きたる2014年6月21日(土曜)に島根大学で開催される第45回中国地区英語教育学会でパネルディスカッションを担当することになりました。事務局から与えられたタイトルは『今日叫ばれる"英語教育の危機"とは? ―そのとき教育現場は?―』でした。その趣旨文は次のようなものです。
さまざまな変革が求め続けられる日本の英語教育ですが、今日その迫られる変革を『危機』としてとらえる動きがあります。実際、日々英語教育活動に関わる教育現場では、こういった動きをどのようにとらえ、どのように理解し、そしてどう日々の教育活動を実践していくべきなのでしょうか?理想と現実の問題があり、大学入試や高校入試の制度や内容に変更が生じれば、実際の授業への波及効果は甚大なもので、影響を免れることは不可能であります。非常に、繊細な問題ではありますが、我々はこの議論を無視して通り過ぎることはできない、と考えます。決着を求める議論ではなく、議論することを通して、現場の意識を高め、各教員が自ら積極的にこういった問題に関わって、思考していくことを鼓舞するために、問題提示を行おうとするものです。
このタイトルと趣旨にできるだけ応える企画を私なりに考えた結果、私としては「経済と政治の論理から強要され、工業(生産)の論理で計画されている現在の英語教育改革も『危機』ではあるが、それよりも深刻な危機とは、英語教育関係者が、その改革論議に振り回されて、学習者と自分自身の「からだ」と「こころ」のあり方を無視しはじめることではないのか。そして現在の英語教育研究は、学習者と教師の「からだ」と「こころ」に関しての探究ができているのか」という問いかけをすることにしました。
さらに、現場の教師そして中間管理職的教育行政者が置かれている状況をよく知る樫葉みつ子先生(広島大学)と、先駆的な身体論的研究を行っている山本玲子先生(大阪国際大学)を発題者として呼ぶことにしました。
樫葉先生は以下のような認識をもっています。
生徒指導上の課題や保護者への対応、説明責任のための書類作成など、教師の仕事は増えるばかりである。部活動や行事のために休日もなく、連日遅くまで職員室でパソコンに向かっているような、心身ともにゆとりのない教師にとって、英語教育に関する最近の様々な要請は、きっと違和感を覚えるものであるに違いない。
山本先生の見解は以下のようなものです。
「与えられたことはこなすけれど、自らわくわくしながら学ぶ子どもが減った」、「日本語でさえ、教師の言葉に情動を動かさなくなった、感動しなくなった」という、これらの現場の教員の声は、一見英語教育とは関係ないように見える。しかし、学級担任や学年主任として子どもに接しダイレクトにそれらを感じてきた筆者は、こういった子どもの変化は、コミュニケーション能力を育てる科目である英語の授業での実感と重なると断言できる。昔よりずっと複雑で多忙となった教育現場で起こっているのは、英語教育の危機だけではなく教育そのものの危機ではないか。
こういった現場感覚をもつ方々に登壇していただけることを私は大変嬉しく思っております。
加えて、今回の登壇と発題を単なる遠吠えにしないために、現在、全国英語教育学会の会長でありその他にも日本の英語教育界において重要な立場を担っている卯城祐司先生(筑波大学)を指定討論者として招くことにしました。(このように野心的な企画と人選を認めていただいた事務局には深く感謝しています)。
当日は、私の常の方針でありますが、できるだけ率直で自由な発言を促進し、権威的で抑圧的な発言は避けてもらうつもりです。一人でも多くの皆様のご参加を促すために、このブログで、発題者三名の予稿を掲載することにします。
英語教育の本当の「危機」とは
柳瀬陽介(広島大学)
キーワード:新自由主義,「からだ」,「こころ」
1新自由主義と新保守主義の複合体による熱狂の中で
現代の英語教育界は改革の「嵐」の中にあると言っても過言ではない。これらの改革は、一方で「正論」として声高に語られながら、他方でその提唱者・代弁者が現場の声にほとんど耳を傾けようとしない点で、改革者が何かに「取り憑かれている」もののようにも思える。「とにかく国が言うんだからやるしかないんです」と血相を変える関係者の熱狂も、それは何かの憑依の反映なのかもしれない(人が、複数の理性的な選択肢の存在を否定する時、その底流にあるのは当人が自覚しがたい強烈な感情的複合体 ―コンプレックス― である)。
2013年12月13日文部科学省発表の英語教育改革計画にも見られるように、現在の英語教育改革は、経済・工業・政治の論理に深く影響されている(この点については後日改めて論考をする予定である)。「経済成長が至上命題であり私たちはグローバル競争を勝ち抜かねばならない」、「そのために英語ができる学習者(そして教師)を短期間で計画的・合理的に養成せねばならない」、「国威発揚できる東京オリンピックまでに英語教育改革を完遂する一方、『日本人としてのアイデンティ』を育成しなければならない」、―これらのいわば有無を言わせまいとする立論は、新自由主義的な個人間競争の讃美を表面とし、その競争に疲弊する人々を集団的に束ねる新保守主義的な愛国心を裏面とする ハーヴェイ 2007)感情的複合体となっていないか。
この感情的複合体は表側で資本主義という制度化された近代的教理により正当化され―英語教育における資本主義的発想の影響については、柳瀬 (近刊)を参照されたい―、裏側で国家主義という近代的教条に裏づけられて、意識面での合理性が保証された「正論」として通っている。だが正論であるはずにもかかわらず、それを唱える人々が眼尻を上げ肩を怒らせる様子からは、人々の無意識が抑圧されていることが推測できる。論の正しさにからだの底からの深い確信をもつ者はからだを強張らせないからだ。また正論を「仕方ない」として受け入れる教師の抑うつ的な様子からは、無意識が抑圧されその人の生命力が損なわれていることが伺える。
人間は合理的(=割り切れる)側面と、合理外的(=割り切れない)側面をもつ生き物であり、社会もその両面をもつ。それにもかかわらず、ある特定の割り切り方(=合理的教条)が「正論」としてあまりにも権力をもちすぎ、それに対するためらいや批判を一切認めないイデオロギーになってしまうと、それは絶対的な価値を付与されたように感じられ始め、感情的複合体となる。感情的複合体は、人々に憑依し熱狂を産み出すと同時に、その論理では割り切れない人間の側面を抑圧してしまう。
ある国・時代が強烈な感情的複合体に憑依され熱狂が生じることの危険を指摘したのは、無意識がもつ「内なる世界」の重要さを知る深層心理学者として、第一次大戦後から第二次大戦にいたるドイツの悲劇を隣国スイスで目にしていたユングであった。彼は1934年の時点で、「人々は政治や経済の巨大なプログラムという、いつもきまって諸国民を泥沼に引きずり込んできた代物にばかり喜んで耳を傾けています」、と当時の社会の傾向を指摘する。為政者が政治や経済の大事ばかり語り、それにつられて人々が日々の暮らしの小事への気遣いを忘れ始める時、社会は暴走へと近づいてゆく。その上でユングは、「私たちの文化的所産が天から下ったものなどではなく、私たち一人一人の人間が最終的な作り手なのだということを信じて疑わない少数の人々」に対して語りかける。「大きなところが歪んでくるとしたら、それはなによりも一人一人が、私自身がおかしくなっているからにほかなりません。それなら何よりもまず、私自身を正すのが理性に適った道でしょう」 ―かくしてユングは危機的な状況でこそ「人間のこころというものの永遠不変の事実の上に、自らの基礎を築くしかありません」と述べる(ユング 1996)。大言壮語的な議論が社会で横行する時にこそ、私たちは日々の暮らしの細やかな営みのあり方を大切にし、それらがいつのまにか荒廃してしまわないように配慮しなければならない。
熱狂的で頑迷な立論に対して、同じように熱狂的な糾弾や頑迷な反対運動で反逆しても、それは立論のイデオロギー性によりナンセンスと決めつけられ、感情的複合体性により感情的な嵐の中に引き込まれてしまうだけかもしれない。私たちは、感情的複合体となった時代のイデオロギーが抑圧し隠蔽している私たちの無意識的な側面を静かに向き合うことを試み、その静穏に基づき新たな立論を構築するべきではないだろうか。
時代の「正論」に私たちが熱狂する時(あるいはそれを力なく是認する時)、私たちはその理屈で私たちが抑圧している無意識からのメッセージに耳を傾けるべきだ。無意識からのメッセージは「こころ」のざわめきや「からだ」の違和感といった形をしばしば取る。私たちはその違和感を言語化するべきだろう。私たちがそのメッセージを無視しつづければ、「正しい理屈」に憑依した熱狂は、暴走と破滅に至りかねないというのは、歴史上さまざまな個人や社会の歴史が語ることだ。
2 抑圧された「からだ」と「こころ」からのメッセージに耳を傾ける
それでは、学校において、英語という教科指導を第一責務としながら、子どもの成長支援という社会的役割を担う英語教師は、この状況において、何をし、何をするべきでないのか ―私は今回敢えて「学習者」という呼称を避け、まだ「大人」でないがゆえに配慮を必要とする「子ども」という呼び方をする―。
ユングの見立てにしたがえば、私たち英語教師は、まず自らの歪みを正し、人間の「こころ」にまっすぐ向き合わなければならない。強行される改革への直接抗議が不要だというのではない。だが、それ以上に、私たちは、命令体系の末端でYesかNoを言うだけの存在としてではなく、自ら息づく「こころ」と「からだ」をもった一人の人間として、現場で感じる実感を基に、子どもの「こころ」と「からだ」に向き合うべきだろう。
経済と工業の論理で補強された政治の論理にYesかNoを言うというだけのコミュニケーションでは、結局は現状の制度的権力を有する政治の論理に絡め取られてしまう。英語教師は、経済・工業・政治の論理に基づくコミュニケーションよりも、教育の論理によるコミュニケーションを始めるべきではないか。若き生命を育むという教育の論理を、経済・工業・政治の論理に絡め取られてしまった人々に提示して理解と共感を得ながら、教育の論理に基づく営みを正々堂々と学校で行うべきだろう。教育に政治の力が必要だとしても、それは教育の論理を私たちが教師としての営みで明らかにして、教育の営みがどのようなものであるかを市井の人々に行動と言説で広く知らせてから、政治的な力の獲得に向かうべきではないのか。英語教師は、政治のゲームに深入りする前に、まずは自らの「からだ」と「こころ」の実感、そして子どもの「からだ」と「こころ」の様子を世間に伝えるべきではないのか。
英語教師として日々子どもに向き合う私たちの「こころ」は、何を感じているだろうか。私たちの「からだ」は何を伝えようとしているだろうか。そして、何よりも子どもの「こころ」は何を感じているのだろうか。それを知るためには、十分に「こころ」の表現を成し得ない子どもの「からだ」の表情・動きを共感的に理解する必要があるだろう。
ここでごく簡単にでも「こころ」と「からだ」の定義をしておくべきだろう。ここでいう「こころ」とは、無意識的な「からだ」が生み出す情動 (emotion) ―身体の生理学的・生化学的反応― が、感知され自覚された上で生じる感情 (feeling) の意識を基本的に意味している。私たちのいわゆる「知的」 (intelligent) な認知活動 ―思考や言語使用― はすべて、「からだ」の情動に起因する「こころ」の感情の意識を基盤としている (Damasio 2010)。
この定義に基づいて言い直すなら、英語教師の重要課題とは、子どもから英語や日本語の発話を要求する以前に、子どもの「こころ」の中で感じられているはずの感情を感知することである。子どもの、いわばことば以前のメッセージである「こころ」の感情を教師が的確に感知しないままに、英語にせよ日本語にせよ子どもに発話を強要するなら、子どもは予め定められた「正解」を自らの実感とは無縁に口にするか、そのような一種の儀式に意義を見いだせず口を閉ざすだけだろう。教師が、ことば以前の子どもの「こころ」の感情を感知するためには、子どもの「からだ」が自由に情動を生み出せるように、子どもの存在が ―子どもが有しているかもしれない種々の問題にもかかわらず― 肯定的に受容されていなければならない。存在を肯定された子どもは、身体内に多様な情動を生み出し、それは子どもの「こころ」の中では豊かな感情として立ち現れ、身体外でも微細な表情、時には大きな動きを生み出す。子どもはその感情に促されて、思考や言語使用へと向かう。周りの人はその子どもの表情や動きに促されて、その子どもの思考や言語使用を支援しようとする。
逆に言うなら、子どもから内発する情動と感情を否定・無視して、子どもを外から支配し操作しようとしても、その効力は一時的なものに過ぎず (Dewey 1916)、そこで「学習」されたはずの行動は、子どもの「身につかない」。「心ここにあらず」だったからである。だが教師は、時に子どもをいかに支配し操作するかという発想に取り憑かれてしまっている ―それはそもそも教師自身が、自らの情動と感情を否定され、外側から支配し操作されてしまっているからかもしれない―。
外からは観察しがたい情動と感情という「内なる世界」が、子どもにおいても教師においても守られなければならない。次世代の「内なる世界」が、新自由主義と新保守主義によって強化されたグローバル資本主義社会という「外なる世界」に塗りつぶされてしまうなら、それは社会の未来の可能性を損なうことではないのか。英語教育改革を無視することも全面否定することもできない。だがグローバル資本主義的な憑依的熱狂に現場教師もが取り憑かれてしまい、子どもと教師自身の「からだ」と「こころ」を置き去りにしてしまうなら、それこそが英語教育の「危機」ではないのか。
英語教育の本当の危機とは、近代社会が必要とする資本主義と国家に基づくがゆえに全面否定できない新自由主義と新保守主義が英語教育に侵入していることであることではなく、その侵入に煽られて、教師が本来の使命である子どもの「からだ」と「こころ」に配慮することを忘れてしまうこと、そして、自らの「からだ」と「こころ」のあり方にも気を配らなくなることではないか (外的に来襲した危機が、致命的になるのは、それが私たちの内面を蝕んだ時である)。
グローバル資本主義を一掃することなど誰もできないし、誰も望むべきではないだろう ―それが20世紀の壮大な社会実験で私たちが学んだことかもしれない―。だが、グローバル資本主義が私たちの、そして子どもの「からだ」と「こころ」の自然を一掃してしまうことは避けなければなるまい。教師は、子どもと自分の「からだ」と「こころ」を守ることを本務としなければならないのではないか。
3 現状で何ができるのか?
しかし、現実はどうか。英語教師は、子どもが生きているということを、数値(例えば、観点別評価の評定、標準テストの得点、Can-Do Listの達成状況など)にひたすらに還元することを強いられていないか。また教育行政者・教師教育者も、教師が生きているということを数値(例えば、子どもが獲得したテスト得点、教師自身のCan-Do Listの達成状況など)だけで管理しようとしていないか。子ども、そして教師の、数値に還元しがたい「こころ」と「からだ」 ―「内なる世界」― のメッセージは無視されていないか。それどころか「こころ」と「からだ」のメッセージは、数値目標達成の邪魔になる「問題」あるいはせいぜい「ノイズ」としてしか認識されていないだろうか。子どもや教師のためではない、管理のための管理ばかりが横行していないだろうか。まじめな現場教師ほど、国策の「正論」と現場の実態の乖離と矛盾を感じながら、板挟みになったまま、自分の「こころ」と「からだ」を苦しめているのではないだろうか。
それでは英語教育学という学術的言説権力は、抑圧されがちな教師そして子どもを守り、彼・彼女らに力を与えるために行使されているだろうか。ここでも楽観視はできない。数値目標達成のために子どもと教師を操作・管理することが「科学」としての英語教育学とみなされているようにも思えるからである。― そもそも従来型の「英語教育学の権威筋」は、私のこのような批判的文章をどう扱うのだろうか。「これは学術的言説(あるいは英語教育学)ではない」と排除するのだろうか。それならばその根拠は何で、その根拠の妥当性はどのように説明されるのだろうか。一般に「AはXであるが、BはXとは言えない」などと区別をする者は、区別対象(AやB)の観察(=一次観察)に傾注するあまり、区別そのものの観察(=二次観察)をおろそかにしがちである。私は今、従来の「英語教育学」に対する二次観察を推奨している―。
英語教育学は、数量に還元しがたい「こころ」と「からだ」のメッセージを、ここ最近制度化したに過ぎない研究方法論で構造的に否定していないだろうか(端的な例は浅薄な「客観主義」に絡め取られてしまった量的研究しか認めない頑迷な態度である (柳瀬 予定))。英語教育学は、制度的権力者、そしてそれらの制度的権力者に連なろうとする者の権力の維持と強化の道具となっていないだろうか。英語教育学は子どもと教師の「からだ」と「こころ」を十分にとらえているだろうか。Foucault (1980) も言うように、学術的言説は「真理の体制」として君臨することにより、それから外れる人々や事象を抑圧する道具となる。現在主流の「英語教育学」は「からだ」と「こころ」を抑圧する言説権力となっていないだろうか。
今回のシンポジウムでは、私のこういった問題意識のもと、二名の発表者と一名の指定討論者を招いた。コーディネーターの私と二名の発表者の計三名で発表(一人20分)をした後に、15分程度指定討論者がその三名と討議し、次に15分程度、会場全体で開かれた討論をすることを試みる(最後の5分は総括にあてる)。発表者の一名は、教師教育者として教師の「からだ」と「こころ」を観察する立場にある樫葉みつ子(広島大学)であり、もう一名は英語教育における「からだ」と「こころ」について先駆的な研究を行っている山本玲子(大阪国際大学)である。指定討論者としては全国英語教育学会会長として、大局的な立場からのリーダーシップが期待されている卯城祐司(筑波大学)を招いた。これら登壇者は、当然のことながら、種々の論点において、微妙にあるいは大きく意見を異にしているが、お互いにごまかしのない、真摯な議論を行うことに全員が同意している。
一人でも多くの英語教育関係者が来てくれることを望む。特に、制度と現実の間の葛藤を感じている方の参集を求めたい。そこで率直に意見が交わされ、英語教育についての新たな語り方が生まれることが、英語教育の希望だと考える。
引用文献
Damasio, A. (2010) Self comes to mind: Constructing the conscious brain. New York: Pantheon
Dewey, J. (1916/2004) Democracy and education. New York: Dover Publications
Foucault, M. (1980) Power/Knowledge. New York: Pantheon Books.
デヴィッド・ハーヴェイ(著)、渡辺治(監訳)、森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝(翻訳)(2007)『新自由主義』東京:作品社
カール・グスタフ・ユング(著)松代洋一(訳)(1996) 『現在と未来』東京:平凡社
柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」中国地区英語教育学会研究紀要, 第40号, 11-20.
柳瀬陽介 (近刊) 「学習者と教師が主体性を取り戻すために」、柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂(編著)『英語教師は楽しい。』東京:ひつじ書房 所収
柳瀬陽介 (予定) 「『客観性』を問い直し、量的研究の「客観主義」を乗り越える」、JACET 中部地区大会シンポジウム「第二言語習得論からみた大学英語教育 ―量的アプロー チと質的アプローチの共存―」(2014年6月7日)発表資料
英語教育の担い手にとっての危機
―教育は人なり―
樫葉みつ子(広島大学)
キーワード:英語教育改革、教師、人材
1.はじめに
中学校教員としての経歴と、教員養成に従事する現在の立場から、筆者には学校現場との関わりが多い。月に数日程度の割合で、教育委員会や学校からの依頼を受けて、学校を訪れている。そのたびに実感されるのは、教師の仕事の加速する忙しさである。生徒指導上の課題や保護者への対応、説明責任のための書類作成など、教師の仕事は増えるばかりである。部活動や行事のために休日もなく、連日遅くまで職員室でパソコンに向かっているような、心身ともにゆとりのない教師にとって、英語教育に関する最近の様々な要請は、きっと違和感を覚えるものであるに違いない。
2.「英語教育改革」と現場
最近の英語教育改革をめぐる動きの中から、教師に直接関係するものを挙げてみる。まず、平成23年に「外国語能力の向上に関する検討会」から出された「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的な施策」である。平成28年度までの達成を目指す具体策の一つが「学習到達目標をCAN-DOリストの形で設定すること」であり、現在、中・高等学校には、学校ごとにCAN-DOリストを作成することが求められている。また、この時点で地域ごとに指定された拠点校には、英語教育改善への積極的な取り組みが求められた。
続いて平成25年に出された「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」には、「中・高等学校における指導体制強化」の内容として、「中・高等学校英語教育推進リーダーの養成」「中・高等学校英語科教員の指導力向上」「外部検定試験を活用し・県等ごとの教員の英語力の達成状況を定期的に検証」が盛り込まれている。これを受けて、平成26年度からは、自治体主催の研修が開催され、「英語教育強化地域拠点事業・教育課程特例校」においては、新たな英語教育が先取りで実施されている。 ここ数年の、このような「新たな英語教育」実現への動きは、本来は生徒や教師のためのはずであるが、実際に生徒や教師を育てることに結びついているのだろうか。
3.人材を育てる
今津(2012)は、現職研修の重要性を説いて、「資質・能力向上は人的・予算的措置が無くても『教員個人の心がけ次第で実現できる』といった安易で精神主義的な思いこみ」が政策側にあることを指摘する。金谷(2012)には、専門家による継続的な支援によって成長した教師集団が、主体的に教育活動を展開した事例が紹介されている。その例には、意義あることであれば、外部からの要請ではあっても、それを契機とした英語教育の活性化が可能なことや教師への支援の重要性が示されている。大きな変革を担ってもらうからには、当事者である教師が活力に満ちて事に当たれるよう、人材として守り育てるという視点に立っての支援がいる。
4.引用文献
今津孝次郎(2012年)『教師が育つ条件』岩波新書
金谷憲(編著)(2012年)『高校英語教科書を2度使う!山形スピークアウト方式』アルク
文部科学省(2013年)「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/25/12/__icsFiles/afieldfile/2013/12/17/1342458_01_1.pdf
文部科学省(2011年)「『国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策』について」http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/082/houkoku/1308375.htm
“英語教育の危機”に教育現場でできること
―子どもに身体性を取り戻す―
山本 玲子(大阪国際大学)
キーワード:身体性,コミュニケーション能力,同調
1.はじめに
近年の日本の英語教育は、「コミュニケーション能力育成」という耳触りのよい言葉に翻弄されてきたという実感がある。1989年、コミュニケーション能力が中学校・高校英語の学習指導要領で明確に打ち出されたことに始まり、2011年の小学校外国語活動の開始が拍車をかけた。コミュニケーション重視の方向に舵を切り、一種の昂揚感に包まれた英語教育現場で、小中学校の教員として20年間を過ごした筆者は、その成果と課題を目の当たりにしてきた。成果もなかったわけではないが、子どもの英語力がぐんと伸びた、という実感が現場ではまったくなかったのだ。あふれるような教材や、「英語は大切だ!」という大人たちの大合唱に取り囲まれた子どもたちを見ていると、20年前の子どもたちの方が学ぶ意欲にあふれていたとさえ思う。
PISAのアンケート結果が話題になるよりも先に、教育現場では子どもの変容に実感があった。「与えられたことはこなすけれど、自らわくわくしながら学ぶ子どもが減った」、「日本語でさえ、教師の言葉に情動を動かさなくなった、感動しなくなった」という、これらの現場の教員の声は、一見英語教育とは関係ないように見える。しかし、学級担任や学年主任として子どもに接しダイレクトにそれらを感じてきた筆者は、こういった子どもの変化は、コミュニケーション能力を育てる科目である英語の授業での実感と重なると断言できる。昔よりずっと複雑で多忙となった教育現場で起こっているのは、英語教育の危機だけではなく教育そのものの危機ではないか。逆に言えば、英語教育の復活は教育の復活に貢献するのではないか。そんな英語教師としての矜持を胸に、今叫ばれる英語教育の危機に、教育現場で何ができるのかを考えてみたい。
2.子どもの「こころ」と「からだ」を動かす
日本人の英語力が世界の最底辺にある元凶を、昔ながらの文法中心の英語教育に求めようとする考えは根強い。文部科学省が2013年に発表した英語教育改革計画の内容がそれを反映したものであることは明らかである。しかし、この英語教育改革が謳っている授業、つまり英語で授業をし、会話を重視し、ディベートなどコミュニケーション活動を多彩に取り入れた授業を、まがりなりにも小中学校でめざしてきた経験から言えるのは、それらは「ないよりはあった方がいい」というレベルに過ぎないということである。英語力低下の原因は、コミュニケーション重視という名のもとに、身体に覚えさせることをせず、実践の場で役に立たない型通りの会話練習をしてきたことにある(大津、2004)。身体性という視点がないコミュニケーション重視の授業は空回りする危険性があるのだ。
「身体性」とは「からだ」の動きと、それが直結する「こころ」の動きであると、筆者は定義づけている。手が震えているから恐怖を感じるのか、恐怖を感じているから手が震えるのかを問うことが無意味であるように、「からだ」はすべての意味づけを行っており、我々は「からだ」を抜きにして他者とかかわることはできない。人は「からだ」を通して他者と「こころ」の交流をするというメルロ・ポンティやダマシオの身体論はまさにそれである。
母語習得では、親も教師も自然に「からだ」を通して子どもとかかわり、同時に子どもと「こころ」の交流をしている。ところがなぜか英語教育になると身体性という概念がすっぽりと抜け落ち、ルールや語彙や型通りの表現を注入することだけが中心になってしまう。身体性という概念なしには、たとえば、「英語で授業」はなぜ望ましいのかの答えが出せない。リスニング力をつけるだけならCDを流しっぱなしにしてもいいはずだ。実際には、TVをずっと見せられていた幼児と、親と「からだ」と「こころ」の交流をしていた幼児(幼児は親の動きを真似したり、親の発話に合わせてからだを動かしたりする)では、母語習得が著しいのは後者である。それと同じで、一方通行の「英語で授業」では意味がない。そのような定義づけがなされないまま「英語で授業」が独り歩きした場合、教師の一方的な発話をぼんやり聞いている中高生たち、という授業風景が予想される。理想的な「英語で授業」とは、教師の英語がたどたどしくても、少ない語彙であっても、子どもの「からだ」と「こころ」が教員の「からだ」と「こころ」に添っている授業である。筆者は、ほとんど英語を知らないはずの小学生相手の授業でそれを体験したことがある。単語をゆっくり並べただけの教師の発話やジェスチャーに子どもが呼応し、教師の伝えたい内容を全身で受け止め、呼吸のタイミングさえ一致するほどであった。まさに、それは子どもの「こころ」が、教師の「こころ」と交流できている状態である。またそのような教室では、子どもと教師の「波動」のようなものが互いに共鳴し増幅していく。教師として最高の幸福感を感じる瞬間である。そういう英語授業の中で子どもは、相手の「こころ」を理解する方法は英語でも日本語でも同じだと感じ、「からだ」で英語に浸るすべを身につけることができる。逆に、こちらがどんなに流暢な英語で授業をしても、どんなに子どもが行儀よく座っていたとしても、何かがちぐはぐで子どもの「からだ」がこちらのタイミングに合ってこず、「こころ」が動いてくれない時もある。どうにも居心地が悪く、気持ちが悪く、授業に「乗れ」ない、授業者本人だけが気づく感覚である。
身体の微細な動きが他者と合っていく状態、つまり身体的同調があって初めて他者との同調(Synchrony)が生まれる。その同調が促進するのは、他者の情動を自らの情動として感じることで他者を真に理解する、認知的かつ言語的な能力である(Richardson et al., 2012)。つまり、英語教師は、子どもに伝わる「からだ」と「こころ」の動きを自らが生み出せる身体性を身につけなければならないのである。英語に限らずあらゆる教科で言えることであろう。しかし、この身体性がもっともその威力を発揮する教科は、コミュニケーション能力を育てることを目標とする英語に他ならない。 繰り返される教育改革を批判しているのではない。筆者が教育現場にいた時代の総合的な学習の導入やコミュニケーション重視の方向性は、理念としては正しいものであったと確信している。しかし、新しいことを始めるには、現場の教師は忙しすぎる。成果をすぐに求められる世間の風潮もある。総合的に広く深く思考させるためにどんな授業をすればよいか、とじっくり腰を落ち着けて総合的な学習を考える時間はない。とりあえずポートフォリオを作り、校外で体験学習をさせ、壁新聞を作らせてと、自転車操業の悪循環に入ってしまう。本来ならやりがいがあるはずの総合的な学習であっても、強制されている感を教師が持つようになると、それは必ず子どもにも伝わる。今回の英語教育改革も、英語で行う良い授業とは何か、ディベートを通して何を学ばせたいか、などをじっくり考える時間はなく、とりあえず追い立てられるように形だけ整えておこうとする先生が続出しないか、同じことが起こらないかと、危惧するのである。
小学校英語も同様である。教科化が決まると、真面目な先生ほど過剰反応して、文字導入や文法説明などをすでにやり始めているのを見聞きすると、不安になる。もっとも身体感覚が豊かで、外国語でさえ教師の「からだ」と「こころ」に添うことのできる柔軟さを持っている小学生段階で、身体性を無視した授業がまかり通り、そのうち当たり前になってしまわないだろうかと。
日本の英語教育は身体性を重視するべきであるという主張は、多忙な、誠実な英語教師への福音ともなると考えている。英語を通して子どもの「からだ」と「こころ」を動かすこと、そして教室に同調を生み出すこと、これらは簡単なことではないが、教師にとっては自分の感覚だけで勝負できる上に、この仕事の醍醐味を味わえる魅力的な目標のはずである。その目標に向かって努力した結果は間違いなく、成功した「英語で授業」やディベートや、内容あるコミュニケーション活動に直結する。
身体性を育てる英語の授業やそれが生み出す同調とは、具体的にどういうことだろうか、という疑問を持つ方もおられるだろう。筆者は、小中学生の英語授業において、TPR(Total Physical Response)、リズム指導、情動的な内容を使ったオーラル・インタープリテーションなどの活動を重点的に行い、以下のような方法で子どもの「からだ」と「こころ」の反応を調査した(山本、2013)。
(1) 子どもの可視的な身体運動の頻度を撮影映像から数値化
(2) 子どもの感想文をKJ法などから分析
(3) 子どもの自覚する身体反応(発汗、動悸など)を質問紙調査から数値化
(4) 身体性を重視した授業を受けたグループとそうでないグループを、英語力向上で比較
これらの研究の結果、子どもの「からだ」が教師のリズムに添っていくプロセスと、それが英語力向上に効果があることが明らかになった。また、教師の与えるインプットに対し、子どもの「こころ」が情動的に大きく豊かに反応することが、一体感と言ってもよい同調を教室に生み出していることは、確信に変わった。
しかし、低次な「からだ」の動きから、高次な「こころ」の動きへと研究対象がシフトするにつれ、調査方法の限界が明らかになってきた。教師と子どもが呼吸のタイミングまで一致するほどの同調を感じられた授業の際も、撮影映像では逆に可視的な動きは減少した。筆者はかなり独創的な方法で研究してきたつもりであるが、これが身体性研究の限界なのかもしれない。しかしここでやめるわけにはいかなかった。というのも、身体性を重視した英語授業を提案しても、同じ方法でやったのに子どもが乗ってこない、といった声を現場の先生から聞くことがあるからである。うちは荒れた学校だからどうせ無理、との声もある。指導内容を超えたところで、学習者の心身に伝わる「波動」を自らが生み出せる教師の身体性が必要なのだ。本当に追究すべきはここから先であった。
3.今後の研究
そんな身体性研究に新しいフェーズを与えてくれたのが、脳科学研究の目覚ましい進展である。相手の動きを模倣することで相手の気持ちを自分のこととして感じることができるのは、脳内のミラーニューロンの働きである。たとえ可視的な身体反応がなくても、同じ筋肉運動をつかさどる部位が脳内で反応する仮想的身体反応を確認することが可能になっている。「からだ」と「こころ」が一体であることが、科学的知見により解明されつつあるのだ。
2014年4月より、筆者は、東北大学加齢医学研究所川島隆太教授研究室の協力のもと、「外国語学習における学習者と教員の共振動化を実現する空間創出のための方法論の研究」と題する共同研究(共同研究者:京都外国語短期大学キャリア英語科石川先生、東北大学加齢医学研究所スマート・エイジング国際共同研究センター野澤先生、同研究所脳機能開発分野鄭先生)を開始した。これまで、個人と個人の可視的・不可視的な同調を脳内反応より確認することは可能であったが、同研究所では、3名から20名という複数の人間の身体的同調を同定できる超小型近赤外分光測定装置の実用化に成功した。まさに教室内の神秘を解き明かせる時代がやってきた感がある。超小型近赤外分光測定装置による量的研究に加え、インタビュー、質問紙調査、授業録画映像を分析するというこれまでの蓄積を生かした質的研究を融合させた研究を展開する予定である。英語教育学におけるこの研究の意義を、脳科学の最先端におられる研究者の先生方が認めてくれたことが、何よりの僥倖であると感じている。また、研究協力校が得難い現状の中で、教師の本質に立ち入る「こころ」の研究に協力してくれる学校に出会えたことにも感謝したい。手前味噌で恐縮だが、現場とアカデミズムの幸福な結婚、英語教育学と脳科学という異なる分野の幸福な結婚となりえるのではないだろうか。
本共同研究の概要を、研究協力校教諭に伝えた時の反応は今でも忘れない。『同調が起こる授業…。それなら、困難校にいた時の方が何度もありましたね(笑)。』これが熟達した教師の真骨頂であろう。身体的共感を軽視し、言葉だけで表面的な共感や学習意欲喚起を強いようとしている教師が現実にはいる。熟達した教師は、同調が教育に果たす役割を認識しているわけではなく経験知として知っているだけかも知れないが、本気で自らの心身を開き子どもにぶつかっていく中で、間の取り方、発話のタイミング、ジェスチャー、すべてを子どもとぴったり合わせていく。それにより発生した身体的同調が「こころ」の同調へつながっていく。経験知や個人的資質という言葉でこれまで片づけられてきた「教育力」を切り取る、という前人未到の領域へ、筆者はまたも踏み込んでいくことになりそうだ。なかなか子どもとの信頼関係を作れない未熟な教師でも効果的な英語教育ができる日が来ると確信している。そして何より、子どもと「からだ」と「こころ」を添わせた、同調の起こる英語の授業を通して、教師自らが、英語を使うこと、英語でこころを通わせること、英語を学ぶことを喜びと感じる「波動」を生み出し、それが子ども自身の「波動」となるかも知れない。 子どもが目を輝かせて英語を学ぶ教室の実現―それが、筆者のシンプルな夢である。なぜなら、学びの主人公は子どもだからである。日本が今置かれている英語教育狂騒曲の中では、誰が主人公であるかが忘れ去られがちである。先生方は、口で英語の大切さを説くのではなく、自らの「波動」で子どもを変えて欲しい。またその力が教室という場に存在することを信じて欲しい。
4.引用文献
Richardson, M. J., Garcia, R. L., Frank, T. D., Gergor, M., & Marsh, K. L. (2012). Measuring group synchrony: A cluster-phase method for analyizing multivariate movement time-series. Frontiers in Physiology, 405(3), 1-10.
大津由紀雄(2004)『小学校での英語教育は必要か』東京:慶応義塾大学出版会.
山本玲子(2013)『子どもの心とからだを動かす英語の授業』神奈川:青山社.