2010年9月14日火曜日

なぜ書くことが人の知性を発展させるのか

■「情報」とは、意味ある違い ―差異を生み出す差異

前の記事で「差異の活用」について書いたが、もちろん差異(違い)があれば何でもいいというわけではない。学生さんにある二つのテクストを比較させ違いを述べよと指示すると、時々おそらくは真っ先に目についたであろう表面的な違いを指摘する学生さんがいるが、もちろん違いが見つかれば何でもいいというものではない。私の指示の意図は、「意味ある違い」あるいは「重要な違い」を選択せよ、そしてその選択によりあなたの理解度を示せ、というものである。


「意味ある違い」、あるいは「重要な違い」というのは、ベイトソン流に言うなら「差異を生み出す差異」(a difference which makes a difference)であり、これが彼の「情報」(information)の定義である。「情報」とは、数ある差異の中でもその情報発信者が「意味ある」あるいは「重要」だとみなした差異である。




■情報発信者が企図せずして顕にしてしまうこと

だから情報発信により、実は私たちはその発信された情報を受け取るだけでなく、その情報発信者がどのような判断をしたのかということを知ることができる。つまり情報発信を観察することにより、観察者としての私たちは、その情報発信者について知ることができる。その情報発信者がどのような判断をするシステムなのかということを知ることができる。これは情報自体の文字通りの意味(literal meaning)の把握でもなく、その発信者が意図した意味(speaker meaning)の推定でもない。情報発信者に関するこの知見は、情報発信者を注意深く観察する者のみが得ることができる解釈であり、情報発信者が元々企図していたことではない(もちろん、「この情報を発信することで人々は自分のことをこのように判断するだろう」という周到な企図をもって情報発信する場合もあるが、それはここでは例外とする)。



■情報発信をする自己を観察するということ

と、情報発信者と観察者が別人であることを当然の前提のように書いてきたが、もちろん情報発信者と観察者が同一人物であることもありうる。情報発信をする自己を観察するわけである。

だがこの観察は、自らがある情報に気づくだけでは行うことが難しい。情報を私たちは日常的に見出している。だがその発見の多くは一過性のものであり、私たちはそれらに気づいても、すぐに他の作動を始める。「あっ」「へぇーっ」と思ったものも、多くは他の作動を始めた次の瞬間には忘れられる。このように次々に忘れ去られる情報を観察するのは難しい。情報に気づき、かつ他の作動に移行しながら、加えてその情報の気づきを観察するなどといったことを同時に行うことは、私たちの認知能力にとって負荷が多いからだ。

だが情報を発信するなら ―後に自己観察をする自分自身を含めた他人が観察しやすいように、自ら見出した情報を自らの頭の外に出すなら― その情報選択という判断を観察することが容易になる。頭の外に出す方法もっとも簡便な方法の一つは口頭でその選択した情報を述べることであろうが、もしその情報選択を何か永続性のある媒体(紙、コンピュータなど)に書き記すならば、書き記すという手間はかかるものの、観察はずっと容易になる。情報発見の後にゆっくりと観察できるからだ。多くの場合、情報発信を記述し残すことによって自己観察は、はじめて可能になる。情報発信が「私はこの情報を選択したのだ」だという自己記述でもあるとすれば、自己記述が自己観察を容易にすると表現できる。自己観察を反省と言い換えるなら、自己記述が反省を促すとも表現できる。



■書くことにより知る

私たちは刻々と情報を見出す。日常的に行為に埋没している私たちは、情報(差異を生み出す差異)と非情報(特段の差異を生み出すわけではない差異)を区別するのに忙しい。例えばGoogle Reader (RSSリーダー)で毎日500以上のブログ見出しを目にする私は視線を高速で移動させ、ちょっとでも面白い(「情報になる」)と思った見出しにはクリックをして星印をつける。そして次の瞬間には次の見出しを見ている。私は情報/非情報の区別あるいは判断を次々に行っているのだが、いちいちそれについて考えはしない。考えていたらとてもでないが多くの見出しを処理できない。

星印をつけ終わると、星印がついた見出しだけを画面に出す。そうして一日の適当な時間帯にそれらの記事を読み、面白かった情報はEvernoteにコピー保存しておく。さらにその記事の見出しとURLをTwitterに流す(これはクリック一つでできる簡単な作業だ)。

Google Readerの星印、Evernote、Twitterは私の情報発信である。前二者は自分自身だけのもの、後一者は他人に公開しているものという異なる種類の情報発信であるにせよ。情報発信は、その情報の提示だけでなく、情報発信者(つまり私)という区別や判断をするシステムについての情報を提示してしまうから、これらの情報発信の記録を注意深く観察する者は、私というシステムについての何らかの知識を得る。他人という観察者は私という人間の性質を知り、私自身という観察者も私という人間の性質を学ぶことができる。これも情報発信という自己記述のおかげである。

自己記述がなければ、私をよりよく理解するのは、私自身より他人の方かもしれない。実際のところ、日常生活にそのような例はありふれている。「知らぬは当人ばかりなり」で、ある人の癖は周りに熟知され嘲笑の対象とすらなっているのだが、当の本人はその癖に気がついていないということはしばしばあることだ。

自分という人間の理解において、他人に先を越されるというのはあまり気持ちいいものでもないだろう。それを防ぐ一つの方法は、自己観察をきちんと行うことだ。そのためには自己記述が有効である。日記というのは自分しか読まない読み物であるが、そのような読み物に自己記述を重ねることは自らをよりよく知ること、自分を周りから観察している他人よりもよりよく知ることのために有効な手段の一つなのかもしれない。日記のように非公開にするにせよ、このブログのように公開するにせよ、情報発信の記録は、情報発信者について知ることを促す。ただ情報に気づくだけで終わらせるのではなく、気づいた情報を発信し、さらには記録に残しておくことの意義の一つは、この洞察を得ることができることであろう。



■他人による観察の利点

それでは他人による観察に有利な点はないのだろうか。

通常、ある人に対して、他の人々がそれほど注意を払っていることはない。そうなると他人による稀な観察より徹底した自己観察の方が優れているということになるのかもしれない。

ましてや観察する他人の知的能力が、観察される人間の知的能力より低い場合、他人による観察は当人による自己観察に到底及ばない。観察されている人間の区別や判断を、知性において劣る観察者である他人は理解することもできないからである。観察されている人間(被観察者)が、なぜある事柄を情報とし、他のことを情報としなかったのかということが、観察者であるその他人には表面的には観察できても、原理的に理解できない。だから、根本のところで観察者はその被観察者についてわからない。被観察者について判断できない。そのように知的能力に劣る観察者は、権威ある第三者がその被観察者をどのように評価するかを待って、はじめてその被観察者がどんな人物であったかを(間接的に)知るだけである。

だが、観察する他人の方が自己観察する当人よりも知的能力において優れる場合、他人の観察の方が自己観察より的確であることは当然であろう。より知的に優れる他人は、当人が区別や判断できない領分や、大まかにしか区別や判断できない細部で、区別や判断を行い、その当人が成し得たはずの区別や判断まで理解できる。優れた人が、短い時間の観察だけで、ある人の性質をぴたりと言い当て、その当人やその当人の古くからの知り合いまで驚かせてしまうということも日常生活ではたまに起こることである(もちろん自らを優れていると信じて疑わない御仁が、短時間の観察だけである人に対して頓珍漢な断定をすることの方が、日常生活でははるかに多いのであるが)。

と、他人を知的能力に劣るか優れるかと単純に分けて考えたが、他人は当人より異なっているだけでその当人が気づかないことも理解するとも言えるだろう。他人が当人とは異なる判断システムをもち、異なった種類の区別をしているならば、その他人は、その当人が情報と認識したがその他人なら情報と認識しなかったであろうこと、およびその当人が情報とは認識しなかったがその他人なら情報と認識したであろうことを判別できる。つまり、別の視点から見ることにより、当初の視点では見ることができなかったことが見えてくるということである。他人は当人とは異なるシステムであるというだけで当人には見えないものを見ることができる(もちろん、異なるシステムをもつが故に当人には見えてもその他人には見えないものも存在するのだが)。

他人は知的に優れている場合だけでなく、観察される当人とは異なる区別や判断をする場合においても、その当人の観察において有利でありえる。



■コミュニケーションにより他人による観察を自らに反映させる


他人による観察は、自己観察では得られない利点をもつとするなら、その他人による観察を取り込むに限る。どうすれば取り込めるのか。しかし他人の意識(観察内容)をそっくりそのまま自分に取り込むことはできない。私たちが取り込む(あるいはルーマン的にもう少し慎重に言うなら、接する)ことができるのは、他人が外に現した言動だけである。他人の言動を自分のあり方に連動させ他人の影響をできるだけ活用する最良の方法の一つは、その他人とコミュニケーションすることである。他人と「共応」すること(=共に、しかしそれぞれのやり方で応じ合うこと)とも表現できるかもしれない(最近私は半ば意地になって、また半ば楽しみながらカタカナ語を漢字あるいは大和言葉にしようとしている。「共応」とは「コミュニケーション」の翻訳語として私なりに考えた(でっち上げた)造語である)。

私たちは、自分より優れた他人と共応することにより、自分というシステムに刺激を受ける。自分というシステムが開拓され精緻化される。さらに私たちは自分と異なる他人と共応することにより、自分というシステムが撹乱される。自分が思いもつかなかった区別について知ることができる。さらにここまで書くうちに考えついたのだが、私たちは自分より知的に劣った他人と共応することによっても学ぶことができるのだろう。自分が細分化してしまった区別を行わずに大きな区別しかしない知性と出会うことで、私たちは錆びついてしまった大局観を得られるのかもしれない。

いずれにせよ、コミュニケーションにより、つまりは他人と自分を連動させ、それぞれに相手に応じ合うことにより(=共応することにより)、私たちは自らの知性を発展させることができるのではないだろうか。より精緻な区別を、まったく異なる判断を、あるいは忘れかけていた大胆な区分を学べるのではないだろうか。



■コミュニケーションのための自己記述

他人とのコミュニケーションを開始するために行うべきは、自ら情報を見出そうとすることだ。漠然と日々を過ごすのではなく、意味ある違い(差異を生み出す差異)、つまりは情報を見出そうと意識する。情報を見出したらそれを書き出す。その自己記述で自己観察(反省)を行う一方、他人にもその情報を提供する。提供する情報に面白いものが多ければ、やがて見知らぬ他人も私たちの情報の判断基準に興味を抱くかもしれない。そういった他人はやがて私たちの情報発信に連動して言動を行うようになるかもしれない。コミュニケーション(共応)の始まりである。

あるいは自ら情報を発信せずとも、他人が発信した情報に反応してもよいのかもしれない。もちろん、その反応があまりに愚かだったり見当はずれだったら無視されたり嫌われたりするだけだろう。また、反応が面白くても情報発信者が忙しいあるいは他の様々な理由で私たちの反応に連動しないかもしれない(さらには、しつこくとにかく反応してもらうことだけを求める者を人は好まないことも付け加えておくべきだろう)。だが、もし幸運に恵まれるならばその情報発信者は私たちと連動し始めるかもしれない。その連動はたいていの場合において私たちの望んでいた形の反応とは異なるだろうが、それは一種の共応である。

私たちはその共応を契機に私たちの知性を発展させることができるかもしれない。もっとも共応(コミュニケーション)とは、他者の知性がそのまま自分の中に移送あるいはコピーされることではなく、互いが相手を刺激・撹乱要因としてそれを契機にそれぞれに自分で自分を作り変えるという自己創出(オートポイエーシス)なのだから、共応(コミュニケーション)が自動的に私たちを改善するということはない。要は私たち次第であり、私たちがあまりに愚かなら私たちはコミュニケーションを通じてどんどん愚かになるだけだろう(そうして愚かになればなるほど他人からの働きかけは減ってくるだろう)。

しかし仮に誰も私たちと共応しかなったとしても私たちは自己記述をするべきだろう(それが日記というものだ)。自己記述が促進する自己観察(反省)は、自らを再構築する機縁となる(もちろん自らの正しさを信じて疑わない人にとってはそうではないが)。自己記述は、時間をおいて読みなおした場合、ほとんど他人からのメッセージのように読める場合もある。自己記述により、私たちは自らと共応(コミュニケーション)を行うことができる。その共応により私たちは自らを作り変える可能性を高めることができる。もちろん、その自己創出がどのように展開するかというのは、究極のところにおいてその人次第であるということは先程から繰り返している通りである。だが一般論としては次のように言えるだろう。書くことは人の知性を発展させる。



■自分が自分を創出するということ

この駄文の元々の考えは歩きながら思いついたものであり、パソコンに向かえば30分以内にまとめられるものだろうと思っていた。だがその自己観察(情報発見)を自己記述に変えて文章にしてみると、存外に考えが自己展開した。当初書くつもりもなかったことも書くはめになった。書くというのは、閃きの一瞬と異なり、時間のかかることである。その時間の中で、私は何度も何度も自己記述を(つまりは自分の書いた文章)を観察した。数分前の自己記述が現在の自己への刺激・撹乱要因となり、自分が(小さな規模とはいえ)再構成されていった。

そうして創出された自己は自己記述を開始する前の自分が予測していた自己とは異なるものだが、この自己は私自身が創りだしたものであることは間違いない。自己創出(オートポイエーシス)は作動において自己内に閉じられたものであるが、その作動的閉鎖性は自己創出が計画通りとか予測通りに進むことを意味しない。たいていの場合、私たちの中には私たちで列挙・枚挙できないぐらいの多くの要素が存在し、それらの中から「情報」を発見して、その情報を組み合わせてゆくうちに、その組み合わせが新たな可能性を呼び起こしたりして、私たちは自らが予想しなかったことを書き出すことになる。この自己発見的な書き方はビジネス定型文書の書き方とはまったく異なる書き方であるが、書くという文化の重要な側面であろう。

以上書いた駄文をさらに丁寧に観察し、推敲・再構成すればすこしはまともな文章になるのかもしれないが、それは未来の自分(あるいは読者であるあなた)に任せることとして、本日はこれで文章を終える。私としては、今回のこの自己観察と自己記述が、私という人間を少しはまともなものにしたことを、あるいはせめてより劣悪なものにしなかったことを祈るばかりである。









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2010年9月13日月曜日

批判とは差異の消去でなく、差異の活用

大修館書店『英語教育増刊号』に書いた私の書評に対して、靜哲人先生がコメントを書いてくださいました

私としては、この靜先生のコメントが私の書評(増刊号に掲載)と共に読まれるならば、特に付け足して言うことはありません。

また私の書評はその対象である靜先生の『英語授業の心・技・体』と共に読まれることを意図して書かれたものだということはご理解ください。ですから私の増刊号書評を読んだ人はぜひ靜先生の『英語授業の心・技・体』を読んでください(逆に『英語授業の心・技・体』を既に読まれた方は機会があれば私の増刊号書評も読んでみてください)。

さらに靜先生はこの『英語授業の心・技・体』を、日本の学校英語教育がこのままであってはならないという強い思いから書かれたのだろうということも付け足しておきます。その企図に関しては私も意を同じくします。だからこそ私は今年の書評の冒頭にこの靜先生の本をもってきたわけです。私が増刊号書評の冒頭箇所に引用した靜先生の指摘を無視して、何が科学だ、哲学だ、改革だ・・・と私も思います。この指摘された事実を前に、いくら理屈を述べても仕方ないと思います。


ただ私は靜先生の書き方にちょっと気になるところがありましたので、その点を上記書評に書きました。既に多くの人に読まれているこの『英語授業の心・技・体』が誤読・誤解されることを恐れたからです。

影響力ある言説というのは、原典が意図していたことを超えて単純化されイデオロギー化されてしまうというのは世間でしばしば観察されることです。私は靜先生のこの本がそのように誤読され、単純な精神の持ち主の群れにまつり上げられることを怖れます(すみません、私は元来心配しすぎの悲観主義者なのでw)。

一方、靜先生もその私の書評が誤読・単純化されること(その結果、私の書評が靜先生の著作の全面否定として捉えられること)を怖れて上記ブログ記事を書いたのかとも私は思います。少なくとも私は、それぞれの表現やその解釈に関する細部を除けば、靜先生の元々の考えと私が考えていることには大きな違いはないと思います。ウェブ上の断片的な情報を元に、不毛な個人的な対立を煽るような方がもしいらっしゃるならば、そのような方には、ぜひウェブ上の文章だけでなく出版物(『英語授業の心・技・体』および『英語教育増刊号』)をお読みの上、ご自身でよく考え、英語教育実践の改善にお互い努めることができたら幸いに思います、と呼びかけます。


しかしながら私はこのブログ記事を書く事で、私が増刊号書評で提示した論点を消去するつもりはありません。すなわち靜先生の主張を誤解し単純化した発想(「過度の限定的(あるいは禁欲的)な態度」)が行き着くところを怖れます。私は「過度の限定的(あるいは禁欲的)な態度」と、私の考えの差異を強調したく思います(どうぞ増刊号を読んでください)。差異の提示と、それによる思考の複眼化が批判の目指すべきものかと思います。


話は大きくなりますが、しばしば「批判」という言葉は、相手との差異を消去し否定することを意味してしまっているように思えることがあります。

差異の消去・否定の典型例は、相手の主張および相手の人格の全面否定です。全面否定により、相手の主張が生み出した世界の異なる見方を消してしまおうとします。具体的なやり方でいいますと、片言隻句などを(次々に)取り上げ、それが完全に自分の思い通りの表現になっていないことなどを理由にして、相手を「誤っている」「信頼できない」など決めつけ、しまいには罵倒までし始めて相手の人格や存在すらも否定し消し去ろうとします。このように自らの世界観だけが正しく、自らの世界観を他人が共有しさえすれば世界は素晴らしい場所になる、そのためには異なるものはすべて否定・消去されるべきだ、とでも思っているような方の言動には私はどうも共感できません。


全面否定ほど露骨でない差異の消去法は、相手の言説と自分の言説は異なるものではないと、相手の言説がせっかく示した差異を強引に自分の言説の中に組み込んでしまうことです。自らの言説をわざと曖昧にして、世間受けするようにすることと言えるかもしれません。自らの言説を精緻化することを拒否することでもあります。シンポジウムなどで時々見られる方略です。

社交上、私たちはこの方略をしばしば採択しますが、信頼できる相手と冷静にゆっくりと話し合いができる場合はこの方略は取るべきではないでしょう。異説というのは自説を明確にしてくれるものです。異説があることにより自説がもたらすかもしれない単純な世界理解が防げます。

私たちが問題にする現象はしばしば複雑・複合的(complex)なものです。そのような現象について単純すぎる知性が「問題解決」を試みようとするとき、その単純な「問題解決」はしばしば害をもたらす、というのが私の基本的信念です(もちろん私たちが問題として取り上げる必要もない単純な事柄には単純な考えで対処するべきなのは言うまでもありません。私が言っているのは「物事はすべて複雑・複合的だ」という単純な一般化ではありません)。



批判という行為は、差異を際立たせ、世界の多元的な見方を促進すること、および多元的な見方のそれぞれがその見方を貫いてゆけばどのような結果にたどり着いてしまうのかを明確にすること(マックス・ウェーバー)かと思います。差異を否定・消去するのでなく、差異を肯定し、その差異を活かして、複合的な事象に柔軟に対応できる策を検討するのが批判行為が目指すことかと私は理解しています。

ですから私はこのブログ記事で、靜先生の言説が招きかねない誤解(「過度の限定的(あるいは禁欲的)な態度」)と私の考えの差異は否定しません。この差異が明確になることにより、日本の英語教育がより現実的になることを願っています。

この言明自身が単純すぎるものであるかもしれないことを私は怖れますが、私はある考え・人物・組織などを全面肯定しようとする衝動(そしてその反動で他を全面否定しようとする衝動)を怖れます。ですから私はウェブの可能性には期待をしつつも、衝動的なウェブ言動には警戒をしています。私自身しばしば過度な一般化で単純な知性の悪癖に陥りがちな人間ですから、衝動的なウェブ言動からはできるだけ距離を取りたいと思います。











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2010年9月9日木曜日

橋本治(2001)『これで古典がよくわかる』ちくま文庫

此の橋本治いと読みやすく趣深ければ昨夜眠りに入らんとする前の焼酎の酔のうちに一息に読み終えたり 元より高校生なる童子飲酒すること能わざるも科目にして古典を学び労多くして詮なきものと思えしはこの巻物を読みて古典の学びに益多きことを覚れば学舎に一新したる心を持ちて行くこと疑ふべからず 学舎を去りて稼業に励む大方の世人も日本語なる言の葉は政を行い商を営み家人隣人と交るに欠くべからざるものなれば此の巻物にて其の成り立ちを解すれば得心ゆき言の葉を用うるに喜び多し 此の文は悪しき乗りを覚えて自らも古に倣はんと連ねる手慰みなれば古の文の法に敵わぬところ多くあるべくも愚人の戯れなれば寛き心にて許してちょんまげ


蛇に足を加う所業を愚人行いて下の如く言の葉を翻す


つれづれなるままに日くらし硯に向かひて心にうつりゆくよしなき事をそこはかとなく書きつづればあやしうこそものぐるほしけれ(徒然草)

なんか集中できなくて一日中パソコンにはりついて思いついたことをTwitterに垂れ流してゆくとあぶなくてイタイんだよなぁ(今様徒然草)




ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にはあらず。澱みにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びてひさしく留まりたるためしなし(方丈記)

Tweetは延々と流れてきてしかも同じtweetはなし。Replyが出ても消えたり炎上したりしてまぁいろいろだよね(今様方丈記)




祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり沙羅双樹の花の色盛者必衰の理をあらわす(平家物語)

Twitterのつぶやき聞いてると常勝なんてねぇんだよなと思う。麻生も鳩山も落ちるんだから、まぁ上がれば落ちるってことだよね。(今様平家物語)




おごれる人も久しからずただ春の世の夢のごとしたけき者も遂には滅びぬ偏に風の前の塵に同じ (平家物語)

民主党も長くはねぇだろ、ま、いい夢見たということで。剛腕小沢も失速するだろ、The answer is blowing in the wind. (今様平家物語)




月見れば千々にものこそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど(百人一首)

鏡見たらブルーになるのよねオイラだけがダメンズじゃないんだけど(今様百人一首)




春はあけぼの やうやう白くなりゆく山際少しあかりて紫だちたる雲の細くたなびきたる  
夏は夜 月の頃はさらなり闇もなほ蛍のおほく飛びちがひたるまたただ一つ二つなどほのかにうち光りて行くもをかし雨など降るもをかし(枕草子)

春は朝だよぉ、ゼッタイィ~。日が出て雲が出て、なんかビミョー。
夏は夜ぅ~~!月とか出るとマジヤバイよ。暗いところにぃ、なんか変な虫みたいなんがぁ、いっぱい飛んで光ってぇ、何これ?ウソォ?みたいな。ぁ、虫少なくてもイイからね!あとはぁ、雨とかになってもぉ、私的には好き、かな?キャハッ!(今様枕草子)







⇒橋本の巻物を読まんと欲す強者は此処に来鼠し打指すべし


上は奇文なりと思ひしは下居する鳥に行鼠打指し囀るべし








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