「コミュニケーション能力と英語教育」という授業は学部3年生向けの授業ですが、ほぼ毎年、学部4年生や大学院生が一人、二人、授業を(再)聴講してくれています。以下は、そのようにして現在、授業を再聴講してくれている学部4年生のM君が書いてくれた文章です。
私はこのように自分の所属する機関(広大教英)の英語教師養成システムに対してきちんと批判的な見解を述べてくれる学生さんのことをとても誇りに思います。こういった学生さんを、妙な外圧から守りつつも、変な党派性に陥ることがないように見守り、対話を続けたいと思います。そして独立独歩で思考し発言し行動しながら、他者と連携がとれる若者を育て続けたいと思っています。
以下は、M君の文章(原文)です。文中にある「今回の予習記事」は、この記事の一番下に掲載しています。
広大教英、そしてそれ以外の大学でもおそらく似たような形で行われているはずの英語教師養成システムへの建設的批判としてお読みいただけたら幸いです。
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広島大学の教育学部において英語教育を専攻し、はや4年が経ちました。その中で私が教英に関して違和感を覚えた点がいくつかありますが、そのうちの2つが、「他の教科、研究分野との連携、またはその推奨にそれほど積極的でないこと」および「現行のシステムを問い直す機会がほぼ無いこと」です。どちらの違和感に関しても、今回の予習記事を読ませていただければ、それらを違和感として取る事が妥当であることが明らかでしょう。
一つ目の違和感は、「英語教育」という分野を他の分野から独立したものとして捉えてしまっていることにより、「英語教育」が依っている多様な分野への注意が弱まっていることが原因だと考えられます。日本の高等教育機関では専門化が進むにつれ、ますます広い分野での教養的な面がないがしろにされてしまっていると聞きます。広島大学でも、一年生のときには単位のために他の分野を教養科目として履修しますが、それが終わればきれいさっぱり忘れてしまうのが常で、それを咎める者もいません。2年生以降になれば専門への傾倒が急速に強まります。したがって、自分の専門は英語教育だから他の分野を勉強している暇はない、というわけです。しかし、この英語教育と他の分野を全く関係ないかのように区分してしまっていることが、英語教育の視野を狭めているように感じられます。「英語教育学」という学問は存在しないと言われた先生がいらっしゃいましたが、少なくとも英語教育は他の様々な分野からの多大な知見に支えられてきたことを忘れてはならないと思います。単純に考えただけでも、言語学、文学、社会学、心理学など複数の拠り所が挙げられます。英語教育の狭い文脈の中だけで考えていると解決できないことも、他の分野を参照すると解決の糸口が見えることも多々あります。しかし、今の教英の講義においては、他の分野を積極的に参照したりする機会がほとんどないどころか、それを推奨する雰囲気すらないのではないでしょうか。
もう一つの違和感は、現場への適応を第一として考える教師の養成機関としての性格を考えると、至極妥当な印象も受けます。たしかに、大学としては4年という期間の中で、少なくとも現場に適応するための素地を養っておかなければなりませんし、現場、そして現場を動かしている上のシステムに関していちいち疑いを持ったりすれば、いつまで経っても適応できない、というわけです。しかし、この状況は二つの点で問題があります。
一つは、学生は現場に文句を言わず適応していけ、と言われているような状況が生まれている点です。大学では、基本的に「よくできる」学習者を念頭に置いている傾向があり、卒業し新任教師となった学生が無責任にも現場の荒波に放り込まれることになります。たしかに、どれだけ大学で学んできたとしても、現場は毎日のように絶えず状況が変化していく場所であり、そう簡単に適応することはできません。しかし、そうであるからこそ、在学中にもっと様々な生徒像、学校像、教師像を具体的な例からイメージできなければならないと思います。このままでは、最悪の場合、附属学校で理想的な現場のイメージを植え付けられただけの学生を量産してしまうように思われます。これでは、現場のシステムに疑いを持つこともなく、適応することを強いられてしまいます。様々な事例を見ることができる機会があれば、上下下達のシステムと現場がうまく合致していない状況を見ることが多々あると思います。
もう一つは、このような状況が続く限り、現場を上から支配しているシステムは安泰であり、文科 / 現場という支配 / 被支配関係は改善しないという点です。これは非常に単純であり、文科からすれば、大学側がシステムを疑わせない指導をしてくれた方が都合が良い。反対に、いちいちせっかく通達した文科の意向に反発すれば、補助金等も出したくなくなるわけです。したがって、研究費を得るには言うことを聞いておくのが得策というわけです。現場の教員の方々ならなおさらで、公務員である以上、お上の命令に背くことは難しいしくみになっています。しかし、だからこそ、そうした制限の付きにくい学生がこうした議論を行うべきなのではないでしょうか。たしかに教英は現場の英語教員を志望する方が多く、早く現場のノウハウを知りたいし、現場にいかに適応するかが最優先となるのはごく自然かと思います。しかし、仮に私たちがしなければ、こうした議論を積極的にできる機会を持つ人は少ないと思います。もしも教英が日本の英語教育関連のコースの中で優秀だと言われる理由が、上から通達された命令を遂行する能力が高いことだけだとしたら、それは問題である以前に悲しく思われます。良い評価を日ごろからいただいているからこそ、No.と言うべきところでNo.と言う責任が私たちにはあるのではないでしょうか。そういった機会が教英の講義の中であまり設けられてこなかったことは、やはり問題として挙げても差し支えないと思われます。
*****今回の予習記事*****
■ 8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/820.html
■ 論文初稿:英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
https://app.box.com/s/h7ev6jm5i6g56096xe8reqmxgc33b69o
■ 研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/vol59-no1-2016.html
■ 比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
■ 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/elpa-vision-no02.html
■ 「言語学という基盤を問い直す応用言語学?―意味概念を複合性・複数性・身体性から再検討することを通じて―」 (応用言語学セミナーでのスライドとレジメ)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/11/blog-post_15.html
■ 今井邦彦・西山佑司 (2012) 『ことばの意味とはなんだろう』岩波書店 (「第19回応用言語学セミナー 応用言語学を考える」の準備の一環としてのまとめ)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/11/2012-19.html
■ ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/1990.html
■ ルーマン意味論に関する短いまとめ(『社会の社会』より)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/06/blog-post_15.html
■ ルーマンの二次観察 (Die Beobachtung zweiter Orndung, the second-order observation) についてのまとめ -- Identitat - was oder wie? より
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/die-beobachtung-zweiter-orndung-second.html
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