2007年8月27日月曜日

第一回 地球市民を育てる英語教師のための研修講座

地球市民を育てる英語教師のための研修講座」の第一回が開催されました。中嶋洋一先生は開催にあたって次のように述べます。

私たちが求めるのは、枝葉のような表面的な手法や実践ではなく、自分の根幹(太い幹)となるような考え方です。


やり方としては、三人(一人の学生と二人の現役教師)がそれぞれ30分の発表(プレゼンテーション、授業報告、模擬授業)をし、それに基づいて7-8人の小グループで30分討議し、最後に全体討議で、自分たちの理解を他人と共有するという形を取りました。

 このブログ記事では私が全体討議の司会をした教師の報告について、私が最後の10分でまとめたことを補筆再構成してみます。そのX先生は公立中学校で教えていますが、今回は選択授業での取り組みについて報告しました。

***以下、柳瀬のまとめ***

X先生の授業報告を、皆さんは「生徒が達成感を実感できる授業」、「生徒が自律して学ぶ授業」、「生徒が自分と他者を認める授業」「sharing, community, responsibilityと発展してゆく授業」、「生徒が所属感を覚える授業」などと表現しました。いずれにしましてもこのような表現は、日頃英語教育に対して使われる「入試に何人合格したか?」、「英検の取得率は?」、「規準・基準でいうとどうなるのか?」とはずいぶん違ったものですね。私は入試や英検などを軽視するつもりはありませんが、それらだけを英語教育の枠組みと捉えて、皆さんが今日感じたような授業の理解を抑圧してしまうことを強く恐れています。ですから、本日私は、皆さんが感じた理解をできるだけ私なりに言語化してゆきたいと思います。キーワード、《関わり》、《存在》、《実存》です。哲学用語ですからちょっと違和感を覚えるかもしれませんが、できるだけわかりやすく説明するつもりなので、どうぞしばらくお付き合いください。

X先生の授業はたくさんの《関わり》をもつものでした。教師自身がティームティーチングをしながら、ALTと協働的に授業の理解を進めているのはもとより、生徒も、「国際理解教育」の一環として、他教科や教科以外の世界の出来事との《関わり》を、この選択英語の授業を通じて育てました。またグループ学習やポスタープレゼンテーションでは、他の生徒との《関わり》がこの授業を通じていっそう豊かになりました。さらには生徒が書いた手紙を実際にZ国に出し、そこからさらにフィードバックを得ることによって、生徒は遠いZ国の人たちとの《関わり》を新たに得ました。本当に素晴らしい実践でしたから、30分でなく、せめて3時間、できれば丸一日かけてゆっくり聞きたいものでした。

ここでさまざまな《関わり》が英語の授業を通じて生まれ、育まれ、豊かになっていることに注目したいと思います。といいますのもさまざまな《関わり》を持つことが私たちの《存在》の基盤だからです。

《存在》なんてちょっと大げさな言葉に聞こえますが、私たちがこうしていること、あるいは生きていること、のことです。「いること」「生きていること」といっても、人間の場合、それは単なる物理的事象を越えています。ちょっと安っぽい言い方をしますが、例えばあなたが物理的にはなんの問題も無く、食料も水も与えられているが、何の《関わり》も持てないような白い壁に囲まれた独房に入れられたら、あなたも耐えられないことでしょう。食料と水によって生物的欲求は充たされているはずなのにもかかわらずです。そこまで極端な条件でなくとも、ある少年がいて、彼が周りの人々とも関係を持たず、自らが愛する物も持たず、自らに対しても何の夢も希望も持てずに、かといって特段の過去の思い出もなかったら、彼の人生はとても人間らしいものとは言えないということは、皆さんも同意してくださることかと思います。

私たちは様々な人そして物と、幾重にも《関わり》あっています。それが、私たちが「この世に生きる」(《世界内存在》)ということです。その《関わり》が実感(《理解》)できないことは、人間にとって大きな欠損状態です。しかしながら、現代日本では、《関わり》が段々と薄く表面化し、また少なくもなり、その結果、物質的には豊かなはずなのに人生の充実感を覚えることが難しくなっているように思えます。私たちの《存在》の基盤はさまざまの《関わり》にあります。このX先生の授業は英語を通じて、生徒の《存在》の基盤を充実させたと言えないでしょうか。

《存在》には《関わり》といった空間的な次元だけでなく、時間的な次元もあります。私たちは、空間的にも時間的にもつながった《存在》なのです。ここでは時間的な次元を《被投》と《企投》という用語で説明したいと思います。といっても何の難しいことでもありません。《被投》とは、私たちは、気がついたらこういう状況に「投げ込まれていた」存在であるということです。私たちは第一に、過去において、このような人生に「投げ込まれた」受身的な存在なのです。しかし人間は受身的なだけの存在ではありません。このように「投げ込まれた」中でも、「自分はかくあろう」と自分自身を未来へと「投げ込む」ことを企図する能動的な存在でもあります。受動的な中で能動的であり、過去を引き受けながら未来の可能性を信じるのが人間かと思います。こうして自分自身を受け入れつつも、自分自身の可能性に対してある態度を積極的に持ちうることを《実存》と言います。

話が抽象的になったので、X先生の報告に戻ります。X先生は「緘黙症」とも考えられるある男子生徒(α君)の英語朗読のビデオ映像を見せましたね。私は心の専門家ではないので、「緘黙症」についても専門的知識は持っていませんが、どの中学校にも、一人や二人は、極度に対人コミュニケーションが取れない生徒はいるのではないでしょうか。そのような生徒は、「コミュニケーション」を標榜する英語教育では扱いにくい存在です。そのような生徒は英語では「例外扱い」する先生もいらっしゃるかもしれません。しかし、X先生はそのα君を、生育歴も含めてよく理解し、考えた末に朗読テストに参加させることにしました。これはX先生にとっても賭けでした。朗読テストで指名されても、彼が立ち上がることさえしないことは十分に考えられたからです。しかしX先生はα君との交流の中で、朗読テストへの参加を促し、またα君もそれを受け入れました。ビデオで見たとおり、α君の朗読は声も小さく、聞き手とのアイコンタクトのないものでした。標準的な英語テストでしたら点数化できないものだとさえいえるかと思います。

しかし点数化できないということは、意味がないということでしょうか。そうではありません。α君が「緘黙症」のようになったのは、α君が受け入れなければならなかった彼の人生の様々な要因によるものです。いわばα君はこれまでそのような人生に投げ込まれてきたのです。それに対してX先生はα君に寄り添い、現在のα君を受け入れながらも、新たなα君の可能性に賭けてみる決意をしました。α君もその決意を自らのものとしました。大げさな言い方にしか聞こえないかもしれませんが、この朗読テストはα君の《実存》の機会となったのです。

α君の人生がこのテストで劇的に変わるのかどうかわかりません(また心の問題には細心のケアは必要でしょう)。さらに標準的な英語テスティングの考え方からすれば、このα君のテストでのパフォーマンスは零点に近いものだったということもその通りです。しかし、それではこの授業実践は意味のないものだったのでしょうか?私は、英語教師の心が、妙に頭の悪いpsychometricianや小権力をふりかざす官僚の用語に乗っ取られてしまい、このような実践を心の外に締め出してしまうことを怖れます。実際X先生も、「発表の後、『α君の評価はどうされたのですか?』と聞かれることが怖くて、この発表を控えようかと何度も思ったそうです。しかし義務教育の中で、教師が授業を通じてできるだけ生徒に寄り添うことを考えれば、X先生のような実践というのは出てくるものではないでしょうか。

誤解のないように述べておきますが、私は「すべての緘黙児に英語授業で朗読をさせるべきだ」などといった乱暴なことを主張するつもりなど毛頭ありません。私たちがまずやらなければならないことは、私たちが教師として、生徒と彼/彼女を取り巻く環境、そして教師としての自分自身などを深く《理解》することです。生徒、環境、教師自身、そしてそれらの《関わり》を《理解》し、いかなる教育的行為がここでは適切かを慎重に、時には同僚の力も借りながら、判断することです。その《理解》の末の判断は、現在の自分の教師としての力量では、何もすべきではないというものかもしれません。逆に、生徒の環境の変化からすれば今こそ何かアクションを起こさなければならないことかもしれません。いずれにせよ教師が深く《理解》することが必要です。《理解》抜きに、「緘黙児をいかに喋らせるか」といった問題解決型のアクション・リサーチを、ともかくに行おうとすることなどは避けなければならないと思います。なぜならそのような「問題解決」は善意の暴力ともなりかねないからです。

我々はどのような《関わり》を持っている《存在》なのか。我々はどのように《被投》され、どのように《企投》しようとする《実存》的な《存在》なのか。こういった《存在理解》こそが英語教育、いや教育の根幹にあるべきではないでしょうか。

このような言い方をしますと、よく「結局、英語習得は目的でなくて手段に過ぎず、生徒の《実存》とやらが目的なのですね」といった反論をされる方がいます。そのような反論に対する私の反応は、YesでありNoです。Yesというのは、特に義務教育である場合、教育の究極の目的は人間教育であり、特定の知識・技能獲得が絶対視されること(英語で言うなら「英語バカ」を作り出すこと)は避けられなければならないからです。

しかし私はNoと言いたい気持ちも持っています。といいますのも、上の言い方ですと、英語習得は特に成果をあげなくていいものだ、といった誤解を招きかねないからです。英語教育において英語習得は目指されるものではないのでしょうか。そうではありません。X先生の実践でも明らかなように、生徒は、自分たちの人生の充実を英語授業によって感じていますが、その人生の充実に応じて英語の学びも深まっているのです。この意味では、X先生のような授業では、英語習得と人生の充実は、不即不離の、二つで一つ、一つで二つの教育目標になっているからです。英語の習得で生徒の人生が充実し、その充実で英語の習得がますます深まる。英語の学びで、生徒は自分の《関わり》と《実存》をより《理解》し、その《存在理解》で英語の学びがますます深まる。こういった状態こそが私たちの英語授業が目指すべき姿ではないでしょうか。

本日の私のこのまとめは、お気づきになられた方もいらっしゃるかも知れませんが、Exploratory Practiceハイデガー哲学の考えに基づくものです(ブログではハイデガー用語を《 》で挟んで表記しています)。私は私がこれらの考え方を歪めていないことを願っています。ですから、このまとめもウェブで公開し、広い範囲の皆さんからの批判を招いて、誤りや歪みや偏りはできるだけ正してゆきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。改めてX先生に大きな拍手をお送りください。

2007年8月24日金曜日

「生きる」ためのタイムマネジメント

タイムマネジメントの考え方に、"URGENT"と"IMPORTANT"の軸を交差させて、四つの象限を作るものがあります。つまり平面を、直交する二直線("URGENT"と"IMPORTANT"の軸)で区切って、次の四つの部分を作るわけです(図は省略します)。


I +URGENT, +IMPORTANT


II +URGENT, -IMPORTANT


III -URGENT, +IMPORTANT


IV -URGENT, -IMPORTANT



ここでの教訓は、毎日の仕事の大半がI(至急やらなければならない重大な仕事)ばかりだと、とにかく急き立てられるだけで、もう自分で何をやっているかわからない状態になってしまうということです。あまり大きな仕事をどんどん引き受けてしまうと毎日がIばかりになりますし、また、本来はたいしたことのないIIの仕事も、溜めてしまうと締め切りの関係でIに転化してしまいます。私たちはIとIIの管理をしなければなりません。

しかしそれだけでは、人生にとって大切ですが特段急を要することではないIIIが、ついついないがしろになってしまいます。例えば私の場合でしたら健康のための運動をすること、教養の深化のための英語および日本語での読書などといったことがIIIにあたります。ですから私は日頃からIとIIの管理は当然の前提として、意識的にはできるだけ毎日の時間の中でIIIを確保しようとしてきました。

しかし、そこには落とし穴がありました。IVの時間を失ってしまうのです。「急ぎでもなく、重要でもないのだから」と私はIVの時間をほとんど皆無に近いような生活をしてしまいました。その結果、私はバーンアウトしてしまいました。この夏はIの仕事を入れすぎたのがバーンアウトの直接の原因ですが、それでもIIの仕事は変わりなくありますし、「自分を高めよう」とばかりにIIIの時間もできるだけ入れておりました(もっとも運動は止めてしまったのですが)。そうしますと、私は忙しさの中で、憔悴してしまい、意欲と感情を大きく失いました。判断力も損ない、必要のないことに躍起になったりもしました。気づく力も大きく後退して、大切なことを見逃したりしてしまいました。疲労困憊してしまっているのですが、かといって仕事以外のことができず、きちんとした睡眠も取れず、ますます自分を追い込んでしまうような状態になりました。

恥を忍んで申し上げますと、私はこのようなバーンアウトを就職して二、三年目に最初に経験して以来、何度か経験しています。いずれも自分を追い込み、しばらくは自分でも信じられないぐらいに仕事がはかどり、調子づいているうちに、バーンアウトしてしまうというパターンです。なんとか私も学習して、このパターンを繰り返さないようにしなくてはいけません。

そんなことを思いながらの盆休みに、長い間本棚においてあったデイヴィッド・クンツ著『急がない!ひとりの時間を持ちなさい』主婦の友社を読みました。とても啓発的でした。次の逆説的とも思えるような引用を読んだとき、私は膝を叩かんばかりに得心し、この本を読めたことを感謝しました。

わたしはとても充実した多忙な生活を送っているが、時にこう尋ねられることがある。「スコットさん、どうしてそんなにいろいろなことができるのですか」。それに対して、私はこう答えることにしている「一日に少なくとも二時間は、何もしないでいるからですよ」。
M.スコット・ペック

 この本では「立ち止まる」ことを次のように定義しています。


「立ち止まる」ことは、自分本来の姿を十分に自覚するために、一定期間(一秒間から一ヶ月間)できるだけ何もしないことである。(24ページ)

 立ち止まることが必要なのは、IやIIのための休息のためだけではありません。立ち止まるためのIVの時間を持つということは、むしろIやII、あるいはIIIの意味を問い直し、日頃自分が"URGENT", "IMPORTANT"と信じて止まないことを再吟味することなのです。IVは、IやIIやIIIをひっくり返すことや大きく修正ができるぐらいの偉大な意味をもった行為なのです。


立ち止まってみれば、あなたは自分本来の姿に目覚め、現在という瞬間を意識できるようになる。同時に、自分の一生を貫いている糸を見つけるのも容易になる。自分がどういう人間なのか、どこから来たのか、どこへ行こうとしているのか、そしてどこへ行きたいのかを思い出すのにも役立つ。さらには自分が求めている目標、理想、夢を思い出し、自分がいま実際にやっていることをなぜ始めたのか、それを思い出すのにも役立つ。その結果、いまやっていることが本当にやりたいことなのか、その見きわめがつくようになる。たとえこうした大問題すべてに明快な答えがでないとしても、自分が疑問に思っているのが何か、それを頭においておくのは大事なことだ。自分の疑問を忘れるのは、自分の生きる道を失うに等しいのである。(59ページ)

 ただ気をつけておかなければならないことは、IVがすべて「立ち止まること」ではないということです。テレビをだらだらと見たりすることや酒を飲んで酩酊することは、IVであり気分転換でもあるとはいえましょうが、上のような意味での「立ち止まる」ことではありません。IVの時間は、ミヒャエル・エンデの小説『モモ』岩波書店に描かれているような世界では、とても豊かに過ごされていますが、現代社会では消費文化や競争心によって、IVの過ごし方はずいぶん歪められてしまっているように思います。私たちはIVの過ごし方、「立ち止まる」ことの大切さを意識的に学習する必要があるでしょう(そう考えますと坐禅なんて、すごい文化ですね)。

 仕事のためのタイムマネジメントでは、I>II>III>IVの順で考えるべきでしょう。しかし生きるためのタイムマネジメントでは重要度はIV>III>II>Iであるべきでしょう。これら二つの正反対の重要度をバランスよく暮らしの中に統合することが職業人にとって必要なことではないでしょうか。

 私は、盆休みに上の本を読んでも、それだけでは、生きるためのタイムマネジメントがなかなかうまく習得できていないことがわかったので、このような文章をしたため、自らの学びを少しでも確実なものとしようとしました。おそまつ。

矢部正秋『プロ弁護士の思考術』PHP新書

私は自分自身大学教育の現場で判断をしなければならないことも多いですし、小・中・高の現場での実践的な判断の助言を求められることもよくあります。そのような時に、私が決してやらないように努めているのが、自分の考えだけに拘ることです。いわば理性的態度をできるだけ崩さないようにしているつもりです(実際はどうなのかはわかりませんが)。

現実は、理性的な態度より、声高あるいはヒステリックに自分の主張だけを語り続け、異なる意見には揚げ足取り的あるいは無駄に言葉数多い反論ばかりをして、他の人間に議論を続ける気を失わせてしまうような人の意見が通ることが多いのかもしれません。ですが、そのような人の意見ばかり通してしまえば、その組織あるいは共同体は早晩駄目になるだけでしょう。

自らきちんとした現実的思考をし、意見はどのように非現実的になるのかを分析できることは、「現場」できちんとした実践をするためには不可欠なことのように思います。

そういう問題意識が私にはあったので、出張先のコンビニでこの本を見つけたらすぐに購入し、その晩、ホテルで読みました。読みやすく、さまざまな洞察を得ることができた本でした。この本の内容は、目次が明瞭に語っていますので、ここではそれを紹介します。アンダーラインを引いた箇所が、著者が言う、「ビジネスや私生活に共通する『考え方の基本』(3ページ)」です。⇒の後の言葉は、それぞれの章の中の印象的な言葉です。


第1章 話の根拠をまず選りすぐる―具体的に考える
⇒時間の許す限り具体的事実を解明しよう(24ページ)


第2章 「考えもしなかったこと」を考える―オプションを発想する
⇒私は、依頼者からの相談には、最低三つのオプションを提示するようにしている。(56ページ)

第3章 疑うことで心を自由にする―直視する
⇒直視思考は、しばしば社会から危険視され、誤解されるから、懐深く隠しもち、時と場所に応じて用いることが大切である。(114ページ)


第4章 他人の正義を認めつつ制する―共感する
⇒若いときには「私の考える自分」と「他人の目に映る自分」のギャップに気がつかない。(138ページ)


第5章 不運に対して合理的に備える―マサカを取り込む
⇒いかに正しい判断をしたところで、偶然が介入する余地が30パーセントはある。(165ページ)


第6章 「考える力」と「戦う力」を固く結ぶ―主体的に考える
⇒(1)関連する事実(証拠)を確認する。(2)自分の判断の「根拠」を吟味する。(198ページ)


第7章 今日の実りを未来の庭に植える―遠くを見る
⇒「局所最善」が「全体最悪」になることがあるのが、ビジネスの難しさである。(225ページ)


私も少しでもこのような「考え方の基本」を徹底し、自らが参画する組織に良い貢献ができるように努めたいと思います。「現場での判断」をする必要がある方にはお薦めします。少しでも興味がわいたらぜひお買い求めください。


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2007年8月17日金曜日

栄 陽子 『留学で人生を棒に振る日本人―“英語コンプレックス”が生み出す悲劇 』扶桑社新書


 この本の著者も言うように、日本では、「多くの人にとって『英語』は自分の人生をステップ・アップさせるためのオールマイティな切り札」(45ページ)と誤解されています。「英語さえできれば・・・」という願望と現実の取り違え(wishful thinking)により、英語という切り札を得るためのとっておきの切り札としての「留学」という言葉に飛びつきます。

 しかし「留学」にはピンからキリまであるのが現実です。「留学」という言葉に過剰反応しがちな保護者、および「留学」の相談を受ける英語教師は、この書に書かれているような情報を知っておくべきでしょう。「第一章 これが"留学!?"知らなかったその実態」、  「第四章 各国の教育システムさえ理解できない人達」、「第五章 危ない留学仕掛人」の数々のエピソードは、「留学」に関する誤解や過剰な期待を打ち壊すことでしょう。

 とはいえ著者はすべての留学を否定・批判しているわけではありません。また著者の「中三レベルの英語教育を充実させ、『英語で何をするか』を考えさせること。それがこれからの英語教育に欠かせない視点ではないでしょうか。」(174ページ)という主張も正論と言えるでしょう。

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2007年8月9日木曜日

小学校英語教育目的論(試論)

前書き

小学校での英語教育の試みがますます進行するにつれ、いたるところで「義務教育における英語教育の目的とは何か」と問われます。そこをはっきりさせておかないと小学校の先生方も迷ってしまうからでしょう。私もその都度、私たちが小学校でも英語教育を行うべきだと仮定すれば、それはなぜだろうと仮説的に考えます。

先日の記事にも、拙い文章で、英語教育の目的について短く書きましたが、昨日、ある小学校で朝9時から夕方5時まで、実質上昼休みの時間も含めて、ずっと小学校の先生方と英語教育について協議しているうちに、自分でも少し考えがまとまったので、備忘のために、ここに書き留めておきます。(私はこのように「現場」で考えて、それを文章にしておくことが好きです)。

総論

英語教育の目的については、大津由紀雄編著『日本の英語教育に必要なこと(慶應大学出版会)で、私は、とりあえず日本の英語教育は「世界史的変動への対応」という「外在的原理」で動いてきたと解釈できるが、すぐれた中学英語教育実践を見ると、「人間教育としての英語教育」とでも言いたくなるような実践が創り上げられている(「内在的原理」)と述べました。本来なら、義務教育としての英語教育の原理についてはさらに私の考えを提示するべきだったのかもしれませんが、私の力量は足りませんでした。

義務教育における英語教育の目的の一つには、上でも述べたように「世界史的変動への対応」があります。これは冷戦終結、情報革命の勃発、グローバル資本主義化の現在では「グローバリゼーションへの対応」と名づけてもよいかと思います。本日は、この一部を「英語教育の政治経済的目的」と呼び、下に簡単に説明します。続いて、昨日考えが少しまとまった「英語教育の市民教養的目的」も簡単に文章にしてみます(これもグローバリゼーションの影響下にある考え方です)。私の考えは、義務教育の中の英語教育は、政治経済的目的と市民教養的目的をもつというものです。

政治経済的目的

私たちがグローバリゼーションと呼んでいる現在の状況下では、経済競争が地球規模で激化し、経済活動の多くが、国境を越え、IT技術で連動した生産と流通システムのネットワークの中にあります。この経済活動ではしばしば英語が使われます。もちろん使用言語は英語だけではありませんが、英語が最も重要な言語だと認識されていることは間違いのないことでしょう。このような状況では、英語を習得しておくことが、国家と個人にとって重要なことになります。

国家としての英語教育戦略を単に予算的に考えれば、実際に英語を使用する可能性が高い一部の「エリート」だけに集中して英語教育を課した方が経済合理性は高いような気がします。英語の免許を持っていない人も多い小学校の先生方まで巻き込んで英語教育を国民的に行うことは、予算だけでなく人的資産の面でも浪費のようにすら思えます。

しかし一方で、日本の「格差」は急速に進行し、高所得者層は子息の英語教育にも多額の投資(英会話スクール、英語塾、英語自学教材、海外旅行や留学など)ができる一方、低所得者層ではそのようなことは及びもつかないような状況が生じてきました。高所得者層の私的英語教育は低年齢化し、従来のように英語教育が中学校から始まっても、その始まる時点で、親の経済格差にほぼ応じたような教育格差が、実際の英語力に関しても、さらには英語学習に関する認識や、はてまた希望に関しても生じてしまうような事態にさえなったとすら考えられます。

中間層がどんどんと低所得者化していくアメリカの傾向が今後の日本でもさらに進行するとするなら、今後は国民の多くが、グローバリゼーションへの対応の一つの鍵である英語習得に関して、スタート時点から、一部の国民より、はるかに遅れて出発するような事態になりかねません。そうすればそのような多くの国民は、日本という国家は、自分たちに関して十分な配慮をしていないと思い始めかねません。国家は、親の経済状況などにかかわらず、国民に等しく良質の義務教育を提供する責任があるといえます。それなのに、国家がその責任を十分に果たさなければ、国民は、国家は自分たちのために十分な働きをしていないと思うようになります。これはやや大げさな言葉になりますが、「国体の維持」に関わる大きな問題です。(「国体の維持」という発想は、佐藤優氏の著作に触発されました

ですから、英語学習は、世間では主に経済的目的のためになされていますが、その経済的目的による英語学習の機会を、国民のすべてに等しく門戸を開いておかないと、これは政治的な問題にさえなります。国家に十分に配慮されていないと感じる国民が、国家に積極的に協力しようとは思わないようになると考えられるからです。政治経済的目的のための英語教育とは、国民が将来、実際に英語を経済的目的のために使うようになるかどうかはともかく(未来のことは誰にもわかりません)、国民のすべてに経済的目的のための英語使用の可能性に備えて、小さい頃から英語を学習する機会を適切に与えておく、「国体の維持」のための政治的な意味合いをもった英語教育だとここではまとめておきます。小学校から良質の英語教育を行うことが、日本という国家と、国民一人一人の政治経済的可能性を活かすことになるというのがここでの判断です。

もちろんそのようにして実施される小学校の英語教育が、形だけのもので、実質上は何の効果もないとでもなれば、まさしく逆効果で、「国体の維持」どころかその「国体の凋落」にまでなりかねません。ですが、本日はその点には深入りせず、もう一つの、英語教育の市民教養的目的について短くまとめておきたいと思います。

市民教養的目的

グローバリゼーションの特徴の一つは、immigrationよりも短期のmigrationが頻発し、世界各地の日常生活の一部となることかと思います。そうなりますと、私たちは自分自身が母国語以外の言語(=第二言語)でコミュニケーションを行わなければならない事態、さらに/もしくは他人が第二言語で自分とコミュニケーションを取る事態に遭遇する可能性が非常に高いといえます。仕事や日常生活で私たちはますます第二言語を使うようになると考えられます。

こういった状況では、市民的教養の一つとして、「第二言語コミュニケーション」(=参加者の少なくとも一人がコミュニケーションで使用されている言語を、第二言語として使っているコミュニケーション)に習熟している必要があると私は考えます。その習熟は、能力と態度の二つの面に分けることができると思います。

第二言語コミュニケーションのための「力」(ここではこの論文にあげた理由から「能力」ではなく「力」という言葉を使います)とは、「不十分な第二言語でもコミュニケーションを成立させることができる力」と仮にここでは定義しておきます。第二言語習得は、例外的な状況を除けば、決して第一言語習得ほどには成功しないという現実と、それでもコミュニケーションを行わなければならないグローバリゼーションの現実の中での定義です。

実はこの「第二言語コミュニケーション力」観を説明するには、「コミュニケーションの成立にとって、言語は補助的な(しかし強力な)手段に過ぎない」という関連性理論(Relevance Theory)についての解説を加えたいのですが、本日は割愛します。ここでは第二言語教育は、第二言語の第一言語なみの習得という非現実的な目的のためでなく、第二言語コミュニケーションの成立のためであるということだけを強調しておきます。そのための「力」(ability)をつけることが第二言語教育の具体的目的となります(ちなみに政治経済的目的、市民教養的目的は抽象的目的です)。

第二言語コミュニケーションのための「態度」とは、第一言語使用からすれば「不完全な」言語コミュニケーションの試みを絶やさないことです。自ら第二言語を使ってコミュニケーションをしなければならない時は、不完全さにもかかわらず、その努力を怠らない。そして、他人が第二言語を使ってコミュニケーションを行おうとしている時は、その人の第二言語使用が第一言語使用慣習と異なるからという理由だけでその努力をつぶさない。第二言語の使用とはコミュニケーションの成立を第一の目的とすることを徹底することがここでいう「態度」です。

英語教育は言うまでもなく、第二言語教育の第一歩です。第二言語学習として英語を選択することは、上記の経済的理由からしても十分常識的と言えるでしょう。ですが英語教育は第二言語教育の第一歩であり、一部に過ぎません。英語教育の推進は、外国語学習は英語だけで十分だなどということは決して意味しません。また英語教育は、第二言語教育の一部として、例えば、日本に来た移住者の日本語が、コミュニケーションは成立させることができるものの、母語話者の日本語慣習と異なるからといって、その第二言語使用者を人格的に蔑視することを止めることなどにもつながります。ひらたく言えば、市民教養的側面から考える第二言語教育としての英語教育は、英語ができることだけを誇示し自己満足する「英語バカ」(注)や、カタコトの日本語を話す人をそれだけの理由で馬鹿にするような下劣な人を育てることなどは目標とはしないということです。

古い時代の英語教育は、大げさにいえば、英語教師が、いかに英語学習者の英語が完全ではないかを、手を替え品を替え、徹底的に吹き込んできました。その結果、英語を人前で使うことを極度に怖れる日本人が続出しました。英語教育は、英語コンプレックスを持った人ばかり育ててきたといえないでしょうか。その一方で英語教師もその英語コンプレックスに絡めとられて、英語は勉強しても、決して人前(特に他の日本人がいるところ)では英語を使わないことを固く決意している人すらもいるように思います。「永遠に未完の学習者」とでもいえば、日本人が好きな「求道者」のようでロマンティックかもしれませんが、私としては、第二言語使用は、特殊な例外を除いては、第一言語使用とは同じようにならないという現実的な認識を持って、第二言語コミュニケーションを自他ともに促進してゆくのが第二言語教師(英語教師)の仕事だと思います。

話が少しずれてしまいましたが、英語教育の市民教養的目的とは、英語を第二言語として、コミュニケーションの成立のために使える力をつけること、および、英語を始めとした第二言語のコミュニケーションにおいて、言語慣習の違いを人格的な高低と錯誤しない態度をつけることと、ここでは仮にまとめておきます。

まとめ

グローバリゼーションへの対応が必要な現状においては、英語を第二言語として、政治経済的目的および市民教養的目的のために教えることは、国民のすべてになされるべき教育とは言えないでしょうか。これをもって、私の現時点での、小学校での英語教育を正当化するならばという仮定での小学校英語教育目的論とします。(この他にも、慶応義塾大学の大津由紀雄先生の「メタ言語教育的」な英語教育目的論がありますが、本日は取り急ぎ私の考えだけをかきました。

もちろんこの正当化にかかわらず、私は現実的には、小学校教師への英語教育研修は必要だし、今は圧倒的に足りないという認識は持っています。それが、私がかつて小学校の英語教育導入に対して反対署名をした理由です。

(注)

私の好きなアレントの言葉を引用しておきます。私がこの言葉を好きなのは、私がかつて(中途半端な)「英語バカ」であり、現在もかなりの程度「仕事バカ」であるからです。

Only the vulgar will condescend to derive their pride from what they have done; they will, by this condescension, become the "slaves and prisoners" of their own faculties and will find out, should anything more be left in them than sheer stupid vanity, that to be one's own slave and prisoner is no less bitter and perhaps even more shameful than to be the servant of somebody else. Hannah Arendt The Human Condition (1958: 211)

(俗悪な人だけが、卑屈にも、自らの誇りを自らの業績から引き出そうとする。彼/彼女らは、この卑屈さによって、自らの能力の「奴隷であり囚人」となる。もし万が一、彼/彼女らに愚かな虚栄心以上のものが残っていたとすれば、彼/彼女らは、自らの奴隷となり囚人になることは、誰か他の人の召使になることと同じぐらい苦々しいことであり、ひょっとするとそれよりかもっと恥ずかしいことであることに気がつくだろう 『人間の条件』)

2007年8月3日金曜日

Exploratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察 1/5

以下は、下記の学会での口頭発表資料です。考察の不十分なところなど多々あると思いますが、ここに掲載しておきます。

******

2007年8月5日(日)

全国英語教育学会(大分研究大会)

自由研究発表第10室(23号)

Exploratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察

----アクション・リサーチを超えて----

柳瀬陽介(広島大学)

http://yanaseyosuke.blogspot.com/

キーワード:Exploratory Practice (EP), Action Research (AR), Scientific Research (SR)

凡例:ハイデガー哲学の専門用語には《 》をつけた(例、《理解》)


素朴な問題意識

教師の成長につながる研究とは?


本発表の構造と概要

1 [導入] はじめに 

1.1 [背景] 英語教育研究の流れ 

1.2 [問題] 十分でない研究のあり方に関する理解

1.3 [目的] EPの理論的考察

 [理論的貢献] 英語教育研究を深めるために

 [実践的貢献] これからの教員研修のために

2 [主張] EPの実践性について

EPは、英語教育研究観、研究者と実践者の関係、学習観、学習者観、教師観をより実践的なものにする研究である。

2.1 [理由] SRとARとの対比

[根拠] 応用言語学の文献の検討

2.2 [理由]  EPの「理解」概念

[根拠]  ハイデガー存在論による解釈

3 [同意] 英語教育界におけるEP, AR, SRの役割区分

EPもARもSRも独自の貢献をする研究である

3.1 [応答]  しかし実践者が最優先するべきなのはEP

[理由] 教師の《理解》なくして、学習者を尊重する学習の支援はできない。

3.2 [根拠] 学習者の存在論

4 [結論] 英語教育研究のあり方と今後の課題

Exploratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察 2/5

本日の主な説明

1 [導入] はじめに 

英語教育学(あるいは応用言語学)には、教師の成長に資することが望まれている。

1.1 [背景] 英語教育研究の流れ 

これまで英語教育界では、Scientific Research (SR)が80年代頃から隆盛し、次に90年代からAction Research (AR)が普及し始めた。さらに、2000年代からExploratory Practice (EP)が提唱されている。

1.2 [問題] 十分でない研究のあり方に関する理解

SRはしばしば実践感覚から乖離していしまっているが、まだ学会の「研究」の範例として捉えられている。ARは実践感覚に近いが、「問題解決」や「実証」の強調が実践者の日常感覚にそぐわないことが多い。EPに関してはあまり知られておらず、特にその「理解」概念にはさらなる解明が必要である。。このような状況では、まだ英語教育学は教師の成長に対して十分な貢献をしているとはいえない。

1.3 [目的] EPの理論的考察

EPの特質を、SRとARと対比させながら明らかにする。特にEPの「理解」概念については、ハイデガー哲学の概念によって明らかにする。EPが教師の成長に資するものかを検討する。

 [理論的貢献] 英語教育研究を深めるために

この研究は2000年代よりSLA研究でも問われ始めた「何のため、誰のための研究か」という反省的問いかけの流れに合流するものである。また英語教育研究ではほとんど取り上げられていないハイデガー哲学を導入することで、応用言語学を充実させるものでもある。ただし本研究は「理念型」による議論であり、実際の個々の研究を分類わけすることなどには興味はない。

 [実践的貢献] これからの教員研修のために

この研究は、英語教育研究のあり方に関する理解を深め、今後ますます増えると考えられる教員研修のあり方についても具体的示唆を与えられる。

Exploratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察 3/5

2 [主張] EPの実践性について

EPは、英語教育研究観、研究者と実践者の関係、学習観、学習者観、教師観をより実践的なものにする研究である。このことを理解するためには、EPとは何であるかを理解しなくてはならない。

(1) EPの歴史

 EPはSRとARを受けて主としてDick Allwrightが提唱してきたものだが、その歴史は、大きくは(a)EP以前の時代(1980年代後半), (b)ブラジルでの誕生 (1980年代中頃から後半), (c)技術者的発想への後退(1990年代前半), (d)実践者研究としての認知へ(2000年代)に分けられる。

(2) EPとARの関係

 ARは、日本の英語教育界では「仮説検証型」、日本語教育界では「課題探究型」であることが多い(横溝 2004)が、その位置づけは下図のように表現できる。


Scientific Research—Action Research – Exploratory Practice

仮説検証型AR – 課題探究型AR

2.1 [理由] SRとARとの対比

EPはSRともARとも異なる。

[根拠] 応用言語学の文献の検討

Scientific Research

Action Research

Exploratory Practice

隆盛時期

1980年代

1990年代

2000年代

目的

一般法則定立

問題解決

理解の深化

方法

実験計画法

準実験デザイン

定めない

重視すること

厳密性

説明責任

Quality of Life

結果

規範提示(prescription)

記述(description)

相互の成長

世界観

一般的因果性

個別的因果性

個別的複雑性

学問的背景

個人心理学

教育工学

生態学的言語習得論

学習観

認知行動

仕事

Life

研究期間

横断的に短期

縦断的に中期

持続可能に恒常的

学習者

データ提供者

「問題」

協働実践者

研究者

三人称の中立的存在

一人称の単数

一人称の複数

研究者と実践者の関係

研究者が実践者を指導

実践者が研究者になる

実践者が探究的になる

研究の主な公表対象

学会誌

利害関係者

当事者および当事者に共感する者

デメリット

教育への介入が過剰になる

アクションの自己目的化・過剰負担化

自己満足に終わりかねない

表1 SRとARとEPの対比


2.2 [理由]  EPの「理解」概念

EPによる理解は、SRの法則定立や、ARの問題解決よりも、実践に深く根ざしている。

[根拠]  ハイデガー存在論 (ただし訳語にはオリジナルも使用)による解釈。

もしEPでいう「理解」をハイデガー的に解釈すれば、次のような議論が可能である。

《理解》(Verstehen)(後述)こそが、法則定立や問題解決に先立つ

・伝統的認識論では、デカルトのように「我思考ス、我存在ス」のように、主観を確固たる基盤として、その主観と、データとして与えられる客観が一致することが「真理」だと考えられていた。「真理」は《陳述》(Aussage)される。

・しかしハイデガーはそのような伝統的な認識論は転倒していると考えた。

・ハイデガーは、存在しているものは、《世界内存在》(In-der-Welt-sein) であることを強調した。《世界内存在》という合成語は、存在が、幾重にも構造的に結びつけられた統一的現象であることを示している。その結びつきは《関わり》 (Sorge)と呼ばれる

・《世界内存在》は、《関わり》の違いにより、《道具的存在》(Zuhandensein)と《事物的存在》(Vorhandensein)に分けられる。《関わり》の元である私たちは《現存在》(Dasein)と呼ばれる。

・《道具的存在》とは、《関わり》(正確には《対物的関わり》(Besorgen))により、私たち《現存在》とのかかわり合いが自ずと示されている存在である。ギブソンの用語を借りるなら、私たちのまわりの《道具的存在》は、「アフォーダンス」(affordance)により潜在的かつ典型的な行動が誘発される存在である。このようなかかわり合いの網の目(《道具全体性》(Zeugganzheit))の中にいるのが私たちの通常のあり方である。

《事物的存在》とは、《関わり》(《対物的関わり》)が欠損した、特殊な捉えられ方をした存在である。科学においては、「客観性」のため、このように《関わり》(《対物的関わり》を方法的に排除した認識を選ぶが、これにより私たちの《世界内存在》性は大きく損なわれてしまう

《理解》とは、この《関わり》が、「現にそこに」(Da)《開示されていること》(Erschlossenheit)である。《理解》とは、《現存在の存在の根本様態》(Grundmodus des Seins des Daseins)である。《理解》とは、私たちが諸々とのかかわりを実感して生きていることである

・この《理解》こそは、私たちの存在の基盤であり、《現存在の開示性》こそが「最も根源的な意味における《真理》(Wahrheit)」であるとハイデガーは説く。

・この《理解》を軽視した研究は、学習観、学習者観を私たちの現実感覚や実践感覚から離れた特殊なものにしてしまう。


用語名

定義

解説

《世界内存在》

《事物的存在》

《関わり》が欠けてしまった存在

自然科学により認識された対象

《道具的存在》

《道具全体性》の中で《関わり》あっている存在

私たちの日常的生活の中で出会われるもの

《現存在》

他の《世界内存在》に《関わり》をもつだけでなく、自分自身に《関わり》をもち、ある態度をもち、《実存》する

私たちのあり方が、「現にそこに」、《開示されて》、《理解》されている

表2 《世界内存在》

⇒SRは、英語の学びを、《事物的存在者》としての「言語」が、これまた《事物的存在者》に過ぎない脳にいかに獲得されるかという問題に還元してしまう。

⇒ARも、「うまくゆかない」学習者を、彼/彼女なりに、《関わり》を持とうとしている存在として捉えずに、もっぱら教師だけが《現存在》として、彼/彼女を機能不全の《道具的存在者》として「問題視」し、その「問題」を解決しようとする発想を取ることがある。

⇒研究とは、現実を非現実化することではなく、現実を、できるだけ現実に忠実に解明するものと考えれば、《理解》を目指すEPこそが実践性からすれば最も望ましい研究のあり方と考えられる。

Exploratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察 4/5

3 [同意] 英語教育界におけるEP, AR, SRの役割区分

EPもARもSRも独自の貢献をする研究である。SRやARを全面否定することは愚かである。

3.1 [応答] しかし実践者が最優先するべきなのはEP

実践者が最優先するべきはEPであり、その後にAR、さらにはSRが来るべきである。だが、EPからARへ、ARからSRへと移っていくことは、「進歩」として捉えるのではなく、「特殊化」「特異化」「変異化」として捉えられるべきではなかろうか。SRの一般法則定立は、しばしば私たち教師の実践感覚の喪失であり、ARの問題解決は、時に、私たち教師が「機能」中心の見方をする存在へと変容してしまうことを意味する。EPがARやSRに「変異化」しないことは、とがめられるべきことではない。

⇒研究観により、人間観、つまり、学習者観、教師観(実践者の自己認識)も変わりうる。研究者は、自らの(非意図的・意図的な)影響に対して、十分に自覚的であるべきである。

[理由] 教師の《理解》なくして、学習者を尊重する学習の支援はできない。SRおよび時にARは教師の《理解》を損なう恐れがある。

3.2 [根拠] 学習者の存在論

学習者は、《共現存在》として捉えられるべきである。学習は、世界の《有意義化》を通じての学習者の《実存》として捉えられるべきである

・《世界内存在》としての私たち《現存在》は、私たちが気づくより前に、《関わり》の中に投げ込まれている存在である((《被投性》(Geworfenheit))。私たちは自らが他者に《関わり》(正確には《対人的関わり》(Fürsorge))をもつと同時に、他者によっても《関わり》(《対人的関わり》)をもたれる存在でもある。これらの意味で私たちは《共現存在》(Mitdasein)である。

・また《現存在》は、物と他者に関わるだけでなく、自分自身にも関わる。《現存在》は「汝があるところのものになれ!」(Werde, was du bist!)と、自らを可能性の中に投げ込む(《企投》(Entwurf)する)存在でもある。

・《現存在》が自分自身にある態度をとることができ、また実際に何らかの態度をとっていることを、《実存》(Existenz)と呼ぶ。

・《理解》とは、《現存在》のあり方としての《実存範疇》(Existenzial)である。

・《現存在》は、他の《世界内存在》や自分自身とかかわりをもつことを根源的に《理解》する。これを《有意義化》(Bedeutsamkeit)と呼ぶ。

・《真理》とは、さまざまなかかわりが《発見されていること》(Entdecktheit)であり、また《発見しつつあること》(Entdeckendsein)である。

真理概念

定義

真理論の種類

獲得方法

獲得の結果

伝統的「真理」

主観と客観の一致

認識論

「方法」による《事物的存在者》の測定

《陳述》

ハイデガー的《真理》

他の《世界内存在》との《関わり》が「現にそこに」《開示されていること》

存在論

世界の《有意義化》を通して《理解》すること

《実存》

表3 伝統的「真理」とハイデガー的《真理》

⇒学習者とは、教師にとって《共現存在》であり、彼/彼女自身にとって《現存在》である。学習者は自分自身に対して常にかかわり、自分自身を可能性の中に《企投》しようとしている。教師は学習者の《(共)現存在》性を《理解》しない限り、学習者と人間的な関わり合いをもっているとはいえない。

⇒英語の学びとは、英語という、もともと学習者にとっては《事物的存在者》に過ぎなかった外国語を、《道具的存在者》へと《有意義化》することである。その学びによって、学習者の英語は、他の《道具的存在者》や《共現存在》などの《世界内存在》との《関わり》をもたらし、かつ新たな自分自身への《関わり》をもたらすようなようになる。その意味で学びは《実存》であり、教師とは学習者の《実存》に付き添う存在である。その《実存》により《真理》は開示されてゆく。

Exploratory Practiceの特質と「理解」概念に関する理論的考察 5/5

4 [結論]  英語教育研究のあり方と今後の課題

4.1 [主張] 英語教育界はEPを最優先すべき

EPの「理解」概念を、ハイデガー的な《理解》とみなすならば、教師が《現存在》として存在することとなる。さらにこのハイデガー的解釈によるならば、EPとは、学習者を《共現存在》として捉える試みである。学習は《有意義化》による《実存》として捉えられる。これは教師と学習者が共に《現存在》であることをもっとも活かす研究である

「教師の成長」を学校現場における教師の専門職的かつ人間的成長として考えるならば、教師の成長を第一に考える研修などにおいては、英語教育界はEPを最優先するべきである。ARはEPによる理解が焦点化されてから行われるべきであろう。さらにSRは実践への直接的な指示を目指すものではなく、実践の抽象的な振り返りの枠組みを提供するものと考えられるべきであろう。英語教育界はこれまで以上に「何のための、誰のための研究」ということを自覚して研究を進めてゆかねばならない。

4.2 [関連] 生態学的言語学(ecological linguistics)とのつながり

本研究で示したハイデガー的《理解》概念は、生態学的言語学、ひいては社会文化的アプローチの発想との親和性が高いものである。日本ではまだ評価が高いとはいえない、こういった “alternative”な発想の正統性を示すことで、英語教育研究は豊かさをまし、おそらくは実践性を高めることができるだろう。

4.3 [課題] 授業研究リテラシー

実際にEPを行うときに、それはどのような場であり現象となるべきか、さらにはそこではことばはどのように使われるべきかについては本研究ではほとんど考察されなかった。授業を研究してゆく際のことばは、状況に埋め込まれ、referenceが豊富な話しことばで行うべきなのか、それとも従来のように、実際の状況を必ずしも共有しない人にも読まれうる書きことばでなされるべきなのか。話しことばと書きことばを使い分けるとしたら、その使い分けはどうするべきか。それぞれの限界は何なのか。そういった授業研究におけることばの働きについての考察を得ることにより、私たちは授業を記述し読み解く「授業研究リテラシー」を高めることができるだろう。


主要参考文献

Allwright, D. (2003). Exploratory Practice: Rethinking practitioner research in language

teaching. Language Teaching Research, 7 (2), 113-141.

Allwright, D. (2005) Developing principles for practitioner research: The case of Exploratory

Practice. The Modern Language Journal, 89 (iii), 353-366.

Gieve, S. and Miller, I. K. (eds.) (2006) Understanding the Language Classroom. Hampshire,

United Kingdom: Palgrave Macmillan.

Heidegger, M. (1986/1927) Sein und Zeit Max NiemeyerVerlag Tübingen: Austria

Ortega, L. (2005) “For What and for Whom Is Our Research? The Ethical as Transformative Lens in Instructed SLA” The Modern Language Journal, 89, iii, pp. 427-443

ドレイファス、ヒューバート著、門脇俊介監訳 (2000) 『世界内存在』産業図書:東京

ハイデガー、マルティン著、原佑・渡辺二郎訳 (1980)『存在と時間』 中央公論社:東京

ハイデガー、マルティン著、辻村公一・ハルトムート・ブッナー訳 (1997) 『有と時』創文社:東京

横溝紳一郎(2004)「アクション・リサーチの類型に関する一考察:仮説-検証型ARと課題探究

2007年8月1日水曜日

英授研でのQ&A 1/4

英授研での講演を無事終えることができました。陰で支えてくださった同学会の事務局の皆様、司会をしてくださった中嶋洋一先生に心から感謝します。以下は講演のQ&Aセッションでの質疑応答、および懇親会でのインフォーマルな質疑応答を、私が補筆・再構成したものです。講演のあと常用PCがクラッシュしてしまったので、掲載が遅れてしまいました。

【講演のQ&Aセッションでの質疑応答の補筆再構成】

Q1: 授業研究リテラシーを高めるためにわれわれがもっと授業だけでなく、授業研究についても語り合わなければならないということはわかりました。その時に「自前の思考」が必要だというのも同意します。しかし語り合うためには共通の語彙が必要です。私たちは授業や授業研究を語り合うための共通の語彙を持っているのでしょうか?

A1: 語り合うためには共通の語彙が必要だというのはその通りです。私たちは日本語(あるいはある程度まで英語)という共通の日常語を持っていますが、その日常語では必ずしも適確に授業や授業研究について語り合うことができません。そこで専門用語が必要になってきます。

 これまで英語教育は、多くの用語を心理学や言語学やSLAから借りてきました。専門用語を借りてくること自体は全く悪くありません。ただ「寝台に合わせて足を切る」ように、ある特定の専門用語を無理やりに英語教育に持ち込んで、その専門用語使用が英語教育の現象を豊かに掘り起こすことができるのかの吟味を欠いたまま、他所からの専門用語を使い続ける研究者がいたことはよくないことです。またそれ以前に他の学問分野の専門用語を一知半解で誤用し、用語だけ新奇なものを使うが、その語りの実質は日常語による語り以下といった研究者もたくさんいます(私がその筆頭かもしれませんが(笑)。これもあきらかによいことではありません。

 しかし他の学問分野を、安易な「応用」など考えずに、しっかりと勉強して慎重に使うことにより、英語教育のディスコースは確実に豊かになります。今回私も「生態学的言語習得論」やら「存在論」といった専門用語を導入しましたが、それらの用語が、第一に正しい理解に基づいているか、第二にその導入により、英語教育でこれまで見えなかった(見えにくかった)ことが見えるようになったのかを、吟味する必要はあるでしょう。その吟味の結果、こういった用語を有効な語彙として使い続けることは意義あることだと考えます。

 またどこからか用語を借りてこずとも、自然発生的に用語が定着してゆくこともあります。さきほど出た例ですと ‘backward design’がそうでしょうし、先ほどの「授業の見取り方」とかいった言葉もそうでしょう。こういった言葉が、私たちの討議を豊かにしてゆくなら残り続けるでしょうし、そうでなければ廃れてゆくだけです。いずれにせよ、英語教育の現実をどう適確に語れるかという視点から、私たちが様々な用語を使い続け、やがていつかいくつかの用語に落ち着いてゆくというのがあるべき姿かと思います。

 私が本日言いたかったことは「授業の批評」だけでなく、「授業の批評の批評」も必要だとまとめられますが、それは「授業の批評の批評の批評」も必要だということを意味します。この批評の連続に最終的裁定者は想定するべきではありません。誰も最終の、あるいは最高の裁定をする立場にはいません。あるのは、相互に批評を読み合い、それについて語り合うなかで生まれてくる合意であり理解です。そして余談になりますが、この合意や理解こそ、アレントの言う ‘power’(「権力」あるいは「活力」)ではないのでしょうか。

http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418

英授研でのQ&A 2/4

Q2 最後に引用された松井孝志先生のコーチングの「目的」の話はとても共感できました。だからやはり柳瀬先生の「英語教育の目的」をぜひお伺いしたい。もちろん柳瀬先生が口頭説明で、 ‘question’ ‘problem’の違いを述べたことは分かりました。「英語教育の目的とは何か」などというのは、すぐに解答が与えられる ‘question’ではなく、私たちが問い続けるべき ‘problem’ということは理解しているつもりです。しかしやはり柳瀬先生のお考えを聞いておきたい。

A2 まず‘question’ ‘problem’の違いについて補足説明したいと思います。この違いは様々な人々がうち立てているものですが、ここではアレントウィトゲンシュタインの言葉を引用しながら簡単に説明します。

 アレントは『精神の生活』(The Life of the Mind)という著作のなかで、 ‘thinking’(「思考」、「考えること」)を、 ‘cognition’(「認知」)と対比して整理しました(ちなみにここでの ‘cognition’とは古典的な ‘cognitive science’が想定する ‘cognition’と同じものとみなしてかまわないと思っています)。

 

 彼女によると、「認知」とは、「知性」(Intellect)の働きによるもので、知覚による証拠によって実証される「真理」(truth)を決定するものです。一方、「考えること」とは、「理性」(Reason)の働きによるもので、「意味」(meaning)を追求します。


 現在は調べたら必ず答えが出る「認知/知性/真理」系の問いばかりが持てはやされるように思います。ちなみに、科学者はこの系統の問いばかりを扱います。科学者は、答え(answer)を求められる確実な方法(method)がある問い(question)だけをresearch questionとして設定します。方法論が得られない問題は「科学的でない」として打ち捨てます。それが科学者の職業的責任というものでしょう。

 しかし答えが出ようもない「問題」(problem)も人間にとっては重要です。最終的な答えが出ない問題に辛抱強く「ああでもない、こうでもない」と付き合い続けることが、実はquestionresearch questionを作り出す根源でもあり、また芸術の根源でもあるからです。いわば私たちの文明の全てを底で支えているのが、この考えることであり、理性的に意味を追求することなのです。

 アレントの言葉を続けますと、この考えることは、少数者の専売特許ではなく、能力としては万人に常に開かれているものです。逆に、考えることができないという状態は、知力の足りない人々のおかす失敗なのではなく、可能性としては万人にとってつねに存在しているものであり、科学者や学者のような精神的営為の専門家たちも例外ではありません。いや、むしろ分野によっては専門家の方が「考えて」いないことすらありえます。専門家の限定的な専門知だけでは、「問い」(question)に解答(answer)を与えることはできても、「問題」(problem)を「考える」ことができないのです。

 ウィトゲンシュタインは次のように言います(日本語訳より英語訳の方がわかりやすいので英語訳を引用します)。

We feel that even if all possible scientific questions be answered, the problems of life have still not been touched at all. Of course there is then no question left, and just this is the answer. (Ludwig Wittgenstein Tractatus Logico-Philosophicus 6.52)

単純な区分け的言い方をすれば、人生や社会の「問題」は、科学的「問いと答え」が尽き果てた後に考えられなければなりません。科学的「問いと答え」は重要であり、現代社会にとっては必要ですらあります。しかし科学的「問いと答え」には限度というか、範囲があります。それだけでは十分でありません。言ってみるなら哲学的な「問題」を、考え続けることも重要であり必要なのです。

 と前置きが長くなりすぎましたが、「英語教育の目的とは何か?」という疑問文は、知覚的証拠を求める「問い」(question)ではありません。ですからすぐに「解答」(answer)を求めるべきではありません。この疑問文は「問題」(problem)です。私たちは知覚的証拠ではなく、意味を理性的に追求するべきなのです。

 ですから、私のこの「問題」への答えは、決して最終的なものでもなければ、反駁のできないものでもありません。むしろこの答えが新たな「問題」となり、さらなる意味の探究が促される類のものです。

 一言で私の考えを単純に述べますと、「英語教育の目的とは、グローバリゼーションへの対応」ということです。これについては、大津由紀雄編著『日本の英語教育に必要なこと』(慶應大学出版会)の小文である程度書きましたので、ぜひそちらをお読みください。


 しかし、ここであえて簡単にその要旨を述べます。私たちは、日本という国で、日本史を生き抜いていますが、それは世界史を生き抜いていることも意味します。英語教育という営みは、日本の学習者に、日本史だけでなく、世界史をも生き抜く視点と感覚を与えるべきだと私は考えます。

幕末から明治初期については、私たちには植民地体制への対応という世界史的変動がつきつけられました。第二次大戦後は民主化と経済復興という世界史的変動がつきつけられました。冷戦が終わり、「情報革命」が進んでからは「グローバリゼーション」と私たちが今呼んでいる世界史的変動がつきつけられました。英語教育とは国のレベルで考えれば、これらの世界史的変動に対応するための一つの重要な手段だと私は考えています。

 誤解のないように申し上げておきますが、「グローバリゼーション」だからといって、日本国民の100パーセントが英語を話さなければならないとかいう短絡を私は申し上げているわけではありません。しかし「グローバリゼーション」という世界史的変動は、日本の中の格差問題などの形で全国民に影響を与えています。グローバル化した世界の中で、もっとも強力な媒介手段と考えられる英語に関して、日本国は、国民にどのような学習のアクセスを与えるのか、またどのような方向の英語教育を目指すべきなのか、そうしてどのようなグローバルな結びつきをもつ日本社会を作り上げてゆくべきかということを「グローバリゼーション」という言葉を通じて、さらに問い続けてゆこうというのが私のとりあえずの答えです。言葉足らずなので、このことはいつかまた改めて考え直して文章にできればと思います。

英授研でのQ&A 3/4

Q3 科学的研究にしてもアクション・リサーチにしても、Exploratory Practiceにしても、大学の研究者が勝手に作り出してきたのではないか。むしろ研究者は、これまで実践者としての教師の思考をつぶしてきたのではないか。

A3 確かにこれまで多くの大学の研究者が、中高の現場をあまり知らないまま、実践者の思考をつぶしてきたことは事実だと思います。たとえばSELHi事業ですが、私はこの事業は全体としては成功であったと考えていますが、その一方で、(私もその一員ですが)、いわゆる「指導助言者」によって「こんなのは研究でない」と、実践を否定され、一定の方向に研究を向けさせられたという怨念にも近い声は私の耳にも届いています。典型的なのは数量化の強要で、「結果はデータの形で数量化しなければならない」と「指導助言者」に言われ、もともと数量化になじまないような実践を目指していた教師が途方にくれるという話は何度も聞いたことがあります。あるいは「問題解決」もそうで、とにかくこの「問題解決」という形で実践を進めろと言われ、教師が違和感を覚えるという話も聞きます。こういったケースでは、大学研究者が実践を歪めているというという批判は当たっていると思います。この点で、大学研究者をはじめとした英語教育関係者がExploratory Practiceの意味合いをきちんと理解しておくことは必要なことだと私は考えます。(ある見識者は、Exploratory Practiceという用語はまったく使わないにせよ、「中高の現場に、これ以上の『研究』はいらない。必要なのは『研修』、特に協働的な研修だ」とある場で発言されました。私はその発言の趣旨はよくわかるように思いますし、またその理解の限りにおいてその発言に賛成します)。

ただ一方で、正直に申し上げますと、中高教師による「研究」には、大学教師による「研究」以上に、首尾一貫していないとか、つじつまが合わないとか、内部矛盾を起こしているとかいったように、「科学」や「問題解決」以前のレベルで、言説として成り立っていないものがあるかと思います(私のいつもの悪癖で自分のことは棚に上げております)。もちろん、そういった「研究」は少数にとどまりますが、そのような例をみると、私は大学・大学院で、卒業論文・修士論文をきっちりと書く訓練を受けることは重要ではないかと思います。

実践を自然科学として扱うのは歪んだ見方だと私は思います。ですが他方で、実践をまったくの恣意奔放としてしまうのもおかしな考えだと私は思います。

私は、実践は、まずExploratory Practiceの考えで捉えるべきだと思います。そしてその中で、もしAction Researchとして捉えることが可能かつ適切な問題があれば、それはAction Researchとして問題解決するべきだと考えます。(自然)科学を教師が実践することは、(自然)科学の限定性から不可能だと私は考えます。しかし(自然)科学とは何か、(自然)科学的であるということはどういうことか、といったことは、学校教師は、他の市民と同様に、一般教養の一つとして学んでおくべきだと思います。

質問の答えに戻りますと、大学などに所属する研究者は、自らの狭い視野ゆえに現場の実践的思考をつぶしてしまうことは決して行うべきではありません。英語教育研究といった総合的・実践的な分野を対象としている研究者は自らの思考法を多様にし、現場の実践的思考を、豊かに言語化する手伝いをする必要があると私は考えます。

英授研でのQ&A 4/4

【懇親会でビールを飲みながらの質疑応答の補筆再構成】

Q4 Exploratory Practiceのことはだいたいわかったし共感できるのですけれど、これって当たり前のことではないですか?少なくとも小学校の有能な先生なら、思考力やら判断力に非常に優れていると思うのですが・・・[他教科を専門とするある中学校の校長先生による質問]

A4 Exploratory Practiceが「当たり前」のことをやとうとしていること、および、小学校の先生方が思考や判断に優れ、高い対応力・柔軟性を持っていることについては私も同意します。ただ英語教育界では、その「当たり前」のことがなかなかやられていないこと、あるいは少なくとも研究や研修として認められていないことは強調されなければならないと思います。英語教育学を「科学的」にしようとして、「きれいな理論的説明」を無理やりするのではなく、実践を、言葉に十分に気をつけながら、不必要に科学化しようとせず、言葉を適切に使いながら丁寧に記述してゆくことを英語教育界は学ばなければならないと私は考えます。一度は「論理実証主義」の雄とも周りに理解(誤解)された後で、科学的言説の限界に自覚的になったウィトゲンシュタインの次の言葉は、英語教育界にとっても重要だと思います。

It was true to say that our considerations could not be scientific ones. It was not of any possible interest to us to find out empirically 'that, contrary to our preconceived ideas, it is possible to think such-and-such' ---- whatever that may mean. (The conception of thought as a gaseous medium.) And we may not advance any kind of theory. There must not be anything hypothetical in our considerations. We must do away with all explanation, and description alone must take its place. And this description gets its light, that is to say its purpose, from the philosophical problems. These are, of course, not empirical problems; they are solved, rather, by looking into the workings of our language, and that in such a way as to make us recognize those workings: in despite of an urge to misunderstand them. The problems are solved, not by giving new information, but by arranging what we have always known. Philosophy is a battle against the bewitchment of our intelligence by means of language. (Wittgenstein, Philosophical Investigations Section 109)

Q5 10年前は「アクション・リサーチ、アクション・リサーチ」といっていた柳瀬さんが、今度は「EPEP!」と騒ぎ出すのはおかしい。大学の先生はすぐに騒ぎ立てて論文を書こうとする。これから10年たった後の柳瀬さんが何を言い出すか、いまから楽しみだ。だいたいEPとはEDとはどう違うのか [「ヒゲのK」といえば業界人ならわかる人(爆)による絡み]

A5 ご明察(笑)。論文を書くのが商売の一つなものなので、何かあればすぐに私はセコイ論文を書こうとしています。何か知的な動きがあれば、すぐにそれを小賢しくまとめようとしています。コバンザメと呼んでください(笑)。それから、EDについてはどうぞご自身の主治医にご相談ください(爆)。