2019年3月4日月曜日

バウマン『個人化社会』 Zygmunt Bauman (2001) The individualized society




以下は、言語文化教育研究学会第5回年次大会 (http://alce.jp/annual/2018/) での口頭発表(共同研究)に向けて作った「お勉強」ノートです。Zygmunt Bauman (2001) The individualized society. Cambridge, UK: Polity Press の 「語られた人生と生きられたストーリー:序曲」 (Lives told and stories lived: an overture) の一部を翻訳したものです。翻訳にあたっては刊行されている翻訳書(澤井敦・菅野博史・鈴木智之(訳) (2008)『個人化社会』青弓社)を参照しましたが下の翻訳は私によるものです。

なお「個人化」 (individualization) とはユングの「個性化」 (individuation / Individuation) とはまったく異なる概念ですが、 ‘customization’ とほぼ同じような意味をもつ ‘personalization’ とも異なります。ここでは ‘customization / personalization’ をとりあえず「個別化」として、「個人化」と「個性化」と「個別化」は(字面では似ているものの)異なる概念であることを述べておきます。(ユングの「個性化」についてはいずれ勉強して「お勉強ノート」を作らねばと思っています)。

それでは以下、私にとって印象的であった箇所の要旨と拙訳と訳注を掲載しておきます。



■ 個人化された人々は、個人ではどうしようもない社会の矛盾に対して徒手空拳で挑むことを求められている

要旨
本来は社会全体で取り組むべき問題を「自己責任」の問題とすることで、社会に対する不満を表面的に隠すことはできるかもしれない。だが、個人化された社会に住む人々は、集団で公的に働きかけるすべを失ってしまう。そして「自己責任」を押しつけられた個人は自責・自罰にはしることもある。

拙訳
一方で、人は自分自身に責任をもたされる。しかし他方で、人は自分のまったく手の届かない(そして多くの場合自分がまったく知らない)ところにある条件に左右されている。そのような条件下では、「生きることが社会全体の矛盾を一人だけで解決する試みになって」しまう。制度に向けられるべき非難を自分自身の不備に向けることによって、現在の社会を破壊しかねない怒りをなだめることはできるかもしれない。しかしそのことは、その怒りを人々の自己非難や自己否定に変えてしまうかもしれないし、その人自身の身体に対する暴力や拷問に変容させてしまうかもしれない。

 「社会による救済などない」という戒律を繰り返して、それを常識的な処世訓とすることは、現代を生きる中でしばしば見られることであるが、そのことによって物事は「底よりも下にある底」においやられてしまう。個人の限界を超える集団的で公的な手段は否定され、ほとんどの場合一人で解決するための資源を持ち合わせていない課題に孤独に取り組む個人が打ち捨てられる。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (pp.5-6). Wiley. Kindle .

訳注
生きることが社会全体の矛盾を一人だけで解決する試みになって: ‘how one lives becomes the biographical solution of systemic contradictions.’”
・個人の限界を超える集団的で公的な手段: collective, public vehicles of transcendence



■ 個人ではどうしようもない社会が課してくる「条件」と、個人が行いえることの「物語」の間の境界線をどこに引くか

要旨
本来は社会的なものである「条件」も、ある個人に一方的に降り掛かってくるものと理解されるし、「物語」もある個人が何をしたかというものになっている。しかし社会学的に重要なのは、本来は社会の問題である「条件」を克服することが、個人の「物語」として語られてしまったいないかを吟味することである。

拙訳
条件と物語は同じように容赦のない個人化の過程の中にある。とはいえ、それぞれの過程の中身は異なっている。「条件」は、とにもかくにも、個人に降り掛かってくる事柄であり、頼まれもしないのにやってきて、去ってほしいと個人がいくら望んでも去ることがないものである。他方、「生きることについての物語」とは、人々が自ら行ったこと・行わなかったことから紡ぎ出すストーリーを意味している。両者が言説化された場合、その違いは個人が当然と思うものと、「なぜ」「どのように」と問いかけるものの違いとなる。これらはいわば二つの用語意味論的な違いである。しかし社会学との関連からすればもっとも重要な点は、どのようにこれら二つの用語がストーリーを形成する際に使われるかということである。つまり、個人が行ったことと、個人が行ったこと(あるいは定義的に述べるなら、個人がそうせざるをえなかったこと)の条件の間の境界線が、物語を語る中でどこに引かれるかということである。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (pp.6-7). Wiley. Kindle .

訳注
・個人化: indivudalization
・条件: conditions
・生きることについての物語: life narratives



■ 人間はそれぞれの人生を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない

要旨
マルクスの悲観を受け継ぐなら、個々人が選べない「条件」と個々人がなしうる行為の「物語」は分離したままになっている。だが大切なのは、両者の範囲を問い直すことである。

拙訳
マルクスの有名なことばに、人間は歴史を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない、というものがある。この命題を、「ライフ・ポリティクス」の時代の要求にしたがって改訂するなら、人間はそれぞれの人生を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない、となるだろう。しかしどちらにおいても、この命題が含意しているのは、選択の余地のない条件の領域と目的や計算や決定を受け入れる行為の領域は分離しているし分離したままであるということであろう。つまりこれら二つが絡み合うところでは問題が生じるかもしれないが、両者を分かつ境界線は問題にならない--客観的で交渉の余地がない--ということである。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.7). Wiley. Kindle .

訳注
・人間は歴史を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない: people make history but not under conditions of their choice
・ライフ・ポリティクス: life politics
・人間はそれぞれの人生を作り出すが、自らが選んだ条件のもとで作り出すのではない:people make their lives but not under conditions of their choice 



■ 「この条件は受け入れるしかない」と語ることによって、物語で語りうることの範囲が狭められる。

要旨
仮定はそれが仮定として扱われることが長くなればやがて真実となる。私たちが「条件」とは所与のものであり私たちが何もなしえないものであると考えることによって、それは「条件」として固定化される。 私たちは一見所与にしか見えない「条件」についても共に・公的に何かなしうるという「私たちの物語」をみ出すべきだろう。さもないと私たちは「個人化された物語」の範囲でしか実人生を送ることができなくなってしまう。

拙訳
しかしながら、境界線は「与えられるだけ」であるという仮定は、それ自身が、「条件」を「条件」とする大きな、おそらくは決定的な要因である。「条件」は、それらが人間の選択を超えたものであると宣言されて受け入れられることによって、目的と手段という枠組みの生きてゆくため行為とは別のものとされ、その結果、人間の選択の幅は狭まってしまう。W. I. Thomasが言ったように、人々が何かを真実だと仮定すれば、その仮定ゆえにそれは真実となりがちである(もう少し正確に言うなら、人々の行為の累積的な結果ゆえに真実となりがちである)。人々が「X以外に選択肢はない」と言うなら、そのXは行為の領域から抜け出し、行為の「条件」の領域に入ってしまう。人々が「もう何もできない」と言うなら、本当に何もできることがないのだ。個人化の過程は、「条件」と生きることについての物語の両方に影響を与えているが、それが進行するためには二本の脚を必要とする。一方で、選択の範囲を設定して夢物語と現実的な選択を区別する力が「条件」の分野ではしっかりと設定されなければならない。他方、生きることについての物語は提供されている選択肢の中で行ったり来たりしていることだけに限定されなければならない。

 こういうわけで、生きられた人生と語られた人生は互いに結びつき相互依存している。矛盾めいた言い方をするなら、人生について語られたストーリーは、人生が生きられて語られる前に生きられる人生に干渉するのである。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.7). Wiley. Kindle .

訳注
・人々が何かを真実だと仮定すれば、その仮定ゆえにそれは真実となりがちである(もう少し正確に言うなら、人々の行為の累積的な結果ゆえに真実となりがちである): something that people assume to be true tends to become true as a consequence (more precisely, as a cumulative consequence of their actions)
・生きられた人生と語られた人生: Lives lived and lives told 
・人生について語られたストーリーは、人生が生きられて語られる前に生きられる人生に干渉する: the stories told of lives interfere with the lives lived before the lives have been lived to be told



■ 個人化された社会の中で、人々は社会全体の仕組みが生み出している「条件」について語ることを抑圧されている。

要旨
個人化された社会では、人々が語る「物語」から、社会から押しつけられる「条件」について人々が疑問をもったり異議申し立てをする可能性が排除されている。私たちは一人でも共にでも「条件」の変革についての「物語」を語る可能性を取り戻すべきだ。

拙訳
あらゆる言説化は、ある可能性を開くとともに、他の可能性を閉ざす。現代において語られるストーリーの決定的な特徴は、それらのストーリーは個々人が生きていることを言説化する際に、個々人の宿命を社会全体の仕組みに結びつける可能性を除外したり抑圧(言説化を抑止)したりしているということだ。もっと重要なことは、社会の仕組みについて疑問を呈することを不可能にしていることだ。社会の仕組みを、きちんと精査しないままに個々人が生きるために従事していることの背景に追いやってしまい、ストーリーを語る者が、一人でも仲間とともにでも集団ででも、それなについて異議申し立てしたり交渉したりすることもできない「生の事実」とすることによって社会の仕組みへの疑問が封じられている。個人を超えた要因が、個人が生きることの軌跡を形成しているということを見えなくし考えさせなくすることによって、「力を合わせ」て「手を取り合って立ち上がる」ことの付加価値が見えにくくなり、人間が生きている条件や人間が共有している苦境について取り組むことが力を失うか存在しないものとなってしまっている(批判的に取り組むことについてはとりわけそうである)。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.9). Wiley. Kindle .

訳注
・社会全体の仕組み: the ways and means by which society as a whole operates
・個人を超えた要因: the supra-individual factors



■ ますます個人化される人々が生きる意味や目的を見出せる物語を支援することが社会学の課題

拙訳
現在の変わりつつある人間が生きる条件の下で、「ますます個人化される個人」は生きる中に意味と目的を見出そうとしている。それこそは私が『液状化する社会』の中で描こうとした現在の状況であるのだが、そういった変わりつつある人間が生きる条件を再言説化しようとする現在進行中の試みに密接に取り組むことこそが、社会学のもっとも重要な課題であると私は信じている。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.13). Wiley. Kindle .

訳注
・ますます個人化される個人: increasingly individualized individuals
・生きる中に意味と目的を見出そうとしている: invest sense and purpose in their lives



■ 社会学というストーリーは、私たちにはもっと多くのストーリーの語り方があることを教える。

拙訳
社会学はそれ自身が一つのストーリーである。しかしこの社会学というストーリーのメッセージは、私たちが日頃ストーリーを語る際に想像しているよりも多くのストーリーの語り方があるのだということである。私たち一人ひとりが語って信じ込み、これしかないように思えているストーリーが示している以外の生き方も多くあるということを社会学は伝えている。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (p.13). Wiley. Kindle .



■ (消費生活的な)私的関心に植民地化された公的領域を脱植民地化する

拙訳
背景に追いやられライフ・ストーリーによって精査されないままに放置されている領域をもう一度見直すことによって言説化の範囲を拡張しようとする試みの重要な効果は、政治的課題を抜本的に広く捉えることに現れている。今や私的関心とは、公的なつながりを削がれ剥がされ消滅させられた上ですぐに(私的な)消費につながるものとなり、(社会的な)つながりを生み出すものではほとんどなくなってしまったが、こういった私的関心によって公的領域が密かにしかし着実に植民地化されている限りにおいて、この政治的課題を広げる効果は、公的領域の脱植民地化と呼ぶこともできるだろう。
Bauman, Zygmunt. The Individualized Society (pp.13-14). Wiley. Kindle .

・政治的課題を抜本的に広く捉えること: the radical widening of the political agenda
・私的関心とは、公的なつながりを削がれ剥がされ消滅させられた上ですぐに(私的な)消費につながるものとなり、(社会的な)つながりを生み出すものではほとんどなくなってしまった: private concerns [that are] trimmed, peeled and cleaned of their public connections and ready for (private) consumption but hardly for the production of (social) bonds
・公的領域の脱植民地化: a decolonization of the public sphere



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