2017年1月24日火曜日

入試や評価についての学生さんの感想

以下の記事は、「広大教英ブログ」からの転載です。

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学部3年生向けの授業「コミュニケーション能力と英語教育」で以下の記事を題材にして、コミュニケーション実践と客観性について討議しました。


■ 8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/820.html
■ 論文初稿:英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて
https://app.box.com/s/h7ev6jm5i6g56096xe8reqmxgc33b69o
■ 研究の再現可能性について -- 『心理学評論』(Vol.59, No.1, 2016)から考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/vol59-no1-2016.html
■ 比較実験研究およびメタ分析に関する批判的考察 --『オープンダイアローグ』の第9章から実践支援研究について考える--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/blog-post.html
■ 「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/elpa-vision-no02.html


以下は、その感想の一部です。入試や評価については小手先の改善ではなく、根本的に考え直すことが必要だと私は思っています。 小さな疑問を声に出して、対話を重ねながら大胆に行動を変えることが重要ではないでしょうか。



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■ 授業中に日本の大学入試について少し考えるところがありました。大学入試はAO入試や推薦入試を除くと、センター試験と二次試験の2つん試験を受けます。広大を例にすると受けたい学部によってセンターの科目を選び、その学部に指定されたいくつか科目の試験を受けるわけです。

さて、ここで見られる多元性といえば、センターでどの科目を選択するか、学部によって課される科目は何か、くらいです。学部をまたがっても科目の試験の問題の内容は同じですし、得点配分が少し変わるぐらいです。どうして学部によって試験の内容を変えたり、せめて問題だけでも変えたりしないのかなといつも思っていました。なんなら筆記試験以外の試験のあり方もあっていいかなと思います。

僕がフィンランドに行っている時、大学入試について話を聞く機会がありました。もちろん受ける大学や学部によって違うのですが、その試験の内容が大きく異なります。ある科目では試験の数日前に本が指定され、試験ではその本についてまとめたり、自分の意見を書いたりします。その後面接試験に進むことができれば、教育学部なら直接現役の教師と面接試験を行い、自分がこれまで教育に関してどのようなことを行ってきたか・考えてきたか、大学入学後にどのようなことをしたいか、などを聞かれます。

客観性という点では保障されているかどうかはわかりませんが、多元性の面では習える部分もあると思います。試験をする以上完璧なものなどないのかもしれませんが、数値に傾斜しすぎた試験にこだわりつづけるよりはもっと大学がほしい生徒を見極められるような、そしてなにより生徒がここにいきたいと頑張れるような試験のあり方を見直していくべきだと思います。




■ テストの貨幣化についてですが、あるショッピングモールで買い物をしていた時のことですが,なにやら特設ブースがあり,そこに多くの人が並んでいました。英会話の○○が,「特別割引」とか「初月無料」とかいう宣伝文句を掲げて,今なら授業料がとても安いというキャンペーンをしていました。TOEICのL&Rのテスト対策コースが特に入会の大チャンスらしく,人を集めていたのですが,値段を見てびっくり,なんと週1回50分のクラスで,いまなら14000円!!!というのを大々的に旗にプリントしていたのです。

私も含めて,教英生であれば,この値段を高すぎると感じるのは当然のことでしょうが,業者はこの値段を安い!!という風に宣伝しているし,実際に多くの人が入会しようとしているようでした。これほどまでにテストは貨幣化しているし,テストの結果が一つの大きなステータスとなっているんだと感じました。

また,某国立大学では,TOEICの点数に応じて学生に給付型の奨学金を給付しています。TOEIC650-750で5千円,751-900で2万円,901-で5万円というものです。おそらく,学生の英語力が上がると,国から予算が下りる,とか大人の事情があるのでしょうが,初めてこの制度を知ったときは,非常に驚きました。

このようなことを考えていると,私たちのように一つ一つ再考して,深い思考をとっている人はほとんどいないのだろうなという感じがしました。大勢が,何の疑問も抱くことなく,時代(裏の権力者と言ってもいいのでしょうか)の流れに合わせています。


■ お話の中で、TOEICやTOFELなどの換算表についても触れられました。私自身、この換算表についてはおかしいと思ったことがあります。

私はIELTSを受験し、そのスコアを使うことがあったので、TOEFLやTOEIC、英検に換算するとどれくらいである、というのを見ていましたが、私がTOEICで取った点数からIELTSを見てみると、かなり高いスコアが取れることになっています。逆に私が取ったIELTSのスコアだと、換算されたTOEICの点数は当時受験したTOEICの点数よりも150点近く低いものでした。

IELTSは四技能、TOEICは二技能を測るテストと違った種類のものにも関わらず、換算表にしてしまうことに私は抵抗があります。(もちろん、「それぞれのテストは方式が違うために、本来、同一に比較することはできません。あくまでも目安としてお使いください。」という注意書きはありますが。)

また、四技能を測ったテストにおいてトータルのスコアを出すことにも少し違和感を感じました。こういった試験ではトータルのスコアが出て、そのスコアを資格として用いることが多くあります。先生が授業中おっしゃったように、TOEICだとリスニングとリーディングを一緒にして点数を言ってしまうことで、曖昧さが生まれてきます。極端にリスニングの点数が良い人もいれば、両方同じくらいの点数の人だっているはずです。

四技能を測るテストだとさらにその境界線がぼやけてきてしまいます。四技能のうち、どの技能を重視するかは人によって、目的によって違います。トータルのスコアを出すことで、その人の大体の、本当にぼんやりとした能力は見えるかもしれませんが、はっきりとした能力は見えないでしょう(そもそも英語能力はこういった試験で本当にはっきりと見えるはずのないものでしょうが。) そういったぼんやりとしたスコアで入試や就職、昇格が決まってしまうと思うと、少し怖くなりました。



■ 二年ほど前に母校を訪れた時に、広島大学の教育学部に行きたいという後輩がいたので、「広大について何か聞きたいことはある?私も教育学部だから、学べることとか教えられるよ!」とワクワクしながら尋ねたのですが、その子の口からは「先輩が高校二年生の時の模試の偏差値はどれくらいでしたか?」という質問しか出ませんでした。

確かに、自分が今どのくらいのレベルにいるのかを知り、その現状に合わせて勉強をしていくということは、受験という戦争の中で生き残るために必要な手段かもしれません。しかし、それはあくまで手段であって、偏差値は全てではありません。大学を偏差値という数値的価値だけで判断するのではなく、その大学では自分の興味のある分野について十分学ぶことができる、など個々にとっての価値で判断している受験生が、果たしてどれだけいるでしょうか。


■ 授業前半は客観性についてでした。数直線的客観性は貨幣経済の視点からすれば当たり前のことであるがそれをそのまま人間や教育に当てはめることはおそろしいと感じました。英語教育を数直線的客観性で測るならばTOEICや英検などの資格を基準として測られると思います。しかしTOEICの点数だけで測れない能力があることやTOEICの点数も正確ではないことがあります。

先日私もTOEICの点数に幅が出るということを身を持って知りました。大学で受けたIPテストとその1週間後に受けた公式テストで約100点の差がありました。(高かった方の点数が自分の本当の実力だと言い張りたいですが、低い方の点数が自分の実力だと思い勉強したいと思います。)センター試験の方が受けるたびに点数が違うことは少ないかもしれませんがやはりひとつのものさしだけで判断することの不平等さを改めて感じました。やはり一元的客観性で考えることのほうが簡単なのでその方向性がなかなか変わらないのだろうと思います。


■ 私がこの講義を受ける中で最も違和感を覚えたのは、生徒の学力を数値化してしまうこと自体ではなく、それが昨今の日本の教育が目指していることと矛盾するということです。

この頃の日本の教育のキーワードは、思考・判断・表現、PISA型学力、コミュニケーション力などで、単に学力を数値化することをまさに止めようとしているのです。例えばセンター試験の廃止がそうです。廃止の理由の一つは、センター試験のために受験勉強というある意味特殊な学習に特化してしまい、思考力や表現力が養われないからというものです。また、生徒にアクティブラーニングをさせようと試行錯誤している先生も多いと思います。

しかし、英検準1級を持っている生徒はセンター英語200点とする案があることを聞いて本当に驚きました。高校と大学の接続を考えた入試改革をするには大学側の努力も必要だと思いますが、これではセンター試験勉強をする高校生が英検対策をし始めるくらいで、結局重要なところは何も変わりません。




■ 授業中に出ていた、中学校の英語の授業後に生徒に振り返りの時間を持たせるときに数字でつけさせる例が多いというお話について自分なりに思うところがありました。自分自身について振り返る習慣自体をつけさせる初期段階では、数字というスケールを与えることは必ずしも間違った方法ではないと思いますが、その後のメタ認知を高めるための他の手立てがないならば生徒たちは数字以外で自分を評価する術をもつようにならないと思いました。

教師が客観性についてどんな理解のしかたをしているのか、またその上で自己を客観的に見る目を養おうと思ったらどんな方法を取るのか。この授業を受講していて常に感じるのは教師の視野が狭い、または世界に対する理解が浅いと生徒の感性や能力が育つチャンスを根こそぎ奪ってしまうことにもなりかねないということです。客観性と言う概念ひとつとっても、言えることです。教師を目指す上で一生世界を広げ続ける努力をしようと思えていること自体にも大きな意味があるのではないかと思っています。



■ 「生徒の英語力が落ちた」とある人が言い,「どの局面からそれを言っているの?,いやそれはこの局面から考えたらおかしくない?」と誰かが二次観察をして,それに対してまた別の誰かが二次観察をすることで,どんどん二次観察がつながっていき,永遠と議論が続くことで新たな視点がどんどん増える,これが語り合うことの醍醐味だと感じました。

語り合うことこそが,我々にとっての客観性ですが,実際の教育現場では,この語り合える雰囲気というものが必ずあるとは言えないようです。ベテラン教師の言うことに違和感を抱いても,二次観察はできたとしても,それを伝えることができないということを聞いたことがあります。もし伝えることができても,なかなか認められないそうです。また,教員の多忙がやっと,頻繁にニュースに取り上げられたりするようになりましたが,多忙がゆえに二次観察をしようとしなかったり,できないのかなとも感じました。



2017年1月18日水曜日

アレントの行為論 --『活動的生』より--



この記事もアレントに関するお勉強ノートです。関連記事のURLはこの記事の最後に書いています。



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 情報伝達のためだけなら記号言語で十分(というよりそちらの方が効率的)だが、話者の人格が現れる行為の際は、情報伝達目的以上の働きをする語り合い (Sprache) が必要となる。

・原文
Es gibt keine menschliche Verrichtung, welche des Wortes in dem gleichen Maße bedarf wie das Handeln. Für alle anderen Tätigkeiten spielen Worte eine untergeordnete Rolle; sie dienen lediglich der Information oder begleiten einen Leistungsvorgang, der auch schweigend vonstatten gehen könnte. Zwar ist die Sprache durchschnittlich ein durchaus adäquates Mittel für Informationszwecke, aber sie könnte als solche auch durch eine Zeichensprache ersetzt werden, die zweckentsprechender wäre; in der Mathematik und anderen Wissenschaften, aber auch bei bestimmten Kollektivarbeiten, werden solch Zeichensprachen dauernd verwandt, und zwar einfach, weil die natürliche Sprache sich als zu umständlich für ihre Zwecke erweist. Der Umstand, der sie so umständlich macht, ist die Person. (S.218-219)

・拙訳
行為ほどにことばを必要とする人間の活動はない。他のすべての活動において、ことばは副次的な役割を果たすだけであり、情報を伝達するために使われるか、本当は黙っていても遂行できる行いに伴って使われるだけである。なるほど語り合いのことばは、平均して考えるなら情報伝達を目的とする道具としてはまったく有効である。しかしそのような語り合いのことばは、記号言語にとって換えられるものであり、むしろ記号言語の方が目的には合致しているようだ。数学や他の科学、さらにはある種の共同作業では、そのような記号言語は使われている。その理由は簡単で、自然に使われる語り合いのことばは、そういった目的のためには面倒であることが判明しているからである。語り合いのことばをそれほどまでに面倒なものにしているのは、人格である。

・解釈
単に作業をするだけなら、別に作業員同士が語り合う必要などなく、作業遂行に必要な情報を伝達すればよいだけである。そのような情報伝達には、曖昧・多義的であったり、比喩的・類似的拡張を含んだりするような「自然言語」(日本語や英語のように、日常生活で人間に使われている言語)はむしろ不向きで、一義的な解釈しか許さないような「記号言語」(数学で使われる記号や、コンピュータで使われる「機械語」や「プログラミング言語」などはその究極の姿かもしれない)の方が目的にかなっている。
しかしアレントが「行為」 (Handeln) と呼んでいる人間の営みは、そういった記号言語では行えないものであり、自然言語による語り合いを必要とする。それは行為により私たちの多面的な人格(人となり)が顕になるからである。

・訳注
Verrichtungは、次の文でTätigkeitと言い換えられているので、両方ともに「活動」と訳すことにした。
sie dienen lediglich der InformationInformationszweckeでの「情報」には、「伝達」ということばを補った。
Worte, Sprache, Zeichenspracheは、それぞれ「ことば」、「語り合いのことば」、「記号言語」と訳した。森先生の翻訳ではそれぞれ「言葉」、「言語」、「記号言語」となっており(223ページ)、特にSpracheに関しては森先生の翻訳の方が普通だと思うが、私はアレントがこの著全体で言おうとしていること(特にMacht(権力)とSpracheの強い結びつきなど)から上のように意訳した。アレントがSprachesprechenを使うときは、複数の人間が共存していることを大前提としている。しかし日本語で「言語」という場合、(少なくとも私の語感では)近代言語学的な影響から、それは研究対象的なモノとして認識され、研究者個人が扱うものと思われているようである。「言語を使う」といっても、それは個人でも使うことができると認識され、アレントのように常に人間の複数性を前提あるいは含意しているようには思えない。したがってSpracheに対しては、複数性を前提や含意せざるを得ない「語り合い」という訳語を使った。他方、機械処理すらできるZeichenspracheは、上記の日本語語感を反映して「記号言語」と訳した。



■ 自分が「何」であるかは、自分の手中にあり自分でそれなりに管理できるのかもしれない。だが、自分が「誰」であるかは、他の人々との関係性の中での自分の行為と語り合いで示されるので、どんな人もそれがどのように示されるかを思い通りにすることはできない。

・原文
Handelnd und sprechend offenbaren die Menschen jeweils, wer sie sind, zeigen aktiv die personale Einzigartigkeit ihres Wesens, treten gleichsam auf die Bühne der Welt, auf der sie vorher so nicht sichtbar waren, solange nämlich, als ohne ihr eigenes Zutun nur die einmalige Gestalt ihres Körpers und der nicht weniger einmalige Klan der Stimme in Erscheinung traten. In Unterschied zu dem, was einer ist, im Unterschied zu den Eigenschaften, Gaben, Talenten, Defekten, die wir besitzen und daher so weit zum mindesten in der Hand und unter Kontrolle haben, daß es uns freisteht, sie zu zeigen oder zu verbergen, ist das eigentlich personale Wer-jemnd-jeweilig-is unserer Kontrolle darum entzogen, weil es sich unwillkürlich in allem mitoffenbart, was wir sagen oder tun. (S.219)

・拙訳
行為と語り合いを行うたびに人間は自分が「誰」であるかを明らかにし、自らの本質という人格的独自性を能動的に示し、あたかも世界という舞台に上がるようである。それ以前の人間は、世界という舞台ではほとんど見えない存在でしかなかった。つまり、自分の肉体固有の形象と、同じように自分固有の声の響きを自らが意図しないままに舞台で現していただけだった。人間が「誰」であるかというということつまり人間の独自の性質は、ある一人が「何」であるかということとは異なる。天分、才能、欠点といったある一人が所有しておりそれゆえに少なくとも私たちの手中にあり管理できることは、私たちが自由に示したり隠したりすることができる。しかし本質的に人格的な「ある人がその時々において誰であるのか」ということは私たちが管理できない。なぜなら、私たちが何を言い、何を行うかが互いにとって明らかになるのは、すべて私たちの意図を超えているからである。

・解釈
自分の身体的特徴や天分・才能・欠点などは、自分が「何」 (was, what) であるかを示しているだけであり、それだけでは人間の世界という舞台に上ってはいるものの、ほとんど自分が「誰」 (wer, who) であるかを示してはいない。自分が「何」であるかは、自分で示したり隠したりすることが可能ではあるが、自分が行為を行い語り合うことによって明らかになってゆく自分が「誰」であるかというのは、自分の手中を離れて定まることであるので、誰もそれを思いのままにすることはできない。

・訳注
「誰」「何」の対比は重要だと思いましたので鍵括弧を付け足して表記しました。
„In Unterschied zu dem, was einer ist, im Unterschied zu den Eigenschaften, ...“ の箇所の文法的理解は正直私にとって難しい箇所で、私は „In Unterschied zu dem“ „im Unterschied zu den Eigenschaften“ は言い換えだと理解しましたが、ドイツ語に堪能な方からのご教示をいただきたいところです。
„was einer ist“ 複数形の„Menschen“とは異なりますので、前者は「ある一人」、後者は「人間」と訳し分けました。




■ 語り合いが、伝達された情報内容だけでなく、話者の人格までも現すのは、語り合う人々が互いに正直でいる時のみ。

・原文
Diese Aufschluß-gebende Qualität des Sprechens und Handelns, durch die, über das Besprochene und Gehandelte hinaus, ein Sprecher und Täter mit in die Erscheinung tritt, kommt aber eigentlich nur da ins Spiel, wo Menschen miteinander, und weder für- noch gegeneinander, sprechen und agieren. (S.220)

・拙訳
今までに説明された語り合いと行為の性質によって、話されたことと為されたことを超えて話者と行為者がともに姿を現す。この語り合いと行為の性質は、本質的には、人間が相互に語り合い行為するところで発揮され、人間が利得関係や敵対関係にあるところでは発揮されない。

・解釈
 語り合いと行為のうち、ここでは語り合いのことだけについて述べると、語り合いにおいては、話者が語った内容(伝達された情報)だけでなく、話者がどのような人なのかということが明らかになってゆく。語り合いのことばは記号言語以上のものである。だが、このような人格開示は、例えば語り合う人々が正直に率直に語り合う時にのみ可能になるものである。人々が利害関係や敵対関係にあるところでは、たとえことばが交換されても話者の人格は現れない。

・訳注
特になし。





■ 行為をなすことは、それが引き起こす無限定の結果(計り知れない数の人々の行為)を引き受けることである。

・原文
Weil sich der Handelnde immer unter anderen, ebenfalls handelnden Menschen bewegt, ist er niemals nur ein Täter, sondern immer auch zugleich einer, der erduldet. Handeln und Dulden gehören zusammen, das Dulden ist die Kehrseite des Handelns; die Geschichte, die von einem Handeln in Bewegung gebracht wird, ist immer eine Geschichte der Taten und Leiden derer, die von ihr affiziert werden. Die Zahl derer, die so affiziert ist im Prinzip unbegrenzt, weil die Folgen einer Handlung, die als solche ihren Ursprung außerhalb des menschilchen Bezugsystems haben kann, in das Medium des unendlichen Gewebens der menschlichen Angelegenheiten hineinschlagen, wo jede Reaktion gleichsam automatisch zu einer Kettenreaktion wird und jeder Vorgang sofort andere Vorgänge veranlaßt. Da Handeln immer auf zum Handeln begabte Wesen trifft, löst es niemals nur Re-aktionen aus, sondern ruft eigenstdiges Handeln hervor, das nun seinerseits andere Handelnde affiziert. Es gibt kein auf einen bestimmten Kreis zu begrenzendes Agieren und Re-agieren, und selbst im beschränktesten Kreis gibt es keine Möglichkeit, ein Getanes wirklich zuverlässig auf die unmittelbar Betroffenen oder Gemeinten zu beshränken, etwa auf ein Ich und ein Du. (S.236-237)


・拙訳
行為者は、他人に対して振る舞うだけでなく、行為を受ける人間としても振る舞っているので、行為者は単なる行為の能動者ではなく、常に行為の受動者でもある。行為と受容は同根のものであり、受容は行為の裏面である。物語とは、ある行為によって紡ぎだされるものだが、それは常にその物語によって影響を受ける者の行為と受難の物語でもある。そのように影響を受ける者の数は原則として限定できない。というのも、そういった行為は人間の関係システムの外部に起源をもつことがあり得るものの、人間が関わる事柄という果てしない織物という素材に入り込むものであり、その行為への反応がまるでそのまま連鎖反応となり、それぞれの出来事がすぐに他の複数の出来事へと遷移するからである。行為は、常に行為を行うことができる存在者に向けて行われるので、行為は単なる反-作用を引き起こすだけということは決してなく、それ自身独立した行為を呼び起こし、その行為が今度は別の行為者に影響を与える。一定の範囲だけに限定された行動と再-行動などというものはないし、それ自身で制限のかかった範囲においてさえも、行為の受容を本当に安心して、たとえば私とあなたというような直接の関係者もしくは想定者だけに制限できる可能性はない。

・解釈
 行為は、単なるモノに対してではなく、ある行為者に対して行うものなので、ある行為をする行為者は、その行為を受けた行為者が生み出す行為を必ず受容することになる。能動的な行為者は常に受動的にもならざるを得ない。行為と受容は表裏一体となっている。
 さらに人間関係の網の目は際限なく広がっていることを考えると、行為の影響がある特定の行為者だけにとどまることはありえない。行為者は自分が能動的に行為をすることにより、どんな結果(計り知れない数の人々の行為)を自分が受動的に受容しなければならないのかを予め知ることができない。

・訳注
森先生の翻訳で「行為」と翻訳されている „Handeln“は、動詞の „handeln“を名詞化した表現である。ドイツ語には類義語として „handlung“ もあるが、アレントは敢えて前者の動詞の名詞化表現の方をつかっている。そうなると、アレントはこの表現に、もともとの動詞がもっていた意味を強く込めたいのではないかとも思えてくる。
この動詞の意味は、一般には1) kaufen und verkaufen; 2) verhandeln; 3) etwas tun; etwas zum Gegenstand haben (だいたいの英訳を示すなら、1) buy and sell; 2) negotiate; 3) do something; 4) have something as an object) の意味をもつとされている (http://de.thefreedictionary.com/handeln)。これらのうちの最初の二義は、誰か他の相手を必要とする行いである。
ところが、この語は、英語では “action“とされている。その動詞の “act“の意味は、概略を示すと一般的にはto do something; to make a decision on some matter; to operate in a particular way; to produce an effect; to behave oneself in a particular fashion; to pretend; to perform as an actorとなっており (http://www.dictionary.com/browse/act) 、最後の二義を除くなら、特に誰か他の相手を必要とせずとも一人で行える行いである。日本語の「行為」「行う」ということばにおいても、特に誰か他の相手を必要としていることは特に求められていないように思われる。
こうなると、 „Handeln“ “action“や「行為」と訳すにせよ、ドイツ語の原義には「誰か他の相手を必要とする」という含意があるかもしれないことを覚えておくべきなのかもしれない。この側面を強調するために、 „Handeln“を「相互行為」と翻訳することも考えられないわけではないが、含意が強くなりすぎてしまいそうなので、この訳語を充てることはしなかった。
„Dulden“には「受容」とやや中立的な訳語を充て、 „Leiden“には若干キリスト教的な意味合いも含む「受難」という訳語を充てた。
 未だに解釈に確信をもてないのが、次の箇所の „ihr“ である。 „die Geschichte, die von einem Handeln in Bewegung gebracht wird, ist immer eine Geschichte der Taten und Leiden derer, die von ihr affiziert werden“
拙訳ではこの箇所の „ihr“ は最初の„die Geschichte“ を指すものと解釈した。二番目の „Geschichte“ „eine Geschichte“ と不定冠詞になっているので、「物語とは・・・影響を受ける者の行為と受難の物語でもある」と「も」を補って訳した。この訳出により自分なりには理解ができたように思うが確信はもてていない。





■ 政治は行為であり複数の人々が関わる営みであるが、この政治を一人だけで行いうる制作とするべきだという論は多い。そういった論は、民主主義や政治一般への疑義となる。

・原文
Allgemeinen gesprochen handelt es sich nämlich immer darum, das Handeln der Vielen im Miteinander durch eine Tätigkeit zu ersetzen, für die es nur eines Mannes bedarf, der, abgesonddert von den Störungen durch die anderen, von Anfang bis Ende Herr seines Tuns bleibt. Dieser Versuch, ein Tun im Modus des herstennens an die Stelle des Handelns zu setzen, zieht sich wie ein roter Faden durch die uralte Geschichte der Polemik gegen die Demokratie, deren Argumente sich desto leichter in Einwände gegen das Politische überhaupt verwandeln lassen, je stichhaltiger und beweiskräftigher sie vorgetragen sind. (S.279)

・拙訳
すなわち一般的に言って常に問題になるのは、相互関係にある多くの人々によってなされる行為を、他人の邪魔から隔絶され最初から最後まで自分の行いを支配している一人しか必要としない仕事と置き換えることである。この試みは、制作のような行いを行為の地位に置くことであるが、これは民主主義に反対する論の古くからの歴史において、まるで赤い糸のようにつながっている。この論は、反論し難く証明力が強いものとして提示されればされるほど、ますます容易に政治一般への異議へと形を変えられてしまう。

・解釈
一人だけで完結しうる制作と、つながりあった複数の人々によってなされる行為は、根本的に異なるものである。政治とは行為であるが、政治を行為でなく制作のように考えて、一人の人間が行うべきものとして考える反民主主義的な言説は昔から連綿と続いている。政治を制作のように誰か一人によって遂行されるべきものという考えが強くなればなるほど、複数の人々による民主主義など無駄だという意見が強くなり政治そのものも不要だという考えに陥ってしまう。

・訳注
ここでは、動詞の „handeln“ が、 „es handelt sich um“という用法で使われているが、これは上記の意味が込められた „Handeln“ とは特に関係のないものだろうと考えている。





■ 複数性があってこそ、行為が可能になり、人間が姿を現す公共空間も可能になる。

・原文
Die Aporien des Handelns lassen sich alle auf die Bedingtheit menschlicher Existenz duruch Pluralität zurückführen, ohne die es weder einen Erscheinungsraum noch einen öffentlichen Bereich gäbe. Daher ist der Versuch, der Pluralität Herr zu werden, immer gleichbedeutend mit dem Versuch, die Öffentlichkeit überhaupt abzuschaffen. (S.279)

・拙訳
行為に関するあらゆる難問は、複数性による人間存在という条件から生じているわけであるが、その条件がなければ、人間が姿を現す空間も公共領域もありえないだろう。それゆえ、複数性を支配しようとする試みは、公共性一般を廃止しようとする試みと常に同義である。

・解釈
 複数の人々が関わる行為に関する難問は、人間が複数の人々からなる存在であるという複数性から生じている。だが、複数性があってこそ、人間が人間として姿を現すことができるのであり、その場こそが公共の領域である。ゆえに、複数性を否定することは公共性を否定することである。
さらに言い換えるなら、多様性の否定は公共性の否定につながると言えるだろうか。「滅私奉公」などという時の「公」は、「私」の多様性・複数性を否定した一元的な概念のように思えるから、そういった場合の「公」とアレントの「公共性」はまったく違うことに気をつけておきたい。私たちが「公」に関する概念を使用する時、それは「滅私奉公」的な意味で使われているのか、それともアレント的な意味で使われているのか注意が必要。というより、そもそも私たちはどちらの意味で「公」に関する概念を規定するべきなのだろうか?

・訳注
 特になし





■ 独裁政治が短期的にうまくいくことが仮にあったにせよ、長期的にはそれは人々の語り合う力、すなわち民主主義的な権力の消失につながり、社会の衰退を招く。

・原文
Die unmittelbaren Verteile der Tyrannis sind so offenkundig – Steigerung der gesellschaftlichen Produktivät, Sicherung der innenpolitischen Verhältnisse, Stabilität der Regierung --, daß es in der Tat sehr verführerisch ist, sich auf sie einzulassen; nur sollte man nicht vergessen, daß mit diesen Vorteilen der Weg zum Untergand gepflastert ist, nämlich zu dem unvermeidlich eintretenden Verlust des Machtpotentials, der um so gefährlicher ist, als er sich erst in einer verhältnismäßig fernen Zukunft bemerkbar zu machen braucht. (S.280-281)

・拙訳
専制君主の直接的な長所は非常に明白で、それは社会的生産性の向上、国内政治関係の安定、政権の持続などに現れるので、事実、専制君主制に肩入れしてしまう誘惑は非常に強い。ただし、これらの長所と共に没落への道が敷き詰められていることを忘れてはならない。つまり、語り合う力の可能性の消失が不可避的に生じてしまうのである。この消失は、かなり遠い未来になってしか人々の注目をあびないから、よりいっそう危険である。

・解釈
 「地獄への道は善意で敷き詰められている」ともしばしば言われるが、一見優秀な人間に政治を任せてしまえば、生産性も上がるし政争もなくなるしいいことづくめであるようにも思えるかもしれないが、長期的にはそれは災厄を招く。人々が語り合い、多様な見解を反映しながら政治を行う文化が消失してしまうからである。「権力」は特定の人に専有的に与えられるべきではなく、人間の複数性が認められ活用される開かれた空間にすまう人々に与えられるべきである。

・訳注
最初の方にある „sie einzulassen „sie“ は、 „die unmittelbaren Verteile der Tyrannis“ „Verteile“ ではなく、 „Tyrannis“ であると理解した。
最後の部分の、 „als er sich erst in einer verhältnismäßig fernen Zukunft bemerkbar zu machen braucht“ の部分の解釈は正直自信がない。一応、 „brauchen zu machen“ という言い方が、 „erst“の否定的含意(~してはじめて≒~するまでは・・・でない)をもって成立しているのかと解釈したが、それでもこの表現の意味が今ひとつよくわからない。




■ 人の世の複数性により、人間の行為は予測不可能な複合的なものとなっている。

・原文
andereseits ist diese Unabsehbarkeit dem Medium der Pluralität geschuldt, in dem das Handeln sich bewegt, insofern ja die Folgen einer Tat sich nicht aus der Tat selbst ergeben, sondern aus dem Bezugsgewebe, in welches sie fällt, bzw. aus der Konstellation, in welcher eine Gemeinschaft von Ebenbürtigen, die alle die gleiche Kapazität des Handelns besitzen, gerade zueinander steht. Daß Menschen nicht fähig sind, sich auf sich selbst zu verlassen oder, was auf dasselbe herauskommt, sich selbst vollkommen zu vertrauen, ist der Preis, mit dem sie dafür zahlen, daß sie frei sind; und daß sie nicht Herr bleiben über das, was sie tun, daß sie die Folgen nicht kennen und sich auf die Zukunft nicht verlassen können, ist der Preis, den sie dafür zahlen, daß sie mit anderen ihregleichen zusammen die Welt bewohnen, der Preis, mit anderen Worten, für die Freude, nicht allein zu sein, und für Gewißheit, daß das Leben mehr ist als nur ein Traum. (S.312)

・拙訳
他方、この予測不可能性は人の世が複数性という素材でできていることからも生じている。複数性において行為が展開してゆく場合、ある行いの結果はその行い自身からのみ生じるのではなく、その行いが組み込まれている関係性の網の目あるいは布置から生じる。その関係性においては、同じように行為を行う能力を有する対等の者が互いに一つの共同体を成立させている。人間が自分自身を頼りにすることができないということ、もしくはそれと同じことになるのだが、自分自身を十分に信頼できないということは、人間が自由であるために支払わなくてはならない代償である。そして人間が自分の行いを支配できないということ、行いの結果を知ることができず、行いがもたらす未来を頼りにすることができないということは、人間が自分と同じような他者と共に世界に生きていることの代償である。言い換えれば、それは人間が孤独に存在しているわけでないという喜び、および、生きているということは単なる夢うつつ以上のことであるという確証のための代償である。

・解釈
 人の世が複数性において成り立っている以上、どんな人のどんな行為も他の人の他の行為と関係する。したがって、ある行為がどのように発展しどのような帰結を迎えるかは誰にも知り得ない。これは人間が複数性において生きていることの代償であるが、それだからこそ人間は孤独ではないという喜びと人生は幻想ではないという確証を得ることができる。
 ここで私たちは複数性と複合性の関連を指摘してもいいのかもしれない。人の世が一種類の人間だけで構成されていない複数性の世であり、人々は行為においてつながっている以上、ある行為が引き起こす次の事態(さらにその次、次の次・・・)の組み合わせは膨大であり、誰も行為の発展と帰結に必然性(「こうならなくてはならない」)を見出すことはできない。その意味で人間の行為は複合的であると言えるだろう。

・訳注
„Medium der Pluralität“ は「人の世が複数性という素材でできていること」とやや補って訳した。„Medium“ (medium) は非常に訳しにくいことばで、従来私は「媒体」と訳していたが、最近は「素材」ということばの方がしっくりとくるのではないかと考えている。
„Tat“ „Handeln“ に関してはほぼ同義かとも思われるが、後者がアレントにとっての主要概念であるので訳語の上でも一応の区別をし、「行い」と「行為」と訳しわけた。




 政治における行為は、人間の複数性と世界の複合性により、思いもよらない結果に展開しうる。近代合理主義的な認識論により政治を行為でなく制作として考える近代政治哲学は挫折せざるをえない。

・原文
Die im Bereich des Herstellens durchaus berechtigte Vorstellung, daß nur das wirklich sein wird, was ich im Begriff stehe zu machen, wird ständig widerlegt durch den Gang der Ereignisse, die durch Handeln entstanden sind und in denen nichts sich häufiger ereignet als das absolut Unerwartete. Im Modus des Herstellens zu handeln, bzw. in der Form eines Kalküls mit Konsequenzen zu denken, heißt, das Unerwartete und damit das Ereignis selbst auszuschalten, da es ja unvernünftig bzw. irrational wäre, sich auf das einzurichten, was nicht mehr ist als ein »unendlich Unwarscheinliches«. Da aber, jedenfalls auf dem Gebiet menschlicher Angelegenheiten, das Ereignis die eigentliche Konsistenz der Wirklichkeit und darüber hinaus sogar das Wirklichwerden eines Wirklichen konstitutiert, ist es höchst unrealistisch, gerade mit ihm nicht zu rechnen, d. h. nicht darauf gefaßt zu sein, daß sich etwas ereignen wird, was kein Kalkül vorausgesehen hat. Die politische Philosophie der Neuzeit, deren größter Vertreter Hobbes geblieben ist, scheitert an dem unlösbaren Dilemma, daß der Rationalismus irreal und der Realismus irrational ist – was nichts anderes sagt, als daß Wirklichkeit und menschliche Vernuft nicht mehr zueinander finden. Hegels gigantisches Unterfangen, »den Geist mit der Wirklichkeit zu versöhnen« -- und eine solche Versöhnung is bis heite das tiefste Anliegen aller Geschichtsphilosophie --, zeigte bereits an, daß die neuzeitliche Vernunft an den Klippen der Wirklichkeit gescheitert war. (S.382-383)

拙訳
私が作ろうと概念化することだけが現実となるという考えは、制作の領域においてはまったく正当なものであるが、行為によって生まれしばしばまったく予期されなかったこととなる出来事の展開によっては、しばしば反駁される。制作の様態で行為するということ、あるいは結果を含めて計算するという形式で思考することは、予期せざることを排除すること、ひいては出来事そのものを排除することに等しい。というのも、「限りなく、ありそうもない」に至るまでのありそうもないことに対して備えをしておくことは非理性的あるいは非合理的となるからである。しかし、人間の関わることについては、出来事こそが、現実としての一貫性を構成し、さらには現実が現実となることを構成しているのであるから、その出来事について計算しないこと、言い換えるなら、計算では予見できないことが起こりうるということについて覚悟ができていないことは最高に非実在論的な考え方なのである。近代の政治哲学の代表者はいまだホッブスであるが、近代政治哲学は、合理論は非実在的であり、実在論は非合理的であるという解決不可能なジレンマにぶつかり挫折した。これはまさに、現実と人間理性が互いに出会うことができないということである。ヘーゲルの「精神を現実と和解させる」という巨人的な企て そのような和解こそ、今日に至るまでのすべての歴史哲学においてもっとも深い関心事であった がすでに示唆していたことは、近代の理性は現実という岩礁にぶつかって難破したということである。

・解釈
制作においては、人は限られた素材と手法によって自ら意図した作品を作り上げる(ここでは工業製品などの制作を特に考えている。制作の中で自分の意図を超える作品が出来上がったといった芸術作品の制作は、議論を単純にするために今は考えない)。だが、この制作の考え方を現実世界の政治にもちこみ、現実世界を自分が設計の意図通りに作り変えようとしても失敗する。政治とは複数の人々が関わることであり、関係する一人ひとりがどのような言動をとるか、そしてその言動が他の人にどんな言動をさらに引き出すかなどに関してはあまりにも多くの可能性があるため、物事が当初の意図通りに進むとは限らない、というより、たいていは意図通りには進まず予想外の展開を迎えるからである。自分の思い通りにならないことに苛立つ為政者は、民主主義を嫌い、独裁を求める。独裁は、もし強大な暴力装置や強制組織によって裏付けられるなら、独裁者(為政者)の当初の設計通りに社会を制作できるが、その独裁政治は、独裁者の思いもよらなかった社会の変化などに対応しきれずにやがて凋落する(あるいは暴走する)。このことを古今東西の歴史から学んだ人類は、現在では多くが民主主義の政治 -- 世界の複合性に人々の複数性と言論の自由で対応しようとする政治-- を好む。しかし近代政治哲学は、近代的な合理性、もっと具体的に言うなら事物の制作でその有用性が認められた技術的な合理性を考え方の基盤に置くため、合理性は実在する現実世界を完全に説明できず、実在する現実世界は完全には合理的ではないという事実の前に、自らの政治哲学を貫徹できないという困難に陥った。だが、これは複合的な現実世界を舞台に複数の人々が関わるという複合性と複数性を勘案しないから生じた困難である。そもそも複合性と複数性が働く対象に対して、計算予測を可能にする合理性を前提とすることが間違いである。私たちは政治を、制作として行う営みとして考えるのではなく、複数の人々の行為が複合的に展開する営みと考えるべきである。


・訳注
Unrealstischは「非実在論的」と訳し、計算では予見できないことが起こりうるということについて覚悟ができていないことは、人間世界のことの実在性を捉えていないということを表現しようとした。ここではrealistishを実在(論)的、wirklichを現実的と訳し分ける方針を愚直に貫いている。







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