以下の記事は、「広大教英ブログ」からの転載です。
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「コミュニケーション能力と英語教育」という授業で、コミュニケーション実践と「客観性」という講義を本日これから180分の前半部分で行います。予習では以下の記事を読んでおくことを求めました。
■ 8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド完全な親バカ状態ですが、予習段階で学生さんは既にいろいろなことを考えているようにも思えました。以下に、その一部を掲載します。赤字化と段落改行の追加は私が行いましたが、それ以外はどの文章も学生さんが書いたとおりの文章です。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/820.html
■ 論文初稿:英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
https://app.box.com/s/h7ev6jm5i6g56096xe8reqmxgc33b69o
■ 研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/vol59-no1-2016.html
■ 比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
■ 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/elpa-vision-no02.html
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■ 「数直線的客観性」、これに私たちは支配されています。資本主義社会においてあらゆる商品はその質と関係なく「貨幣量」という指標で表される。また、教育の成果は数値で示される。確かに、数値化することで具体性が増したり目標が明確になったりすることもあります。
最近、ある授業で他人の解答を採点する機会がありました。こちらが設定した採点基準に沿って相手の解答を数値化します。しかしその時に採点対象となるのは回答欄に書かれている文字のみであり、その人の思考プロセスなどは考慮されません。
アクティブラーニングの推進により、単なる一問一答形式の思考は以前ほど必要とされなくなると思います。そうではなく、以前取り上げた新井紀子さんの言葉を再び用いるなら「物事の意味を理解し、思考し、表現できる力」がより大切になってきます。その時に依然として数値化に拘っていては、点数を取ることが勉強のモチベーションであることはずっと変わらないだろうし、思考することの意義を理解できる生徒は生まれないと思います。
■ 客観性によって私たちは物事の区別をより明確にしてきたのだと今回の予習を通して感じました。黒字/赤字もそうだしテストによる学力の測定も”できる””できない”を明確に区別するために採用されてきたのです。
あらゆる物事においてこの「客観性」が使われ、区別されているわけですが私たちはもっとこの事実に対して慎重になるべきであると思います。そもそも区別する必要があるのか?客観的だと思っているものは客観的なのか?客観性を保証するものは十分なのか?特に教育という分野において考えるとこのような一方向の直線上での客観的評価が権力を浮き彫りにし、本来権利を与えられているはずの学習者がその権力に抗えない状況を創り出しているように思われます。
■ 今回の予習記事では主に「客観性とは何か」についてでした。現在の教育研究においては客観性や再現性が求められており,それに対する答えとして現在用いられているものは英語能力を測るテストのスコアを教育目標として設定したり,対照実験的に授業方法の良し悪しを測ろうとしています。以前の授業でも先生がおっしゃっていたことですが,教師・生徒・教室・その日の天気,気温など本当に様々な要素で構成されている教育というものを一元的な客観性でみようとすることに疑問を抱くのは私でも理解できます。教育だけでなく,そもそも,一次元的な客観性を用いることが妥当であるものは本当に少ないように思えるのです。
私が興味を持っているコンピュータの性能の話をすると,コンピュータの性能というものはベンチマークソフトが充実しているので,簡単にCPUやグラフィック描画の性能を数値化して測ることができます。コンピュータなんて一次元的な物差しの塊みたいなものだと思われるかもしれませんが,実はCPUの性能ですら一次元的な物差しでは測れないものなのです。例えば動画編集をして,それを出力するときに必要な性能と,ゲームをするときに必要な性能というものは違っていて,それはベンチマークの数値だけではどちらがいいのか判断がつかないことがあります。グラフィック描画を担当するGPUというパーツにおいても,3DCGを制作するためのものとこれまたゲームをするためのものでは単純にベンチマークのスコアの差ではわかりません。
私たちは物事を見る時に,安易に「これに換算して」という方法,つまり一次元的な尺度で物事を測りがちです。これは例えば英検準1級はTOEFL iBT換算でどのくらいのスコアになるのかということや,この敷地は東京ドーム換算で何個分であったりとか,ということです。ただ,コンピュータの性能での例の通り,本当に一次元的な物差しが妥当であるものは稀であり,無理矢理に数直線的な物差しに落とし込もうとすると色々と不都合が出てくるはずです。実際に,TOEICの900点がTOEFL iBTの101点ほどであるなんてことを言っているサイトを見ましたが,両方受験した自分からすれば違和感ありまくりです。
■ 予習記事には大きくは「客観性」と「再現性」について書かれてありました。私の中でよく理解できたところは数直線的客観性の例です。資本主義の中ですべての商品を貨幣量という一本の数直線上に配置している、そして黒字/赤字を二値的コードに分けているものを客観的指標として使用されているというものがありました。このシステムの仕組みの“客観性”に私自身少し騙されているということに気がつかされました。さらにそれが教育の世界でも絶対的な指標として使われようとしているということへの疑問を理解できました。
前回までの授業で各種資格試験では一部のものははかれても、あらゆる技能やコミュニケーション能力をはかることはできないということを痛感してきました。今回の予習の中の「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」という記事でもよくわかりました。リーディングとリスニングは一つの正解しか認めないから、含意をめぐる多面的な解釈を問題にすることができない、そしてスピーキングとライティングは「よくある話」を適当に産出しているだけという言葉に悲しいけどそうなっているという事実があるなと感じました。
そして評価も誰がやっても同じ評価になるような標準化をしないといけないと思っていたので、確かにそれは自分たちの管理のための簡易化になってしまうかもしれないと感じました。なぜ評価するのかということの本質的な意味を一度問いただせたので良かったです。多元的客観性の必要性を強く感じました。
■ 前半部分の記事では「客観性」や「再現性」を英語教育に絡めながら説明がありました。読んでいる中で、どんどん現在の英語教育の問題点が浮き彫りになり、今まで深く考えることのなかった学校での英語教育の仕組みというものがどのようなものであるかがはっきりと見えるようになってきました。何箇所か気になった部分をピックアップします。
「テスト得点の貨幣化」という表現がとても印象的でした。この授業の中でもよく英語の技能を測る試験の話が出てきます。確かにその得点を貨幣化してしまって、それだけの貨幣(ある程度の点数)と引き換えに、単位であったり、点数であったり、受験校への合格であったり、留学の切符など、様々なものを私たちは得ることができます。確かにそういったテストの得点は「客観性」に基づいたものかもしれませんが、一元的客観性に分類されます。数値的な一元的客観性だけでは英語能力を客観的に見ることはできません。数字が全ての指標ではないことを十分に理解した上で多元的客観性を用いて英語教育は推し進めていくべきではないか思った一方で、コミュニケーションといった二度と同じ会話や場面などがあり得ないような流動的なものを一般化して測るには、やはり数値化されるような英語能力試験などが必要にもなってきて、英語教育の中でもある程度の権力は維持されてしまうのではないかと思いました。
「現実世界のコミュニケーションの条件が、四技能テストでは捨象されている。四技能テストのある程度の得点は、実際の英語コミュニケーション能力の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない。」この文章の中の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない、というところがとてもわかりやすく、コミュニケーション能力を測ろうとしているテストの是非を論じる際にぼんやりしていた部分を明瞭にしてくれました。全く意味が無いわけではないと思う、という私の考えがこの文章を見て「こういうことだ!」と上手く自分の中でまとまりました。
■ この授業で何度も話がでてきているが、教育における評価も科学知におけるものに一元化されて、他の様々な複合的な要素を捨象してしまっている現状が問題視されている。評価・テストが一元化されるために、指導も一元化されるという負のbackwash effectが起き、自分の意識を介さない、可能性を無視した現実性しか生まない人材をつくりだしてしまう可能性がある。極論ではあるが、皆が同じことばを話す社会は、まるで全員がAIのようであるように感じる。
教育の研究やSLA研究においても、この視点というものは大切で、一部分だけを見つめて、科学によってこのように証明されました、皆さんご参考にどうぞ、というのは危険な発想であると感じた。特に教育の現場というのは、普通の学級であるならば、30人程度の生徒と教師がいる。それに加えて、人間関係やその時の身体状況など様々な要素が絡み合って、教室というものは成立している。この複合的要素を見落としては、全く現場に沿っていないものとなってしまう。将来日々学習し続けなければならない教師も、この複合的要素を頭に入れて、生徒との対話を続けていかなければならないなと感じた。
■ 客観性とは何か、再現性とは何か、意味とは何か…。次々に問いただされていく言葉たち。私はこの授業を受けるようになってからこの「そもそも」ということを自然と考える癖がついてしまったように思う。
生活の中では、私たちを視覚的にも聴覚的にも溢れんばかりのことばが取り巻いている。それは当たり前のことで、一つ一つのことばをいちいち気にしたりはしない。しかし、これは前回の授業の内容に関連するがそのような日常に溶け込んでしまっているものというのは自分の興味のないものであり、それ故無意識のうちにスルーしているのである。今までは情報として判断していなかったものが浮かび上がるようになったのは、自分のアンテナの及ぶ域が広がって反応しなかったものに反応するようになったからなのかもしれないなどという気がしている。
教科に関係なく教育は、多元的客観性でもってそれを遂行するべきだという考えがあった。特に評価することについては、一元的に数値化することで満足してしまうことほど恐ろしいことはないように思われる。一体誰のために勉強しているのか?ということになる。もちろん、国のためでも学校のためでもなく自分自身のためである。この世界に身を置く唯一無二の「私」が学習するから意味があるのであり、それはここにいる「私」と「私」の目の前にある現実世界の関わりがあってはじめて成立する。それなのに今の四技能テストで点数をとることが目先の目標になってしまえば、そんな学びの価値などどこかへ行ってしまいそうだ。広島大学が掲げる「学問は、最高の遊びである。」という言葉は外からの評価ではなく、自分自身が感じる学ぶ喜びに価値を見出そうとしているように思えた。
■ 数直線的客観性は、資本主義社会における商品の価格で説明されていてわかりやすかったです。あらゆる商品の質ではなく、商品を価格という一つの数直線上に配置します。この価格という数値が資本主義社会の客観的指標として使用されています。しかしこれを教育で同じことをしても良いでしょうか。
現代の教育界では、テストの点数という指標で客観的に生徒たちの英語力などの力を評価しています。記事には、一元的客観性においては学習者や教師という「私」が何を感じたかといった当事者性は構造的に排除されているとありました。資本主義社会において、価格という指標に統一することはむしろ便利であると思います。しかし教育では点数という数値で測ってしまうべきではありません。
この授業で、評価、テストの話がよく出てきます。例えば、面接において話した内容が事実でなくてもミスをせずに英語を話せば高得点を獲得できますが言語に多少のミスがありながらも本当に伝えたいことを伝えようと一生懸命話している生徒はどうでしょうか。教育における指標が点数、得点であるがために生徒たちはその得点を取るために学び、教師でさえも受験のための授業をします。このままでは本当に生徒たちが学ぶべきことを学べません。「得点」という客観的指標では英語力は測りきれていないと思います。
■ 高校の修学旅行で姉妹校の外国人生徒と交流しました。その時、英語の文法があっているか気にしてなかなか言葉をつなげることができない日本人生徒よりも、ジェスチャーや表情でどんどん相手に何かを訴えようとする日本人生徒のほうが、最後には外国人の生徒と仲良くなっていたように感じました。しかし、学校における英語教育ではできるだけ正しい文法を使って自分を表現するほうが与えられる評価が高いように思います。もしジェスチャーや表情で意思を伝えることが点数化できたらどうなるのでしょうか。点数化できないだけで、非言語のものにも重要な価値があります。
そもそも学校の教育という視点を離れると、本来の、何のために英語を学ぶのか、によって何を評価するかは変わってくると思います。世界中の人と友達になるために、外国語の論文が読めるようになるために、洋楽が上手に歌えるように。中学生の時、高校への進学は内申点が大きく関与してきました。しかし学校のレベルによって内申点は様々です。異なる人々が多様な環境でそれぞれ違う経験を積んできたのだから、誰が見ても同じ、いつでもどの状況でも同様の結果が得られる、ということは難しいと思います。人によって重要とするものやその基準は本来異なるものであるように思います。サークルのオーディションでは、数人の審査員がそれぞれの観点をもって審査を行う、という形式がとられたことがありました。わからないところがたくさんあるので授業で理解したいです。
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