2016年11月15日火曜日

「言語学という基盤を問い直す応用言語学?―意味概念を複合性・複数性・身体性から再検討することを通じて―」 (応用言語学セミナーでのスライドとレジメ)

以下の応用言語学セミナーで講演をさせていただくことになりました。(より詳しい情報と申込方法はここをクリック

ここではその際に私が投映する予定のスライドと配布する予定のレジメを公開します。

ご興味のある方は、それらをダウンロードした上でご参加いただけたら幸いです。




第 19 回応用言語学セミナー
ー応用言語学を考えるー
日時:2016 年 11 月 26 日(土)
場所:明海大学浦安キャンパス
講義棟 1 階 2102 教室

12:30 受付開始
司会:佐々木文彦(明海大学外国語学部日本語学科教授)

13:00‐13:15 趣旨説明
大津由紀雄(明海大学大学院応用言語学研究科長・外国語学部長)
「なぜ、いま、「応用言語学を考える」のか?」

13:20‐14:10
柳瀬陽介(広島大学大学院教育学研究科英語教育学講座教授)
「言語学という基盤を問い直す応用言語学?
―意味概念を複合性・複数性・身体性から再検討することを通じて―」

14:20‐15:10
安田敏朗(一橋大学大学院言語社会研究科准教授)
「応用言語学は応用がきくのか――日本の言語政策のあり方から考える」

15:15‐16:05
瀧田健介(明海大学外国語学部准教授)
「極小主義プログラムと応用言語学」

16:20-17:30
パネルディスカッション



柳瀬の投映予定スライドは下からダウンロードしてください。








配布予定の印刷レジメの内容は以下の通りですが、ここをクリックすればファイルをダウンロードできます。








言語学という基盤を問い直す応用言語学?
意味概念を複合性・複数性・身体性から再検討することを通じて

柳瀬陽介(広島大学大学院教育学研究科)
yosuke@hiroshima-u.ac.jp
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/

1 序論
1.1 発表者の自己記述:研究では、心理言語学から言語学と哲学の架橋へと移行し、後にさらに脱言語学化。教育学部での職責では現実対応優先。
1.2 応用言語学の定義:大津定義と米国応用言語学学会定義の違い
1.3 具体例から:トランプとクリントンの演説の意味を私たちはどのように感得したか。
1.4 意味の分類:現象学的意味は、言語学的意味(意味論的意味と語用論的意味)だけでなく、非言語学的意味(周辺言語学的意味と無言語学的意味)からなる。
1.5 科学の定義:アブダクションと反証可能性。反証可能性は再現可能性を前提とするが、複合的なシステムでの再現可能性は低い。

2 意味概念に関する哲学的探究
2.1 複合性:意味は、意識(およびコミュニケーション)という自己生成システムの素材。意味は、現実性と可能性のつながり。かくして意味は、意識の複合性を表象する。
2.2 複数性:「異なれども対等」な人間が複数いるのが「人間の条件」。意味が生じるのは、私たちが複数形で存在する限りのこと。現実は数えきれないほど多くの観点と視点が同時に存在していることから生じる。無数の観点と視点から、何かが共有されるようになる。
2.3 身体性:言語は「からだ」から生まれ、「こころ」で感じられ、「あたま」で広がる。言語は、非言語的な形象の翻訳あるいは変換。

3 記述と存在
3.1 統合情報理論:科学的な記述は存在の代わりにならない。核分裂の記述はいかなる核エネルギーも生成しない。
3.2 具体例に戻る:トランプとクリントンの演説の意味理解における複合性、複数性、身体性を現時点で扱いうるのは哲学

4 結論
4.1 応用分野にとって、科学は基盤でなく先端部分である
4.2 応用分野にとって、研究対象は自らを含む出来事である






2016年11月8日火曜日

今井邦彦・西山佑司 (2012) 『ことばの意味とはなんだろう』岩波書店 (「第19回応用言語学セミナー 応用言語学を考える」の準備の一環としてのまとめ)



以下は、11月26日(土)に明海大学浦安キャンパスで行われます「第19回応用言語学セミナー 応用言語学を考える」に登壇するための基礎資料の一つとして作成したものです。したがって、この『ことばの意味とはなんだろう』という書籍のごく一部 (私の発表に関連する部分) についてしかまとめていないことを予めお断りしておきます。


明海大学 応用言語学セミナー



セミナーにご参加希望の方は、プログラムをご覧の上、11月18日までに同セミナー運営委員会まで申込のメールを送ってください。




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■ 二種類の「ことばの意味」

言語学の見解では、「ことばの意味」には二種類あることになっています。意味論的意味と語用論的意味です。意味論的意味は、「言語表現だけを解釈することによって得られる意味」で、語用論的意味は「言語表現にコンテクストをプラスしたものを対象とした解釈によって得られる意味」です。(p.2)

この見解に対してしばしば以下のような反論が加えられます。(p.286)

(a) 意味論と語用論の区別ははっきりしない。
(b) 言語表現の意味を、コンテクストにおける具体的な使用から独立のものとして規定する試みはナンセンスである。
(c) ことばの具体的な使用から切り離したレベルでの言語表現自体の意味は存在しない。

この本はこれら (a) から (c) の主張にはすべて反対の立場をとっていますが (p.286) 、その説得力は十分で私もこれらの主張には反対します。



■ 「志向性」 (intentionality) の排除

しかし、この本そして標準的な言語学が行っている「意味の科学」は、私たちが「心が向かっている現象」や「心がとらえている対象」と述べていること、言い換えるなら「志向性」 (intentionality) を扱いません。そのようなものを扱おうとすれば、自然科学の方法が使えなくなるからです。


本書でもChomsky (1995) のLanguage and Nature という論文からの一節が引かれています。

general issues of intentionality, including those of language use, cannot reasonably be assumed to fall within naturalistic inquiry.  (p.27)

言語使用の問題も含めて、志向性についての一般的な問題が、自然科学的研究の領域に入ると想定することは理にかなっていない(拙訳)

ただし本書でのこの引用の意図は、チョムスキーの意味観に対する異議を唱えるためであり、本書での主張はあくまでも意味論と語用論は自然科学的研究として成立するということです。

しかし、私は自然科学的研究が適用できない領域での「意味」(後述)--あるいは志向性-- の議論をすることも重要だという立場を取っていますので(つまりは、自然科学的方法ではない方法で「意味」を語ることもナンセンスではないという立場で物事を考え行動していますので)、上記のチョムスキーの主張を、本書を離れてもう少し補っておきます。

チョムスキーは2000年のNew Horizons in the Study of Language and Mindという本で以下のように述べています。

More generally, intentional phenomena relate to people and what they do as viewed from the standpoint of human interests and unreflective thought, and thus will not (so viewed) fall within naturalistic theory, which seeks to set such factors aside. Like falling bodies, or the heavens, or liquids, a "particular intentional phenomenon" may be associated with some amorphous region in a highly intricate and shifting space of human interests and concerns. But these are not appropriate concepts for naturalistic inquiry. (p.22)

もう少し一般論として述べるなら、志向的現象とは、人間および人間の行為を、人間的興味と習慣的思考の観点からとらえるものであるが、そのような現象は(そのようにとらえられる限り) 自然科学的理論の領域には入り得ない。自然科学的理論はこういった要因を排除するからである。落下物体や天あるいは液体と同じように、「ある特定の志向的現象」は、定まった形式を有しないままに、非常に微妙で移ろいゆく人間の興味と関心と関連しているかもしれない。だがこれらは自然科学的研究にとっての適切な概念ではない。(拙訳)

つまり、私たちの日常的な興味・関心・考え方が、直接に自然科学の概念となることはないということでしょう。これは自然科学という特殊な(しかしとても強力な)近代文化の特質を考えるなら、誰も反対できない正論かと思います。

しかし、繰り返すようになりますが、教育学部という場所で教員養成や教師教育を中心として英語教育という「現実世界問題」(あるいは「応用的」な問題)に関わっている私としては、自然科学的研究ばかりが研究ではないと考えています。むしろ、もし自然科学的研究が、その方法論上、現実世界問題にとって重要な現象を排除してしまうのなら、自然科学的研究ではない研究を行うべきだと考えています(私の場合でしたら哲学的探究です)。私は本書の主張に納得しますしそれを否定もしませんが、同時に本書が示す方法論だけが唯一の方法論ではないと考えています。ですから、本書が方法論的に排除せざるを得ない「意味」も、本書が示す方法論以外の方法で探究すべきだと考えます。



■ 広義の「意味」の分類

ここで本書をさらに離れて、私が考えている「意味」の分類を図示します。(追記:以下の二枚の図は2016/11/10に差し替えました)。




当たり前のことを言うようですが、言語学がとらえる「ことばの意味」は、私たちが広義で語る「意味」のすべてを包含はしていません。また、日常の言語使用では、その時の言い方(身ぶりや表情)が非常に重要ですが、それも言語学の語用論では通常、研究対象とはされていません。さらに英語教育という現実世界問題を扱っている者としては、「英語を学ぶ意味」や時には「生きる意味」について真剣に問いかけてくる学習者についても考察をする必要があります。

そうなると自然科学としての言語学が扱う範囲の「意味」を越えて、自然科学ほどの方法論的厳密性はないものの、できるだけ丁寧に物事を考えてゆくという哲学という営みが扱う範囲の「意味」で考えてゆきたいというのが私のような「応用分野」で仕事をする者の発想になってゆきます。



以下、この本の私なりのまとめを続けますが、そのまとめをする私はこのような意味観をもっているということを念頭においてください。



■ 自然科学(経験科学)の方法

ここまで自然科学の方法論については特に何も述べていませんでしたが、本書での自然科学の方法の定義を紹介しておきます(ただし以下の引用箇所では「自然科学」ではなく「経験科学」という用語が用いられていますが、私が本書を読む限り、この「経験科学」はチョムスキーの言語学の方法を述べているものであり、この文脈では「経験科学」を「自然科学」と読み替えることには問題はないと思います。)

本書はこのように宣言しています。

反証可能性を維持し、アブダクションを武器に考究を進める研究、つまり演繹法則的説明法ないし仮説演繹法をつづめて「経験科学」とよぼう。(p. 53)

それではアブダクションと反証可能性についても簡単にまとめておきましょう。



■ アブダクション

本書はアブダクション (abduction) を次のような形式をとる推論として定義しています。(pp.47-48)



(i) ある不可解な事実・現象Cがある。
(ii) しかしもしAが真であるとすると、Cは少しも不可解ではなく、当然のこととなる。
(iii) よってAを真と考えるべき理由がある。


このアブダクションは「データを飛び越した仮説設定」であり、論理学では「後件肯定の誤り」とされます ( i. C; ii. A→C; iii. ∴A)。ですから (iii) は「よってAは真である」ではなく「真と考えるべき理由である」と述べられています。(p.49)



■ 反証主義 (falsificationism)


反証主義 (falsificationism) の考え方とは異なる確証主義 (verificationism) の考え方では、何か仮説の主張をする際にその仮説が経験的に確証できる (empirically verifiable) ことだけでその仮説を科学的とします。しかし、反証主義の考え方では、どんな観察(経験的な確証)が得られたら自分が主張する仮説を否定(反証)できるかという反証可能性 (falsifiablity) を明確にした上で、その反証可能性にもかかわらず観察やテストに耐え続けて、反証されなかった仮説のみを科学的とします。

だが実際には、仮説に対して少しでも反証が加えられたらその仮説は直ちに斥けられるわけではありません。もしそうしていたら、わずかの観察データの狂いなどで本来は捨てるべきでない仮説が捨てられてしまい科学の発展が見込めませんから、あまりに教条的な反証主義は「素朴すぎる反証主義」 (naïve falsificationism)  と呼ばれます。実際の科学の歴史が示しているのは「洗練された反証主義」 (sophisticated falsificationism) であり、科学者は自分たちの仮説を、研究プログラム (research programme) としてまとめ、その中の「修正を許さない堅固な核」を守りつつ、細かな反証に対して再観察や理論の微修正などで自分たちの理論を発展させてゆきます(もちろん「堅固な核」が守りきれなくなったらその理論は捨て去られますが)。



■ 人格的説明と亜人格的説明

ここで先程の、私たちの日常的な興味・関心・考え方に基づく説明について再び考えましょう。こういった説明は、私たちが意識的に考えている理由で、これを人格的 (personal) な説明と呼ぶことができます。(p.83)  しかし私たちが実際に行っていることの多くは、そういった意識的な人格的な説明が生じる以前に、無意識的・自律的・機械的、かつ迅速に行われています。こういった実態をきちんと説明するためには、私たちの行為や行動を、亜人格的 (sub-personal) な要素にまで還元した上で亜人格的な説明を行うことが必要となります。先程の志向性に関する議論と重なりますが、「人格的状況や行動は、そのままでは科学的研究の対象になりえない」 (p.83) わけです。

本書の著者はここで、「関連性理論以外の語用論の多くが、人格的説明が科学的説明として通用すると信じているかに見える」 (p.83) 点を憂いていますが、これは言語学はあくまでも自然科学であるべきだという信念から来ている憂いだと私は理解しています。

しかし、自然科学以外の説明法を認める立場 --たとえそういった説明法が自然科学の説明ほど厳密ではなくても、まったく何の説明もないよりもマシだと考える立場-- からすれば、人格的説明もアリだと思えてきます。誤解のないように付け加えておきますと、同じ対象を自然科学的方法と非自然科学的方法(例えば哲学的方法)で説明できるなら、前者の方が高度な説明を提供できることは間違いありませんが、もしある対象が自然科学的方法では扱い得ないのなら、その対象については非自然科学的説明方法を使用することは極めて合理的であるということです。

いや、もっと議論を呼ぶ主張をしてみましょう。そもそも説明がなぜ必要となるかといえば、「目の前の問題を解決するため」というのがpragmatism(いい訳語がないので「現場主義」と訳しておきます)の考え方でしょう。そういった考え方からすれば、問題を抱えている当事者には、亜人格的説明よりも人格的説明(いわゆる「ナラティブ」)の方がよく伝わるし、また問題解決に役立つことも十分考えられます。そもそも説明は、最終的には自然科学的説明に収斂されるべきだというのは「科学主義」 (scientism) とも呼べるかもしれない独特の考え方ですから、「現場主義」からすれば、複数の説明法を、それらの違いや特徴をよく理解した上で使い分ける方が「科学主義」的な禁欲よりも合理的に思えます(この点、Dennettの physical stance / design stance / intentional stance の区別は有用であると思いますが、ここではこれ以上脱線することを怖れ、言及するだけに留めておきます)。




■ 「言語的意味」

本書の説明に戻ります。

上のような方法論に基づき、本書はことばの「意味論的意味」(あるいは「言語的意味」)の存在、そしてその存在を認めることで「語用論的意味」の解明も進むことを見事に論証します。その具体的な論証こそがこの本の主要部なのですが、ここではそういった具体的な論証を省き、この本の意味観を中心にまとめているのはご承知のとおりかと思います。

ですからここでは本書が「言語的意味」を説明している箇所を引用します。


今、言語表現Sで文の場合を考えよう。Sの意味とは、当の言語体系の中でS自体が有している意味であり、より正確には「文の言語的意味」とよばれる。これは、Sが使用される具体的なコンテクスト情報(話し手が誰でいかなる意図を有しているか、聴き手が誰でいかなる信念を有しているか、どのような状況でその文が使用されているか、といった言語外の情報)から完全に独立のものであり、当該言語の言語能力を有している者であれば、Sについて知っているところの情報である。 (p.231)


また、この言語的意味表示は、さまざまな具体的な語用論的意味(解釈)から中立的なものでなければならないと同時に、その意味表示に語用論的操作を適用した結果、それらの具体的な語用論的意味(解釈)が得られるものでなければならない (p.235) とも本書は述べています。

さらに本書は、意味論的意味を仮定することにより語用論的意味の解明が進む事例だけでなく、関連性理論で語用論的意味を仮定することにより意味論的意味(言語的意味)の表示についての理解が明確になる事例も示します。さらにこれまで「純粋に語用論的なプロセス」とみなされてきた事例についても、意味論研究が貢献できることを示したりもしています。(p. 285)

私はそういった本書の具体的な論証に反論できる材料(および能力)をまったくもちません。しかし、本書の意味観だけが唯一の意味観ではなく、場合によっては別の意味観を採択した方が合理的でもあるというののが私の見解であるというのはこれまで述べてきた通りです。

最後に、本書の「ことばの意味とはなんだろう」という本書のタイトルでもある問いについてまとめて、私なりの考えを蛇足で付け加えることにします。



■ 「ことばの意味とはなんだろう」

このように自然科学的な意味論の構築を行う筆者ですが、一般人は「ことばの意味」として意味論的意味ではなく語用論的意味の方を最初に考えてしまうことはもちろんのこと承知しています。しかし、ことばの意味の考察が日常的な概念(あるいは人格的説明)にとどまっていたら意味の科学的研究は先に進まないというのが本書の前提です。本書はその前提に基づき、言語的意味表示(あるいは論理形式)を示しましたが、それはあくまでも経験的仮説にすぎず、それがどこまで正しいかは、究極的には妥当な意味理論が判定してくれると筆者は述べます。 (p.287)

筆者は次のように述べて本書を終えます。

したがって「ことばの意味とはなんだろう」に対する本当の答えは、実は、妥当な意味理論が教えてくれるということになる。

 では、そもそも妥当な意味理論とは何であろうか。それは、たんに意味理論の内部だけで決まるものではなく、語用理論、統語理論、さらには音韻理論との関係で、妥当な言語理論全体のなかで経験的に決まるものなのである。科学的な意味理論は妥当な言語理論における他の下位理論と整合的なものでなければならないからである。ということは、「ことばの意味とはなんだろう」に対する究極の答えは妥当な言語理論が教えてくれるということになる。このことを十分念頭において、ことばの意味を科学的にどこまでも深く追求していく営為こそ、「意味を科学する」ということにほかならない。本書はその営為の一端を紹介したものである。(p.287)

たしかにこの本からは「意味を科学する」ことを教えていただきました。とても勉強になりました。しかし、「ことばの意味とはなんだろう」に対する究極の答えは妥当な言語理論が教えてくれる、という箇所には少しひっかかりました。科学としての言語理論が、日常生活での私たちの言語使用よりも高次の階層(あるいは独立した階層)に存在し、そこから一方向的に「ことばの意味」についての解答を授けるといったように解釈できたからです。

しかし「意味」あるいは「ことばの意味」ということばは、上の図で示した広い意味で使われていることばです。科学としての言語理論が「意味」や「ことばの意味」の科学的な意味について教えてくれるというのならともかくも、それらの一般的意味を教えてくれるというのには納得がいきません。

またそもそも科学としての言語理論(言語学)の説明や記述においても日常言語表現は使われます。もう少し正確に言いますと、言語学は、対象言語として日常言語表現を引用するだけでなく、それらの説明や記述、つまりはメタ言語においても、科学的専門用語だけでなく日常的な言語表現を使います。別の言い方をしますと、言語学は科学的専門用語だけでなく日常言語表現によっても構成されています(少なくとも現時点までで、対象言語の引用以外に、日常言語を一切使っていない言語学論文(例えば、対象言語以外はすべて数学的表現で書かれた言語学論文)は私は見たことがありません --人工知能が人間の知性を超えたらそのような論文も書かれるようになるかもしれませんが、これ以上の脱線は自制します)。

そうなると言語学と日常的言語使用の関係は、エッシャー (Escher) のDrawing Handsの関係に似ているように思います。言語学が日常的言語使用を記述している一方、言語学は日常的言語使用によって記述もされているというわけです。





これと同類の議論は、ウィトゲンシュタインを引用しつつ意識概念について論じたMurray Shanahan (professor of cognitive robotics at Imperial College London) の以下の論にも見られると思いますが、今はそれについて考え直す時間がないので、備忘録としてここに言及しておくのみにとどめます。

Murray Shanahan
Conscious exotica



と、極めて個人的なまとめになりましたが、この本のようなきちんとした研究書をもとに「応用言語学」と時に呼ばれる研究のあり方について考えてゆきたいと思います。ご興味のある方のセミナー参加をお待ちしております。


明海大学 応用言語学セミナー


 









2016年11月7日月曜日

ダブルループラーニング (double-loop learning 二重ループ学習)についての私的まとめ



前の記事の西先生の発表の際に私は指導助言者として「ダブルループラーニング (double-loop learning 二重ループ学習)」の概念を導入したく思いますので、ここにその私的なまとめを掲載しておきます。この概念は、実践者の停滞および発展を簡潔に説明してくれるものかとも思います(この概念の重要性を教えてくれたKさんに感謝します)。

 "Double-loop learning"の概念はもともと、 "single-loop learning"の概念と共に、Chris Argyrisによって提唱されたものです。本来は彼の著作を数多く丁寧に読んでからまとめを作成するべきでしょうが、今回私は下の論文を簡単に拾い読みしたに過ぎません。

Argyris, Chris (May 1991). "Teaching smart people how to learn". Harvard Business Review. 69 (3): 99-109.
http://pds8.egloos.com/pds/200805/20/87/chris_argyris_learning.pdf

Argyris, Chris (May 2001). "Double-Loop Learning, Teaching, and Research". Academy of Management Learning & Education. 1 (2): 206-219.
http://actiondesign.org/assets/pdf/double-loop_learning.doc

その拾い読みから理解したことは私なりにまとめたスライドの下に抄訳と共に原文引用で示していますが、以下のスライドでの私のまとめはArgyrisの概念を丁寧にまとめたものというよりは、彼の概念に私なりの編集を加えた私的なまとめとご理解ください。そもそも「ゼロ学習」などという用語は彼は使っていませんし、その他の用語も適宜変えたりしています。また、図も大同小異ではありますが私なりの図を作成したつもりですので、Argyrisの概念の正確な理解をお求めの方は、彼の原著論文にあたってください。

また、私はカタカナはむやみに使うべきではないと考えていますので、以下では "double-loop learning" を「二重ループ学習」、"single-loop learning" を「単一ループ学習」と訳しています。


それでは私なりのまとめです。


フローチャート図の中の、平行四辺形は「入力もしくは出力」、長方形は「出力」、ひし形は「判断」を示しています。画面によっては図が見にくいかもしれませんが、図をクリックしていただけましたら比較的きれいなJPEG図を見ることができます。




■ ゼロ学習 (zero learning)





 実践者は、与えられた前提をもとに行動計画を立ててそれを実行しその結果を知るが、その過程から学習することはない。

 英語教育でいうなら、学習指導要領やこれまでの授業観などを当然の前提として授業計画をそれなりに立てて授業を行いテスト結果などで授業の成果を知るが、そこから積極的に学ぶことはなく、授業は「やりっぱなし」の状況。




■ 単一ループ学習 (single-loop learning)





 実践者は、与えられた前提をもとに行動計画を立ててそれを実行しその結果を知るが、その結果から自らの行動について振り返り、行動を修正する。このフィードバックループにより実践者は行動を細かに調整するが、行動計画を抜本的に変えることはない。

 英語教育でいうなら、学習指導要領やこれまでの授業観などを根本的に問い直すことなどはせずに、日々少しずつ授業を(やや試行錯誤的に)改善してゆくことが単一ループ学習の例といえるだろう。

 学習指導要領やこれまでの授業観などのこれまでの前提に嫌気がさした一部の教員は、これまでの前提に代わる新しい前提をカリスマ的な指導者などから得て、その指導者から教えられた通りの行動計画で授業をするかもしれない(その場合は、行動計画も平行四辺形(入力)で表記するべきだろう)。その教員は、新たな前提を得たものの、それは自らの思考により得たものではないし行動計画も自分で立案したものではないので、その教員の学習は単一ループ学習にとどまっている。

 また、もしカリスマ的指導者が自らの前提の特異性を明らかにせず、自分の行動計画ばかりを普及させた場合、その指導者の後追いをする教師はそもそもの前提が変更されていることに気づかないままに新たな行動計画とその実行に執心するだろう。その場合の実践はどこか歪んだものとなるだろう。

 私見では現在の日本の英語教育界は、表面的な技術論ばかり語る傾向にあるので、こういった単一ループの学習にとどまる事例は多いと思われる。また、そもそも教育行政が学習指導要領ばかりか教え方までも教師に教え込もうとして、教師自身の自律的な思考力や判断力の行使を阻害しているのだとしたら、英語教育界が単一ループ学習ばかりであったとしてもそれは無理のないことなのかもしれない。




■ 二重ループ学習 (double-loop learning)




 実践者は、そもそも自分の行動計画の前提を変更するべきではないかと前提を問い直す。前提の変更をしない場合は、行動の修正を行うが(単一ループ学習)、前提を変更することにより事態の打開が見込める場合は前提を変更して前提を再入力し、行動計画を抜本的に変える (二重ループ学習)。

 行動計画を抜本的に変えた場合の行動実行は、当然のことながらこれまでの行動実行とは大きく異なるものとなる。おそらく一度変えた前提はしばらくはそのままにされるだろうから、実践者は新たな前提で作られた行動計画に基づく行動実行を単一ループ学習で修正し新たな行動の計画と実行の過程を洗練させるだろう。だが、場合によっては再び前提を変更することもあるかもしれない。

 このように二重ループ学習では、そもそもの前提を変更すべきかという判断が非常に重要であるが、これは自分が当然視している思い込み(=前提)を問い直すことであるから、重要であると同時に知的に困難なことでもある。前提を問い直そうにも、それ以外の前提をもとにした発想がそもそもできないことも珍しくはないだろう。また、もし他者からの刺激などを経て、前提の問い直しと変更に成功したとしても、その新たな前提に基づく行動計画を立案することはさらに困難なこととなるかもしれない。ほとんど前例がない中での計画立案となるからである。

 このように二重ループ学習は判断力と思考力を高度に必要とする学習であるが、それだからこそ事態の抜本的打開が図れるといえるだろう。単一ループ学習に比べて二重ループ学習の方が高度な知性が要求されることは言うまでもない。

 もし単一ループ学習を「カイゼン」と呼ぶことが許されるのなら、それに対してこの二重ループ学習は「イノベーション」(創造的破壊)と呼べるかもしれない。





以上の三つの図(JPEG)は、ここからパワーポイントスライドとしてダウンロードすることができます。





以下は、Argyrisの論文の一部の抜粋です。日本語は抜粋部分を抄訳したものであり正確な翻訳ではありません。



■ Argyrisによる定義

学習とは間違いの発見とその修正だと定義できる。単一ループ学習は、隠れた支配的価値を変更することなしに間違いを発見しそれを修正する時に生じる。二重ループ学習は、支配的な価値を変え、そのことによって行為を変えることによって間違いを発見しそれを修正する時に生じる。

Learning may be defined as the detection and correction of error.  Single-loop learning occurs when errors are corrected without altering the underlying governing values. .... Double-loop learning occurs when errors are corrected by changing the governing values and then the actions.  (Argyris 2001. p.206)



■ 学習法を学習していない現代人

現代では学習がますます重要になってきているのに多くの人は学習法を知らない。実際のところ、もっとも学習に長けていると考えられている人々がもっとも学習法を知らなかったりする。

Any company that aspires to succeed in the tougher business environment of the 1990s must first resolve a basic dilemma: success in the marketplace increasingly depends on learning, yet most people don’t know how to learn. What’s more, those members of the organization that many assume to be the best at learning are, in fact, not very good at it. I am talking about the well-educated, high-powered, high-commitment professionals who occupy key leadership positions in the modern corporation.  (Argyris 1991. p. 99)


企業も、学習法を知らないことを学んでいない。

Most companies not only have tremendous difficulty addressing this learning dilemma; they aren’t even aware that it exists.The reason: they misunderstand what learning is and how to bring it about. As a result, they tend to make two mistakes in their efforts to become a learning organization.   (Argyris 1991. p. 99)


■ 学習においては、自分の外だけでなく内にも目を向けることが必要

学習を「問題解決」としかとらえていないことが問題だ。「問題解決」では、正すべき間違いを自分の外の環境にあると考えられている。しかし学ぶためには自分の内も見なくてはならない。自分を批判的に振り返り、問題の定義と解決をする自分の方法にこそ問題を引き起こしている要因がないか検討しなくてはならない。

First, most people define learning too narrowly as mere "problem solving," so they focus on identifying and correcting errors in the external environment. Solving problems is important. But if learning is to persist, managers and employees must also look inward. They need to reflect critically on their own behavior, identify the ways they often inadvertently contribute to the organization’s problems, and then change how they act. In particular, they must learn how the very way they go about defining and solving problems can be a source of problems in its own right.    (Argyris 1991. p. 99)



■ サーモスタットでの例

私の造語である「単一ループ学習」と「二重ループ学習」という用語を使って、学習に関する区別をしたい。単一ループ学習の例は、一定以下の温度になると自動的に電源を切るサーモスタットだ。二重ループ学習の例は、(そんなサーモスタットは実在しないが)、「なぜ私はこの温度以下で電源を切る必要があるのだろう」と自問して、他に適切な温度設定がないかを考えるサーモスタットである。

I have coined the terms "single loop" and "double loop" learning to capture this crucial distinction. To give a simple analogy: a thermostat that automatically turns on the heat whenever the temperature in a room drops below 68 degrees is a good example of single-loop learning. A thermostat that could ask,‘ ‘ Why am I set at 68 degrees?’’and then explore whether or not some other temperature might more economically achieve the goal of heating the room would be engaging in double-loop learning.   (Argyris 1991. p. 99)



■ 高度な専門職が陥る落とし穴

高度な専門職も単一ループ学習にしか長けていないことが多い。彼ら・彼女らは、一定の学問分野で好成績を収め、その知見を現実世界問題に応用しようとする。しかし、それだからこそ彼らは二重ループ学習に長けていない。自らの学問分野という前提を問い直すことがないからだ。

Highly skilled professionals are frequently very good at single-loop learning. After all, they have spent much of their lives acquiring academic credentials, mastering one or a number of intellectual disciplines, and applying those disciplines to solve real-world problems. But ironically, this very fact helps explain why professionals are often so bad at double-loop learning.   (Argyris 1991. p. 99)


専門職は成功体験ばかり積み、失敗体験がほとんどないため、どうやれば失敗から学習することができるかということを学習していない。だから自分たちの単一ループ学習的な作戦がうまくいかないと、自己防衛的になり批判を排除し他人を非難する。これは、学習がもっとも必要な時に学習する能力を閉ざしてしまうことを意味している。

Put simply, because many professionals are almost always successful at what they do, they rarely experience failure. And because they have rarely failed, they have never learned how to learn from failure. So whenever their single-loop learning strategies go wrong, they become defensive, screen out criticism, and put the "blame" on anyone and everyone but themselves. In short, their ability to learn shuts down precisely at the moment they need it the most.    (Argyris 1991. p. 99)



■ 学習は、自らの考え方の癖を振り返ることによって促進される。

学習に関する第二の間違いは、やる気さえあれば学習が成功するという思い込みだ。

The propensity among professionals to behave defensively helps shed light on the second mistake that companies make about learning. The common assumption is that getting people to learn is largely a matter of motivation. When people have the right attitudes and commitment, learning automatically follows. So companies focus on creating new organizational structures, compensation programs, performance reviews,corporate cultures,and the like, that are designed to create motivated and committed employees.   (Argyris 1991. p. 99)


しかし単にやる気だけで二重ループ学習が生じるのではない。二重ループ学習は思考法を振り返ることで行われる。つまり、自らの行為をデザインし実行する際の認知上の規則あるいは推論法を振り返るのである。この認知上の規則を、すべての行動を支配している脳内のマスタープログラムだと考えてほしい。コンピュータプログラムの中に隠れているバグによってプログラマーが望んでいたのとはまるで反対の結果がでるように、自己防衛的な推論法というマスタープログラムにより学習が阻害されてしまう。

But effective double-loop learning is not simply a function of how people feel. It is a reflection of how they think -- that is, the cognitive rules or reasoning they use to design and implement their actions. Think of these rules as a kind of "master program" stored in the brain, governing all behavior. Defensive reasoning can block learning even when the individual commitment to it is high, just as a computer program with hidden bugs can produce results exactly the opposite of what its designers had planned.   (Argyris 1991. pp. 99-100)


必要なのは、人々が行動についてどのように推論するかということを学びの焦点にすることだ。自分たちの行動についての新しい考え方を教えることによって学習を阻害している自己防衛を打破することができる。

Companies can learn how to resolve the learning dilemma. What it takes is to make the ways managers and employees reason about their behavior a focus of organizational learning and continuous improvement programs. Teaching people how to reason about their behavior in new and more effective ways breaks down the defenses that block learning.   (Argyris 1991. p. 100)





私なりのまとめは以上です。

ちなみに、  前提を問い直す知的な営みはしばしば「哲学」と呼ばれています。それならば二重ループ学習の有効性を考えると、時に哲学ほど実践的に役立つ営みはないとも言えることを私たちは忘れるべきではないでしょう。

もっとも単一ループ学習ばかりで権力の座に就いた人に二重ループ学習や哲学の重要性を伝えることは容易なことではありませんが・・・





実践者はどうすれば自分の成功体験から脱却できるか(全英連での西巌弘先生の発表)



今度の11月12日(土曜)に全英連(全国英語教育研究団体連合会)第66回研究大会(全英連山口大会)で、広島市立舟入高等学校の西巌弘先生が発表をなさいます。そのタイトルと要旨は下に書かれている通りですが、私なりにこの研究を説明するなら、実践者はどうすれば自分の成功体験から脱却できるかということになるかと思います。

 西先生は、2007年3月に東京ビッグサイトで行われた「『英語が使える日本人』の育成のためのフォーラム2007」における模擬授業で高い評価を受け、平成19年度文部科学大臣優秀教員表彰を受賞し、明治図書からも『即興で話す英語力を鍛える!  ワードカウンターを活用した驚異のスピーキング活動22』も発刊しました。西先生はその後、確実に成果を残してはいたのですが、どこか違和感を感じ始めていました。今回の研究ではその現状を分析し打開を目指すにいたった過程を明らかにするものです。創意工夫と努力で世間からの注目の光を浴びながらも、そこに安住することを拒んだ実践者が、真摯に自分の実践を振り返り次の発展を目指すにいたった様子を皆さんにご報告する研究ともいえましょうか。

 私は嬉しいことに西先生の「指導助言者」に指定していただきましたので、少なくとも3回の会合(合計6~7時間程度)をもち、徹底的に「面白い研究」を創り上げるための話し合いをしました。少なくとも私たちの感覚ではそれなりに面白い研究 --聴衆の皆さんに共感と発見の喜びをわずかながらでももたらすことができる研究-- ができたのではないかと思っています。しかしもちろんそれは当事者であるがゆえの思い込みかもしれません。ですから当日、聴衆の皆さんからの忌憚のないご意見をお聞きしたいと思うと同時に、ここでも研究の要旨と発表スライドを公表し、より多くの皆さまのご批判を仰ぐ次第です。

 優れた実践者 --実践に長けるだけでなく、自分をごまかすことなく直視する勇気と知性を持ち合わせた方-- との共同研究は本当に面白いものだと私も改めて痛感しました。後の記事で私なりの解説も追加しますが、この記事では西先生の研究についてご紹介する次第です。



持続可能な英語コミュニケーション能力育成への提言
-ワードカウンター法を用いた指導と評価10年間の歩みから-

西 巌弘(広島市立舟入高等学校)

英語の指導者として長年の実践に「違和感」を感じたとき、あなたはどうするだろうか。これまでうまくいっていた授業や指導の中で、「いままでと何か違う。うまくいっていないのではないか。」という感覚を持ったとき、どう振る舞うだろうか。

 発表者は、かつて「ワードカウンター法」を発案し、成果を上げたことによって、スピーキング力をはじめとする生徒のコミュニケーション能力をどこまでも伸ばせると感じていた。しかし、近年になって、長年生徒の力を伸ばしてきたはずの授業場面における生徒の様子に、前述のような「違和感」を持ち始めた。本研究は、この「違和感」を問いに変え、量的・質的な分析と考察を加えることによって、その「違和感」についての合理的な解釈を試みる。そして、発表者の経験と考察に基づいて、英語コミュニケーション能力育成の実践を持続・発展させるための提言と問題提起を行う。