しかし、なぜこのようなことをしなくてはならないのでしょう?なぜ学生さんは私(教員)から、いちいちコメントや添削を受けなければならないのでしょう?
ここではゼミ生の皆さんに、これからのゼミ活動を納得して行なってもらうために、ゼミ活動の中心である論文執筆が目指していることを簡単に説明します。
■論文執筆の意味
私たちが論文執筆に精魂込めるのは、論文執筆が次のことを意味しているからです。
相手にとって重要な知見を発見・説明・立証し、
それを相手にとって最も親切な形で提示する
■語句の解説
上記の論文執筆の定義に使われた語句を簡単に解説します。
・「相手」:
あなたのことを理解していない他人なのだが、あなたが自分の知的貢献でその人の役に立つことができると想定している人。
実際の論文の読者は、赤の他人である。だから、あなたはその赤の他人に向けて、自分がその人のために重要な知見を提示できるということを、タイトル・要約・序論などで、効果的に伝え、何よりも相手に読んでもらえる論文を書かなければならない。
論文の読者(「相手」)を、指導教員やゼミの友人などの、必ずあなたの論文を読むことになっている人と考えてはならない。論文の読者(「相手」)とは、あなたが論文を通じて初めて縁を切り開く他人である。
この意味で、論文は
It's not about you,
although it's written by you.
であることを理解して欲しい。
・「相手にとって重要な知見を発見」:
論文であなたが書く知見は、あなた個人にとって重要な知見であるだけではいけない。それだけに過ぎないなら、それは論文でなく、日記である。あなたは自分が伝える内容が、相手にとって重要であることを示さなければならない(このことは同時に、論文の知見は、個人的趣味ではなく、少しでも他の人々に開かれた知見でなければならないことを意味する)。
また「発見」という言葉は、相手がその知見を、まったく知らなかった・十分に理解していなかった・意義をわかっていなかった、等々であることを含意している。相手が既に十二分に知っていることを延々と述べてもそれは論文ではない(この独自性が必要という点で論文は「お勉強レポート」(自分が学んだことを示して単位を得るために提出するノート)とは決定的に異なる。
この「発見」、つまりはなぜ・どのような意味でこの論文は、論文の読者である相手が読む意義があるかを示すことを、「論文のWHY」を示すと称することにする。論文のWHYは、続いて説明するWHATとHOWと並んで、論文執筆の大切なポイントである。
・「知見を説明」:
論文(卒業論文・修士論文)は慣習上数十ページの長さをもっているから、伝える知見はそれなりの分量をもったものである。論文ではその内容を整理して精確に伝えなければならない。中心概念はもとより、派生概念も明確に定義し、伝える命題(「XはYである(XはZではない)」を、誤解されないように論じなければならない。これが論文のWHATである。
・「知見を立証」:
命題を論ずると上に書いたが、それは単にあなたが主張をするだけでなく、その主張を裏付ける証拠や理由を提示しなければならない(証拠とは具体物、理由とは抽象的な論証、と考えておいて下さい)。さらにその証拠や理由がなぜ妥当なものであるのか(証拠や理由とは名ばかりで、一人よがりの言い訳になっていないか)を示す必要がある。この命題立証のための、理由・証拠の提示およびその根拠の説明をここでは論文のHOWと称する。
まとめるなら、「相手にとって重要な知見を発見・説明・立証」するというのは、論文の内容を意味しているが、これは「あなたが特定し、あなたの論文を読むように招待した相手に、ある知見がなぜ大切か(WHY)、それは精確には何なのか(WHAT)、なぜあなたはそう言い切れるのか(HOW)を示すということになる。
・「相手にとって最も親切な形で提示」:
論文は、あなたが自分の好きなように書くものではない。よく初心者は、自分が調べたことをすべてそのままその順番で延々と書くが、読者はあなたの思考の経緯などに特別な関心をもっていない。あなたはタイトルや序論などで、どのような問題関心をもつ人間がこの論文を読むべきかを特定したのだから、その問題関心に忠実にまっすぐに最短距離で論証を行わなければならない。最短距離といっても、もちろん読者の読み続けようという気持ちを維持し高めるための、適切な工夫(概要・骨格の提示、読者が抱きそうな疑問への配慮、図表などでの整理、最後のまとめ、等々)は必要である。
要は、あなたの論文を読んでくれる相手が、できるだけ心地よく明快に論旨を追えるようにという根本精神を常に忘れず、いたるところでその精神から「どのように書けば読者にとって一番親切か」を具体的に考えながら論文を書くこと。参考文献の書き方などの枝葉末節は、この根本精神の延長に過ぎない。
■論文とは似て非なる書き物
以上のような説明から、次のような書き物はここでいう「論文」ではないことを理解して下さい。
読む人のことなどほとんど考えず、自分が調べたことや興味あることを、自分がいかにも知的に見えるようなやり方で書く
時々、論文を書くことは、「実験とか統計とか」いかにも研究っぽいことをやって、「この前どこかで読んだカッコいい言葉」を使ってまとめて、とにかくページ数を埋めること、と勘違いしたような学生さんもいます。そのような人にはならないように注意して下さい。
■論文執筆を通じて目指すこと
人はとかく、自分が知っていることは、他人も知っているし興味あるだろうと思いがちです(少なくとも、子どもというものはそういうものです)。そのような考えをもったまま、ゼミ活動に臨むと、教師やゼミ仲間からの「言っていることがよくわからない」、「なぜそう考えるのかがわからない」、「他の考え方もある」といったコメントが、自分に対する人格攻撃のようにすら思えることがあります。
しかし教師やゼミ仲間は別にあなたを攻撃しているのではありません。逆にあなたを正確に理解しようとしているのです。ですが、子どものような自己中心的な考えをもち自己万能感にひたっていると、自分のことを自分が願うほどにわかってくれない相手に正面から向き合い、自分で言葉を選び直し、考えも一部変えながら、丁寧に論じていくことは、とても苦しいことです(だから子どもは母親に自分の主張が受け入れてもらえなかった時に、地団駄を踏んで泣き叫びます)。
ゼミ活動では、他人との関係性の中で、自分を正しく理解し、さらに自分を他人のためにうまく役立てることができるように訓練してゆきます。この訓練をうまくやってゆけば、周りの人の求めていることや必要としていることを的確に見極め、それに対して自分が何ができるかをきちんと自己評価して、自分がやれることをその人に対して、その人に最も親切なやり方で行うことができるようになります。そのように周りの人を幸せにすれば、自分も幸せに思えることでしょう(少なくとも周りの人はあなたのことを大切に思ってくれるはずです)。
もちろん論文の内容は、自分が個人的に興味をもったことから始まります(この素直な感性を誤魔化すと、あとで論文執筆が苦行になります)。個人生活では、自分なりに興味をもっていればそれだけでいいのですが、論文執筆という訓練では、その私的世界から一歩出て、他人に向けて自分が見つけた面白さを示します。慣れないうちは、他人を意識して考え書くことが苦しいかもしれませんが、その苦しさはあなたの知的成熟につながるものです。知的に成熟した人を、周りの人々は大切にします。なぜなら知的成熟は、他人を幸福にし、その人自身も幸福にするからです。自ら幸福であり、他人も幸福にできるような人間になることを、ゼミ活動を通じて目指しましょう。
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