2016年9月6日火曜日

全国英語教育学会での三つの収穫



今回の全国英語教育学会では、企画に面白いものがありました。以下、私個人にとっての三つの収穫についてまとめます。ただ、以下の記述は私のメモと記憶に基づくものですから、誤りがあるかもしれないことを予めご了承ください(誤りが判明すればすぐに修正します)。





(1) 福田恵先生(徳島県美馬市立江原中学校)と加藤京子(東洋大学姫路中学高等学校)の発表

これは「4技能育成の基礎としての効果的な語彙指導を考える」(中部地区英語教育学会:授業研究フォーラム)での発表で、まずはこの企画・人選をした白畑知彦先生を讃えるべきでしょうし、また大学での実践を報告した小島ますみ先生(岐阜市立女子短期大学)についても言及すべきかと思います。しかし、私としてはいわば「現場叩き上げ」の福田先生と加藤先生のお話がもう圧倒的に面白かったので、以下はお二人の発表について短くまとめます。

とても単純にまとめてしまうとお二人に共通していたのは、語彙学習を機械的な丸暗記にせず、学習者の「意欲」を徹底的に大切にするということでした。最近では、意欲とは「客観テストで自分の得点がわかれば湧いてくるもの」といった、おそらくは元受験エリートが考えたようなきわめて粗雑な考え方が横行していますが、お二人の先生の意欲観はもちろんそういった机上の計算的なものではなく、長い教師生活の中で体得した実感的なものです。語について生徒の想像力を喚起しその語を使用させその言語使用が仲間に受け入れられる、すなわちコミュニケーションとして成立する経験を積ませることによって、その語が生徒の自分づくり・クラスの歴史づくりにつながり、(さらなる)意欲が湧くというのが簡単なまとめです。

福田先生はそうやって個々の生徒とクラスが共に育つことを「集団の力」と呼んでいました。「集団の自尊感情」が育まれたクラスは、一人二人がだらけたとしても、自尊他尊あるいは相互尊重・相互敬愛の共同体となっているクラスが、その数名をお互いが本当はやりたいと思っている行為へと引き戻してくれます。まさに学級づくりです。

また、この言語使用によって意欲を高める試みの中で、お二人とも、生徒が学習する語をそれが属する背景 (context)、話の流れ (discourse)、語り合う仲間 (community) を実感させながら導入し使用させていました。そうだからこそ、その語が生徒個人や学級全体の自己意識や歴史の一部になるのだと思わされます。

言語使用に関しては、お二人とも「語の品詞がわからなければ、話したり書いたりすることができない」ことを強調しました。文法の明示的な教示については、ここ数十年にわたって控えるべしといった風潮がありますが、品詞の理解は重要というのは、つい最近もある熟達の児童英語教師から聞いたばかりでしたから、なるほどと思わされました。

加藤先生の話で面白かったのは、様々な代名詞の格変化や動詞の規則変化・不規則変化が一気に導入される中二の時期を中心として、そういった変化を一覧にした語彙リストをつけた定期テストを実施したことです。「使わせることで覚えさせる」というのが加藤先生の実践的信念ですが、これを「カンニング」と短絡的に誤解された加藤先生は校長室に呼ばれたそうです。しかし、未だにドイツ語学習で苦しみ続けている私としたら、こういった語彙リストのあるテストを受けたいです。そうやって自分で確認しながら、意味ある文をつくることが外国語の体得につながるだろうという予感を私などは強く感じます。それにしても、こういった一見常識はずれの発想ができるのが、現場の重みを知った実践者の素晴らしいところです( わざと直接話を聞いた人にしかわからない書き方をしますと、"It's diyutehow!"という生徒の英語をどう扱うかという判断とその後の配慮も素晴らしい!)。

お二人とも「単語テストよりも、英語使用の場を!」とおっしゃっていました(加藤先生の「生徒が語の海の中を泳いでゆく」という表現もすごいなと感嘆しました)。しかし多くの先生方(特に高校の先生)は単語テストが大好きです。英単語を出されたら、それに対応するとされる日本語の訳語を書き出すことが、語彙習得の証明となると考えているかのようです。私は大学で、「そういった丸暗記ではその語が使えるようにはならない」と口を酸っぱくして言いますが、ある大学院生は「正直言うと、先生のそういった助言の意味がわかりはじめたのは大学院に入ってからです。学部生の頃はわかったふりをしてうなずいていましたが、身体では納得できていませんでした」と言ったぐらいで、なかなか単語テスト的な英語学習の習慣が抜けません。

歯に衣着せぬ言い方をすると、単語テストを多用する先生は、「自分が英語をあまり体得していない」および・もしくは「生徒の学習よりも生徒の管理・評価を重視している」と私は思っています。そういったことも述べつつ、私はフォーラムの質疑応答の時間に「どうして、多くの先生方は、お二人が批判的な単語テストをあれほどにやるのだろうか?」と尋ねました。

加藤先生は、「そういった先生方は単語テスト以外の指導法、英語力の底上げ法を知らないのだと思う。そもそもまともな音読[=構音が正確といった次元ではなく、音調や声質が自然であるといった次元の音読]ができない先生方も珍しくない」と発言されていました。

福田先生は、「自分は単語テストをまったくやらないわけではなく、生徒にとっての学習の反省の機会としての単語テストは行う」と前置きした上で、「しかし意欲あってのテストであって、意欲のないところに学びはない」と、学びの全人的性質について再び強調されていました。

正直言うと、私は理屈で固めた実験論文よりも、こういった長年の実践経験に裏づけられた実践者の語りを聞くほうがはるかに面白いです。私の重要な仕事の一つはこういった現場の知恵を少しでも言語化して、私たちの共有財産にすることですので、このお二人の先生には今後一層注目しようと思っています。






(2) 高木亜希子先生(青山学院大学)のワークショップ(質的研究入門)

これは長年にわたって海外でも研究を続けてこられた高木先生の知識・知恵が一気に伝えられたようなすばらしいワークショップでした。基本的な内容は、『はじめての英語教育研究』--具体的でわかりやすい良書です!--の第5章にも書かれていますが、ワークショップではその本の執筆の際には「入門書ですから」と編集部に控えるように促された認識論的な話も多くされたので非常に有益でした。



考えてみれば上記の福田先生と加藤先生の実践も、その最大の特徴は語彙学習に関する認識論の違いと言えるかもしれません(もっともお二人は認識論といった用語は使っていませんでしたが)。「何を、なぜ、正しいとみなすのか」という認識論的考察は、実はとても根源的で、それだけに実践上でも大きな違いを生み出すものです。しかし現在の英語教育界ではまだ「認識論」という用語が自然に使われていません(ひょっとしたら市民権さえまだ十分に得られていないのかもしれません)。

しかしこの高木先生のワークショップを聞いた人は認識論の重要性を実感したのではないでしょうか(あくまで推測です)。

実は、今回の学会でも複数の人から、質的研究に対して理解のない査読者からの的外れで否定的な裁断に苦しんでいる話を聞きました。今回のワークショップや上記の本などで、そういった無理解(不勉強)が英語教育界から(もういいかげんに)一掃されることを願います。

また、質的研究に関しては、「英語教育における質的研究コンソーシアム」が着々と実績を積んでいます。地方の(体力がなくなりかけた)人間としてなかなか参加できないのが残念ですが、多くの方々が参加されれば日本の英語教育界での質的研究もその「質」を向上させることができるのではないかと思います。


英語教育における質的研究コンソーシアム






(3) 佐藤臨太郎先生(奈良教育大学)と松村昌紀先生(名城大学)の対話と亘理陽一先生(静岡大学)の司会


学会の最後は、「日本の英語教育の将来:効果的な授業の組み立て方について考える」と銘打たれたシンポジウムでした。昔のこの学会での最終シンポジウムは、なんだかもう・・・・(表現自粛)で、私はいたたまれない気持ちになることも多かったのですが、今回は本当にそういった雰囲気とは無縁の、風通しのよい知的な会話を楽しむことができました。



シンポジウムスライド



シンポジウムのタイトルは総花的なものでしたが、実質は(改訂型)PPPアプローチ(Presentation-Practice-Production) の推奨者である佐藤先生と、TBLTアプローチ(Task-Based Language Teaching)  の推奨者である松村先生の間に対話が可能かということを、亘理先生が試してみるといったものでした。

ここで私見を先に述べておきますと、この対話も、認識論の違いをどれだけ理解できるかにかかっています。実際の実践となりますと、さまざまな折衷的な工夫が導入されますので両者のアプローチはかなり似通ってきますが、両者の間には根源的な認識論的な違いがあります。単刀直入に言いますと、TBLTを毛嫌いする人には、TBLTが前提としている認識論を理解できない人が多いので、私は今回の対話は、松村先生がどれだけその認識論的な違いを具体的に語れるかにかかっていると思っていました。

松村先生には、既に『タスクを活用した英語授業のデザイン』という名著があります。その当時、ある雑誌で書評を書かせていただいた私は以下のように書きました。






(前略)

タスクが単なる英語教育界の流行語でないのは、「コミュニカティブな言語教育」 (CLT) との対比で明らかになる。CLTは、言語教育に統語論だけでなく語用論や社会言語学までも含める革新を成し遂げたが、主要な関心は依然として言語的な分析であった。だが言語教育がタスクを単位として考えられ始めると、関心の焦点は学習者へと移り、学習者の内的な意味、主体的な気づき、生活経験との関連などが重視されるようになった。言語教育がより「学習者中心」いや「人間中心」になったと言えようか。

第二言語習得を、第二言語使用の実体験による自己の創出として捉え、「現実世界をその言語を通じて再定義・再創造していくこと」と考えるなら、CLTとタスクの違いは大きなものとなる。

「言語と自己の共感覚や一体感」や「世界やそれを充たす意味を再創造・再構築するプロセス」といった本書の表現は、情報処理的な言語習得観しかもちあわせていない方なら理解困難かもしれないが、国語教育や日本語教育では十分に確立した見解であり、上述の身体論 [=山本玲子『子どもの心とからだを動かす英語の授業』青山社] にもつながる考え方である(私たちは日本の英語教育界の偏りについてもう少し敏感であるべきだろう)。

(後略)


当時私は「これはすごい本が出た。ここまで丁寧に応用言語学の文献を読みこなしながら根源的な考察ができる人はいない」と驚嘆していました。が、同時に、この本の真価をわかる人は実は多くはないのではないかとも懸念していました。当時は今以上に認識論的関心が薄いのが大勢だったからです。だからこのシンポジウム企画を知った時から、松村先生がどれぐらいに聴衆を説得してくれるだろうかと思っていました。

その松村先生のプレゼンテーションは素晴らしいものでした。もっとも松村先生の口調は、どちらかと言うとボソボソと語る方で、派手派手しいジェスチャーもないので一般受けはしないかもしれませんが、その知的説得力は素晴らしいものでした(会場の前の方に座っていた私は会場全体の雰囲気を知ることが困難だったので、会場のどれだけが理解したのは私は断言できませんが、あのプレゼンテーションと対話内容なら説得力はあったと思います)。

上記のスライドでも、例えば22ページの引用、35ページや40ページのまとめ、41-42ページでの実践経験とそこから(と応用言語学を超えた広汎な読書から)培われた信念、55ページの批判的見解、72-76ページの喩えを使った直観的な認識論的考察、などはすばらしいものだと私は思っています(言語習得の認識論的な側面について考えたこともなかった方々がこれらのスライドを見ただけでその意味をわかることは困難かもしれませんが)。

私としては、この松村先生の立論を讃えると共に、それに対して終始冷静に対応した佐藤先生と、笑いの中に少量の毒を混ぜ込みながら(笑)対話を知的なものにしていった亘理先生も讃えたいと思います。

風の噂では、松村先生は次著を準備中であるとかないとか・・・。広範な論文・書籍読解と根源的考察と実際の実践という鼎立することがおよそ難しいことを成し遂げている松村先生の研究からこれからも学ばせていただこうと思っています。


以上、備忘録として。








追記

この学会の後に、偶然「英語教育0.2」というブログの存在を知りました。


英語教育0.2


私はここ数年間体調を崩して以来(今年の調子はまあいいのですが、やはり無理はききません)、英語教育関係のブログを読む習慣をすっかりなくしているのですが、職業的努力の一環としてこういった優れたブログは時折チェックしなければならないと思わされました。




2016年8月18日木曜日

8/20学会発表:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライド



獨協大学で開催される第42回全国英語教育学会埼玉研究大会で個人口頭発表(8月20日(土)10:00-10;30 第25室(519))をさせていただく「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の要旨とスライドをここに掲載します。なお、この要旨は当日に配布される予稿集の原稿を一部修正したものであることを予めお断りしておきます。



*****

要旨


英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて

柳瀬陽介(広島大学)



キーワード:二次観察,複合性,自己参照性



1 序論:認識論的考察の必要性

日本の英語教育界ではリフレクションや質的研究が少しずつ市民権を認められつつあるものの、英語教育実践研究(=実践者の判断や意思決定を支援することを目的とする研究)にも客観性や再現性が当然のごとく求められている。そういった中、メタ分析などは今後の研究の進むべき方向としてほぼ無批判的に推奨されるものの、そもそも客観性や再現性とは何なのか、また、それらを求めることは何を意味するのかについての根源的な認識論的考察がない。本発表は、哲学的概念(特にアレントやルーマンらが使用する概念)の分析を通じて、客観性と再現性の概念、およびそれらを英語教育実践支援研究に求めることの意味について解明することを目的とする。こういった解明は、今後の研究が進むべき方向性を明らかにし、限られた研究資源の有効活用を目指せるという意義を有する。


2 第一概念分析:客観性について

 日常語として使用される「客観的」という表現には「(1) 主観または主体を離れて独立に存在するさま、(2) 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま」(『大辞泉』)といった定義が与えられているが、これら二つの定義はそれぞれ「一元的客観性」と「多元的客観性」として説明できる。
2.1 一元的客観性:人間あるいは私といった主観性とは対極の認識として措定されるのが、超越的客観性と一元的客観性である。

2.1.1 超越的客観性: 西洋近代における客観性は、神の視点という宗教的な理念を、観察・実験といった実証に数学で理念化された無限を適用することにより獲得されるはずという理念として措定された(フッサール)。無限適用により「今・ここ」の私を超越した客観性を獲得する科学知の所有者は、情動や記憶(歴史)を欠いた “No-body”となる。だが、科学知も少なくとも人間の営みであるという制約を有さざるを得ない以上、こういった無-身体的な超越的客観性は、現実的概念とは言えない。

2.1.2数直線的客観性: 宗教的伝統に基づく超越的客観性に代わって現代に流布しているのは、資本主義社会という近代的性質を反映した数直線的客観性であろう。資本主義社会を支える基礎媒体である貨幣は、あらゆる商品の質を捨象し、すべての商品を貨幣量(価格)という一本の数直線上に配置する。あらゆる企業の活動は、貨幣量により黒字/赤字という二値的コードに還元できるため、貨幣量という数値は資本主義社会の客観的指標としてあまねく使用されているが、その考え方は教育界にも伝播し、教育の成果は数値(学力テストの得点)で客観的に測定されるべしという数直線的客観性が、時代の思潮となっていることは文科省の公式文書などからもうかがえる。一元的客観性においては学習者や教師という「私」が何を感じたかといった当事者性は構造的に排除されている。

2.2 多元的客観性: 超越的客観性や一元的客観性は(理念的・概念的に)厳密ではあるものの、現実世界で私たちが求める客観性としては狭すぎる。アレントやルーマンらが使用する客観性に関する概念は、社会構成主義に基づき、私たちが社会的に(=複数の視点と観点が共存する状況で)とらえる客観性を表現している。

2.2.1 現実: アレントのいう現実 (Wirklichkeit) とは、言語によりさまざまな視点と観点を取りうる人間が共存せざるしている複数性 (Pluralität, plularity) において私たちが認めるものである。私たちが「同じ」と認める対象が、さまざまに異なるように立ち現れるということが、私たちの共存と語り合いによって明らかになる時に、私たちは「現実」あるいは「現実性」 (Aktualität, actuality) ひいては「実在性」 (Realität, reality)を認めると彼女は説く。私たちが日常語で「それが現実ってもんでしょう」などと述べる時の「現実」はこのような認識であろう。

2.2.2 二次観察: 同じ対象の異なる立ち現われについて私たちが語り合う時、私たちはしばしば二次観察 (Beobachtung zweiter Ordnung, second-order observation) を行う。二次観察とはルーマンが使用する概念であり、ある観察(一次観察)が、何 (was, what) を観察したかはさておき、それをいかに (wie, how) 観察したかを観察する。二次観察は特権的でも超越的でもないが、一次観察の盲点を指摘しうるという利点をもつ。ある二次観察がさらに別の二次観察をされて・・・というのが、同じ対象について私たちが語りあうということであろう。私たちは日常において、一元的客観性よりも、語りあい(二次観察)において「客観的」な認識を得ていると考えられる(ルーマンにならって私たちは「客観的」という表現の使用を止めてもかまわないのだが・・・)。


3 第一考察: 英語教育界における客観性

 現代日本の英語教育では、本来はそれぞれの技能での能力の多様性を認めていたCEFRが、得点合算により技能間の能力差を捨象する各種資格試験得点の共通尺度として使われたり、各種資格試験がそれぞれの特徴(異なる質)ではなく得点換算表などで数直線的に表現できることが強調されたりするなど、一元的客観性が強くなり権力化しているように思われる。


4 第二概念分析: 再現性

4.1 単一要因の操作による再現:英語教育研究では、未だに単一要因の操作による結果の違いを求める比較対照実験が「主流」 (mainstream) とされている。だが、無作為抽出や二重盲検法を実施することは現実的に困難あるいは無理である。メタ分析にも技術的批判が加えられているが、そもそも実践は、複数の要因にさまざまな順番で働きかける試行錯誤による改善からなることから考えると、単一要因の操作により同じ結果の再現を求めるという根本的考え方自体が非現実的であるように思われる。

4.2 複合性の中での自己参照的な行為:私たちは過去の自分を参照しながら自分に可能な限りのことをできるにすぎず (自己参照性, Selbstreferenz,  self-reference)、現実世界の予測ができないという複合性 (Komplexität, complexity) の中では、事象の単独の制作者としてではなく、各種の相互作用の中で結果を知り得ないままに行為している (handeln, act) にすぎない。単一要因の斉一的な操作ではなく、行為と語りあいを重ねながらよい結果を求めているのが現実世界の私たちであろう。


5 第二考察: 英語教育界における再現性

 現在主流の英語教育研究が想定しているのは、どんな文脈でも同じ方法を適用してよい結果を出そうとする執行者であり、文脈に応じてさまざまなやり方を使い分けよい結果を出す現実世界の実践者ではない。あるいは、学習者などの当事者と語りあう必要を特に認めない業務遂行者であり、当事者との関わりこそが大切だとする実践者ではない。


6 結論: 研究者が求めるべき権力

 日本の英語教育が現在主流としている研究は、教師や学習者という当事者にとっての現実を直視しない認識論に基づいている。そういった研究は「真理の体制」(フーコー)を形成し、さまざまな当事者を斉一的に管理しようとする為政者が欲する権力に奉仕することを意味するのではないだろうか。そのような研究は、さまざまな人々が共存する社会の公教育において、当事者の民主主義的に正当な活力(=権力)を高めることに役立ちがたい。もし英語教育実践支援研究が、当事者を管理や支配するためではなく、当事者が成長するためになされるものだとしたら、英語教育実践支援研究は、一元的客観性ではなく二次観察によってさまざまな様相を示す現実を基盤とし、単一要因の操作による再現ではなく複合性の中での自己参照的な行為についての理解を深め、より多くの実践者を当事者として研究の営みに誘う研究を志向すべきである。英語教育研究の認識論は根本的に刷新されなければならない。



*****


当日投影スライドのダウンロードURL







2016年8月13日土曜日

「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)

この度(といっても発刊は少し前のことなのですが)、特定非営利活動法人「英語運用能力評価協会(ELPA)」(http://npo-elpa.org/)の広報誌 ELPA Vision No.02に「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」という短い文章を掲載させていただきました。


ELPA Vision No.02


事務局の許可を得て、上の広報誌のうち、私の文章だけを以下に転載させていただきます。

私の文章は以下の通りですが、この広報誌には私のも含めると5つのテストに関する小論が掲載されています。

それに加えて、英語運用能力評価協会(ELPA)事務局が作成した「高大接続改革における英語4技能テスト(外部テスト)の行方と課題」は昨今の動向をうまくまとめてありますし、文部科学省が発表した一連の文書のURLリストは非常に便利です(文科省のサイトから文書を的確に探すのは必ずしも容易な作業ではありませんからね)。また、ELPA編集部による「英語の4技能を測定する外部試験の比較表」も便利なものです。

ぜひ上からダウンロードして、御覧ください。

それでは拙論です。



*****

「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」

柳瀬陽介(広島大学)


紙幅が限られているので、抽象的な表現となってしまうことを最初にお詫びしておく。今後の英語教育界は以下のような論理で動いていくように私には思える。

(1) テストで四技能を評価することにより英語コミュニケーション能力がほぼ十全に評価できるようになる。

(2) そういった四技能テストは複数ありうるが、それらの得点は定式化された相互換算表により標準化・一元化された数値やレベルで表現できる。

(3) 標準化・一元化された数値やレベルこそが、英語教育の価値を客観的(あるいは科学的に)表す尺度となる。

(4) 学習者個人が受験校合格や奨学金など、学習者を育てる組織(学校や学級)が予算・人員や賞賛などの権力を獲得できるかどうかは、その尺度での達成度によって決定されるべきであり、その他の客観的・科学的でない方法で決定されるべきではない。


しかしこれらの論理には疑義が加えられる。
(1)’ 四技能テストが評価できるのは、私たちが想定する英語コミュニケーション能力の一部にすぎない。なぜなら、リーディングとリスニングが一つの正解しか認めない多肢選択方式で問われるなら、現実世界でしばしば争点になる含意をめぐる多面的な解釈を問題にすることができなくなるからであり、スピーキングやライティングのテストで評価できるのも「よくある話」を適当に産出できるかのみだからだ。自分に忠実でありながら、特定の時空で特定の相手に対して何をどのように言うかという現実世界のコミュニケーションの条件が、四技能テストでは捨象されている。四技能テストでのある程度の得点は、実際の英語コミュニケーション能力の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない。

(2)’ 複合的な社会の変化に対応するためには、人々が均一化するのではなく、個々人が個性を発揮しながら社会全体として多様性を活かすことが必要である。評価もできるだけ多元的であり多様であるべきだ。しかし、標準化・一元化の推進はそれとは反対方向にある。標準化・一元化の動向は学習者の学びのためというより学習者と教師の管理のためではないか。

(3)’ ここで「客観的」とされるのは、過去のデータから推測される点数の相互換算関係だけだ。そもそも「客観的」な得点は、学習者が自らの心身で感じる喜びという価値 (worth=真価) を示したものではない。それどころか、自分の学びの価値を、もっぱら外から定められる「客観的」な得点だけに見出そうとするなら、それは学びにおいて主体性を喪失する疎外へとつながりかねない。世評への隷属ともいえるだろう。

(4)’ いかなるテストにも高得点獲得のための対策を行うことが可能であろうが、テストの権力性が高まれば高まるほど(high-stakesになればなるほど)テスト対策がはびこり、教育の営みが歪められる。


以上、観念的に聞こえたかもしれないが、これらの疑義はきわめて常識的な感覚であると筆者は考えている(紙幅があればもっと平易に説明したいのだが)。もしこれらの疑義にもかかわらず、(1) ~ (4) の論理がやたら推進されるとすれば、次の疑問はこれだ。「英語四技能テスト推進言説の背後にあるのは何か?そこには何らかの権力奪取・増強の狙いがないか?その陰で本来もつべき権力を奪われる者は誰か?」




*****




テスト推進のための文章を書く人ならいくらでもいるのに、私のようにテスト推進に対して批判的な --ある出版社いわく「癖の強い」w-- 人間の論考を敢えて掲載してくださったELPA様には感謝します。

これまた「癖の強い」人間の妄言と思ってくださって結構ですが、昨今の日本の英語教育界は、学界も出版界も「長いものには巻かれろ」、「流れには逆らうな」といった傾向にどんどんと流れているような気がします(もっとも下のような骨太の本の刊行もありますから、一概には言えませんが)。


 


研究や教育という公務に携わる人間としては、それぞれの頭で考えたことをお互いに率直に語り合い、批判すべき点は批判し、推進すべき点は推進するという是々非々の文化を大切にしたいと思います(やっぱり癖が強いなぁwww)。



関連記事
「リスト化・数値化の危険性」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/08/blog-post_31.html