追記 (2015/06/07)
私、昨日、著者としては異例ではありますが、私が以下のレビューをアマゾンに投稿したところ、今朝見た限りでは問題のレビューが削除されていたことをご報告します。
なお、下で、2015/06/06以降の追記は斜字にするとしておりますが、明確な区切りをもった以下のレビュー部分は、読みやすさを優先し、斜字にはしておりません。またセンタリングなどのレイアウト変更はしていますが、内容の変更はありません。
■■■2015/06/06に私が投稿したアマゾンレビュー■■■
星3つ
投稿者 柳瀬陽介 2015/06/06
本書(『小学校からの英語教育をどうするか』)の著者の一人です。実名で投稿しています。
本書に対するEdgeworth-Kuiper Belt様のレビュー(注)が、極めて残念ながら、本書をきちんと読まないまま書かれているように思え、かつEB様(略称をお許しください)が「殿堂」「トップ10」のレビュアーであるのでその影響力を看過できないと考え、ここに投稿することにします。
もちろんEB様のレビューのコメント欄に投稿することもできますし、実際、私は昨晩コメント欄に投稿しました。ですが、そのコメントはすぐに消えました。
この消失に関しては、少なくとも二つ理由が考えられますが、現時点ではどちらの理由によるものか特定できません。しかし、もしそのうちの一つの理由が正しければ、私がEB様のレビューのコメント欄に再投稿してもそれが再び消える可能性がありますので、消えることがないように、ここにレビューとして投稿します。
なおこのレビューでの星印は3としておりますが、これは付けないと投稿できないから、真ん中をとって3としたものです。著者は自著に5(最高点)をつけるべきではないでしょうし、かといって1(最低点)にするのもおかしな話と思ったので、3とさせていただいたことをご理解ください。
EB様への反論を具体的かつ丁寧に書いたため、私のコメントは長文になってしまいました。ですから、その全文は、私のブログに掲載しています。
“英語教育の哲学的探究2” と “柳瀬陽介”
で検索してくだされば同名のブログが出てくると思います。その2015年6月5日の記事です。アマゾンのレビューではURLの掲載が禁止されているようなので、あえてこのような周りくどいお知らせをしています。
アマゾン・ユーザーの皆様におかれましては、もし可能でしたら、上記のブログ記事のコメント全文をご参照の上、EB様のご主張と私の主張のどちらが公正か、それぞれにご判断いただけたら幸いです。
ですが、お忙しいユーザーの皆様の便益のため、私のコメントの概要を次の三点にまとめておきます。
*****EB様のレビューに対する著者としてのコメントの概要*****
(1) EB様のレビューは、本書の複数箇所で具体的に書かれている記述を、読み落としたり言及していなかったりしているもので、そのことからすれば、EB様は、本書を斜め読み・速読し、本書の論証方法自体をご理解されていないまま、「実施計画」だけを参照し、本書を再読・再参照なさらずにレビューを書いたものと思われます。
[この論点を、本書の記述とページ数を具体的に指摘しながら示しました。その結果、EB様の「この著者は、英語教育を語る以前に日本語の読解力の勉強をやり直した方がいい」というご主張(現時点でのレビューのタイトル)は、著者としては納得しがたく思っていることを表明しました]
(2) 雑誌メディアや他のウェブでの書評を見ても、EB様がおっしゃるように本書が誤読と曲解にみちたものであるといった指摘・批判は、私が知るかぎりありません。
[逆に、例えば大修館書店『英語教育』(2015年7月号)の書評では、元文部科学省官僚の方が「この書は単なる批判に終わらせず、小学校英語教育を含む英語教育が依拠するべき理念を示そうとしている」との評価をしてくださっています。もし本書が文科省の文書をEB様がおっしゃるほどに誤読し曲解したものでしたら、元文科省官僚の方はまっさきにそれを指摘するはずです]
(3) アマゾンが現代日本の読書文化・批評文化・ウェブ文化に対して与えている影響力の大きさを考えれば、「殿堂」「トップ10」レビュアーなどの称号を得られている方々には、その称号にふさわしいレビューを期待しております。
[私は、アマゾンのトップ・レビュアーがその称号にふさわしい見識と品格でもって、すべてのアマゾン・ユーザーから敬意をもたれている文化を望んでおります。アマゾン・レビュー全体が、新しい公共メディアとして健全な発展をすることが私の願いです]
*****著者としてのコメントの概要終わり*****
なお、私はEB様の今回のレビューには納得いきませんが、ことさらにEB様を敵視しているつもりはございません。
私は一人のアマゾン・ユーザーとして、トップ・レビュアーを尊敬したく思っています。ですが、残念ながら今回はそれがかないませんでしたので、ここに投稿した次第です。EB様が「殿堂」「トップ10」レビュアーでなければ、ここまでのことはしなかったと思います。私としてはEB様、および他のトップ・レビュアーの皆様が、その称号にふさわしい活動ですべてのアマゾン・ユーザーからの敬意を受けることを願い、その意味でのEB様の今後のご活躍を祈念します。
(注)ここでいう「Edgeworth-Kuiper Belt様のレビュー」は、5/18から6/6昼にかけて私が時折閲覧・電子記録したものです。EB様は、時々、レビュー内容を書き換えられておられるので付記しておく次第です。なおEB様が書き換えられた内容は、ブログ記事に記載しています。
■■■2015/06/06レビューは以上。以下、6/5のオリジナル記事(および追記)■■■
以下は、『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット)に対してアマゾンで寄せられたある方のレビューに対する私のコメントです。長いので、コメントはここに全文を掲載することとします。なお、このブログでは、参照の便のため、当該レビュー(本日閲覧・記録したもの)をコピーして転載しておきます。
追記 (2015/06/06)
この記事の最初の版は、昨日(2015/06/05)書かれたものですが、本日その一部を修正しています。公正を期すため、本日(以降に)追記した箇所には「追記」というマークをつけ斜字にし、削除した箇所には横線を引いておくことにします。
*****
あるアマゾンレビュー
追記 (2015/06/06)
私が上で横線を引いたEB様のレビューの固定リンクURLは、私のコメント掲載からおそらく数時間以内に無効になっていたようです(ブログ下の匿名様のコメントに基づく推定です)。しかし、時間推定はともかく、少なくとも固定URLが変更されていることだけは事実ですから、上記のように横線を引きました。
私のEvernote画像記録によると、固定URLの変更はEB様が、レビュー最後の部分に下記のような変更を加えられたからかと思われます。
昨日 「尚、このレビューの日付時点で一件だけ載っている5つ星の絶賛レビューは、このレビューしか書いておらず、少々あやしい、ということを指摘しておく。」
本日 「尚、このレビューの日付時点で5つ星の絶賛レビューが一件あるが、このブックレットのレビューしか書いていない上に、内容的にも中立な人物による客観的評価であるかどうか疑問がもたざるをえない、少々あやしいものであるということを指摘しておく。」 [「疑問がもたざる」は原文のまま]
ある方の経験によると、どうもアマゾンのレビューへのコメントは、レビュー自体が書き換えられ新たな固定URLが割り振られると、自動的に消えてしまうようです。また、それまでのレビュー評価(「このレビューは参考になりましたか?」への「はい」「いいえ」)の記録も消えてしまうようです。
私はアマゾンのシステムについてよく知りませんので、アマゾンへの問い合わせ方法がわかったら問い合わせようと思いますが、もしこのようなシステムになっているとしたら、レビュアーは自分に不都合なコメントや「いいえ」が多くなれば、レビューを書き換えることによって、それらのコメントや「いいえ」を自動的に削除することができます。
昨晩の私のコメントは1名の方に自動通知されたとアマゾンは私に通知しましたが、もしその自動通知を受け取った方がEB様だとしたら、なぜEB様が、わざわざレビューを書き換えたのに、私(著者)のコメントについてまったく言及していないのか得心がゆきません(私のコメントがいったんはアマゾンに掲載されたのは私のEvernoteの画像記録からも明らかです)。
ただ、そのコメントにはURLが掲載されていたので、掲載後にアマゾン管理者によって削除されたのかもしれません(下の「レビューガイドライン」を見ると削除の判断は人間がやらざるをえないものと思われます。ただ、そのように高度あるいは微妙な判断をする方が夜に働いていらっしゃるのか、私は少し疑問です)。
参考:アマゾンの「レビューガイドライン」
https://www.amazon.co.jp/gp/community-help/customer-reviews-guidelines/ref=cm_cr_ryp_rvw_guidelines
もちろんEB様が自動通知に気づいて私のコメントを読む前に、夜にアマゾン管理者が私のコメントを削除した可能性はありえます(しかしアマゾンに寄せられる膨大なコメントを、夜の短時間のうちに読んで削除するかどうかの判断をしているとしたら、アマゾンは相当の人力をもった企業ということになります)。
と、私のコメントが消えた理由は、現時点では特定できません。ですから、ここではこれ以上の推測は避けます。ただ、私がなぜ、URLを抜いたコメントを再投稿せず、わざわざレビュアーとして投稿したのかの背景を説明するためにこの記述をしました。
カスタマーレビュー
5つ星のうち 1.0
この著者は、英語教育を語る以前に日本語の読解力の勉強をやり直した方がいい,
2015/5/12
投稿者
Edgeworth-Kuiper Belt
レビュー対象商品: 小学校からの英語教育をどうするか (岩波ブックレット) (単行本(ソフトカバー))
2013年に文部科学省が発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」(以下、本書に従い「実施計画」と呼ぶ)の内容を批判し、正しい小学校での英語教育のあり方について提言しているブックレットである。小学校での英語教育自体を否定する内容ではない。分量は少なめで、すぐ読める。
著者の経験に基づく望ましい小学校での英語教育でのあり方を述べた後半部分は分量は少ないが興味深いところはいくらかあった。一番大切なことは、「どうしたらいいか」なのだから、ここをもっと中心にした構成にすべきだった。
一方、本書で多くのページを占めている「実施計画」についての批判であるが、「そんなにひどいものなのか」と、実際に文部科学省のWEBサイトからダウンロードして読み比べてみた。ところが、著者が書いているのとはずいぶん違った内容だったので驚いた。例えば、著者は「数値目標」について何ページも使って熱く批判している。しかし、実際に「実施計画」を読んでみると、英検2級~準1級などの数値目標らしいものが書いてあるのはあくまでも「高校卒業段階」に対してのみ。本書の対象である小学校の英語教育に関してはそのような数値目標は一切書かれていない。小学校の英語教育で書かれている目標は、小学校中学年であれば「コミュニケーション能力の素地を養う」であり、小学校高学年ならば「初歩的な英語の運用能力を養う」であるから、どう見てもこれは数値目標でもなんでもない。一体、この著者はどこを読んでこんな批判を展開しているのか。個人的に「実施計画」を発表した文科省の肩を持つ気は一切ないが、第三者的な立場から両者を公平に照らし合わせて読むなら、問題があるのは「実施計画」の内容ではなく、この著者の読解力の方であると指弾せざるをえない。
著者が指摘するような「英語ができれば何でもできる?」などというようなことも、「実施計画」にはまったく書かれておらず、むしろ「日本人としてのアイデンティティに関する教育の充実について」と、わざわざ、国語、古典、伝統文化、歴史、道徳の教育にも力を入れることを強く奨励している。「そろばん、和装、和楽器、美術文化等の充実、武道の必修化」「『礼』をはじめ伝統文化に根ざす内容を充実」とまで書かれている。にもかかわらず、どうしてここから「実施計画は、グローバル資本主義への対応を主目的としていると推定できます」などというヘンテコな解釈が飛び出すのだろうか。呆れてしまう。
他にも、例えば、「『英語さえできれば、英語教師として勤まるだろう』と思われた上で、英語教育改革が進められていることです」というような批判も的外れで、「実施計画」では、「外部人材の活用促進」は書かれてあるが、それは「教員の確保・指導力向上だけでは十分対応できない部分について」であり、あくまでも小学校では「学級担任を中心に指導」と明言してある。「教員養成課程・採用の改善充実」も、そもそも教える先生が英語ができなければお話にならなから当然のことだろう。いったいどうしてここからこのような解釈が出てくるのかよくわからない。
このように、この著者の批判には、批判対象の資料を正しく読めていない、あるいは正しく読もうとしていない、もしくは意図的に拡大解釈して捻じ曲げているようにしか考えられないところがいくつもある。主張の賛否以前の問題である。はっきり書くなら、この著者は、英語教育を語る以前に、自身の日本語の読解力の基本から勉強し直した方がいい。
尚、このレビューの日付時点で一件だけ載っている5つ星の絶賛レビューは、このブックレットのレビューしか書いておらず、少々あやしい、ということを指摘しておく。
*****
アマゾンレビューは以上です。
以下にそのレビューに対する私のコメントを、アマゾンのコメント欄の重複部分も含めて全文掲載します。
*****
私のコメント
柳瀬陽介さんのコメント
Edgeworth-Kuiper Belt様、
「殿堂」ならびに「トップ10」のレビュアーとしてご活躍になり、日本の読書文化・批評文化・ウェブ文化を豊かにすることに貢献なさっているEdgeworth-Kuiper Belt様に敬意を表します。EB様(略称をお許し下さい)のご活動がウェブ上の批評という新しい文化を切り開いているものと思います。公正なレビューを連続して出すご苦労は生半可なものではないと思いますので敬意をお示しする次第です。
さて、EB様の本書(『小学校からの英語教育をどうするか』)へのレビューですが、これは、主に三つの論拠に基づき、本書を「批判対象の資料を正しく読めていない、あるいは正しく読もうとしていない、もしくは意図的に拡大解釈して捻じ曲げている」ものと判断され、著者は「英語教育を語る以前に、自身の日本語の読解力の基本から勉強し直した方がいい」と断じて、星一つの最低評価を下しておられるものです。
三つの論拠はどれもEB様が参照された「実施計画」に基づくもので、「実施計画」には、(1)小学校の英語教育での数値目標の提示、(2)「英語ができれば何でもできる?」といった言及、(3)「『英語さえできれば、英語教師として勤まるだろう』と思われた上で、英語教育改革が進められている」といった主張、は書かれていないというものとしてまとめられるかと思います。
ですが、このような論拠を提示されて本書を批判されておられるということは、大変失礼ながら、EB様が本書を速読・斜め読みし、「実施計画」をお読みになってから本書の再読(あるいは丁寧な再参照)をしないままにレビューを書かれたことを示唆しているように思えます(間違いでしたらどうぞお許しください)。
EB様のプロフィールを拝見しますと、「常時5-6冊の本を並行して」「本の性格に応じて読み方を変え」られてたくさんのレビューを書かれておられますので、もしブックレットである本書を速読しレビューを書く際に再読の労は省かれたとしても無理からぬことかもしれません。しかし、「殿堂」ならびに「トップ10」のレビュアーであられるEB様には、その称号にふさわしいレビューを書いていただきたいと思い、以下、私の考えを書かせていただきます。誰しも自分の主張に異論を唱えられることは愉快なことではないかもしれませんが、EB様が読書によって培われたに違いない理性的な態度を信じて、私の考えを書かせていただきます。長文となりますことを予めお詫びします。
私がEB様のレビューが本書の的確な読解に基づいていないのではないかと思う理由は主に二つあります。
【以下、大変長くなりますので、私のコメントは私のブログに掲載しました。ご面倒かとは思いますが、下記URLのページをご参照いただけませんでしょうか】
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/06/blog-post.html
追記 (2015/06/06)
私が昨晩EB様のレビュー欄に投稿したコメントには、このURLまでを掲載していました。上述のように、理由は特定できませんがなぜかそのコメントが消えましたので、本日はアマゾンのレビュー欄に直接投稿し、かつURLは表示しないようにしました。その投稿により、この箇所は今では機能をもたないものになったので横線を引いた次第です。
■ 第一の理由
第一の理由は、EB様が本書の論証法を正確に捉えられていないように思えるということです。本書で展開されている批判は、「実施計画」だけを根拠にしたものではなく、「実施計画」に関連する文書、(それからもっと重要なことですが)そういった文書の背景になっていると考えられる近代的な思考法を根拠にしているものです。実際、関連文書については本書23ページに明記されていますし、近代的な思考法への批判は第二章全体で展開されています。ですから「実施計画」での言及の有無だけで批判を展開されるのは、正鵠を射ていないと思われますが、いかがでしょう。
そもそも「実施計画」は7ページだけの図表の多い短い文書であり、今後の英語教育改革がこの「実施計画」だけに基づいて展開されるわけではありません。英語教育改革の行く末を考えるには、「実施計画」だけでなくそれに関連する文書、およびそういった文書に強い影響を与えていると考えられる近代的な思考法をも入れて考えるべきだというのが、本書の論証法として読み取れると思います。
以下、EB様の(1)-(3)の論点について、本書の具体的記述をページ数を示して、私の主張の説明とさせていただきます。
まず、上記(1)の<数値目標は小学校にはない>という点ですが、本書30ページには「有識者会議」の文書(「実施計画」の後に出された文書)についての記述があり、現時点では小学校でそういった数値評価が導入されていないこと、また必ずしも数値評価が導入される予定ではないことがきちんと示されています。(引用をしておきますと、「『小学校高学年で教科化する場合、適切な評価方法については先進的取組を検証し、引き続き検討』と慎重な書き方をしています。これらを読みますと、有識者会議は英検やTOEFL iBTなどの客観試験を万能視していないことがわかります」(本書30ページ)です。)
本書30ページでは続いて、「しかし、前の節で検討したように数値管理は近代的思考に内在していますから、いつの間にか客観試験の得点がひとり歩きする危険性はあります」と記述されています。このことからも、本書が「実施計画」だけを基にした論考ではないことは明らかかと思います。(ちなみに学校教育では「教科化」はしばしば数値評価を含意します(後述))。少なくとも本書には、「実施計画は小学校での数値目標を提示している」といった明らかに誤読に基づく記述はございません。
もちろん、いくらEB様が「分量は少なめで、すぐ読める」とされた本書でも、EB様に勘違いをさせてしまったとするならば、この著者の執筆能力には批判が必要なのかもしれません。本書に、明らかな誤読に基づく間違った主張がないにせよ、そのような主張を本書がしているとEB様に思わせてしまったら、それは著者の書き方に問題があるのではないかという批判が可能だと思います。しかし、そういった「執筆能力」に対する批判はともかくも、批判は著者の「読解力」に対して向けられるべきでしょうか?(この点については後でもふれます)
上記(2)の「英語ができれば何でもできる?」についてですが、これは本書18ページの表現を引用なさってのことかと思います。しかし当該表現がある節(「英語指導の実態の理解不足」)は「英語教育の現状」(本書16ページ)について述べたものです。と言いますより、そもそもこの章のタイトル自体は「英語教育の現状」です。ですから、この章は「実施計画」の内容を解説したものではありません。こういった理由から、<「英語ができれば何でもできる?」という記述が実施計画にはまったく書かれていない>、というEB様のご主張・ご批判は、冒頭に述べましたように、EB様が本書を速読し、レビューを書かれる際に再読なさっていらっしゃらなかったから生じているものではないかと思う次第です。
なお、EB様は「実施計画」には、むしろ「日本人としてのアイデンティティに関する教育の充実について」が加えられているのだから、「どうしてここから「実施計画は、グローバル資本主義への対応を主目的としていると推定できます」などというヘンテコな解釈が飛び出すのだろうか。呆れてしまう。」とされていますが、本書41-42ページでは、そういった「日本人としてのアイデンティティ」の強調が英語の習得と常に抱き合わせのようになっていることが指摘され、ハーヴェイ(2007)(『新自由主義』)についての言及をふまえて、新保守主義が「新自由主義のもたらす競争や格差(不平等)の苛酷さをしばし忘れさせる感情的緩衝材として使われがち」(本書42ページ)と記述されています。
またEB様がご批判なさっている著者のこの推定は本書37ページからの引用かと思われますが、そのページでは、「実施計画」には英語教育改革の目標が明確には書かれていないが、「行動計画」(「実施計画」に先行する文書)では「国際的な経済競争」の激化が改革を促す重要な要因としてあげられていることが指摘されています。その指摘に加えて「実施計画」の方向性を決めたのが、通例のように中央教育審議会ではなく安部首相の私的諮問機関(教育再生実行会議)であり(本書2ページ)、その安倍政権は「経済成長を第一と考える政権」(本書37ページ)ことからするなら、と限定をつけた上で上記の推定がなされています。これらの記述からすれば、この推定がまったくの根拠を欠いたものとは言いがたいと思います。
もちろんEB様が上記のページでの記述も目に留めた上で(あるいは記憶した上で)、新保守主義と新自由主義の融合というハーヴェイの考え方や、「実施計画」を「行動計画」や安倍政権の経済成長最優先の姿勢と結びつけることは「呆れてしまう」ほどの「ヘンテコな解釈」であるとされるのでしたら、話は別です。それは一つの意見として尊重できます。しかし、レビューを拝読する限り、ひょっとしたらEB様はこれらの記述を読み飛ばされた(あるいはお忘れになった)のではないかと思い、私は上記のように主張しています。
すでに私のコメントはずいぶん長くなっていますので、EB様はその意味では呆れてしまっているのではないかと思いますが、これはEB様がアマゾンという現代日本の読書文化・批評文化・ウェブ文化における重要なメディアで「殿堂」「トップ10」のレビュアーとされているからであり、また、私の投稿者名(実名)からすでにおわかりかと思いますが、私が本書の著者の一人だからです。しばらくご辛抱いただき、私のコメントをお読みいただけたら幸いです。
上記(3)の<「『英語さえできれば、英語教師として勤まるだろう』と思われた上で、英語教育改革が進められていることです」というような批判も的外れ>、という点ですが、これは本書16ページからの引用に基づくご批判だと思われます。しかし、まさに同じページでそのような通念が一連の英語教育改革の背後に存在している理由として上げられているのは、大阪府が教員免許の有無や職歴も不問でTOEFLの高得点を「スーパー・イングリッシュ・ティーチャー」の唯一の応募資格としていること、および、そもそも外国語指導助手(ALT)の応募資格も英語が母国語(並)の大卒外国人であることであり、「実施計画」にそういった言及があることではありません。既に述べましたように、筆者としては「実施計画」だけでなく、こういった諸要因を勘案して英語教育改革について考えており、そのことは本書のさまざまな箇所で言及されていることはご理解いただけたらと思います。また上記(2)と同じように、この(3)の主張は、「英語教育の現状」について述べた第一章にあることも付け加えておきます。
以上が、本書での記述を証拠として具体的に示した第一の理由(直接的理由)の説明です。EB様は本書が「批判対象の資料を正しく読めていない、あるいは正しく読もうとしていない、もしくは意図的に拡大解釈して捻じ曲げている」ものであるとされていますが、上記のような記述を本書に書いている私としては、著者の読解力に関するそのご批判はそのままでは受け入れがたいというのが正直なところです。
■ 第二の理由
もし本書が、EB様がおっしゃるように誤解・曲解にみちたものでしたら、文科省に反対することを自己目的化しているような人は除いた、まともな(英語)教育関係者からは指摘・批判の声が上がるかと思います。ですが、私が知る限りそのような指摘・批判はございません。これを私がEB様のレビューの妥当性に対して違和感を覚える第二の理由(傍証的理由)といたします。
逆に、例えば大修館書店『英語教育』(2015年7月号)では、元文科官僚の方が本書の書評をし、「この書は単なる批判に終わらせず、小学校英語教育を含む英語教育が依拠するべき理念を示そうとしている」との評価をしておられます(念のために申し上げておきますと、私はこの書評者に10年ぐらい前に一、二度、研究会でお会いしたことがありますが、それ以降の接触はございません)。
そもそもこういった雑誌が、数ある出版物の中から書評すべき本を選定する場合は、通常複数の編集者が対象書籍が書評欄で取り上げるに値するかを検討します。また書評原稿に関しても複数の編集者が熟読します。変な本を書評対象にしたり、変な書評を掲載したりしたら、出版社の評判(ひいては経営)にダメージを与えてしまうからです。さらに申し上げますなら、そもそも本が出版される時は、複数の編集者が原稿を吟味し、著者は何度も原稿の書き直しをします。わずかながら出版経験がある私としては、こういった出版社のチェック体制にある程度の信頼をおいていますので、ある程度のレベルの出版社から出され、またある程度のレベルの雑誌で書評として選定された本に、呆れる程の誤読・曲解にみちた本はあまりないのではないかと思っています(もちろんこれを過信しますと、とんでもないことにつながりかねません。私がここで申し上げているのは一般論あるいは確率的推定です)。
また、ウェブの無料媒体ではありますが、株式会社福分堂が発行している「教職ネットマガジン」(念のために申し上げますと、私はこの会社とまったくの面識をもちません)も、本書に対しての一定の評価(5点満点の4点)を示してくださった上で、「本書は、原典の紹介や引用の仕方についても好感が持てました。参考文献や先行研究の提示は大切ですが、ありすぎたり、少なすぎたりすることがままあります。本書は編集者がそのあたりの調整をうまくやったのではないでしょうか。論文作成の観点からも参考になる本です」ともおっしゃってくださっています。
その他にもざっとウェブ上のレビューを読んでみましたが、私が見た限りでは、本書が誤解と曲解に基づいたものだという評価はございませんでした。
ですが、EB様ほどの読書家に、本書を正確にお読みいただけなかったことは一つの事実です。本書は第一の読者層を「保護者および一般市民」としていますが、私たち著者は、教育関係の出版経験はそれなりにあるものの、一般読者相手の出版をするのは初めてでしたので、まだ一般書籍としての執筆能力には努力すべき点が多いのかもしれません。ある程度英語教育の事情に通じたものにとっての常識(例えば「教科化はたいていの場合、数値による評価を含意する)をそのまま一般読者に共有されている常識とせずに、丁寧に明記するなどの配慮がもっと必要だったのかもしれません(この教科化と数値評価の関係は最初の原稿では言及していたのですが、今、本書を読み直してみたら、編集過程で削除してしまっていたようです。ブックレットはページ制限が厳しいので苦労しました)。
ですから著者としては、執筆能力についてのご批判でしたら謹んでお受けします。また本書をきちんと読まれ・参照された上でのご批判も拝受します。しかし、現時点でのEB様のレビューにある、著者の読解力についての「指弾」については上記の二つの理由から同意しがたく思っております。
■ これからの読書文化・批評文化・ウェブ文化のために
私がEB様のレビューを最初に拝見したのは5/18のことです(私はウェブで気になる情報はすべてEvernoteで電子保存していますので、このような特定が可能です)。その時点でのレビューでは、本書が「英語教育学を専門とする小学校校長が」書いたブックレットとなっていました。言及されなかった方の著者である私としては、「著者の数まで間違えておられるのか・・・」と案じていましたが、幸いEB様はその後その部分を修正してくださっていました(私はいつもアマゾンレビューを見ているわけではありませんが、少なくとも5/29ではそのように修正されていました)。
ですが、その5/29のレビューには他のレビュアーについて、少なくとも私としては若干気になる記述が加わっておりました(ここでも念のために申し上げますと、私はそのレビュアーがどなたであるか存じません)。そして、本日この原稿を書くためにEB様のレビューをまた参照しますと、星印はそれまでの二つから最低評価の一つに下がっておりました。
もちろんウェブ空間で誰が何をどのように書こうが、それが法に触れない限りは自由であることは言うまでもありません。また、書籍の著者が、ウェブ上のコメントにいちいち反論するのも通常はありません(そんなことをする時間があれば、もっと生産的な活動をするべきでしょう)。
しかし出版物は著者個人を超えて、微細ながらも出版社や出版文化に影響を与えるメディアです。私としては本書を丁寧に読まれた方からのご批判は謹んでお受けしますが、もしあるご批判が、本書の正確な読解に基づいていないものでしたら、異議を申し立てたく思いました。(繰り返しになりますが、「この本はブックレットなのにきちんと速読できるようにはできていない」といったご批判でしたら、それは一つのご意見として謹んでお受けします。またEB様の、理論部分よりも具体的な部分を中心にするべきだったのでは、というご批判も享受しております)。
さらにアマゾンというメディアは、現在、日本の読書と出版の文化を大きく変えていることについては言うまでもないでしょう。そのアマゾンにおいて「殿堂」かつ「トップ10」とされたレビュアーのコメントは、大きな影響力をもちえます。その影響力は、本書の評判といったことだけでなく、これからの日本での書評文化や(匿名)ウェブ文化のあり方についても及ぶかと私は考えています。
私は時々米国アマゾンを利用しますが、そこでの"Review"と日本アマゾンでの「レビュー」の違いについていろいろ考えさせられています。管見の限りで比較しますと、米国アマゾンの"Review"は日本アマゾンの「レビュー」よりも、長文で丁寧なものが多く、時には著者も"Review"欄に登場したりします。一方、これも私が見る限りのものですが、日本の「レビュー」では、短文で筋違いの断定が少なくありません。著者が「レビュー」欄に登場することもあまりないように思います。
EB様のレビュー活動をざっと見る限り、EB様は丁寧で誠実なレビュー活動をお続けになり、その結果、「殿堂」かつ「トップ10」の称号を得られたのだと思っております。
そういった称号をもつレビュアーは当然少数しかいません(実際私は「トップ10」のレビュアーは初めて見ました)。そうなると、その称号で注目を集めるEB様の言動は、今後のアマゾンの(ひいてはウェブ全般での)日本語批評文化のあり方あるいはイメージを決める一要因となりかねないとも思われます。既にEB様の言動は、日本語でのアマゾンレビュー全体の評判に影響を与えているのではないでしょうか。そして言うまでもなく、私は、アマゾンのトップ・レビュアーがその称号にふさわしい見識と品格でもって、すべてのアマゾン・ユーザーから敬意をもたれている文化を望んでおります。
そういったEB様のレビューだからこそ、私は今回このように長々と書かせていただきました。また、最初の方でも述べましたように、熟達の読書家としてEB様が理性的な態度でこのコメントに対応してくださることを信じております。
末尾になりますが、EB様の今後のご健康とご多幸、そしてご活躍をお祈りします。そして私としてはあくまでも、日本の読書文化・批評文化・ウェブ文化がよい方向へ発展することを願っていることを表明させていただきます。最後まで丁寧にお読み頂きありがとうございました。
追記
このコメントは、本日(2015/06/05)時点でのEB様のレビューに基づくものです。
*****
私のコメントは以上です。このコメントが生産的で建設的なコミュニケーションを生み出すことを願っています。