2014年5月31日土曜日

パネルディスカッション『今日叫ばれる"英語教育の危機"とは? ―そのとき教育現場は?―』 発題者:柳瀬陽介・樫葉みつ子・山本玲子 指定討論者:卯城祐司



きたる2014年6月21日(土曜)に島根大学で開催される第45回中国地区英語教育学会でパネルディスカッションを担当することになりました。事務局から与えられたタイトルは『今日叫ばれる"英語教育の危機"とは? ―そのとき教育現場は?―』でした。その趣旨文は次のようなものです。

さまざまな変革が求め続けられる日本の英語教育ですが、今日その迫られる変革を『危機』としてとらえる動きがあります。実際、日々英語教育活動に関わる教育現場では、こういった動きをどのようにとらえ、どのように理解し、そしてどう日々の教育活動を実践していくべきなのでしょうか?理想と現実の問題があり、大学入試や高校入試の制度や内容に変更が生じれば、実際の授業への波及効果は甚大なもので、影響を免れることは不可能であります。非常に、繊細な問題ではありますが、我々はこの議論を無視して通り過ぎることはできない、と考えます。決着を求める議論ではなく、議論することを通して、現場の意識を高め、各教員が自ら積極的にこういった問題に関わって、思考していくことを鼓舞するために、問題提示を行おうとするものです。


このタイトルと趣旨にできるだけ応える企画を私なりに考えた結果、私としては「経済と政治の論理から強要され、工業(生産)の論理で計画されている現在の英語教育改革も『危機』ではあるが、それよりも深刻な危機とは、英語教育関係者が、その改革論議に振り回されて、学習者と自分自身の「からだ」と「こころ」のあり方を無視しはじめることではないのか。そして現在の英語教育研究は、学習者と教師の「からだ」と「こころ」に関しての探究ができているのか」という問いかけをすることにしました。

さらに、現場の教師そして中間管理職的教育行政者が置かれている状況をよく知る樫葉みつ子先生(広島大学)と、先駆的な身体論的研究を行っている山本玲子先生(大阪国際大学)を発題者として呼ぶことにしました。

樫葉先生は以下のような認識をもっています。

生徒指導上の課題や保護者への対応、説明責任のための書類作成など、教師の仕事は増えるばかりである。部活動や行事のために休日もなく、連日遅くまで職員室でパソコンに向かっているような、心身ともにゆとりのない教師にとって、英語教育に関する最近の様々な要請は、きっと違和感を覚えるものであるに違いない。


山本先生の見解は以下のようなものです。

「与えられたことはこなすけれど、自らわくわくしながら学ぶ子どもが減った」、「日本語でさえ、教師の言葉に情動を動かさなくなった、感動しなくなった」という、これらの現場の教員の声は、一見英語教育とは関係ないように見える。しかし、学級担任や学年主任として子どもに接しダイレクトにそれらを感じてきた筆者は、こういった子どもの変化は、コミュニケーション能力を育てる科目である英語の授業での実感と重なると断言できる。昔よりずっと複雑で多忙となった教育現場で起こっているのは、英語教育の危機だけではなく教育そのものの危機ではないか。


こういった現場感覚をもつ方々に登壇していただけることを私は大変嬉しく思っております。

加えて、今回の登壇と発題を単なる遠吠えにしないために、現在、全国英語教育学会の会長でありその他にも日本の英語教育界において重要な立場を担っている卯城祐司先生(筑波大学)を指定討論者として招くことにしました。(このように野心的な企画と人選を認めていただいた事務局には深く感謝しています)。

当日は、私の常の方針でありますが、できるだけ率直で自由な発言を促進し、権威的で抑圧的な発言は避けてもらうつもりです。一人でも多くの皆様のご参加を促すために、このブログで、発題者三名の予稿を掲載することにします。







英語教育の本当の「危機」とは


柳瀬陽介(広島大学)


キーワード:新自由主義,「からだ」,「こころ」


1新自由主義と新保守主義の複合体による熱狂の中で

現代の英語教育界は改革の「嵐」の中にあると言っても過言ではない。これらの改革は、一方で「正論」として声高に語られながら、他方でその提唱者・代弁者が現場の声にほとんど耳を傾けようとしない点で、改革者が何かに「取り憑かれている」もののようにも思える。「とにかく国が言うんだからやるしかないんです」と血相を変える関係者の熱狂も、それは何かの憑依の反映なのかもしれない(人が、複数の理性的な選択肢の存在を否定する時、その底流にあるのは当人が自覚しがたい強烈な感情的複合体 ―コンプレックス― である)。

2013年12月13日文部科学省発表の英語教育改革計画にも見られるように、現在の英語教育改革は、経済・工業・政治の論理に深く影響されている(この点については後日改めて論考をする予定である)。「経済成長が至上命題であり私たちはグローバル競争を勝ち抜かねばならない」、「そのために英語ができる学習者(そして教師)を短期間で計画的・合理的に養成せねばならない」、「国威発揚できる東京オリンピックまでに英語教育改革を完遂する一方、『日本人としてのアイデンティ』を育成しなければならない」、―これらのいわば有無を言わせまいとする立論は、新自由主義的な個人間競争の讃美を表面とし、その競争に疲弊する人々を集団的に束ねる新保守主義的な愛国心を裏面とする ハーヴェイ 2007)感情的複合体となっていないか。

この感情的複合体は表側で資本主義という制度化された近代的教理により正当化され―英語教育における資本主義的発想の影響については、柳瀬 (近刊)を参照されたい―、裏側で国家主義という近代的教条に裏づけられて、意識面での合理性が保証された「正論」として通っている。だが正論であるはずにもかかわらず、それを唱える人々が眼尻を上げ肩を怒らせる様子からは、人々の無意識が抑圧されていることが推測できる。論の正しさにからだの底からの深い確信をもつ者はからだを強張らせないからだ。また正論を「仕方ない」として受け入れる教師の抑うつ的な様子からは、無意識が抑圧されその人の生命力が損なわれていることが伺える。

人間は合理的(=割り切れる)側面と、合理外的(=割り切れない)側面をもつ生き物であり、社会もその両面をもつ。それにもかかわらず、ある特定の割り切り方(=合理的教条)が「正論」としてあまりにも権力をもちすぎ、それに対するためらいや批判を一切認めないイデオロギーになってしまうと、それは絶対的な価値を付与されたように感じられ始め、感情的複合体となる。感情的複合体は、人々に憑依し熱狂を産み出すと同時に、その論理では割り切れない人間の側面を抑圧してしまう。

ある国・時代が強烈な感情的複合体に憑依され熱狂が生じることの危険を指摘したのは、無意識がもつ「内なる世界」の重要さを知る深層心理学者として、第一次大戦後から第二次大戦にいたるドイツの悲劇を隣国スイスで目にしていたユングであった。彼は1934年の時点で、「人々は政治や経済の巨大なプログラムという、いつもきまって諸国民を泥沼に引きずり込んできた代物にばかり喜んで耳を傾けています」、と当時の社会の傾向を指摘する。為政者が政治や経済の大事ばかり語り、それにつられて人々が日々の暮らしの小事への気遣いを忘れ始める時、社会は暴走へと近づいてゆく。その上でユングは、「私たちの文化的所産が天から下ったものなどではなく、私たち一人一人の人間が最終的な作り手なのだということを信じて疑わない少数の人々」に対して語りかける。「大きなところが歪んでくるとしたら、それはなによりも一人一人が、私自身がおかしくなっているからにほかなりません。それなら何よりもまず、私自身を正すのが理性に適った道でしょう」 ―かくしてユングは危機的な状況でこそ「人間のこころというものの永遠不変の事実の上に、自らの基礎を築くしかありません」と述べる(ユング 1996)。大言壮語的な議論が社会で横行する時にこそ、私たちは日々の暮らしの細やかな営みのあり方を大切にし、それらがいつのまにか荒廃してしまわないように配慮しなければならない。

熱狂的で頑迷な立論に対して、同じように熱狂的な糾弾や頑迷な反対運動で反逆しても、それは立論のイデオロギー性によりナンセンスと決めつけられ、感情的複合体性により感情的な嵐の中に引き込まれてしまうだけかもしれない。私たちは、感情的複合体となった時代のイデオロギーが抑圧し隠蔽している私たちの無意識的な側面を静かに向き合うことを試み、その静穏に基づき新たな立論を構築するべきではないだろうか。

時代の「正論」に私たちが熱狂する時(あるいはそれを力なく是認する時)、私たちはその理屈で私たちが抑圧している無意識からのメッセージに耳を傾けるべきだ。無意識からのメッセージは「こころ」のざわめきや「からだ」の違和感といった形をしばしば取る。私たちはその違和感を言語化するべきだろう。私たちがそのメッセージを無視しつづければ、「正しい理屈」に憑依した熱狂は、暴走と破滅に至りかねないというのは、歴史上さまざまな個人や社会の歴史が語ることだ。



2 抑圧された「からだ」と「こころ」からのメッセージに耳を傾ける

それでは、学校において、英語という教科指導を第一責務としながら、子どもの成長支援という社会的役割を担う英語教師は、この状況において、何をし、何をするべきでないのか ―私は今回敢えて「学習者」という呼称を避け、まだ「大人」でないがゆえに配慮を必要とする「子ども」という呼び方をする―。

ユングの見立てにしたがえば、私たち英語教師は、まず自らの歪みを正し、人間の「こころ」にまっすぐ向き合わなければならない。強行される改革への直接抗議が不要だというのではない。だが、それ以上に、私たちは、命令体系の末端でYesかNoを言うだけの存在としてではなく、自ら息づく「こころ」と「からだ」をもった一人の人間として、現場で感じる実感を基に、子どもの「こころ」と「からだ」に向き合うべきだろう。

経済と工業の論理で補強された政治の論理にYesかNoを言うというだけのコミュニケーションでは、結局は現状の制度的権力を有する政治の論理に絡め取られてしまう。英語教師は、経済・工業・政治の論理に基づくコミュニケーションよりも、教育の論理によるコミュニケーションを始めるべきではないか。若き生命を育むという教育の論理を、経済・工業・政治の論理に絡め取られてしまった人々に提示して理解と共感を得ながら、教育の論理に基づく営みを正々堂々と学校で行うべきだろう。教育に政治の力が必要だとしても、それは教育の論理を私たちが教師としての営みで明らかにして、教育の営みがどのようなものであるかを市井の人々に行動と言説で広く知らせてから、政治的な力の獲得に向かうべきではないのか。英語教師は、政治のゲームに深入りする前に、まずは自らの「からだ」と「こころ」の実感、そして子どもの「からだ」と「こころ」の様子を世間に伝えるべきではないのか。

英語教師として日々子どもに向き合う私たちの「こころ」は、何を感じているだろうか。私たちの「からだ」は何を伝えようとしているだろうか。そして、何よりも子どもの「こころ」は何を感じているのだろうか。それを知るためには、十分に「こころ」の表現を成し得ない子どもの「からだ」の表情・動きを共感的に理解する必要があるだろう。

ここでごく簡単にでも「こころ」と「からだ」の定義をしておくべきだろう。ここでいう「こころ」とは、無意識的な「からだ」が生み出す情動 (emotion) ―身体の生理学的・生化学的反応― が、感知され自覚された上で生じる感情 (feeling) の意識を基本的に意味している。私たちのいわゆる「知的」 (intelligent) な認知活動 ―思考や言語使用― はすべて、「からだ」の情動に起因する「こころ」の感情の意識を基盤としている (Damasio 2010)。

この定義に基づいて言い直すなら、英語教師の重要課題とは、子どもから英語や日本語の発話を要求する以前に、子どもの「こころ」の中で感じられているはずの感情を感知することである。子どもの、いわばことば以前のメッセージである「こころ」の感情を教師が的確に感知しないままに、英語にせよ日本語にせよ子どもに発話を強要するなら、子どもは予め定められた「正解」を自らの実感とは無縁に口にするか、そのような一種の儀式に意義を見いだせず口を閉ざすだけだろう。教師が、ことば以前の子どもの「こころ」の感情を感知するためには、子どもの「からだ」が自由に情動を生み出せるように、子どもの存在が ―子どもが有しているかもしれない種々の問題にもかかわらず― 肯定的に受容されていなければならない。存在を肯定された子どもは、身体内に多様な情動を生み出し、それは子どもの「こころ」の中では豊かな感情として立ち現れ、身体外でも微細な表情、時には大きな動きを生み出す。子どもはその感情に促されて、思考や言語使用へと向かう。周りの人はその子どもの表情や動きに促されて、その子どもの思考や言語使用を支援しようとする。

逆に言うなら、子どもから内発する情動と感情を否定・無視して、子どもを外から支配し操作しようとしても、その効力は一時的なものに過ぎず (Dewey 1916)、そこで「学習」されたはずの行動は、子どもの「身につかない」。「心ここにあらず」だったからである。だが教師は、時に子どもをいかに支配し操作するかという発想に取り憑かれてしまっている ―それはそもそも教師自身が、自らの情動と感情を否定され、外側から支配し操作されてしまっているからかもしれない―。

外からは観察しがたい情動と感情という「内なる世界」が、子どもにおいても教師においても守られなければならない。次世代の「内なる世界」が、新自由主義と新保守主義によって強化されたグローバル資本主義社会という「外なる世界」に塗りつぶされてしまうなら、それは社会の未来の可能性を損なうことではないのか。英語教育改革を無視することも全面否定することもできない。だがグローバル資本主義的な憑依的熱狂に現場教師もが取り憑かれてしまい、子どもと教師自身の「からだ」と「こころ」を置き去りにしてしまうなら、それこそが英語教育の「危機」ではないのか。

英語教育の本当の危機とは、近代社会が必要とする資本主義と国家に基づくがゆえに全面否定できない新自由主義と新保守主義が英語教育に侵入していることであることではなく、その侵入に煽られて、教師が本来の使命である子どもの「からだ」と「こころ」に配慮することを忘れてしまうこと、そして、自らの「からだ」と「こころ」のあり方にも気を配らなくなることではないか (外的に来襲した危機が、致命的になるのは、それが私たちの内面を蝕んだ時である)。

グローバル資本主義を一掃することなど誰もできないし、誰も望むべきではないだろう ―それが20世紀の壮大な社会実験で私たちが学んだことかもしれない―。だが、グローバル資本主義が私たちの、そして子どもの「からだ」と「こころ」の自然を一掃してしまうことは避けなければなるまい。教師は、子どもと自分の「からだ」と「こころ」を守ることを本務としなければならないのではないか。



3 現状で何ができるのか?

しかし、現実はどうか。英語教師は、子どもが生きているということを、数値(例えば、観点別評価の評定、標準テストの得点、Can-Do Listの達成状況など)にひたすらに還元することを強いられていないか。また教育行政者・教師教育者も、教師が生きているということを数値(例えば、子どもが獲得したテスト得点、教師自身のCan-Do Listの達成状況など)だけで管理しようとしていないか。子ども、そして教師の、数値に還元しがたい「こころ」と「からだ」 ―「内なる世界」― のメッセージは無視されていないか。それどころか「こころ」と「からだ」のメッセージは、数値目標達成の邪魔になる「問題」あるいはせいぜい「ノイズ」としてしか認識されていないだろうか。子どもや教師のためではない、管理のための管理ばかりが横行していないだろうか。まじめな現場教師ほど、国策の「正論」と現場の実態の乖離と矛盾を感じながら、板挟みになったまま、自分の「こころ」と「からだ」を苦しめているのではないだろうか。

それでは英語教育学という学術的言説権力は、抑圧されがちな教師そして子どもを守り、彼・彼女らに力を与えるために行使されているだろうか。ここでも楽観視はできない。数値目標達成のために子どもと教師を操作・管理することが「科学」としての英語教育学とみなされているようにも思えるからである。― そもそも従来型の「英語教育学の権威筋」は、私のこのような批判的文章をどう扱うのだろうか。「これは学術的言説(あるいは英語教育学)ではない」と排除するのだろうか。それならばその根拠は何で、その根拠の妥当性はどのように説明されるのだろうか。一般に「AはXであるが、BはXとは言えない」などと区別をする者は、区別対象(AやB)の観察(=一次観察)に傾注するあまり、区別そのものの観察(=二次観察)をおろそかにしがちである。私は今、従来の「英語教育学」に対する二次観察を推奨している―。

英語教育学は、数量に還元しがたい「こころ」と「からだ」のメッセージを、ここ最近制度化したに過ぎない研究方法論で構造的に否定していないだろうか(端的な例は浅薄な「客観主義」に絡め取られてしまった量的研究しか認めない頑迷な態度である (柳瀬 予定))。英語教育学は、制度的権力者、そしてそれらの制度的権力者に連なろうとする者の権力の維持と強化の道具となっていないだろうか。英語教育学は子どもと教師の「からだ」と「こころ」を十分にとらえているだろうか。Foucault (1980) も言うように、学術的言説は「真理の体制」として君臨することにより、それから外れる人々や事象を抑圧する道具となる。現在主流の「英語教育学」は「からだ」と「こころ」を抑圧する言説権力となっていないだろうか。

今回のシンポジウムでは、私のこういった問題意識のもと、二名の発表者と一名の指定討論者を招いた。コーディネーターの私と二名の発表者の計三名で発表(一人20分)をした後に、15分程度指定討論者がその三名と討議し、次に15分程度、会場全体で開かれた討論をすることを試みる(最後の5分は総括にあてる)。発表者の一名は、教師教育者として教師の「からだ」と「こころ」を観察する立場にある樫葉みつ子(広島大学)であり、もう一名は英語教育における「からだ」と「こころ」について先駆的な研究を行っている山本玲子(大阪国際大学)である。指定討論者としては全国英語教育学会会長として、大局的な立場からのリーダーシップが期待されている卯城祐司(筑波大学)を招いた。これら登壇者は、当然のことながら、種々の論点において、微妙にあるいは大きく意見を異にしているが、お互いにごまかしのない、真摯な議論を行うことに全員が同意している。

一人でも多くの英語教育関係者が来てくれることを望む。特に、制度と現実の間の葛藤を感じている方の参集を求めたい。そこで率直に意見が交わされ、英語教育についての新たな語り方が生まれることが、英語教育の希望だと考える。



引用文献
Damasio, A. (2010) Self comes to mind: Constructing the conscious brain. New York: Pantheon
Dewey, J. (1916/2004) Democracy and education. New York: Dover Publications
Foucault, M. (1980) Power/Knowledge. New York: Pantheon Books.
デヴィッド・ハーヴェイ(著)、渡辺治(監訳)、森田成也・木下ちがや・大屋定晴・中村好孝(翻訳)(2007)『新自由主義』東京:作品社
カール・グスタフ・ユング(著)松代洋一(訳)(1996) 『現在と未来』東京:平凡社
柳瀬陽介 (2010) 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察」中国地区英語教育学会研究紀要, 第40号, 11-20.
柳瀬陽介 (近刊) 「学習者と教師が主体性を取り戻すために」、柳瀬陽介・組田幸一郎・奥住桂(編著)『英語教師は楽しい。』東京:ひつじ書房 所収
柳瀬陽介 (予定) 「『客観性』を問い直し、量的研究の「客観主義」を乗り越える」、JACET 中部地区大会シンポジウム「第二言語習得論からみた大学英語教育 ―量的アプロー チと質的アプローチの共存―」(2014年6月7日)発表資料








英語教育の担い手にとっての危機 ―教育は人なり―


樫葉みつ子(広島大学)


キーワード:英語教育改革、教師、人材



1.はじめに

中学校教員としての経歴と、教員養成に従事する現在の立場から、筆者には学校現場との関わりが多い。月に数日程度の割合で、教育委員会や学校からの依頼を受けて、学校を訪れている。そのたびに実感されるのは、教師の仕事の加速する忙しさである。生徒指導上の課題や保護者への対応、説明責任のための書類作成など、教師の仕事は増えるばかりである。部活動や行事のために休日もなく、連日遅くまで職員室でパソコンに向かっているような、心身ともにゆとりのない教師にとって、英語教育に関する最近の様々な要請は、きっと違和感を覚えるものであるに違いない。



2.「英語教育改革」と現場

最近の英語教育改革をめぐる動きの中から、教師に直接関係するものを挙げてみる。まず、平成23年に「外国語能力の向上に関する検討会」から出された「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的な施策」である。平成28年度までの達成を目指す具体策の一つが「学習到達目標をCAN-DOリストの形で設定すること」であり、現在、中・高等学校には、学校ごとにCAN-DOリストを作成することが求められている。また、この時点で地域ごとに指定された拠点校には、英語教育改善への積極的な取り組みが求められた。

続いて平成25年に出された「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」には、「中・高等学校における指導体制強化」の内容として、「中・高等学校英語教育推進リーダーの養成」「中・高等学校英語科教員の指導力向上」「外部検定試験を活用し・県等ごとの教員の英語力の達成状況を定期的に検証」が盛り込まれている。これを受けて、平成26年度からは、自治体主催の研修が開催され、「英語教育強化地域拠点事業・教育課程特例校」においては、新たな英語教育が先取りで実施されている。 ここ数年の、このような「新たな英語教育」実現への動きは、本来は生徒や教師のためのはずであるが、実際に生徒や教師を育てることに結びついているのだろうか。



3.人材を育てる

今津(2012)は、現職研修の重要性を説いて、「資質・能力向上は人的・予算的措置が無くても『教員個人の心がけ次第で実現できる』といった安易で精神主義的な思いこみ」が政策側にあることを指摘する。金谷(2012)には、専門家による継続的な支援によって成長した教師集団が、主体的に教育活動を展開した事例が紹介されている。その例には、意義あることであれば、外部からの要請ではあっても、それを契機とした英語教育の活性化が可能なことや教師への支援の重要性が示されている。大きな変革を担ってもらうからには、当事者である教師が活力に満ちて事に当たれるよう、人材として守り育てるという視点に立っての支援がいる。

4.引用文献
今津孝次郎(2012年)『教師が育つ条件』岩波新書
金谷憲(編著)(2012年)『高校英語教科書を2度使う!山形スピークアウト方式』アルク
文部科学省(2013年)「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/25/12/__icsFiles/afieldfile/2013/12/17/1342458_01_1.pdf
文部科学省(2011年)「『国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策』について」http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/shotou/082/houkoku/1308375.htm








“英語教育の危機”に教育現場でできること  ―子どもに身体性を取り戻す―


山本 玲子(大阪国際大学)


キーワード:身体性,コミュニケーション能力,同調




1.はじめに

近年の日本の英語教育は、「コミュニケーション能力育成」という耳触りのよい言葉に翻弄されてきたという実感がある。1989年、コミュニケーション能力が中学校・高校英語の学習指導要領で明確に打ち出されたことに始まり、2011年の小学校外国語活動の開始が拍車をかけた。コミュニケーション重視の方向に舵を切り、一種の昂揚感に包まれた英語教育現場で、小中学校の教員として20年間を過ごした筆者は、その成果と課題を目の当たりにしてきた。成果もなかったわけではないが、子どもの英語力がぐんと伸びた、という実感が現場ではまったくなかったのだ。あふれるような教材や、「英語は大切だ!」という大人たちの大合唱に取り囲まれた子どもたちを見ていると、20年前の子どもたちの方が学ぶ意欲にあふれていたとさえ思う。

PISAのアンケート結果が話題になるよりも先に、教育現場では子どもの変容に実感があった。「与えられたことはこなすけれど、自らわくわくしながら学ぶ子どもが減った」、「日本語でさえ、教師の言葉に情動を動かさなくなった、感動しなくなった」という、これらの現場の教員の声は、一見英語教育とは関係ないように見える。しかし、学級担任や学年主任として子どもに接しダイレクトにそれらを感じてきた筆者は、こういった子どもの変化は、コミュニケーション能力を育てる科目である英語の授業での実感と重なると断言できる。昔よりずっと複雑で多忙となった教育現場で起こっているのは、英語教育の危機だけではなく教育そのものの危機ではないか。逆に言えば、英語教育の復活は教育の復活に貢献するのではないか。そんな英語教師としての矜持を胸に、今叫ばれる英語教育の危機に、教育現場で何ができるのかを考えてみたい。



2.子どもの「こころ」と「からだ」を動かす

日本人の英語力が世界の最底辺にある元凶を、昔ながらの文法中心の英語教育に求めようとする考えは根強い。文部科学省が2013年に発表した英語教育改革計画の内容がそれを反映したものであることは明らかである。しかし、この英語教育改革が謳っている授業、つまり英語で授業をし、会話を重視し、ディベートなどコミュニケーション活動を多彩に取り入れた授業を、まがりなりにも小中学校でめざしてきた経験から言えるのは、それらは「ないよりはあった方がいい」というレベルに過ぎないということである。英語力低下の原因は、コミュニケーション重視という名のもとに、身体に覚えさせることをせず、実践の場で役に立たない型通りの会話練習をしてきたことにある(大津、2004)。身体性という視点がないコミュニケーション重視の授業は空回りする危険性があるのだ。

「身体性」とは「からだ」の動きと、それが直結する「こころ」の動きであると、筆者は定義づけている。手が震えているから恐怖を感じるのか、恐怖を感じているから手が震えるのかを問うことが無意味であるように、「からだ」はすべての意味づけを行っており、我々は「からだ」を抜きにして他者とかかわることはできない。人は「からだ」を通して他者と「こころ」の交流をするというメルロ・ポンティやダマシオの身体論はまさにそれである。

母語習得では、親も教師も自然に「からだ」を通して子どもとかかわり、同時に子どもと「こころ」の交流をしている。ところがなぜか英語教育になると身体性という概念がすっぽりと抜け落ち、ルールや語彙や型通りの表現を注入することだけが中心になってしまう。身体性という概念なしには、たとえば、「英語で授業」はなぜ望ましいのかの答えが出せない。リスニング力をつけるだけならCDを流しっぱなしにしてもいいはずだ。実際には、TVをずっと見せられていた幼児と、親と「からだ」と「こころ」の交流をしていた幼児(幼児は親の動きを真似したり、親の発話に合わせてからだを動かしたりする)では、母語習得が著しいのは後者である。それと同じで、一方通行の「英語で授業」では意味がない。そのような定義づけがなされないまま「英語で授業」が独り歩きした場合、教師の一方的な発話をぼんやり聞いている中高生たち、という授業風景が予想される。理想的な「英語で授業」とは、教師の英語がたどたどしくても、少ない語彙であっても、子どもの「からだ」と「こころ」が教員の「からだ」と「こころ」に添っている授業である。筆者は、ほとんど英語を知らないはずの小学生相手の授業でそれを体験したことがある。単語をゆっくり並べただけの教師の発話やジェスチャーに子どもが呼応し、教師の伝えたい内容を全身で受け止め、呼吸のタイミングさえ一致するほどであった。まさに、それは子どもの「こころ」が、教師の「こころ」と交流できている状態である。またそのような教室では、子どもと教師の「波動」のようなものが互いに共鳴し増幅していく。教師として最高の幸福感を感じる瞬間である。そういう英語授業の中で子どもは、相手の「こころ」を理解する方法は英語でも日本語でも同じだと感じ、「からだ」で英語に浸るすべを身につけることができる。逆に、こちらがどんなに流暢な英語で授業をしても、どんなに子どもが行儀よく座っていたとしても、何かがちぐはぐで子どもの「からだ」がこちらのタイミングに合ってこず、「こころ」が動いてくれない時もある。どうにも居心地が悪く、気持ちが悪く、授業に「乗れ」ない、授業者本人だけが気づく感覚である。

身体の微細な動きが他者と合っていく状態、つまり身体的同調があって初めて他者との同調(Synchrony)が生まれる。その同調が促進するのは、他者の情動を自らの情動として感じることで他者を真に理解する、認知的かつ言語的な能力である(Richardson et al., 2012)。つまり、英語教師は、子どもに伝わる「からだ」と「こころ」の動きを自らが生み出せる身体性を身につけなければならないのである。英語に限らずあらゆる教科で言えることであろう。しかし、この身体性がもっともその威力を発揮する教科は、コミュニケーション能力を育てることを目標とする英語に他ならない。 繰り返される教育改革を批判しているのではない。筆者が教育現場にいた時代の総合的な学習の導入やコミュニケーション重視の方向性は、理念としては正しいものであったと確信している。しかし、新しいことを始めるには、現場の教師は忙しすぎる。成果をすぐに求められる世間の風潮もある。総合的に広く深く思考させるためにどんな授業をすればよいか、とじっくり腰を落ち着けて総合的な学習を考える時間はない。とりあえずポートフォリオを作り、校外で体験学習をさせ、壁新聞を作らせてと、自転車操業の悪循環に入ってしまう。本来ならやりがいがあるはずの総合的な学習であっても、強制されている感を教師が持つようになると、それは必ず子どもにも伝わる。今回の英語教育改革も、英語で行う良い授業とは何か、ディベートを通して何を学ばせたいか、などをじっくり考える時間はなく、とりあえず追い立てられるように形だけ整えておこうとする先生が続出しないか、同じことが起こらないかと、危惧するのである。

小学校英語も同様である。教科化が決まると、真面目な先生ほど過剰反応して、文字導入や文法説明などをすでにやり始めているのを見聞きすると、不安になる。もっとも身体感覚が豊かで、外国語でさえ教師の「からだ」と「こころ」に添うことのできる柔軟さを持っている小学生段階で、身体性を無視した授業がまかり通り、そのうち当たり前になってしまわないだろうかと。

日本の英語教育は身体性を重視するべきであるという主張は、多忙な、誠実な英語教師への福音ともなると考えている。英語を通して子どもの「からだ」と「こころ」を動かすこと、そして教室に同調を生み出すこと、これらは簡単なことではないが、教師にとっては自分の感覚だけで勝負できる上に、この仕事の醍醐味を味わえる魅力的な目標のはずである。その目標に向かって努力した結果は間違いなく、成功した「英語で授業」やディベートや、内容あるコミュニケーション活動に直結する。

身体性を育てる英語の授業やそれが生み出す同調とは、具体的にどういうことだろうか、という疑問を持つ方もおられるだろう。筆者は、小中学生の英語授業において、TPR(Total Physical Response)、リズム指導、情動的な内容を使ったオーラル・インタープリテーションなどの活動を重点的に行い、以下のような方法で子どもの「からだ」と「こころ」の反応を調査した(山本、2013)。

(1) 子どもの可視的な身体運動の頻度を撮影映像から数値化
(2) 子どもの感想文をKJ法などから分析
(3) 子どもの自覚する身体反応(発汗、動悸など)を質問紙調査から数値化
(4) 身体性を重視した授業を受けたグループとそうでないグループを、英語力向上で比較


これらの研究の結果、子どもの「からだ」が教師のリズムに添っていくプロセスと、それが英語力向上に効果があることが明らかになった。また、教師の与えるインプットに対し、子どもの「こころ」が情動的に大きく豊かに反応することが、一体感と言ってもよい同調を教室に生み出していることは、確信に変わった。

しかし、低次な「からだ」の動きから、高次な「こころ」の動きへと研究対象がシフトするにつれ、調査方法の限界が明らかになってきた。教師と子どもが呼吸のタイミングまで一致するほどの同調を感じられた授業の際も、撮影映像では逆に可視的な動きは減少した。筆者はかなり独創的な方法で研究してきたつもりであるが、これが身体性研究の限界なのかもしれない。しかしここでやめるわけにはいかなかった。というのも、身体性を重視した英語授業を提案しても、同じ方法でやったのに子どもが乗ってこない、といった声を現場の先生から聞くことがあるからである。うちは荒れた学校だからどうせ無理、との声もある。指導内容を超えたところで、学習者の心身に伝わる「波動」を自らが生み出せる教師の身体性が必要なのだ。本当に追究すべきはここから先であった。



3.今後の研究

そんな身体性研究に新しいフェーズを与えてくれたのが、脳科学研究の目覚ましい進展である。相手の動きを模倣することで相手の気持ちを自分のこととして感じることができるのは、脳内のミラーニューロンの働きである。たとえ可視的な身体反応がなくても、同じ筋肉運動をつかさどる部位が脳内で反応する仮想的身体反応を確認することが可能になっている。「からだ」と「こころ」が一体であることが、科学的知見により解明されつつあるのだ。

2014年4月より、筆者は、東北大学加齢医学研究所川島隆太教授研究室の協力のもと、「外国語学習における学習者と教員の共振動化を実現する空間創出のための方法論の研究」と題する共同研究(共同研究者:京都外国語短期大学キャリア英語科石川先生、東北大学加齢医学研究所スマート・エイジング国際共同研究センター野澤先生、同研究所脳機能開発分野鄭先生)を開始した。これまで、個人と個人の可視的・不可視的な同調を脳内反応より確認することは可能であったが、同研究所では、3名から20名という複数の人間の身体的同調を同定できる超小型近赤外分光測定装置の実用化に成功した。まさに教室内の神秘を解き明かせる時代がやってきた感がある。超小型近赤外分光測定装置による量的研究に加え、インタビュー、質問紙調査、授業録画映像を分析するというこれまでの蓄積を生かした質的研究を融合させた研究を展開する予定である。英語教育学におけるこの研究の意義を、脳科学の最先端におられる研究者の先生方が認めてくれたことが、何よりの僥倖であると感じている。また、研究協力校が得難い現状の中で、教師の本質に立ち入る「こころ」の研究に協力してくれる学校に出会えたことにも感謝したい。手前味噌で恐縮だが、現場とアカデミズムの幸福な結婚、英語教育学と脳科学という異なる分野の幸福な結婚となりえるのではないだろうか。

本共同研究の概要を、研究協力校教諭に伝えた時の反応は今でも忘れない。『同調が起こる授業…。それなら、困難校にいた時の方が何度もありましたね(笑)。』これが熟達した教師の真骨頂であろう。身体的共感を軽視し、言葉だけで表面的な共感や学習意欲喚起を強いようとしている教師が現実にはいる。熟達した教師は、同調が教育に果たす役割を認識しているわけではなく経験知として知っているだけかも知れないが、本気で自らの心身を開き子どもにぶつかっていく中で、間の取り方、発話のタイミング、ジェスチャー、すべてを子どもとぴったり合わせていく。それにより発生した身体的同調が「こころ」の同調へつながっていく。経験知や個人的資質という言葉でこれまで片づけられてきた「教育力」を切り取る、という前人未到の領域へ、筆者はまたも踏み込んでいくことになりそうだ。なかなか子どもとの信頼関係を作れない未熟な教師でも効果的な英語教育ができる日が来ると確信している。そして何より、子どもと「からだ」と「こころ」を添わせた、同調の起こる英語の授業を通して、教師自らが、英語を使うこと、英語でこころを通わせること、英語を学ぶことを喜びと感じる「波動」を生み出し、それが子ども自身の「波動」となるかも知れない。 子どもが目を輝かせて英語を学ぶ教室の実現―それが、筆者のシンプルな夢である。なぜなら、学びの主人公は子どもだからである。日本が今置かれている英語教育狂騒曲の中では、誰が主人公であるかが忘れ去られがちである。先生方は、口で英語の大切さを説くのではなく、自らの「波動」で子どもを変えて欲しい。またその力が教室という場に存在することを信じて欲しい。



4.引用文献
Richardson, M. J., Garcia, R. L., Frank, T. D., Gergor, M., & Marsh, K. L. (2012). Measuring group synchrony: A cluster-phase method for analyizing multivariate movement time-series. Frontiers in Physiology, 405(3), 1-10.
大津由紀雄(2004)『小学校での英語教育は必要か』東京:慶応義塾大学出版会.
山本玲子(2013)『子どもの心とからだを動かす英語の授業』神奈川:青山社.



















2014年5月17日土曜日

フッサール『危機』書(第三部)における「判断停止」についてのまとめ ― 質的研究の「客観性」を考えるために ―



この記事は、量的研究の源泉の理解のために ― フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第一部と第二部の簡単なまとめの記事の続きで、同書(以下、『危機』と略す)の第三部の中から「判断中止」(Epoché)についての記述を簡単にまとめたものです。これらの記事は、2014年6月7日に椙山女学園大学(星ヶ丘キャンパス)で行われるJACET中部支部大会(大会テーマ:第二言語習得論からみた大学英語教育 ―量的アプローチと質的アプローチの共存―)でおこなわれるシンポジウム発表のためのいわゆる「お勉強」ノートです。引用のページ数は、日本語引用は中央公論社のハードカバー版(下にある文庫本版ではありません)、ドイツ語引用はFelix Meiner Verlagのペーパーバック版です。私は哲学の正式な訓練を受けたことがないので、誤解を怖れます。もし以下の記述に間違いがあったら、どうぞご指摘ください。







■ 概要

この記事では、フッサールに従って、「客観性」ということを突き詰めて考えた場合、人間が自然科学において物体を「客観的」に記述するのと同じように、人間が自分自身である人間の心を「客観的」に記述できることの困難点を原理的に説明し、その困難点を克服するために、従来の客観性/主観性の枠組み(『危機』第一・二部)を編み変えて、新しい方法論として判断中止("Epoché" 「判断停止」や「エポケー」とも呼ばれる)が導入されたことを簡単にまとめます。さらに、この判断中止は、カウンセリングにおけるカウンセラーの態度や、ルーマン社会学における二次観察 (second-order observation) とつながっていることを示します。



■ 人間が人間の心を説明するということの背理

私たちが自然科学で物体を「客観的」に記述すると言う時、私たち、すなわち観察者のあり方は問題にされていません。観察者は無色透明で、身体も(ということは感情も)もたない、まさに「誰でもない人」(ことば遊びをするなら "no-body")であることが前提とされています。

しかし、観察対象が、人間の心となると問題が複雑になってきます。仮に人間の心は普遍的で共通なものだとしても ―カント的な言い方なら「超越論的主観性」になりましょうか― 、人間の心(超越論的主観性)が、自分自身である人間の心(超越論的主観性)を果たして「客観的」に記述できるのか、つまりさらに縮約して言うなら、自分が自分自身を「客観的」に記述できるのか、ということになります。通常、「客観的」な観察をする者は、観察対象の「外部」にいて、観察対象から何も影響を受けないし何の影響も与えないと想定されていますから、人間の心に関する「客観的」記述は、「客観性」に関するそういった考えに基づく限り、およそ矛盾をはらむことのようにも思えます。

「客観性」に関する伝統的な考えを堅持するなら、「内部で外部を観察する」といった矛盾を含んだ言い方をせざるを得ません。

あらゆる客観的な世界観察は、「外部」での観察であり、ただ「外側のもの」、客観的なものを把握するにすぎない。徹底した世界観察とは、自己自身を外に「外化する」主観性の、体系的で純粋な内部観察なのである。(157ページ、第29節)。

Alle objektive Weltbetrachtung ist Betrachtung im „Außen" und erfaßt nur „Äußerlichkeiten", Objektivitäten. Die radikale Weltbetrachtung ist systematische und reine Innenbetrachtung der sich selbst im Außen „äußernden" Subjektivität. 123.


ましてや人間の心が普遍的なものではなく、ユングが言うように(C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房)、観察者の人間も観察対象の人間も個性的な心を有しているものだとしたら、自然科学的な客観性はとても維持できないものとなるでしょう。

いや、観察対象が人間の心(主観)でなくて、(人間の心(主観)以外の)世界だとしても、その世界を、観察者の心(主観)によって意味づけられた世界とするなら、世界は、その一部であるはずの観察者の心(主観)によって作られたものとなります。ここでは心(主観)が世界を、ということはその一部としての自分自身を呑み込んでいるというパラドックスが生じます。

世界の構成分である主観が、いわば全世界を呑み込むことになるし、それとともに自己自身をも呑み込むことになってしまう。何という背理だろうか。(257ページ、53節)

Der Subjektbestand der Welt verschlingt sozusagen die gesamte Welt und damit sich selbst. Welch ein Widersinn. (195)




■ 主観性こそが「客観性」の基盤

もし、人の心や、人の心に現れた世界 ―カントなら、これを"Erscheinung" (現象(世界))と呼び、"Ding an sich"「物自体」と区別するところでしょう― を対象とした学問を行おうとするなら、客観性と主観性についての考え方の枠組みを変える必要がありそうです。唯一絶対の客観的対象があって、主観はそれを忠実に写し出すための(限りなく)無色透明なものであると考えるのではなく、主観があり、それにより客観が構成される、と考えるわけです。

われわれが関心をもたねばならないのは、与えられ方、現れ方、内在的な妥当様式というような、上述した主観的変化以外の何ものでもない。それこそが、たえず経過し、やむことなく流れてゆきながら、総合的に結合し、世界の端的な「存在」という統一的な意識を成立させるものなのである。(204-205ページ、第38節)

Nämlich nichts anderes soll uns interessieren als eben jener subjektive Wandel der Gegebeneitsweisen, der Erscheinungsweisen, der einwhonenden Geltungsmodi, welcher, ständig verlaufend, unaufhörlich im Dehinstoömen sich synthetisch verbindend, das einheitliche Bewußtsein des schlichten „Sens“ der Welt zustande bringt. (158)


「存在」は、主観と無縁の恒常的なものではなく、主観の変化とともに統合されてている意識によって与えられているものと言えましょうか。もちろん、このような見解は、人間とは独立した物体の実在を否定するものではありません。たとえ何らかの理由で、この宇宙から人類が絶滅したとしても、何らかの実在は残るでしょう。しかし、私たちが認めている「存在」とは、私たちが(人類として、あるいは共同体成員として、または個々人として)認識しているものであり、その存在認識を超えた実在―うまいことばがないので、とりあえず実在と呼んでおきます―は、定義上、私たちは知り得ないわけです(現代物理学は暗黒物質の存在は想定しても、それ以上の実在は想定できていません(ましてや証明もしていません))。人間が限られた脳細胞による限られた認知能力しかもたない生物である以上、いわば究極の実在は、私たちが理性の理念として想定することができるだけであり、私たちが感性の直観と結びつけることができる知性の概念で把握できる「客観的存在」は人間にとっての(あるいは共同体にとっての、もしくは私にとっての)「客観的存在」に過ぎないわけです。

このように客観性をいわば「人間化」(もしくは「主観化」)するなら、旧来のように、「学問的対象に主観性を入れてはならない!」と主張することは、自己否定であり、学問としては、「いかに主観的に構成された客観的対象を、別の主観(研究者)がいかに客観的に認識するか」ということに工夫をするべきだとなります ―このようにことばの使い方を変えると、もはや「主観-客観」ということばを使わない方がいいのではないかと思えてきます(実際、ルーマンは使いません)が、ここでは世間で通用している「客観的」に新しい意味(といっても『危機』書の出版年から考えるなら約80年前)を与えることを選びます。もっとも"Objektiv, objective"という語からすれば「客観的」ではなく「対象的」という訳語を使った方がいいのかとも思えますが・・・

いまや学問から「主観的世界」を追放するのではなく、主観的世界こそを学問の主題とし、理念的な究極の客観性を想定するにせよ、それは私たちの主観性から想定されることを自覚すべきだと思えます。

こうしていまやわれわれは世界を、あらゆるわれわれの関心、われわれの生の企図の基盤として一貫した主題とすることになる ―客観的科学の理論的関心や企図も、その中の特別な一群を形づくっているにすぎない―。以前は、客観的科学の理論的関心がわれわれの問題提起を動機付けていたのであるが、いまはそれだけに特権が与えられているわけではない。そのようなわけで、いまやわれわれの主題となるのは、世界そのものではなく、与えられ方は移り変わりながらも、われわれにたえずあらかじめ与えられているところの世界なのである。(217ページ、第43節 ―訳文の語順を一部変えています)

So machen wir sie jetzt konsequent thematisch, als Boden aller unserer Interessen, unserer Lebensvohaben, unter welchen die theoretischen der objektiven Wissenschaften nur eine besondere Gruppe bilden. Aber dies jetzt in keiner Weise bevorzugt, also nicht mehr so, wie sie früher unsere Fragenstellungen motivierte. In dieser Art sei jetzt also nicht Welt schlechtin, sondern ausschließlich Welt als im Wandel der Gegebenheitweisen uns ständig vorgegebene unser Thema. (167)




■ 判断中止

しかし、主観的世界を主題とするとしても、それを学問・研究の主題とするなら、「何でもあり」、「個人の勝手」、「言ったもの勝ち」とするわけにはいかないでしょう。もちろん、個々人がどのように考え・感じていようがそれは一切問わず、例えば5件法でそれぞれがそれぞれの意見を表明した世論調査を大規模に集計する研究はありえますし、その有効性は疑うべきものもありませんが、私たちは、それぞれの「意見」(主観的な見解)がどのように生じたかについて着目することができます。

われわれの眼を次の点に向けてみよう。すわなち、一般に、つまりわれわれすべてにとって、この世界ないし対象がその諸性質の基体として、単にあらかじめ与えられてあり、ただ所有されているというだけではなく、それらの対象(ならびにすべて存在者と思われているもの)が、さまざまな主観的な現われ方、与えられ方においてわれわれに意識されている、その点に眼を向けてみよう。本来、われわれはその点に注意を向けることもないし、大部分のものは、およそそのようなことを思いつきもしない。われわれはこのことを新しい普遍的関心の方向へと形成し、与えられ方のいかにということに対する首尾一貫にした普遍的関心をうち立ててみよう。われわれは存在者自身にも関心を向けるが、まっすぐにではなく、その与えられ方のいかにという点から見られた対象としての存在者に関心を向けるのである。詳しくいえば、相対的妥当性や主観的現象や思念の変化の中で、世界という統一的、普遍的妥当性、すなわちこの世界がわれわれにとっていかに成立してくるのか、という点にもっぱら恒常的な関心の方向を向けてみるわけである。(202ページ、第38節)

Lenken wir unsern Blick darauf, daß allgemeinen, daß uns allen die Welt bzw. die Objekte nicht überhaupt vorgegeben sind, in einer bloßen Habe als Substrate ihrer Eigenschaften, sondern daß sie (und alles ontisch Vermeinte) in subjectiven Erscheinungsweisen, Gegebenheitsweisen uns bewußt werden, ohne daß wir eigens darauf achten und während wir zum größten Tein überhaupt nicts davon ahnen. Gestalten wir nun dies zu einer neuen universalen Interessenrichtung, etablieren wir ein konsequentes universales Interesse für das Wie der Gegebenheitsweisen und für die Onta selbst, aber nicht geradehin, sondern als Objecte in ihrem Wie, eben in der ausschließlchen und ständigen Interessenrichtung darauf, wie im Wandel relativer Geltungen, subjektiver Erscheinungen, Meinungen die einheitliche, universale Gltung Welt, die Welt für uns zustande kommt. (156-157)


主観的な意見や見解が「何」であるか (what) よりも、それが「いかに」 (how) 形成されたのかに注目するためには、一旦、「何」(what) に対する「それが本当は何であり、本来どんな価値をもっており」といった関心から離れて、ただ虚心坦懐に、それが「いかにして」そのように思われているのかに注目する必要があります。「何」(what)に関する判断を停止することを、フッサールは判断中止  (Epoché) と呼びます。

われわれは、上述した判断中止の意味で、完全に「関心を離れた」観察者として,世界、つまり、単に主観的-相対的世界である世界(われわれすべての日常的な協働生活、努力、配慮、作業がそこで行われる世界)をまず素朴に見まわしてみよう。それは、その世界の存在や、世界がしかじかであるといったことの研究をめざすものではなくて、つねに存在するものとして、またしかじかであるものとして妥当していたし、いまもわれわれにとって妥当しつづけているものを、いかにそれが主観的に妥当しているか、どのように見えるか、などといった観点から考察することをめざすものである。(222ページ、第45節)。

Als im angegebenen Sinne jener Epoché völlig „uninteressierter“ Betrachter der Welt, rein als der subjektiv-relativen Welt (derjenigen, in der unser gesamtes alltägliches Gemeinschaftsleben, Sich-Mühen, Sorgen, Leisten sich abspielt), halten wir nun eine erste naive Umschau, immer darauf asu, nicht ihr Sein und Sosein zu erforschen, sondern, was immer als seiend und soeiend galt und uns fortgilt, unter dem Gesichtspunkt zu betrachten, wie es subjectiv gilt, in welchem Aussehen usw. (170)


私たちに立ち現れた世界を研究の対象とするには、客観的科学 (objectiven Wissenshaft) の知見さえ一旦脇において、立ち現れた主観的世界に関して「それは正しい・正しくない」といった判断を差し控え、いかにしてそのような主観的世界が妥当なものとして立ち現れたかに注目する必要があります(第35節)。

しかし、科学的判断をしばし停止するからといって、知覚者の主観的判断を全面肯定し、研究者も共にその主観的判断に従うことわけではありません。研究者は、知覚者の判断からも一旦離れて、それを正しい・良いと判断せず(また間違い・悪いとも判断せず)、ただその主観形成の過程に注目します(第69節)。

ということは、研究者は自分自身の判断も停止し、関心を離れた観察者として振る舞う必要があります。いわば、自分自身に対しても他人のように冷静に観察しなければなりません。物体についての普遍的科学 (universale Wissenschaft von den Körpern) に従事する科学者が、人間的な意味などについて判断停止しなければならないことを踏まえて、フッサールは心理学者は、自分自身の判断を一旦棚上げしなければならないことを説きます。

したがって、心理学もその習慣的な「抽象的」態度を要求する。その判断中止はすべての心に、したがって、心理学者自身の心にもまた向けられる。自然的-日常的な生活の流儀で客観的世界の実在物に関して行われる自分自身の妥当のはたらきを ―心理学者として― 一緒に遂行することを差し控えるということも、そこには含まれている。心理学者は、自己自身のうちに「関心を離れた傍観者」、つまり他者についてと同様、自分自身についての研究者を、しかも決定的なかたちで― ということは、心理的研究に従事する職業的時間の全体にわたって― 設定するのである。(339ページ、第69節)

Danach fordert auch sie ihre habituelle „abstraktive“ Einstellung. Ihre Epoché betrift alle Seelen, also auch die eigene des Psycholgen selbst: darin liegt Enthaltung vom Mitvollzug seiner eigenen in Beziehung auf Reales der objectiven Welt in der Weise des natürlich-alltäpglichen Lebens geübten Geltungen -- als Psychologe. Der Psychologe etabliert in sich selbst den „uninteressierten Zuschauer“ und Erforscher seiner selbst wie aller Anderen, und das ein für allemal, das heißt für alle „Berufszeiten“ der psychologischen Arbeit. (258)





■ カウンセリングとの関連

判断中止で、科学的判断もとりあえず差し控えるということは、例えばお伽話や神話のような話が出たとしても、それを否定せずに受け止め、かといってそれを信じきってしまうわけでもなく、なぜ・いかにしてそのような話がでてきたのかに注目するということです。また、話し手の判断についても判断中止するということは、話し手が例えば、「すごいでしょう」や「ひどい話ですよね」と言っても、「ああ、すごいと思っていらっしゃるわけですね」や「ひどいと感じられたのですね」と反応し、その判断の次元で争わず、話し手と共にどうして・どのようにしてその判断が形成されたかの方に興味を注ぐということです。自分自身の判断も脇に置くということは、話し手の話に対して自分の感情や考えが湧いてきたとしても、その感情や考えに同化してしまうのではなく、なぜそのような感情や考えが出てきたのだろうと冷静に自分を観察するということです。

こうやって判断停止の特徴をまとめてみると、私はこれはまるでカウンセラーの態度ではないかと思えてきました。カウンセリングは、科学や世間の常識にとらわれず、クライアントの訴えをまず受け入れ、それを否定せず(かといって増幅的に肯定もせず)、「もう少し詳しく教えて下さい」や「いつ頃から・どういう機会からそのように思うようになったのですか」と解明的に聞いてゆき、問題を抱えたクライアントが自分と自分の周りの世界に関する洞察を深め、考えを柔軟にして、その結果、しばしば問題解決・解消をもたらす方法とまとめられるかと思いますが、そんなカウンセラーの聴き方はある意味、「判断中止」によるものと言っていいかとも思えました。

参考までに、私がこれまで書いたカウンセリング関係の記事のリストを掲載しておきます。
C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/01/cg-19631972.html
C.G.ユング著、小川捷之訳 (1976) 『分析心理学』 みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/01/cg-19681976.html
C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1996.html
C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1995.html
小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/blog-post_3321.html
河合隼雄 (2009) 『ユング心理学入門』岩波現代文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2009.html
河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2010.html
河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2009_25.html
河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/04/2009.html
村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2010_31.html
小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2007.html
J-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/j-postl-2014.html


フッサールは、無意識が私たちの判断に影響することは、最近の「深層心理学」(„Tiefenpsychologie“)が指摘する通りだと言いつつも、「だからといって、われわれがこの理論とわれわれの理論を同一視しようというわけではない」(336ページ、第69節、ドイツ語ペーパーバック256ページ)と言っていますから、ドイツ語圏のフッサール (1859-1938)と「深層心理学」のユング(1875-1961)の考えにつながるところがあるというのは、それほど荒唐無稽な考えではないと私は思っています。

また、上記にあげた、カウンセラーの態度は、当事者研究で、当事者の語りを受け止める相手(私の言い方なら「第二者」)にも通じるところがあります。厳密な同一性・区別をお好みの方は、このように類例を並べてゆくことを快く思わないでしょうが、私は類例やアナロジーやメタファーで関連性を見出しながら考えをまとめることが好きな人間なので、ここでも指摘し、私の記事のリストをあげておきます。

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html
浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html
当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html
「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html
綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html
熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html
石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013.html




■ ルーマンとの関連

さらに類例は続きます(笑)。ある観察によって何(what)が結論として出されたかよりは、どのようにして(how)その観察がなされたのかに着目し、元々の観察(一次観察)をさらに観察する(二次観察)というのは、ルーマンの論でもあります。

ルーマン関係の記事


フッサールとルーマンの関係について、ルーマン研究者のHans-Georg Moeller (2006)は、フッサールの現象学は数々の哲学の中でももっとも直接的な影響をルーマンのシステム理論に与えた (Among all the philosophies discussed in this section, Husserl's phenomenology probably had the most immediate infulence on Luhmann's systems theory)と評しています(ですが、彼は判断中止と二次観察のことについては触れていません)





検索語を"Epoché"と"second-order observation"にしてグーグル検索してみますと、 Andreas Philippopoulos-MihalopoulosのNiklas Luhmann: Law, Justice, Societyが出てきましたが、その18ページで、彼は「ルーマンの一次観察と二次観察の区分は、用語法の齟齬を除くならば、過去の哲学や精神分析の図式にも見られるものであり、その中でもフッサールの判断中止の図式がもっとも関連性の高いものだろう」("Terminological incompatibilities aside, the distinction between first- and second-order observation reproduces several philosophical and psychoanalytical schemata, but perhaps more relevantly that of Husserlian epoche.")と述べています。

ですから、フッサールの判断停止とルーマンの二次観察がつながっているという私の考えもそう突飛なものではないと私は思っております。



■ リフレクティブ・ライティングがなぜ有効なのか

判断停止が一種の二次観察ならば、私は実践者が自分の実践に関して振り返り(=リフレクションを行い)、さらにそれを書くこと(=ジャーナル・ライティング)によって丁寧に二次観察を行うことができると考えていますから、ジャーナル・ライティングは、判断停止による「客観性」へ向けての探究だと論じることも可能になるかと思います。

また、リフレクションにおいても、助言や批判や価値判断をせずに、解明的に聞いてくれる相手の重要性がわかっていますが、これも(カウンセリングや当事者研究につながる)判断の一次停止による自らの実践の客観化(あるいは対象化)と表現することも可能かと思います。
関連記事
言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述 (草稿:HTML版)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/01/html.html
[草稿] 英語教師が自らの実践を書くということ (1) ―日本語/公開ライティングと英語/非公開ライティングの事例から―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/1.html
[草稿]英語教師が自らの実践を書くということ (2)―中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/05/2.html




■ ナラティブ研究

英語教育研究ではナラティブをどう扱うかについて、まだ議論が落ち着いていないかと思いますが、この記事での論考からすれば、ナラティブでいかに「真実が反映されたか」というナラティブの「何」(what)に着目するよりも、なぜ・いかにしてそのナラティブ(の内容)が語られるようになったのかというhowに着目すべきとなるかと思います。

客観性を主観性とは独立して存在するものと考える立場からすれば、主観的なナラティブなど研究で取り上げるべきものではない、せいぜい取り上げるにせよ、複数の観点からそのナラティブが「真実」を語っているか検証せよということになるかと思います。

そのような試みがまったく無意味だとはいいませんが、そのような試み、というよりそのような試みの背後にある客観性の形而上学 ―レイコフとジョンソンに倣って、「客観主義」(objectivism)と呼んでいいかと思います― は、私たちの主観性を否定し、私たちの日常生活 ―フッサールの用語なら「生活世界」Lebenswelt, lifeworld― のあり様を忘れさせてしまいます。主観性と生活世界を否定した上での情報ばかりが、実践者に与えられることは有益なことではないと考えます。

ですから、「客観性」について考えなおすことなく、これ以上、量的研究以外は認めないといった専横的な態度を学会が貫き通すなら、学会は、実践者に対してむしろ害をなすとすら言えるかもしれません。

他方、量的研究でなければ何でもよいとばかりに、質的研究の(新たな)客観性についての考察を怠っても、学会は「何でもあり」の場になり、その結果、妙な権力闘争の場に堕してしまうかもしれません。

原理的な考察は必要だと私は考えています。



関連記事:
英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ : EBMとNBMからの考察
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/00033703

身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html
ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html
マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html
ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html




追記

アダム・スミスも「公平な観察者」について語り、その公平な観察者を自らの中に取り入れることの重要性を説いています。

アダム・スミス著、高哲男訳 (1790/2013) 『道徳感情論』 講談社学術文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/17902013.html






[草稿]英語教師が自らの実践を書くということ (2)―中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―



下の文章は、2013年の全国英語教育学会のシンポジウムで発表した内容をまとめて、2014年の『中国地区英語教育学会研究紀要』(第44巻97-106ページ)に掲載していただいた論文の草稿です。正式な論文は、いずれ各種レポジトリでも公開されると思いますが、参照の便のため、このブログにも掲載しておきます。

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英語教師が自らの実践を書くということ (2)
―中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―

            
広島大学         樫葉 みつ子  
北海道壮瞥町立壮瞥中学校 大塚 謙二  
兵庫県立大学附属中学校  坂本 南美  
広島大学         柳瀬 陽介  



1 序論

  英語教育に対する貢献で大英帝国勲章を受賞したPenny Urは、英国Guardian紙に寄稿した"How useful is Tesol academic research?"の冒頭で、「英語教育のプロとしてもっとも頼りになる知識はもっぱらどこから得ているか」という問いに対して、英語教師は「教室経験についての省察」(reflection on classroom experience)と答えるだろうと述べている。もちろん経験豊かなUrは単純な学術研究批判を展開するわけではないが、実践者にとっての省察(リフレクション)の重要性は疑うべくもない。

  だが、省察をすればいいということで問題は解決しない。省察をどのように行うのか、なぜ行うのか、そもそも省察とは何なのか、などに関する原理的理解のないままに省察を進めても、続かない・自己否定に終わる・愚痴話にしかならないといった非生産的な結果に終わりかねないからだ。そこで第一著者と第四著者は、本学会研究課題フォーラムの場を借りて、英語教師が自らの実践を書くことについて二年間の研究を継続してきた。一年目は省察を重ねる二人の実践者とインタビューなどを行い、(語ることではない)書くことによる省察の特徴を主な研究課題とした。二年目は、特に自らの実践に関する文章を「公刊」(publish ―以下、この用語は、文章をprivateに書く者の文章保持形態である「私有」と対比させる意味で時に「公有」とも称することにする)した英語教師を二人(一人は日本語著作を公刊、もう一人は英語学術論文を公刊)招いた。研究の中で、二人の実践者を単なる対象(object)としても被験者(subject) としても扱わず、協同研究者・共同執筆者として招き、日本語公刊実践者を本論文の第二著者、英語公刊実践者を第三著者とした。本論文は、その二年目の知見を一年目の知見と統合させながら、「自らの実践を書くことにおいて、文章を公刊(公有)することと私有すること、文章を日本語で書くことと英語で書くことが、省察とその後の行動にどのような影響を与えるかについて洞察を得ること」を研究課題として設定した報告である。なお、「書くこと」は、"writing"と同じように、書く過程と書かれた文章の両義を込めた意味で使うことにする。


2 方法

  本研究は質的研究の中の事例研究(case study)である。本論文は、当然のことながら、二重盲検法とランダム化比較試験による実験で仮説検証を行い一般性や普遍性の立証を目指す量的研究ではない。質的研究に対する理解がまだ十分でない日本の英語教育界では、質的研究が量的研究の枠組と作法で裁断される場合がしばしばあるので、ここではそれを予防するため、TESOL International Associationが設定した"Qualitative Research: Case Study Guidelines"(注)に即して、本論文が採用した方法を以下に説明する。また、言うまでもなく、事例研究は解釈と帰納に基づく研究(interpretive, inductive form of research)であり、データの中で繰り返し現れた重要なパターンやテーマを特定する(identify important patterns and themes)ことを目指す。

  文脈(context):本論文の第一著者と第四著者は、共に大学の教育学部で研究と教育に従事している。両者の特徴は、小中高の現職教員とのコミュニケーションを特に大切にしようとすることで、英語教師の草の根セミナーなどに積極的に参加している。第二著者は公立中学校(のんびりとした山間部の小規模校)のベテラン教師で、これまでに数冊の日本語出版をしているし、草の根セミナーでの発表と交流にも積極的である。第三著者は現在公立大学の附属中学校(文教地区に所在し特色ある教育を目指す学校)で教える中堅教師であり、自らの実践に関する一本の英語論文を国際学術誌に公刊している。また、第二・第三著者ともに、しばらく教職経験を重ねた後に修士号を取得している(第三著者の修士論文は教師の省察に関するものである)。本論文では、一年目の研究での第二著者と第三著者(前者は日本語で文章を私有・公有する公立中高一貫校教師、後者は英語で文章を私有する公立高校教師)についても言及するが、混乱と記述の煩瑣を避けるため、年度を数字で、使用した書記言語(Japanese or English)を頭文字で表記し、一年目(昨年度の論文)の第二・第三著者を1Jと1Eとし、二年目(本論文)の第二・第三著者を2Jと2Eと略記することにする。なお、第一・第四著者は二年間の研究を通じて同じである。

  二年目の四人の研究チームの関係性も、一年目と同様、対等で水平的なものであり、権威主義的な「大学研究者-中高現場教師」の「指導-拝聴」という構図だけにはならないよう留意した。
  事例選択(sampling):二年目の研究は公刊をした経験のある実践者についてのものであるため、必然的に事例は、大多数あるいは「標準的・平均的」な英語教師 ―それが何を意味するものであれ― を代表する事例ではない。本論文は、二年目の事例を、一年目の事例と同様に(あるいはそれ以上に)、「教職に対する責任感、探究力、教職生活全体を通じて自主的に学び続ける力」(文部科学省2012)をもった教師の実践を事例とすることにより、今後の英語教師が目指すべき一つの姿について洞察を得ようとしている。中央教育審議会は、同時に「取り組むべき課題」の一つとして、「自らの実践を理論に基づき振り返ることは資質能力の向上に有効であるが、現職研修において大学と連携したこのような取組は充分でない」ことを指摘しているが、この意味でも、本論文の事例選択には意義がある。また、「英語」教育研究としての意義としては、本論文は英語で自らの実践を振り返り・省察している実践者(特に二年目では学術論文公刊をしている実践者)を選んでいることも指摘しておきたい。

  なお一年目・二年目の事例では、1Jが日本語の私有・公有、1Eが英語の私有、2Jが日本語の私有・公有、2Eが英語の私有・公有となり、使用書記言語(日本語/英語)と文章保持形態(私有・公有/私有)の二つの次元で対比的に位置づけることができる。本研究はこの枠組で繰り返し出てきたパターンやテーマを提示することにより信憑性(credibility)(量的研究の内的妥当性(internal validity)にほぼ相当)のある知見を出し、他の事例にも当てはまるかもしれないという転用可能性(transferability)(量的研究の外的妥当性(external validity)にほぼ相当)に充ちた洞察を得ることを目指す。

  データ(data):データは、一年目のデータに加えて、二年目には一次資料からのものとして、電子メール交換(約80通)による短文の書記言語、文書提出(4回)による長文(約1万5千文字)の書記言語、インタビュー(第一・第四著者が、第二・第三著者に対してそれぞれ個別で約5時間と約3時間)による口頭言語と非言語的情報、実際の学校での授業観察(第一・第四著者が第二著者による2時間分の授業を観察)、二年目の研究の中間発表として行った全国英語教育学会での口頭発表に使ったスライドファイル(4本、合計60枚)などを得た。電子メール文書はそのまま記録として残し、インタビューと授業観察はビデオ録画で残した。

  分析(analysis)と解釈(interpretation):第一・第四著者は上記一次データを何度も再読し、ビデオ録画をフィールド・ノートとの整合性確認において再視聴した。その過程で、キーワードを探しながら分析・整理し、KJ法でスライド14枚の関係図にまとめた。スライドは第二・第三著者にも示し、分析と整理に対する疑問点や異論を求めた。その上で第一次原稿を第一・第四著者が協議の上執筆した。その第一次原稿は本論文の第二・第三著者(2J, 2E)だけでなく、昨年度の論文の第二・第三著者(1J, 1E)にも渡し、「自分に関する記述はもとより、他の実践者に関する記述についても、少しでも疑問が生じた箇所があれば、それを率直に指摘」することを依頼し、その指摘に基づき第二次原稿を書き、それも1J, 1E, 2J, 2Eの四人に査読して了解を得た。つまり、本論文の分析と解釈は、データに基づき第一・第四著者が最初に提示したものであるが、この分析と解釈は実践者当人によって直接的に、また他の実践者によって間接的に矛盾や問題のないものとして認められたものであり、単なる恣意的で一方的な分析や解釈ではない(当事者を研究協力者ではなく、共同執筆者とした本研究は、多く行われている質的研究よりは「当事者研究」(石原 2013)に近いものである。だが同じものではない。)。

  以下に報告するのは、以上のような方法に基づいて得られた知見である。
 

3 結果と考察

3.1 自己の三分化と再統合としての「書くこと」

  四人の教師(1J, 1E, 2J, 2E)のデータを改めて読み返し、自らの実践について「書く」ことについてまとめてみるなら、書くことの根源的な機能は ―凡庸に聞こえるかもしれないがが、それにもかかわらず社会学者のルーマン(Luhmann)(2009)が力説するように― やはり「残す」ことにあることが再確認される。「残す」ことは、書く前(および書く最中)には書く内容の「選択」を促し、書いた後(および書く最中)には書かれた文章(およびそれが直接的・間接的に指し示す内容)との「対話」をもたらす。

  話すことより多くの労力を必要とする書くことでもって、後々にまで残そうと決断された内容は、必然的に重要なものとして選りすぐられたものとなる。そのように選択された内容は、紙面・画面上に残され、労力対効果・重要性の観点からも(再)分析の対象となる。1Jは、これを「リンク」「体系化」し「整理」し「考える」ことが、「気づきの多さ」や「発見」につながっていると表現している。1Eは「なぜ」と自問することが増えたと述懐し、「自分が見ている(と思っている)ことがすべてではない」という洞察に達している。2J は、書くことにより、自分がこれまでやってきた活動の意味や目的を発見し、自ら「驚いたことが何度かあった」とまで述べる。

  また、書くことは「対話」である、というメタファーを四人とも使ったことは興味深い。このメタファーが主に示しているのは、自ら書いた文章を読み直し改めて考える、という意味であるが、その他にも、「自分自身」との対話(1E)や、「データとの対話であり、実践との対話であり、私自身との対話」(2E)といった述懐からは、「対話」の相手は、目の前の文章を超えて、仮想的に人格化された相手、あるいは、その文章が指示し示唆する広く深い範囲の内容であることも示されている。

  もちろん書くことは一人で行う行為であるから、この「対話」は、分化された複数の自己の間での対話である。自らの実践を書く場合、教師は、選択的な想起を行う中で、教室の中で実践していた「実践者」を自己から分出する。その分出は同時に、その実践を文章化するという「記述者」という自己も分出する。さらに、文章化は時間のかかる行為であり、教師は書く最中から自らの文章を読み始め、書きながらも文章を修正・編集し、時を置いて読み返すので、この過程で自己からさらに「読者」が分出する。つまり、実践の文章化で、教師は、「実践者」、「記述者」、「読者」の三者を分出し、自己は三つに分化する。

  書く内容を選択し想起しようとする中で「記述者」と「実践者」は対話する(例、「他に何か行わなかったか?」「これもきちんと書き残してくれないか?」)。書かれた文章を読む中で「読者」と「記述者」は対話する(例、「これはフェアな記述か?」「この記述をそのように読むというのか?」)。書くことを通じて「実践者」と「読者」は対話する(例、「そう読むことにより何か新しいものが見えてくるか?」、「他の実践や認識の可能性はないのだろうか?」)。忙しい日々で、実践について書くことはおろか振り返りすらできない状況において、教師はもっぱら「実践者」として働き ―というより事務仕事などに追われ「実践者」としての格段の自覚さえなしに毎日を過ごし― 自己から「記述者」と「読者」を分出させることもなく、自己内対話を行うことも少ない。しかし書くことを習慣化することにより、教師は自らを「実践者」・「記述者」・「読者」に分化し、その三者間の対話により自己を再統合する。1Jは振り返りを書くことの「自己更新感」や「充足感」について語り、1E は書くことが「授業だけでなく、私の生活も変えてくれた」とも述べていたが、これらは書くことによる自己の分化と再統合の所産と言えるかもしれない。

  もちろん、この書くことによる自己の三分化と再統合は容易なことではない。四人はいずれも最初のうちは、自己以外の現実読者をメンターもしくは編集者の形で有していた。これらの現実読者は、いずれも四人から何かを引き出そうと対話し、(日常生活ではよくあるように)話を途中で遮って、「そういう場合はこうすればいい・こう書けばいい」と善意の助言(unsolicited advice)を押し付けることはなかった。とくに実践をジャーナルに書くことを大学院で指導された1Eと2Eにおいては、しばしば彼女らが「答えかヒントを出してくれてもいいのに・・・」と欲するぐらいに現実読者(メンター)は引き出すための役に徹していた。1Jが師事する先輩教師(メンター)も2Jが接する編集者も、決して彼らに代わって書こうとはしなかった。おそらくはそういったメンター・編集者の傾聴的忍耐を内面化することにより、教師も書くこと(自己の三分化・再統合)の苦しみと喜びを受け入れることができたのかもしれない。四人ともに、書くことには意識的な努力が必要だし、楽なことばかりではないが、これから書くことを止めることはないだろうと述懐している。さらにこうして「残す」ことになった文章は、公有されれば広く共有(share)されてゆく。書くという一見孤独な作業を習慣化するために必要だと考えられる社会性に、私たちはもう少し着目するべきなのかもしれない。


3.2 教室実践の変化

  だが、省察は授業改善を即意味するわけではないことには注意しなければならない。1Jは「書くという振り返りは,成長を促す自覚的な行為」、「『振り返りと実践』サイクルが,教師の成長を促す」としている。この1Jの発言の意図はこのサイクルのプラス面を強調することであったが、これは裏を返せば、書くことは実践と相互影響関係のサイクルに入らなければならないし、サイクルができたとしてもそれは教師の成長を「促す」ものに過ぎないので、書くことによる省察がそれだけで直ちに教師の行動を変えるものではないことも意味しうる。

  それでも書くことは、教師の内面を確実に変えている。1Jは、書くことにより自らの実践を「俯瞰」できると述べる。1Eは、実践について書いていなければ気づかなかっただろう生徒の様子が気になるとも述べる。2Jは、目立たない生徒について自分が書いていないことに気づき、積極的にそれらの生徒についても注目するようになると述懐する。いずれも授業内の観察が書くことにより変わったことを証言している。書くことは「選択」であったが、その選択により、重要だと(再)認識された現象については、気づきが増し、その選択からもれた現象・生徒に関しては、その「自分はこれについては書いていない」という自覚からその現象・生徒への関心が逆に高まっている。これらは書くことによって誘発された変化だといえるだろう(一般に、自分が行っていないことに気づくことは困難だが、その困難は、自分が行ったことをできるだけ書き、さらにそれを読みなおして考えることにより、幾分かは解消される)。

  2Eの内面の変化はより深いレベルで語られているが、それは主に二つの点からなる。一つは、(彼女が英語での学術論文公刊をしたということもあり)「教師のレンズ」だけでなく「研究者のレンズ」も使えるようになったということである。彼女は、授業中にも特定の現象に教師のレンズで「ズームイン」したり、その現象の意味合いを理解するために研究者のレンズで「ズームアウト」したりするようになったと述懐した。もう一つの内面の変化は、教室の「意味」を感じるようになったことである。彼女は「教室では、起こること一つひとつに意味があり、そこで行われる英語授業という営みを通して生徒も教師も成長していく『教室』の素晴らしさを再確認しました」とも述べている。これらの内面の変化は確実に彼女の授業も変えているであろう。探究的実践(Exploratory Practice)のAllwright(2009)は、実践者の理解(understanding)の重要性を説き、たとえ理解といった内面の変化が、外面の変化と直接的に結びついたという証拠が得られなくとも、内面が変化しなければ外面の変化は持続も発展もしないことを述べている。書くことによる省察は、自らの中で実践と連動すれば、たとえそれが直接的・短期的な形で実証しがたいものだとせよ、教室内の教師行動を確実に変えると言えるだろう。


3.3 文章の公刊(公有)と私有による違い

  自らの実践について書くことでも、その文章を書籍や論文などの形で公刊(公有)するか、私有するだけに留めるかによって、違いが生じるようにも思える。この節では、日本語で書籍を何冊も公刊した2Jについて主に述べると、彼は、実践について書く際は「幅広い読者層と限られた読者層のいずれに書く場合も、読む対象者にあわせるように意識します。要するに、読み手に理解してもらえるようにということが大前提です」と述べ、さらに「指導技術に関する原稿の場合は、対象が教師なので一般化できそうな、自分で行なっている授業実践の中でも、生徒のアンケート結果が良かったこと、観察していても良かったことを理解してもらえるように、客観的に文字にできるように心がけます」とも自己解説している。これらは一見当たり前の述懐のように思えるかもしれないが、自己から分出した「読者」を、書籍が対象とする「読者」に即した読者として想定し、その想定する書籍読者の視点から、書く内容と説得の方法を定めることは、一般的な教師にとっては容易なことではない。また、公有は、教室実践を自分自身で納得できるだけでなく、広く他の教師にも納得してもらえる方向に変化させる誘因となると考えられる。第一・第四著者が2Jの勤務校を訪れて授業観察をした際も、2Jの授業は、授業での目標・活動の目的・時間配分・文法指導と活動のバランスなどがきちんと設計されていることが、授業案でも実際の授業でも伺えた。生徒のために書いた媒体でも、プリントのレイアウトや電子黒板の使い方などが極めて合理的で、生徒も視覚媒体で自らの学習を俯瞰できるように仕向けられていた。むろん、こういった授業が、自らの実践を公刊しなければできないわけではないが、公刊すること(あるいは公刊し続けること)が、授業実践の一般性・汎用性を高める方向に教師を導くとは考えられる。

  また、公刊の経験は、2Jに「自分が直感的に良いと思っていることを行うだけでは物足りない」思いを生じさせ、大学院への進学を決意させている。「自分の言葉に責任を持てるように、理論的な裏付けが欲しくなり、勉強したいという気持ちが芽生えた」と彼は述べる。次節で述べる2Eも、修士論文を基に英語での学術論文公刊をした後、さらに向学心が高まり、博士課程進学をしている。2Jほどの冊数の書籍を公刊してはいないにせよ、公刊の経験のある1Jも、ブログ・研修会発表資料などの公有で、研修会等での発表や,書籍の執筆の機会が与えられるようになったと述懐している。文章の公刊・公有は、教師により広い公的世界へ確実に導く。

  他方、私有には私有の長所がある。1Eは、毎年、特定のクラスについて書いているが、その際には「授業中のできごとや生徒の様子の描写、授業中の自分の考えや行動を記録している。うまくいったことも問題点も、なぜそのようなことが起こったのかといった考察も含めて、気づいたことはできるだけ書くようにしている」と述べている。このように、予め読者の関心を想定せず、自らが気づいたことをすべて書こうとする態度が、たとえ特定のクラスについてでも自分は「すべてを書きれない」ことをしみじみと実感することにつながり、「自分が見ている(と思っている)ことがすべてではない」という上述の洞察につながっていると考えられる。また1Eは、もっぱら私有媒体で書くことで、自分と向き合う苦しみを経験しているが、それでも書き続けようとしている。この一因として、書くことによる「対話」が私有媒体では、一般読者ではなく自分自身であることが考えられる。彼女は「対話」について、「授業や自分の思いをよくわかっている自分と語り合うのだから、自分をよく見せたり長い説明をしたりする必要がない」とも述べている。彼女は、大学院時代にジャーナルを書いていた時には「人に読まれることを意識して言葉を選んでいたが、現在は人に見せる義務感はなく、『書くこと』は生活習慣の一つのように感じている。見せることを意識していた方が、丁寧に書いていたかもしれないが、今のほうが自由に思いを表現している」とも述懐しているが、この義務感・忌避感の無さが、書くことおよびそこからの実践改善に、公刊とは別の形で、寄与していると思われる。もちろん、忌避感なく私有媒体に書いてきたことを公開(公有)することには、抵抗感が生じる。「生徒のことや自分のことなどどこまで安全に見せられるかについて不安があるから」である。そのため1Eは、人に伝える時には、自らの選んだ部分だけを説明するだけである。逆に言うなら、日常的に、そこまで自由に自らと正直に向き合うことを継続できるのが、文章私有形態で書き続けることの特徴であろう。実践についての省察を勧める際に、私たちは文章の公有と私有形態が生み出す違い ―言ってみるなら社会性の違い― について理解を深めるべきであろう。


3.4 英語と日本語による違い

  書記言語を英語か日本語にするかの違いで、まず確認しておきたいのは、今回のデータからは、英語が日本人英語教師の間ですらコミュニケーションのための言語とはみなされていないように思えることである。日頃日本語で書いている1Jは、英語で書くと確かに英語を書く力は高まるだろうが、書くための時間がかかり書く量や頻度が減るだろうし、「他の人に伝えるには、英語を日本語に変換する必要が生じるので、人のためになるという効果は薄くなるかもしれない」とまで述べている。日頃英語で書いている1Eにしても、「英語で書いていると人に読まれる心配が少なく、それが続けられた要因の一つであるといえる」と述べている。1Eは授業に関する記憶が薄れる前に書くため、ノートを職員室のみならず部活動の場所や喫茶店などさまざまな場所にもっていくが、「もしこれが日本語であれば生徒や他の人の目に触れることにもっと注意しなければならず、書く時間が限られ、書けない日もあったかもしれない」と考えている。むろん、1Eの同僚はすべて英語教師であるわけではないが、大卒である以上、誰も英語を読めないことはないはずである。だが英語のアルファベットの外観は、ほとんどの者にとって「これは自分にとってのコミュニケーションの媒体ではない」という外見を呈しているのかもしれない。1Eは「リフレクティブ・プラクティスの仲間を増やしたいと思ったときは、日本語で書くことを考えたこともある」とも述べたが、1Eの述懐を1Jの述懐とも重ねあわせると、英語が自然なコミュニケーションの媒体ではなく、学習するべき対象であるという判断が、日本人一般だけでなく、多くの英語教師にも共有されていることが示唆される。

  1Eは、英語を書くことの苦労やもどかしさについて述べていたが、他方、英語で書くと「客観的に自分を見ているようで、素直な思いを出そうとする一方、感情的になってしまうことはほとんどない」とも述べている。日本語ほど直接的な媒体でなく、自己との距離を若干感じさせてしまう英語という媒体では、書く言語とそれを読む自分の間に適切な距離が生じ、そのことによって「客観的」あるいは「素直」に記述し、その記述を読むことができるのかもしれない。強い感情を含んだ日本語での回想も英語に翻訳することになると、強い感情も一定の距離をもって再認し再表現しなければならないので、「感情的になってしまうことはほとんどない」ようになったと言えるだろう。

  しかし、翻訳は、他人の日本語(口頭のインタビューや書面のリフレクションなどのデータ)を英語に翻訳しなければならない2Eにとっては、「思っていたよりもとても繊細な作業で慎重にならざるを得ないもの」であった。これらのデータを提供してくれた同僚(および生徒)に対して親近感と敬意をもつ2E は、「日常の語りの中には、語り手の教師としての信条や心のあり方、葛藤や喜び、微妙な心の揺れもちりばめられて」いることに気づかないわけにはいかない。そこで彼女はデータ翻訳のときに「語り手の表現に常に忠実であること」を意識するが、そのためには「常に繰り返して日本語と英語を行き来しつつ読み直し」、時には大学院時代のメンターや第三者の意見も確認したり、データ提供者に再度尋ねたりする必要があった。別の言い方をすれば、「日本語でならばそのままデータとして書きおとすところを、英語で書く場合には、常にデータの表現に慎重に向き合って言葉を選ぶ作業を重ねる必要」があり、「日本語で論文を書くよりも格段に深い推敲が必要」であったわけだが、これらの難関を痛感しながら書く中で、彼女は「実践やデータを英語に翻訳する作業は、私にとって日本語、英語を問わず『言葉を学びなおす作業』でした」と自身の経験をまとめている。この言語に対する学びと洞察の深化は、彼女の英語教師そして言語教師としてのあり方に、何らかの影響を与えているだろう。

  さらに、英語を公有される媒体に掲載するために書くということについては、当然にハードルが高いものとして考えられていた(一般に、英語教師が、他の英語教師・英語教師教育者から英語について批判されることを恐れて英語を話したり書いたりしない傾向にあることはよく知られている ―ちなみにこれは、前述の英語を読もうとすらもしない傾向とは異なる傾向として考えるべきであろう― )。2Eは第一・第四著者とのインタビューで繰り返し、英語で論文を書くことを決意しそれを継続することの困難を語った。修士論文の内容を、メンターが日本で開催した国際セミナーでポスター発表した2Eは、フィンランド人研究者に「あなたは見る目をもっている。それを信じろ」と、英語論文として学術誌に投稿することを勧められ、気持ちが傾くもまだ自信がもてない。2Eはそのことをメンターに相談すると、メンターは来日するアメリカ人研究者に依頼し、2Eのために二回にわたって時間をとってもらう。そこでも「修士論文だけに終わらせないで」と論文公刊を勧められるが、2Eはまだ決意ができず、イギリス人研究者と話をした時には "I'm just a junior high school teacher."と述べてしまう。イギリス人研究者は即座に"There's no 'just'."と2Eの控えめな(あるいは怖気づいた)アイデンティティを否定する。2Eはさらに別のアメリカ人研究者により'researcher-teacher'というアイデンティティのあり方を学び、そのアイデンティティ概念も論考に組み込むことにより、ようやく英語学術誌への投稿を決意する。この決意に至るまで(それからその後も)メンターは、2Eをさまざまな形で支援していた。英語学術誌投稿を決意してからも、多忙な教師生活で執筆をすることは困難であり、さらに上述の翻訳の苦労もあったが、2Eは「これだけいろんな人に支えられているのに、論文がアクセプトされなかったら申し訳ない」という思いで英語執筆を続けることができた(ちなみに、中学校教師である2Eには"publish or perish"というプレッシャーはまったくなかった)。

英語が、英語教師にとってすら、話し書くことはもとより、読むことにおいても、自然なコミュニケーション媒体とはみなされていないように思える日本において、英語教師が、英語を公表し、公刊・公有される媒体に英語を残すためには、英語観だけでなくアイデンティティ観が重要であると思われる。英語が「学ぶべき対象」であり「コミュニケーションのための媒体」と思われていなければもちろん英語使用は内発的に動機づけられないが、自分自身を「単なる英語教師」と思っていても英語使用は始まり難いだろう。英語教師は「英語についての間違いをしてはならない存在」と思われていたら、自らの英語を公にさらすことは忌避されざるをえないからである。英語教師が英語についての間違いをするべきでないことはもちろんであるが、そういった「英語教師」というアイデンティ以上に、「私は何かをぜひ伝えたい」、「私は伝えたいことを伝えるだけの価値をもつ人間である」といった自己認識がなければ、日本の英語教師が、自らの仕事について英語でコミュニケーションを図り、非日本語話者の英語教師と共に学び合うことは難しいのかもしれない。アイデンティティは、その人の社会関係から形成されることを考えれば(Norton and McKinney 2011)、ここでも私たちは社会的環境について目を向けることを促されているといえよう。


4 まとめ

  以上の考察を、公有/私有および英語/日本語を問わず書くことに共通している部分、特に公有/私有に関わる部分、英語/日本語に関わる部分に分けて総括する。

  共通部分:書くことは「対話」であるとは四人の教師が述べたことであった。この場合の対話とは、基本的には自己内対話である以上、自らの実践を省察しながら書く教師は、自己を実践者・記述者・読者に分化し対話をしていると解釈できる。分化による複数の視点と多声が、実践の整理とそこからの発見を促し、分化された自己が再統合されることにより、教師は自己再生に向かうのだろう。この再生は教室内の認識や行動から教室外での生き方にまでおよぶ。

  公有と私有:書いた文章を公有するか私有するかで、書く内容もその後の変化もやや異なる方向に導かれるように思われる。公有(公刊)の習慣は、教師の認識と行動を他の多くの教師が納得する方向へと導くようである。ここではあるメッセージをもった者が、そのメッセージに適したメディアを選ぶという図式ではなく、あるメディアを選ぶ者が、そのメディアに適ったメッセージを選ぶようになるという図式が見られる。さらに公刊物というメディアを選ぶことは、教師をより知識の公有性の強い世界、すなわち学的世界に導くのかもしれない。他方、私有メディアを選ぶなら、メッセージは、背伸びをすることも無理して合わせることもない人間としての自分という読者に向けられ、その自己内対話はより深いレベルでの自己で行われると思われる。

  英語と日本語:英語は英語教師にとってすら依然としてコミュニケーションのための媒体とは認識されていないように思える。しかしそういった認識の中、英語で書くことは、書かれる自分(日本語で思考・行動している実践者)と書く自分(英語で思考・執筆する記述者)の間に、メディアの差異をもたらすため、両者の関係は直接的=無媒介的(immediate)なものではなくなり、その距離が自分を客観視することにも役立ちうる。しかし、その距離は、他人の日本語を英語に翻訳する際には、予想以上に繊細で慎重にならざるを得ない作業を生み出す。だが、同時にそれは「日本語と英語を問わず、『言葉を学び直す作業』」ともなりうる。また、現代日本の英語教師が英語を公刊する場合には、教師のアイデンティティが重要な要因となることも示唆された。総じて言うなら、今回の公有/私有、英語/日本語という研究課題設定によって、書くことの社会性が再認識されたとも言える。




TESOL International AssociationによるQualitative Research: Case Study Guidelinesは下記URLページの中で、Conversation Analysis, (Critical) Ethnography, Quantitative ResearchなどのGuidelinesと共に掲載されている。
http://www.tesol.org/read-and-publish/journals/tesol-quarterly/tesol-quarterly-research-guidelines


参考文献
Allwright, D. (2009). Six promising directions in applied linguistics. In S. Gieve & I. Miller (Eds.), Understanding the language classroom. (pp. 11-17). London: Palgrave Macmillan.
Norton, B. & McKinney, C. (2011). An identity approach to second language acquisition. In D. Atkinson (Ed.), Alternative approaches to second language acquisition. (pp. 73-94). New York: Routledge.
Ur, P. (2012, October 16). How useful is Tesol academic research? Guardian Weekly.
Retrieved from http://www.theguardian.com/education/2012/oct/16/teacher-tesol-academic-research-useful
石原孝二(編).(2013).『当事者研究の研究』東京:医学書院.
文部科学省.(2012).「中央教育審議会(答申)教職生活の全体を通じた教員の資質能力の総合的な向上方策について」
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1325092.htm
ルーマン, N.(著)・馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹(訳).(2009).『社会の社会1』東京:法政大学出版局.


追記:本研究は、科研「英語教師実践ナラティブにおける書記言語・音声言語、および日本語・英語の選択」(課題番号24520622)の成果発表の一部である。 

2014年5月9日金曜日

カレン・フェラン著、神埼朗子訳 (2014) 『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です コンサルタントはこうして組織をぐちゃぐちゃにする』大和書房



「英語教育学者」なる人々の一部は、各種学校に赴き、コンサルタント業務のような真似をする。私が見るに、そのやり方には少なくとも二種類ある。

一つは、自分の過去の経験なり、文部科学省の政策なり、自分が好んでいる研究なりを絶対の物差しとしてしまって、それを当事者にとにかく押しつけるやり方。

もう一つは、訪れた学校の様子をよく観察し、その観察に基づく事実を指摘しながら当事者である学校の教師の間でのコミュニケーションを促進し、当事者自身の中から知恵が湧き出るようにするやり方。

いうまでもなく学校によい結果をもたらすのは後者だが、「英語教育学者」コンサルタントには存外に前者のタイプが多いように私には思える。


現場の観察もそこそこに、当事者と話し合うこともほとんどせずに、一方的に一定のやり方を押しつけるのは、この本の著者によると、経営コンサルタントにも多いという。著者は、「目標による管理」や「競争戦略」などのお題目を唱えて(3ページ)、論理的な分析を行いさまざまなモデルや理論を駆使して(1ページ)、その結果、会社を傾かせてしまった経営コンサルタントを代表して詫びるためにこの本を書いたという。

もちろん著者を含めたコンサルタントが、すべてコンサルティングに失敗したわけではない。成功例もある。だが、その実質は当事者・関係者の連携とコミュニケーションを促進したことにすぎなかった。しかし、そう言ってしまっては、ありがたみがなくなり商売にならないので、表向きは適当なお題目を唱えていただけだった(21ページ)。人間的側面を切り捨て、お題目を文字通り押し付けた場合、かえって経営が悪くなったことの方が多いというのが著者の見解だ。

著者は、ビジネスとて所詮は人間の営みであり、人間には非理性的で感情的で、独創的でクリエイティブであったりもするから、そんな人間が理屈どおりに動くはずはない、と自身の経験を振り返り総括する(23ページ)。

しかし理屈で考えれば、いくつかの数的指標(数値目標)を定めて、その評価基準をもとに経営すればうまくいくように思える。

だが現実に起こることは、部下は評価基準ばかり気にして、上司と意味ある会話をしなくなること(158ページ)、あるいは評価基準に関することしかやらなくなること(136ページ)、データ分析や報告書の作成ばかりに追われて、みんなで実際に問題に取り組む時間がなくなること(100ページ)、時には評価のための数値を操作してしまうこと(136ページ)、上層部も数値ばかり気にして、まるでダッシュボードの数値ばかり見ながら自動車を運転する人間のようになり、大失敗をしてしまうこと(136ページ)である。

逆に評価基準をなくせば、人々は自ら考え、判断力を行使し、互いに協力せざるをえなくなると著者は言う(132ページ)。

もちろん、この前提は職場の人間関係が良好で、皆が仕事に意味を見出していることである。だからこそ著者は、「モデルや理論などは捨て置いて、みんなで腹を割って話し合うことに尽きる」と著者は対話や人間関係の改善を第一に考えることを訴える(28ページ)。

評価指標は、せいぜい参考にすべきものであり、管理の方法になってはいけないと著者は訴える。ましてや評価基準とインセンティブ制度を絡めて懲罰的な効果が出てくるようになると、評価指標そのものが目的になり、本末転倒が起こってしまう(133ページ)。

そもそも評価基準を、やたらと数値化しようとするところに落とし穴がある。たしかに (1) 「半年で10キロ痩せる」という目標と (2) 「体力をつけ、心身の健康を改善する」という目標(あるいは目的)を比べると、 (1) の方が測定可能であることから、多くの人は (1) の方がよい目標と考えるかもしれない。しかし、(1) を達成したとしてもも ―とくに鞭で脅されて達成した場合―、リバウンドしたり、体調を崩したりすることは想像に難くない(133ページ)。

だがしばしば組織は単純な数値を目標に掲げることを好み、当事者・関係者が主体的に考えないようにしてしまう。かといって多岐にわたる多くの指標を設定し、それを複雑怪奇な方程式などで統合しようとしても、当事者・関係者はデータ入力に追われるばかりだ(そもそも机上で考えられた方程式が、変化してやまない現実に適応できるのかも疑わしい)。

著者は、「これ以上、職場から人間性を奪うのはやめるべきだ」と訴える(23ページ)

あるいは、訳者のあとがきのまとめの表現を借りるなら、著者の主張は「コンサルティングにおいて重要なのは方法論やツールではなく、対話」であり、「クライアント企業は経営をコンサルタント任せにせず、自分たちでもっとちゃんと考えるべきだ」(316ページ)とまとめられる。

近代組織では ―あるいは官僚的組織ではというべきだろうか―、どうも人間的な要素をできるだけ減らし、無人格的(もしくは非人格的)システムを導入することこそが進歩だと思われることが多い。その信念は、疑われるべきだろう。

コンサルティング業務のようなことをする「英語教育学者」も、自らの売り物である過去の経験や文科省の政策や特定の研究論文ばかり見つめるのは止めて、当事者・関係者をよく見て、彼・彼女らの声に耳を傾けるという、人間として当たり前のことを優先すべきではないか。

人間として当たり前のことをしなくなることが進歩や改善につながるわけがない。










関連記事
ヘンリー・ミンツバーグ著、池村千秋訳『MBAが会社を滅ぼす マネジャーの正しい育て方』日経BP
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#061103



2014年5月5日月曜日

C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房





この記事も、フッサールのまとめと同様、2014年6月7日に椙山女学園大学(星ヶ丘キャンパス)で行われるJACET中部支部大会(大会テーマ:第二言語習得論からみた大学英語教育 ―量的アプローチと質的アプローチの共存―)でおこなわれるシンポジウム発表のための「お勉強ノート」の一つです。

この本は、40歳代後半のユングが、20年間にわたる臨床・討論・自己分析などの経験から得た知見を、歴史的にも用語的にもすでに存在する知見と関係づけ(1ページ)、自らの知見の広範囲な妥当性を示そうとしたものです。この記事では、人の心に関する学問が、狭義の自然科学とは異ならざるをえないことを示すため、まずユングのタイプ論を簡単にまとめ、それから、心の学問としての心理学のあり方について彼がどう考えたかをまとめます。基本的に翻訳書に基づいたノートですが、時折原著を参照し、ドイツ語を補ったりしています。












■ タイプ論

ユングは、構え (Einstellung)の二つと機能 (Funkution) の四つを掛け合わせてとりあえず8つのタイプを設定します(354ページ)。「とりあえず」と言いますのは、タイプの特定は困難で、かつ、人間は一つのタイプに固定したままであるとは限らないからです。

構えのタイプとして想定するのは、内向型 (der Introvertierte) と外向型 (der Extravertierte) の二つです。内向型は客体(Objekt, 対象)から離れるような (abstrahierend)態度をとり、外向型は客体(対象)に向かって積極的 (positiv) な態度を撮ります。

四つの機能のタイプは、合理的 (rational)な思考と感情と、非合理的 (irrational)な感覚と直観です。 合理的とは、「偶然性や非合理的なものを意識的に排除し」、「現実の出来事のうち無秩序なものや偶発的なものに一定の型を押しつける、あるいは少なくともそうしようとする」(388ページ)ことを意味します。

思考 (Denken)とは、「それ固有の法則に即して、与えられたさまざまな表象内容を(概念的に)連関づける心的機能」(452ページ)です。ユングはさらに「方向づけをもった思考の能力」 (das Vermögen des gerichteten Denkens) を「知性」 (Intellekt) と呼びます。

感情 (Fühlen) は、「一定の概念的な意味連関を作ろうとする意図ではなく、何よりも主観的な受け容れるか拒むかという意図をもってなされる」(463ページ)判断をする機能です。別の言い方をすると、感情の内容 (Gefühl)とは、一定の価値 (Wert) を付与する活動でもあります。

思考と感情は、それぞれ一定の型や主観的な価値を対象に当てはめるという点で「合理的」とみなされます。

これに対して「非合理的」とは、「理性に反する」 (widervernünftig)という意味ではなく、「理性の外にある」(außervernünftig)、つまりは、地球には月が一つあるとか、塩素は元素の一つであるとか、単なる偶然とか、理性では説明できないという意味です("irrational"という語の理解には、やはり注意が必要です。関連記事:全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について。翻訳において新造語はできるだけ避けるべきですが、思い切って「合理外の」ぐらいに訳してもいいのかもしれません)。

その非合理的(あるいは合理外の)タイプとしては感覚と直観があります。

感覚 (Empfindung)とは、物理的な刺激を知覚に伝える身体的な心的機能であり、感情と混じり合うことはありますが、感情とは別の事柄として理解されています(458ページ)。

直観 (Intuition) とは、知覚を「無意識的な方法によって」伝える心的機能であり、直観においては「どんな内容も出来上がった全体」(475ページ)として表されます。

この思考・感情・感覚・直観が四つの機能ですが、この四つで十分なのかという問いに対して、ユングは次のように答えています。

感覚は現実に存在するものを確認する。思考は存在するものが意味することを認識できるようにしてくれるし、感情はそれがいかなる価値をもっているかを、そして最後に直観は今そこに存在するものの中に潜んでいる、どこから来て今後どうなるのかという可能性を示してくれる。(576ページ)


かくして、とりあえずユングはこれら四つの機能が、外に向かうか内に向かうかの二種類にさらに分化し、八つのタイプになるという類型を立てました。



■ 一つのタイプだけでは限界がある

これら八つのタイプが一人の人間の中でまんべんなく発揮されれば、それは素晴らしいことでしょうが、たいていの場合、人は自分が十分意識できている主要機能と、相対的に意識的な補助機能をもっており(438ページ)、残りの二つの機能は無意識的になっています。例えば思考が主要機能(直観が補助機能)である人にとって、感情(と感覚)は無意識的になります。しかし、この無意識というのは、感情の内容を意識化しないというわけではありません。もちろんその人は自らの感情の内容を認識しますが、それはその人の意向に逆らって現れるものであり、その人の意識は感情の内容にいかなる有効性も影響力も認めようとしないのです(554ページ)。

さて、近代においては、とりわけ思考(そして知性)が合理的(あるいは理性的)として称揚されてきました。その合理性は、想定した客体・対象をうまく説明できることから裏付けされていますが、これは逆に言うと、合理外の偶然的な要素などを排除することにより成立していることです。ですから、合理性は現実のすべてを扱っているわけではありません。

ユングは言います。

現実に存在する客体(すなわち単なる想定された客体ではない)を合理的に説明しつくすなどということはユートピアないし理想である。想定された客体だけが合理的に説明しつくすことができる、というのはこれには思考のもつ理性にによって想定された以上のものははじめから入っていないからである。経験科学 (empirische Wissenshaft) も合理的に限定された客体を想定する、というのは偶然的なものを意図的に排除することによって現実の客体をまるごとでなく、つねに合理的観察の目をひく部分だけを取り上げるからである。(477ページ)


しかし合理性あるいは理性は、いわば近代の証として特権的な地位を得ています。外向型の思考タイプの人はこの状態に満足するでしょうが、満足できないのが、「非合理的」(合理外的)な感覚タイプや直観タイプの人、あるいは概念図式ではなく主観的な価値に重きをおく感情タイプの人、さらには関心が外界の客体・対象ではなく内界の客体・対象にもっぱら向かう内向型の人一般でしょう。これらの人々は、近代科学の主流に対して異論をあげますが、それはたいてい党派間の争いとなってしまいます。

ユングは、そういった争いを外面的な歩み寄りによって丸く収めようとするのではなく、この対立を心理的な問題として考察する方が有益であり、それにより、それぞれのアプローチが存在する権利があることがわかってくると考えます(524ページ)。

こう考えるユングの前提は次のようなものです。

私は、人間心理とはほとんど無関係であり、それゆえ客体でしかありえない自然現象なら、唯一の正しい説明というものがありうると確信する。同様にまた、客観的に記録する装置では捉えることのできない複雑な心的過程は必ず、その主体 (Subjekt) が産み出す説明しか受け付けない、すなわち概念の提唱者は自分が説明しようとする心的現象に合致するような概念しか産み出せない、と確信する。(526ページ)


ここで大切なのは、ある人の心について理解する際は、その人の心を理解しようとする者も人間の心をもった者であり、ここでは理解の客体と主体がともに人間の心であるということです。つまり、心理現象を説明するということは、これもまた一つの心理現象であるということです。ユングは言います。

しかし複数の説明が《避けられない》ことは心理学理論の場合宿命的なことである、というのは何らかの自然科学の理論とはちがって心理学における説明の客体は主体と同じ性格をもっている、すなわちある心理現象を説明するのはやはりもう一つの心理現象でなければならないからである。こうした容易ならぬ障害のために思想家たちは古くからやむをえず奇妙な逃げ道をとってきた。すなわちたとえば心理現象の彼方にあり、それゆえその支配下にある心を客観的に考察できるという「客観精神」を仮定したり、あるいはこれと大差ないが、知性とは自分自身の外に出ても自らのことを定立し考察できる能力であると仮定したのである。(529ページ)。


こういった「奇妙な逃げ道」をフッサールが「客観主義」と名づけたのは、前の記事でまとめた通りです。英語教育研究あるいはSLA研究でいうと、量的アプローチだけしか認めない人々は、そういった仮定を疑い得ないものとして質的アプローチなどを排除しようとします。しかし、人が人の心を解明しようとする限り、解明者の心のあり様も主題化せねばならず、また解明者も一様ではない以上、どうしても心理学理論は複数にならざるを得ず、中には両立が困難な説明もあると結論せざるをえないでしょう。

ユングも次のように言います。

しかしわれわれが知性を用いて極めようとするものは何であれ、それが誠実な作業であって、楽をするための、論拠先取りでないかぎり、逆説 (Paradox)と相対性 (Relativität) とに行き着くことになる。心的現象を知的に理解すれば必ず逆説と相対性に到達するのであり、このことは知性がさまざまな心的機能の一つでしかなく、その本性上人間が自らの客観像を構成するさいの一手段でしかないことからしても確かである。知性だけで世界を理解できるなどと考えてはならない。世界は感情によっても同じようによく理解できるのである。それゆえ知性による判断は、よくて真実の半分でしかなく、またそれが誠実であるならば必ず自らの不十分性を認識せざるをえなくなるのである。(530ページ)


仮に量的アプローチの研究者が、英語授業に関して、美しいまでの合理的な説明をしたとしても、その合理性は論拠先取りによる現象世界の設定の限定性によるものであり、授業はその限定的世界を大きくはみ出すものです。教師や生徒は、量的アプローチの研究者が「主観的に過ぎない」とさげずむ感情的な価値観を個々人それぞれにもっています。教師も生徒も、「割り切れない」(=非合理的・合理外的)な事物を感覚に取り入れていますし、合理的な説明がつかない直観にもとづいて行動したりもしています。優れた実践者は、それらのできるだけ多くに対応しようと努力する中で、自らという人間を知りながら、一人ひとりの生徒を知ってゆきます。

そういった実践者の複雑で、矛盾(Paradox)や相対性にあふれた多彩な色彩の知恵を、平板な単一色で塗りつぶすことは止めようというのが、ユング的に考えた場合の結論となるかと思います。

しかし、結論を急ぐことなく、ユングが心理学のあり方についてどう語っているか、もう少し見てゆくことにしましょう。



■ 心理学のあり方

ユングは、心理学における認識には、認識者の個人的な偶然性(persönlich Zufälligkeit)必然的に伴っていることを強調します。
学問的な理論形成や概念形成のうちには多くの個人的偶然性 が伏在しているのである。精神物理学的判断だけでなく、心理的・人格的判断(注)もある。われわれは色を見るのであって波長を見るのではない。この周知の事実は他のどの学問よりもまず心理学こそが肝に銘じておかなければならないことである。個人的判断の作用は観察する時にすでに始まっている。人は自分の位置から一番よく見えるものを見るものである。(16ページ)


(注)翻訳書は"psychologische persönlichen Gleichung"を「心理的個人的誤差」と訳していますが、私は「心理的・人格的判断」と意訳しました(「判断」という訳語を敢えて使った背後にはポラニーの論の影響があります。関連記事:インタビュー研究における技能と言語の関係についてhttp://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2006.html#070517)。念のため、上記の部分の原文を下に写しておきます。

In wissenschaftlicher Theorie- und Begriffsbildung liegt viel von persönlich Zufälligkeit. Es gibt auch aine psychologische persönlichen Gleichung , nicht bloß eine psyychophysische. Wir sehen Farben, aber keine Wellenlängen. Diese wohlbekannte Tatsache muß nirgends mehr beherzigt werden als in der Psychologie. Die Wirksamkeit der persönlich Gleichung fä schon an bei der Beobachtung. Man sieht, was man am besten aus sich sehen kann. (8)


「人の心は一様であり、どんな人がどんな人の心を解明しようとしても、その結果は同じでなければならない」というのは、「客観主義」の信奉者の信念でしょうが、ユングはそれに反対します。

心理ないし心理的原理は一つしかないという仮定は、正常人がもつ擬似学問的な偏見から来る耐えがたい暴虐である。「人間」とその「心理」という一般的な言い方がつねになされ、その心理はいつもきまって「・・・にすぎない」へと還元される。同様に「現実」という一般的な言い方によって、あたかも「現実」が一つしかないかのように語られる。しかし現実とは一人ひとりの人間の魂のうちに働いているものに他ならない (Wirklichkeit ist nur das, was in einer menschlichen Seele wirkt) のであって、ある種の人々が実際にあると信じたことを偏見に従って一般化したものではないのである。そのさい議論がどんなに学問的になされようとも、次のことを忘れてはならない。すなわち学問は生の 「全体」ではなく、それどころか心理的な構えの一つにすぎず、人間の思考の一つの形式にすぎないのである。(48-49ページ)


「客観主義」によると科学は、いつか人間の心理を一つの真実に収斂させてしまうことになっていますが、そもそも認識をする者も人間である以上、人間の心は認識者の心のうちの働きにおいて捉えられるのであり、認識者の心のあり様によって異なって現れるわけです。私たちはそのようにさまざまな人間の多様な理解が錯綜する世界に住んでいて、なんとかその多様性にうまく対応しています。これが世間知というか生きる知恵であり、学説というのは、その知恵のごく一部しか定式化していないと言えるでしょう。その部分知が、生きる知恵を凌駕すると考えるのは知の暴虐でしょう。

もちろん、心理学も狭義の「科学」にとどまろうとすれば、感情や想像力(Phantasie 翻訳書では「夢想」と訳されているが、ここではいわゆる「アクティブ・イマジネーション」(能動的想像力)の意味(あるいはそれに類する意味)(488ページ)でこのことばが使われていると判断し、「想像力」と訳すことにする)を排除するか、知的に抽象化して捉える必要があります。しかし心理学を現実の世界に応用しようとすると事情が変わってきます。ユングは言います。

ところが科学を現実の世界に応用するとなると事情が変わってくる。それまでの王であった知性はここでは単なる補助手段となり、たしかに学問的には洗練された道具かもしれないが、しかしもはやそれ自体が目的でなく単なる条件にすぎない小道具でしかなくなる。知性および科学はここでは創造的な力と意図に奉仕させられるのである。これもまた「心理学」ではあるが、しかしもはや科学ではない。これは言葉の広い意味での心理学である、つまり創造的な性格をもった心理的活動であってその中では創造的想像力が首座を占めるのである。創造的想像力と言う代わりに、こうした現実的な心理学 (praktischen Psychlogie)においては生きること (Leben) 自体に中心的な役割が与えられていると言ってもよいであろう、というのは一方ではなるほど生産的創造的想像力こそが科学を補助手段として利用するが、しかし他方ではまさに外的現実の多様な要求が創造的想像力の活動を刺激するからである。(66-67ページ)。


想像力は実践者が常に使っているものですが、何せ内界の出来事で、外的・物理的な証拠が得られないものですから、いわゆる「実証主義」(=「客観主義」の一派)の人々は、想像力に関して研究することを拒みますが、研究が現実的なもの、実生活での働きを期待されるものであろうとするなら、想像力について適切に考える必要があります。たとえ、それによって、これまでの狭義の「科学的心理学」の枠組みを超えることが必要でも。(関連記事:マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html

想像力といったこれまでの狭義の科学の枠組みを超える事象について考えることを拒否するなら、なるほど「科学性」は保たれるでしょうが、それは果たして望ましいことでしょうか。ユングは言います。

科学を自己目的とすることはたしかに崇高な理想であるが、しかしそれを徹底的に追求すると科学や技術の数と同じだけのたくさんの自己目的を産み出してしまう。この結果たしかにその時点で脚光をあびる機能が高度に分化・専門化されはするが、しかしそれによってまたその機能が世界や生から遠ざかり、さらには個々の領域の数は増えるが、しだいに相互の関係をすべてうしなっていくことになる。こうなると個々の領域においてばかりでなく、専門家へと分化・上昇していく、ないし加工していく人間の心にも、貧困化と荒廃が始まる。(67ページ)。


この箇所の引用は、私はJ-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/j-postl-2014.html)でも行いましたが、私は上記の状態が「英語教育学の発展」の状況に重なっていると懸念しています。(この発表の様子は下の動画で見ることができます)。







「英語教育学」なるものの発展あるいは進歩が私たちの目指すものではないでしょう。目指すものは、現実世界の改善であり、英語教育を通じて私たちがより幸福になることです。

重要なのはけっして合理的な真理を考え出したり発見したりすることではなく、現実の生が受け容れることのできる道を発見することだからである。(97ページ)


かくして、ユングのいう広い意味での心理学は、現実世界で生きる人間のためのものとなりますが、それはユング派の実践的研究者あるいは研究的実践者の活躍で立証されている通りです。ユング派は、臨床経験に基づきながらも、(教条的な方法論ではなく)使う用語の定義を大切にしながら(440ページ)、研究と実践を同時に深めていっています。

英語教育研究に従事する者は、こういったあり方に学ぶべきではないかというのが、私の考えです。





関連記事
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C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
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河合隼雄 (2009) 『ユング心理学入門』岩波現代文庫
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河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫
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河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫
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河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)
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村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋
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小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書
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J-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)
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量的研究の源泉の理解のために ― フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第一部と第二部の簡単なまとめ



この記事は、2014年6月7日に椙山女学園大学(星ヶ丘キャンパス)で行われるJACET中部支部大会(大会テーマ:第二言語習得論からみた大学英語教育 ―量的アプローチと質的アプローチの共存―)でおこなわれるシンポジウム発表のための準備ノートの一つです。

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ここでは量的アプローチの源泉をさぐるため、フッサールの『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』の第一部と第二部を私なりにまとめてみます。原著にあたることもしていない、いわゆる「お勉強ノート」です。以下のページ数は、私が以前から有しているハードカバー版のものですが、現在入手できる版は、文庫本版ですので、文庫本版をご利用の方はご注意ください)。










フッサールは最晩年のこの著で、Wissenschaft ―この翻訳書では「科学」「学問」「学」と適宜訳し分けられていますが(後書き:424ページ)、この記事では(引用部を除いて)「科学」とすることにします。「科学研究費」といった用法に見られる広義の「科学」です― に対して根底的な批判を加えます。フッサールは、現在の科学は、一つの哲学から派生していることを指摘します。

現在、建設されつつにあるにせよ、すでに成立しているにせよ、複数形の科学はすべて、ただ一つの哲学の分枝にすぎない。普遍性の意味を大胆に、過度ともいえるほどに高揚することはすでにデカルトにはじまるが、そうすることによって、この新しい哲学は、一つの理論的体系の統一のうちに、およそ意味のあるすべての問題を、厳密に学的な仕方で包括しようと努力するのである。すなわち、必当然的に明瞭な方法論と、合理的に秩序づけられた研究の進行によって、すべての問題を包括しようとするのである。こうして、理論的に関連づけられた究極的な真理の唯一の体系 ―世代から世代へと無限に成長する唯一の体系― これこそが、事実の問題であろうと理性の問題であろうと、時間的な問題であろうと永遠の問題であろうと、およそ考えうるすべての問題に答えるものとされた。(20-21ページ)


この哲学は、古くは、実在的なものの基盤を理念的なものにもとめたプラトン主義に遡ることができますが、近代においては、やはり「自然の数学化」を行ったガリレイにその端を求めるべきだとフッサールは考えます(38ページ)。

自然の数学化によって次のような世界が構想されます。

合理的で無限な存在全体と、それを体系的に支配している合理的な学という理念の構想は、かつて見られなかった新たな試みである。無限の世界、それはこのばあいには理念的なものの世界なのであるが、そのなかの対象が個別的に、また不完全に、たまたまわれわれに認識されるというのではなく、合理的で体系的統一性をもった方法が到達しうるような世界として、また無限の進行において、結局はあらゆる対象がその完全な即自存在に従って認識されるような世界として、構想されているのである。(36-37ページ)


「合理的で体系的統一性をもった方法」を無限回適用するというのは、数学によって初めて思考されるようになった理念かと私は理解していますが、その理念に基づき、「考えうるかぎりの完全化の地平へと自由につき進むことによって、いたるところに極限形態が予示され、決して到達されることのない普遍の極」(41ページ)へと向かっていくのが科学の特徴というわけです(こういった理念の実証的な追求に関しては、カントがすでに『純粋理性批判』で批判を加えていますが(関連記事:「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く)、フッサールももちろんその伝統に立脚し、この記事では扱わない本書の後半(第三部)で超越論的現象学を構想します)。

「自然の数学化」には次の二つの側面が含まれます。一つは、数学が、「物体世界をその空間時間的な形態に関して理念化することを通じて、理念的な客観性を創造した」(48-49ページ)ことです。この理念的な客観性に対しては、「それを絶対的な同一性において規定し、絶対に同一的で、方法的に一義性をもつものとして規定しうる諸性質の基体として認識する可能性が生ずる」ことになります。

私たちが子どもで野山を駆けずり回っていた頃、世界は次々に新しい様相を見せ、私たちは世界に魅惑されていたかもしれませんが、そこに絶対的な同一性を見出すことはなかったはずです。しかし私たちは数学や物理学などを学ぶにつけ、世界を「理念的な客観性」で見るようになります。やがては英語教育といった極めて人間的な営みに対しても、「第二言語獲得研究」の「量的アプローチ」といった枠組みを科学的な真理(への道)として教え込まれ、英語の学びにも「絶対的な同一性」があるはずだ (いや、なければならない -- Muß es sein? Es muß sein.--) と信じて疑わないようになります。

自然の数学化の第二の側面は、数学が実用的測定術と結合することによって、「人は、そのつど与えられ図られた形態的な出来事から出発して、知られていないし直接には決して測ることもできない出来事をも、異論の余地のない必然性をもって「計算」しうる」(50ページ)と信じるようになることです。かくして、「世界はあらゆる形式を包括する総体的形式であり、この相対的形式は、分析的な仕方で理念化されうるし、作図によって隈なく支配できるもの」として科学者に現れてくるようになります。

この科学者の理念化された世界は、虫取りに夢中になっている子どもに現れている「世界」はもとより、午後の様子が午前と一変している学級などに日常的に接している教師に現れている「世界」とも異なっているものですが、科学者の「世界」は、現代社会では特権化され、それは市井の人々の世界観を無教養なものとして侮蔑しかねないものになっています (とはいえ、厳密な自然科学を行っている科学者は、自らの世界観の限定性を十分自覚していますからそのような侮蔑とは無縁ですが、自然科学を模したような研究を中途半端に行っている人は、しばしばそのような侮蔑を陰に陽に示します)。

この世界の理念化とともに、「普遍的で精密な因果性」も自明なものとされるようになったとフッサールは指摘します。こうして世界の数学化から一般的数式を得ることができたら、その数式は他にも応用されて、一般的因果関連を表現する(60ページ)ものとされます。

かくして私たちが日常的に経験している生活世界には、数学的な衣が被せられ、私たちはその衣こそが真実だと思うようになります。

「数学と数学的自然科学」という理念の衣 ―あるいはその代わりに、シンボルの衣、シンボル的、数学的理論の衣といってもよいが― は、科学者と教養人にとっては、「客観的に現実で真の」自然として、生活世界の代理をし、それをおおい隠すようなすべてのものを包含することになる。この理念の衣は、一つの方法にすぎないものを真の存在だとわれわれに思い込ませる。つまり、生活世界で現実に経験されるものや経験可能なものの内部ではもともとそれしか可能ではない粗雑な予見を、無限に進行する「学的」予見によって修正するための方法を、真の存在だと思い込ませるのである。(73ページ)
ガリレイは、「発見する天才であると同時に隠蔽する天才」 (74ページ) でもあるわけです。

もちろん、「数学と数学的自然科学」という理念の衣をまとった世界に私たちが十分な真実性を見出すことも多々あります。例えばテクノロジーですが、私自身も多くの(精密)機械が正確に稼働することを日頃は疑っていません。その意味では科学の計算による世界把握を認め享受しています。

しかし、テクノロジーも、巨大化し複雑になっていくと、例えば震災時の原発のように、絶対安全なはずのものが事故を起こしたりすることは周知のことです。また、薬品といったテクノロジーも、人によっては効かずに副作用でかえって苦しむようになることもよく知られていることです。「数学と数学的自然科学」という理念の衣にもとづく計算は、私たちの日常世界の「粗雑な予見」に過ぎないことは、日常生活者にとっては何度も何度も痛感していることですが、それでも「SLA研究によるとこうだから」と、現場教師に特定の教授法を強要するSLA研究者も残念ながら一部存在します(もっともそういったSLA研究者は、権力を得るために自らの知識を利用・乱用している人というべきで、そういった人ばかりがSLA研究者だとは私も思っていません)。

しかしガリレオ的世界観はここで止まることなく、「特殊な感性的性質は単に主観的なものにすぎない」(76ページ)という学説によって、「人格的生活を営む人格としての主体を、またあらゆる意味での精神的なものを、さらに人間の実践によって事物に生じてくる文化的な諸性質を、すべて捨象する」(85ページ)事態を招きます。世界を「自然と心的世界という、いわば二つの世界に分裂する」(85ページ)二元論を導入し、さらに心的世界を科学から排除する、あるいはそれを自然とまったく同じものとして無人格的に扱うことを科学者と教養人に強要するにいたりました。

かくして、科学を行う者あるいは信じる者は、科学による支配を信じるようになりました。フッサールはこう言います。

いっさいのものについての認識力をたえず増大し、たえず完全にすることによって、人間はまた、その実践的な環境に対しても、つまり無限の進行において拡張される世界に対しても、その支配をますます完全なものにしてゆく。そこには、実在的環境の一部である人類に対する支配、したがって自分自身、ならびに仲間の人間に対する支配、自己の運命に対する力の増大、人間一般にとって合理的に考えうるような「至福」の完成、というようなことも含まれている。なぜなら人間は、価値や財に関しても、それ自体において真なるものを認識しうるからである。これらすべてのことは、合理主義にとっては自明な帰結としてその地平に存している。かくて人間は、真に神の似姿なのである。数学が、無限に遠い点とか直線とかについて語るのと類比的な意味で、このばあい比喩的に、神は「無限に遠い人間」であるということができる。(93ページ)
一部の科学者や教養人にとって「宗教」というのは侮蔑語で、「それは宗教のようだ」という表現は、相手にとどめを刺す時に使うことばですが、私から言わせれば、英語教育などというきわめて人間的で、自然科学的な意味で言えば莫大な複雑性に影響されている日常世界に対して、科学的方法を無限に適用することにより、真実に辿りつけ、学習者や教師も含めた世界を支配できると信じこむことこそは「宗教のようだ」と思えます。



フッサールは、このように「数千年来のすべてのこれまでの哲学の客観主義」の性質を整理した上で、「超越論的哲学」という用語を最も広い意味(=デカルトを通じてあらゆる近代哲学に意味を与えるもの)(137ページ)で使い、「超越論的哲学こそは、前学問的ならびに学問的な客観主義に対して、あらゆる客観的意味形成と存在妥当の根源的な場としての認識する主観性へと立ち帰り、存在する世界を意味形成体ならびに妥当形成体として理解し、こうして本質的に新たな種類の学問性と哲学とに途を開こうと試みる哲学」(139ページ)と規定します。この主題は第三部で展開されますが、そのまとめは後日に行いたいと思います。この第一部と第二部のまとめだけでも、いわゆる「量的アプローチ」が前提としている哲学(あるいは挑発的な言い方をするなら「信仰」)が少しは明らかになるのではないかと思います。



まったくの余談になりますが、私は最近とみに事務仕事が多くなり、なかなか本を読む時間がとれないので、この本をある武術の講習会にもっていって、昼休みに一人になった時に読んでいました。そこを通りかかった友人がこの本を見つけて「これは一体、何ですか?」と尋ねてきました。私は「授業をどうやって行うかというきわめて日常的な営みに、高度な科学的研究が必要だという理屈を信じてやまない人たちがいるので、その人たちを批判するために読んでいる本です」と答えました。それでも友人は得心しない顔をしているので、「つまり、屁理屈を批判するために、私はさらなる屁理屈で武装しているのです」と説明したら、友人も笑い出し、二人で大笑いしました。

この記事を書いているのは、午前中の雨も晴れた子どもの日の午後です。連休にこんな文章を書いているなんて、我ながらバカだねぇ(苦笑)。






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