私たちが求めるのは、枝葉のような表面的な手法や実践ではなく、自分の根幹(太い幹)となるような考え方です。
やり方としては、三人(一人の学生と二人の現役教師)がそれぞれ30分の発表(プレゼンテーション、授業報告、模擬授業)をし、それに基づいて7-8人の小グループで30分討議し、最後に全体討議で、自分たちの理解を他人と共有するという形を取りました。
このブログ記事では私が全体討議の司会をした教師の報告について、私が最後の10分でまとめたことを補筆再構成してみます。そのX先生は公立中学校で教えていますが、今回は選択授業での取り組みについて報告しました。
***以下、柳瀬のまとめ***
X先生の授業報告を、皆さんは「生徒が達成感を実感できる授業」、「生徒が自律して学ぶ授業」、「生徒が自分と他者を認める授業」「sharing, community, responsibilityと発展してゆく授業」、「生徒が所属感を覚える授業」などと表現しました。いずれにしましてもこのような表現は、日頃英語教育に対して使われる「入試に何人合格したか?」、「英検の取得率は?」、「規準・基準でいうとどうなるのか?」とはずいぶん違ったものですね。私は入試や英検などを軽視するつもりはありませんが、それらだけを英語教育の枠組みと捉えて、皆さんが今日感じたような授業の理解を抑圧してしまうことを強く恐れています。ですから、本日私は、皆さんが感じた理解をできるだけ私なりに言語化してゆきたいと思います。キーワード、《関わり》、《存在》、《実存》です。哲学用語ですからちょっと違和感を覚えるかもしれませんが、できるだけわかりやすく説明するつもりなので、どうぞしばらくお付き合いください。
X先生の授業はたくさんの《関わり》をもつものでした。教師自身がティームティーチングをしながら、ALTと協働的に授業の理解を進めているのはもとより、生徒も、「国際理解教育」の一環として、他教科や教科以外の世界の出来事との《関わり》を、この選択英語の授業を通じて育てました。またグループ学習やポスタープレゼンテーションでは、他の生徒との《関わり》がこの授業を通じていっそう豊かになりました。さらには生徒が書いた手紙を実際にZ国に出し、そこからさらにフィードバックを得ることによって、生徒は遠いZ国の人たちとの《関わり》を新たに得ました。本当に素晴らしい実践でしたから、30分でなく、せめて3時間、できれば丸一日かけてゆっくり聞きたいものでした。
ここでさまざまな《関わり》が英語の授業を通じて生まれ、育まれ、豊かになっていることに注目したいと思います。といいますのもさまざまな《関わり》を持つことが私たちの《存在》の基盤だからです。
《存在》なんてちょっと大げさな言葉に聞こえますが、私たちがこうしていること、あるいは生きていること、のことです。「いること」「生きていること」といっても、人間の場合、それは単なる物理的事象を越えています。ちょっと安っぽい言い方をしますが、例えばあなたが物理的にはなんの問題も無く、食料も水も与えられているが、何の《関わり》も持てないような白い壁に囲まれた独房に入れられたら、あなたも耐えられないことでしょう。食料と水によって生物的欲求は充たされているはずなのにもかかわらずです。そこまで極端な条件でなくとも、ある少年がいて、彼が周りの人々とも関係を持たず、自らが愛する物も持たず、自らに対しても何の夢も希望も持てずに、かといって特段の過去の思い出もなかったら、彼の人生はとても人間らしいものとは言えないということは、皆さんも同意してくださることかと思います。
私たちは様々な人そして物と、幾重にも《関わり》あっています。それが、私たちが「この世に生きる」(《世界内存在》)ということです。その《関わり》が実感(《理解》)できないことは、人間にとって大きな欠損状態です。しかしながら、現代日本では、《関わり》が段々と薄く表面化し、また少なくもなり、その結果、物質的には豊かなはずなのに人生の充実感を覚えることが難しくなっているように思えます。私たちの《存在》の基盤はさまざまの《関わり》にあります。このX先生の授業は英語を通じて、生徒の《存在》の基盤を充実させたと言えないでしょうか。
《存在》には《関わり》といった空間的な次元だけでなく、時間的な次元もあります。私たちは、空間的にも時間的にもつながった《存在》なのです。ここでは時間的な次元を《被投》と《企投》という用語で説明したいと思います。といっても何の難しいことでもありません。《被投》とは、私たちは、気がついたらこういう状況に「投げ込まれていた」存在であるということです。私たちは第一に、過去において、このような人生に「投げ込まれた」受身的な存在なのです。しかし人間は受身的なだけの存在ではありません。このように「投げ込まれた」中でも、「自分はかくあろう」と自分自身を未来へと「投げ込む」ことを企図する能動的な存在でもあります。受動的な中で能動的であり、過去を引き受けながら未来の可能性を信じるのが人間かと思います。こうして自分自身を受け入れつつも、自分自身の可能性に対してある態度を積極的に持ちうることを《実存》と言います。
話が抽象的になったので、X先生の報告に戻ります。X先生は「緘黙症」とも考えられるある男子生徒(α君)の英語朗読のビデオ映像を見せましたね。私は心の専門家ではないので、「緘黙症」についても専門的知識は持っていませんが、どの中学校にも、一人や二人は、極度に対人コミュニケーションが取れない生徒はいるのではないでしょうか。そのような生徒は、「コミュニケーション」を標榜する英語教育では扱いにくい存在です。そのような生徒は英語では「例外扱い」する先生もいらっしゃるかもしれません。しかし、X先生はそのα君を、生育歴も含めてよく理解し、考えた末に朗読テストに参加させることにしました。これはX先生にとっても賭けでした。朗読テストで指名されても、彼が立ち上がることさえしないことは十分に考えられたからです。しかしX先生はα君との交流の中で、朗読テストへの参加を促し、またα君もそれを受け入れました。ビデオで見たとおり、α君の朗読は声も小さく、聞き手とのアイコンタクトのないものでした。標準的な英語テストでしたら点数化できないものだとさえいえるかと思います。
しかし点数化できないということは、意味がないということでしょうか。そうではありません。α君が「緘黙症」のようになったのは、α君が受け入れなければならなかった彼の人生の様々な要因によるものです。いわばα君はこれまでそのような人生に投げ込まれてきたのです。それに対してX先生はα君に寄り添い、現在のα君を受け入れながらも、新たなα君の可能性に賭けてみる決意をしました。α君もその決意を自らのものとしました。大げさな言い方にしか聞こえないかもしれませんが、この朗読テストはα君の《実存》の機会となったのです。
α君の人生がこのテストで劇的に変わるのかどうかわかりません(また心の問題には細心のケアは必要でしょう)。さらに標準的な英語テスティングの考え方からすれば、このα君のテストでのパフォーマンスは零点に近いものだったということもその通りです。しかし、それではこの授業実践は意味のないものだったのでしょうか?私は、英語教師の心が、妙に頭の悪いpsychometricianや小権力をふりかざす官僚の用語に乗っ取られてしまい、このような実践を心の外に締め出してしまうことを怖れます。実際X先生も、「発表の後、『α君の評価はどうされたのですか?』と聞かれることが怖くて、この発表を控えようかと何度も思ったそうです。しかし義務教育の中で、教師が授業を通じてできるだけ生徒に寄り添うことを考えれば、X先生のような実践というのは出てくるものではないでしょうか。
誤解のないように述べておきますが、私は「すべての緘黙児に英語授業で朗読をさせるべきだ」などといった乱暴なことを主張するつもりなど毛頭ありません。私たちがまずやらなければならないことは、私たちが教師として、生徒と彼/彼女を取り巻く環境、そして教師としての自分自身などを深く《理解》することです。生徒、環境、教師自身、そしてそれらの《関わり》を《理解》し、いかなる教育的行為がここでは適切かを慎重に、時には同僚の力も借りながら、判断することです。その《理解》の末の判断は、現在の自分の教師としての力量では、何もすべきではないというものかもしれません。逆に、生徒の環境の変化からすれば今こそ何かアクションを起こさなければならないことかもしれません。いずれにせよ教師が深く《理解》することが必要です。《理解》抜きに、「緘黙児をいかに喋らせるか」といった問題解決型のアクション・リサーチを、ともかくに行おうとすることなどは避けなければならないと思います。なぜならそのような「問題解決」は善意の暴力ともなりかねないからです。
我々はどのような《関わり》を持っている《存在》なのか。我々はどのように《被投》され、どのように《企投》しようとする《実存》的な《存在》なのか。こういった《存在理解》こそが英語教育、いや教育の根幹にあるべきではないでしょうか。
このような言い方をしますと、よく「結局、英語習得は目的でなくて手段に過ぎず、生徒の《実存》とやらが目的なのですね」といった反論をされる方がいます。そのような反論に対する私の反応は、YesでありNoです。Yesというのは、特に義務教育である場合、教育の究極の目的は人間教育であり、特定の知識・技能獲得が絶対視されること(英語で言うなら「英語バカ」を作り出すこと)は避けられなければならないからです。
しかし私はNoと言いたい気持ちも持っています。といいますのも、上の言い方ですと、英語習得は特に成果をあげなくていいものだ、といった誤解を招きかねないからです。英語教育において英語習得は目指されるものではないのでしょうか。そうではありません。X先生の実践でも明らかなように、生徒は、自分たちの人生の充実を英語授業によって感じていますが、その人生の充実に応じて英語の学びも深まっているのです。この意味では、X先生のような授業では、英語習得と人生の充実は、不即不離の、二つで一つ、一つで二つの教育目標になっているからです。英語の習得で生徒の人生が充実し、その充実で英語の習得がますます深まる。英語の学びで、生徒は自分の《関わり》と《実存》をより《理解》し、その《存在理解》で英語の学びがますます深まる。こういった状態こそが私たちの英語授業が目指すべき姿ではないでしょうか。
本日の私のこのまとめは、お気づきになられた方もいらっしゃるかも知れませんが、Exploratory Practiceとハイデガー哲学の考えに基づくものです(ブログではハイデガー用語を《 》で挟んで表記しています)。私は私がこれらの考え方を歪めていないことを願っています。ですから、このまとめもウェブで公開し、広い範囲の皆さんからの批判を招いて、誤りや歪みや偏りはできるだけ正してゆきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。改めてX先生に大きな拍手をお送りください。