ここでは身体論(意識と非意識)、言語論(ことばが選ばれる前のこの原初情報の段階)についての振り返りの一部を掲載します。赤字化と段落改行の追加は私が行いましたが、それ以外はどの文章も学生さんが書いたとおりの文章です。
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■ 前半の授業で野口三千三さんの「こころにとっては非意識こそが本来的であり、意識は必要に応じて非意識が出現させるものに過ぎない」という言葉を読んで、実際の生活の中で具体的にどのようなことがこれに当てはまるだろうかと考えてみました。
1つ思いついたのが、今住んでいるアパートのオートロックの鍵番号です。アパートのオートロックを解除する際、もう完璧に覚えているのでいちいち鍵番号を確認したり、唱えながら押したりはしません。ですが先日出先で鍵番号を思い出そうとした時、とっさに思い出すことができませんでした。そこで目を瞑り、頭の中でオートロックを解除する情景を思い浮かべ、右手を空中で動かしてみると、やっと数字を思い出すことができました。いつも鍵番号を打ち込む時は「非意識」で、それを出先でなんとか思い出そうとした時に「意識」を出現させたのだと思います。
■ 今日の授業を振り返って,私は「意識的なもの」というのは人間の中身のほんの一部が表出したものに過ぎないということ・人間のほとんどが非意識によって支えられているということを知って正直驚いた。
しかし、スポーツに例えてみると、確かにそのことは明確に当てはまる。私は小中高と剣道を続けてきたが,剣道の技の中に「返し技」、いわゆるカウンター攻撃のようなものがあり,相手の繰り出してくる技に対して,それを利用してこちらが仕掛けていくのだが,それは意識すればするほど,相手の動きを見すぎてカウンターの態勢に入るのに数秒遅れてしまいうまくいかないことが多かった。逆に,返し技が成功した時は,いつも気づいたときにはもう終わっていた。授業スライドの中で「どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか」という記述があったが,まさに意識的に正そうとするよりも,準備を整えることの方が重要だと今思えばとても実感できる。
このことは子どもの学習にも効果を発揮すると考えられる。子どもに意識させる指導も大切ではあるが,「気づけばできるようになっていた」という体験をさせるために、いかに授業の中で仕込みをしておくか,どのような学習の環境下に置くことで子どもたちが「好ましい適切な自動制御能力を発揮する準備」を整えることができるかを考えることは大切だと感じた。そのことは言語教育にも共通していて,言葉の吟味においては,子どもたちが「どうしてもこのニュアンスを言葉で表したい!」と思わせるような授業づくりや活動の設定が不可欠である。気づかぬうちに夢中になっていたことが学習につながるほど素晴らしいことはないと思った。
■ 「意識で把握できることはほとんどわずかなことにしかすぎない」という言葉がとても印象的でした。私もどちらかといえば人は意識で動いていると思っていましたが、まずは無意識で動いていてそれを意識的にしていると脳が錯覚を起こしているというのには驚かされました。もともと意識で制御できるように人間の体はできておらず、だからこそ意識しすぎると逆にうまくいかないということが起こりうるのかと、大いに納得しました。
まさに、英会話がそうだと思います。何を話すか何を聞こうか準備して望んでも思ったように話すことはできないし、イレギュラーなことに対応できなくなってしまうという経験をしたことがあります。会話をしなくては!と意識しすぎるのではなくいかに自然体で“おしゃべり”を楽しめるか、というのが大切なのだと感じました。
これは授業づくりでも同じで、生徒がどうしても話したい内容があって相手に伝えたいと思えば、なんとかして身振り手振りも交えて相手に伝えようとするでしょう。そういったトピックを授業に取り入れることができればなあと改めて感じました。不自然なジェスチャーを叩き込むのではなく、生徒から自然に湧き出てくるジェスチャーを大切にしてあげたいです。
■ 言語と非意識についてまとめると,母国語に関しては意識せずとも表現が口から出てきますが,外国語に関してはなかなかそうとはいきません。ただ,一度だけ自分でも驚くほど意識せずとも英語がスラスラと話せたことがありました。それは留学中に開催した日本文化を現地の人に紹介するイベントのでの出来事でした。いくつかの企業にスポンサーとして協賛してもらっていて,そのスポンサーの方がイベントへ来た時に自分が説明しなければいけませんでした。英語で日本文化を紹介しなければいけない,なかなか難易度が高いシチュエーションだったのですが,不思議と言葉に詰まることなくスラスラと説明することができ,相手もよく理解してくれていました。
この時私は「意識の中でできることと,人間ができることとの間には乖離がある」ということを身をもって体感することができたように思います。その時私が意識していたことと言えば何を話そうか,どういった説明の仕方をすれば伝わるのかと言ったような内容に関するものばかりで,英語の表現に関しては一切考えていませんでした。普段英語を話している時とその場面とで何が違ったのかを考えると,責任感や話す内容が私にとって馴染み深いものであったことなど様々考えられますが,一番はやはり伝えたいという気持ちが極限まで高まっていたことだと思います。自分が一生懸命に考えたイベントをどうにかしてスポンサーに人にわかってもらいたい。この気持ちこそが言語を使用する時に最も大切な要素であることは重々理解していたつもりでしたが,言語を非意識のうちに使うためにも大事であると今回わかりました。
■ 前回の授業で学んだことのひとつに、無意識に体が反応することが、言語を生成する時にも起こっているというものがある。我々が日本語を話す時は言いたいことがすらすらと出てくるが、英語を話す時はそうはいかない、と、外国語を学ぶ人は思っている。しかし、私の経験を踏まえて自分が本当に伝えたいと思うことを話している時は英語であっても言葉は無意識に出ていることがある。
この度学科の行事で英語を話す機会があったが、みんなにこれだけは分かってほしいと願うような内容は無意識に言葉が出てくる。もちろん、文法ミスは発音のミスはたくさんしている。しかし、自分が本当に言いたいことを言っている時、言葉につまってしまうことはなかった。
それに対し、文法にこだわって話している時は全くすらすらと言葉が出てこない。例えば、明日の予定を言う時に、「未来のことだからwillか。いや結構近い未来やからbe going toかな。いや、明日ってことは近接未来やから現在進行形でもいいかも。あ、でも確定した未来の予定を表すには現在形でもいけるって最近習ったな。」などといちいち考えていては何も話せない。笑い話のように思えるが、同じようなことはあちこちの学校で教えられている。現に僕が予備校で受けていた授業はこういった形式で行われていた(予備校の目的が受験で勝たせることなので当然のことではあるが)。
■ 今回の授業では日常で特別意識しないような「当たり前」のことを、新たな角度から再認識することが出来た。「人は意識があって反応する」という考えが一般論であり、私もそれを信じていた者の1人であるが、実はそうではないらしい。
「心、からだ、ことば、声の全ては、からだの中身の変化である」、つまり非意識の変化が先で意識はその後に生じるということだ。確かに痒いと思う前に勝手に手が伸びていたり、熱いと認識する前にからだが動いていたりする経験から納得がいく。誰かに向かって何かを熱く語っている時、一体どこからことばが出てくるのか不思議に思ったこともあるが、これも同じ原理だと分かった。
イギリスに留学中、何度かこの経験をした。各国出身の人と会話をしていると、授業内外問わず日本のことについて尋ねられることがあった。「日本ではどんな英語教育が行われているの?」「なぜ日本人は授業中消極的なの?」「日本語に興味があるから、漢字を教えてほしい」。日本ではなかなか質問されないような内容であったのと、ぜひ皆に日本のことを知ってほしいと思ったので、私はこれらの質問につたない英語で必死に答えた。語彙も表現も決して豊かとはいえない英語であったが、自然と英語が次から次へと出てきたし、その時ばかりは日本語ではなく英語で思考しているような感覚におそわれた。これはきっと意識して話そうとしたのではなく、日本のことをもっと知ってほしい、という私の中での動機が高ぶっていたからだと思う。
近年、英語の授業においてディベートやディスカッションの導入が注目を浴びており、それの実践には様々な段階が必要である。私自身実習中、議論する時に役に立つ表現や論の展開の仕方をどうやって指導するかばかり気にして、それに頭を抱えていた。しかし、今日の授業を受けて、生徒たちに必要なのは議論のための知識ではなく、心から「話したい」「伝えたい」と思えるような動機なのではないかと思った。こちらの示した何かが生徒たちの中で変化を起こし、それが強い衝撃、動機にさえなれば、議論は勝手に生じ、進んでいくのだと思う。
■ こころとからだについて学びを深めることができたと思います。人間は非意識が主体であり、意識を作り出している。からだの状態が悪い時に、何でもネガティブにとらえてしまいがちになるのはこの一種でしょうか。スポーツに関して、僕はサッカーをしていたのですが、この話には大いに共感がもてました。一対一をするときに相手をだますフェイントをかけることがあるのですが、実際試合中対峙したときに、相手にこうフェイントをしようなどは考えておらず、身体が勝手に動いて気づいたら相手を抜いていたり、取られていたりします。試合中はボールをもっているときはほぼ無意識で動いています。またゴール前で急にボールが転がってきたときは、身体が勝手に“反応”します。習い始めの初歩的な時は、軸足の位置やボールのどの位置を蹴るかなど、しっかりと意識するのですが、徐々にしなくなり、非意識でそのように動きます。いちいち意識していたらコンマ一秒を争う競技では時間がないです。
目の前にボールが転がってきたときに体が反応するというのは、私たちが目指したい教育と同じなのではないでしょうか。生徒に何らかを提示し、それに生徒の意識ではなく、非意識、身体が反応し、感覚・情動が奮い起こされ、こう言いたいという意識となり、さらにはことばとなって表出する。今回でてきた言葉で言うと、それぞれの生徒にとって情報が溢れている課題を用意してあげることが教師にとって必要なことではないかなと思います。
■ 意識と非意識についての話では、言語使用や教育について考えさせられました。「非意識が自己の総体の主体であって、主体が意識を創りだし、それを使い利用する」と野口さんの言葉にありました。確かに、日常生活で常に何かを意識しなら行動をすることはありません。日本語を使うときも意識よりも先に言葉が出てきますし、日本語とまではいかなくても、英語でも意識することなく口から言葉が出てくることもあります。
そう考えると、PPPとTBLTが咬み合わないというのはとても納得がいきました。ある文法を提示し、練習させ、それができるように何か活動する、といった授業では常にその文法、形式を意識しながら会話をしてしまいます。意識することによってその形式が使えても、非意識の中でその形式が使うことができるようになるとは思えません。無意識のところから英語が出てくるようになるための方法をこれから取っていく必要があることを実感しました。
また、ジェスチャーについても同じようなことを思いました。自分が中・高のときにジェスチャーをしなさいと教えられていたことや、授業観察などでもジャスチャーを指導しているのを見たことを思い返して、意識してジェスチャーをすることの不自然さを今回の授業を聞いていて感じました。おそらくジェスチャーをするように求められたり、教えられたりするのは、英語を話すときに言葉に意識を置いているからだと思います。「言葉を使う」ことに意識してしまっていて、「言葉を伝える」ことができていないのではないでしょうか。私は授業中に隣の人と意見を交わすだけでも、身振り手振りで話していました。ジャスチャーが自然と使えるようになるためには、やはり言葉を非意識の中で使うことを求められるのだと思います。
■ 野口三千三さんは、敗戦体験や自身の障害から、人生が一瞬で変わる経験をし、絶対的な価値観、絶対的基準は存在しないのだと考えました。そして、すべての基準は、自分自身の中で作り、そのつど更新していくものだと考えました。「もの・こと」が静かに語ってくれることを貞くことが大切で、そうすることが生きることなのだともおっしゃっています。五感があることで、感覚とは外界の情報を受け入れるものと思われがちですが、自分の内側にも感覚があり、それが感覚の本質であります。未知のものも含む無数の感覚が有機的につながりながら感覚として内側で機能している、という記述が気になり、からだのことやからだとこころのつながりについて少し調べてみたところ、人体の不思議さに思い至りました。「細胞一つ一つに意識がある」という記述も見つけました。
こころの主体は無意識であり、意識とは無意識が作り出した道具ということで、授業中にも楽器の演奏と意識の在り方についての発言がありました。私は打楽器を演奏しますが、その中でも特にドラムセットや鍵盤楽器といった複数の打点を移動する楽器を演奏する際は、やはり意識しなくても手が動くまで練習します。打点を移動する流れを腕に組み込むようなイメージですが、最初は最短距離を効率よく移動するように、あるいは楽器の音がきちんと鳴るような向きで次の音を叩けるようにマレット(楽器を叩くもの)の動きを意識しながらゆっくり繰り返します。そして、だんだん意識しなくても動かせるようになるようにします。この場合も意識は、非意識の状態で新たな動きをできるようになるために、その動きを習得するための道具として働いているといえるのだろうと解釈しています。また、私は演奏会本番での記憶がいつもほとんどありません。ただ、いつもできないところができた、あるいはミスをしてしまったところは、急に意識が出現して、その場面のことはきちんと覚えています。だから、記憶がないときは、非意識の中で演奏していたということだったのだろうと思いました。
さらにもう一点、楽器を通しての経験から意識/非意識について言及したいと思います。最近吹奏楽界でも注目され始めた指導法及び練習法で、アレキサンダー・テクニークと呼ばれるものがあります。昨年5月に講習会に初めて行ってから、少しずつ関連記事を読み、自分の演奏やサークル活動の参考にさせて頂いていました。「『どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか』というところに、問題の鍵がひそんでいるのである。」という記述がありましたが、アレキサンダー・テクニークはこの点を非常に重視した指導法だと思います。そもそも、人間の体のつくりや、脳の働きを考慮に入れ、効率よく体を動かすことを目指す指導法であり、音を出す前の姿勢の作り方や、なにを考えて演奏に臨むべきか、ということを考えます。例えば、「◯◯するな」という伝え方は逆効果であること、合奏で失敗して謝るのはおかしいこと、自然なからだの在り方が最高のパフォーマンスに欠かせないことなどがあり、吹奏楽に限らず、英語教育でも応用できると感じたのを思い出しました。結局吹奏楽の側面を重視して見ていたことが多かったので、改めて英語教育でも使えるように見直したいと思います。
■ 今回の講義の中で一つの柱であった意識の観点から二点についてまとめていきたい。
まず意識の観点から一点目として、「非意識が意識を創り出しそれを使い利用する」という考えについて意見をまとめたい。正直なところ予習の段階では野口さんが何を言いたいのか自分の頭に上手く落とし込めていなかったが、柳瀬先生の「好きな人って意識しなくてもあらゆる感覚で探し当てて目で追ってしまっているでしょう」という具体例を聞いて即座に「外界の情報を基盤として無意識が意識を作り出している」ということを理解することができた。好きだと言う意識よりも先に勝手に目で追っていたり、知らぬうちにその人のことを考えてしまったりというような非意識に起きた現象が原因で、それが〇〇さんのことが好きだという意識を創り出していると考えることは確かにできると納得した。
二点目は前述の意識の話に伴い、「『人間はもともと意識で思うように制御(コントロール)できるようには出来ていないのだ』ということであり、『どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか』というところに問題の鍵が潜んでいる」という主張について、私はサッカーという競技を通じて思う節があった。
サッカーという競技は意識と無意識が何度も行き来する競技で、例えばプレーをしている時に左右どちらの足で、どこにトラップすればシュートが打てる、などと意識的に考えながらプレーする時もあれば、非意識のうちに体が動いてプレーしている時もある。私は小学1年生の時からサッカーをしているが、プレーの調子が良い時というのはなぜ調子がいいのか自分にもよく分からないうえに、特にあれやこれやと考えている感覚もない。気づいたら身体が意識よりも先に動いて、意識が現れた頃には既にシュートを放っていて、ゴールの中に吸い込まれていく光景だけが目の前に広がっている。このような現象が恐らく、無意識が意識を作り出す前に行動に現れ、それを最高・最善の意識として生み出しているということなのだと思った。
また、文章後半の「どのような状態を準備すれば、好ましい適切な自動制御能力が発揮されるか」という主張についてだが、この、状態を準備するというところをサッカー選手はとても大事にしているように感じた。自分を含めサッカー選手は「調子」というものにとても大きく左右される。だがそれを完璧にコントロールできる人はいない。しかしながら調子を良い状態に保ち続けるために、サッカー選手は食事に気を使い、何時に寝るか考え、体のケアをし、本当に効果があるとは思えないけれど気休めになるはずだとルーティーンをするのである。プロに近づけば近づく程、これを大切にしているように思うし、大切にしているからこそある程度高いクオリティでプレーし続けることができるのだと思う。従ってサッカー選手は、無意識のうちにこの最高・最善の意識を産出する状態の準備というものを行っていたのである。
そこでこの状態の準備というものを英語教育に当てはめると、非意識的に英語が口からでるという環境(状態)を教師が整備する必要があるということにつながる。その状態の整備というものは具体的に、英語を使うことの楽しさを感じさせること、失敗を歓迎する空気感、リアリティを演出することなどに終着するのではなかろうか。試合の前日にダラダラと過ごしお酒を飲んだりしていたら翌日動きが悪くなるのと同じように、文法説明を聞かせられた後に、急に英語を喋れ、などと言われても何の準備(英語を非意識的に発するための準備)もできていないのだから良いパフォーマンスができないのはもっともなことである。
■ 原初段階を大切にするということ -- 本日の授業で最も印象に残り、考えを深めるきっかけとなったお話です。原初段階とは、言葉を選択する以前の、何か言いたいこと、伝えたいことが心の中でもぞもぞしている状態のことだと解釈しました。現在の教育では、この部分を評価することはあまりないように感じます。(そもそも評価する必要もないのかもしれませんが)
それでは原初段階にはなんの意義もないのかというと、そうではありません。適切な言葉は見つけられなくても、何か言いたい、伝えたい、言葉にしたいと生徒が感じた瞬間にこそ学びは始まるのだと思います。僕らがこれまで大学の授業で学んだのは、生徒が何か言いたい、伝えたいと感じるような状況設定の上で言語活動をするということでした。この意味を僕個人としては「なんとなく、生徒がやる気が出て身につきやすいんだろうな」と考えていましたが、そうではないことに今日気づきました。英語の授業で上記のような指導がされたのは、「何か言いたい、伝えたいと生徒が感じたときにこそ心と体は密接に絡まりながらはたらく」からだと解釈しました。
もちろん評価の観点には関心・意欲・態度が含まれていますから、伝えようとする姿勢、意思も一応評価の対象にはされていますが、それでもやはり「できるようになったこと」に重点がおかれているように感じます。数値化されるものだけを見ていては、教育は現状維持。現状維持ではこのままAIに仕事を奪われていくことになるでしょう。意思、つまり心の働きを必要としない事柄についてはAIが担うことができるのですから。英語教師だけではなく、教育に携わるものとして考えなくてはならないことは、1人の人間が多くの子どもたちの成長に関わっていく中で何をしてあげられるのかということだと思います。もう4年生になりますが、しっかりと考えていこうと思います。
■ほんとうにことばを大切にするためには,ことばが選ばれる前のこの原初情報の段階を大切にしなければならない。選んで決めてしまうことを急がないで、ことば選び(動き選び)を大切にしなければならない。(野口 2003, 225)
『ことばを大切にするということ』から,S君が,自分たちは日本語でも,ことば選び(動き選び)を上手くすることができないと言ってくれました。そして私も,自分の本当に言いたいことを表現できない場面があるなあということを考えました。
私は,モーツァルトのレクイエムがとても好きなので,レクイエムのオーケストラDVDを見たり,モーツァルトの人生を描いた映画(アマデウス)を何度も見たりするのですが,1曲終わるごとになんとも言えない感覚に陥ります。これは素晴らしいTED Talksや合唱も同じで,プレゼンが終わってから拍手が起こるまでに微妙な間があります。そういうものを見たり聞いたりしたときに私たちは,「ためいきがでる」とか,「なんとも言えない」,とかいうあまりはっきりしない表現をとるように思えます。
その「なんとも言えない」感覚は,なかなか簡単に言語化できないし,言語化しようとすると,すべてが陳腐な表現に思えてしまうのです。そしてうまくことば選びをしたとしても,私の感じた,その感覚は聞き手にそのとおりには伝わりません。
野口さんが言っているのは,「やばい」とか「すげえ」とかそういう言葉を使うなということではなく,たとえ最終的に「やばい」としか言えなかったとしても,その時言語化したかった感情をああでもない,こうでもない,と慎重にことば選びをして,でもやっぱり「やばい」としか言えない,このようなプロセスが大切だと言っているのだと理解することができました。そして,慎重なことば選びを介しても,うまく表現できないとき,うまく表現できないからこそ,私たちは話し手の感情を直接経験したいと感じます。これが歌舞伎や能などの日本伝統芸能や,世界的に有名なオーケストラのコンサートが長い歴史の中で観客を絶やさない所以なのだろうと感じました。
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