麹町中学校の工藤勇一校長に関しては「公立中学校が挑む教育改革」という記事がウェブで無料公開 (http://wedge.ismedia.jp/category/kojimachi) されていますが(WEDGE Infinityに感謝!)、この度、その一連の記事をまとめた多田慎介氏による『「目的思考」で学びが変わる 千代田区立麹町中学校校長・工藤勇一の挑戦』(ウェッジ)を読みました。
果たせるかな面白く、私は線を引きまくりましたが、その本の中で工藤校長先生が「この人にだけはかなわない」と述べているのが、大阪の公立小学校の元校長である木村泰子先生です。この本で工藤先生と木村先生が対談をしていますが、やはり木村先生のことばの端々にものすごく深いものを感じましたので、木村先生の著作を読んでみました。
木村先生の大空小学校における実践は、映画「みんなの学校」でも見ることができますが、自主上映会でしか見られない映画ということもあり、私はこの映画をまだ見てはいません。しかし、著作からだけでも木村先生がもたらした学校文化はすばらしいことがわかり、私は一気に木村先生の著作四冊を読みました。
以下はその読書に基づく私のメモです。実は私は今、個人的にとても忙しいのですが、私には子どもみたいなところがあって気になることはどうしてもやってしまわずにはいられません。そうやって自分勝手に自分の好きなことばかりやっているので、社会的義理を欠いたりとさまざまな失礼をしているのですが、まあ、そういったことはさておき、皆様にも少しでも木村泰子先生の実践のことを知っていただきたく、また今後の自分のための備忘録とするべく、以下に私のメモを書いておきます。
木村泰子(2015)
『「みんなの学校」が教えてくれたこと 学び合いと育ち合いを見届けた3290日』
小学館
木村先生は大空小学校のことを、公立の小学校として「当たり前の教育」を行っている学校だと思っています。その「当たり前」とは何か。ここでは私なりに箇条書きにしてみます。
■ 教師(個人)の姿勢についての当たり前
・子どもへの対応や教育にはマニュアルがないので、教師は常に子どもの事実に学ぶ。
・教師は「教える専門家」ではなく「学びの専門家」になる。
・「あの子はこういう子」とわかったつもりになったり決めつけたりはしない。
・子どもの声を聴く。そのために子どもが「この大人は自分を裏切らない」と信頼してくれる大人になる。
・子どもが声を出したら、それに大人の判断を加えることなく、その声を他の子どもにうまく通訳する。
・子どもを信じたら、教師は「大人の事情」を無視してでも子どもに寄り添う。
・教師が間違ったら素直に謝る。
・子どもにも大人にもきれいごとを言わずに事実を提示し共に考える。
・教師にとっての「良い授業」や「良い学校」を目指さない。
・知識を一方的に教え込まずに、子ども同士が課題を解決する学びの方法を身につけさせる。
・授業を教師目線で成功させるための「大人の配慮」をやめる。
・教師個人の価値観だけで子どもを縛る「学級王国」を作らず、学級を外に開く。
■ 学校(教師集団と子ども集団が集う場所)についての当たり前
・すべての子どもの学習権を保障する。
・子どもの育ちを最優先する。親や地域の機嫌をことさらにとろうとはしない。
・「自分がされていやなことは、人にしない、言わない」を徹底する。
・「人を大切にする力」「自分の考えをもつ力」「自分を表現する力」「チャレンジする力」を大切にする。
・学校を、すべての子どもがその子らしく存分に自分の力を高める場所にする。
・一人も見捨てない。困っている子がいたら、その子と一緒に学べるにはどうするかを考える。
・困っている子が変わる姿を見て、周りの子が変わり、周りの子が変わる姿を見て困った子がさらに変わる「育ち合い」を行う。
・学び合いを通じて、学力底辺層の子どもの学力を底上げすることによって学力上位層の子どもの力も伸ばす。
・子どもが学ぶ・子ども同士が学び合う・大人が学ぶ・大人同士が学び合う・子どもと大人が学び合う。
・「このままでいいとか、この状態を守らなければならない」といった守りの姿勢に入らない。
・どんなことが起こっても子どもたちをとにかく丁寧にみんなで見てゆく。
・誰も、自分ひとりでどうしたらいいかわからないときは、みんなに相談する。
しかし、これらの「当たり前」は、現代日本の多くの教師・学校にとって「当たり前」ではないことでしょう。「青臭い理想論」どころか「そんなの無理」と思われて、それらとは逆の方向に教師・学校が向かっていることも少なくないでしょう。
ですが、この本を読めばこれらの「当たり前」の大切さがわかるはずです。これらの「当たり前」を当たり前にやろうとして日々試行錯誤し続けることこそが教師であり学校だということがわかるはずです。
しかし私も本を読んだぐらいで「わかったつもり」になってはいけません。何よりこれらのことを、自分の教育現場で実現するべく努力し続けたいと思います。
そして次のことばについては特に考え続けそれを実践に翻訳し続けたいと思います。木村先生はこう言います。
「対等でない場所に、学びは成立しません。」
この本を読んだ私は、この短いことばがおそろしく深い真実を示しているという直観を得ることはできました。ですが、その直観を私は行動おろか他のことばに翻訳することもままなりません。しばらくはこのことばを常に自分の心の片隅におきながら日々の暮らしを続けてゆこうと思っています。
木村泰子 (2016)
『「みんなの学校」流 自ら学ぶ子の育て方』
小学館
この本は前の本の続編ですが、前著の知見をさらにまとめたもので、前著に続けて読めばさらに木村先生の実践--というよりも、あるべき公教育の姿--が理解できると思います。
以下も私のメモです。このメモだけ見ると「まあ、そうでしょうね」ぐらいに片付ける人もいるかもしれませんが、すぐれた実践者の知恵はそんなに浅いものではありません。まずは具体的記述の多い前著を読み、引き続きこの本の言語化を通じて自分の直接・間接経験を思い起こしながら、これらの知恵について考えることが重要でしょう。決して「わかったつもり」になってはならないと思います。
■ 「困っている子」について
(※言うまでもなく「困っている子」と「困った子」という表現の違いについては敏感でなくてはなりません)。
・多様な個性をもつ子どもが一緒に学べば当然トラブルも起こるが、それは学びに変えればいいだけ。
・困っている子を矯正するのではなく、その子が周りとつないでいける関係をどのように作れるかを考える。
・説教や指導自体が目的には、子どもは決して正直には言わない。
・子どもが問題を引き起こしても、問題がなぜ起こったかを振り返り、事の成り行きを最後まで見届けてくれる大人が一緒にいてくれたら子どもは自力でやり直すことができる。
■ 教育と社会について
・急速に変化する現代社会で大切なのは、間違わないことではなく、間違いを認めそこからやり直す姿勢を身につけること。
・「小学校教育の目的は?」という問いは、そのまま「どんな日本社会をつくりたいの?」につながる。
・主体的・対話的・深い学びの実現のためには、教師・学校・家庭・社会全体が抱える問題に取り組まなくてはならない。
■ 教師の力量について
・教師の名人芸(指導スキル)を語るレベルをはやく脱しなければならない。
・教育には終わりがない。「これでいい」と思わないことが重要。
・教科学習でも、学びの入り口は子どもの失敗や困り感に寄り添うこと。
・教師の理想は「透明人間」。教師がいなくても子どもたちが自分たちで勝手に学んでいくことを目指す。
・子どもが学ぶための手段にすぎない板書・発問・教材などを目的化して、教師がそれらを他の教師から評価してもらうことを求めてはいけない。
これらの中でも特に最後の点はとても重い問いかけになっていないでしょうか。といいますのも、多くの授業研究大会が教師の教師による教師のための研究を発表する場になっているからです。手段に過ぎないはずの教師行動が自己目的化した末に、それについてばかり語ることが授業研究だと思われているからです。同じことは大学の教育学部の多くの授業にも当てはまるのかもしれません。のこのあたりの発想の根底的な変革が必要だと思います。
木村泰子・菊池省三 (2018)
『タテマエ抜きの教育論: 教育を、現場から本気で変えよう! 』
小学館
木村泰子先生と菊池省三先生の対談本です。菊池先生については私も何度かお話を聞かせていただいたこともあり、(私などが言えばかえって失礼な表現になってしまいますが)「本物の教育者」であることを知っていましたのでこの本を期待して読みました。
関連記事:菊池省三先生のワークショップ(主催 グラスルーツ)に参加して
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/01/blog-post_29.html
期待以上に面白い本でした。特にお二人とも、現在の学校教育制度からご引退されている自由な立場なのでそれだけ正直に学校教育制度の問題を指摘しています。特に、全国学力調査の結果から考える沖縄県や秋田県の実態や、「教師の指導こそがいじめを生み出しているのではないか」といった指摘などからはいろいろと考えさせられます。また、本書は問題点の指摘だけにとどまらず、その克服の方向性を示しています。
以下も私なりのメモです。対談は参加者が協働的に構築するものという考えに基づき、どちらの発言であるかはあえて特定していません。実際は抜書していたらもっと多くなっていたのですが、本書の内容をあまり紹介してしまうのも社会的に不適切でしょうから、あえて少しだけにとどめました。読んで少しでも心が動いた方はぜひ本書をお読みください。
■ 「一人も見捨てない」について
・クラスの一番しんどい子が安心して笑いながらみんなで授業で学んでいられることが「普通の学級経営」。
・学校の中でいちばん課題を背負わされている子・困っている子・しんどい子がどんどん不幸になっている。この現状を放置しておいて社会が豊かになるわけがない。
・一人の子すら見捨ててはいけないのは、その子が貧困や発達障害で苦しんでいるからではなく、見捨ててしまうことで子ども同士の関係性を分断してしまうから。
■ 教師の授業研究について
・教師が「この授業をして周りに評価されたい」ということを目的にしてしまうと子どもが見えなくなってしまう。
・授業を語る際の主語は教師でなく子ども。そして授業はすべての子どもに対して開かれていなければならない。
■ テストについて
・教育が変わらない最大の要因は、全国学力調査に教育委員会・学校・教師が振り回されていること。
・見える学力を優先すると見えない学力はつかない。でも見えない学力を優先すれば結果として見える学力はついてくる。
(注)
「見える力」と「見えない力」について木村先生は 『21世紀を生きる力』では、「見える力とは、全国学力調査で示される力。いわゆる学力です。一方の、見えない力とは、その子がその子らしく生きていくことができる力と言い表すことができます」と説明しています。
■ 学校文化について
・校長が教師をABCDで評価する状況では、教職員の間での対話やチームワークがなくなり、校長の顔色ばかりうかがうようになる。
・子どもたちに一番近い現場教師が「いいものはいい」「おかしいものはおかしい」とはっきり伝えることが重要。
・菊池実践も木村実践も普通のことをやっているだけで、これを「すごい」などと評価してはいけない。
木村泰子・出口汪 (2016)
『不登校ゼロ、モンスターペアレンツゼロの小学校が育てる 21世紀を生きる力』
水王舎
この本では大空小学校の合言葉である「みんながつくる みんなの学校」の「みんな」とは誰かを説明した冒頭の木村先生の宣言が印象的です。その直接引用は控えますが、大空小学校の「みんな」あるいは「自分」とは、子ども一人ひとりであり、保護者であり、地域住民であり、教職員です。「当たり前だろう」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、教員というのは案外と学校のことを教員が管理運営する教員のものぐらいに思ってしまうものですから注意が必要です。
このように「みんな」をとらえると、学校で一番大切なのは人と人の関係であり、校長に求められるのはリーダーシップというよりコーディネーターとしての役割だとなってきます。そのため木村先生は校長時代に毎月スクールレターを発行し、困っていることも正直に自分のことばで綴り、反省や助けをもとめることばも含めたそうです。
こういった「みんな」観は、一人の子どもを多方面から見て育てることにもつながります。一人の一つの考え方だけですべてを見ることの恐ろしさを語ったのはハンナ・アレントですが、教室も「学級王国」になってしまえば、たとえそれが外からみたらすごい業績を生み出しているようでも、その内実は非常に抑圧的なものになりかねないことは、ベテラン教師なら知っていることでしょう。
関連記事:人間の複数性について: アレント『活動的生』より
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/06/blog-post.html
さらには「みんな」を大切にすることにより、トラブルをその直接の当事者だけの問題として扱わずに、みんなで共有して考えれば、それがみんなの学びになるとも木村先生はおっしゃいます。これはまさに「当事者研究」につながる考え方です。
関連記事:当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/12/blog-post.html
また、この本で面白かったのは、木村先生の教育実習指導教員であった授業の達人によるきわめて印象的な授業を新人時代の木村先生が自分の児童に対して再現したところ、見事に失敗したというエピソードです。授業の方法を支えている教師のあり方について私たちはもっと考えるべきでしょう。
このエピソードは木村先生の「大空小学校にマニュアルは本当にない」ということばにもつながるでしょう。言ってみれば当たり前のことなのですが、授業は個々の教師のあり方だけでなく、個々の子どものあり方にも基づいているからです。「大人の都合でつくった分類に、子どもたちをただ当てはめて評価していくほど愚かな教育はありません」という木村先生のことばを私たちは深くかみしめるべきでしょう。
以上、木村先生の四冊の本について私なりにまとめてみましたが、まとめる際にわかったことは、「私はこれらの知恵をまだ十分にわかっていない」ということです。木村先生のことばを教典にしてしまうことなく指針として使い、日々の実践と暮らしから学び続けてゆきたいと思います。