以下は、『明海大学大学院応用言語学研究科紀要 応用言語学研究』 No.19 (2017年3月)の7-17ページに掲載していただいた拙論です。この論文の刊行にあたりましては、論文の基になった
応用言語学セミナーに私を招待してくださった大津由紀雄先生、セミナーおよびその後の原稿整理をしてくださった中川仁先生をはじめとした多くの皆様方のお世話になりました。ここに厚く御礼を申し上げます。
自分としては、それなりに思い切って書きたいことを書いた原稿です。ご興味がございましたらご一読の上、ご批評いただけたら幸いです。
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意味、複合性、そして応用言語学
柳瀬陽介(広島大学)
1 意味
本稿(注1) の目的は、意味概念の検討を通じて、応用言語学が「科学」でありうるのか否かについて考察することである(注2) 。応用言語学を「科学」と考えるべきという見解は今回のシンポジウムでの大津提案に、応用言語学は科学の厳密な方法論には必ずしも則さない探究であるという見解は例えば米国応用言語学学会 (AAAL) の定義(注3) に見られる。ここで筆者の立場を明らかにすれば、筆者は教育学部で英語教師の養成と現職教育に従事する者であり、広義の応用言語学者といえるだろう。だが、海外の大学の中には、Applied LinguisticsとTeaching English as a Foreign Languageを別のコースとして設置しているところもある。この二区分ならば筆者は後者に属するだろうから、その点では筆者は狭義の応用言語学者とはいえないかもしれない。いずれにせよ本稿は、言語教育といった現実世界問題に従事している者からの立論である。ちなみに筆者個人の研究履歴は、修士課程での心理言語学を基盤にした実験研究から、博士課程ではウィトゲンシュタインの哲学を基盤とした論考に転じ、その後、アレントやルーマンといった社会哲学的なコミュニケーション論を基盤にしながら言語教育の諸問題について考察するようになったものである。この研究関心の変化によって、より現実世界問題に対応しやすくなったというのが筆者の基本認識である。
さて、意味概念の検討の導入として、具体例を取り上げたい。シンポジウムの頃の話題の一つは、ドナルド・トランプ氏が大半のメディアの予想に反して大統領として当選したことであった。トランプ氏の勝利宣言を筆者は録画で見たが、そこでは氏がそれまでの罵倒や暴言などの過激な言動を控え、アメリカ国民全員に訴えかけようとするかのごとき神妙な語り方が印象的であった ―もちろん、その時の氏に淡い期待を持った者は、氏の大統領就任直後に徹底的に裏切られることにはなったが―。その演説で、多くの人々が様々に感じた意味は、図1の小さな破線の四角枠(言語学の範囲)だけでは捉えられず、大きな実線の四角枠(哲学の範囲)ではじめて十全に捉えられるものであろう。
図1:意味の分類
小さな四角枠は、(狭義の)言語学が捉える意味の範囲(意味論的意味と語用論的意味)である。それに対して大きな四角枠は言語学的意味だけでなく、非言語的な意味(周辺言語学的な意味(注4) と言語以外のモノ・コトの意味)をも含んだ範囲である。トランプ氏の勝利宣言が多くの人々に喚起した意味は、言語学的意味だけでなく、非言語学的意味も含むものであった。彼の口調や背後に並んだ取り巻きなどの様子は少なくとも筆者にはとても意味深く感じられた。このことからすれば、科学的な言語学が扱いうる意味は、私たちが生活の中で感じている意味(ここではそれを「現象学的意味」と称する)を十全には扱い得ないことになる。
それではその現象学的意味の理論はどのようなものになるだろうか。次節では、意味を言語学の標準的な作法で定義するのではなく、基本的には20世紀後半の理論社会学者の最高峰と考えられるニクラス・ルーマンの意味理論(注5) に基づいて説明し、部分的には21世紀になって特に注目されている神経学者のジュリオ・トノーニの意識の統合情報理論 (Integrated Information Theory) でルーマンの意味理論を補いながら、意味の理論を再構成する。紙幅の都合で説明が短く抽象的になりがちであることを予めお許しいただきたい。
2 意味と複合性
意味とは、意識が重要と自己認識する意識の特定の配置 (constellation) である(注6) 。意識は無数の要素(注7) の配置から成るが(統合情報理論における意識の第二公理「構成」)、その配置はさまざまで、ただぼんやりと目覚めているだけの状態を生み出す配置もある。だが、特定の配置において意識はその状態を重要と認める。その配置が意味である(注8) 。そしてその配置の種類は、私たちが意味として認めうる限り、ということは、ほぼ無数にある。また、意識は次々と遷移するため、意味も次々に遷移する。したがって通常、意味は意識の中での出来事として経験される。意味は意識の特定の配置であるが、その配置は長く同じ形にとどまることはなく、次々に別の配置へと遷移する。つまり私たちは通常、意味が次々に自己展開していく様態、つまりは出来事の連続として意味を経験する。言いかえるなら、意味は永続的に固定された「モノ」ではなく、刻々と変化する「コト」である。
意識は、世界の複合性 (complexity)に対応するために意味を有するように進化した。複合性とは、システムが多くの要素をもち、それらの組み合わせの数が莫大になるため、要素の組み合わせによるシステムの状態変化のすべての可能性が一度に観察できない状態を指す(注9) 。莫大な要素をもつ世界は複合的であり、世界がどう展開するかは誰も完全には予測できない。意識もその複合性に対応するために自ら複合性をもつように進化した(注10) 。だが同時に、意識は脳に過大な負担をかけるため、意識は実生活で扱いうるぐらいの限定的なものでなければならない(注11) 。そこで意識が進化の過程で生み出した素材 (medium) ―自己生成システムとして意識が自らを構成する素材― が意味 (meaning) である。意味は、世界の複合性を以下に述べる構造で効果的に縮減する。
意味は、無数の可能性 (possibilities) を伴う現実性 (actuality) (注12)という構造でなりたっている。現実性とは意識の焦点である。ぼんやりしていた意識に意味が創発した時に、意識は焦点化し、その焦点がその意識にとっての現実性となる。しかしその焦点化された現実性は、他の無数の可能性とつながっている。例えば誰かが「広島カープ」と言った瞬間、そのことばを聞いた人の意識の中に焦点が定まる(無論、そのことばを知っていればの話ではあるが)。それはある人にとっては赤い野球帽かもしれないし、他の人にとっては(このシンポジウムが開かれた年に)「25年ぶりに優勝して話題になった地方球団」といったぼんやりとした記憶かもしれない。いずれにせよ、それぞれの人の意識は、それぞれの焦点を中心とした構成へと再編成されるが、その焦点は、単独で存在しているわけではない。意識の焦点として際立つ現実性は、他の無数の可能性と様々な様態と程度においてつながっている。
可能性とは、将来の時点では現実性となりえるかもしれないが、現時点では意識の焦点の背景に潜んでいる意味の部分である。現実性としての赤い野球帽は、「そういえば・・・」と後に焦点化するかもしれない、黒田博樹投手やマツダスタジアム、あるいは広島市の原爆ドームや大学時代のカープファンの友人等などといった無数の ―自分で数えたこともないし、おそらく数え尽くすこともできない程多くの― 可能性とつながっている。だが意識の限定性からして、人間はそれらの可能性のすべてを同時に焦点化することはできない。ゆえに意味において、可能性は現実性に伴っているが、現実性のいわば背後に潜んでいるという構造をもつ。意味とは、数多の可能性とつながった現実性である。意味は、無数の可能性を背景に潜ませたまま、とりあえずその現実性を意識の前景に焦点的に提示する。意識は現実性にとりあえず集中することによって、その現実性と潜在的につながっている無数の可能性およびそれら同士の膨大な組み合わせという複合性に対応する。意識の前景に現れる意味の現実性は、意味がもつ複合性を縮減した表象として意識に提示されている。
現実性という前景か可能性という背景のどちらか一つだけを切り離したものを意味と呼ぶことはできない。 流れてくる音声を<ヒロシマカープ>とした認識した瞬間に、カープの赤い野球帽の画像を出力できる単純なコンピュータプログラムがあったとしよう。そのプログラムにおいては、<ヒロシマカープ>という入力は赤い野球帽の画像出力以外の他の何とも結びついていない。人間のように、「それで思い出したが・・・」と数々の可能性が次々に浮上してくることはない。単純なプログラムは<ヒロシマカープ>という入力を知覚する (perceive) ことはできても、「広島カープ」ということばの意味を理解 (understand) することはできない。
意味において現実性と可能性は互いの差異を保ったままつながっている。例えばある女性にとっては、「広島カープ」ということばに伴う可能性の一つに、カープ狂いで、飲む・打つ・買うの暴力的な元夫があったとしよう。その不幸な女性の前で、ある人がたまたま「広島カープ」ということばを口にした時に、もしその女性が「この人でなし!」と激昂したとすれば、彼女は「広島カープ」ということばの可能性を現実性と取り替えて理解していることになる。たとえ彼女の中で「広島カープ」ということばと元夫がつながっていたとしても、それをこのことばが生み出す現実性とみなせば、彼女はこのことばをまともに理解していると私たちはみなさない(注13) 。現実性と可能性はつながっているが、それらは意識において(たとえ大まかにせよ)区別されていなければならない。この点から表現するなら、意味は現実性と可能性の差異の統合である。
問題だらけの元夫を可能性の一例としてあげたことからも推測できるかもしれないが、この可能性概念は、意味論でいう含意 (connotation) よりもはるかに広い。意味論の含意は、例えば「家庭」なら「温かさ」や「安らぎ」であろう。しかし、ある人が育った家庭は(さらに不愉快な例で恐縮だが)暴力や虐待の場であったとする。その人にとって「家庭」ということばは、暴力や虐待の場などの可能性につながっている。その人の意味の背景にはそういった悲劇的な要素が潜んでいる。それは一般的な含意ではないが、その人の意識の中に生じる意味という出来事ではそのような悲劇的要素がやがて高い確率で前景化することは否定できない。
上では少数の可能性の例しかあげなかったが、もちろん実際には一つの意味の現実性は無数の可能性につながっている。さらにそれらの可能性は、さらなる他の可能性とも派生的につながっているし、そもそも、すべての可能性は多様な形態で相互循環的につながっている。意味を乱暴なほどに単純に視覚化することを試みるなら、意味は図2のように茫漠とした境界をもつ同心円として表象できる。現実性は輝く白色で、その輝く白色と密接につながる可能性は灰色で、可能性としてすらも浮上していない部分はかなり黒っぽい灰色で表記されている。
図2:意味の現実性と可能性
ただ昏睡しているわけではないといった混濁した意識は(図は省略するが)全面が黒っぽい灰色で覆われているだけである。そこに何かのきっかけで意識の中に意味が形成されると、意識は図2のような状態になる。ぼんやりとした意識が「あっ、明日は○○の締め切りだ!」と気づいた状態に変化したとすれば、意識にはその明日の締め切りを焦点とした白い光がさす。と同時にその光の背後に淡い光が灯る。その人の意識には明日の締め切りが現実性として迫ると同時に、その人にはまだ明確に意識できていないにせよ、その締め切りに関係した数多くの可能性が浮かび上がってくる。図では単純に光を円で表現したが、本来なら現実性との可能性のつながりを白い線で表現し、その白い線が数多く重なった部分ほど白く輝いて見えるような図を想像してほしい。当然ながら、可能性の範囲も図2のように均一な色の円にはならず複雑な模様として表示される。また、現実性も一つの均一な色の円から構成されているのではなく大きさと輝きでさまざまに異なる点の集まりとして表示される(注14) 。
あるいは別のたとえをしてみよう。無限に広がる布があったと想像して欲しい。その一部をあなたが空中からつかみ、引き上げる。つかまれた箇所と共に、その箇所とつながった布の他の部分も宙に浮く。つかまれた箇所を中心に、さまざまなひだや広がりをもって布は宙に浮く。それが意味である。つかまれた箇所が現実性で、それにつながって宙に浮いた部分が可能性である。同じ箇所(現実性)をつかんだとしても、引き上げられる角度や勢いなどから、布のひだや広がりの様子(可能性)はそれぞれに異なるだろう。またつかまれた部分とそれに伴って引き上げられた部分(現実性と可能性)の境界は曖昧であるが、それらは区別できないわけではない(注15) 。
この意味理論は、非言語的意味(周辺言語学的および無言語学的意味)もうまく説明できるように思える。例えば、長大で音の洪水としか思えなかったブルックナーの交響曲の意味が突然「わかった」と思えた時、あるいは単純な図形の集まりとしか思えなかったマーク・ロスコの抽象画の意味がしみじみとわかるように思える時などは、明晰に言語化できない意識の状態 ―それは通常、思考というよりは感情とみなされている― が、その人の現実性として経験され、さらにそれよりも把握しがたい意識の可能性が無限に広がっていることと実感されていると表現することができるだろう(注16) 。意味を、意識に焦点とそこからのつながりが生じた状態として説明することにより、私たちは命題化しにくい非言語学な意味内容についての意味もうまく扱えるのではないだろうか。
考えてみれば私たちが「わかった!」と叫ぶ場合の多くにおいて、私たちはわかったことの内容(現実性)を言語化できない。私たちが実感しているのは、それまで混濁していた意識が一気に一つの秩序を成し、その秩序のかなたには数多の可能性が広がっている、つまりは自分が今わかったと感じていることは、多くのこととつながっているのだという確信である。その「わかった」を私たちはしばしば言語化し(科学者は数学化し)意味の現実性とそこからの可能性への展開をより明確に説明する。それは意味理解をますます発展させることだが、「わかった!」と叫んだ時の意味理解は、無数の可能性に通じる現実性が自らの意識へ到来したこと、およびその現実性と可能性の意識の配置を感得したことであるとは説明できないだろうか。言語学では、意味は何らかの明確な表象によって表現されるが、そういった言語学的な意味表象も、意味表象として整理される以前の複合的な意識の配置に由来するものとして考えられるだろう。ルーマンに基づく意味理論では、非言語学的意味を基盤にして言語学的意味を考察することができる。
前述したような立場で研究と教育を進めている筆者にとっては、科学的・言語学的な意味理論よりも、このような哲学的な意味理論の方が有用性が高い。第二言語学習者が経験する言語使用を考えるにせよ、その経験の上に成り立つ言語獲得(注17) について考えるにせよ、あるいは学習者が時に問いかけてくる「学校で英語を勉強することの『意味』」について考えるにせよ、意味を科学として成立させている言語学(意味論と語用論)の範囲に限定していては、第二言語教育の当事者や関係者に訴えかける論考がしがたい。たとえ、具体的な論証が厳密にできない哲学的な「意味観」にすぎないと言われようが、こういった意味理論を採択して研究や教育を進める方が広義の「応用言語学者」としての学術的・社会的責務を果たしやすいと筆者は考えている。
3 意味と応用言語学
広義の応用言語学者の一人として筆者が有用性を認めているこのような哲学的な意味理論は明らかに科学ではない。科学においては、具体的な事象が理論的に厳密に予測されそれが実験や観察で実証されること(正確に言うなら反証されないこと:反証可能性)が求められるが、こういった哲学的な理論は、なんら具体的で厳密な予測をしない。反証可能性をもたないこの種の立論を科学と呼ぶことはできない(注18) 。
だが、そもそも複合性の概念を導入した時点から、つまりは、単純化(あるいは理想化)された研究対象を超えて、要素の多い複合的な対象を研究が選んだ時点から、反証可能性は保ち難いのではないだろうか。複合性の高さから、初期値の僅かな変動でさえも後々の大きな違いをもたらす複合的な事象においては、反証可能性の前提となる再現可能性すらも保ち難いからである。早い話が、高層階の窓から一枚の紙切れを落とすとする。紙が着地するまでの過程の説明で必要なのは、基本的には物理学の力学理論だけかもしれないが、刻々と変化する紙の向き、風の向き、温度、湿度、等などの相互作用の莫大さから、紙がどこに着地するかを理論的に予測することはできない。せいぜいできるのは、何万回と紙を落として、着地点の記述統計をとり、そこから着地点の確率分布を定めることであろう。だが、それは統計学の技術的利用であり、反証可能性を堅持する科学による紙落下の説明ではない。もし応用言語学が、理想化した対象だけを扱う言語学よりも広範囲の事象を対象とせざるを得ず、論考に複合性が導入されるなら、応用言語学が反証可能性・再現可能性を必須の前提とする科学であることはできないのではないだろうか(注19) 。
さらには、このような哲学的な意味理論は「応用『言語学』」とすらも呼べないのかもしれない。言語の自律性に基づいて認識された「言語」の意味ではなく、私たちが内在的に経験する「意識」(統合情報理論の第一公理)の意味について述べているからである。言語の意味理論というよりも、意識の意味理論というべきだからである。「応用」という修飾句をつけるにせよ、このような哲学的な意味理論は、もはや「言語学」からの派生・発展とはみなせないという意見もあるだろう。
だが、たとえ「科学」や「言語学」でなくともかまわないというのが筆者の立場である。もちろん「役立てばなんでもよい」というわけではない(それならば哲学的論考よりも扇動的な大衆運動の方がよほど有効であろう)。そうではなく、論として成立するだけの最低限の自己整合性を保ちながら、現実世界問題への何らかの有用性を示すならば、それは「応用言語学」として(あるいはお望みなら他の名称の学問として)、認められるべきだと筆者は考える。
そもそも科学、あるいは言語学という特定の科学が説明できるのは、世界の事象のごく一部である。優れた科学者こそ自らの探究の限界を熟知しているはずだ。そうならば科学者は、反科学的な科学弾圧や、疑似科学的なごまかしには反対しても、非科学的な営み(科学以外の領域での営み)に格別に反対する理由などない。科学と哲学は相互排他的概念ではない。探究は最初、「知を愛する営み」としての哲学から始まる。アリストテレスにとって博物学も哲学であったが、やがて観察そして実験といった方法論を得た諸学は次々に哲学から分化し科学となった。語用論も当初は哲学でしかなかったものが、方法論の整備と共に現在、言語学として成熟しつつある分野である。意識も当初は哲学的にしか語り得ないものであったが、現在、哲学と科学の両方の素養を有した研究者により(あるいは哲学者と科学者の対話により)科学化が進行している分野である。言語教育といった応用言語学の典型的な分野が50年後や100年後に科学となるのかはわからない(科学の営みが人工知能の参入でさらに加速化しようとする現在、誰がそのように遠い未来のことを予測できよう)。だが現時点で、応用言語学を科学だと言い切ること、あるいは科学であるふりをすることには、筆者は反対したい。科学の方法論を貫けば論証の厳密性は高まれど、対象領域はおよそ狭まり、現実世界問題への妥当性や関連性は低くなり社会的意義が失われるだろう。かといって、科学のふりをして疑似科学的な論証をすることは、科学と現実世界問題の両方への裏切りである(注20) 。本稿は意味の理論だけを事例にして考えたが、もし言語学者・科学者として訓練を受けた者が「応用言語学者」としての領域を新たに開拓するならば、それらの言語学者・科学者は、哲学的な思考法を新たに学び、さらには哲学的考察の源泉である現実世界の観察および現実世界の実践者との対話を必要とすると筆者は考える。
注
(1) 本稿は科研「教師教育者・メンターの成長に関する研究―熟達者と新人の情感性と身体性に着目して―」(課題番号15K02787)の研究成果の一部である。
(2) 本稿の内容は2016年11月26日に明海大学で開催された第19回応用言語学セミナーのシンポジウムで行った筆者の口頭発表をもとにしたものであるが、紙幅の都合上、その発表の一部だけを論文化した。口頭発表の全容に関しては以下のURLをご参照いただきたい。発表ならびにこの論文執筆の機会を与えてくださった関係者には改めて厚く御礼を申し上げる。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/11/blog-post_15.html
(3) AAALのDefinition of Applied Linguisticsは、以下のURLから参照できる。
http://www.aaal.org/?page=DefAPLNG
(4) 周辺言語学的な意味を言語学に含める考え方もあるだろうが、ここでは科学性を重んじた狭義の言語学観を基にしてこの図を作成した。
(5) 本稿は、ルーマンの(めずらしい)英語論文に基づいたものである。ルーマンの意味理論をきちんと論ずるなら、彼の初期・中期・後期のドイツ語文献を丁寧に参照するべきだが、本稿ではそれが間に合わなかった。
(6) ルーマンは、意味を、意識とコミュニケーションの素材としているが、紙面の限られた本稿ではコミュニケーションに関する議論は割愛し、意味を意識の観点からに限って論考を進める。
(7) 意識の要素として、統合情報理論に倣って、特異な刺激だけに反応をするニューロンを考えることができる。たとえばあるニューロンは、垂直線分の有無だけに反応をするかもしれないし、他のニューロンは白色光の有無にだけ反応をするかもしれない。これら無数のニューロンの働きの組み合わせが私たちの意識を構成している。
(8) 「意識の特定の配置が意味である」というのは、意識概念を使用している点で現象学的であり、配置という概念を使っている点で神経科学的な表現である。より現象学的な表現をするなら、それは「意識の特定の配置が意識に与える経験が意味である」となるだろう。
(9) 簡単な例を出すなら、囲碁はかなり局面が進むまで複合的であるが、九マスの中での三目並べはすぐに複合的ではなくなる。
(10) より正確に言うなら、世界と意識の複合性は即応している。世界は、複合的なシステムにとってのみ複合的な世界として表象される。システムはそれが認識する世界が複合的であるに応じて複合的である。表象あるいは観察されない、いわば「世界自体」(カント的表現なら「物自体」)については、私たちは何も語り得ない。
(11) SF的な想像であるが、もし一度に世界の存在物のすべての要素と構造を見せられたとしても、意識はそれだけの莫大な情報量を扱うことはできない。
(12) ルーマンの用語である “actuality”と “possibility”を「顕在性」と「潜在性」と訳す文献もあるが、筆者は“actuality”こそが意識を有する人間にとっての現実的なものとなると考えているので「現実性」という訳語を選び、その対語として「可能性」という訳語を選択した。ちなみに「現実」という訳語は、本稿では扱わないハンナ・アレントの “Wirklichkeit”に対して使いたいため、ここでは使わなかった。
(13) この女性の場合は単に錯乱しているだけと思えるかもしれない。よりよい例は、「あぶない」ということば(の現実性)を「包丁」と「ガスコンロ」と思っている幼児かもしれない(その幼児は台所に入ってさまざまな物を触ろうとしては「あぶない!」と叱られていると仮定しよう)。言うまでもなく、「あぶない」ということばが私たちの意識の中に引き起こす可能性の中には、切り傷や火傷を引き起こしかねない「包丁」や「ガスコンロ」は含まれるが、「あぶない」ということばが「包丁」と「ガスコンロ」を第一義的に指示しているわけではない。
(14) 例えば広島カープの野球帽にしても、それは色や形態などのさまざまな要素の集合体としてイメージされる。この野球帽を構成する要素は多数ある。だが、意識はこれらの要素を常に統合体として認識する(統合情報理論における意識の第四公理「統合」)。
(15) あるいは、さらに想像をたくましくして、その布は特殊な布で、表と裏の二層の間に流動的な液体からなる中間層があり、その中間層にはさまざまな形・大きさ・色の粒子が散りばめられていると考えてほしい。その布は、引き上げられ方の違いによって、さまざまな模様を描く。引き上げられた勢いに伴い、粒子は動き模様は変わり続けるだろう。このたとえは、同じことを(現実性として)想起してもその想起の仕方によって意味は変わるし、また想起された意味も時間と共に変化することをうまく説明できるかもしれない。
(16) 交響曲の「わかった!」の典型例は、ある時点でのメロディーやハーモニーが、それ以前・以後のメロディーやハーモニーの展開とつながっていることがぼんやりとでも直覚できた時かもしれない。抽象画の意味理解の典型例は、ある色合いや形象の構成が、見る人のそれまでの色彩や形象に関する無数の経験と(その人が説明できないレベルで)潜在的につながった時かもしれない。いずれにせよ、意味は、顕在的な現実性を知覚するだけでなく、それが潜在的な可能性とつながっていることを、意識と無意識の端境にあるぐらいの明瞭度で意識が自覚できた時にはじめて理解されたといえる。レコーダーやカメラは、交響曲や抽象画を正確に記録できるが、その記録対象を、それら自身の過去の記憶と結びつけるメカニズムをもたない以上、意味を理解しているとはいえない。
(17) 誤解のないように言っておくが、筆者は別に言語の生得性を否定しているわけではない。筆者が述べているのは、生得性の基盤の上に経験される言語使用が、私達が言語獲得と呼ぶ状態をもたらすということである。
(18) ポパーに由来するこの科学観は、今井・西山 (2012) にも見られる。
(19) だからといって、筆者は統計的な研究、特に教授法の比較研究を無批判的に肯定しているわけではない。詳しくは、柳瀬(2010)や柳瀬 (2017)を参照されたい。
(20) 残念ながら疑似科学的な論考が「英語教育学」には多すぎるというのが筆者の懸念である。科学という営みを敬い、かつ、英語教育に関する現実世界問題の深刻性を憂う筆者にとって、そういった疑似科学的な「英語教育学」は有害無益の営みに思える。
参考文献
今井邦彦・西山祐司 (2012) 『ことばの意味とはなんだろう』岩波書店
柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」、『中国地区英語教育学会研究紀要』第40号、11-20頁。
柳瀬陽介 (2017)「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」、『中国地区英語教育学会研究紀要』第47号、83-94頁。
Luhmann, N. (1990). Complexity and Meaning. In
Essays on Self-Reference. New York: Columbia University Press. (pp.80-85)
Tononi, G. and Koch, C. (2015). Consciousness: here, there and everywhere?
Philosophical Transactions of the Royal Society B. Vol. 370, Issue 1668. DOI: 10.1098/rstb.2014.016