2007年8月9日木曜日

小学校英語教育目的論(試論)

前書き

小学校での英語教育の試みがますます進行するにつれ、いたるところで「義務教育における英語教育の目的とは何か」と問われます。そこをはっきりさせておかないと小学校の先生方も迷ってしまうからでしょう。私もその都度、私たちが小学校でも英語教育を行うべきだと仮定すれば、それはなぜだろうと仮説的に考えます。

先日の記事にも、拙い文章で、英語教育の目的について短く書きましたが、昨日、ある小学校で朝9時から夕方5時まで、実質上昼休みの時間も含めて、ずっと小学校の先生方と英語教育について協議しているうちに、自分でも少し考えがまとまったので、備忘のために、ここに書き留めておきます。(私はこのように「現場」で考えて、それを文章にしておくことが好きです)。

総論

英語教育の目的については、大津由紀雄編著『日本の英語教育に必要なこと(慶應大学出版会)で、私は、とりあえず日本の英語教育は「世界史的変動への対応」という「外在的原理」で動いてきたと解釈できるが、すぐれた中学英語教育実践を見ると、「人間教育としての英語教育」とでも言いたくなるような実践が創り上げられている(「内在的原理」)と述べました。本来なら、義務教育としての英語教育の原理についてはさらに私の考えを提示するべきだったのかもしれませんが、私の力量は足りませんでした。

義務教育における英語教育の目的の一つには、上でも述べたように「世界史的変動への対応」があります。これは冷戦終結、情報革命の勃発、グローバル資本主義化の現在では「グローバリゼーションへの対応」と名づけてもよいかと思います。本日は、この一部を「英語教育の政治経済的目的」と呼び、下に簡単に説明します。続いて、昨日考えが少しまとまった「英語教育の市民教養的目的」も簡単に文章にしてみます(これもグローバリゼーションの影響下にある考え方です)。私の考えは、義務教育の中の英語教育は、政治経済的目的と市民教養的目的をもつというものです。

政治経済的目的

私たちがグローバリゼーションと呼んでいる現在の状況下では、経済競争が地球規模で激化し、経済活動の多くが、国境を越え、IT技術で連動した生産と流通システムのネットワークの中にあります。この経済活動ではしばしば英語が使われます。もちろん使用言語は英語だけではありませんが、英語が最も重要な言語だと認識されていることは間違いのないことでしょう。このような状況では、英語を習得しておくことが、国家と個人にとって重要なことになります。

国家としての英語教育戦略を単に予算的に考えれば、実際に英語を使用する可能性が高い一部の「エリート」だけに集中して英語教育を課した方が経済合理性は高いような気がします。英語の免許を持っていない人も多い小学校の先生方まで巻き込んで英語教育を国民的に行うことは、予算だけでなく人的資産の面でも浪費のようにすら思えます。

しかし一方で、日本の「格差」は急速に進行し、高所得者層は子息の英語教育にも多額の投資(英会話スクール、英語塾、英語自学教材、海外旅行や留学など)ができる一方、低所得者層ではそのようなことは及びもつかないような状況が生じてきました。高所得者層の私的英語教育は低年齢化し、従来のように英語教育が中学校から始まっても、その始まる時点で、親の経済格差にほぼ応じたような教育格差が、実際の英語力に関しても、さらには英語学習に関する認識や、はてまた希望に関しても生じてしまうような事態にさえなったとすら考えられます。

中間層がどんどんと低所得者化していくアメリカの傾向が今後の日本でもさらに進行するとするなら、今後は国民の多くが、グローバリゼーションへの対応の一つの鍵である英語習得に関して、スタート時点から、一部の国民より、はるかに遅れて出発するような事態になりかねません。そうすればそのような多くの国民は、日本という国家は、自分たちに関して十分な配慮をしていないと思い始めかねません。国家は、親の経済状況などにかかわらず、国民に等しく良質の義務教育を提供する責任があるといえます。それなのに、国家がその責任を十分に果たさなければ、国民は、国家は自分たちのために十分な働きをしていないと思うようになります。これはやや大げさな言葉になりますが、「国体の維持」に関わる大きな問題です。(「国体の維持」という発想は、佐藤優氏の著作に触発されました

ですから、英語学習は、世間では主に経済的目的のためになされていますが、その経済的目的による英語学習の機会を、国民のすべてに等しく門戸を開いておかないと、これは政治的な問題にさえなります。国家に十分に配慮されていないと感じる国民が、国家に積極的に協力しようとは思わないようになると考えられるからです。政治経済的目的のための英語教育とは、国民が将来、実際に英語を経済的目的のために使うようになるかどうかはともかく(未来のことは誰にもわかりません)、国民のすべてに経済的目的のための英語使用の可能性に備えて、小さい頃から英語を学習する機会を適切に与えておく、「国体の維持」のための政治的な意味合いをもった英語教育だとここではまとめておきます。小学校から良質の英語教育を行うことが、日本という国家と、国民一人一人の政治経済的可能性を活かすことになるというのがここでの判断です。

もちろんそのようにして実施される小学校の英語教育が、形だけのもので、実質上は何の効果もないとでもなれば、まさしく逆効果で、「国体の維持」どころかその「国体の凋落」にまでなりかねません。ですが、本日はその点には深入りせず、もう一つの、英語教育の市民教養的目的について短くまとめておきたいと思います。

市民教養的目的

グローバリゼーションの特徴の一つは、immigrationよりも短期のmigrationが頻発し、世界各地の日常生活の一部となることかと思います。そうなりますと、私たちは自分自身が母国語以外の言語(=第二言語)でコミュニケーションを行わなければならない事態、さらに/もしくは他人が第二言語で自分とコミュニケーションを取る事態に遭遇する可能性が非常に高いといえます。仕事や日常生活で私たちはますます第二言語を使うようになると考えられます。

こういった状況では、市民的教養の一つとして、「第二言語コミュニケーション」(=参加者の少なくとも一人がコミュニケーションで使用されている言語を、第二言語として使っているコミュニケーション)に習熟している必要があると私は考えます。その習熟は、能力と態度の二つの面に分けることができると思います。

第二言語コミュニケーションのための「力」(ここではこの論文にあげた理由から「能力」ではなく「力」という言葉を使います)とは、「不十分な第二言語でもコミュニケーションを成立させることができる力」と仮にここでは定義しておきます。第二言語習得は、例外的な状況を除けば、決して第一言語習得ほどには成功しないという現実と、それでもコミュニケーションを行わなければならないグローバリゼーションの現実の中での定義です。

実はこの「第二言語コミュニケーション力」観を説明するには、「コミュニケーションの成立にとって、言語は補助的な(しかし強力な)手段に過ぎない」という関連性理論(Relevance Theory)についての解説を加えたいのですが、本日は割愛します。ここでは第二言語教育は、第二言語の第一言語なみの習得という非現実的な目的のためでなく、第二言語コミュニケーションの成立のためであるということだけを強調しておきます。そのための「力」(ability)をつけることが第二言語教育の具体的目的となります(ちなみに政治経済的目的、市民教養的目的は抽象的目的です)。

第二言語コミュニケーションのための「態度」とは、第一言語使用からすれば「不完全な」言語コミュニケーションの試みを絶やさないことです。自ら第二言語を使ってコミュニケーションをしなければならない時は、不完全さにもかかわらず、その努力を怠らない。そして、他人が第二言語を使ってコミュニケーションを行おうとしている時は、その人の第二言語使用が第一言語使用慣習と異なるからという理由だけでその努力をつぶさない。第二言語の使用とはコミュニケーションの成立を第一の目的とすることを徹底することがここでいう「態度」です。

英語教育は言うまでもなく、第二言語教育の第一歩です。第二言語学習として英語を選択することは、上記の経済的理由からしても十分常識的と言えるでしょう。ですが英語教育は第二言語教育の第一歩であり、一部に過ぎません。英語教育の推進は、外国語学習は英語だけで十分だなどということは決して意味しません。また英語教育は、第二言語教育の一部として、例えば、日本に来た移住者の日本語が、コミュニケーションは成立させることができるものの、母語話者の日本語慣習と異なるからといって、その第二言語使用者を人格的に蔑視することを止めることなどにもつながります。ひらたく言えば、市民教養的側面から考える第二言語教育としての英語教育は、英語ができることだけを誇示し自己満足する「英語バカ」(注)や、カタコトの日本語を話す人をそれだけの理由で馬鹿にするような下劣な人を育てることなどは目標とはしないということです。

古い時代の英語教育は、大げさにいえば、英語教師が、いかに英語学習者の英語が完全ではないかを、手を替え品を替え、徹底的に吹き込んできました。その結果、英語を人前で使うことを極度に怖れる日本人が続出しました。英語教育は、英語コンプレックスを持った人ばかり育ててきたといえないでしょうか。その一方で英語教師もその英語コンプレックスに絡めとられて、英語は勉強しても、決して人前(特に他の日本人がいるところ)では英語を使わないことを固く決意している人すらもいるように思います。「永遠に未完の学習者」とでもいえば、日本人が好きな「求道者」のようでロマンティックかもしれませんが、私としては、第二言語使用は、特殊な例外を除いては、第一言語使用とは同じようにならないという現実的な認識を持って、第二言語コミュニケーションを自他ともに促進してゆくのが第二言語教師(英語教師)の仕事だと思います。

話が少しずれてしまいましたが、英語教育の市民教養的目的とは、英語を第二言語として、コミュニケーションの成立のために使える力をつけること、および、英語を始めとした第二言語のコミュニケーションにおいて、言語慣習の違いを人格的な高低と錯誤しない態度をつけることと、ここでは仮にまとめておきます。

まとめ

グローバリゼーションへの対応が必要な現状においては、英語を第二言語として、政治経済的目的および市民教養的目的のために教えることは、国民のすべてになされるべき教育とは言えないでしょうか。これをもって、私の現時点での、小学校での英語教育を正当化するならばという仮定での小学校英語教育目的論とします。(この他にも、慶応義塾大学の大津由紀雄先生の「メタ言語教育的」な英語教育目的論がありますが、本日は取り急ぎ私の考えだけをかきました。

もちろんこの正当化にかかわらず、私は現実的には、小学校教師への英語教育研修は必要だし、今は圧倒的に足りないという認識は持っています。それが、私がかつて小学校の英語教育導入に対して反対署名をした理由です。

(注)

私の好きなアレントの言葉を引用しておきます。私がこの言葉を好きなのは、私がかつて(中途半端な)「英語バカ」であり、現在もかなりの程度「仕事バカ」であるからです。

Only the vulgar will condescend to derive their pride from what they have done; they will, by this condescension, become the "slaves and prisoners" of their own faculties and will find out, should anything more be left in them than sheer stupid vanity, that to be one's own slave and prisoner is no less bitter and perhaps even more shameful than to be the servant of somebody else. Hannah Arendt The Human Condition (1958: 211)

(俗悪な人だけが、卑屈にも、自らの誇りを自らの業績から引き出そうとする。彼/彼女らは、この卑屈さによって、自らの能力の「奴隷であり囚人」となる。もし万が一、彼/彼女らに愚かな虚栄心以上のものが残っていたとすれば、彼/彼女らは、自らの奴隷となり囚人になることは、誰か他の人の召使になることと同じぐらい苦々しいことであり、ひょっとするとそれよりかもっと恥ずかしいことであることに気がつくだろう 『人間の条件』)

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