2009年5月30日土曜日

英語の授業は英語できるのか?―「ゆとり教育」の蹉跌の二の舞―

掲示板「広場」でひろやすさん〈←ごめんなさい。「よしやす」さんでした!)が教えてくれた下記のシンポジウムの内容は面白そうですので、このブログでもお知らせします。

私自身は学習指導要領へのパブリックコメントでも言いましたように、「授業は英語で行なうこと」をむやみに是とすることは、(1)神話的な信念に過ぎないことであり、(2)現実の言語使用実態に即しておらず、(3)現場をかき乱す、という点で大変に危険なことだと考えております。


もう少し具体的に言いますと、いわゆる「オール・イングリッシュ」の授業は、進学校では大学で必要とされるきちんとした論文読解能力をつけさせるために有効な方法であるとは少なくとも現在考えられないと思います。(いわゆる「オール・イングリッシュ」できちんとした読解授業ができないというのではありませんが、現時点ではその準備も計画も諸々の前提もほとんど整っていないと考えます)。

また教育困難校では、まずもって単語を読み上げること、一般動詞とbe動詞の区別もきちんとできないことが珍しくないわけですから、そういった状況で「オール・イングリッシュ」を敢行しようとしても、ほとんどの場合、それは生徒をさらに「お客さん」扱いすることになり、「オール・イングリッシュ」の英語の授業は、すぐに飽きられるエンターテイメントか、生徒に無力感(learned helplessness)だけ植えつける機会になると私は考えます。

いわゆる「中堅校」では、「オール・イングリッシュ」の授業も強行できるかもしれませんが、そういった授業は世間の「英会話」のイメージに引きずられ、表面的なものになり、学力につながらないようにも思えます(理系ビジネスマンに英語を教える徳田先生の見解も先日ブログで紹介した通りです)。


以上のようなことから、私は「『授業は英語で行なうことを基本とする』の取り扱いは柔軟にしてください」とパブリックコメントで述べました。10年単位でみて、そちらに向かうべきdirectionも、短期に到達されるべきend pointとして強制されると、それは有害無益な政策になりかねないと懸念するからです。(「目標」概念に関しては、この記事をお読みくだされば幸いです)。


話が長くなりましたが、下記がシンポジウムの概要です。私は所用があり出席できませんが、もし参加された方がどなたか報告して下さればWebユーザー全体の利益になるかと思います(パネリスト自身がレジメをWeb公開してくだされば一番いいのですが・・・)。

シンポジウムで実り多い議論がなされることを祈念します。





第九回 英語教育総合研究会

日時:7月12日(日)13:00-17:00
場所:大阪大学大学院 言語文化研究科 新棟大会議室(豊中キャンパス)

シンポジウム 「英語の授業は英語できるのか?」
       ―「ゆとり教育」の蹉跌の二の舞―

コーディネータ・司会:成田一(大阪大)

「近視眼的な新学習指導要領-文科省の「国際感覚」を問う-」大谷泰照(名古屋外大)
「教育現場を破壊する高校新学習指導要領」江利川春雄(和歌山大)
「音声指導の現状と教師の資質」有本純(関西国際大)
「「英語で教える」語彙とテキスト理解の問題点」野呂忠司(愛知学院大)
「英語教育における母語の役割」成田一(大阪大)
全体討論(80分程度を予定)


参加費:300円(飲料提供) 参加資格:なし、一般の方の参加自由。
問い合わせ:大阪大学大学院 成田研究室 email: narita@lang.osaka-u.ac.jp
研究会年会費:無料。会員登録希望の方はお名前とご所属をメールで連絡ください。
懇親会 場所:言語文化研究科旧棟大会議室 費用:教員1000円、院生800円



講演概要

「近視眼的な新学習指導要領-文科省の「国際感覚」を問う-」

新学習指導要領には、この国の教育姿勢の驚くべき後進性が、見事なまでに映し出されている。この問題を、広く歴史的な視点と各国の教育状況を踏まえた国際的な視点から、具体的に浮き彫りにしたい。


「教育現場を破壊する高校新学習指導要領」

「授業は英語で行う」という新学習指導要領の方針は、格差教育の象徴だ。理論的にも実践的にも誤り。一律に押し付ければ、学校の疲弊は極限に達する。財界と政府は、5%の英語エリートを作る代償に、95%の英語嫌いを作り、切り捨てる気なのか。いま必要なのは、不服従、自前の教育実践、そして「学びの共同体づくり」だ。


「音声指導の現状と教師の資質」

高等学校における音声指導の現状について報告し、その問題点を幾つか取り上げ議論する。また、本シンポジウムは、新学習指導要領に示されている「高等学校では、原則として英語で英語の授業を実施する」を受けているので、その主体である英語教師の資質について、免許取得から研修に至る過程に含まれる問題点を取り上げ論じる。


「「英語で教える」語彙とテキスト理解の問題点」

全ての高等学校おいて全て英語で授業することは現実的か。高校生の英語力には大きな差がある。どのレベルでも従来より易しい教材を使うことが必要になるが、いくらレベルを下げても理解できないレベルもある。多くの高等生はBICSの能力を伸ばすことになる。アカデミックなCALPの言語能力を伸ばす必要のある学生の単語、文、テキストの理解がぼやけたものにならないか。語義・テキストの正しい理解の仕方を教えるのに、時には日本語と対照しながら、日本語を使って教えることは効率的である。


「英語教育における母語の役割」

日英語は「鏡像言語」とされるほど言語的な違いが大きい。日本語を母語とする生徒に英語の語彙・文法・英文の意味を的確に理解させるには、それぞれの言語的な特徴を対照して母語で説明するのが効果的である。英語での説明は生徒の英語力のレベルに制約されるため、学力を堅実に積み上げることは極めて困難である。



より詳しい情報に関しては

をご覧ください。




追記 (2009/05/30 22:28)

このブログでの転載掲載について、上記ブログの管理者に一言ご挨拶をしましたら、上記シンポジウムの主催者の成田一先生から感謝のメールをいただき、また「英語リフレッシュ講座」に関する情報もいただきました。この講座にご興味のある方はここをクリックして圧縮ファイルをダウンロードして下さい(ダウンロードした後は各自で解凍して下さい)。



「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」のPDFファイル

『中国地区英語教育学会研究紀要』No.39, 2009, pp.89-98に、拙論「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」を掲載させていただきましたので、このブログでも公開させていただきます(各図書館が紀要論文のレポジトリ掲載を進行させている現在、個人のこのような公開は問題ないと私は考えています)。


キーワードおよび論文の背景は次のようなものです。

キーワード
目的・目標概念、人間形成、アレント、複数性、政治性


背景
英語教育も学校教育の一環であるならば、教育基本法の精神に則り、人間形成を目指すべきである。しかし現状では、英語教育の目的・目標設定が、教育システムの外部から「政治」的に影響を受けることも多くなった。数値目標や資格試験の到達度、あるいは説明責任などに振り回される現場も多い。だが、現場を振り回している「目的・目標」や「政治」などの概念は、実は往々にして未整理なままのものである。英語教育という営みに学問的にアプローチする私たちは、単純な知性が複合的な現場の実態を過剰に支配し、現場を歪めてしまうことに抵抗しなければならない。しかし他方で「人間形成」という概念も、一歩間違えば、単なる個人的な価値観の押しつけや、通俗的な思い込みの凡庸な刷り込みになる。私たちはこれらの概念に関して、適切な理解をもつ必要がある。










2009年5月27日水曜日

岩本茂樹『教育をぶっとばせ --反学校文化の輩たち--』文春新書

あなたがある学校に赴任して、いきなり担任をもたされたとしましょう。そのクラスには、前年度の担任も教員集団も教育委員会も扱いかねた「問題生徒」がいたとします。あなたは初めて教室に入ります。いきなり目につくのはその生徒が机に足を投げ出して座っている姿です。間髪入れずその生徒はあなたにこう言い放ちます。


「おい、○○ [=あなたの名前を呼び捨て]。百円やるさかい、ジュース買(こ)うて来い」


クラスの残りの生徒は緊迫してあなたの反応を待っています。

さあ、あなたならどう対応しますか?



間違ってはいけないのは、これは何か「正解」の対応がある問題状況ではないということです。この本の著者は -- 上記の状況はこの本の冒頭に紹介されているエピソードです -- 彼なりに対応をしますが、彼も言っているようにそれが唯一の正解などといったものではありません。ですから生徒指導の「正解」を求めて、その「正解」を覚えておこうとしてこの本を読むことは、根本的な錯誤と言わざるを得ません。


しかしこの問題を抽象的・原理的に理解することはできますし、そういった理解は現実世界にとって有効なものだと私は考えます。

私なりに上記の問題を抽象化するなら、それは「あるフレーム(枠組み)で八方塞がりになったが、それでもコミュニケーションを継続させなければならない時にどうすればいいのか?」となります。ウィトゲンシュタインの言葉を借用するなら「アスペクト転換」(=物事の認識の仕方を一気に変えること)はどのように行なえばよいか、ということになるのかもしれません。いや、そんな難しいことを言わずとも、話がどんどんとかみ合わなくなり、一発触発ぐらいになってみんながハラハラしている時に「ま、お茶でも飲みまひょか」という老婆や、「ちょっとションベンしてきてよろしいか?」とわざと神妙な顔で提案するおっさんの知恵に学ぼうと言い換えることができるのかもしれません。

もう少し直接的な類似を求めるなら、それは禅僧とその弟子との対話に見いだせるかもしれません。棒(警策)を掲げて禅僧は弟子に迫ります。「この警策で俺がお前を打つとお前が言えば、俺はお前を打つ。俺が打たないと言えば、俺はお前を打つ。お前が何も答えないなら、俺はお前を打つ。さあ、答えよ、答えよ」と言う禅僧に弟子はどう対処すればいいのか・・・

禅仏教が日本の教養の重要な一部であった時代、このような禅的な対応、ひいては冒頭の状況での対応などは、多くの日本人にとってお茶の子さいさいのものだったのかもしれません。しかしそのような知恵を失った者にとって冒頭状況は恐ろしい危機として迫ってくるでしょう。

本書は小学校臨時講師四ヶ月、中学校教諭12年、普通科全日制高校五年の勤務を経て普通科夜間定時制高校に赴任した著者がその定時制時代の経験をまとめたものです。著者の筆力は高く、数々のエピソードはいきいきと描かれています。また社会学のトレーニングを受けている著者は、制服(およびそれからの逸脱)に関する社会学的分析、成績に関する人類学的考察(贈与論)などを展開しますし、ベイトソンのコミュニケーション論も下敷きにしながら分析を進めますから、学校現場でのコミュニケーションについて私たちは深く学ぶこと・振り返ることができます。

学校現場でのコミュニケーションを問題意識に持つ方はこの本を一気に面白く読めるのではないでしょうか。ただし繰り返しますが「正解」を求めるべきではありません。コミュニケーションは「唯一の正解」なるものなどに束縛されない自由を持っているからこそ、豊かになり深くなるものなのですから。コミュニケーションに「正解」を求めることは、私たちの自由と可能性を否定することだと私は考えます。



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ジャック・アタリ著、林昌弘訳 『21世紀の歴史』 作品社

五月連休にNHKがアタリ氏へのロングインタビュー番組を放映したのを見てこの書に興味を持ち、一読しました。

アタリ氏は、ウィキペディアの記述を引用するなら「フランスの経済学者、思想家、作家。アルジェリアの首都アルジェ出身。パリ政治学院卒業。経済学国家博士。初代欧州復興開発銀行総裁。フランソワ・ミッテランの側近中の側近で81年から91年まで大統領補佐官。91年から93年まで欧州復興開発銀行総裁。指揮者としてオーケストラを指揮したこともある」人物です。同書の表紙解説は、「本書は、アタリが、長年の政界・経済界での実績、研究と思索の集大成として「21世紀の歴史」を大胆に見通し、ヨーロッパで大ベストセラーとなったものである。サルコジ仏大統領は、本書に感銘を受け、“21世紀フランス”変革のための仏大統領諮問委員会「アタリ政策委員会」を設置した」とも説明しています。


本書の要旨を強引にまとめるなら、21世紀は三つの波をくぐり抜ける歴史となるだろうというものです。三つの波とは次のようなものです( < > はアタリ氏の造語です)。



第一波: 市場原理が透徹し民主主義・政府・国家が壊滅的な打撃を受ける<超帝国>の時代の到来

第二波: 国家の衰退と共に、希少資源をめぐる紛争、国境をめぐる紛争、国民世論の関心をそらすための紛争、<海賊>と<定住民>の紛争などが続発する<超紛争>の時代の到来

第三波:愛他主義と世界市民的態度こそが人類生存のために必要なことだと自覚する<トランスヒューマン>が人類全員にとって住みやすい世界の構築に尽力するようになる<超民主主義>の時代の到来



第一波はもう私たちが既に経験している「21世紀の歴史」なのかもしれません。第二波も私たちが既に予兆を見ているのかもしれません。

第三波は、それだけ聞いたら安っぽい話に聞こえるかもしれません。しかし、グローバル資本主義が私たちのあり方を圧倒し、貧困層はますます貧困になり、中間層富裕層は次々に国際競争と過酷な労働(特に労働時間)に負けて貧困層に没落し、少数の富裕層も環境破壊や小さな規模から大きな規模の暴力(犯罪からテロ・紛争)に怯えるような状況に追い込まれるなら、こういった考え方はこの上なく現実的なものとして認識されるかもしれません。

個々人が他人を押しのけて富と権力を求めるパラダイムではなく、私たちが人類として互いを支え合うパラダイムこそが個人の繁栄にもつながるという「リアリズム」が多くの人に認識されることが21世紀の課題なのでしょうか。つまりは宮沢賢治の「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はあり得えない」という言葉を理想主義的発言ではなく、現実主義的発言として認めることが今の私たちに必要なのではないでしょうか。


教育界の人間として気になるのは「共通資本」の考え方です。アタリ氏は次のように言います。


超民主主義は(人類が共通してもつであろう)共通資本を発展させるが、これによって共同体のインテリジェンスが生み出される。
超民主主義における共同体の究極目標である人類の共通資本とは、栄華や富、さらに幸福でもなく、きちんとした生活を保障する要素全体を保護することにある。すなわち、気候、大気、水、自由、民主主義、文化、言語、知識などを保護してゆくことにある。こうした共通資本は、維持管理が必要な図書館、自然公園などと同様に、使用した後はこれをさらに豊かにして後世に伝達しなければならず、これに不可逆的な修正を施すようなことがあってはならない。ナミビア共和国による動物相の保護政策、フランスの森林資源保護政策・文化財保護政策などが、共通資本の前兆となる概念である。共通資本とは、市場原理、国家管理、多国間所有では対処できない国家を超えた資本である。 (300ページ)



日本でもまさに「第一派」により、教育の公共性がますます失われ、学校も、消費者としての保護者・生徒のニーズに応えるという意味で「市場原理」によって動かなければならないといった発想が、管理者層を中心にますます強くなってきているように思えます。「教育界は民間に学べ!」ともしばしば言われ、それに疑問をはさむことすら許されないようにまなじりをあげる人も少なくありません。教育界も数字に現れる結果を出さなければならないと、妙な管理強化ばかり進行し、教育の本質が忘れ去られようともしているかと思えます。

悲観的かつ猜疑的な言い方をすれば、日本を動かしているとされるエリート層・富裕層などの多くは、公教育には真剣に取り組んでいません。究極の所、自分の子どもは市場原理で研磨された私立にやればいいと思っているからです(そして自分には子どもを私立にやれる財力があってよかったと思っているからです)。

もし教育が「国家百年の計」だとするなら、私たち教育界にいる人間は、ここ10年ぐらいの(世界の潮流からすれば少し遅れた)日本の安っぽい新自由主義的発想を批判的に相対化するべきでしょう。そしてどんどん激化する資本主義的競争を不可避なものとしてしかとらえられない想像力(ひいては知性)の貧困を指摘し、未来のビジョンを掲げ、それを仮説として試行錯誤する努力を始めるべきでしょう。教育の公共性をもっともっと主張するべきでしょう。

英語教師にとっても、もちろん日々の工夫(「どのように」教えるか)は重要ですが、「なぜ」「何を」教えるかという思考も重要だと私は考えます。そして「なぜ」「何を」という思考は、五年、十年、三十年、さらには百年といったタイムスパンでもなされるべきです。

この本が提起するような問題意識を有形無形に避けているように思える日本の英語教育界には私は脆さと危うさを感じます。





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『英語教育』2009年6月号特集「教師のための『時間活用』のすすめ」

私は大修館書店『英語教育』2009年6月号特集の「教師のための『時間活用』のすすめ」を面白く読みました。ビジネス一般から教師一般に当てはまる記事、そして英語教師固有の事情に関する記事を集めた13人によるこの特集は一読に値すると思います。

ですが一方でこの特集の存在が、本当にこの記事を必要としている忙しい英語教師に伝わるのだろうかという危惧もあります。また月刊誌というのは一度店頭から姿を消すと入手が困難になるという流通事情も気になります。

このウェブという媒体をうまく使い、本当に必要な情報が、本当に必要な人に迅速に伝わるような多種多様で開かれたネットワークができればと願っています(これは私の十年来の信念です)。


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2009年5月25日月曜日

連載コラム『理系に学ぼう』(英語教育ニュース)

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]


英語教育の基本は人間教育・市民教育ですが、その延長上では、英語を使用する現場を見定めるべきだと私は考えます。しかしこれまでの英語教育は、ともすれば英語学習そのものが目的となってしまった「英語マニア」が「英語大好き少年・少女」に、あらゆる側面で「ネイティブの英語」に限りなく近づくことを勧めるものになっていませんでしたでしょうか。英語教育に携わる人間は、もっと冷静にグローバル社会における英語使用の現実・ニーズを見極め、母語でなく第二言語としての英語を具体的・限定的に使用するための英語教育をデザインするべきではないでしょうか。

このコラムでは、英語教師・英語教育関係者が知っておくべき英語使用の現場についての文章を掲載します。とはいえ著者である私自身は英語教員養成・現職研修の現場を知っているだけで、その他の現場の実際の英語使用に関して格別の知識をもっているわけではありません。ですからここで私は、英語使用の現場を描いた本を私が読んだ限りのまとめを提示します。

現場の中でも、特に理系の人々(サイエンティスト、エンジニア)などの英語使用についての文章を掲載しようと考えています。理系の英語使用こそは英語のニーズがおそらく最も高いのに、英語教育関係者の関心がおそらく最も低いと考えられる分野だからです。

これをきっかけに私たち英語教育関係者の関心が広がることを願っています。

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徳田皇毅『理工系学生が会社に入る前に読む英語の本』(2008年、日本工業英語協会)

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]


コラム「理系に学ぼう」の第一弾は、理系英語のための概説的入門書ともいえる『理工系学生が会社に入る前に読む英語の本』(徳田皇毅著、2008年、日本工業英語協会)を取り上げます。

この本で述べられていることで、英語教育関係者が傾聴すべきポイントを私なりにまとめれば、

(1) 会話重視への警鐘、

(2) 基礎教育としての学校教育の重要性、

(3) Output重視試験の重要性、

(4) 「商品」になる英語とならない英語の違い、

(5)"Awkward"でない英語を書くための修養、


といったことになるかと思います。

(1) の会話重視への警鐘に関して、徳田先生は「会話ができる」だけでは英語ができるとはいえないということを確認します。「企業の活動にともなって発生するあらゆるレポート、契約書などのドキュメントはすべて書面として作成されます。書面にないものは存在しないのと一緒です。どれだけ話せても書けなければゼロなのです」(36ページ)とは徳田先生の言葉です。そういえば会社で一番英語を使うのは、会話でなくemailの読み書きだともよく聞くことです。英語の断片をつなぎあわせて「何となく」通じさせてしまうような英会話力では、レポート・契約書はおろか、emailでもきちんとは書けないわけですから、「会話」を重視するあまり英語を書くことの重要性をきちんと教えていない英語教育はこの点からも見直さなければならないのかもしれません。

(2) の基礎教育としての学校教育の重要性については、徳田先生は学校英語教育が「文法重視」、「実践軽視」となるのは当然と断言されます。

仮に中学、高校でみなさんが英語に費やした時間のすべてを、会話を中心とした「実践形式」の授業に使ったとしましょう。6年後に待っているのは、悲惨な結果です。数百の単語しか持たず、文章はまったく読めない。できるのはせいぜいせいぜい海外旅行に行ったときに困らない程度の英会話力です。(40ページ)

あまり「会話」を目のかたきにするのも中庸を欠きますが、文法によって、どんな文でも聞き・読み、話し・書くことができること (=言語の創造的使用能力) が重要であることに対しては私も全面的に賛成です。

また社会での「実践」が商的、法的、工学的、理学的、医薬的などなどと様々な分野に展開している以上、そういった「実践」を学校でやることは現実的でなく、実践諸分野の英語の基礎になることをやることが学校の役割だとも主張されています。

(3) のOutput重視試験の重要性もこれまでの論点とつながっています。コンテクストや一般常識の助けを借りての「なんとなく」の理解を四択の中から選ぶようなinputの試験では、著者が考える英語力は測れないわけです。ですが多くの試験はやはりinput重視です。試験の実施には

(a) 妥当性 (そのテストが目的能力をきちんと測っているか) 、

(b) 信頼性 (そのテストは何度実施しても同じ結果がでるような安定したものか) 、

(c) 実施可能性 (現実的に実施しやすいか)

 の要因があるとしばしばいわれます。私からすれば (a) > (b) > (c) の順番で大切だと思うのですが、現実はしばしば (c) > (b) > (a) の優先度で試験が実施されます。こういった私たちの思考と慣習の惰性にも深刻な反省が必要かもしれません。

(4) の「商品になる英語」とは「何とか通じる英語」ではなく、取引相手に信頼感を与えるような、ある程度の品格をもった魅力的な英語のことです。これに関しては137ページから実際の和文英訳を通じて、「商品にならない英語」と「商品になる英語」の差が実感できるようになっています。日本語慣用につられて妙な英語になってしまう「つられ訳」の指摘も傾聴に値します。

(5) の"awkward"でない英語を書くには、というポイントでは、仕事で使う英語 (本書では技術英語) は特殊な英語であるが、その特殊な英語も広汎で深い英語使用のバックグラウンド (つまりは教養) があってはじめてきちんと書けることが説明されています。

以上のように、伝統的な学校英語教育の姿勢を擁護しながらも、英語教育がもっとライティングを志向するべきことを主張し、ライティングで「商品になる英語」「"awkward"でない英語」を目指すならば、おそらくは伝統的な学校英語教育では不十分であることも述べたと思われる本書は、英語教師が目を通しておくべき本の一冊かと思います。

英語教師は「英語が好き」「留学が夢」でいいかもしれません。旅行や語学研修での英語使用をもっぱら英語教育の目的のように考えてしまうのも仕方ないのかもしれません。ですが理系の社会人は、英語を使うためにお金を使う (例、旅行、語学研修) ことではなく、お金を稼ぐために英語を使うことを目的としています。「出費を伴う英語」ではなく「お金を稼げる英語」について英語教師ももう少し考えてもいいのではないでしょうか。





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2009年5月15日金曜日

酒井朗先生講演「授業を質的にどう分析するか」

前回の「アクションリサーチ」の記事に対して、「校長派」と「対立派」の「間に立つ者」として対立を協働に変えてきた実績を持つ方からメールをいただきました。

そのメールの中で教育臨床社会学者である酒井朗先生によるスクールエスのグラフィーやアクションリサーチなどに関する講演の存在を教えられましたので、ここでもお伝えします。


(5ページ目をごらん下さい)

アクションリサーチも(実験)心理学の立場から考えるのか、(臨床)社会学の立場から考えるのかで大きく理解は異なってくるかと思います。

日本の英語教育学会は「教育学」という看板が疑わしくなるぐらいに、まだまだ社会的な研究が少ないように思います。(私を含めた)英語教育関係者は社会学者などの論考をもっと勉強するべきかと思います。





2009年5月11日月曜日

矢守克也 (2007) 「アクションリサーチ」

やまだようこ編 (2007) 『質的心理学の方法 --語りをきく--』の第12章 (178-189ページ)の矢守克也 (2007) 「アクションリサーチ」は日本の英語教育界にとっても重要な論文だと思いますので、ここで短く紹介し、続いて私見を述べます。

矢守先生は最初に「アクションリサーチとは『こんな社会にしたい』という思いを共有する研究者と当事者とが展開する共同的な社会実践のことである」と述べ(178ページ)、「ナチスから逃れて米国に渡ったレヴィンの研究の底流には、常に、民主的な社会の創造という目的があった」(179ページ)と説明し、アクションリサーチの創始者ともいえるクルト・レヴィン (Kurt Lewin) の重要性を強調します。

「1 アクションリサーチの要・不要」では、実践の現場にリサーチ(研究活動)を持ち込むことは、一つの重大な判断であり、「すべての実践にとって研究的営みが必要と考えるのは、研究者の思い上がりにすぎない」という杉万(2007)の言葉を引き、アクションリサーチが研究のための研究になってしまってはいけないことを示唆しています。

「2 アクションリサーチの基本特性」では、(1)目標とする社会的状態の実現へ向けた変化を志向した広義の工学的・価値懐胎的な研究、(2)上記にいう目標状態を共有する当事者と研究者による共同実践的な研究を基本的特性としてあげ(180ページ)、アクションリサーチが「よりよい [と信じられている] 方向」へ向けて、研究者や対象者といった当事者が、自らの研究が実践に及ぼす再帰的な影響を自覚しながら従事するものであることを説明します。

「3 どのような条件のもとでアクションリサーチはなされるべきか」では、「3-1 『価値』の調整が求められるとき」、「3-2 研究者/対象者間の固定した構造に変化が必要なとき」をあげ、前者の場合でのナラティブの重要性、後者の場合で、従来研究されるばかりでしかなかった対象者が研究者的性格を有し、研究者が対象者的立場も理解することの重要性を説きます。このあたりでアクションリサーチは、疑似実験研究でも「お手軽な実験研究」でもない、社会改革への理性的な試みであることがはっきりと示されているように思えます。

「4 アクションリサーチで活用、ツール、プロダクツ」では、それまでの議論を踏まえ、「アクションリサーチを、特定のデータ収集方法や分析方法と結びつけるのは、それがもつポテンシャルを矮小化することになる」(187ページ)と述べ、アクションリサーチの基本精神を顧みないままに、些末で不毛な研究手法論議をすることを戒めています。

さらに「アイヒマン実験」としても知られる「服従の心理」に関する有名なミルグラムの実験研究も、レヴィンの志を受け継ぐアクションリサーチであったと解されるべきであると主張しています。





日本の英語教育にとって重要なメッセージは少なくとも二つあると私は考えます。一つは上にも述べましたように、アクションリサーチを「価値中立的」(この用語がはらむ問題はここではさておきます)な自然科学研究の単なる亜流とみなす誤解をこれ以上持ち続けてはいけないということ、二つ目はアクションリサーチとて実践に対する介入であり、無批判的に良きものとみなされてはならないということです。

二つ目に関してもう少し述べます。教育実践現場の中には、困難な教育状況や、とにかく上から命令される書類仕事・事務仕事などに教員が追われ、ゆっくりと教員が語り合えない職場が少なからずあります。そんな職場では、教育上の悩みや問題を抱える教員も、他の同僚に相談する時間、機会、雰囲気をもてずに孤立しがちです(実際、2009年2月4日に掲載された毎日新聞の記事は「東京都教職員互助会などの調査では、先生が相談できる相手で最も多かったのは「家族・友人」で83.5%。「上司・同僚」は14.1%しかない」ことを伝えています。社会常識からすれば、仕事の問題や悩みを語る一番の相手は上司・同僚であると私などには思えるのですが、そのような当たり前のことが行なわれていないところに教育界の歪みをみるように思えます)。


そういった職場にアクションリサーチが上からの指令で命ぜられることがあります。もちろんそういったアクションリサーチを契機に、職場に風穴が空き、教育環境の改善がはかられた事例はたくさんあります(アクションリサーチの例に入るかどうかわかりませんが(注)、SELHiも校長や教育委員会の命令で導入されたものの結局はよい結果をもたらした場合もあります)。

ですがいくつかの場合では、アクションリサーチが上から命ぜられることにより、英語教師まで「校長派」(命令に従いアクションリサーチを行なおうとする者」と「対立派」に分断されて同僚間でのコミュニケーションが困難になったり、職場がますます忙しくなって一部の者が病気になったりした例もあるはずです。

また新人研修でも、アクションリサーチの報告書の提出は求められても、その新人がゆっくり落ち着いて自らの実践を振り返る時間すら与えられず、年中睡眠不足で疲労困憊しながら、職場で教育困難な生徒はもとより、同僚教師ともコミュニケーションがとれずに孤立してゆくことも多くあるはずです。(岩波書店『世界2007年2月号』にはルポライターの星徹氏が「学校現場に不幸をもたらす「教育改革」」で、そのような状況で追い込まれ自殺した新人女性教諭の状況を報告しています)。




私は日本の英語教育界ではもっとアクションリサーチが普及すべきだと思っています。また理論研究・実験研究を行なう研究者ももっともっと現場を向くべきだと考えています。しかしだからといってアクションリサーチが無条件に推進されるべきものとは考えません。

日本の教師には優秀な人材が多いというのは、少なくとも国際的にはしばしば言われていることですが、日本の教師の多くは労働基準法違反の長時間労働をし、しかも土日や休日までクラブ活動の指導に追われています。そういった過酷な社会的状況を無視して研究や研修を押しつけることは、(私はあまりこういう言い方は好きではないのですが)まさに人権問題ではないでしょうか。

この点、とにかく教師にまともな私生活の時間を与え、勤務時間内にお互いの教育実践を自由に語り合える時間を制度的に保障することが、アクションリサーチを含めた研修の前になされるべきことだと私は考えます。

私が時折述べておりますExploratory Practiceというのはあくまでも実践であり、実践を惰性で行なうのではなく、探究的に行なおうというものです。そこでは目に見える結果は必ずしも求められず、言葉になりがたい実践的理解を深めることが重視されています。それよりも何よりもExploratory Practiceが重視するのは、当事者(教師・生徒など)のQuality of Lifeです。



残念ながら現代日本では、看護士や介護士あるいは教師といった最もQuality of Lifeに敏感であるべき職種の人間が、自らのQuality of Lifeを犠牲にして疲弊しているという現実があります。

こういった問題はこれ以上看過すべきではないかと思います。

こういった状況の改善のためのアクションリサーチなら私は全面的に協力します。

話は矢守先生の論文からずいぶん逸脱しましたが、私たちは今一度研究は「誰のため・何のため」に行なわれるべきなのかということを真剣に問い直すべきかと思います。




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(注) 書いていて気づきましたが、SELHiについてある程度関わったはずの私のような人間でさえ、SELHi研究をアクションリサーチとみなしてよかったのかどう即答できないというところに、日本の英語教育研究の貧困さが表れているのかもしれません。SELHiを始めとした実践研究に、研究者が実践感覚とはとても遠い研究スタイルを押しつけることにより、現場実践が混乱し歪むといった事例は私もしばしば見聞しているものです。今思えば私はSELHiに関する会合などで、SELHi研究はアクションリサーチであると明確に断言し、もっともっときちんとアクションリサーチと実験室的実験研究の違いについて説明すべきでした。それができなかったのは私の不覚であり、不勉強です。


参考文献
杉万俊夫 (2007) 「質的方法の先鋭化とアクションリサーチ」, 『心理学評論』49,551-561.








2009年5月6日水曜日

SSJDAを利用した英語教育の論文

寺沢拓敬さんによる「社会環境・家庭環境が日本人の英語力に与える影響-JGSS-2002・2003の2次分析を通して-」 (JGSS公募論文2008優秀論文)を読む機会を得ました。

この論文は東京大学社会科学研究所のSocial Science Japan DAta Archive (SSJDA)のデータを利用することにより、方法論的に堅実なデータを使用しています。


社会調査の類は、言うまでもなくデータ収集(サンプリング)が非常に大切ですが、現実的には個人がやる研究の多くは、知り合い(の知り合い)にデータ収集を頼んだりと、データに偏りがあるものかとも思います。

この点、SSJDAを利用することにより、しっかりとしたデータがきちんと分析される研究が増えるのではないかと思われます。

SSJDAの理念などに関しては下記のサイトをご覧ください。


ちなみにSSJDAには『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ』 (文春新書)の著者としても有名な谷岡一郎教授も関与しています。ロングセラーであり、多くの良識ある人が薦めるこの本を、私は最近になってようやく読む機会を得ましたが、噂に違わずいい本でした。

このようなデータ利用に関する知識が英語教育界にも早く常識となることも願い、寺沢さんの論文をここで紹介する次第です。


この論文は以下のサイトからダウンロード可能です。


なお、私なりにこの論文を読み、疑問点を寺沢さんに送ったところ、寺沢さんからは以下のような返信をいただきました。返信に私の疑問が的確に要約されていますので、ここではその返信だけを掲載します。この返信の公開を許可してくださった寺沢さんに感謝します。



*****以下、寺沢さんからの返信*****

> (1)
> 社会環境・家庭環境の影響と、学校環境の影響の比較につい

> 私が理解(あるいは誤解)した限りでは、この論文で提示され
た最も興味深いリサーチ・クエスチョンは、112ページの「た
とえ学歴が同一であっても依然として英語力の階層差は存在す
るかもしれない」です。
> この問いに対して明確な答えは提示されたでしょうか?
> 表3のデータは非常に興味深いものですし、表7は本人学歴と
英語力の関係の強さを雄弁に語っていますが、私としては上記
の問いに対する端的な答えが知りたかったです。

私の考察が足りない部分でした。たしかに興味深い点だと思い
ますので、もう少し深く分析・考察する必要のあるテーマだと
思います。今後の参考にしたいと思います。
私の論文の範囲内で申し上げますと、(116ページの4.4の最後
の行でほんの触れる程度にしか記述していませんが)「学歴を
経由した間接的影響」が比較的小さいものが「15歳時世帯収入
」と「15歳時農村居住」だということは言えると思います。
特に、特徴的なものが「非農村居住」で、表5の非農村居住ダ
ミーの係数の変動をご覧いただければと思いますが、老年世代
では学歴をコントロールしても、それほど大きく影響力が消失
していません。このことから、上の世代においては、「農村」
的な文化それ自体が、英語学習や英語の必要性に対して負の影
響を与えていたことが推察できます。その一方で、若い世代に
おいてはこのような傾向が見られなくなることから、「農村 vs.

非農村」という対立軸は近年なくなっていったということも推
察できます(これに類する議論は、『言語政策』第5号に掲載
予定の拙稿で少しだけ展開しております)。ただ、繰り返しに
なりますが、この点の議論をきちんとしなかったのは私のミス
です。ご指摘ありがとうございました。



> (2) 「英語ができる人」の定義について
> 表2で「英語ができる人」が、英語読解力と英語読解の両方
において「1」あるいは「2」と答えた者と定義されていますが
、社会常識の範囲なら「1」、「2」もしくは「3」と答えた者
を「英語ができる人」と定義することも可能かと思います(実
際、このような感覚を持っている人は少なくないと思います)
。この後者の定義でしたら「英語ができる」人が141人よりは
るかに多い人間となり、上記(1)の問いにも答えやすくなるよ
うにも思えますが、いかがでしょう。

 こちらの指摘もおっしゃる通りです。『言語政策』第5号掲
載予定の拙稿にはこの部分の議論を行っていますが、本論文執
筆時にはその点にあまり注意が向かなかったため、そのまま刊
行されてしまいました。この点も私の認識不足だったと思いま
す。

『言語政策』論文で行った「定義の正当化」は以下のようなも
のです。ご参考までにご紹介致します。

・「1」「2」のみを「英語ができる人」と定義したのは、「
保守的な基準」を採用しようと考えたため
・つまり、主観的質問項目を元にしている関係で、「3」を含
めると一般的には「英語ができない」と見なされる人まで「英
語ができる」のカテゴリに紛れ込んでしまう危険性が高まるた

・念のため「1」「2」「3」を英語ができる人と定義した分
析を行ってみたが、結果(格差の上下関係、推移など)に大し
たちがいは見られなかった

ただし、「保守的」な基準を用いたとしても、危険性がすべて
回避できるわけでもなく、逆に「できる(と思われる)人」が
謙遜して「3」に○を付けてしまうような可能性もあります。
この点は、主観的データの限界だと思います。この点について
は、今後、英語教育研究の既存の多くの統計調査をメタ分析し
て、傍証とする必要があると思っています。ご指摘ありがとう
ございました。


> (3) 父親の職業について
> 111ページでは「大きな差があると言えそうな境界線を探し
出し」、父親の職業を「専門職・管理職」と「その他」に分け
ていますが、これまた社会常識の範囲内なら、「専門職・管理
職、およびホワイトカラー」と「その他」に分けることも可能
かと思います。実際、私の生活感覚からすれば前者の二分法は
「かなりのエリート」と「それ以外の大多数」の二分法である
ようにも思えます。この二分法が上記(2)の二分法と相まって
、この研究は「英語がかなりできる人・かなりのエリート」と
「その他大多数の英語がかなりできるとはいえない人・普通の
人」の関係についての研究であるような印象さえ得られるよう
に思えます。(2)および(3)を例えば私のような定義・区分で分
析したらどのような結果になるのか、個人的にはとても興味あ
ります。

ご指摘の点、おっしゃるとおりだと思います。
私の分析を始める前には、父職では「専門管理・ホワイトカラ
ー」vs.「ブルーカラー・農業」の対立軸が効いていると思っ
ていました。ただ分析をすすめていき、表3のような結果を得
た段階で、父職に関しての重要な対立軸は、「専門管理 vs.
その他」ではないかという感触を得たので、このようなモデル
に変更させて頂きました。
ただ、この点も、プレゼンテーションの効率化のために、強引
に2項対立にしてしまったことは反省しています。表3をご覧
いただければと思いますが、たしかに若い世代では父職ホワイ
トと父職ブルーの差はあまりありません。しかしながら、上の
世代では、その差は大きいようにも思われます。したがって、
英語力格差を生み出す対立軸が、世代間で変容している可能性
があります。こうした点も、今後より詳細な分析をするなかで
、きちんと提示する必要があるかと思われます。今後の検討課
題としたいと思います。ご指摘ありがとうございました。
なお、拙稿における「ホワイトカラー」は大ざっぱに言って「
事務職」に相当するもので、一般的に言う「ホワイトカラー=
エリート」のイメージとずれる点があります。いわゆる「肉体
労働」に従事していない場合、小企業で働いていようが臨時雇
用であろうが、「ホワイトカラー」に分類されてしまうので、
このような「粗い」職業分類の仕方が、リアリティを歪めて捉
えてしまっている恐れは大いにあります。私が用いた枠組み(
「専門管理」「ホワイト」「ブルー」「農業」「自営」...)
は、教育社会学の学歴格差研究のものを特に批判的な検討なし
で「英語力格差」に流用したものであり、この点もまずかった
なと思っております。今後は、生のデータに立ち戻り(元デー
タではもっと細かい職業分類が使われています)、英語力格差
論を組み立てる上で有効な枠組みを創出したいと考えておりま
す。

*****返信は以上で終わり*****







2009年5月5日火曜日

忌野清志郎の魂

かけがえのない人の訃報の一方で






その自覚があるかないかは別にして、彼の魂は別の人に引き継がれている。













これから50年、100年たって、忌野清志郎などという固有名詞がごく一部の好事家にしか知られなくなっても、彼の魂は生き続ける。

人を変え、形を変え、時を超え、場所を越え。


なぜなら私たちは人類としてつながっているからだ。


私たちは個として人類の中に生まれ、人類の中に個として消えて、人類の中に人類として生き続ける。







愛し合ってるかい?
















追記(2009/05/06)

桑田のこのアベーロードの凄いところは以下のようにまとめられるかもしれません。


(1)単なる替え歌ではない

ただメロディーに合わせて、適当に日本語の歌詞をつけたものではない。


(2)単なる空耳メロディーではない

ある曲の一節だけに空耳日本語をあてるのは、ちまたでもよくやられているが、桑田の作品はそのような単純なものでない。


(2a)統合的なテーマを持っている。

桑田はメロディーのある一節だけに空耳日本語をあてるだけでなく、一曲まるごと、というよりアルバム「アビーロード」全体のメロディーラインに、空耳日本語を創作的にあてた。しかもそれらの日本語が一貫的なテーマを持っている。


(2b)日本語を音響的に解体した上で空耳作詞をしている

通常の空耳ソングは、日本語の音韻体系(子音(C)+母音(V))を崩さない日本語をあてているが、桑田はおそらく日本語の音韻体系を解体して(といっても英語的な音韻体系に即して)日本語を聞き、歌うことができる。

つまりCVCの構造、もう少し詳しく言えば(ある一定限度まで)複数の子音を連続させることができる+CVC+とでも表記すべき構造で日本語を音響的にとらえ直して空耳歌詞を創り、歌っている。またそれぞれのCやVも時折露骨に英語風に変えることによって「空耳性」を高めている。



ですからアベーロードは、画面に出るオリジナル英語歌詞と桑田の空耳日本語歌詞を素早く読みながら、桑田の日本語発声を聞くというように多重的に楽しむと、「うわっ、オリジナル英語をこのように日本語にしている!」という沢山の発見をすることができるかと思います。

まあ、ものすごく手をかけた遊びであり、これを完璧なバンドコピーと桑田の見事な歌唱力でやるわけですから、本当に凄いとしか言いようがありません。

「英語はどれだけ日本人に浸透したのか」という問いに対する、一つの興味深い象徴的なエピソードとして解釈することもできるかと思います。


初期のサザンオールスターズの熱心なファンであった私は彼らが一種マンネリ化し、おそらくはそれと共に「国民的バンド」となるにつれ、彼らに対する興味を失っていました。

しかしやはり桑田佳祐にはラディカルな力が根源にあるのかと思います。(考えてみたらKUWATA BANDはよかったですし、SASでも「愛の言霊」などという素晴らしい曲を書きました)。期間限定の『音楽寅さん』に注目すると同時に、これからの彼のソロ活動に期待したいと思います。





2009年5月3日日曜日

郷原信郎『「法令遵守」が日本を滅ぼす』新潮新書、『思考停止社会』講談社現代新書

小児的正義が横行しているように思える。

一点だけから正しさを考えない小児的正義は、昔はいわゆる進歩派・左翼に多かったようにも思えるのだが、現在は保守派・管理職に多いのではないか。私からすれば保守派や管理職の美徳とは、清濁併せ呑む度量の大きさであり、総合的に事を運べる器量であるように思えるのだが、ここ5年、10年、保守派や管理職がどんどんと狭量な形式的ルール管理ばかりに邁進しているように思える。「法令遵守」が錦の御旗になり、誰も異議を唱えられなくなるばかりか、「法令遵守」違反があったとされた瞬間、マスコミがスクラムを組むようにしてバッシングを始めるようになったからかもしれない。

例えば職場からの情報漏洩が問題になる(たしかにこれは由々しき問題だ)。すると一律に職場でのUSB使用が禁止される。しかしすべての仕事が同じ情報漏洩リスクをかかえているわけではない。仕事によってはUSB使用がまったく問題ないものもあれば、その積極的使用が望ましいものもあろう。気をつけなければならない情報の中でも、暗号化といったセキュリティ対策を施したUSBでリスク管理できるものもあるだろう。しかしそういった判断は一切やめて一律にUSBは禁止となる。

加えてワーク・ライフ・バランスの観点から「ノー残業デー」が設定されたりもする(ワーク・ライフ・バランスは確かに日本社会が非常に必要としているものだ)。とはいえ、仕事量はいっこうに減らない。残業してはならないと職場から追い出されても、仕事は残る。いきおい家庭に仕事を持ち帰ることになる。

こういったこともあり、職場でのUSB使用はなかなか止まない。ここで管理職がなすべきことは、こういった現状を分析的に理解し、問題の構造的な解決をはかることである。だが実際にしばしば行われることは、「USBを使ってはならない」という規則を繰り返し述べることである。職場の構成員に「私はUSBを使っていません」という自己申告書を書かせる。こうすれば問題が起こっても管理職の責任にはならない。トカゲの尻尾切りをすればいいだけだからだ。

これだけでも十分に腹立たしいのだが、ひどい職場になると「誰か他の人がUSBを使っているのを見たことがありますか。見たことがあれば正直に申告してください」といった「調査」を行う(要は「五人組」だ)。そこで誰かの名前があがろうものなら、名前があがった者は処罰の対象になる。職場は疑心暗鬼になり、相互信頼関係はずたずたになる。だがその調査で法令遵守違反者を摘発した管理職は優秀な管理職としてますます権力を得る。

かくして多くの者が思考停止に陥る。「はいはい、規則に従えばいいんでしょう。その代わり仕事がはかどらなくなっても知りませんからね。仕事はきちんとやりたいけど、処罰されてはたまったもんじゃない」と現場はやる気と実行力を失う。本来大切にされるべき仕事がないがしろにされ、瑣末な規則遵守とそれを証明する書類仕事ばかりがなされるようになる。「とにかく規則は守りなさい。守りなさいと言っているのに守らないとは何事ですか」と管理職は小児化する。大局観をもつべき管理職が思考放棄こそが自らの仕事だと思い込む。

もとより規則や法令があること自体が悪いわけではない。複雑な現象を適切にコントロールするためには規則や法令が必要だ。だがその規則や法令は、現実に即し、その遵守が社会全体の利益に適うものである必要がある。一面的な正義だったり、形骸化してしまっている規則や法令は、機械的に遵守を強要される時、社会全体の利益からすれば逆効果になる場合もある。規則や法令は、それについての思考や判断を拒否する最高審判であるわけではない。規則や法令は、過去の日本のように「建て前」として必ずしもその遵守を求めない社会でなく、その遵守を求める社会においては、常に批判的に吟味され、適切に改正、精緻化あるいは単純化されなければならない。その批判的思考、創造的判断を怠る者、いやそれができない者が小児である。そして現代日本では小児が保守を名乗り、管理職となっているかもしれないという私の懸念は冒頭に述べたとおりだ。

時代の流行語は常に暴走する可能性を秘める(「説明責任」もそうではないかというのが私の懸念だ)。実際、「法令遵守」という言葉は暴走し、日本社会の利益に反する動きを始めているのではないかというのが、東京地検特捜部などを経て、現在「コンプライアンス」(=「組織が社会的要請に適応すること」)に関して各種の専門的な仕事をしている著者、郷原信郎氏の主張だ。

私は『思考停止社会』の方を先に読んだが、各論的なこの本よりも、総論的な『「法令遵守」が日本を滅ぼす』の方を先に読んだ方がわかりやすいかもしれない。

「法令遵守」を金科玉条として、結局は自分の出世と保身のことしか考えていない小児に日本をめちゃくちゃにされることを防ぐためにも是非、規則・法令のあり方について考えるべきではないか。

⇒『「法令遵守」が日本を滅ぼす』


⇒『思考停止社会』




2009年5月2日土曜日

梅田望夫『シリコンバレーから将棋を観る』中央公論新社

小学生の頃に指しただけで、今ではかろうじてルールを覚えているにすぎない将棋についての本を読もうと思ったのは、ひとえに梅田望夫氏がこの本を書いたからです。

私は常に何人かの方々に私淑しており、その方々が薦める事柄は、たとえその時点の私が納得できないことであれ、ほぼ無条件に試みてみることにしています。

ある見方からすればこれは極めて権威主義的で自主性を放棄したやり方なのかもしれませんが、私からすれば(へそ曲がりな考え方ですが)常に自分を最終判断基準とすることこそが、自分を権威としてしまう危険な権威主義のようにも思えます。

私は自らの自主性を、自ら私淑する対象を決め、少なくともしばらくはその方々の言葉に黙って従うことを自らの仮説として、その仮説の有効性を長期にわたって検証することによって発揮しようとしています。

もちろん私淑をやめる場合もあります。また、どのような判断も私は最終的には私個人の責任で下します。ですがそれは私が最終判断基準であるというのではなく、私は私の責任で仮説を提示するということにすぎません。

前置きが長くなりすぎました。同書で羽生善治氏は、時間をかければいい手が指せるというわけではないと述べて、次のように語ります。




どうして時間が関係ないかというと、将棋が持っている特徴の一つで、何か・・・どこかやっぱり、他力本願的なところがあるんですよ。つまり、自力でなんとかしようとしちゃ、ダメなんです。他力[ママ:自力の誤りか?]で指して、まあ一応、ベストは尽くしたけど「あとはよろしくお願いします」と手番を渡す。一人で完成させるのではなく、制約のある中でベストを尽くして他者に委ねる。そういうものだと思いますね。(250-251ページ)


「あとがき」で梅田氏も次のように述べます。


羽生は、きっと若き日に七冠を制覇する過程で、一人で勝ち続けるだけではその先にあるのは「砂漠の世界」に過ぎず、二人で作る芸術、二人で真理を追究する将棋において、「もっとすごいもの」は一人では絶対に作れないと悟ったのだ。そして「もっとすごいもの」を作るには、現代将棋を究める同志(むろんライバルでもある)が何よりも重要だと確信した。「周りに誰もいなければ(進むべき)方向性を定めるのがとても難し」いからである。そして、同志を増やすという目標を達成するための「知のオープン化」思想が、そのとき羽生の中で芽生えたのだと考えられる。(285-286ページ)



孔子の言葉に「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」というものがあります。深い言葉だと思いますが、これをさらに発展させれば次のようになるのかもしれません。

「これを一人楽しむ者はこれを共に楽しむ者に如かず。これを共に楽しむ者はこれを共に楽しむ社会に如かず」


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2009年5月1日金曜日

佐野正之先生からのお返事

先日、このブログに「佐野正之先生への感謝と回答 (アクションリサーチについて)」という記事を書いて、その記事の存在を大修館書店編集部を通じて佐野先生にお知らせしましたら早々に(4/23)下記のお返事を頂きました。

返事をいただきながらも私が出張をしたり、出張で風邪をひいてしまったりして対応が遅れましたが、非常に情報量の高いお返事でしたので、私のブログにも転載させていただくことを佐野先生に打診しましたら、佐野先生から快諾をいただきましたので、ここに転載する次第です。

お返事の末尾にある佐野先生のお誘いに私がのったことは言うまでもないかと思います。

改めて佐野先生に感謝します。



柳瀬陽介先生

先日は先生の論文についての私の書評にご返事をいただきありがとうございました。

大修館の■■さんを経由して、昨日とどきました。私の意図を正確に読み取っていただき、今後の展開についても、「小異を捨てて大同につく」ことができるのではないかと期待をいだいています。手短に、問題になっていた3点についての私見を補足説明します。


1) 「社会構成主義」について

 ARは実践から生まれたという経過があって、「基礎となっている学問」という発想自体が実はなじまないのかもしれません。私の2冊の本の中でも言及されていない(実際に、欧米で出版されているARの本にも、それほど言及されてはいないと思います)のも、そのためです。ただ、教員養成の本を見ると、たとえば、Jon Roberts. Language Teacher Education. Arnold ではくわしく述べていますし、特に、フィンランドの教員養成を論じているRitva Jakku-Sihvonen and Hannele Niemi(eds.) Education as a Societal Contributor. Peter Lang では、フィンランドの 教員養成では、よく知られているポートフォリオを用いた振り返りだけでなく、ARが授業改善力を伸ばすために多用されている様子がわかります。そして、よく知られていることですが、フィンランド教育の指導理念は「社会構成主義」で徹底しています。


2)生徒の位置づけについて

 実際に私が指導して修士論文として書いたARの論文には、数量的なデータを用いて、ある意味では応用言語学的なアプローチで書いたものもあります。しかし、この場合でも、教師の認識の変化を無視した論文はないと思います。必ず、「生徒の変化」に付随して起きていて、その点の記述があるはずです。ただ、修士論文の場合は、副指導教官や他の大学院の担当者をも納得させる必要があったということも事実で、そのための作戦として、数量的な成果を誇示する側面もあることは事実です。

ところが、四国や神奈川県のように、現職の先生が一斉にARに取り組むとなると、そうした資料を集めることが実際上できなくて、数量的なデーターとしても、期末テストの成績やアンケート調査の結果など、ごく限られたものになります。しかし、そこでも8割かたの教師のコメントにでてくるのは、「生徒の変化というと自信はないが、自分の意識は変わった」というものです。ですから、現場のARは生徒の成績を上げるという点では成功しない場合でも、教師の意識の変革があり、そこでは生徒の役割についての認識の変化が含まれることがほとんどです。


3) 教師の変化について

 横溝先生の日本語教師の場合のARは、省察に基づく教師の気付きを中心にしたものが主流で英語教育(というよりは、私が提唱するARと言ったほうが正確かもしれませんが)でのARは、改善の結果を求める傾向が強いという指摘は事実だと思います。しかし、私はそれは、ARが実行される場面や状況によって変化するもので、基本的な考え方は一緒だと思っています。横溝先生の実践の場合は、いわば先生がメンターとなって、個々の学生の実践の省察に先生が関ることによって教師としての成長を促すことが意図されているように思います。それは、実践者が学生で、いわば、授業力をつける途上でのリサーチとなるということとも関係しています。その意味では、ポートフォリオを用いた授業力の向上と似ているように思います。しかし、英語教育の場合は、多忙な現場の、一応は授業力は自分なりにはあると考えている先生が対象です。しかも、その先生たちひとりひとりに目をかけて育てることはできません。自分で判断して進めてゆくしかありません。その人たちの注意を授業改善に向けるには、「自分を見つめなおしなさい」というよりは、「今困っていることの解決を生徒と一緒に図りましょう」というほうが取り付きやすいのではないかと思っています。もし、解決を真剣に追求すれば、その過程で教師としてのありように変化が生まれるのは間違いないからです。

以上、簡単ですが、補足説明をしました。これは先生の論に反論するという趣旨のものではなく、紙面の関係で書き加えることができなかった点を追加したまでのことです。参考になれば幸いです。

また、よく聞く話しですが、現場から来ている大学院生 が「ARで修士論文を書きたい」 と希望すると、いろいろな反対が陰に陽に出てきてきて、論文の質そのものよりは、ARだというだけで冷たいあしらわれたり、「論文ではないから受理しない」と脅かされることがよくあります。これはとんでもないことで、教師を志望して大学や大学院で勉強する学生が、将来の仕事に役立つと信じて選んだ研究テーマを、大学教官の不勉強や学問的好みのために、追求できないなどということは許されてはならないことだと思っています。このような思いから、大学や大学院で、授業力や授業改善力をつける必要性を広くアピールする必要性があるのではないかと長崎先生たちとと話しあい、具体的な方策を探っている最中なのです。是非、先生にもこの輪に加わっていただいて、運動を広めていきたいと考えていますが、どうでしょうか。

私が書評で訴えたいと思った のも実はこの点なのです。

長いメールになってしまいましたが、最後の書いてある点について賛同いただけるようでしたら、今後また、長崎先生を通じて、また、私からも連絡を取らせていただきますので、ご一報くだされば嬉しく思います。それでは、今日はこれで失礼いたします。

佐野正之





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