっても意識化・言語化できない、あるいは非常に漠然としか(しかも間接的・比喩的にしか)意識化・言語化できない働きである。これを神経科学では非意識 (nonconsciousness) と呼ぶ。筆者もこの非意識を意識の対概念として用いる。
2.1.1「自動化」の限界
第二言語教育では、しばしば教示された文法を、最初は意識的に想起しながら使って言語発話しているが、言語発話訓練(例えばパターン・プラクティス)を重ねることで次第に意識せずに発話できることを「自動化」と称している。だがこの「自動化」だけで言語コミュニケーション力がつくわけではない。「自動化」概念には、二つの限界がある: (1)最初の「意識」の時点で、そもそもまったく意識されていなかった数多の非意識の心身の働きを等閑視していること、(2)「自動化」されたことは、特定の言語表現が、それを使うようにという具体的な指示があった時に出現できるようになることだけであり、実際のコミュニケーションの時のように、その特定の言語表現を他の数多の言語表現の中から関連性の高いものとして選ぶ力(=活用力)は含まれていない。「自動化」だけで言語コミュニケーション力を説明することはできない。
2.1.2 意識の限界(KrashenとLibet)
クラッシェンは、意識的に学習した知識は、実際のコミュニケーションではエディターもしくはモニターとしてしか働かないとしたが、この直感的洞察はおそらく神経科学的にも正しい。例えばLibet (2004) は、私たちがある行動を起こそうとする自由意志 (free will)は、その行動に関する神経活動が開始された約0.5秒後に初めて意識されるものであり、意識の働きはその開始された行動を止める(veto)することに過ぎないことを実証的にも理論的にも明らかにした。意識の限界を第二言語教育者も的確に理解しておく必要がある。
2.1.3 System 1とSystem 2
ノーベル経済学賞 (2002年) 受賞者のKahneman (2011) は、社会心理学の見地から、非意識と意識の働きを、それぞれSystem 1、System 2というメタファーで語る。この用語法は、非意識の働きを根源的なものと考えることを促す点でも有効である。神経科学が明らかにするように、意識は非意識に依存するものであり、この点で通常の「意識」「非意識」という用語法は、前者を常態、後者を特別態と考えることを促すので好ましくない。
2.2 意識の働き
神経科学は、非意識の心の解明を主としているが、Damasio (2000, 2003, 2011) は意識や自己に関する神経科学的解明を行なっている。彼の解明の枠組みは、Edelman (2005, 2007) ―1972年ノーベル生理学賞― の解明の枠組みと共通するところを多くするものの、Edelmanよりも肌理の細かいものであるので、これからDamasioの枠組みをここでも採択する。
2.2.1 中核意識と中核自己
意識は、「対象」によって、生物の生命維持に危機を引き起こしかねない変化が、身体に生じた際に、その変化が中枢神経系に反映され、その反映が中核意識 (core consciousness) として現れる (中核意識を感じるものとしての自己 (core self) の感覚も同時に現れる)。生物が中核意識をもつことにより、非意識の自動的反応では対応しがたい状況へ対応する途が開かれた。
2.2.2 延長意識と自伝的自己
中核意識は「今・ここ」に関するものであるが、それは自伝的記憶(長期記憶)への素材を供給する。中核意識は、自伝的記憶を使いながら、「今・ここ」を越える自伝的自己 (autobiographical self) の感覚を生み出す。猿や犬などの動物も自伝的自己を有すると考えられるが、人間は、自伝的自己が言語というメディアを通じても形成されるので、過去・未来・可能世界に対してより複雑な自伝的自己をもつことができる。この自伝的自己の意識を延長意識 (extended consciousness)と呼ぶ。現代人は通常、「意識」という言葉で「延長意識」を、「自己」という言葉で「自伝的自己」を意味している。生物は、中核意識に加えて延長意識ももつことにより、学習という利点を得た。人間は延長意識に言語を用いることにより、その可能性を大きく広げた。
この「非意識の身体変化→中核意識→延長意識→言語化された延長意識」の発生を逆に考えるならば、第二言語学習も根源的なところで学習者の身体で感じられるものでなければ、第二言語は学習者の「身につかず」、単なる記号および記号操作の「棒暗記」だけにとどまりかねない。身体変化は、Damasioの用語では、「情動」 (emotion) であり、それを感じて中枢神経系に表象することが「感情」(feeling)であり、さらにその感情を認識 (know) することが中核意識となっている。これらの専門的な意味での情動・感情の働きも、これからの第二言語教育研究の課題である。
2.3 第一言語自己と第二言語習得
身体・意識・自己について上記のように整理すると、第二言語習得とは、第一言語が隈なく張り巡らされた自伝的自己(=第一言語自己)が、その(言語化された)延長意識をもって、新たに学ぶ第二言語という記号体系をいかにして無意識的身体に浸透させるか、という問題として定式化できる。
2.3.1 非意識機能を育てるために意識は何ができるか
この定式化では、意識とは、第二言語の習得・使用を直接的に構成するものではなく、非意識的な心身を、第二言語習得・使用に向けて整えてゆくための間接的な支援を行うものとなる。(付言するなら、こういった観点から従来の ‘consciousness-raising’ や ‘noticing’ といった概念も再検討されるべきであろう)。
2.3.2 第一言語自己と第二言語自己の関係
第二言語教育の一応のゴールは、学習者が第二言語でも自らを語り、他との関係性を構築・維持できること、つまりは第二言語自己(=第二言語での自伝的自己)を創り上げることとも言える。この際、第一言語自己と第二言語自己は、同一の身体に体現されている。この身体性も今後の研究課題の一つとなり得る。
2.4 言語の記号性と身体性
日本での英語教育という第二言語教育では特に、言語の記号性ばかりが強調され、身体性がないがしろにされてきた。しかし身体性を重視しなければ、言語の「体得」には繋がり難いだろう。
言語を身体性から考えることも重要である。同一言語内の語彙の関係性は、ソシュール以来言語学でも研究されてきた。また異言語間での語彙の関係性も、対照言語学といった形で研究されてきた。しかし言語を、その使用者の身体との関係から考えるという視点は、習得研究や教育学的研究においてこれまで十分に検討されてきたとは言えない。
3 複合的言語コミュニケーション力
「複合的言語コミュニケーション力」の考えは、以下に示すように、新聞論壇にも、学会言説にも、公共制度的言説にも登場するものであるが、この概念も上記の(個人内・相互作用的・社会的)言語コミュニケーション力論、意識・身体論に基づいて探究されるべきである。
3.1 NYT debate
最近のThe New York Times (2012年1月29日) は、ハーバード大学元学長Lawrence Summersの発言 (「英語のグローバル的普及を考えるなら、アメリカにとっての第二言語習得の価値は下がった」) を受けての、六名の発言を掲載した。現代の第二言語教育観を知るための一例として以下にそのうちの三名の意見を簡単に書く。Jacksonは、言語は、生きることの色彩を生み出すパレットであるという比喩を使い、多言語話者は単一言語話者よりも多くの色彩を生み出せるとした。Erardは、現実問題として既に英語は、母国語話者よりも非母国語話者をより多くのであるから、母国語話者は、非母国語話者の英語における音声・語彙選択・統語法などに慣れる実利的必要があるとも述べる。Suarez-Orozcoは、第二言語学習を、実利の点からではなく、この世界でどう生きるかという点から考えるべきと説く。これらの観点は、日本における第二言語教育(日本語教育、英語教育)においても示唆的である。
3.2 V. Cook
V. Cookは、「多言語能力」 (multi-competence) という概念を提唱し、これまでの第二言語教育における単一言語主義 (monolingualism) の偏りを指摘している。
3.2.1 単一言語話者はもちえない能力
多言語話者は、翻訳する能力をもつが、当然のことながらこれは単一言語話者ができない能力である。しかし、単一言語話者である母語話者を目標とし、彼・彼女らを理想的教師とすることが多かった従来の第二言語教育は、この翻訳能力を適切に評価していない。この事は、code-switchingなどについても当てはまる。
3.2.2 第二言語が変える第一言語
従来、第一言語の第二言語習得・使用への影響(干渉)は研究されてきたが、逆に、第二言語習得・使用が、第一言語の使用にどのように影響を与えているかは等閑視されてきた。この影響は「干渉」 (interference) といった否定的な用語で検討されるべきものではないだろう。一人の人間が複数の言語を使用することの方が当然視されるようになってきた現代社会において、第二言語教育に染みこんでしまっている単一言語主義を注意深く検討することが必要である。
3.3 欧州評議会
欧州評議会 (Council of Europe) は、 ‘plurilingualism’という造語 (日本では「複言語主義」と訳すことが多いし、筆者も実際そう訳していたが、下に述べる理由から文脈に応じて「複合的言語主義」「複合的言語使用」と訳す)。もとよりこれは欧州のあるべき姿に関する理念であるが、日本での第二言語教育においても示唆的である。(だが一方で昨年以来、ドイツや英国で特に目立ち始めた「多文化主義 (multiculturalism) は失敗であった」といった言説にも注意を払う必要がある)。
以下はCEFR英語版からの引用と拙訳である(強調は共に引用者による)。
Plurilingual and pluricultural competence refers to the ability to use languages for the purposes of communication and to take part in intercultural interaction, where a person, viewed as a social agent has proficiency, of varying degrees, in several languages and experience of several cultures. This is not seen as the superposition or juxtaposition of distinct competences, but rather as the existence of a complex or even composite competence on which the user may draw. (Council of Europe 2001, p. 168)
複合的言語文化能力が意味するのは、複数の文化での経験をもつそれぞれの人間が、複数の言語をさまざまな度合いで使いこなすことができ、それぞれに社会的主体として、コミュニケーションの目的に応じて複数の言語を使い分け、複数の文化が混在する状況でのやりとりに参加することができることである。この能力は、それぞれに独立した別々の言語能力を積み木のように縦横に並べたものと考えてはならない。複合的言語文化能力は、一つの複合的な能力で、元々は複数の要素からできたのかもしれないがもはや分離することができない一つの化合物ともいえる能力であり、この能力を人は状況に応じて使いこなすのである。(拙訳)
この引用からわかるように、‘plurilingualism’では複数の言語と文化が不可逆的に化合していることが意味されているので、その含意を表現するため、「複言語」ではなく「複合的言語」という訳語を使うこととする。
3.3.1 多言語使用と複合的言語使用
「多言語使用」 (multilingualism) が、ある国で一つ以上の言語が公式的に使われているという制度的な概念であるのに対して、「複合的言語使用」 (plurilingualism) はある人間が、自身の生活において一つ以上の言語を使用している状態を指す。欧州評議会は、‘plurilingualism’という用語を、その状態を可能にしている事実的な能力概念としても、欧州が欧州として統合されるために重要と考える教育学的な価値概念としても、区別しながら使用している。日本における議論でも、事実概念と価値概念の区別は重要である。
3.3.2 母語話者規範からの離脱
複合的言語使用は、複数の言語を同等に使うのではなく、例えば複数の言語を、様々な用途目的のために、それぞれに異なる度合いで使用するものである。その度合は、母国語話者・母国語話者に準ずるものから極めて初歩的なものまで様々である。複合的言語主義は、学習者に様々な用途目的において一様に母国語話者並の言語力を求めるものではない。第二言語教育における単一言語主義は、学習者の第一言語を無視するだけでなく、目標言語の中の様々なジャンルという多様性を見失っている点でも批判されるべきである。どのジャンルにおいても一様に素晴らしい母語話者という理想的存在の能力を第二言語教育の規範とすることには警戒するべきではないのか。
4 複合的言語自己
第一言語自己と第二言語自己が、同一の身体に体現された時、それらは一つの複合的言語自己 (plurilingual self) と称することができる。ここではその複合的言語自己の特徴について検討する。
4.1 空間メタファーか化合物メタファーか
第二言語学習者の自己は、第一言語アイデンティティと第二言語アイデンティティの間にあるもの (“In-between-ness”) という空間メタファーで時折語られる(この発想は、第一言語と第二言語の間にある中間言語 (interlanguage) の発想の延長かもしれない)。しかし上記のCEFRからの引用部分から考えるなら、第二言語学習者の自己は、例えば二つの水素原子と一つの酸素原子によって形成された水といった化合物のメタファーで考えるべきではないだろうか。水は、水素原子と酸素原子によって構成されながら、それらの原子が単独では決して示さない特性を示す。また(電気分解といった特別な事がなされない限り)水は元の水素原子と酸素原子に戻ることはない。第二言語話者も、元々は第一言語の単一言語話者であったが、第二言語が「身についた」後は、第一言語の単一言語話者とも第二言語話者の単一言語話者とも異なる特性を示す。またそのような複言語的自己は、たとえ第一言語か第二言語のどちらかだけしか使わないように指示されても、単一言語話者として言語使用をすることはできない。複言語的自己は、いかなる単一言語的自己とも異なる独自の自己である。
4.2 物体か過程か
「自己」は名詞で表現されるがゆえに、私たちはとかくそれを “substantive” (名詞=実詞=実体)、つまりは物体として考えがちである。しかしDamasioの意識論・身体論で確認したように、自己 (self) とは身体状態の変化という時間的差異により出現する過程であり、その時間的差異が知覚される限りにおいて自己は存在する(早い話が、身体状態の時間的差異が知覚されない熟睡状態では自己の感覚はない ― もちろん夢を見ている時は別であるが)。近代人の知性は、紙媒体といった無時間的なメディアによって大きく影響を受けているので、とかく無時間的な物体概念ばかりで物事を考え、時間的な過程概念を看過しがちである。複合的自己を考える際にもこの点を留意しなければならない。
4.3 自らとは異なるものとの共生
自己を過程的事象と考える枠組みの一つに、ルーマンのオートポイエーシス論がある。自己は、自らとは異なる「環境」 (Umwelt, environment) と接する中で、自らに自己言及する (先ほどの例なら、対象との出会いによる身体状態の変化に伴い古い身体状態を参照する) ことにより出現する。ルーマンは次のように表現している。
Als Subjekt bezeichnet man nicht eine Substanz, die durch ihr bloßes Sein alles andere trägt, sondern Subjekt ist die Selfstreferenz selbst als Grundlage von Erkennen und Handeln. (Luhmann 1998, 2, p. 868)
The term “subject” does not designate a substance that, by its pure being, shoulders everything else, the subject is rather self-referentiality itself as the foundation of cognition and action. (Translated by Moeller (2011))
主体として指し示されているのはひとつの実体であり、それは単に存在するということによって他のすべてのものの担い手となる云々などと考えるわけにはいかない。主体とは、認識と行為の基礎としての自己言及そのものなのである。(馬場他訳 (2009, p.1166) )
複合的言語自己をオートポイエーシス・システムとして捉えると、それは単一言語的自己よりも複雑で複合的な自己であり、その複雑性・複合性に応じて、自らとは異なる「環境」(「他者」)とより柔軟に対応できる潜在性をもつものと論ずることができる。それは単純な生命体よりも複雑な生命体の方が、多様な環境に対応できることと同じである。
5 示唆
以上の抽象的論考から、以下のようなより具体的な示唆を導くことができる
5.1 実在論的測定と存在論的評価
現代の知的混乱の一つは、Gray (2011)が指摘するように、自明な存在 (例えば長さや質量) の測定である実在論的測定 (ontic measuring) ばかりが横行し、その存在に関して私たちがまだ探究を続けている対象 (例えば人格や能力) の評価である存在論的評価 (ontological measuring) までも、実在論的測定によって片付けてしまおうとしていることである(例えば、教師の良さを生徒のテストの点数の測定だけで評価しようとすることなど)。「説明責任」という風潮は、誰でもわかる測定で物事を判断することを促進しているが、「誰でもわかる」ということは「愚者でもわかる」ということであり、「愚者でもわかる」物差しばかり使っていて、物事の存在論的探究に基づいた判断を怠っていたなら、私たちの判断力は愚者のレベルにまで下がる。
第二言語教育としての日本の英語教育では、ともすればTOEICや進学実績などの「誰でもわかる」数値を最終的な物差しとしてしまう。それらを便宜的な物差しとして使うことは無論許されるべきだが、それらを最終的な判断基準として、第二言語教育が目指す(複合的)言語コミュニケーション力に関する存在論的探究がないがしろにされたならば、第二言語教育は低いレベルにとどまったままであろう。
5.2 目標と目的(End and Orientation)
実在的測定は、単一の視点からの計測であるから具体的な「目標」 (Zweck, end) として具体的・短期的な終結点として設定できる。しかし哲学的探究を含む存在論的評価は、複数の異なる視点からの吟味であり抽象的・長期的に私たちを方向づける(終結点を持たない)「目的」 (Ziel, goal, guideline, orientation) である (柳瀬 2009)。第二言語教育にも、例えばcan-do listのような「目標」も必要だが、「目的」について考え続けること、語り続けることを忘れてはならない。
5.3 第二言語教育というコミュニケーション
複合的言語自己は、理想的な「(単一主義的)母国語話者的自己」として無時間的な物体として同定できるものではない。複合的言語自己は、時間的な過程であり、固有の過去を有した現在の自己言及的生起であり、独自の(潜在的)未来を有するものである。この意味で第二言語教育は、時々の「目標」設定に伴う便宜的終結点をもつものの、最終的な終結点は「目的」としてはもたない。強いて言うなら、第二言語教育は ―いや、そもそも教育は― その瞬間ごとに「未来に開かれた完結」を迎え、「閉ざされた完結」をどの時点にももたない。この意味で、第二言語教育は第二言語を主とする複合的言語コミュニケーションのために行われるが、第二言語教育自体が一つの複合的言語コミュニケーションである。毎回の授業は、それぞれに「未完の完成品」である。
参考文献
柳瀬陽介 (2006) 『第二言語コミュニケーション力に関する理論的考察』溪水社
柳瀬陽介 (2008) 「言語コミュニケーション力の三次元的理解」 JLTA Journal, 11, 77-95.(http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/ThreeDimentional.html に草稿を掲載。言語コミュニケーション力に関する書誌情報はここを参照されたし。)
柳瀬陽介 (2009) 「現代社会における英語教育の人間形成について」『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 39, pp. 89-98.(http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/05/pdf.html)
ルーマン, N. 馬場靖雄他訳 (2009) 『社会の社会 1・2 』法政大学出版局
Bachman and Palmer (2010) Language assessment in practice. Oxford University Press ( http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/11/bachman-and-palmer-2010-describing.html )
Council of Europe (2001) Common European framework of reference for language. Cambridge University Press.
Damasio, A. (2000) The feeling of what happens. Mariner Books.
Damasio, A. (2004) Looking for Spinoza .Vintage.
Damasio, A. (2010) Self comes to mind. Pantheon.
Edelman, G. (2005) Wider than the sky. Yale University Press.
Edelman, G. (2007) Second nature. Yale University Press.
Gray, M. (2011) Measurement and its discontents. The New York Times (October 22) http://www.nytimes.com/2011/10/23/opinion/sunday/measurement-and-its-discontents.html
Kahneman, D. (2011) Thinking, fast and slow Farrar Straus & Giroux
Libet (2004) Mind time Harvard University Press
Luhmann, N. (1998) Die Gesellschaft der Gesellschaft Suhrkamp Verlag
Moeller, Hans-Georg (2011). Luhmann Explained. Open Court.
The New York Times (2012) “English is global, so why learn Arabic?” (January 29) http://www.nytimes.com/roomfordebate/2012/01/29/is-learning-a-language-other-than-english-worthwhile
追記(2012/02/20):
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