2012年1月16日月曜日

野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)




慶應学習英文法シンポジウムの準備の頃からずっと、野矢茂樹先生によるこの『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫)の議論が気になって、以来、三回ほど通読し、何度もアンダーラインを引いた箇所を読み返しました。同シンポジウムに関する研究社出版への原稿は先日第一稿を書き上げ、また推敲し書き直すために、今「寝かせて」いるところですが、その原稿でも結局この本から直接的に引用することこそありませんが、この本の議論からはある程度の影響を受けました。

授業の「言語コミュニケーション力論と英語授業(2011年度版)」でも近いうちにウィトゲンシュタインを扱うので、やはりこの本をまとめられないかと試みましたが、やはり私はこの本(というよりウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』)の全体像を要約することはとてもできません。 ― 『論理哲学論考』に関しては、Ogdenの英訳版でしたらProject GutenbergのPDF版、ドイツ語原文とOgden英訳とPears/McGuiness英訳の便利な対訳版でしたらこのPDF版、ドイツ語原文とOgdenの英訳のHypertextならこのページがオンラインで入手できます ―。

と、いったんこの本の全体的な要約を諦めたものの、授業準備のために後期ウィトゲンシュタインのPhilosophical Investigations)(日本語翻訳は『哲学探究』)の最初の部分を読み返していたら、何だか『論理哲学論考』の少なくともいくつかの論点が急にはっきりわかるように思えたので、その論点だけでもここに書き残しておこうと思いました。(やはりウィトゲンシュタイン自身が『哲学的探究』は『論理哲学論考』と合わせて一冊として出版されるべきだと考えていたことからも示されるように、これらのウィトゲンシュタインの初期と後期の代表作は、重ね合わせるように読まれるべきなのでしょう)。

というわけで、以下は、野矢先生の『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』の一部の論点を私の理解(あるいは誤解)なりに整理したものです。「○ページ」と表記されたページ数はこの本のページ数です。なお野矢先生は『論理哲学論考』の翻訳も岩波文庫から出版されています。こちらから引用する場合は「(岩波)」と表記します。

「1.1」など表記された数字は『論理哲学論考』の節番号を表します。節番号は一桁のものが最も重要な節です。桁数の多い節は桁数の少ない節の補助説明です。

ドイツ語はウィトゲンシュタインによるもの(上記サイトより引用)で、英語は、末尾に(O)と書かれたものはOgdenの英訳表現で、(P/M)と書かれたものはPears/McGuinessの英訳表現です。


以下のまとめでは、私が野矢先生(およびウィトゲンシュタイン)が行った厳密な用語法を、乱暴にまとめてしまったところも多々あります。また途中で、野矢先生が言ったことから脱線して、私個人の愚論を展開しているところもあります。ですから、ご興味のある方は必ず、上記のきちんとした本を読んで下さい。



***



■「その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリー」としての「論理形式」

「対象」(Gegenstand; object (O)(P/M))(2.01)を、とりえあず「世界の究極の要素」ぐらいに考えた上で、ウィトゲンシュタインがその「対象」について述べていることに注目してみましょう。


2.01231 対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない。(49ページ)

2.0131 Um einen Gegenstand zu kennen, muss ich zwar nicht sene externen -- aber ich muss alle seine internen Eigenschaften kennen.

2.0131 In order to know an object, I must know not its external but all its internal qualities. (0)

2.0131 If I am to know an object, though I need not know its external properties, I must know all its intrnal properties. (P/M)


この内的/外的な性質について野矢先生は次のように解説します。


ある対象がその性質をもっていないと想像すると、その対象の同一性が損なわれ、それゆえその性質をもっていないと想像することができないようなとき、その性質はその対象にとって「内的」とされる。たとえば、物体は時間空間的位置をもつ。物体がある特定の時間空間的位置を占めていることは偶然的なことであり、外的であるが、そもそもなんらかの時間空間的位置をもつだろうことは物体にとって内的である。(51ページ)


と、ウィトゲンシュタインは内的/外的な「性質」について述べますが、野矢先生はこの「性質」は、「形式」あるいは「論理形式」と呼んだ方が誤解が少ないだろうとします。(52-53ページ)。その上で、野矢先生は対象の内的性質、論理形式について次のように述べます。外的性質を知ることの記述に引き続いての文です。


それに対して、対象の内的性質、論理形式とは、そうした探求の範囲を示すものである。そのトマトは、位置について、色について、形について、硬さについて、味について、いかなる性質をもっているかを探求することができる。いわば、対象の論理形式とは、その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリーにほかならない。その質問の答えを知っている必要はない。しかし、どういう質問をすることができるのかは理解していなければならない。たとえば、それがどこにあるのかは知らなくても、「それはどこにあるのか」と尋ねることができる、そのことは分かっていなければならない。その対象の論理形式を捉えていないのであれば、そもそも何を調べてよいか分からない。そして対象を捉えるとは、「さて、これからこいつについて、どんな性質をもっているかを調べてやるぞ」と探求の出発点に立つことを意味している。それゆえ、対象を捉えるためには、その対象の論理形式を把握していなければならない。(55ページ)


トマトの論理形式の例として、上には位置・色・形・硬さ・味が上げられていますが、それらがトマトのもつ論理形式のすべてなのかについては疑問が残ることでしょう。しかし(どこで読んだか忘れましたが)ウィトゲンシュタインはこの「対象」の議論で、何ら具体的な物を考えていたのではなく、形而上学的な議論を行なっていたはずなので、ここではそれを問題とはしないことにしましょう(ウィトゲンシュタインは「形而上学的」という言葉を嫌っていますが、それもここでは問題としないことにします)。その上で述べるなら、


「その対象に対して適切に問うことのできる質問のレパートリー」


としての「論理形式」とは十分に理解できる概念かと思います。



■「対象」、「事態」、「事実」、「世界」

究極の「対象」、すなわち他の対象と組み合わされていず、それだけで成立している純粋で単一なる「対象」とはまさに形而上学的概念であり、それを具体的に例示することはできませんが、私達が普通に「事態」と呼ぶものは、いくつかの「対象」が組み合わさったものだ、という考え方は、まあ日常的にも理解できるものでしょう。

ウィトゲンシュタインの考え(世界観)をまず単純化して表現するなら次のようになります。


世界 = すべての事実の総体 (1)

一つの事実 = いくつかの事態が成立していること (2)

一つの事態 = いくつかの対象が組み合わさっていること (2.01)


あるいは

世界

=複数の [事実] の総体

= 複数の [たくさんの《事態》] の総体

=複数の [ たくさんの 《多くの対象の組み合わせ》 ] の総体

とも表記できるかもしれません。

つまり「世界」はすべての「事実」から構成されているが、一つ一つの「事実」とは、多くの「対象」の組み合わせからなる「事態」がさらにいくつか集まって成り立っていることから成立している、となります。

「だからどうなんだ」と言われそうですが、「対象」を理解するためには必要ですし、『論理哲学論考』では、いきなりこの用語法が出てきて面食らうことが多いので、ここにまとめておく次第です。

日本語訳、そして原文と英訳は次のとおりです。(「成立していることがら」 (der Fall, the case)という用語が入ってきますが、議論の骨子は上で単純化した通りです。




1 世界は成立していることがらの総体である。 (岩波 13ページ)

2 成立していることがら、つまり事実とは、諸事態の成立である。 (岩波 13ページ)

2.01 事態とは諸対象(もの)の結合である。 (岩波 13ページ)


1 Die Welt ist alles, was der Fall ist.

2 Was der Fall ist, die Tatsache, ist das Bestehen von Sachverhalten.

2.01 Der Sachverhalt ist eine Verbindung von Gegenständen. (Sachen, Dingen.)


2 The world is everything that is the case. (O)

2 What is the case, the fact, is the existence of atomic facts. (O)

2.01 An atomic fact is a combination of objects (entities, things). (O)


1 The world is all that is the case (P/M)

2 What is the case -- a fact -- is the existence of states of affairs. (P/M)

2.01 A state of affairs (a state of things) is a combination of objects (things)(P/M)






■論理的な使用に限っての「言語」

さて次は『論理哲学論考』でウィトゲンシュタインが「言語」についてどう議論を展開したかについて考えます。最初に断っておかなければならないのは、ここでの「言語」はもっぱら論理的に使用されるものに過ぎないということです。言うまでもなく、言語使用には、論理的でもなく真偽を決定できる命題でもない言語使用があります(例えば挨拶や命令文)。しかし『論理哲学論考』でのウィトゲンシュタインは、論理的な使用に限っての「言語」についてのみ議論を進めます。私たちの思考の限界を見極めようとして論理的に使用される言語についてのみもっぱら考えます。論理に限らない多彩な人間の営みは、 後期の『哲学的探究』で登場します。


そういうウィトゲンシュタインの(論理的な)「言語」とは、すべての「命題」の総体です。それぞれの「命題」は現実の「像」である限りにおいて真か偽でありえます。「命題」のうち有意味な命題が私たちの「思考」と呼ばれます。

私なりに単純化するとこうなります。


「命題」 = 現実の「像」
(ただし、真の「像」もあれば偽の「像」もある)

「思考」 = 有意味な命題
(ただし、真偽を確定しようとして、後で偽と判明する命題を語ることも有意味ではある)。

「言語」 = 命題の総体
(つまり、真の命題も偽の命題も、有意味な命題もナンセンスな命題も含めた、
あらゆる可能な命題の総体)



日本語訳、そして原文と英訳は次のとおりです。


4 思考とは有意味な命題である。 (岩波39ページ)

4.001 命題の総体が言語である。(岩波39ページ)

4.003 哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。・・・(後略) (岩波39ページ)

4.01 命題は現実の像である。
命題は現実に対する模型であり、そのようにしてわれわれは現実を想像する。 (岩波40ページ)

4.06 命題は現実の像であることによってのみ、真か偽でありうる。 (岩波47ページ)


4 Der Gendanke ist der sinnvolle Satz.

4.001 Die Gesamtheit der Sätze ist die Sprache.

4.003 Die meisten Sätze und Fragen, welche über philosophische Dinge geschrieben worden sind, sind nicht falsch, sondern unsinning. ...

4.01 Der Satz ist ein Bild der Wirklichheit.
Der Satz ist ein Modell der Wirklichkeit, so wie wir sie uns denken.

4.06 Nur dadurch kann der Satz wahr oder falsch sein, indem er ein Bild der Wirklichkeit ist.


4 The thought is the significant proposition. (O)

4.001 The totality of propositions is the language. (O)

4.003 Most propositions and questions, that have been written about philosophial matters, are not false, but senseless. (O)

4.01 The proposition is a picture of reality.
The proposition is a model of the reality as we think it is. (O)

4.06 Propositions can be true or false only by being pictures of the reality. (O)


4 A thought is a proposition with a sense. (P/M)

4.001 The totality of propositions is language. (P/M)

4.003 Most of the propositons and questions to be found in philosophical works are not false but nonsensical. (P/M)

4.01 A proposition is a picture of reality.
A proposition is a model of reality as we imaginie it. (P/M)

4.06 A proposition can be true or false only in virtue of being a picture of reality. (P/M)


さて「言語」が『論理哲学論考』においては、論理的な使用に限った言語といった特殊な意味で使われているのと同じように、「名」は『論理哲学論考』において「対象」の代わりをするもの、という特殊な意味で使われています


3.22 名は命題において対象の代わりをする。 (岩波27ページ)

3.22 Der Name vertritt im Satz den Gegenstand.

3.22 In the proposition the name represents the object. (O)

3.22 In a proposition a name is the representative of an object. (P/M)


この定義から、「対象の論理形式」は、「名の論理形式」と等しいことになります(63ページ)。「命題」の中の「名」は、対象の論理形式が許す範囲で命題の中で使われます。ということは「有意味な命題」(=「思考」)において「名」が示す「名の論理形式」こそが「対象の論理形式」ということになります。

しかし究極あるいは単一で純粋な「対象」とは形而上学的概念であり具体的な事物ではなかったように、純粋な「名」も形而上学的概念であり、『論理哲学論考』での「名」を、私たちの日常言語の名詞と考えるべきではないでしょう。(「名」は、命題が「完全に分析された」要素となった「単純記号」のことであるとウィトゲンシュタインは定義しています (3.201および3.202)。

ですから「私たちが名詞をどのように・どこまで使えるか、というのが世界の究極の構成要素の分析となっているのだ」などというのは短絡です。「私が目の前に見ている『これ』に対して私は『X』という名詞を使う」という関係が、そのまま「対象」と「名」の関係であるわけではありません。「対象」は、私達が認識する事態や事実の中に複雑に組み込まれています。そして「対象」の像である「名」は、私達が日常的に使用する文や文章の中に複雑に組み込まれています(ウィトゲンシュタインは「日常言語から言語の論理を直接に読みとることは人間には不可能」とさえ言います(4.002)。また『哲学的探究』にも単純な対象を同定することの困難が語られています)。だから日常言語の名詞の使用の詳細な分析が、そのまま世界の究極の分析となるなどとはなりません。




■言語獲得と言語使用は、思考の獲得であり使用である


しかし純粋な「名」が複雑に組み合わされた「命題」の総体 ―あらゆる可能な命題のすべて― が「言語」である(4.001)とは言えるでしょう。

「総体」といった緩やかな意味で、言語を習得するということ、つまりは言語を使用できるようになるということは、同時に真偽や有意味性を学ぶであるとは言えるでしょう。つまり、言語を習得するということは、可能な命題をすべて扱いうるようになるということであり、その中でどの命題が真でどの命題が偽であり、どの命題が有意味な思考でどの命題がナンセンスであるかを見極めながら使用することと言えるかもしれません。(もちろん一部の言語学者でしたら、完璧に統語的だが意味不明な言明ばかりする人も「知性に偏りがあるものの『言語』(あるいは『文法』)は獲得している」というでしょうが、ここでは常識的な意味での言語習得・言語使用について議論します)。

命題の真偽判定は、現実世界に関わることですから、観察や計測などで決定される経験的なものです。しかし、何が有意味であり何がナンセンスであるかを判定するのは、まさに思考を学ぶということです。

ですから非常に単純化した言い方をすれば、言語を習得するとは、(現実世界での真偽決定という経験的な言語使用に加えて)、思考を学ぶということになります。逆に言うなら、思考を学ぶには、言語を習得しなければならない、となります。そして思考の学び=言語習得は、言語使用においてなされます。言語をきちんと使用することができるようになることは、同時にきちんと思考できるようになることと言えるでしょう。




■文学や哲学は世界のあり方の可能性を探ること

真偽決定できる経験的言語使用以外の、有意味・ナンセンスの境界線まで届こうとする言語使用を学ぼうとすることは、事態の中に複合的に組み込まれた対象の「論理形式」(「内的性質」)の複合的な組み合わせについて考えることを学ぶということです。これは可能な世界のあり方について考えることです。世界はどうあり得て、どうあり得ないのかということを、「外的性質」の経験的実証はさておき、「内的性質」「論理形式」において考えようとすることです(前にも説明しましたように、その「内的性質」「論理形式」は単純な対象の「内的性質」「論理形式」ではなく、多くの対象の「内的性質」「論理形式」の複雑な組み合わせなのですが)。

さてこれまでは言語使用の論理的な側面だけを考察した前期ウィトゲンシュタインと彼の翻訳者に従って"Satz"を「命題」(proposition)と訳してきましたが、ご承知のように"Sats"とは「文」(sentence)とも訳せる語です。今、私はウィトゲンシュタインが述べたことを、緩やかに言い換えていますので、その方針を続け、今後は「文」という表現も必要に応じて使うことにします。

経験的実証の「外的性質」ではなく、対象・事態・事実・世界の「内的性質」である「論理形式」をもっぱらの基準にして言語を使用することの典型例の一つは、小説です。例えば村上春樹の『1Q84』 などの小説は、月が二つあるなどの点で私達の世界の「外的性質」には大きく違反するような世界や出来事を描きながらも、私達の世界理解の「内的性質」・「論理形式」には違反しない物語を書くことにより、世界中の読者の共感を得ています。このような小説を読んでも、科学的知識はおろか世俗的知識もほとんど得られず、大げさに言うなら私たちはひたすらこの世界の「内的性質」、私達の「論理形式」の可能性について小説の言語を通じて学んでいます。この学びは経験的な知識は増やしませんが、私達の世界のあり方の可能性を広げ深めさらには質的にも転換してくれています。

小説家だけでなく、哲学者も「ありうる世界」「あるべき世界」について語ります。世俗知に長けた人は、しばしば小説家や哲学者を「世間知らず」として馬鹿にしますが、仮にそうだとしても、小説家や哲学者は世俗知に長けた人よりはるかに「世界のあり方」について知っているのではないでしょうか。

どこで読んだか忘れたのですが、「世間は、政治家やビジネスマンが未来を創ると思っているが、未来を創るのは文学者である。文学者は新たな言語を紡ぎだすことで、新たな世界のあり方を創っている」といった発言を最近読んだように思います。必ずしも物事の「外的性質」には即していないかもしれないが、物事の「内的性質」「論理形式」を見極め、その可能性の限界を広げるや哲学者は、言語の可能性を探ることで、私達の思考、そして私達の世界の可能性を豊かにしていると言えるでしょう。




■言語習得の複合的・循環的全体性

数多くの「対象」が複雑に組み込まれた事態や事実は、「対象」の「論理形式」も複雑に組み込まれた形で含んでいます。その事態や事実をの真偽を確かめるために文を使い(=例、自然科学における言語使用)、さらにはその事態や事実の可能性を限界まで考えようとしてナンセンスとなるギリギリまで文を使うこと(=例、文学や哲学などの人文学での言語使用)は、数多くの「対象」、つまりは事態や事実の論理形式を、分解できない複合的な全体性の中で学ぶことになります。特に、後者の言語使用での文の有意味性やナンセンス性の判断 ―つまりは思考―は、世界の表現としての言語の分解できない複合的な全体性に基づいています。

ここに思考を学ぶこと=言語使用を学ぶことの難しさがあります。思考と言語は、分解して学べないのです。複合的な全体性の中にいわばいきなり飛び込まねばなりません。飛び込むと、分解不可能だと思った部分が実はさらに分解可能だったり、その他の部分と複雑に絡み合ったり、さらにはその他の部分の理解が実は当の部分の理解に基づいていることに気づいたりします。完全な分析など不可能な、複合的で循環的な言語使用の全体性をものともせずに、言語を使い、「なるほど」と言われたり「そうかな」と問われたり「それは違うだろう」と反駁されたりと言語共同体の中で言語使用し続けるしかありません。そのように複合的で循環的な言語使用の全体性に飛び込まないと、私たちは思考と言語を学べないのでしょう。

母国語(第一言語)を獲得するとは、まさにそのようなことです。野矢先生は次のように言います。(私からすれば、野矢先生は「名」と日常言語の「語」、および「命題」と日常言語の「文」をそれぞれ同一視したような言い方をなさっているように思えますが、それは今は問題にしないことにします)。


実際、われわれが母国語を習得してきたプロセスは、いきなり仲間にさせられるというものであったろう。ひとつひとつ語の論理形式が説明され、それを順番にきちんと把握しながら習得してきたわけではない。それはまさに言語全体の循環の中に参加していくプロセスだった。よく訳の分からない状態で言語使用のただ中に放りこまれる。そしてつながりあった論理形式の網の目を調整し、拡大しながら、いまに至っている。その結果、まがりなりにも、「猫」の論理形式ぐらいは胸をはって知っていると

こうして子どもが言葉を学んでいく過程は、同時に、世界から対象を切り分けていく過程でもある。赤ん坊は最初から物たちの世界に生きているわけではない。周りで使用される未分節の命題が名に切り分けられ、その論理形式が網の目全体としてしだいに明確になってくるにつれ、対象もその姿を明確にし始める。これが、われわれが対象に到達する方法に他ならない。

目の前の光景の内に、たとえば一匹の猫、ミケを認める。だが、そのことはすなわち、ミケが他の場所に動いていったり、ミケがもっとスリムだったり、いまは寝ているミケが起きて走りまわっていたり、さまざまな可能性を通じてミケがひとつの個体であるという了解を背後にもっていなければ成り立たないことである。すなわち、眼前の事実から対象を切り出すには、その対象がどのような可能な事態の内に現れうるかを了解していなければならない。他方、可能性は言語によってのみ開かれる。ミケという対象の可能性は、「ミケ」という名がどのような命題によって現れうるかという可能性、すなわち「ミケ」という名の論理形式としてのみ、捉えられるのである。しかも、ある名の論理形式はその名だけ単独で与えられるものではなく、他の名とともに、言語全体の網の目として張られるしかない。かくして、対象に到達するにも、言語の全体が要求されるのである(73-74ページ)




■『論理哲学論考』の中の言語使用的意味論

よく私たちは、後期ウィトゲンシュタインの『哲学的探究』を、前期の『論理哲学論考』の完全な否定として捉えがちです。『哲学的探究』の有名な意味論が「語の意味とは、言語内でのその語の使用である」(Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache. - The meaning of a word is its use in the language.)(43節)である以上、そのような意味論の使用説は前期の『論理哲学論考』にはでてこないのではないかと思ってしまいますが(私もそう思っていました)、野矢先生が解説するように、言語習得の複合的・循環的全体性が『論理哲学論考』で論じられている以上、使用説的意味論は ―あるいはその根源的な形は― 『論理哲学論考』にもあります。具体的には3.26とその補助命題です。


3.26 定義を用いて名をさらに分解することはできない。名は原子記号である。(岩波28ページ)

3.261 定義によって導入された記号はすべて、その定義に用いられている記号を通して [複合的なものを] 表現する。定義はそうして [複合的なものに至る] 道を教える。
原子記号、および原子記号によって定義された記号、この二種の記号が同じ仕方でものを表すことはありえない。名を定義によって他の記号へと分割することはできない。(他の記号に依存することなくそれだけで意味をもつ記号を、定義によって他の記号へと分割することはできない。) (岩波28ページ)

3.262 記号において表現されえないことを、記号の使用が示す。その記号が呑み込んでいるものを、記号の使用が表に現す。(岩波29ページ)

3.263 原子記号の意味は解明によって明らかにされうる。解明とは、その原子記号を命題において用いることである。それゆえそれらの記号の意味にすでになじんでいるひとだけが、解明を理解しうる。(岩波29ページ)

3.26 Der Name ist durch keine Definition weiter zu zergliedern: er ist ein Urzeichen.

3.261 Jedes dininierte Zeichen bezeichnet ü b e r jene Zeichen, duruch welche es definier wurde; und die Definitionen weisen den Weg.
Zwei Zeichen, ein Urzeichen, und ein duruch Urzeichen definiertes, können nicht auf dieselbe Art und Weise bezeichnen. Namen k a n n man nicht duruch Definitionen auseinanderlegen. (Kein Zeichen, welches allein, selbständig eine Bedeutung hat.)

3.262 Was in den Zeichen nicht zum Ausdruck kommt, das zeigt ihre Anwendung. Was die Zeichen verschlucken, das spricht ihre Anwendung aus.

3.263 Die Bedeutung von Urzeichen können durch Erläuterungen erklärt werden. Erläuterungen sind Sätze, welche die Urzeichen enthalten. Sie können also nur verstanden werden, wenn die Bedeutunggen dieser Zeichen beteits bekannt sind.


3.26 The name cannot be analysed further by any definition. It is a priminitve sign. (O)

3.261 Every defined sign signifies via those signs by which it is defined, and the defionitions show the way.
Two signs, one a primitive signs, and one defined by primitive signs, cannot signify in the same way. Name cannot be taken to pieces by definition (nor any sign which alone and independently has a meaning). (O)

3.262 What does not get expressed in the sign is shown by its application. What the signs conceal, their application declares. (O)

3.263 The meanings of primitive signs can be explained by elucidations. Elucidations are propositions which contain the primitive signs. They can, therefore, only be understood when these signs are already known. (O)


3.26 A name cannot be dissected any further by means of a definition: it is a primitive sign. (P/M)

3.261 Every sign that has a definition signifies via the signs that serve to define it; and the definitions point the way.
Two sigins cannot signify in the same manner if one is primitive and the other is defined by means of primitive signs. Names cannot be anatomized by means of definitions. (Nor can any sign that has a meaning independently and on its own.) (P/M)

3.262 What signs fail to express, their application shows. What signs slur over, their application says clearly. (P/M)

3.263 The meanings of primitive signs can be explained by means of elucidations. Elucidations are propositions that contain the primitive signs. So they can only be understood if the meanings of those signs are already known. (P/M)



すこし緩くさらに拡張して言い換えますと、こうなるでしょう。

もし仮にとても単純な対象があり、その対象にある名があり、言語を習得していない子どもがまず最初にその名を習得しようとするとしてみよう。子どもは、周りの大人からその名の定義を与えられることによってその名の意味を理解することはない。なぜなら定義は他の名の組み合わせによって構成されているからであり、子どもはそれら他の名の意味を知らないからだ。

しかし、子どもが、その名を含んだ発話が周りの大人によって有意味に使用される環境で、その大人にあたかもその子どもはその発話を既に理解できる存在であるかように取り扱われ生活を共にすることによって(Zone of proximal development?)、その子にとっては、だんだんとその語の意味がどんなものであるか解明されるようになる。この場合の「解明」とは、自分が既にできていること(ということは、理解しているし知っているはずのこと)のあり方がだんだんと明らかになってゆくこと(そしてその使用がますますうまくなること)であり、自分がまったく知らないことが定義によって新たに・突然に把握されるといった「説明」とは異なる。

複雑な意味の語は言語使用に長けていないと理解できない、というのは想像しやすいことであるが、単純極まりない意味の語すらも言語使用の中に入り込まないと理解できないということは考え難いことかもしれない。しかし「『X』って『あれ』さ」というこれ以上単純にできないぐらいの直示的定義(ostensive definition)ですら、聞く者は「あれ」が何であるのかを容易に理解できないのは、後期の『哲学的探究』が示す通りである・・・。(このあたりの議論は、後日、稿を改めて行います)。

「解明」について、野矢先生は次のように述べています。


それ [=解明] は何も知らない人に何ごとかを教えようとする「説明」ではありえない。すでに名を用い、命題を使用できている人だけが、自分のやっていることを明確にすべくそれを反省し、整理して、自分の言語使用を解明することができる。それは積極的に循環の中に入り込むことにほかならない。(272ページ)


いずれにせよ、『論理哲学論考』が言語習得の複合的・循環的全体性を語り、語の習得のためには、(あたかも既にその語を理解しているように)その語を言語共同体の中で使用しなければならない、といった考えを示しているように思えることは、強調しておくべきでしょう。




■語りえないことを語り続ける

そうして言語使用に私たちの考察を向けてゆくと、メタファーのことが気になってきます。メタファー(特に「隠喩」)は、語の論理形式に違反するような言語使用でありながら、ナンセンスに聞こえないからです。野矢先生は次のように述べます。


この方向で考察すべき話題はまだ数多く残されている。たとえば、いま私にぼんやりと見えているひとつの主題は「比喩」である。「山が笑う」のように言ったとき、この比喩表現を知らない人にとってはこれはただのナンセンスでしかない。「山」も「笑う」も知っている。しかし、その組み合わせを許すような論理形式はまだ知らない。そこでたとえばある人と浅い春の日を歩いているとき、その人が「山笑うって感じだなあ」などと口走ったとしよう。そのときそこに、何か未知の意味があると思うだろう。そしてそれが無効に見えている山の、まだ白っぽい緑のうぶな情景を表すのだと知るとき、「笑う」としか形容しようがない山の表情が論理空間の中に新たに組み込まれることになる。この比喩は歳時記にも載っている定型表現であり、いわゆる「死んだ比喩」であるが、ひとはときにまったく新しい比喩を使う。それは数学の問題がそうであるように、「私に意味を与えてみよ」という挑戦として、聞き手の前に現れる。そうして新たな比喩は、論理空間の外にいる意味の他者の声となるのである。(319-320ページ)


このように私たちの既知の論理形式に違反するような言語使用は、前期ウィトゲンシュタインにとっては(確証はありませんが)「語り得ぬもの」だったのかもしれません。だからウィトゲンシュタインなら、私たちは「沈黙せねばならない」と宣言するかもしれません。


7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。 (岩波149ページ)

7 Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.

7 Whereof one cannot speak, thereof one must be silent. (O)

7 What we cannot speak about we must pass over in silence. (P/M)


しかし、私たちの論理形式を、ひいては論理空間を揺るがすような比喩は私たちの言語生活の中で確固とした役割を果たしています。「言語の創造性」といえば、私たちは言語における統語論のrecursionのことを第一に考えますが、意味論のmetaphorも言語的な人間の創造性の源であるともいえるでしょう(このあたりと「教師の成長」の関係を、ひつじ書房の『成長する英語教師をめざして -- 新人教師・学生時代に読んでおきたい教師の語り』で書きました。お読みいただけたら幸いです)。

私たちは新しい表現を、例えば比喩で作り出し、その有意味な使用において、私たちの言語使用、ひいては思考の可能性を豊かにします。野矢先生も、ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」を「語りきれぬもの」とした上で、次の言葉を本書の結びの言葉にしています。


語りきれぬものは、語り続けねばならない。(323ページ)




この虎の威を借りて、狐の私としては、このような駄文を書き連ねることの言い訳としたいと思います。


おそまつ。





















2012年1月14日土曜日

介護、武術、そして教育




「英語教育」という看板を掲げながら、武術ヲタのような話ばかりをするこのブログに愛想をつかしかけている方もいらっしゃるでしょうが、そんな方にトドメをさすために本日は介護の話をします(笑)。

というより、本日読んだ医学書院の「かんかん! 看護師のためのwebマガジン」の記事があまりに素晴らしかったので以下に紹介する次第です。

教室や学校における身体のあり方の重要性をすでに痛感されている方は、そのまま原文を読んだほうがいいかもしれません。



「介護されるプロ」、古武術介護を体験する
http://igs-kankan.com/article/2012/01/000540/



以下は、ほんの少しだけ身体について考え始めた私が私なりにまとめたものです。私は、近代競技スポーツの一種となってしまった「スポーツ武道」ではない、昔からの武術を教えていただく中で身体の重要性をようやく自分の身体で実感できるようになりました(このわずかの実感さえなかった以前の私ってどんな心身だったんだろう。まあガチガチの我意マシーンだったのだろうなぁ。離婚もするしうつ病も患うわけだw)。

私は武術を学ぶ中で、身体が緊張するとは何か、「力む」とは何か、「力みを捨てる」とは何かなどということを考え続けています。これらの理解により、力みのない身体(ひいては心身)とならないと、武術の技などできないからです。

そのような問題意識を持つ私には、生まれつきの脳性まひという障害で「起床から身支度、排泄、入浴に至るまで、生活全般において他者の物理的な手助けを必要として」おり、かつ「極度に緊張しやすい」熊谷晋一郎氏の、自分自身の「緊張」の現象を記述した文章は、非常に勉強になりました。



■「緊張」の三側面

熊谷氏は「緊張」という現象を、「自明だった動きパターンの崩壊」、「動きの自由度の減少」、「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」の三側面から説明します。



■「自明だった動きパターンの崩壊」

第一の側面は、緊張で過剰に自意識が発動してしまい、無意識(非意識)の動きが阻害されてしまうものです。


緊張しているときの体の動きは、それまで半ば無意識に、自動的にこなせていた歩行や姿勢維持といった基本的な運動パターンがわからなくなり、次にどちらの足を動かすべきか、などの一挙手一投足の選択決定に、意識が張り巡らされた状態になっている。


武術でしたら、技にダメ出しをされたことなどがきっかけとなって、うろたえ緊張し、自分の動きを過剰に意識してしまい、これまでできていたことまでもが急にできなくなることなどがあります。

身体技能としての英語使用でしたら、私は初めてアメリカに行ったことを思い出します。実は私が初めて渡米したのは9.11以後でした。アメリカでの入国審査が厳しくなったという話をさんざん聞いていた私は、アメリカでパスポートを提示した時にかなり緊張していました(私にはかなり心配性のところがあります)。その緊張状態で入国審査官に「あなたが参加する学会のapplied linguisticsとは何のことか」と問われた時に、私はてっきり疑いをかけられたのかと思いガチガチに緊張してしまいました(書きながら、今思い出しました。私はドイツで列車に載っている時に、不法移民と疑われ私服警官5人にいきなり取り囲まれてひどく驚き緊張したことがあります。アメリカ入国の時にも無意識レベルでそのことを想起していたのかもしれません)。

そう緊張しているとまあ自分でも驚くぐらい英語が喋れなくなりました。私は先日受験したTOEFL-ITP試験では677点(リスニング68、ストラクチャー68、リーディング67)を取るぐらいの英語力はもっていますが(この記事末尾の「追記」を参照)、もうまともに文構成すらできず、しどろもどろになってしまいました。後で考えると私は列の最後尾で、その日は暇だったのか、審査官は世間話をしようとしただけなのでしょうが、まあ、緊張するとこんなにもパフォーマンスが低下するものかと自分でも驚きました。ですから緊張すると「自明だった動きのパターンが崩壊」するということはよくわかります。皆さんも似たようなご経験はおもちでしょう。



■「動きの自由度の減少」

第一の側面に続いて、熊谷氏は第二の側面である「動きの自由度の減少」を説明します。


それと同時に、体全体がしなやかさを失って、硬い棒のようになる。例えばリラックスしているときならば、全身にたくさんある関節や筋肉をそれぞれバラバラに動かすことができるが、緊張すると、一つの部分を動かそうとすると他の部分も連動し、一体化して動いてしまうのである。


武術でしたら「びびって」あるいは「あがって」緊張してしまって、身体がガチガチになった状態でしょうか。下手をすると可動点が少なく可動範囲も小さなロボットみたいな動きしかできなくなってしまいます。

熊谷氏もこの「動きの自由度の減少」が非常に大きな問題となることを述べています。


体が緊張すると何が問題か。それは、緊張の二側面のうちの一つ、「動きの自由度の減少」にかかわっている。一つの身体が、重力や、外界にある様々な道具や起伏のある地形などとしなやかに関係を取り結びつつ、自らの動きを生成し続けるためには、身体の内部に柔らかな自由度がなくてはならない。もし体が岩のようにがちっとした一塊ならば、動きのレパートリーは「転がる」か「砕け散る」かぐらいしかなくなってしまうのだ。そして私の身体は、岩ほどではないにしても、その硬さによって外界としなやかな関係を取り結ぶことが難しいのである。


武術で緊張してしまったら、例えば相手の攻撃を受けようとしても、自分が一塊の剛体みたいになって、一定程度までは踏ん張っても、その臨界点を超えたら、急にバターンと倒されてしまいます。しかし「力みを取る」ことができていたら相手の攻撃に柔軟に合わせながら自分のバランスを失わず、相手の動きと自分の動きを調和させ、さらにはいつのまにか相手のバランスを失わせて崩すことすらできます(私はまだほとんどできませんが)。

言語使用で考えますと、緊張してしまったら顔がこわばり、言葉も滞りがちになり、準備していた言葉や常套句をかろうじて発語するだけになってしまいます(こうした緊張に備えて、多くの人は大舞台でのスピーチなどには、読み上げれば済むだけの完全原稿を手元に用意します)。緊張していなかったら、当意即妙に言葉が出てくる人も、緊張してしまったら言葉につまることは私達もよく経験することだと思います。



■「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」

緊張しやすい熊谷氏は、このように「自明だった動きパターンの崩壊」、「動きの自由度の減少」をしばしば経験します。それでいて、「まったく無防備な自己の身体を、他者に預け続ける」ことが必要なわけですから、熊谷氏には「それなりの怯えと覚悟が必要」となります。

その中で生じるのが、緊張の第三の側面である「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」です。第一、第二の側面と違って、この第三の側面は肯定的な働きを持ち得ます。

ですから私は、この「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」という第三の側面は、常に緊張状態の中で他人の介助に頼らなければならない熊谷氏が発達させた側面だと考えます。第一・第二の側面である「自明だった動きパターンの崩壊」と「動きの自由度の減少」は、通常の人間が覚える「緊張」を構成する要件として考えられますが、第三の側面の「入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされる」は、熊谷氏が自らの緊張状態時に発揮することを学んだ側面であると私は理解します。この側面は、熊谷氏の緊張に伴うことはあっても、通常の人間の緊張には伴わないからです。

いわば「介護されるプロ」として、熊谷氏は、緊張しながらも、以下のように感性を研ぎ澄ませます。


たとえば、はじめて出会う介護者に身体を触れられる時などは、全身の感覚が研ぎ澄まされ、タッチの柔らかさやリズム、しなり、フィット感などから、その介護者についての情報をなるべくたくさん得ようとしている。緊張は、先ほど述べた二つの側面に加えて、入ってくる情報についての感度が研ぎ澄まされるという、3つ目の側面を持っているといえるのかもしれない。恐る恐る触れてはすぐに引っ込める、弱腰の介護者がいるとおもえば、物を扱うようにやる、侵入的な介護者もいる。終始かったるそうな人もいるし、善意だが不器用な人もいる。たとえが適切かわからないが、そのとき私の身体は、ちょうどセクシュアリティーに匹敵するような繊細さで、情報を収集しているのである。


さらに熊谷氏は、「≪能動的に触れられる≫工夫」をします。介助者に、突然一方的に触られてしまうのではなく、介助者の意図を察知しその意図を自分でも共有しつつ触らせ・触られるようにするわけです。


誰でも、不意に触れられた時というのは、「その感覚がなにものであるか、それに対して次に何をすべきか」という意味付けが間に合わず、びっくりするものだ。逆に能動的に触れるときは、意識をこれから触れる対象に照準し、視覚聴覚など五感を総合しながら触れるため、意味付けが容易で驚くことは少ない。

介助が生活必需品である私は、他者に触れられる機会が多い。先ほど述べたように受動的に触れられるというのは怖い事だから、工夫が必要になる。そこで私が重要視しているのは、触れられる前の意図の共有である。つまり、意図を共有することで受動性をなくし、≪能動的に触れられる≫工夫が必要なのだ。


この≪能動的に触れられる≫工夫が特に必要になるのは、例えば駅で見知らぬ人に介助を頼まなければならない時です。熊谷氏は周りの人を見て、その視線の合い方で、進んで介助してくれそうな人を見つけ出します。見つけ出すといってもそれは一方的なものでなく、介助してくれそうな人は、視線の共有によって熊谷氏にその意図を伝えています。いわば、二人が同時にお互いを見出すわけです。

熊谷氏はそのような人に介助を願います。


こちらが「いける」と思える人は、介助に対する能動性を発している。体の構えは、いつでも動けるように前傾姿勢でスタンバイしている。そういう身体の一挙手一投足をじっと見て取り込み、その人になったつもりで頭の中で再構成し追体験すると、相手の意図が読めてくる。まるで相手を自分に「憑依」させるような感覚だ。熊谷が能動性を失わずに触れられることを可能にできるのは、この「憑依」ともいえる状態が実現されたときである。

相手の「能動的な意図」が私に憑依すると、私の身体もモゾモゾと構えを変え始める。介助してほしい身体部位に意識が集中していくのが分かり、介助されやすいような姿勢に体が組み換わっていく実感がある。



■武術に本質的な感性・感知・感応、そして「水月移写」

このあたりの熊谷氏の記述は、まるで武術の記述かとも思わされました。合気道系の接触技(あるいは中国武術での「聴勁」)では、触り触られる中で相手の意図を(それどころか時には、相手がまだ自分でも自覚できていない意図までも)感知しそれに感応して動きます。あるいは非接触系の武術でも、達人は相手の心身の動きを、即そのまま自分の心身に写しこみます(いわゆる「水月移写」です)。

通常、「カウンター」攻撃といえば、(1)「相手の攻撃動作そのものへのカウンター」、を指します。相手の攻撃行動が開始された後に相手よりも速い自分の攻撃行動を開始して相手に打撃を与えます。これには相手の動きよりも自分の動きが「速い」必要があります。

しかし「カウンター」にはあと二種類あります。二つ目のカウンターは、(2)「相手の攻撃動作の起こり」に対するカウンターです。相手の攻撃動作が本格的に開始される前の微細な動きを感知しそれに対して反射的にカウンターを与えるわけです。

三つ目のカウンターは、(3)「相手の攻撃しようという意志」に対するカウンターです。(2)の微細な動き以前・以下でしか現れない、相手の意志の動きを自分の心身に移写しそれに感応してカウンターをするわけです。(「相手の意志を自分の心身に移写」などというと非科学的に聞こえるかもしれませんが、ベンジャミン・リベットが『マインド・タイム 脳と意識の時間』で言うように、人間は、自らが身体を動かそうという意志を自覚するよりも約0.5秒前に既に神経活動を開始しています。ですから卓越した達人が、その神経活動のほんのわずかの体現を、常人にはとても察知できない微細なレベルで感知しそれに反応することは、科学的にも十分考えられることです。というより実際問題としても、この三番目のレベルのカウンターを実際に行なっている武術の達人は現在もいます)。

一つ目のカウンターが「速さ」(=動作そのものの速度)に依拠しているのに対して、二つ目と三つ目のカウンターは「早さ」(=動作の開始タイミング)によるものです。二つ目のカウンターは、相手の攻撃行動が本格的に指導する前の「早い」時点でカウンターを始めています。三つ目のカウンターにいたっては、相手が自分の攻撃意図を自覚するかしないかの非常に「早い」時点でカウンターをします。ですから相手としてはもう何が何やらわからないうちにやられてしまう格好になります。(以上の「カウンター」に関する記述は、日野晃先生の『武術革命―真の達人に迫る超人間学』の209ページの記述を参照・参考にしたものです)。

三つ目のレベルのカウンター攻撃は、上記の「水月移写」レベルの心身をもっている人(注)のみができるものでしょうが、まあ、そこまでは言わずとも身体が非接触状態でも、人間は相手の意図を感知することができます(これは、相手の心を推量する・理論的に予測するなどという「賭け」ではなく、相手の心身と自分の心身を同調させる外れることのない感応です)。非接触時でもこうなのですから、相互の身体が接触している時には、相手の心はより読みやすいでしょう(武術ヲタでない方、お待たせしました。熊谷氏の話に戻ります)。




■相互協調する複数の心身

熊谷氏を駅でたまたま介助をすることになった人は、多くの場合、介助になれていないでしょうから、熊谷氏は接触している身体を通じて、相手に非言語的に自分の意図を伝え、リードします。しかし常にそうであるわけではありません。


基本的には私が司令塔ではあるが、いつも私がリードする訳ではなく、時には介助者がリードする局面もある。そんな時でも互いに憑依した状態ならば、自分で自分に触れる時と同じように触れる意図、触れ方、触れられる感覚が予期できているから、怖いということはない。しかし、憑依から外れて意図が読めなくなると、急に皮膚の予期しない場所に、予期しない刺激が、予期しないタイミングで訪れるため、びっくりしてしまう。そして再び意図の結びなおし作業が必要になってくる。


このように感性に優れた二人の場合は、接触面を通じてお互いがお互いの意図を読み取り、修正し、相互協調的に意図を合わせてゆきます。次は、古武術を基に介護技術を開発している岡田慎一郎氏に介助された時の熊谷氏の記述です。


2秒か3秒程度、私の体を這いずり回った手は、やがて答えをはじき出したかのように、ひとつのまとまった運動を形成し始めた。それは、意志が確定した瞬間のように私には感受され、私自身も「よし、もちあげられよう」という意志が同時に固まった。その瞬間、めったにないような軽やかさで、体がふわりと宙に浮いた。自明な動きパターンの崩壊だけでは具体的な動きを形成できない、しかし、動きの自由度の減少だけでは相手の体としなやかな関係を取り結べない。あくまでその両方に引き裂かれる緊張の中で、そのつど、相手となじんだしなやかな動きが即興的にうみおとされていくのである。


もちろん、そもそもが異なる心身である二人が、いつも完璧に同調しているわけではありません。しかし同調が崩れた時も、二人の心身は協調的に同調を取り戻そうとします。


私は岡田氏が「持ち上げよう」と意志を固めた瞬間に、同じように「持ち上げられよう」という意志を固める。しかし、実際の持ち上がり方がにぶいものだった場合、その情報は岡田氏の脳だけではなく、自分の脳にも届けられる。介護者の重みや疲れを被介護者も同じように感じられる時というのは、二人の意志が共鳴しているだけではなく、二人の身体が効率よくエネルギーや情報を伝えあう協応構造を形成しているのだろう。


こういった介護の現場から、人間の身体には相互を感知し合う優れた能力があることがわかります。この能力の存在は武術の現場からもわかることは上で述べた通りです。武術家の甲野善紀先生が最初に介護のことを語り始めた時に、私も武術と介護のつながりを理解することができませんでしたが、身体を最大限に働かせようとするなかで、介護と武術は繋がってゆきます(強弁をしますと、究極の武術とは、邪気と敵意を持った相手を介護し、相手のその邪気と敵意を祓ってやることとすら言えるかもしれません)。




■相対する心身の現象としての授業

強弁ついでに、授業という教育活動について考えてみましょう。授業を単なる情報伝達の場と考えて、授業を機械に代行させることができるものとみなすこともできますが、現場教師にとっては、授業とは、必ずしも学ぶ気になっていない学習者(時にはあからさまな敵意さえもっている教室の囚われ人)に学びを誘発する行為とみなした方が納得がいくのではないでしょうか。

しかしその「誘発」が容易ではないので、多くの教師は力づくで学ばせる途を選びます。その力には、教師の大きな体格、突然の物音・音声、高圧的な態度、権力による脅し、不安にさせることによる支配などさまざまな力がありますが、どれも学習者の心身の状況にかまわず、一方的に押し付ける点で共通しています。そして私たちはそのような手段でとりあえず学習者をコントロールできる教師を時に「教育のプロ」と呼んでしまいます。

もちろんそのような「教育のプロ」などというのは、真の達人ではありません。いや「達人」という言葉を出すまでもなく、そのような力ずくの教師は、同じようなSM的感性をもった一部の成功した学習者を除いて、学習者に慕われることがないでしょう。さらに重要なことは、学習者はその先生のもとを離れたら、おそらくはその学びをやめてしまうでしょう。たとえその先生の前ではよい点を取っていたとしても。

介護の世界にも、そのような悪い意味での自称「プロ」がいるようです。熊谷氏はそのような人に対して批判的です。


経験上、「腕に覚えのある介護のプロ」と自認をしている人に対して、私は良い印象を持っていない。自称「介護のプロ」の中には、《オレ流》を押し付けてくる人が多いという偏見をもっているためである。それは、過剰な自信によって介護者自身に緊張が不足しており、被介護者の身体から発せられる情報を拾わずに、あらかじめ決められたやり方を遂行する介護状況だから、情報の流れが「介護者→被介護者」と、一方向的になる傾向がある。そのような介護者の手は、道具ではあっても、探知機にはなっていないと思っている。


究極の教育とは、別々であった二人の人間が、学ぼうとする心身として互いに同調(あるいは共鳴)すること、と言えるかもしれません。最初は教師にだけあった学ぶ心身が、学習者にも伝播します。伝播といっても一方的なものではなく、教師は学習者の心身に合わせて自分の心身を同調(あるいは共鳴)させます。だから学習者は自分は理解されたとも思いますし、先生を理解したとも思います。そうやって学習者の心身が学びについて整えられたら、おそらくはその学習者はその先生のもとを離れても、学び続けるでしょうし、学びの喜びを他人にも伝えるかもしれません。

このセクションの私の教育論は、青臭い理想論・観念論のように聞こえるかもしれません。いや実際、教師としても、武術を稽古している者としても駄目な私が語っている以上、これは理想論・観念論にすぎません。しかし、教育とはどうあるべきかという理想・観念があまりにも失われているように思える昨今、このように、他分野の現象記述を参考にしつつ、教育という分野で人間の心身が本来なしうることを模索しようとすることも決して無意味ではないと思います。

まあ、難しいことを言わずとも、私達の身体はこわばっていませんか。あるいは学習者の身体は。教師と学習者の心身が伸びやかな教室を私たちは望みたいと思います。


















(注)
「水月移写」は「うつるとも 月も思わず うつすとも 水も思わぬ 猿澤の池」(あるいは「広沢の池」)という道歌から来ていますが、日野晃先生は、『武学入門 武術は身体を脳化する』で、この「水月移写」を達人の核として次のように解説しています。


その核とは、色々な武術資料等に残る「水月移写」という言葉であり、(もちろん精神を支えとした身体状態である。

この言葉の実体は、意識や無意識領域、そして肉体の隅々までも安定させていれば、自分の身体に全てを写し出すことが出来る、ということになる。

一般的には「月は水に写ろうとして写るのではなく、水は月を写そうとして写しだしているのではない」、つまり、こちらの意識や無意識領域を含んだ全てが水面のように安定していれば、感じようとしなくてもごく微妙な水面のざわめきも感じ取ってしまう、ということであり、心を鏡のようにすれば全てはそこに写し出される、という訳になっている。

この「水月移写」という身体状態は、人間を「生物」というレベルにまでコントロールする。そうすることで、生物としての「反射」を可能にするのだ。

しかし、これは一般的に言われる、運動としての「反射神経」というレベルではない。運動としての反射は、いわゆる動態視力的なものを指し、「具体的肉体運動の起こり」に対しての資格情報からの運動だ。

達人の「反射」は、そういった動態視力を介在した反射なのではなく、相手の意識の揺らぎに対しての「反射」だ。つまり、運動が起こる以前の意志や意識に対しての反射である。

だから、この「生物反射」と「武術的運動」が組み合わされているのが、名人の体術の核ということになるのだ。(48-49ページ)


このような無意識的反射としての「水月移写」を、日野先生は医療場面にも見出します。


例えば、いくら治療の技術が卓越していようが、その治療家(医者も含む)が気遣いのない人間であれば、また、思い込みをはじめとする観念的なことが先走っている人、そして、対立・対抗的な人(総称で言えば、幼稚で傲慢、人との関わりを全く分かっていない人)だとすると、大方の病気の方は無意識的に「緊張」という反射を起こしてしまう。そうすると、いくら治療の技術が卓越していようが、病気の方はまずはじめに「緊張」し、そのことによって無意識的なところで拒否反応が出てしまうので、結果として良い治療の結果が得られない。さらに悪いことには、人との関係を全く分かっていない医者は、病気の方に対して「不快感」を与えることになり、治療以上に逆の作用を与えてしまうことにもなるのだ。もちろん、こういった無意識的なことなので、患者側も敏感に察知できる方とそうではない方とに分かれるが、察知できないからといって、悪い高価がないのではない。ただ察知できないだけなのだ。(160ページ)


このような話を聞くと「はあっ?そんなのエビデンス出してから言ってくださいよね」と馬鹿にする人もいますが、私は上の幼稚で傲慢な医者などとは正反対の人を実際に知っていますので、このようなことはあることだと思えます。私が知っているその方は、多くの人に思慕され、その人が来ただけで場が和むような人です。― と、こう書きながらその方のことを思い出していると、その方とは正反対のような人のことも思い出してしまいました。そのような人が来たり、声が聞こえてくると、確かに私などの身体は微かながらも確実に緊張します。

と、私のことはさておき、このような身体論をする時に大切なのは、やはり


「身体の実感に自分の頭が素直に従えるだけの柔軟性があるのか?」(221ページ)


ということでしょう。




追記 (2012/01/18)

ある学生さんが教えてくれたのですが、TOEFL-ITPでの677点というのは満点なのだそうです。私のスコアはリスニングとストラクチャがそれぞれ68点でリーディングが67点だったので、私はリーディングを一問間違えたかと思っていたのですが、これらのスコアは全部満点でした。

TOEFL-ITPのスコア表(2012年1月18日にダウンロード)
TOEFL-ITPの公式ホームページ
http://www.ets.org/toefl_itp/content/

「嘘つけ!」と疑う人のために、念のためのスコアのコピー(笑)
TOEFL-ITP(2011年12月17日実施)柳瀬のスコア







2012年1月13日金曜日

白井恭弘 (2012) 『英語教師のための第二言語習得論入門』大修館書店



『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』 (岩波新書)の時と同様、この本の草稿を読ませていただくことができた御縁で、この『英語教師のための第二言語習得論入門』もいち早く入手することができました(よく言われることですが、ゲラ刷り原稿ときちんと製本された書籍というのは、まったく違って見えるものです。総合作品としての書籍はやはりいいものです)。

冷静に第二言語習得論を考えるということは、「明日から使える授業のテクニック」などを求めて東奔西走し右顧左眄することよりも、はるかに実践的で現実的だと思います。この『英語教師のための第二言語習得論入門』は、タイトルが示すように、前作の『外国語学習の科学―第二言語習得論とは何か』 (岩波新書)よりもはるかに親切に第二言語習得論が教室現場にどのような意味合いをもつかを解説してくれています。こちらを先に読んでから岩波新書を読むと、第二言語習得論という科学の実践的意味合いがより理解できるでしょう(科学と実践は、直接的・直線的には結びつきませんが、科学の理解は実践の洞察力を深め、実践の経験は科学に展開を促す批判的な問いを与えます)。

値段も安いこともあり、この二冊は英語教師必携・必読の、専門的教養書といえるかと思います。まあせめて、このくらいは買って読みましょう。