福島哲也先生(追手門学院大手前中学校・数学)の影響で西川純先生の本を数冊読みました。
西川先生は多くの本を出版されていて、ご自身でもどの本を先に読むべきかの指針をお示しですが(例えばこれ) 、ここでは「とりあえずはこの三冊を読んでみたらどうですか」と福島先生に薦められた三冊と、私がKindleで見つけた一冊について私なりのまとめをしておきます。今は個人的にとても忙しいのですが、4月からの授業のあり方について考えておく必要があるため、今まとめをしておく次第です。
西川純 (2016) 『学び合い』の手引き ルーツ&考え方編』(明治図書)
『学び合い』と『 』で表記された「にじゅうかっこのまなびあい」とは、現在さかんに言われているいわゆる「学び合い」とは異なる西川先生の考え方による教育方法を指すことばですが、この本ではその『学び合い』とは何かを知りたいために書かれ、その成立史も踏まえて『学び合い』について説明された本です。ある意味『学び合い』のハウツー本よりも実践的な本なのかもしれません。
成立史の中では西川先生の学部時代の頃のことから書かれています。西川先生は学部時代はいわゆる理学部系の学部(筑波大学第二学群生物学類)で生物学(生物物理学)を専攻し、大学院から教育学に転向しました。そこで驚いたのは理科教育学の学術論文の多くが、理学部の常識では考えられないぐらいの低いレベルであったことです。それならばと西川先生は自分でしっかりとした研究を始め、修士論文は二つの学会誌に掲載され、また理科教育学では最も古くからあるアメリカの雑誌にも投稿しそこでも掲載されるに至りました。(西川純先生の業績)
西川先生はそれから東京都の定時制高校で物理学の教師として働き始めます(実際には生物学・生物学・地学も教えたそうです)。しかしそこで働き始めて一週間でわかったことは大学および大学院で学んだことは、「学ぼう」という構えのある子には有効であっても、そうでない子にはまったく使えないというとでした。落第の可能性で脅しても、理科の有用性を説いても、理科の素晴らしさを訴えても通じず、生徒が言う理屈の方がもっともだと思えるような始末でした。
その定時制高校時代で西川先生が学んだ「教育がいかにテレビドラマのようにはならないのか(あるいはテレビドラマのようにしてはいけないのか)」は非常に深く、学ぶべきことが多いのですが、ここでは割愛し、西川先生が大学に戻ってからのことについて書きます。大学でとにかく論文を書くことを求められた西川先生は次のような事態に陥ります。
とにかく論文を書きまくらなければなりません。論文を書くには物事をシンプルに考えねばなりません。現実の教育はゴチャゴチャしすぎています。それに寄り添えば論文は書けません。そこで、私は教育研究者であるのに、教師の心さえも封印してしまったのです。いや、教育研究者であるからこそ、教師の心を封印したのです。(p. 25)
そうして他人の何倍もの業績を出版し研究者としての地位を確立したた西川先生は、1996年に「教師として納得できる研究をやろう」と決意します。このあたりの経緯の詳しいところも省略しますが、ある時西川先生は、すぐれた実践家であるN先生の分析を通じて、自分自身が「子どもが変わるのは、教師が指導したからだ」という思い込みにとらわれていたことに気づきます。N先生のクラスでは生徒が自由に立ち歩き『学び合い』を成立させているのですが、それは教師が子ども指導をしたからではなく、教師が子どもの邪魔をしなかったからだということを悟った瞬間、西川先生はN先生の授業について卒業論文で研究している学部生の前で涙を流してしまったそうです。(p. 38)
ちなみに、ここにも世間一般で流通している「学び合い」と西川先生の『学び合い』の違いが表れています。「学び合い」について西川先生は言います。
それら[=「学び合い」]は「子どもは教えなければ学び合わない」という前提で書かれています。しかし、これは生物学的にはとてもおかしな事です。なぜなら、ホモサピエンスという生物は群れで生活し、それを武器にして生存競争に打ち克ちました。どう考えても、猿人の時代に学校教育があるとは思えません。組織的な教育がないにもかかわらず、ホモサピエンスは群れで生活し、知恵を群れの仲間に伝えていたはずです。 (p. 39)
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Homo Pedagogicus: The evolutionary nature of second language teaching
https://doi.org/10.1017/S0261444816000458
Natural Second Language Pedagogy? Dwight Atkinson教授の講演から
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/08/natural-second-language-pedagogy-dwight.html
自然であれ -- 人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/08/blog-post.html
話を西川先生の「教師として納得できる研究」に戻しますと、西川先生は研究を通じて子どもたちは授業を通して教師の人柄を見ているという、ある意味当たり前なのだけれど教師・教育研究者は都合よく忘れている事実を再確認します。
このように学習者は教師の「心」を見ているのですが、さらなる研究でその「心」とは、「教師が本気で全員が分かることを願い、その結果として、それが成り立ったかを評価するという、とてつもなく当たり前のことを本当にやるか否かであった」 (p. 47) ことを突き止めます。子どもは教師の心の鏡であることを確信した西川先生は、より一層、教育方法のテクニックだけについて考えるような(大多数の)教科教育研究から離れてゆきます。
考えてみれば教師・教育研究者が好む「良い方法は何か?」という問いかけは、子どもの多様性を考えると「誰にとっての良い方法か?」と問い直さねばならないでしょう。万人にとっての良い方法を求める研究には無理があるのではないでしょうか。これは大きな発想の転換ですから、教育研究者は丁寧に考えるべきだと思います。
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Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/introduction-of-end-of-average-by-todd.html
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https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/ch1-of-end-of-average-by-todd-rose-2017.html
いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html
※ このThe End of Averageの残りの章についてまとめる時間が欲しいです!
そこで西川先生は「良い方法は何か?」ではなく、「良い方法を見いだせるのは誰か?」と問いかけを根本的に変えました(このような前提の根本的な変更ができるのが西川先生の--おそらくは自然科学の素養による--すごいところです)。そしてその後者の問いの答えは「本人であり周りの子ども」であることを西川先生は確信します。 (p. 82)
こうして研究を積み重ねることにより、2004年から2005年にかけて西川先生は『学び合い』についての考え方を確立します。簡単に言えばそれは、以下の三つを本気で信じて実践するということです。 (p. 72)
(1) 「一人も見捨てないという一貫した願い」
(2) 「多様な人と折り合いをつけて自らの課題を解決することが学校教育の目的である」
(3) 「子どもたちは有能である」
しかし『学び合い』の授業で教師が一斉型の説明をほとんど止め、学びを学習者に委ねてしまうと、教師の専門能力とは何なのでしょう。西川先生の考えは以下の三つです。 (pp. 99-100)
(1) 子ども全員を良き大人に成長して幸せになって欲しいと願えること。
(2) 学んでる教科が「素晴らしいことだ」と子どもに感じさせること。
(3) 子ども自身が「大人になりたい」と願うようにさせること。
これらを私なりに外国語教育に即して言い直すなら次のようになります。
(1') 学習者全員がよい多言語使用者(複合的言語使用者)になり幸せになって欲しいと願えること。
(2') 学んでいる外国語の意義を学習者全員に実感させること。
(3') 学習者全員がよい多言語使用者(複合的言語使用者)になりたいと願うようにさせること。
つまり、教師の専門能力とは、教科教育の内容や方法論を知ることなどを超えたもの、言ってみるなら「人の道」 (p. 101) であると西川先生は考えています。
しかし「人の道」といった道徳的表現はいかにもそれを語る私たちの自我を肥大させてしまいそうです。西川先生はこういった道徳が暴走することについても配慮しています。
西川先生は『学び合い』における「一人も見捨てない」が問題を起こすとしたら、それは「徳」で語るからだと指摘します。(p. 108) 西川先生は「一人も見捨てない」ことは「徳」の点からではなく「得」の点から進められるべきだと語ります。
たしかに、「一人も見捨てない」ためにやる気のないクラスメートに寄り添うことは局所的・短期的に考えれば「損」に思えるかもしれません。しかし、全体的・長期的に考えれば、クラスに協力する文化が普及することによってやがては自分も助けられるだろうし、自分自身もさまざまな人への対応能力をつけることで長い生涯で得をするでしょう。「一人も見捨てない」ことは結局は自分の「得」にもなるのだ--そしてやがては自分の「徳」にもなるのだ--と学習者には説明すべきであると西川先生はお考えになっていると私は理解しました。
総じて言うなら、非常に考えさせる本で、なおかつ私がこれまで他の著書や論文で学んできたこととも、優れた実践者の姿から感じてきたこととも一致する本でした。「教師がいかに教えるかが勝負である」といった自らの前提を、仮に一時的でも変えることができる教師はこの本から多くを学べると確信します。私もこれから自分なりの教育実践を積み重ねてはこの本に立ち返ってゆきたいと思っています。
西川純 (2018) 『学び合う教室: 教師としての学習者、プロデューサーとしての教師の学習臨床学的分析』(『学び合い』出版)
上の一冊および下に紹介する二冊は、忙しい教師向けに簡単に結論だけ書かれたような本なので、教育研究者の中には西川先生がそこまで断言してよいのかと疑念を抱く人も出てくるかもしれません。Kindle電子書籍で復刊されたこの本は、西川先生が学術的根拠を示しながら書かれた本の一冊です。
詳しい内容については省略しますが、私としては以下の三点について備忘録的にここに書き残しておきます。
第一点は、教師の三つの仕事についてです。西川先生はそれを (1)「目標の設定」、(2)「学習」、(3)「評価」と短く表現されていますが (位置No. 1380)、それらを私なりに言い直したのが以下の表現です。
(1') 目標:そのよさを実感してもらえる目標を設定する
(2') 環境:学ぶ環境を物理的・社会的に整える
(3') 評価:目標と学びに即した評価を行う
第二点は、まったく集団的行動が苦手な学習者などへの配慮(位置No. 2729)の必要性です。これについては今では西川先生の他の著作で十分に説明はされていると思いますが、それらをまだ読んでいない自分としては忘れてはならないこととしてここに記しておきます。
第三点は、「何をしないか」を考えることの重要性です。西川先生は次のように言っています。
そのため、「 学び合い活動を促進・維持するための指導法はどうあるべきか」という問いから出発するのではなく、「何が学び合い活動を阻害しているのか」という問いから出発する方が実り多いと信じている。そのような考え、問いで行き詰まった先に、教師の存在意味が自ずとみえるのではないか。まず、「教師が存在しなければ」では、教師の本当の存在意味は永遠に見えない だろう。(位置No.2765)
この点は、いわゆる「無為」の重要性とも重なることかとも思います。これについては私自身少し考えを深めたいと思い、ここにメモを残しておく次第です。
参考記事
Trying Not to Try: How to Cultivate the Paradoxical Art of Spontaneity Through the Chinese Concept of Wu-Wei
https://www.brainpickings.org/2014/04/21/trying-not-to-try-slingerland/
電子書籍ということで価格も安いこの本は、『学び合い』について教育研究者が最初に手に取る一冊としては適切なのかもしれません。
西川純 (2015) 『子どもが夢中になる課題づくり入門』(明治図書)
福島哲也先生のワークショップに参加した私の同僚の先生(数学教育学)は、「これは教師は一見何もしないように見えるが、実は課題設定で大変な努力をしている」とすぐにおっしゃいました。私も『学び合い』については学びの課題を設定することが決定的に重要だと思います。
この本についても詳しい内容は省略しますが、「まえがき」での西川先生の要約をさらに私なりに言い換えると西川先生はこの本で次の四点を伝えようとしています(以下の表現は私なりの言い換え(改悪?)です)。
(1') 課題はシンプルに:教師自身と同じタイプなら喜ぶ「味付け」(=課題の編集や脚色)も、それとは異なるタイプの学習者にはかえってわかりにくいものになるかもしれない。ゆえに課題は素材(=本質)を活かしたものとする。
(2') 学ぶ必然性:学びの経験が学習者の人生とどうつながるのか、学びの成果が誰に示されるのかといった点で、学びが学習者にとって必然的であるようにする。
(3') 人間関係を授業で形成する:人間関係を作ってから『学び合い』をするというよりむしろ教科の授業の『学び合い』の中で人間関係を作ると考える。
(4') 教員同士が連帯する:課題づくりをする中で違う教科の教員とも協力し合うことにより、自分の無自覚な前提に気づき、かつ、課題をより現実社会に近づいたものとする。そういったつながりで教師が相互に学びあえる文化を作る。
西川純 (2015) 『子どもたちのことが奥の奥までわかる見取り入門』(明治図書)
私が福島哲也先生のワークショップで驚いたことの一つは、参加者が『学び合い』をしている際に福島先生がほとんど直接的な介入をせずに観察に徹しているということです。この本ではそんな「見取り」についてまとめられています。
授業を見る視点としては、「教材」、「指導法」、「一人ひとりの学習者」がありますが、それに加えて「学習者集団」をも見る必要があります。 (p. 7)
学習者を集団として観察することが重要である背景の一つに、一人の学習者を正確に見取ることが極めて困難ということがあります。西川先生はこう述べます。
『学び合い』では一人ひとりの子どもを見取ろうとはしません。なぜなら黙って静かにしている子どもの頭の中を、一言、一行の言葉で読み取るのは困難だからです。その代わりに、子どもたちが自由に関わる時間を多くして、その中での子どもたちの動きに着目します。 (p. 52)
その中でも特に着目すべき点には、教室内の学習者行動に限っても次のようなものが含まれます。 (pp. 54-61)『学び合い』では立ち歩きも発言も自由ですから、学習者が本当に学んでいるのかの判断は困難なように思えますが、次のような場合は学んでいない可能性が高いと思い割れます。
・周りの学びに配慮していない耳障りな声を出している。
・教科書などを一切見ずに互いの顔ばかり見つめて大笑いしている。
・一人顔を上げて手が止まっている。
あるいはグループで学び合いをしているようでも、以下の場合は、深い学び合いになっていない場合があります。
・身体距離が妙に遠い。
・メンバーの視線が一人のリーダー格だけに向けられている。
・言葉づかいが堅苦しい。
また、『学び合い』を行っている教師の行動を見ても、その教師がどれぐらい『学び合い』に習熟しているかがわかります。 (pp. 94-99) 以下は、番号順に『学び合い』に習熟した教師の行動特徴となります。
(1) 『学び合い』に入る前の説明が長い。
(2) 『学び合い』を始めても、視線が個々の学習者のノートに向けられている。
(3) ゆったりと机間巡視をするが、気になる数名のところで立ち止まり、時に個人指導をしてしまう。
(4) 気になる数名ではなく、クラスをリードする子に働きかける。
(5) 壁によりかかってぼーっと教室全体を見る。問題行動を見つけたらその場からボディランゲージだけで伝える。
このようにまとめるだけでは単純なことのように思えますが、実際に行うとなかなか困難でしょう。
『学び合い』の授業を行うならば、最初はその考え方を徹底的に咀嚼して、実践を始めてからは具体的に経験する問題点に即してこのような本で学ぶことが重要かと思えます。
以上、簡単に四冊の本について簡単にまとめましたが、『学び合い』は学校教育を根底的に変える教育方法であると思います。これからもこの実践から学んでゆきたいと思います。
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