2012年4月3日火曜日

竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫




教師のもつ最大の手段は声であり、からだだ。声とからだの重要性は、ICTがますます発展し情報伝達だけならオンラインでもできる現代においてますます重要になっている。なぜ人と人が同じ時空に身体を共存させ教え・学び合わなければならないのだろうか。声とからだを十全に使わないのなら、教師はオンライン手段に取り替えられればいいだけの存在ではないか。

教師は、もっと生の声とからだに注意を払うべきだろう。単に「標準的な発音」とされる音を出すだけでなく自分がどのような声で生徒と関係を築いているのか、単に立って動いているだけでなく自分のからだがどんな表情でどんなメッセージを生徒に伝えてしまっているか、などに教師はもっと自覚的であるべきだろう。

先日(2012/3/4)に京都で「英語教師の成長と『声』」という題でお話させていただいた時も、こういったことを語ったが、そこで多く引用した竹内敏晴氏の著作の中でも、教師に最も関連性が高い本といえば、やはり題名も示すようにこの本だ。





以下は、この本の中でも、特に教師と生徒のからだについて書いた部分を紹介する。



■声に関する教師の職業病

多くの新人教師が苦労することの一つが、生徒に声が届かないということだ。しかし、少なからずの新人教師がそこで短絡し、やたらと声量を上げることに専念する。あるいは声の高さを上げ、明瞭度を上げようとする。しかしそんな声は生徒の心には届かない。教師の声は大きく高くなったのにもかかわらず、「うるせぇな、こいつ」と意図的に無視される。かくして授業は相変わらずうまくゆかず、教師は自分が本来持っていた声の繊細さや豊かさを失ってゆく。


これ [=子どもの姿勢がひどく困っているが、教師自身の声がか細く聞き取りにくい例] は決して珍しい例ではない。新任の教員たちのうち、子どもたちにたっぷりした声で話しかけられる人は数少ないようです。やがてこれらの人たちは、むりやり声を張り上げて、ある人はのどを痛め、ひどければ声が出なくなり、ある者は強引なばかでかい声や、細いカン高い声を見つけ出してゆく。二十年、三十年たってこういう声が固着してしまって、日常坐臥もすべてこの声でしか話せなくなると、これはもう職業病の一種と言っていい。少なくとも職人や農民には決してない冷たく固い声だし、しゃべりっぷりです。(竹内 1999, 66)



■声を届かせるということ

教師は「声を届かせる」ということについて深い理解をし、生徒に届く声を体得しなければならない(あるいは声が届き合う関係を生徒との間に築かなければならない)。教師までが、無機的な声しか出せなかったら、子どもはどうして心の底から学ぼうと思うだろうか。妙にませた功利的な試験勉強ばかりが跋扈する教育現場は、その社会の長期的な衰退を確実に示す。


ほんとうに話しかける、声で相手にふれるという、この人間の基本的な行為の能力が、今わたしたちから、しらずしらずのうちに奪われていきつつあるのじゃないかとわたしは恐れているのです。ことば=声が相手のからだにふれ、「胸に沁み」「腑に落ちる」(昔の人はうまいことばを見つけているものです)つまりからだの内に入っていって、相手のからだとこころを動かす、変える、これが話す、ということでしょう。が、現代のわたしたちの交わす話とは、ただ文章としてのことばを投げかけ、それを聞きわけ、意味だけがわかれば、それで了解した、というにとどまる。ビジネスはそれでいいだろうし、そうでなければ余計な情動が混じりこんで邪魔でしょうがいないだろう。だから声も感情を切り捨てた声になる。だがそれはいわばサインの伝達で、全人間的な話しかけとは違うでしょう。では、教育の場ではどうなのか?(竹内 1999, 68)



■からだからの朗読

教師は、とりわけ言語教師は、声に対して鋭敏になり、自ら豊かな声を持ち、生徒からも豊かな声を引き出さねばならない(あるいはくどいようだが、豊かな声に充ちた学びの関係を作らなければならない)。「朗読」というのも、口先だけの「発音」だけではなく、からだ全体(ということは、心全体)から行わなければならない。


話しことばはからだの動きと一つになって生きる。しかし、世の常の訓練や授業では、ほとんど、ことばはことばだけ、からだの動きはからだの動きだけ、それぞれに独立して行われている。それは人としての表現の、ある部分を明確にしたり、美しくしたりする役には立つけれども、人のからだ全体が、大きく脈うち、深く息づいて見るものに迫る、つまりこころの動きが鮮やかに現れることにはなりません。

だから、朗読を、ただ音声の発し方のやりくりで教えるのではなく、むしろ音声が発する土台たるからだを動かすことによって、生き生きした表現に至ることができる。(竹内 1999, 119-120)



■人の生き方、他者への対応のしかた、としての姿勢

そうしてみると、声以前に、からだが大切だということがわかる。学校が「三角座り(体育座り)」のように、生徒を管理し支配する身体作法ばかりが行われる場所であってはならない。教室での「姿勢」も、「姿勢をきちんとしなさい!」という教師の甲高い叫びで、生徒が嫌々その時限りに取り繕うものではなく、互いが同じ時空にいることの静かな喜びが自然に現れるようなものであるべきだ。


姿勢とは、わたしというからだが生きている形です。私が世界に棲み込み、他者に向かい合い、それにふれる、その存在の仕方すべてのあらわれにほかならない。そこには、私の生きようとする力の強さ弱さ、恐れによる後退、心躍りして来るときの呼吸の深まり、表情の変わり方、すべてが含まれている。だから、もしわたしたちに解放ということがあるとしたら、それはからだ全体の存在のしかたが変わることである以上、姿勢が変わってくることにほかならないでしょう。

これを逆に言えば、よく「姿勢が良い、悪い」あるいは「姿勢を匡(ただ)す」などと言いますが、悪いところを直す、つまり、外的な力を加えて部分的に形を変えたからといって、それはますますからだをねじ曲げて固めるだけで、本質的な変化は起こりようがない、ということになります。姿勢が変わるとは、人の生き方、他者への対応のしかた、それ全体が変わることなのです。(竹内 1999, 24)



■呼びかけ、呼びかけられるからだ

次に教室に立ったら、教師は生徒の姿勢を見よう。そして自分の姿勢を自覚しよう。教師と生徒の姿勢の連動性を自覚しよう。

自分が(ある)生徒に話しかけづらいと思うのはなぜだろう。ひょっとしてそれは教師としての私が、(その)生徒からすれば話しかけづらいからだになっているからではないだろうか。教師が生徒に、生徒が教師に、気軽に話しかけられないとすれば、教師は自分の、生徒の、そしてお互いの身体言語を今一度観察するべきであろう。


ある日「からだとことばのレッスン」の「呼びかけ」をやろうとして、人びとに説明するために場に立って、四、五人の聞き手を眺めた。ふと、この人に呼びかけようか、と感じたとたんに、はっと気づいた。なぜ「呼びかけ」たいと思ったのか?その人の、そこに座っているからだが、私になにかを語りかけているからだ。だから私は引かれた。「呼びかける」とは、実は、呼ばれていることに応えることなのだ、と。(竹内 1999, 241)



声やからだといった、根源的な問題を無視したまま、いくら授業の方法論を追求しても、問題は解決しないのではないか。声やからだは、生き方の根底的な反映であるがゆえに、短期的に片が付く問題ではない。だからといって、声やからだのあり方を見つめることから逃げ続けるのは、授業に恒久的に失敗し続けることを意味するのかもしれない。私のからだは、どのように呼びかけ、呼びかけ損ね、呼びかけられることを招き、あるいは招き損ねているのだろう。



引用文献

竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫 (竹内敏晴(1982)『からだが語ることば』評論社、と竹内敏晴(1983)『ドラマとしての授業』評論社に数篇を加え、新たに編み直したもの)






関連記事

竹内敏晴 『教師のためのからだとことば考』に対する学生さんの感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/blog-post_18.html

中嶋洋一先生による蒔田守先生の授業の分析を見て学んだこと
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/06/blog-post_07.html






田尻悟郎先生の多声性について




最近のNHKのEテレは意欲的です。昨年春は「プレキソ英語」が素晴らしく(現在も継続中)、私も「NHK教育テレビ「プレキソ英語」はアート作品としてもすごい!」という記事を書きましたが、今年の春は、「英語動画で高度な英語説明力をつけよう!」というブログも運営している私としては、TED動画をわかりやすく紹介してくれる「スーパープレゼンテーション」という番組を楽しく見始めています。

しかし何よりも嬉しいのは、あの田尻悟郎先生(関西大学)が講師となって、「テレビで基礎英語」が始まることでしょう。週一回のテレビというメディア特性をうまく活用する番組になるのではないかと私は今から期待しています(この番組に限らず、私は最近ようやく「NHK教育」から「Eテレ」へという局名変更が、しっくり感じられるようになりました。NHKが目指しているのは、'edutainment'と言ってしまえば安っぽくなりますが、肩の力を抜いてのびのびと教養を楽しむ文化を普及させることなのかもしれません)。



テレビで基礎英語
(講師:田尻悟郎)
http://www.nhk.or.jp/gogaku/english/telekiso/index.html




この番組のことや、新学期の学部四年生用の授業の準備などもあり、さきほど、私が田尻悟郎先生について学内刊行物に書いたままになっていた原稿があったことを思い出しました。本来は、科研の成果を公刊する本にこの原稿の内容を入れるつもりだったのですが、執筆に際して、私は肩に力が入りすぎてしまい、いい原稿が書けなかったので、結局その公刊は、共同研究者の横溝紳一郎さん(注)におんぶにだっこの形で世話になり、このような本となりました。


『生徒の心に火をつける―英語教師田尻悟郎の挑戦』





というわけで、以下は、結果的に使わなかった私の原稿です。田尻先生の声と身体の豊かな表情について書きました。こういった観点から上の「テレビで基礎英語」もご覧になると、また面白いのではないかと思います。






*****

ある中学英語教師の多声性について



英語文化教育学講座 柳瀬陽介



1 はじめに

 この報告では、報告者が実際に授業観察したある中学英語教師の「多声性」について簡述する。ここでいう多声性とは、教師が様々の種類の声を使い分けていることを指す。もちろんこの「声」とは、物理現象以上の意味を込めた用語であり、発話者が、聞き手の存在様態を見極め、発話目的の違いを意識し、自らの発話態度の変化なども自覚して適確に表現するために使い分けている、いわば物理-心理-間人的活動(physical-psychological-interpersonal action)を指す。
 
 観察した英語教師は、いまや「カリスマ英語教師」としてもメディアに扱われるようになった田尻悟郎氏(島根県東出雲町立東出雲中学校 - 2007年3月まで)である。実際の田尻氏は「カリスマ」といったやや軽薄な形容詞とは全く無縁に、実直に公立中学での英語教育実践に30年近く従事してきた現場教師である。報告者は、1990年代後半から彼に着目し、平成17年度からは三年計画の科研で、彼の実践を追っている。彼は現在の中学校に移って二年目であり、今年度は一年生を中心に英語を教えている。授業を観察したのは2007年(平成19年)1月15日(月)の二時間目、三時間目、四時間目であり、いずれも一年生の授業であった。
 
 報告者は、科研の他のメンバー二名と共に、教室の隅々に座り、授業を観察した。中学生は、頻繁に田尻実践を観察に来る外部者に非常に慣れており、報告者たち外部者の存在を、特に意識するわけでもなく、無視するわけでもなくごく自然に受け入れていた(報告者達にあいさつをしてきたのは、アイコンタクトがお互いに誤解のないぐらいに成立した数人ぐらいである。だが、何人かの生徒は、報告者達が生徒達の授業前のふざけあいに思わず笑っていると、「あっ、笑っている」と若干の意識を示した)。授業風景は事前の許可をもとにビデオ撮影された。撮影は二時間目と三時間目が報告者、四時間目がもう一人の科研メンバーによって行われた。
 
 ここでビデオ撮影について若干の感想を述べておくべきであろう。報告者は通常、授業を観察する場合は、ビデオ撮影をせず、ひたすら五感を働かせながらフィールド・ノーツを取っている。であるが、今回は共同研究ということもあり、報告者としてはひさしぶりにビデオ撮影をした。だが、授業観察の時はビデオが邪魔に感じられた。五感で360度に感じ取るような現実感覚がフレームの狭い二次元の視野に限定されてしまうような思いにつきまとわされた。ビデオを撮りながら、自分の視野の中心にある狭いファインダーと、視野の周縁部で感じる何かが起こっていることだけはわかる前意識的知覚のギャップにとまどった。他人が撮影したビデオ録画を見ることだけでは、現象の観察は十分にはできないということを再確認した。しかし後日ビデオ録画を見ると、すっかりとその録画された視野が、現実の全てだと思い込んでしまうことには自分でも驚いた。報告者自身が撮影したビデオだけでなく、他メンバーが撮影したビデオでも、それを見ると、上のとまどいの記憶にもかかわらず、そのビデオ画面だけが、現象世界のように思えてしまうことは、不思議とも思える体験であった。ビデオを見ただけで、結構、物事がわかったように感じてしまうことは、私たちが気をつけていても陥りがちな錯覚なのかもしれない。
 
 報告者の記述表現についてもここで予め述べておくべきであろう。以下の報告書の記述表現には、報告者の解釈が織り込まれている。これらの解釈は報告者によるものであり、現時点では科研の他メンバーとのすり合わせ・相違に関する討議などは経ていない。その意味で、今回の記述は主観的なものであるが、恣意や奔放にはしらない記述に努めたつもりではある。また、おざなりの常套句で表現しないようにもできるだけ注意した。現象を丁寧に振り返り、思い起こすことなく、容易に口に出てくる常套句は、実際の観察という研究行為を無にしかねないものであると報告者は警戒している。エスノグラフィーは、科学と文学の両方の性格を持つものとはしばしば言われるが、実際、「科学」に象徴される客観性を担保しながら、いかに「文学」のように深くまで到達する言葉を探りあてることは重要なことである。この報告は、直接の記憶がまだ遠くなっていないうちに書かれる一種の第一次報告であるが、おそらく記述は、ビデオを何度も視聴することにより、(上記の限界があるとはいえ)現象を新たに思い起こしながら、何度か書き直されるべきものであろう。いずれにせよ現象は、視覚イメージが残っているときに記述されなければならない。
 
 さらにこの報告の限定を書かなければならないが、この報告は第一次報告として、理論的考察を欠いたまま書かれている。本来なら、多声性ということでバフチンなどの理論を、相互の人間的活動という点でアレントなどの理論を批判的に検討しながら、この教室の多声性に関する記述を理論的にも深めなければならないのだろうが、今回の報告ではそれは割愛せざるを得ない。今後の課題としたい。


2 全体的印象

 観察した三つの授業は、同じフォーマットで、異なる一年生のクラスにほぼ同じ内容の授業が繰り返された。だが、見ていて(またビデオで再視聴して)全く飽きないというのが、第一の感想である。クラスが人間的な表情に満ち溢れ、単調や無味乾燥といった言葉とはおよそ対極のところにある。これには大きく、田尻氏が、様々に声を使い分けて、クラス全体、グループ、個々人と、人間的交流を築きながら生徒の学習を進めていることが影響しているのではないかというのが、報告者が直観的に得た洞察であった。その洞察は授業後に田尻氏の同僚である若き教師(社会科担当)とのインタビューを進める中で、彼女が、田尻氏は職員室ではもっぱら出雲弁でしゃべり、それで自分の失敗談や家族の話をするので、職員室の雰囲気が非常に和むと述べたときに、確証を得たような思いがした。教室や職員室での、方言などの言語の「ジャンル」(本報告でいう「声」)の使い分けは意識的にしているのかと、田尻氏に続くインタビューで尋ねたところ、氏は即時に「その通りです」と断言した。田尻氏は異なる声が持つ異なる効果について鋭敏に意識している。思い起こしてみれば、田尻氏のこの声の使い分けは、田尻氏が教師相手にワークショップを行うときにも観察されていたものであった(田尻氏のワークショップは笑いあり驚きあり納得あり、時に涙ありのものである)。報告者は、田尻氏の肯定に、洞察の裏づけを得たと判断し、以下のような多声をここに報告することとする。
 
 予め田尻氏の多声性を抽象的にまとめておけば、氏は日本語(標準語、関西弁、出雲弁)、英語、身体言語を、明瞭性、規範性、親和性、親密性、そして相互作用性、さらにはスピードなどにおいて様々に異なる声で使い分けていると言える。もちろん、誰へ発話しているかという変化要因もある。これらの特徴は、ウィトゲンシュタインの家族的類似性のように、一部でつながり、一部で異なりといった連続体として捉えられるべきであり、今述べた性質ごとに、相互排他的に区分けできるものではない。従って、以下の記述では、観察事例ごとの声の種類を、まずは列挙的に記述することとする。記述の一部の重なりは許容していただきたい。


3 日本語での多声

 地域方言という観点から田尻氏の日本語使用をごくごく簡単に説明すると、教師として教育内容に言及するときに明瞭性と規範性に富む標準語を使い、学習者と心理的交流を深め学習を支援するときなどに親和性と親密性に富む関西弁を使うとまとめることができる(出雲弁に関しては前述したように職員室での教員同士の会話で使われるらしい。ただし報告者は出雲弁に詳しくないので、授業内でも、関西弁に混じって出雲弁も使われているのかもしれないが、その同定は現時点ではできない)。しかし、「教授者として標準語、支援者として関西弁」というのは、いかにも単純すぎる説明である。以下は、明瞭性、規範性、親和性、親密性、そして相互作用性、さらにはスピードなどにおいて少しずつ異なる事例を列挙することにする。便宜上、フォーマルな日本語使用からだんだんとインフォーマルな日本語使用の例へと列挙を進めることとする。列挙の順番(番号)にはそれ以外の意味はない。


(1)言語ルールを確認する際の非常に明瞭な口調での標準語。一種の規範の提示であるが、田尻氏の授業ではその言語ルール規範は唱ずるものとされているので、どこか生徒も共に記憶からその言語ルールを唱和できるような「誘い」があるようなテンポ、リズムとなっている。

(2)発音のルール(フォニックス)を確認するとき、後半部分を生徒に言わせて、インタラクティブに説明を完成させるために使われる標準語。後半部では、生徒がルールを完成させることを促すため、手を耳に添えて、笑顔で、眉を上げ、目を大きく開き、口も開ける、いわば「言ってごらん」と誘いかけるような身体言語が伴なっている。

(3)フォニックスブックの解説を読み上げる標準語。教科書に目を落として発話するが、単調ではなく、ポーズ、リズムがあり、テンポにも変動がある。

(4)生徒の学習ストラテジー(「資料活用能力」)を褒める淡々とした標準語。トーンも、褒めるにしては控えめで、ことさらにその生徒だけにスポットライトを当てるような言い方ではない。

(5)新出語を正しく発音できた数人に対するさりげない褒め言葉(「うん、そうそう、えらい、えらい」)。これもさりげなく言われ、作為性などは感じられない。

(6)特定個人に指示をする際の日本語。その距離にふさわしい控えめの声量とトーン。指示を伝える際、一貫してアイコンタクトの視線が切れないのが特徴。

(7)学習活動の中のユーモア表現。カルタで「グローブ」と言う代わりに「野球で手にはめるやつ」、「スケート」の代わりに「氷の上をスーッと滑ること」とあえて婉曲表現を取る。これにはカルタにバリエーションを加えるという意味もあるだろうが、そこはかとないユーモアが感じられた。「そこはかとない」というのは、生徒はカルタ取りに夢中になっているわけであるから、このユーモアに時間をとって笑うことはないからである。だが、そういった控えめなユーモアが雰囲気作りには役立っているような印象を受けた。

(8)学習未成立を受け止めて勉強につなげる言葉。生徒が代名詞の使用でつまずくと、田尻氏は笑顔で「おーっ、忘れたかー。忘れたなー」といかにも楽しそうに言いながら、その学習項目の復習のために教材の入ったCDプレーヤーに向かった。「おーっ」といった間投詞、「かー」という非裁断的な終助詞、「なー」という共感的な終助詞などで親和性が高まった標準語となっている。

(9)反応の遅いクラスを、陰気にならずからかう。笑顔を残したままやや演劇的に挑発。「遅いやん」と関西弁になる。

(10)個別テストでつまずいた生徒への「おい、確かめてみ、確かめてみ」という親密な声かけ。ここでも学習の不成立が、叱責されることなく受容され、学習の促進がなされている。一人の生徒への声かけということもあり、インフォーマルな表現となっている。

(11)カルタで必死に札を取ろうとしている生徒を笑いながらからかう。「ハハ、お前ヤケクソやなあ」、「お前、玉砕戦法すんなよ」などと関西弁になる。

(12)個別テストでの生徒の間違いをわざと誇張して笑顔でからかう。「55 minutesって何だよ。なんで55分もかかるんや」と標準語から関西弁になる。

(13)個別テストをする田尻氏を自然と取り囲むように集まった生徒に対して、もっと練習するようにというメッセージを、わざとぞんざいな関西弁で伝え、生徒もそれに一種甘えたように、一種田尻氏の基準を受け入れるように応える。「お前ら(教科書を)見すぎや!見るんは三回までや」「えーっ」「練習してから来いや」といった対話になる。

(14)職員室での出雲弁。前述したように、職員室では「カリスマ英語教師」として全国的に注目されている田尻像を積極的に崩すかのように、地元の出雲弁で他愛のない個人の話や失敗談を、ユーモアを交えながら語り、職員室での空気をなごませている。



4 英語での多声

 英語においても田尻氏は多声的である。もちろん英語の場合は地域方言の使い分けはなく、標準的な英語(発音・文法)だけである。だが、ここでも田尻氏は多様に声を使い分ける。例えば、教育実習生が、冒頭のあいさつから、指示のクラスルームイングリッシュ、学習内容提示の英語などに至るまで、どれも同じように語るのとは極めて対照的に、田尻氏の英語には様々な表情が見られる。英語についても多少の重複を含みつつ列挙する。
 

(1)新しい活動の始まりを告げる英語。クラス全体へ明瞭に、かつ楽しい出来事の到来を知らせるように呼びかける。魅力的な笑顔と共に語られている。

(2)出席確認で、名前を呼ばれて返事がない生徒への“Say ‘Yes.’”。これも誘うような笑顔で返事を促している。

(3)MCのように盛り上げるような英語“OK, 90 second quiz”。(1)と似ている。

(4)いわば(格闘技エンターテイメントの)K-1のリングアナのような“Are you ready? Are you ready? Get set, Go!”。一種、生徒をあおって、やる気を奮い立たせるような口調。
(5)クラブ活動の指示のような英語“Stop, stop”。実際、生徒は活動に熱中しているので、このように大きな声で、ややゆっくりと、誰にでも聞こえるように“Stop”と言わないとクラスは活動を続行してしまう。

(6)カルタ読みの発音モデルの英語。クラス全員にわかるように明瞭な声で唱ずる。この英語はリズムに乗り、田尻氏には自然な笑顔が出ている。

(7)学習内容提示に変化するクラスルーム英語。最初はクラス全体への活動指示なのだが、ややゆっくりその文を繰り返し「“Any card is OK”. Anyってどういう意味?」とその指示文を学習内容に変える。

(8)日常的になされる指示。これはかなり速い英語でなされる。

(9)非常に速い英語でなされる指示。カードをゴムバンドでしばって、部屋の片隅の箱に入れろという長めの指示は、非常に速い英語で一気に言われた。だが、生徒はいつものことなので、その指示にすぐに従う。田尻氏はわざと超高速で英語を言い、それにどう生徒が対応できるか楽しんでいるようにも思える。

(10)定常的なあいさつの英語。“Good morning, everyone. Who’s absent today?”という最初の定型表現は、特に笑顔というわけではないが上機嫌で語りかけられる。これは最後の“OK, that’s all for today. Good bye, everyone”でも同じような感じである。両方とも英語でのあいさつという儀式を強要しているような雰囲気はまったくない。

(11)プリントを配る際の、 “Here you are.” “Thank you.”といった田尻氏と生徒一人一人との対話。これはいわば、家族の間での当たり前の日常のように、とってつけたような雰囲気とは無縁に英語が交わされている。



5 身体言語での多声

 田尻氏が顔の表情をはじめとした身体言語を意識して使っていることは、2006年9月7日にNHK総合テレビで放映された『プロフェッショナル』の中で、「鏡を見て、笑顔を作る練習もしました。眉を上げる練習とか」と証言していることなどからも確認できる。ここでも一部の重なりを許しながら身体言語の使用事例を列挙する。
 

(1)“Let’s skip it”という生徒が使うクラスルームイングリッシュを復習するときに、英語での説明に加えて、「うーん、困った」「次に行こうよ」という意味合いを一人二役のジェスチャーでもわかりやすく伝える。

(2)過去形で答えるべきところを現在形(I get)で答えた生徒に“I got”の発話を促すために、無音で明瞭な口の形だけを示し、生徒にヒントを与える。

(3)Jackに対してsheという代名詞を使った生徒に対して、驚いた顔を笑顔で作って、生徒の誤りを陽気に伝え、訂正を促す。

(4)「代名詞ダンス」という「パンチゲーム」と並ぶ身体運動(共にここでの説明は割愛)で、生徒にまず身体で英語を覚えさせる。英語だけの発話では詰まったり、間違えたりする生徒も、田尻氏が代名詞ダンスをやるように指示すると、生徒はダンスで正しい英語を思い出し、「あ、そうか」と英語を訂正する。生徒が身体を言語の助けにするように田尻氏は指導している。

(5)机間巡視の際に、「よしよしそれでいいぞ」とばかりに生徒の肩を軽くポンポン叩く。

(6)個別テスト(暗唱)の際に、田尻氏は生徒とのアイコンタクトの視線を切らない。田尻氏はうなずき続け、時間内の暗唱の成功を笑顔でストップウォッチを示すことで伝える。そして笑顔でハイタッチをする。生徒は嬉しそうに上気した顔になる。

(7)個別テストの時間内に間に合わない失敗も、同じように笑顔でストップウォッチを示すことで伝える。しかも「アッツハッツハッ」という笑いつき。裁定的、否定的な身体表現は田尻氏に微塵もない。

(8)ある個別テストで田尻氏はアイコンタクトの視線を切ったが、これは実はクラスを観察していたからである。「おーい、集中しろよ。ストップウォッチで遊んでおる奴が二人おったぞ。(冗談めかして)まさか野球部じゃないだろうな」と田尻氏は言い、その後、明らかに意図的と思えるほど瞬時に、待っていた生徒に“Sit down please.”と席を勧めた。叱責を、柔らかく冗談の形で伝え、しかもそれでもクラスに伝わってしまう否定的なムードを瞬時に断ち切ったように思えた。

(9)個別テストの時に田尻氏は本当によく笑う。時にはハハハハハと席から飛び上がらんばかりに笑う。生徒も一対一の田尻氏との対面を喜んでいるように思える。

(10)個別テストでだんだん生徒が田尻氏を取り囲む。後から田尻氏の髪の毛の毛づくろいをするような生徒も出てくる(田尻氏はその間他の生徒を指導している)。侮蔑的な意味は全くない、良い意味で動物的ともいえる原初的身体コミュニケーションが成立しているようにさえ見える。



6まとめ

 以上のような簡単な列挙からだけでも、明瞭性、規範性、親和性、親密性、そして相互作用性だけではなく、田尻氏の言語使用には音楽性や、個と個が向き合う一対一性などもあることがわかる。無論、一対一性とは逆に、クラス全体を動かすための、一対一の会話とは明らかに異なる口調もある。また、学習の不成立という、多くの教師が叱責の対象としてしまうような事態も温かく、あるいは陽気に受容する術も多く見られた。これには田尻氏が、日頃から英語の学習や使用をユーモアにしてしまうことも一役かっているのかもしれない。さらに、英語の常時使用のため、全く当たり前になってしまった生徒との英語使用も印象的であるし、何より、「代名詞ダンス」などで、生徒に身体が言語を導くようにさせていることは特記されるべきであろう。加えて、田尻氏は、人間関係が成立した上でのからかいを多用し、それによる一層の親和化を図っている。田尻氏は、授業では明るく上機嫌でありながらも、褒めすぎることをしない。注意するべきところは注意するが、その流れをすぐに断ち切る。田尻氏はこういったことを様々な言語-身体表現、つまりは様々な「声」で実現している。この田尻氏の多声性はバフチンの理論から考えたらどう分析できるだろうか。また田尻氏の各種の声は、田尻氏と生徒を人格的に結びつける、アレント的な意味での「活動」(action)になっているのだろうか。今後も考察を続けてゆきたい。

追記:本文にも略記したように、本報告は科学研究費(萌芽)「言語学・コミュニケーション・ライフヒストリー的観点からの中学英語教師の研究」を使って行なわれた観察を基にしている。




(注)

横溝さんは、まさに「教える言語を超えた外国語教育ネットワーク」の要のような八面六臂の活躍をしていて、日本語教育だけでなく、英語教育でも小中連携や英語検定協会のセミナー派遣教師などで活躍をしています。

その横溝さんのおすすめの冊子が、

『外国語学習のめやす2012』
http://www.tjf.or.jp/ringo/news/post-60.php


です。「つながりの実現を目指した外国語教育の提言」として、日本の高等学校の中国語教育と韓国語教育からの報告と提案をしています。いい冊子です。PDFでの無料ダウンロードもできますので、ぜひ上記サイトに行って見て下さい。



ついでに

この記事でも紹介しましたが、






には田尻先生の講義のCDが3枚付属としてついています(これだけで、即買いだと私などは思っています)。田尻先生の話術あるいは話芸を楽しみ分析するためにもぜひどうぞ。



2012年4月1日日曜日

東広島大学、『武道英語』を必修に(『英語狂育通信 2012年4月1日号』)





東広島大学、『武道英語』を必修に



『英語狂育通信 2012年4月1日号』


この春、武道が中学校保健体育において必修化される。そんな中、東広島大学では武道と英語教育を統合した『武道英語』カリキュラムを始めるという。『英語狂育通信』では同大学で英語教育を統括する柳瀬妖介狂授(48)にインタビューを試みた。

偏執部(以下、偏): 今回の東広島大学での『武道英語』導入は、文化省の武道必修化と何か関連があるのでしょうか。

柳瀬妖介(以下、妖):うむ。儂(わし)は文化省の浅慮に我慢がならん。よって、この『武道英語』を導入したのぢゃ。

偏:浅慮といいますと、やはり安全対策がなっていないといったことでしょうか。

妖:それは重要じゃが、細かなことに過ぎぬ。儂が言いたいのは、歴史認識と精神における根本的な錯誤じゃ。文化省のいう「武道」とやらの必修化で、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」という教育基本法の考えを活かすなどとほざくのならば、片腹痛いわ。

偏:しかし武道は日本の伝統文化ではないのでしょうか。

妖:ふっ、ヌシも日本を知らぬ愚かな現代人のようじゃの。よいか武道 ―というよりも武術なのじゃが、まあ今回は武道でも武術でも同じ意味だとしよう― 現代人がいう「武道」というのはの、明治の文明開化と、第二次大戦後の占領政策によって、昔日のものから根本的に変えられてしまった別物に過ぎぬ(内田樹(2010)『武道的思考』筑摩書房)。オリンピックの柔道選手などに儂は拍手をおくることにやぶさかではないが、オリンピックの柔道なぞはもはやJudoというスポーツに過ぎず、昔日の武術としての柔術とはまったく別物ぢゃ。

偏:そんなものなのですか?

妖:そんなこともわからぬか。よいか武術とは護身の術じゃ。敵は剣でも棒でも突きでも攻撃してくる。「待て」という審判などおらぬ。二人、三人がかりで攻撃されることもある。それらすべてに対応するのが武術としての柔術じゃ。ところがスポーツとしての柔道ではそのような状況は考えもせず、何の訓練もせぬじゃろう。試合場に立って審判に「始め」と言われてはじめて戦おうとすることなぞ、昔日の武術とはまったく別物の所業ぢゃ。

偏:なるほど、スポーツとは、まずもって気晴らしであり、近代に入って制度化され、競争を楽しむようになった文化ですから、護身としての武術と、気晴らしや制度化された競争としてのスポーツは根本的に違うのかもしれませんね。

妖:ヌシもわかってきたか。それなのに文化省の役人どもは武術とスポーツを混同した愚を、権力をもって我が国に普及させようとしておる。例えばホームページにはこう書いておる。


武道は、武技、武術などから発生した我が国固有の文化であり、相手の動きに応じて、基本動作や基本となる技を身に付け、相手を攻撃したり相手の技を防御したりすることによって、勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わうことができる運動です。また、武道に積極的に取り組むことを通して、武道の伝統的な考え方を理解し、相手を尊重して練習や試合ができるようにすることを重視する運動です。
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1221013.htm


「勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わう」などとは愚昧もはなはだしい。よいか、闘いとは命の取り合いであり、勝敗とは生死のことである。死ねば無念、生き残っても恨みをかうだけのことであろう。ならば闘いの邪気をいち早く察知し、それを鎮め祓うことこそが人の道ではないか。武術とはそのための身心の術ぢゃ。決して競い合うものではない。しかるにもって「勝敗を競い合う楽しさや喜びを味わう」ことなどを「武道の伝統的な考え方」と称するなら、これは日本の伝統を偽ることぢゃ。

偏:しかし、競い合うことは人間において必須のことではありませんか?

妖:ヌシもまだ近代にとらわれたままじゃのぉ。「ポストモダン」などの浅薄なことばは口走っても、肝心のことがわかっておらぬ。よいか、競い合う競争とは、たしかに古来からあった人間の性(さが)なるも、近代の産業革命・工業生産・市場原理・資本主義・植民地支配などによって激化された人間の一側面に過ぎぬ。その一側面をいたずらに肥大化させ、人々の助け合う心、惻隠の情、たおやかなる暮らしを殺しているのが、現代じゃ。現代日本も、明治以来の近代化という歴史的課題を終え、近代の超克へと向かわねばならんのじゃ。

偏:で、その近代とスポーツの関係とは?

妖:まだわからぬか。学校教育の体育とは、国民を「近代化」すること、近代的競争の「人材」を大量生産することの一手段なのぢゃ。野口体操の継承者たちもこう言っておる。


明治に入り、欧米諸国に追いつくために1885(明治18)年、初代文部大臣・森有礼は青少年の身体能力の向上が不可欠であるとして兵式体操に着目しました。1886(明治19)年に交付された「学校令」のなかで、教科として「体操」を位置づけ、徹底した教育を施しました。近代的な制度を担える身体づくり、合理的な身体の動かし方や身体の所作、隊列をつくり集団で効率的に行動することなど、合理的に組み立てられた運動を通して近代合理主義の思考を身体にしみ込ませること、戦争時に対応できる強靭な身体、体力の形成が国家的な課題となり、それを「体操」を中心に構成しようとしたのです。(羽鳥・松尾 (2007)『身体感覚をひらく』pp. 23-24)


今回の文化省の武道必修化も、「伝統と文化の尊重」などとは口先だけぢゃ。明治以前の歴史を知ろうともせず、第二次大戦後の自己欺瞞にも向き合おうとしておらぬ。なあに、文化省のホンネは「人材育成」に過ぎぬ。グローバル資本主義競争の釜の中に入れ込む石炭を作り出そうとしておるだけじゃ。あるいは自ら何も考えることもできずに時代の波に翻弄されておるだけぢゃ。

偏:ちょっとことばが過激なのではありませんか。

妖:ヌシまでそう言うか。ふっ、ならばオリンピックでもテレビで見て喜んでいるがよい。スポーツ選手の個人の純粋な気持をうまく使って国威発揚を図り無駄な消費をさせ、真に眼を据えて見据えなければならぬ国や世界の問題から国民の目をそらす馬鹿騒ぎに浮かれておるがよい。

偏:そこまでオリンピックを悪く言わなくてもいいんじゃないですか。

妖:馬鹿者。オリンピックこそは、西洋近代・工業生産・市場原理の結晶的象徴なのぢゃ。ひたすらに人々を競争に追い込む巨大なイデオロギー装置なのぢゃ。何が「より速く、よりうまく、より安く」じゃ!

偏:あの、それ「より速く、より高く、より強く」です。「より速く、よりうまく、より安く」じゃ、吉野家とすき家の競争になっちゃいますよ。

妖:儂は松屋を贔屓にしておる。

偏:いや、そうじゃなくて。ま、いいですから、武術の話に戻りましょう。先生は、それだけおっしゃるからには、武術をかなり修得されていらっしゃるんでしょうね。

妖:いや上泉伊勢守信綱様に比べれば、儂なぞ小童(こわっぱ)じゃが、まあ、剣術、柔術、空手、中国拳法ぐらいは極めたと言えよう。

偏:そんなにたくさんの武術を!

妖:ハッハッハ。『バガボンド』、『コンデ・コマ』、『空手バカ一代』、『拳児』は全巻読んだぞ。

偏:えっ、それってみんな漫画ですけど、まさかその漫画を読んだだけって言うんじゃないでしょうね。

妖:馬鹿者!話は最後まで聞かぬか!その他にも『北斗の拳』、『キン肉マン』も全巻読んでおるわ!

偏:ちょっと待ってください。他にどんな漫画を読んでいてもいいんですけど、まさか漫画の本を読んだだけで武術を修得したとおっしゃっているんですか?

妖:ふっ、儂は理論派ぢゃからのぉ。

偏:・・・(しばし絶句) まあいいでしょう。本誌は英語教育の雑誌ですから、武術にはあまり踏み込みません。しかし、その武術的な考えとやらは、英語教育にきちんと反映されているんでしょうね。

妖:当然じゃ。儂の『武道英語』は、近代批判であり、近代競技スポーツのイデオロギーを超克した英語教育ぢゃ。

偏:ご説明をお願いします。

妖:よいか、英語というのはもとより英米などで話されておる言語ぢゃが、その教授法・指導法まで英米由来でなければならぬという法はない。ところがハロルド・パーマーの昔から、フォーカス・オン・フォームとやらの今日に至るまで指導法も舶来のものばかりをありがたがっておる。

偏:しかし舶来であろうが、よいものはよいのではありませんか?

妖:それは違う。英米の英語教授法・指導法とは、所詮、母語話者が考えるものに過ぎぬ。自らは英語を不如意なく話す御仁の考える方法ぢゃ。そこに、英語を外国語として身につけなければならぬ我が同胞の日本人の苦労に対する配慮はない。これはスポーツ的ぢゃ。

偏:スポーツ的とおっしゃいますと?

妖:よいか、スポーツは所詮、身体の大きな者が勝つ、それだけのものに過ぎぬ。多くの競技が体重別になっているのが動かぬ証拠。スポーツとは、もともと身体的な強者のためのものに過ぎぬのじゃ。そこには、小さな者とて我が身を守るために闘わなければならぬ「小よく大を制す」の武術の精神がない。

偏:まだよくわからないのですが。

妖:舶来の英語教授法・指導法とは、もともと英語がそれなりに使える者 ―英語強者― がさらに英語を使えるようになるためのものに過ぎぬ。それをスポーツ的と言っておるのぢゃ。

舶来の教授法・指導法には、母語と異なる統語法・談話展開・発声法・身体操法に苦難を覚える我が同胞の英語弱者が、いかにしてその構造的に不利な状況を打開するかという「小よく大を制す」の武術の発想がない。日本人にとっての英語の学びとは、不利な状況の中で英語母語話者とやりあってゆかねばならぬという武術的な発想で行わねばならぬ。

偏:つまり、身体の小さな人が、身体の大きな人向けのトレーニングをやっても強くなれず、身体の大きな人との差は永遠に縮まらないのと同じように、英語強者向けの英語学習法をいくら行なっても、英語弱者である日本人は永遠に英語弱者のままである、ということですね。

妖:そうぢゃ、よう言うた。弱者が強者に立ち向かうには、強者と同じ事をやっておってはならぬ。強者の力任せの技を超えるために、弱者は武術の術理に適った技を体得せねばならぬ。武術の術理とは、そうじゃのぉ、一つには、無駄な動きを徹底的にそぎ落とし、最小・最短・最弱の動きだけで、闘いの肝心要を抑えることぢゃ。無駄にペラペラしゃべってもいかぬ。無益にダラダラ読んでもいかぬ。英語を話すにせよ書くにせよ、聞くにせよ読むにせよ、限りなく本質を求め、無駄を省くことぢゃ。

偏:学習の質を高めるということですね。

妖:うむ、そう言ってもよいが、むしろ学びをその者の天命に適ったものにすると言った方がよかろう。もっとも、天命とは棺桶の蓋を閉めるまでは定まらぬものじゃがのぉ、ハッハッハ。

偏:しかし天命とは大げさですね。そもそも所詮語学訓練なのですから、そんな人間的なことを出すのは余計なこと、というよりごまかしじゃないですか?

妖:ヌシはやはりわかっておらぬようじゃの。よいか、英語だけペラペラになって、人間の中身がついておらぬなら、世界中に向けて自らの馬鹿ぶりを宣伝するようなものではないか。幕末の侍が欧米諸国を訪問した時、彼らは欧米言語を話さなかったが、その人格の高潔さは彼らの立居振舞から自ずと欧米人に伝わり、彼の地での歓待と敬意に至った。人物ができていてこその語学じゃ。儂は語学教師じゃが、語学と人間のどちらが大切かと問われれば、迷うことなく人間と答えるぞ。

昨今、日本の政治家や高級官僚も英語を話すことが必要だとか言われておるが、人物ができていない者が英語を話せば、愚かさを世界中に露見させるだけぢゃ。ことばとは人が発するものゆえ、人ができておらずば、そのことばはいくら外見を装うとも、力を持たぬ。原発事故に関する日本政府による英語記者会見に、ついに外国人記者が誰も来なくなったことはヌシも知っておるはずぢゃ。

偏:いや、そのエピソードは核心をつきすぎておりまして、文化省はおろか銭金省まで刺激しかねませんから、この業界では語らないことになっております。お手柔らかに。

妖:ふっ、そうしてジャーナリズムまでもが腰抜けぢゃから、儂が『武道英語』を立ち上げたのぢゃ。

偏:わかりました。それではいよいよ『武道英語』についてのお話を伺うことにしましょう。この柔道場が教室となるのですね。

妖:そうぢゃ。ここには西洋式の机も椅子もない。学生は座るときは正座かあぐらぢゃ。いずれにせよ、事あらばすぐに立ち上がることができねばならぬ。そのため腰骨を立て、顎をわずかに引き、眼を涼しうしておらねばならぬ。

正座を何分続けられるかというのは問題ではない。座り姿だけで、その人となりを現せねばならぬ。というより、座り姿、立ち姿、立居振舞こそが人となりなのぢゃ。立居振舞から無駄を省き、本質の身心になることこそが人間修業なのぢゃ。昔日の日本の躾(しつけ) ―身を美しくする営み― こそが修身であり倫理なのぢゃ。オカルト以来の心身二元論で心だけを分離させて、それを修めようとしてもうまくゆくわけはあるまい。

偏:「デカルト」ですよね(この人ボケじゃなくて、天然で間違えるからやっかいだよなぁ)。

妖:だから『武道英語入門』の授業では半年間、この道場で座ることしかせぬ。身体を練り上げるのぢゃ。隙があらば、儂が木刀で叩く。心身を無にし、気を充たし、敵に付け入られぬ身体を作り上げるのぢゃ。

偏:座るだけで英語の授業ですか?評価はどうするのでしょう。

妖:ヌシらは、二言目には評価、評価という。それも近代やスポーツの宿痾ぢゃ。技とは自らの心身で自得するもの。冷暖自知で、他者からの評価、ましてや「標準的」や「制度的」などと称する評価など、学びにとって本質的なものではない。技の自得は自らの心身と師からの木刀でわかるじゃろうが。

偏:そうは言いましても、一応、文化省からのお達しですから。

妖:だから儂も一応、筆記試験はやることにしておる。

偏:えっ、半年間座り続けるだけの授業の試験が筆記ですか?

妖:そうぢゃ。学生は、試験の時間、ただ座り続ける。

偏:解答用紙には何も書かないんですか?

妖:当たり前ぢゃ。心が無になっておるのに、何が書けようか。

偏:それでは学生の間に差が出ないでしょう。それでどうして評価なのですか?

妖:アッハッハ。まさにオリンピック万歳ぢゃのぉ。人々の間に差はある。だが他人との差は己の人生にとっては無意味ぢゃ。己は己の人生に向き合うだけぢゃ。その中で人事を尽くし、天命を待つ。天を敬し人を愛する。それだけのことぢゃ。無意味な評価なぞ、犬にでも喰わしておけ。

偏:まあ、いいことにしましょう。で、『武道英語入門』の次は『武道英語映画』ですね。これは何をやるんですか。

妖:うむ、映画に心身没入することにより、心と身体と英語を一致させるのじゃ。心体言一如の三昧に至ると言えよう。

偏:そんな大げさに言わずとも、ただ映画を見るだけでしょう。

妖:馬鹿者。心体言を一致させる経験無くして、心体言がバラバラのままに英語を勉強するからこそ、いつまでたっても英語が「身につかぬ」のぢゃ。

心ここにあらずで丸暗記しても、それは試験が終わって三日も経てば忘れておるぢゃろう。身体をおろそかにすれば、ぎこちなく傍から見れば滑稽な身体作法でしゃべるに至るだけであろう。英語だけが心身から離れて扱われるから、不要な文法理論ばかりに拘ることになろう。

心体言が一致するとき、ことばが人になり、人がことばになる。そのようなことばでなければ、世界の人々に通じない。映画を何度も見て、映画のことばに没入することにより心体言一如を、まずは映画視聴の中で体験することが『武道英語映画』の目的ぢゃ。

偏:わかりました。で、具体的には何をご覧になるのですか?

妖:『カンフーパンダ』。

偏:えっ、それって子ども向けのアニメでしょ。

妖:愚か者はそうしてすぐに外見だけに囚われてしまう。この映画も続編も、武術をよくわかった上で作られた娯楽作品ぢゃぞ。それにもちろん、英語の勉強にもなる。例えば、ヌシはなぜ今のことを"the present"と言うか知っておるか?

偏:ああ、"Yesterday is History, Tomorrow a Mystery, Today is a Gift, Thats why it's called the Present" っていうやつでしょ。

妖:えっ、知ってたの?

偏:知ってたも何も、これって何かコジャレた言い回しで、常套句といってもいいぐらいですよ。

妖:ふん、そうかも知れぬが、学生はこれを聞いて喜ぶぞ。

偏:まあ、そうでしょうね。

妖:それだけではない。この映画では不定冠詞と定冠詞の違いも学べるぞ。例えば、悪漢にて強者のTai Lungが、主人公のパンダに思いもかけない敗北をくらいながら言う台詞と、それを受けてのパンダPoの台詞ぢゃ。


Tai Lung: You can't defeat me! You... you're just a big... fat... panda! [He throws a weak punch, Po catches his hand by the finger]

Po: I'm not a big fat panda. I'm THE big fat panda.
http://www.imdb.com/title/tt0441773/quotes


偏:なるほど、これはわかりやすい例文かもしれませんね。

妖:それだけではない。これは自分で自分を情けなくしか思えておらなかったパンダのポーの自己肯定の台詞でもある。武術とは自己を見出すことでもあるのぢゃ。その他にも、この映画では師がいかにして師になるかという教師の成長論にもつながるテーマが、シーフー老師の苦難を通じて描かれておる。授業ではこの映画を半年間徹底的に見続けるのぢゃ。

偏:わかりました。もう評価のことは聞かないことにしましょう。で、次の授業は『武道的日英原理体得』ですね。

妖:そう。この授業では、日本語と英語の違いを徹底的に身体に染み込ませる。日英語の違いは、「組み伏せてから失神させる」か「失神させてから組み伏せるか」の違いじゃ。

偏:はぁっ?

妖:まあ、実践してみよう。(二人、柔道場に立つ)。日本語は ―細かい議論を省いての単純化ぢゃが― 典型的には「Aは、B・・・・、Cである/でない」となる。Aとは「懸り」でCが「結び」ぢゃ。日本語は懸りと結びの間に具体的情報を伝えるBが入る。これが構造じゃ。

例えば、「Aは」(と言って偏執者の手を取る)、「B・・・・・」(と言いつつ編集者の身体のバランスを崩しつつ引き回し畳の上に組み伏せる)、そして「Cぢゃ」(と言って、偏執者の身体にトドメの突きを入れる所作をする)。この「懸り・組み伏せ・結び」が日本語の構造ぢゃ。

偏:(服の埃を払いながら)はあ、つまり最初に話題を提示して、それについて具体的に述べて、最後にそれを肯定するか否定するかと結ぶわけですね。

妖:そうぢゃ。それが日本語の発想ぢゃ。まあ、Aから始めて、Bに時間をたぁ~っぷりかけて、Cでトドメをさすというのは、男女の仲でも言えることぢゃがの。ゲヒゲヒゲヒ(卑猥な笑い)。

偏:すみません、品がないですし、俗語が古すぎますよ(助手の女性も冷ややかな目で狂授を見つめる)。

妖:(それにかまわず)で、次は英語ぢゃ。英語は「失神させて組み伏せる」。これを儂は「ワンツー理論」としてまとめておる。

偏:「ワンツー」ってボクシングの連続パンチのことですか?

妖:そう。英語はワンツーパンチのように連続して、主要要素を述べることを特徴とする。主要要素とは、言うまでもなくS(主語)とV(動詞)ぢゃ。英語では「SV!」(と言いつつワンツーパンチの所作をする)と、まず主語と動詞を先に述べる。英語ではまずこれで相手を失神させるのぢゃ。

日本人が日本語発想に引きずられたままじゃと、Sを述べた後、長々と述べてからようやく文末になってVを述べる。これは他の英語話者にはわかりにくい英文なのぢゃ。だから日本人は、英語においてまずはSVのワンツーパンチを打つことを徹底的に身体に叩き込まねばならぬ。ほれ、お前さんら二人もやってみなさい。

「SV!」「SV!」(偏執者と助手の二人、掛け声と共にワンツーパンチの所作を繰り返す)。

SV構文とは、ワンツーパンチで相手を失神させておいて、あとは組み伏せて具体を述べるものぢゃ。ほれ、当てぬから安心しておきなさい。

"I live!"(といって偏執者にワンツーパンチを向ける。偏執者、のけぞりバランスを崩す。そこで狂授、偏執者の身体を引き回し畳の上に組み伏せて)"in Hiroshima."(と言ってトドメを刺す所作をする)。

偏:(立ち上がりながら)つまり文の動作主と動作(および動作の肯定・否定)を素早く述べてから、具体を語るという構造ですね。

妖:そうぢゃ。これは米国人自身も自覚しておることぢゃ

そしてSVCとSVOはワンツー・ストレート(「SVC!」「SVO!」と叫びつつ3連打を2回)、

SVOOはワンツー・ジャブ・ストレート( 「SVOO!」 と叫びつつ 4連打)、

SVOCはワンツー・フック・フック( 「SVOC!」 と叫びつつ 4連打。 最後の2つのパンチは身体をひねらせての連打)、なのぢゃ。ハァハァ。

偏:先生、息上がってますよ。

妖:そう、これは武術の身体操法と違い、無駄な動きが多いから、疲れる。ハァハァ。というわけで学生は、この「懸り・組み伏せ・結び」系の動きと、ハァハァ、ワンツー系の動きを半年間徹底的に繰り返す(助手に:ねぇ、オネエちゃんの飲んでるペットボトルの水飲ませてくんない?ダメ?)。最後には、ハァハァ、儂の掛け声と共に瞬時に身体が動くようになる。

偏:おそらく、「英語の前に身体を作れ!」とか言うことで、英語をまだやらなくても、立派な英語の授業だとかおっしゃいたいんでしょう?

妖:ほう、お前も少しはわかるように、ハァハァ、なってきたか。

偏:(やれやれ)で、次の授業の、何でしたっけ・・・『先の先(せんのせん)、後の先(ごのせん)、対の先(たいのせん)』ですか、これでようやく本格的な武道英語となるわけですね。

妖:(ようやく息が整いつつ)そうぢゃ。

偏:でもこの「先の先、後の先、対の先」って何ですか?

妖:うむ、宮本武蔵は「懸(けん)の先、待(たい)の先、躰々(たいたい)の先」と言っておるが、要は兵法・武術においての最重要は、先(せん)を取る、つまり機先を制するということぢゃ。「先の先」とは、相手が機先を制しようとする、その先を取るということぢゃ。

偏:はぁ。

妖:わからぬようじゃの。それでは、ヌシ、何か儂に向かって英語を話してみるがよい。

偏:えっ、私が先生に英語で話しかけるんですか。そんな突然だなぁ。えーっと・・・

妖:(大声で)FINE THANK YOU, AND YOU!?

偏:あぁ、びっくりした。いきなり大声で怒鳴らないでくださいよ。びっくりしたなぁ。

妖:ハッハッハ、これが先の先ぢゃ。ヌシが儂に英語で話しかけようとする先(せん)の先(せん)を儂が取ったものぢゃから、ヌシは何が起こったか一瞬わからず儂の英語に対応できなかったのぢゃ。この先の先を取ると、どんなネイティブもヌシのように目を白黒させてことばを失うぞ。これこそ「小よく大を制す」武道英語ぢゃ。

偏:(さすがに怒って)ちょっと待ってくださいよ。何が「先の先」「武道英語」ですか、そりゃ、いきなり大声出されればネイティブだろうが誰だろうがびっくりしますよ。でもこれって、完璧に子供だましじゃないですか?こんなことを教えるのが英語教育って言いたいんですか?何が近代批判ですか。だいたい、先生は・・・(数分間怒りに任せてしゃべり倒す) ちょっと、先生、聞いているんですか?

妖:ノォ。

偏:はぁっ?

妖:ノォ。アイ・ワズ・ノット・リスニング・ツー・ユー・アット・オール。

偏:えっ?聞いてなかった?

妖:アイム・ソーリー、ヒゲ・ソーリー、プライム・ミニスタ・ノダ・ソーリー。

偏:(がっくり肩を落として)もうなんなんだ、この人。

妖:ハッハッハ、これが後の先ぢゃ。つまりヌシにわざと攻撃させる。しかし儂はヌシの攻撃を読みきった上での先を取っておるのぢゃ。どうぢゃ、儂にもう英語で反論する気がなくなったぢゃろう。これこそ日本人が英語母語話者に英語の議論で勝つ方法ぢゃ。

偏:あー、もう嫌だ、嫌だ、こんな取材もう嫌だ。だいたい去年の取材で懲りたはずなのに、なんで今年も取材に来ちゃったんだ。

妖:エー・ビー・シー・ディー・イー・エフ・ジー

偏:なんでこんな人が大学の先生なんだ。

妖:エイチ・アイ・ジェィ・ケー・ムニャムニャムニャ~

偏:ちょっと、なに、一人で歌ってるんですか!

妖:ふっ、これが「対の先」ぢゃ。相手と技を出しあいながらも、常に儂が機先を制しておる。ぢゃからヌシはことばを発しながらも、すべてが無力化されておるのぢゃ。武道の術理を思い知ったか。

偏:もう、センセ、こんな茶番止めましょうよ。先生は、本当は武道だけでなく、英語教育でも、偽物なんでしょ?

妖:ハッハッハ、そう思いたければ思うがよい、これこそ武術の奥義の忍術じゃ。ヌシは、儂の凄さがわからぬと言うが、儂から言えば、ヌシはわかろうとしていないだけぢゃ。ヌシの常識の枠から一歩も出ようとせずに、儂を理解しようとしておる。それでは常識を超えた儂の奥深さをわかることはできない。

偏:はぁ、先生が常識はずれということだけはよくわかりましたけどね。

妖:「わからぬ」と思うところを一歩踏み込むのぢゃ。それが学問ぢゃ。そしてこれは剣術でも同じ。「怖い」「できぬ」と思うところを、一歩踏み込めば、そこに極楽があるのぢゃ。ヌシはこんな道歌を知らぬか。


斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 

臍下三寸そこは極楽


偏:・・・って、ちょっと待ってくださいよ。それは「斬り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ 一足ふみこめそこは極楽」でしょ。先生の「臍下三寸そこは極楽」じゃ、春歌になっちゃう。

妖:(本気でわからず)えっ、そうなの?ボク、間違って覚えてた?変な意味になっちゃうの?

(狂授、女性助手を見つめる。女性助手もはじめはわからぬ顔をしていたが、やがて意味を解したのか一気に赤面する)。えっ、どういうことなの。ねぇ、オネエちゃん、「臍下三寸」って何?

助手:バカーッ!(狂授を張り倒す)。偏執長、もう帰りましょう!(助手と偏執者、柔道場から去ろうとする)。

妖:えーっ、帰っちゃうの?ねぇ、ボク、なんか変なこと言った?悪いことしたの?ねぇ、待って~。アイム・ソーリー、ヒゲ・ソーリ~。プライム・ミニスター・ノダ・ソーリ~・・・ (幕)






2012/04/01