2014年3月25日火曜日

河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫

長い間教師をやっているとカウンセリング的なアプローチに親和的になってくるかと思います(もちろん教師にもカウンセリング的アプローチをまったく嫌う人も結構いますが)。「生兵法は大怪我のもと」という警句をかみしめながら、カウンセリングのあり方から学びたいと思っています。

それにしても、この「カウンセラー/クライエント」という人間関係は、人類史上どのように位置づけたらいいのでしょう。意識・無意識、権力、価値などの扱いという点で、非常に特異な人間関係のように思えますが、この人間関係が出てきて、この力が認められてきたというのは、大げさにいうなら人間の歴史の中の必然のようにも思えます。


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河合隼雄先生はもちろんカウンセリングの専門家ですが、カウンセリングにはこだわりません。他人に対する関わりとしては、カウンセリングだけでなく、直接的な支援、助言、忠告、叱責、環境に対する働きかけなどさまざまなものがあります(5ページ)。別にカウンセリングだけが関わりの唯一の方法ではありません。

しかし、カウンセリングという「ひたすらクライエントの話に耳を傾けて聴く」(9ページ)関わりには、独特の力があります。カウンセラーが、クライエントの話を否定も肯定もせず、自分の意識と無意識の境界もゆるめながら、ひたすらにクライエントの声を心と身体に受け入れてゆく時、カウンセラーは、クライエントの「心の片すみにあって忘れられかかっている声や、ほとんど聞き取れぬほど弱く語られている声に対しても、耳を傾けている」(11ページ)わけです。クライエントは、価値判断されることなくひたすら存在を認められる中で、自らの思いを語るにつれ、これまで自分でも気づいていなかったような思いに気づき、それも語りはじめます。

この聴き方は、カウンセラーの「クライエントの一言半句を聴き逃がすまいという意識的な努力よりも、その場に生まれてくるものを何であれ受けとめていこうという柔軟な態度」(249ページ)に支えられたものです。

これは時間のかかるアプローチですが、カウンセリングの「第一のねらい」である「クライエントの可能性に注目してゆこうとする仕事」は、「どうしても時間を必要とする」(19ページ)と河合先生は述べます。



心理相談ならともかくも教育指導なら、そんな悠長なことは言っていられないと思われる方もいるでしょう。厳しく指導し、できたらすぐに報酬を与える(できなかったら罰を与える)という動物の訓練に似たアプローチこそ教育だと考えている人もまだ多いでしょう。近年の教育指導では結果の「エビデンス」がすぐに判明することが強く求められていることも手伝って、そういった即効的な教育法はもてはやされているようでもあります。。しかしそのように短期的なアプローチを続けた結果、見事に学びの力がついたかといえば、むしろテストには合格し続けても、どんどんと内的な学びの欲求が損なわれている例も少なくありません。

また、そのような「飴と鞭」のアプローチには、どうしても馴染めない(ある意味健全な)子どもも多くいるでしょう。そういった子どもを、結果を求める教師が、これまた即効的で即物的な操作で「動機づける」ことを試みても、それは事態を悪化させる結果に終わるのではないかと私は考えます。

ここは青臭く聞こえても、やはり教育の王道である、本人の潜在力に信頼するアプローチが必要なのではないでしょうか。カウンセリングはそういった本質的なアプローチの一つとして、教科指導においても参考にされるべきことかと思います。

本人を信頼することは、放任や甘やかしではありません。しっかりと、いわば魂のレベルにまで降りようとしながら、静かに耳を傾ける人を前にすると、クライエントは「はっきりごまかすことなく、自分の欠点に正面から向き合わなければならないことを感じ」ると河合先生は言います(22ページ)。カウンセラーは、クライエントが「自分でさえも気づかずにいる心の奥深い可能性の世界に焦点をあてている人」(52-3ページ)なのです。



カウンセリングは通常、何らかの悩みや問題を解決するために開始されますが、カウンセラーは問題解決のための直接行動はとらず、クライエントのいわば真の声をひたすらに待ちます。クライエントはしばしば問題に対処するため、「下手な自我防衛」―自分の無意識がもつ可能性を否定して、現状の自我が得意とするやり方だけで問題に対処し、結果的に問題解決を回避していること― を行っていますが、カウンセリングはクライエントが「そのような下手な自我防衛をせずに、もっと自我防衛の力を弱めて実際の現象に立ち向かってゆこうとすることを援助する」わけです(73ページ)。別の言い方をすると「今までの自我の統合性を少しくずしながら、もう少し新しく広い、あるいは、新しくて大きく高い次元の統合性をもった自我へと発展させていく」(75ページ)となります。

しかしこれまでの自我防衛を崩し、新しい自分に出会うことは、怖いことでもあります。ちょうど家の改造工事をしているときが一番危ないように(77ページ)、クライエントの自我がカウンセリングに耐えられない場合には大変なことになってしまいます(81ページ)。ちょうどよい加減の関わりをすることがカウンセラーの力量なのでしょう。

そうやって注意深いカウンセラーに側面から、あるいは後方から支えられながら、クライエントは新しい自分に出会います。それはしばしば強い情動性を伴うものです(よいカウンセリングでは、情動的・感情的体験が生じ、時には転移・逆転移も生じることはよく知られていることです)。

こうやってクライエントは、人格の再統合へと近づいてゆきますが、そこには「二律背反性」が多くあります。「単純に物事を割りきって考えてしまうと、失敗することが多い」わけです(100ページ)。―ちなみに私は"rationalism"の訳語は「割りきり主義」が適切だと考えています。関連記事:アルフレッド・クロスビー著、小沢千恵子訳(2003)『数量化革命』(紀伊国屋書店)全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について)―。およそ人間のことに関する限り、あまりに一面的で一見安心できそうな考え方は、二つの相反するものの葛藤を無視してしまい、本質的ではないことが多いわけです。

河合先生は次のようにまとめています。

このように、カウンセリングにあくまでも二律背反ということがよく入ってくるということは、私は、人間というものがこういうものだから致し方ないと思っています。積極的にいえば、人間というものはこの二律背反性のあるゆえにこそ、面白いといってよいかもしれません。つまり、人間性のなかに必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。そのダイナミズムを通じてこそ、われわれは、それよりも高い次元のものを創り出すことができるのです。(107ページ)。


ここで弁証法という用語を出していいのかどうか私にはわかりません。しかしあまりにも矛盾や葛藤を避け、単純で一面的な説明ばかりを好む過度の「割りきり主義」は、知性としてはあまり深いものではないし、現実世界への対応としてはむしろ拙いものかもしれないという警戒心は保っておくべきでしょう。(「割りきり主義」で現場にあれこれ指図する「専門家」(=学問をした馬鹿)ほどやっかいなものはありません)。

クライエントは、例えばある人に会いたくないという気持ちと会わねばならないという気持ちの両方を持ち、二律背反に苦しみます。その二律背反を受け止め、片方を否定して割りきってしまうのではなく、「相反するふたつのものが高まって、ふたつの音がそのままひとつのハーモニーにとけこんでいくような態度」を取ることがクライエントにもカウンセラーにも重要です。これを河合先生は、カール・ロジャースのことばを借りて"genuine"であると述べます。ちなみにこのことばを「純粋」と訳すと誤解を招きやすいので、「自己一致」という訳語が充てられていますが、私としてはもっと大胆に「誠実」と訳してもいいのではないかと考えます。

カウンセラーは、クライエントの「どれほどの小さい声、どれほどの大きい声も全部心のなかに響いてくる」(129ページ)ようであるべきです。それこそが"genuine" ―誠実― な態度といえるでしょう。

別の言い方をすれば、カウンセラーは自らの自我防衛も弱くして、新たな人格の創造に立ち会わねばなりません。河合先生はこう言います。

このようにいろいろな気持ちに対して、カウンセラーは自分自身の心に忠実にならねばならない。いうならば、相当自我防衛をはずしていなければならない。そして、その自分自身の字が防衛を薄くしているなかで自我のなかに飛び込んでくるものを相手にぶちあてるのです。すると、その難しい危機と発展とのちょうどよいところでわれわれは反応することができるのです。(84-85ページ)。


教師はしばしば「ドヤ顔」をしてしまい、自らの力量を誇りますが、カウンセラーは「ドヤ顔」とは無縁でなければならないでしょう。

こうしてカウンセラーの支援を受けながら、クライエントの人格の再統合がなされますが、それと同時に問題は解決に向かうことが多いのが現実です。"Objectivism" ―「客観主義」というよりは「対象主義」と訳した方がわかりやすいかもしれません― で、問題を自分とは切り離された対象としてしか考えないと、自分の変化によって問題が変化するなど考えられないことですが、「対象主義」という「割りきり主義」から自由になって、市井の人として常識的に考えれば、問題というのは常に自分の認識(考え方や感じ方)によって存在していることは何ら不思議ではありません。自分の変化に伴い、問題も変化することは当たり前のことでしょう。

ともあれ、問題は解決の方に向かいますが、それだけではなく、できればつけ足したいと河合先生が思うことが「意味の確認」です(34ページ)。実際的な問題の解決・解消だけで満足するのではなく、もう一段深い(あるいは高いレベル)で問題を抽象化して、この問題解決・解消の意味を理性的に確認することもカウンセリングの重要なプロセスです。

こういったカウンセリングの過程を単純化したものが以下の図です。







このようなカウンセリングの実態は、第五章の「ひとつの事例」で見事に表現されています。この事例を要約することは許されないでしょう。ここはじっくり、読みながら自分も葛藤を追体験するようにして事例を味わうべきでしょう。

この問題解決・解消と人格の再統合というカウセリングを音楽にたとえるなら、いったいこの曲を作曲したのは誰だろうと疑問がわいてきます。河合先生の考えはこうです。

クライエントが書いたのでもなければ、カウンセラーが書いたものでもない楽譜。誰がいったいそれを書いたのか。私は、それをクライエントの「自己」が書いたのだ、クライエント自身も知らなない、しかしクライエントの心の底深く存在している心の中心、そして発展の可能性の中心である自己が書いたものだと、思ってみるのです。(289ページ)


ここで前提とされているのは、言うまでもなくユング心理学です。もし、カウンセリング的アプローチが、教師が取りうるアプローチの一つとして学ぶべきものなら、ユング心理学の理解はやはり重要であるといえましょう。もちろん、一知半解、あるいは生兵法ほど危険なものはありませんから、私たちは現場の現実に忠実に謙虚に学ぶ姿勢を堅持しなければならないのですが・・・。











2014年3月24日月曜日

誰も支配せず、誰からも支配されない ― 卒業式挨拶



以下は昨日の卒業式(講座)で私がおこなった挨拶の原稿ですが、私は昨日、この挨拶以外はほとんどカメラマンに徹しました。

彼ら・彼女らの一生に一度の機会を少しでも画像に残しておきたかったというのが私の思いでした。

1000枚以上写真を撮って、その中で何とかものになる写真を約250枚ほどサーバーにアップして卒業生・修了生がダウンロードできるようにしました(ピント合わせと露出が私はむちゃくちゃ下手です 汗)。

式は大学合同のもの、講座主催のものがあり、その後、卒業生主催の謝恩会がありました(幹事の卒業生さん、忙しかったのにありがとう。本当にいい会でした)。

教師歴を重ねるにつれ、教師の第一の心得は、「害をなしてはならない」ということかと思えてきます。別の言い方をすれば、「教師は、自らの力量でなく、学ぶ者の潜在力を信じよ」となるのでしょうか。いずれにせよ、「教師は教え子によって教えられる」とますます確信するようになりました。

卒業生・修了生の皆さん、これまでどうもありがとう。

また会いましょう。きっと。



卒業式挨拶


皆さんが所属してきた学部・大学院の教師としての最後のことばを申し上げます。
私たち教員は、これまで皆さんに知識と能力を授けることに専念してきました。
知識と能力は人々に生きる力を与えますから、私たち教員はこの仕事に誇りをもっています。
そして本日、広島大学は、社会より委託された権威をもって、皆さんに学士・修士・博士の称号を与えました。皆さんは今やそれぞれの称号にふさわしい知識と能力を備えた人間として社会的に認められたわけです。
どうぞ皆さん、自信をもって獲得した知識と能力を存分に使いこなしてください。

知識と能力は自分の人生を切り拓くために使えます。他人からの不当な支配から解放されるためにも使えます。
ですが、それらは他人を支配するためにも使えます。他人を操り、そしてその結果、自分自身の魂を損ねるためにも使えます。

大きな例でしたら原爆やホロコーストをあげることもできますが、小さな例でしたら皆さんの身近にあるかもしれません。

言葉巧みに他人を操る人、理屈で他人をがんじがらめにしてしまう人、他人を力で威圧して自分の優越感を必死に保つ人 ―ひょっとして皆さんはそういった人々により自信を失い主体性を損なわれていたかもしれません。

しかし、皆さんにはもう他人に支配されないだけの知識や能力があります。どうぞ自分で自分の人生を歩んでいってください。自信をもって。
皆さんはもう生物的にも法律的にも、そして本日の学位授与をもって社会的にも独立した人間です。自分の考えと自分の責任で堂々と自分の人生を歩んでください。これまでに培った知識と能力を使いこなしてください。
ですが、どうぞ皆さんはその知識と能力を、逆に、他人を支配し操作するために使わないでください。
私がこのようなことを申し上げますのは、教育という営みは、なまじ善意や正論を前提とするがゆえに、人を型にはめてしまい、人の可能性をつぶしてしまうことがありうるからです。
ですから教育学部・教育学研究科の教師としての私の、自戒を込めての最後のメッセージはこれです。

皆さんは、誰も支配せず、誰からも支配されない人であってください。


特に教師や親になる場合、決して生徒や子どもを支配しないでください。もちろん生徒や子どもに支配されてはいけません。しかし、仮にそうなりかけたとしても、無意味な権力ゲームを始めないでください。支配とは無縁の人生を歩んでください。
皆さんは、偉くもなければ惨めでもない、普通の人であってください。
あざ笑いでもなく、卑屈な笑いでもない、穏やかな笑顔をたたえる人であってください。

互いの自由を尊重し、互いの生命を慈しむ、慎ましい人であってください。

知識と能力に価値があるとすれば、それはお互いの幸福のために使われる限りにおいてでしょう。

知識と能力で他人を奴隷にしないでください。そして、自分自身が知識と能力の奴隷にならないでください。

知識・能力と幸せの間で選択をしなければならない時には、迷うことなく幸せを選んでください。

幸せであってください。そしてその幸せを少しずつ周りに伝えてください。

誰も支配せず、誰にも支配されず、幸せであってください。

これが知識と能力の開発に携わった教師としての私の最後のことばです。
これまでありがとうございました。
皆さんの幸せな人生をお祈りします。











2014年3月19日水曜日

河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫





河合隼雄の晩年である2008年にもともと編まれた本書は、編者の河合俊雄が言うように、「イメージ」と「物語」を中心テーマとしてもっている。したがって、ここでもそれらを中心に私なりにまとめてみたい。

人間が意識と言語をとりわけ発達させているということは、人間を動物の中でも特異な動物にしている。例えば人間が木を見る。それは「木」として概念的に認識される(だからこそ私もこうして何も問題がないように、その行為を読者であるあなたに伝えている)。しかし言語をもたない動物にとっての木とは、「木」として対象化されるものではなく、自らが生きることの中に溶け合い組み込まれた経験そのものである(3ページ)。

何もかもが混ざり合い共に流動し変動するのが自然なのだとすれば、対象を言語で限定し、その言語でもって記憶や思考を構築し、他人にも伝える人間は、およそ反自然的なのかもしれない(4ページ)。特に思考や言語がそらぞらしく感じられ、「生きている身体」が自分で感じられない時(5ページ)、言語を操る意識(自我)は自然と乖離してしまっているのかもしれない。

しかし、人間とて自然の中で進化を重ねて意識と言語を獲得したのだから、この反自然も「人間にとっての自然」 (human nature) なのかもしれない。武術家の甲野善紀の問いの一つに「人間にとっての自然とは何か」があるが、この問いは深い。外国語教育にしても、外国語という不自然な言語を、自ら自然に使えるようになる第二の天性 (second nature) とするという営みと考えれば、「人間にとっての自然とは何か」は、外国語教育関係者にとっても重要な問いであろう。

ともあれ、自然・身体から乖離しかけた言語や意識を、自然・身体と再びつないでくれるのがイメージである。イメージの特性を河合は、(1) 自律性、(2) 具象性、(3) 集約性(多義性)、 (4) 直接性、 (5) 象徴性、 (6) 創造性、 (7) 心的エネルギーの運搬の7つにまとめる。『ユング心理学入門』で河合はイメージ(心像)の特性を、具象性・集約性・直接性としていたので、ここではそれらと重ならない自律性、創造性、心的エネルギーの運搬についてごく簡単にまとめる(象徴性についての説明は、『創造する無意識』をご参照いただきたい)。

自律性というのは、イメージが自我のコントロールを超えて動きだすということである(6ページ)。典型的なのは夢であるが、アクティブ・イマジネーションや文芸作品においてもイメージが自ら展開することはよく知られている(これらについても『創造する無意識』の説明を参照されたい)。

創造性は、自律性と重なり、イメージが自律的に動き始めることにより、文学・絵画・音楽・演劇などの芸術活動、あるいは科学活動においてすら、それまで自我が考えたこともなかった新しいものが創造されることである。創造の背後にしばしばイメージがあるわけである(11ページ)。

心的エネルギーの運搬も創造活動の際に典型的に現れる。河合は次のようにまとめている。

何か新しいことを見出そうとする人は、考えこんだり、あれこれと試したりするうちに疲れてきて、何もできなくなる。このとき、こころのエネルギーは無意識の領域にひきこまれてしまっている。そのとき、ふと新しいイメージが湧き、それが対抗していた心的エネルギーとともに意識領域に流れこんでくる。このときに、そのイメージが新しい発見をもたらすのである。(12ページ)


私は言語文化教育研究会 シンポジウム 「言語教育の目的と実践研究」などで、言語を、からだ・こころ・あたま、そして内界・外界をつなぐ媒体としてとらえたが、こと、からだや内界といった無意識的領域と意識的領域をつなぐことに関しては、言語よりもイメージの方が働きやすいといえよう(もっとも、言語とイメージを切り離して考えるのもナンセンスで、両者は常にどこかで結びついているものであろうが)。

このように意識のコントロールを超えて自律的に、さまざまな側面を集約的かつ象徴的に表現するイメージを、意識で真剣に受け止めるということは、「自我の中心的役割を少し弱め」て、「全体としての心のはたらきを活性化することを意味」する(26ページ)。例えば自分の夢やアクティブ・イマジネーションについてできるだけ意識的に考えることは、意識の論理からすれば、およそ辻褄の合わない馬鹿なことをしているように思えるかもしれないが、自らの心の全体性を活かそうとしていることだといえよう。

他人が夢やアクティブ・イマジネーションなどのイメージについて語ることを聞くのは、まさに心理療法家(カウンセラー)の聞き方である。河合は次のようにまとめる。

通常の会話のように、相手の言った内容に関して自分の意識をかかわらせてゆくのではなく、意識と無意識の境界をできるだけあいまいにし、相手の言ったことを自分のこころの深くに投げ込んでゆき、果たしてどんな反応があるのか待つ、というような聴き方をする。あるクライアントに、「先生に最初に会ったとき、私の話をほとんど聞いておられないのじゃないかと思いました」と言われたことがあるが、表面的にはそんな感じがするだろう。意識的にいわゆる熱心に聴くのとは、まったく異なっている。クライアントも最初は不思議に感じるが、すぐにそれは何か意味のあることらしいとわかるようである。(164ページ)


こうして語る者が、自我を無意識に対して開き、聴く者もその語りを自らの無意識に投げ込むようにしながらも意識を保っている関係が始まると、それが「物語」となる。河合は、物語においてもっとも重要なこととして「個人の意識と無意識の関係の回復」(101ページ)をあげる。

この物語を語る者と聴く者の関係を、河合はクライアントと治療者の関係として記述するが、この関係は「水平」なものである(95ページ)。

河合は坂部恵『かたり―物語の文法 』(ちくま学芸文庫)を引用しながら、「告げる」と「告げる」を区別した上で、さらに「語る」を「話す」との関係で説明する。「告げる」ことにおいて話をする者と聞く者は垂直関係にある(癌の告知などはその典型であろう)(94ページ)。それに対して「話す」場合は両者は水平関係にある。

「語る」場合も両者は水平関係にあるが、「語る」ことは、「話す」ことより、それに関わる者の「主体的かかわり」があるといえる(95ページ)。かくして治療者はクライアントの語りを水平関係において聴くわけであるが、それは両者がまったく同等であることを意味しない(97ページ)。治療者は語りを聴く場合に、相当に専門的な知識と技術をもっていなければ、物語にのみ込まれてしまうこともあると河合は注意を喚起する。

物語の危険性としてまずあげられるのが、ある文化・時代において流行する物語である。多くの人は、これを標準や理想として考え苦しむことになる(103ページ)。流行する物語は集合無意識的に共有されている場合もあるが、人は時に流行する物語に適った形に物語を知的に作りだそうとする。本来、物語とは「無意識と意識の協調によってつくり出されるところに、その本質がある」(105ページ)のだが、人間はもっぱら意識的に物語をつくることもできる。いわゆる「つくり話」である。これは人を本当に動かす力をもたないと河合は言う。

だがやっかいなのは、第三者的・客観的に、深い物語と「つくり話」を区別するのははなはだ困難(というよりおそらく不可能)だということだ。話をいきなり英語教育業界のことに移すが、日本の英語教育界がいまだに質的研究を認めようとしないことの大きな理由は量的研究者の勉強不足だと思うが、一つには、「質的研究」の「語り」とされるものは玉石混交で、中にはひどいまがい物もあるという正しい直観もあると私は考えている。さらにまがい物のつくり話ほど、流行している物語に近いので、人気を博しやすいというのも状況をさらに難しくしている。この意味で、外的基準を求めにくい質的研究の語りを無批判的に認めると、研究がガタガタになってしまうかもしれないという不安は正しいものであろう。

しかし、これは音楽でも文学でも同じことである。深い音楽や文学と、浅くどうしようもない音楽や文学の違いを、音楽や文学をまったく経験していない第三者に客観的に説明することはおよそ困難である。しかし、音楽や文学を経験している者にとっては、とりわけその経験が深く広い者にとっては、それらの違いは明々白々である。からだとこころが教えてくれるからである。河合は心理療法について次のように語っている。

「つくり話」であるかどうかは、その物語をつくるときに感じる、イメージの自律性と、それにともなう感動の深さによって知ることができる。これは「物語」をつくる人にとっても、それを聴く人にとっても同様である。心理療法家はそのような判断力を身に着けていなくてはならない。クライアントが「つくり話」に動かされそうになるときに、治療者はそれに乗らずにそこで立止ることができなくてはならない。(105ページ)


ここにはユングが『タイプ論』で述べ、河合も『心理療法序説』などで力説している「こころ」を研究する際の、自然科学の限界や、カントの『判断力批判』にもつながる問題がある。人が主観的・主体的に感じることとは何なのだろう。また主観的・主体的に感じながらも、それがその本人を超えた妥当性を有すると感じることは何なのだろう。人間についてきちんと研究しようとすれば、そういったことをきちんと考えなければならないのだが、ここではもちろんそういった問題の所在を指摘することだけしかできない。



この本から英語教育研究が学べそうなことを、強引に二点にまとめると次のようになる。

(1) 質的研究の語り(ナラティブ)における聞き手(「第二者」)の重要性の理論的理解:語りが当事者(「第一者」)の内部だけに閉塞した話になったり、誰でも言うような第三者的で浅い「つくり話」になってしまわないようにするためには、語りの聞き手(「第二者」)の働きが非常に重要である。この重要性は経験的にはよく知られているが、心理療法やカウンセリングに関する研究からは、有益な洞察が得られるであろう。

(2) 授業におけるイメージの活用法:学習し使用する言語に生命力と創造性を与えるには、私たちの無意識への道を開いてくれるイメージをうまく利用することが有効であると考えられる。実際、写真などのイメージを使って学習者に深い英語発話をさせることは中嶋洋一氏や田尻悟郎氏の実践などで多く観察されている。また、生徒が英作文を作品化するとき、生徒はしばしば文字をレタリングしたり、イラストを添えたりする。それらを「英語学習に関係のないもの」として抑圧するのは短見というものであろう(もちろん、無制限・無批判的にそれらを促進するのも浅慮であろうが)。私たちは英語教育におけるイメージの活用をもっと理論的に考えるべきではなかろうか。

ちなみに、このような提言をすると「それは美術科教育の領域で、私たちは英語科なのですから・・・」と口をとがらせる者がたいていいるが、私はそのように自らの営みを限定的にしか考えない人に対してしばしばことばを失う。そのような人が守りたいのは、子どもの豊かな発達ではなく、自らの小さなプライドではないかと私は思っている。