2017年6月23日金曜日

「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」投影スライドと配布資料 + 音声録音ファイルと質疑応答のまとめ



※ 音声録音ファイルと質疑応答のまとめを追加しました(2017/06/26)。

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明日(2017/06/24)の中国地区英語教育学学会で口頭発表する際に使用する投影スライドと配布資料をここでもダウンロードできるようにしました。ご興味をお持ちの方はご参照ください。

この発表は、昨年の理論的整理を受けての、実践者分析です。



投影スライド



配布レジメ




***配布レジメの抜粋***





中国地区英語教育学会(2017/06/24 広島大学教育学部)

優れた英語教師教育者における感受性の働き
―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―

柳瀬陽介(広島大学)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/

1 序論:感性の重要性
1.1 背景
1.2 これまでの研究:
1.2.1 カント・ダマシオ・ボームの諸概念
1.2.2 ルーマンの意味理論
1.2.3 ユマニチュードの理論と実践
(A) 眼と眼を合わせる (B) 声を届ける (C) 相対的位置関係を整える (D) 身体的自由を与える
(1) 出会いの準備 (2) 学びの準備 (3) 経験の調和 (4) 肯定的感情の想起 (5) 肯定的見通し
1.2.4 オープン・ダイアローグの情動共鳴
オープン・ダイアローグ:関係者全員が対等な関係で語り合う中で全員で事態を改善させる
情動共鳴:関係者の情動表現が同期・同調することによって事態が好転する
1.2.5 アダム・スミスの『道徳感情論』
1.3 研究課題:優れた英語教師教育者のふるまいは、感受性の観点からはどのように記述できるか?
2 方法:観察とインタビューからの解釈
対象:三名の「優れた英語教師教育者」 TIK
データ:観察記録とインタビュー
解釈:1.2の諸概念をアブダクション的に利用し整合性を担保する
3 結果:情動共鳴とコミュニケーションの自己生成
3.1 高い感受性
3.2 情動共鳴への誘導
3.3 情動共鳴によるコミュニケーション
3.4 授業方法の基盤と授業実践の喜び
4 考察:教師行動の再検討
4.1 驚くべき事例
4.2 再考したい教師行動
(1) 一方的指名や懲罰的指名、(2) 心が伴わない英語定型句、(3) 外見だけの固定的評価、(4) 形骸化する「授業の振り返り」
5 結論:実践と研究における情動的感受性の重要性
優れた英語教師教育者は、情動的感受性を基盤とする授業運営をやっているように思われる。
教師教育の実践と研究は感性的な側面について注目すべき(ただし主観性、相互主観性に留意)
今後は、もっと具体的な実証、および「物語様式」への理論的探究が課題



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追記(2017/06/26)

以下に、私の学会発表の音声録音ファイルと、質疑応答のまとめを掲載します。

 この発表が終わって、何人もの実践者の方とお互いに共感しながら話す機会をもち、改めて自分はそれほどおかしな話をしているのではないと思えました。他方、下に書きましたように質疑応答をまとめてみますと、私は現代日本の「英語教育学界」という業界では、およそ異端なのだなと再認識する思いでした。

 しかし私としてはこの「異端」のやり方の方が、たとえ業界の仲間内では評価されなくても、英語教育の現場で働いている方々に資することにおいては長じているのではないかと思っていますので、これからもこの「異端」のやり方を発展させ、現場の方々に私なりの応援を行いつつ、できるだけ丁寧に自らの認識論・方法論を反省的に記述することによって業界の「主流派」「正統派」の方々の考え方にも風穴を開けたいと考えています。


(1) 柳瀬の学会発表の音声録音

デジタル録音機で録音した音声をダウンロードできるようにします。ただ、私は当日、さまざまに動き回りながら(話題に応じて、発表者と聴衆の相対的位置関係を考えながら)発表しましたが、デジタル録音機は机上に置いたままでしたので、録音音声が大きくなったり小さくなったりしています。お聞きになる場合は、必要に応じて音量を上下させてください。また、すべて即興でしゃべていますと、聞き直すと、(話し言葉ではよくあることですが)、文が完結していない箇所などありますが、その点もご容赦ください。


2017/06/24の柳瀬の学会発表(音声録音ファイル)




(2) 質疑応答のまとめ

以下は、10分間の質疑応答の録音にもとづき、四名の質問者とのやり取りを再構成したものです(質問者の同意を得ることは試みませんでしたので、録音の公開はしません)。質問者の質問は、録音を聞き直して、できるだけ忠実に要約したつもりです。私の答えは、当日の答えに加えて、今ならこうも言いたいといった内容を加えたものです。


Q1: 教育実習生などは、教材がしっかり頭に入っていないので児童・生徒を見ることができないと思う。新人教師が、発表で紹介されたような優れた英語教師(教育者)のように、児童・生徒を見ることができるためには、やはり経験が必要なのか?

A1: 経験は必要。ただし、これまでは新人教師が英語学力を高めるといった知的な目標は漠然とあったと思うが、児童・生徒との感性的なやり取りをするといった感性的な目標は自覚されていなかったと思う。新人教師を育てる際には、知性的な目標だけでなく、感性的な目標(そして理性的な目標 --さまざまな要因が絡む事象に関して総合的な判断ができるなど--) の三つを立てる必要があるのではないか。
 ただし、感性的な目標や理性的な目標は、知性的な目標と異なり、達成されたかどうかを明確かつ一元的に判定できるものではない。感性的な目標や理性的な目標を教師教育で立てるのはいいが、それが妙なテストで「客観的」に(=「一元的数直線によって」)判定されるようになってはいけない。感性的な事柄は相互主観的に、理性的な事柄は多元的に評価されるべきだからである。

関連記事
「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post.html


Q2: 今日の発表での話し方が、発表内容の主張そのままだったので印象深かったが、本日主張された「情動的感受性の育成」はどうすればいいのだろうか。

A2: [そのような質問が出ること自体に驚き、困惑しながら] 情動的感受性といったものは「子どもの時は子どもらしく遊ぶ」とか「大人も、<人間らしく>生きる」とかいったように、(社会的)動物として自然な生き方をすることで育成されるものだろう。ちなみに日本は、古来から四季折々に花鳥風月を愛でるさまざまな文化があるが、そういった文化を大切にすること(商業的なイベント=馬鹿騒ぎと金儲けの機会にさせることなく、虚心坦懐に楽しむこと)も方法の一つだろう。もし現代日本の多くの人が、情動的感受性を失ったているとしたら、それは後天的な要因によるものだと考えられるので、私たちの生活文化を変える、私からすれば「人間としてあるいは動物としてまともなものにする」、ことが必要だろう。



Q3a: 「ユマニチュードは技術だ」といった発言があったと思うが、今日、発表の中で紹介されたT, I, Kの三人も技術として、実践をしているのだろうか?

A3a: 時に「ユマニチュードは単なる技術だ」と言われることがあるが、それはユマニチュードによってこれまで動こうともしなかったお年寄りが動いたのを見た人たちが「ユマニチュードは奇跡だ!魔法だ!」と言うのに対して、「いや、これは技術に過ぎません」と言われているからである。
 しかし、ユマニチュードの提唱者がはっきりといっているように、ユマニチュード(<人間らしさ>)は哲学に基づいた技術体系である。その哲学の根幹は、世界人権宣言にも求められることができる。
 私が紹介した三人も、単なる機械的な技術としてああいった実践をしているわけではない。


Q3b: そうであるならば、「教師教育で扱えるのは技術の側面だけ」と考えるのか、それとも「技術だけでなく哲学の側面も教師教育で保障すべき」と考えるのか、どちらだろう?

A3b: [再びそのような質問が出てくること自体に困惑しながら] ご質問の中に、「哲学的な側面を教師教育で扱うことは難しいのではないか」という前提が見えてきたので、私はむしろその前提に驚いている。
 たとえば文学部では小説などを通じて、単なる機械的な技術や誰にとっても同じような情報に還元されない知恵を教えていると思うのだが、どうして教育学部でそのような知恵を伝承できないのだろう?
 その関連で言うと、私の最近の興味の一つは物語論で、改めて「論理-科学的様式」とは異なる「物語的様式」での物語(あるいはナラティブ)で英語教育の「現実」を記述する可能性についてきちんと考えたいと思っている。極端な話をすると、これまで三十年間程度、「論理-科学的様式」だけに即した量的研究が英語教育で山のようになされてきたが、それが英語教育の実践者にどれだけ納得感をもたらしただろうか?きちんとした量的研究を否定することはしないが、いいかげんな量的研究をするよりは、英語教育の実態に関する優れた小説が書かれる方が、私は英語教育の改善には役立つのではないかとすら時に思っている。
 

Q3c: 質問の趣旨は、「哲学を教えるとなると、カリキュラム化は難しい」ということである。哲学的な内容をどうカリキュラムに明文化できるのだろうか?

A3c: たしかに哲学的な内容(あるいは理性的な内容)を一問一答式のような形で明文化することはできないし、もしそうしたらそれはおぞましいことになると思うが、その困難性は、学校で行われている(あるいは行わねばならない)道徳教育の困難と通じるものがあると思う。道徳教育を厳密なカリキュラム化の対象とし、厳密なテストで効果測定できるものと考えるのは、哲学や理性の総合的性格(=さまざまな考え方の違いを抹殺することなしに統合する性質)を否定することなので、それはやってはならない。道徳教育はそのような誤り・危険をおかさずになされていると私は考えている(あるいはそう信じたい)。教師教育で<人間らしさ>の哲学を教えることは、道徳教育と同じような問題点を抱えているが、それを実行することは可能だし、現時点では必要だと私は考えている。


Q4a: 言われればそのとおりだなと思える内容だったが、介護や精神医療の現場でユマニチュードやオープンダイアローグの実践は本当に普及しているのだろうか?

A4a: まだまだ少数派ではあるが、今、非常に注目され、広がろうとしている。


Q4b: 注目されているということと、実際に効果が出ているということは別の次元の話だと思うのだが、実際に効果は出ているのか?

A4b: 現場が変わるのには二つの場合がある。一つは権威・権力がある者からの命令で変わる場合(例えば文科省からの「指導」など)。もう一つは、現場が効果を認めて自発的に・自生的に変わる場合。ユマニチュードやオープンダイアローグは後者である。ユマニチュードやオープンダイアローグは、あるい意味、これまでの専門家の権威や権力に対するものすごい挑戦であり、革命的といってもいいぐらいの変革であるのだが、それにもかかわらず普及し始めているのは、現場の現実がこれらの方法によって変わっているからに他ならないと私は考える。

Q4c: 現在の英語教育界では、上からの「PDCA」モデルの強制などで、昔から自発的に広がろうとしていたアクションリサーチなどの方法が受難を受けているとも思えるので、このような発表は心強い思いだった。[ここで時間終了のベルがなる]

A4c: ありがとうございます。





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関連記事

「英語教育の基盤としての感性についての理論的整理」(学会発表スライド) 発表音声を追加しました
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/06/blog-post_24.html
カント、ダマシオ、ボームの用語の定義 (感性・知性・理性、情動・感情(中核意識)・拡張意識、感受性)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post_22.html





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お知らせ

7月21日(金)にアリゾナ大学のD.アトキンソン教授が広大教英で講演 http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2017/06/721d.html 







率直で開かれたコミュニケーションから私たちの喜びである共感や連帯感が生まれる(アダム・スミスの『道徳感情論』から)



明日の学会発表準備の中で、アダム・スミスの『道徳感情論』についておさらいしていたら、予想以上に面白かったので、ここでは以前に書いた下の記事では行っていなかった拙訳をごく一部ではありますが、行ってみます。今回は、下記の翻訳書は手元になかったので参照できていません。拙訳に誤りがあれば、どうぞご指摘ください。


アダム・スミス著、高哲男訳 (1790/2013) 『道徳感情論』 講談社学術文庫



■ 共感や連帯感こそは私たちの喜び

共感が何から起こるか、あるいはどの程度の強いものであるか、などにはかかわらず、自分の胸で感じる情動が他人にもあるように観察できる連帯感を覚えた時に、私たちはもっとも大きな喜びを感じる。その反対に、連帯感が観察できない時に私たちはもっとも大きな衝撃を覚える。

But whatever may be the cause of sympathy, or however it may be excited, nothing pleases us more than to observe in other men a fellow-feeling with all the emotions of our own breast; nor are we ever so much shocked as by the appearance of the contrary.
I.I.14



■ 率直で開かれたコミュニケーションを私たちは望んでいる

率直で開かれていることによって信頼が生まれる。私たちを信頼してくれる人を私たちは信頼するものである。その人が示してくれている道がはっきりと見えるように思え、喜んでその人の案内と指示に従おうとする。その反対に、抑制していたり隠したりしていると信頼が失われる。どこに行くのかわからない人についていこうとはしないものだ。加えて、会話と社交の最大の喜びというものは、情緒や意見が一致することから生じるものだ。それは多くの楽器が同時に鳴り、拍を同じくするようなものだ。しかしこのもっとも喜ばしい調べは、情緒や意見が自由なコミュニケーションで表明されなければ得られない。この点からすると、私たちは、お互いがどのような情感を得ているかを感じ、お互いの胸中に入り込み、そこにある情緒や情感を観察することを望んでいるのだ。この自然な気持ちを私たちに見せてくれる人、つまり私たちを自分の胸中に招き、まるで門戸を開けてくれるような人は、他には見られないほどの喜ばしいおもてなしをしてくれているようである。普通に機嫌良い状態にいる人が、自分のほんとうの情緒を感じるがままに、あるいは感じているがゆえに、示す勇気を出すなら、周りの人も機嫌よくなるだろう。この抑制されていない純粋さゆえに、子どもの片言も心地よいものとなるのである。心を開いた子どもの見解がどんなに脆弱で不完全なものであろうと、私たちはその子の胸中に入れることに喜びを感じるし、その子の能力に応じて理解しようと努めるだろう。どんな話題であれ、その子が考えたように思われる観点から考えようとするだろう。

Frankness and openness conciliate confidence. We trust the man who seems willing to trust us. We see clearly, we think, the road by which he means to conduct us, and we abandon ourselves with pleasure to his guidance and direction. Reserve and concealment, on the contrary, call forth diffidence. We are afraid to follow the man who is going we do not know where. The great pleasure of conversation and society, besides, arises from a certain correspondence of sentiments and opinions, from a certain harmony of minds, which like so many musical instruments coincide and keep time with one another. But this most delightful harmony cannot be obtained unless there is a free communication of sentiments and opinions. We all desire, upon this account, to feel how each other is affected, to penetrate into each other's bosoms, and to observe the sentiments and affections which really subsist there. The man who indulges us in this natural passion, who invites us into his heart, who, as it were, sets open the gates of his breast to us, seems to exercise a species of hospitality more delightful than any other. No man, who is in ordinary good temper, can fail of pleasing, if he has the courage to utter his real sentiments as he feels them, and because he feels them. It is this unreserved sincerity which renders even the prattle of a child agreeable. How weak and imperfect soever the views of the open-hearted, we take pleasure to enter into them, and endeavour, as much as we can, to bring down our own understanding to the level of their capacities, and to regard every subject in the particular light in which they appear to have considered it.
VII.IV.28



 






2017年6月22日木曜日

カント、ダマシオ、ボームの用語の定義 (感性・知性・理性、情動・感情(中核意識)・拡張意識、感受性)





以下は、今週末の中国地区英語教育学会で私が発表する際の資料の一部です。カントの感性・知性・理性や、ダマシオの情動・感情(中核意識)・拡張意識や、ボームの感受性などの用語の関係性についてまとめた図を提示し、その関係性に基づきながら、私なりに簡単にまとめた定義 (1) と、彼らの原典での記述に忠実な定義 (2) の両方を掲載します。これらの用語を使って議論・論考をする際に、整合性を保つことが目的です。これらの定義を作り出す際に参照した資料はこの記事の下に掲載します。おかしいと思われる箇所などありましたらどうぞご指摘ください。







■ カントの用語


感性 (Sinnlichkeit, sensibility) 

(1)  何かに「あっ」と気づける能力。この感性が私たちのさまざまな気持ちを生み出す。

(2) まだ概念として分析されていない対象 (Gegenständ, object) から直感 (Anschauung, intuition) という表象 (Vorstellung, representation) を受容 (Rezeptivität, receptivity) できる能力 (Fähigkeit, capacity)


知性 (Verstand, understanding)

(1)  気づいた対象を概念化したり言語化したりする能力。これにより初歩的もしくは具体的な思考が可能になる。

(2)  対象の直感を思考 (denken, think) して、概念 (Begriff, concept) として自生 (Spontaneität, spontaneity) させる能力 (Vermögen, faculty)


理性 (Vernunft, reason)

(1)  さまざまな概念や言語を統一的にまとめ上げる能力。これにより抽象的で包括的な高次の思考が可能になる。

(2)  知性では不可能な全体性 (Totalität, totality) あるいは思考の最高次の統一 (die höchste Einheit des Denkens, highest unity of thought) を理念 (Idee, idea) としてまとめる能力



■ ダマシオの用語


情動 (emotion)

(1)  生きている限りいつでも生じている身体内の動き・活動(例えば脈動、ホルモン分泌、神経伝達、筋肉の自律的調整、外的刺激へのさまざまな反応など)。これらが私たちのやる気、気分、喜怒哀楽、などのさまざまな気持ちの核となっている。柳瀬はこれを「からだ」と称することもある。ちなみにemotionは語源的には、e(x) + motionと分解でき、「最終的には外に表現されるに至る身体内の動き」とも読み替えることができるだろう。

(2) 生命体の維持や健康に関わる身体内の動き。恒常性 (homeostasis) 、痛みや快への反応 (pain and pleasure response)、衝動 (drive) や動機 (motivation) といった低次のものから、漠然とした気分などの背景的情動 (background emotion) 、恐れ・怒り・嫌気・驚き・悲しみ・幸福感などの基本的情動 (primary emotion) 、共感・困惑・恥・罪悪感・誇り・嫉妬・羨望などの社会的情動 (social emotion) といった典型的な情動 (emotions-proper) までのさまざまな種類がある。


感情 (feeling)

(1) 自分で自覚している情動もしくは気持ち。この感情が自分の思考の核になる。柳瀬はこれを「こころ」と称することもある。また、情動と感情を総称して、情感 (affect) や気持ちと呼ぶこともある。気持ちについてもう少し詳しくいうなら、情動は、気持ちの核もしくは基盤であり、まだ自分の中ではよく把握されていない。感情は、自分でも自覚している気持ちであり、それゆえにそれを自分の考えとして言語化することもある。

(2) さまざまな情動によって形成されたある種の身体状態 (a certain state of the body) の知覚 (perception) であり、この知覚と共に、ある種の思考過程と思考結果の知覚 (the perception of a certain mode of thinking and of thoughts with certain themes) も生じる。


中核意識 (core consciousness)

(1) たとえば朝起きた瞬間の自覚、あるいはただ「ぼーっ」としている時の漠然とした自覚のように、ただ、今・ここに自分が存在していること、および、自分の外に何があるかや自分の内の状態がどうであるかを認識している意識。これが後述する拡張意識の中核となる。感情(「こころ」)を意識の一種として表現した用語と考えてもよい。

(2) 自分が「今・ここ」にいることの感覚 (the sense of the here and now)。これにより自分の人間としての存在 (personhood) が確認される。この中核意識は言語がなくとも成立する。


拡張意識 (extended consciousness) 

(1) 中核意識・感情・「こころ」を基盤にしながら、自分の意識を「今・ここ」以外の時空に拡張させて展開する意識。例えば、昔のことを思い出したり、将来のことを予想したり、遠い場所や空想上の世界を想像したり、他人の気持ちや考えを推測したりする意識。この拡張意識での働きにより、思考の中でも、中核意識・感情・「こころ」での初歩的な思考を超えて、体系的思考が可能になる。ちなみにこの思考の体系性を維持・発展するためには、言語体系や数学体系といった何らかの記号体系がおそらく不可欠であると考えられる。

(2) 今・ここ以外の時空にまで拡張された意識。これにより人間としての存在だけでなく、自己同一性 (identity) が確認される。自伝的意識 (autobiographical consciousness) とも呼ばれる。


想い (image)

(1) いわゆる「イメージ」で、認知の広い領域で一定のパターンとして認識されるもの。想いは、「からだ」で感じられるぼんやりとした未分化の気持ちであることもあれば、「こころ」で感じられる形の定まった気持ちであることもあれば、「あたま」で漠然と描かれようとしているさまざまな考えのまとまりであることもある。想いの源泉はさまざまな感覚器官から得られた感覚だろうが、想いは中核意識や拡張意識においてことばとして結晶化する。

(2)  視覚・聴覚・嗅覚・味覚・身体感覚などの感覚様態で作られた構造をもつ心模様 (mental patterns) であり、心 (mind) の主要通貨 (the main currency) となる。


ことば (language)

(1) 情動、感情・中核意識、拡張意識のさまざまなレベルで知覚された想いを、育った文化での慣習(および生得的な言語能力)にしたがって、記号体系的な表現にしたもの。ことばは想いから生じ、想いは「からだ」から生じ、「こころ」や「あたま」で発展し、ことばとなる。

(2) 想いが変換 (conversion) もしくは翻訳 (translation) されて単語や文の形をとったもの。



■ ボームの用語

感受性 (sensitivity)

(1) 感性・知性・理性、もしくは情動・感情(中核意識)・拡張意識のすべての領域において示される鋭敏さ。高い感受性により、人はさまざまな直感を得、さまざまな概念の内容および発展性を理解し、幅広い理念について思考することができる。

(2) 自分の内外で起こっていること (what is happening) に対する感覚を得るだけでなく、その感覚をまとめる (hold it together) 意味 (meaning) の感覚を得る能力




参照した資料(原典情報はそれぞれのページに書かれています)

「英語教育の基盤としての感性についての理論的整理」(学会発表スライド) 発表音声を追加しました

Emotions and Feelings according to Damasio (2003) "Looking for Spinoza"

A summary of Damasio’s “Self Comes to Mind”

Introduction and Key terms (Summary of Kant's Critique of Pure Reason #1)







 7/21(金)のDwight Atkinson教授特別講演にもぜひお越しください!
http://hirodaikyoei.blogspot.jp/2017/06/721d.html