2012年3月2日金曜日

3/4京都講演:「英語教師の成長と『声』」の投影資料と配布資料




このたび「生き方が見えてくる高校英語授業改革プロジェクト (代表者 : 三浦 孝 (静岡大学教育学部))」のお招きで、「英語教師の成長と『声』」という演題で講演をさせていただくことになりました。ツイッターなどでは告知しておりましたが、日時は3月4日(日) 10:00-15:30で、場所はキャンパスプラザ京都4F第4講義室です(詳細はこちら)。機会を与えてくださったことに感謝します。

今回は、英語教師が生徒を成長させ同時に自らも成長するということを、「声」という観点から、90分の時間をいただけたこともあって早口にならずに(笑)お話したく思います。敬愛する三浦孝先生 ―2008年の全国英語教育学界問題別討論会は大変勉強になりました― が代表をなさり、注目すべき若手研究者である亘理陽一さんが代表をする科研も絡んだ(注)企画なので、できるだけきちんとした発表にしなくてはと思っています。

主に、神経科学のAntonio Damasio (関連記事1関連記事2関連記事3)、野口体操の野口三千三(関連記事1関連記事2)、演劇家の竹内敏晴(関連記事は後日書く予定です)の三者を論拠としながら考察を進めてゆきます。野口三千三と竹内敏晴の論考を引用するだけでもよかったのですが、実践家に根本的な疑いをもっている「研究者」などは、それだけですとすぐに「根拠のない主観ですよね」などと冷たく切り捨てますので、これら二人の実践家の直感的(というより身体的)洞察は、神経科学的にも非常に妥当なことを言っていることを示すために最初にDamasioを引用することにしました。


当日の投影資料と配布資料をここからダウンロードできるようにしておきましたので、ご興味のある方はダウンロードしてください。




当日の講演録音も、下記から聞けるようにしました。




配布資料は概ね、以下のとおりです。




英語教師の成長と「声」



柳瀬陽介 (広島大学)



1 はじめに

・「田尻科研」:田尻先生のからだの使い方、庭師メタファー、「その人になる」

・「ナラティブ科研」:声のpower多様な声の重要性

・日常観察から:考えない・感じない・身につけることができない。担任の違いで成績に大きな差。教師と生徒はどのような「質」の声を発しているのか? 感覚の疎外と数字の跋扈 → 本格的質的研究を!(質的研究に関する私的ブックガイド

・二つの問い:(1)教師と生徒は、日本語を「自分のからだからの声」として発しているか; (2)教師と生徒は、英語を自分の「身につけて」いるか

・仮説:知性は身体的; 言語はからだの営み; 授業のことばがからだに響いていない

2 ダマシオの神経科学

・古典的ロボット観(=近代的身体観)と、生物学のオートポイエーシス

・意識は、非意識の身体が、身体状態の重要な変化を自らに知らせる過程である。

・身体的言語観:言語は、身体状態の変化の「翻訳」である。←→記号的言語観



意識

自己

身心

位数

非意識

原自己

情動、情動の感情

第一次の神経パターン

中核意識

中核自己

意識化された感情

第二次の意識パターン

拡張意識

自伝的自己

言語化された意識

第三次の言語パターン

※拡張意識・自伝的自己は言語を使用する場合が多いので、表のような表現としたが、ダマシオは言語なしの拡張意識・自伝的自己を認めていることには注意。

3 野口三千三の身体論・言語論

・感覚といえばすぐに外的な五感を想起するが、むしろ感覚の本質は身体内部の感覚である。

・「こころ」にとっては、非意識こそが本来的であり、意識は必要に応じて非意識が出現させるものにすぎない。

・ことば・声は、からだの中身の変化である。

・その生命にとって重要なからだの変化が情報である。情報は主観的(生命的)である。
・からだの動きは、ことばにつける付録ではない。

・習いはじめの外国語は、からだの動きと分断されている(身についていない)

・ことばを使う時、原初的なからだの動きを大切にし、かつ選ばれなかったことばの余韻も大切にしなければならない。


4 竹内敏晴の言語論・教育論

・生徒の声はしばしば単調で無機的な音に過ぎず、宙に散っていくだけである。

・生徒のからだはぐったりしたものが多いが、それは教師のからだに対応したものかもしれない。

・生徒に届く声をもてず、喉を痛めたり、ドラ声やカン高い声でしかしゃべれなくなったりする教師も少なくない。

・仮にビジネスでは声も感情も切り捨てた声でよいにせよ(私は疑うが)、教育の声はどうあるべきなのか。

・教師は生徒をしばしば分析と操作の対象とみなし、問題解決手段を執行することを教育とみなす。

・若い教師には、上から言われたことをなすだけになり、主体性を失った身心になる者もいる。

・しかし教えるとは、一人ひとりの生徒の身心を理解し、その身心が新たになる学びの瞬間を共有することである。

・教える教師は、同時に生徒に教えられる。主客分離の近代的発想は、二者がそれぞれに主体でも他者でもある、教える/学ぶ体験で克服される。

・日頃生徒を抑圧しておいて、教師が望む時だけ生徒に表現させようとするのは無理なことである。

・話しことばは、からだの動きの一部であり、その動きは他者への働きかけである。

・しかし原初的なからだのことばは、しばしば社会からはね返される。

・とはいえ、社会に通用する制度的言語は、なかなか生徒の身につかない。

・制度的言語に命を吹き込むのは、原初的なからだのことばの働きかけである。

・からだのことばと制度的言語の相克を引き受けるのが(近代的)人間になる道である。
・ことばは、からだから出て、からだに対峙し、からだに問いかける。

・ことばを使う時の、からだの違和感を忘れた時にことばの疎外が始まる。

・からだとことばを分けた朗読の練習というのはありえない。

・思わずからだが動き、気づいたらその動きが仲間と共有されたという自由を、教師は何より自分自身で得る必要がある。

・教師は教師だけではなかなか変われない。だが、(教師からすれば)他者としての生徒に、(生徒からすれば)他者の教師である自分を、まっすぐに差し出すことにより、変化が生じる ―生徒のからだが生きていれば―。



(注)今回のプロジェクトは、

平成23年度科学研究費助成事業 (学術研究助成基金助成金 (基盤研究 (C)))
・研究課題「知的・創造的英語コミュニケーション能力を伸ばす進学高校英語授業改革モデルの開発」 (課題番号23531265、研究代表者・亘理陽一)
・研究課題「第二言語教育に特化した教師ナラティブ研究の理論的・実証的展開」 (課題番号21520577、研究代表者・柳瀬陽介)

が共催をしております。






追記

気がついてみたら、結論部分で引用するはずだった竹内敏晴の言葉を、投影資料にも配布資料にも入れていなかったので、ここに追記します。

「今こそ教育者ということの意味が、明治以後はじめて根底的に問われているのだと言ってもよい」などということばは、下手をすれば安っぽい常套句ですが、竹内氏の著作を読んだ上で彼の言葉として読むと、ずしりと響いてきます。

また、このことばはおそらく1990年代末に書かれたものでしょうが、2011年の3.11を経験した今読むと、一層、重みが出てきます。日本は、富国強兵で明治期に植民地化は逃れたかもしれないけれど、戦前民主主義の暴走により国内外の多くの生命を失い、国土の多くを焼け野原にしてしまいました。

戦後民主主義は経済発展重視で、「過労死」という言葉までも生み出しバブルまでも経験しましたが、バブルの幻想が弾けると、社会階層や世代間の格差が顕になってきました。

特に若い世代は、今や多くが非正規雇用で働かねばならず、正規雇用された若者もうつ病などの病に苦しむ人も少なからずいます。先日は、日本の自殺者が14年連続で3万人を超えたニュースが報道されました。東日本大震災の死者数を超える人びとが毎年自ら死を選んでいるわけです。

また科学技術の頂点のように思われていた原子力発電も、実は権益のためのごまかしに満ちたものであり、多くの科学者や技術者が述べていた程には安全なものでないことも顕になりました。

近代の世界においては、軍事力・経済力・科学技術力の追求は必要です。それらを増大させることが近代の課題でした。しかしそれらの飽くなき追求が、必ずしも幸福を意味しないことを私たちは悟り始めました。軍事力・経済力・科学技術力などの影の部分もずいぶん顕になりました。

いや、既得権益に首までつかった大人は、そんな近代批判を拒むかもしれません。そして近代を転覆させてしまったり完全否定したりすることができない以上、そのような大人の保守的態度にも一理はあるでしょう。

しかし自らの生命とからだに敏感な子どもは、理屈でなく自らの生命とからだをもって近代を批判します。

教師とは、そんな子どもに日々接することで、近代的な自分を問い直されつつ、近代(あるいはポスト近代)のあり方を、次世代を担う子どもと共に探究する存在です。教師は、子どもと共に「今」を生きながら、過去を学び、未来を築きます。教師として子ども・生徒・学生とともに、からだで感じ、からだで考えて、ことばを紡ぎ出してゆきたいと思います。



この絶望に抗い、反乱したからだを内的な調和にまで持ち来たし、「人間になる」仕事を粘り強く手助けしようとしている教員たちが各地にいることも、多少は私も知っている。かれらは、その意味では、この、からだの荒野であるところの日本の教育界に、いわば魂の泉をひらく先駆者たちであるといえるだろう。今こそ教育者ということの意味が、明治以後はじめて根底的に問われているのだと言ってもよい。かれらだけではない。いのちを育て、癒えを助ける人びと -- そこには文字文化の表に出ない生活の根っこに、「からだ」から「からだ」へと脈々と生きつづけるからだと話しことばの文化がある。私は及ばずながらかれらに学び、共に働きたい。課題はいよいよ重く深く広い。(竹内 1999, 24)



ちなみにこの竹内氏の言葉は、ちくま学芸文庫として1999年に出版された『教師のためのからだとことば考』からのものです。

竹内氏の著書としては、『ことばが劈(ひら)かれるとき』が圧倒的に有名ですし、また実際、素晴らしい本ですが、教師がまず一冊だけ竹内氏の著作を読むとすれば、私はやはり『教師のためのからだとことば考』がいいのではないかと思います。










2012年2月24日金曜日

飼い犬に芸を教えるように、私たちは自分のからだに新しい動きを教える






■和田玲先生からのお返事


前回の記事をきっかけに敬愛する先生にメールを出して、その先生からいただいたお返事は前回の記事末尾に掲載した通りですが、実はもう一人の敬愛する先生である和田玲先生(参考記事:その1その2)にもひさしぶりにもメールを出しました。その和田先生からもお返事をいただけました。この文章も私だけで読むにはもったいないので、ここに先生の許可を得た上で転載します。



「動き」というものは、生得的なものではないから、きちんと訓練し、その動きに習熟しなければなりません。このあたりは、理屈を理解(Input)し、しっかり習熟(Intake)するという英語教育の流れと変わらないものですよね。

別の例で言えば、僕らがテコンドーの試合に出る前には、対戦相手の動きや癖を知って、こちらがどのような場面を生みだし(僕はよく「ストーリー展開」と言う言い方をしています)、そこでどのような「動き」をしたら、相手を仕留められるかを理解し、その体系を体に覚え込ませる訳です。が、その時点では「意識」が主なんですね。まだ「練習」ですから。

しかし、それを何度も何度も繰り返し「習熟」度を深めていくと、やがて体はある場面に対して反射的に動き出すものです(Output)。意識を体が上回るような感覚にさえなります。

ちなみに僕が自分のコンディションを測る時には、「意識」がとらえる瞬間スピードと「体」が勝手に動きだす瞬間スピードのどちらが早いかで認識していました。格闘家には皆、そんなところがあるのではないでしょうか?調子が悪いときには「意識」が先行し、体がそれに遅れてついてくる感覚です。あるいは意識も体も同時にある対象をとらえながらも、体が求める速度でついてきてくれなかったりするわけです。そういう場合には、相手に打撃を加えることはできず、逆にカウンターを受けやすくなり、こちらが窮地に立たされたりしまいます。

全国大会・準決勝以上のレベルでは、「意識」と「動き」のコンディションは皆、相当高いレベルで整えてきているものなので、次は相手をひっかける「思考」の上下で勝負は決まります(思考のプロセスは、「①観察→②分析→③原則を導く抽象作業→④戦略」という感じです。デカルトみたいですが、これがない選手は絶対にチャンピオンにはなれません。一流の選手達は、この思考作業の鋭さを「センス」と呼びます。僕と同年のある選手は169センチの小柄な体系であったにもかかわらず、このセンスの鋭さでライト・ミドル・ヘビーの三階級を制覇してしまいました。この点は、優れた画家や音楽家や小説家、そして教育家も同じだろうと思います)。

結局、教育実践、とりわけテンポの良い、優れた授業実践者というのは、この「観察・分析・総合」というデカルト的思考を持っていて、そこから導かれた戦略(授業プランにあたるものでしょうか?)を体に覚え込ませていきます(リハーサルor経験値によって)。したがって、授業者が意識を越えた領域で勝負できないようでは、結局、あまり良い成果をあげることはできないということを僕は教壇に立つようになってから、すごくよくわかりました。先生方は概してこういったことをあまり意識されていないようにも思えます。

公開(実験)授業に臨むやけに緊張している先生方や研究授業前の教育実習生などは、そのための習熟作業ができていない時点で、「予選敗退」という所なのではないかと僕はいつも思っています(習熟作業が済んでいる実践家は、通常「緊張」などしません。むしろ自分がイメージした通りにストーリーを展開していくだけなのですから)。実践に習熟している授業者には、迷う間もなく、勝手に(=「自然の力に任せて」)教室内に必要な指示やインストラクションを投げかけていくものなのではないかと思います。

教育実践にもこの「習熟作業」がとても大切なのだということを示唆する意味で、僕は先日の柳瀬先生のブログはとても意義深いものだと感じました。あとは、体育会系的な比喩が言語教育の実践をきちんと説明し得ていることを、読者や学生さんたちがどの程度「実感」をもって理解できるかにかかっていますね。こういうところが、案外難しいものなんですよね(笑)。




■私なりの論点整理

蛇足的に、私なりに上の文章のポイントをまとめるとしたら次のようになりますでしょうか。



(1) 新しい動きをからだに教える時には、私たちは意識を使う。

(2) しかし習熟すれば、からだの始動(非自覚的な状況認識と運動開始)の方が、意識の始動(自覚的な状況認知と自由意志の発動)より早くなる(=気がついた時にはからだの方が動いている)。

(3) 熟達者は皆、意識よりもからだの方が先に動くようになっているので、熟達者同士で勝負をする際には、からだのレベルではなく、観察・分析・思考による戦略のレベルで勝敗が決ることが多い。

(4) 授業においても優れた教師は、教育的技術(「技」)においても意識よりもからだの方が先に動くまで習熟をなし、かつ、これまでの観察・分析・思考から、戦略(「授業プラン」)をもって授業に立っている。

(5) 熟達教師は、たいていの行動を、意識する以前に開始させている(=「意識を越えた領域で勝負」できている)。だがその一方で、大局的な授業プランは忘れていない。意識は、細々とした行動のコントロールのために常時使われるのではなく、大局観の整理・検討のために時折使われるだけである。

(6) 初心者教師は、往々にしてからだの「習熟」が不十分なまま、頭の中の意識的な「授業プラン」だけで勝負しようとするが、実際は細々とした教育技術の執行に意識を取られてしまい、やがては大局観を失い、失敗する。教育実践でも教育的技術の「習熟作業」が重要である。

(7) 熟達者とは、多くの行動を、意識を使わずに、からだにいわば自律的に動いてもらって行う。熟達者は、意識をせいぜい時折思考レベルの大局観の整理・検討に使うぐらいであり、ほとんどの行動を、ただ端的に行なっている。





■意識とからだの間接的な関係

授業論として大切なポイントは何より(5)と(6)ですが、私としては(2)について注目したいと思います(この(2)について、私が和田先生の意図を誤解しているのでなければいいのですが)。

よく「自動化」などの習熟は、意識的に行なっていたことを、意識しなくても(=無意識に)できるようになることだ、などと言います。

しかし、この時に注意しておきたいのは、習熟させる新しい動きは、意識による教示に促されて学ばれるとはいうものの、「意識による教示」は「からだが覚える動き」と質の異なるもの、あるいはカテゴリーを異にするものだということです。

前回の記事でも意識とからだの関係を、「象使いの少年と象」や「飼い主と犬」にたとえる神経科学や神経倫理学の考え方を紹介しましたが、意識がからだに新しい動きを教えるのは、象使いの少年が象に新しい動きを教えるようなもの、あるいは飼い主が犬に新しい芸を教えるようなもので、象使い・飼い主の人間言語と、象・犬の言語(というより思考回路・神経回路)は異なると私は考えます。

象や犬は、象使いや飼い主の教示意図をある程度は理解できるのでしょうが、象使いや飼い主の人間言語をそのまま自分の身体に適用して新しい動きを覚えるわけではありません。象・犬は、不可解な人間の言語の意図をぼんやりと理解し、象・犬なりに新しい動きを試しては新たに象使い・飼い主からのフィードバック(例「よし、それでいい」という褒美や、「違う」という罰など ―ちなみに、褒美や罰などの身体的フィードバックは、人間言語と違って象や犬にもよくわかる原始的レベルのものです―)を得て新しい動きを自得・体得するとは言えませんでしょうか。

この関係は、実は意識と(自分の)からだの間にも成立しているのではないか、というのが私の論点です。意識はそれなりに自分のからだを思う通りに動かそうと指示を与えます(指示を明瞭なものにするために指示はしばしば言語化されます)。しかし、新しい動きを成立させるのは、その意識のことばではなく、あくまでもからだの動きです。

意識のことば(=自分自身への指令)とからだの動きは、もちろん関係しています。ですが、思うようにからだが動かない例からよくわかるように、意識と身体は直結していません(直結しているように思えるのは、習熟した動きの場合です。しかしその場合は意識よりもむしろからだの方が先に動くのは上で確認した通りです)。

意識は、あたかも象使いや飼い主が、象や犬に辛抱強く新しい動きを教えるように、短気を起こさずに、身体が身体自身の能力で意識が意図したように動いてくれるようになるのを待つ、あるいはそのように動くように環境を整備してやる、ことぐらいしかできないと考えるべきなのではないでしょうか。意識とからだは関連しているしつながっているが、直結していない ― 意識のことばを身体はうまく理解できないし、身体のことばを意識はぼんやりとしか理解できない ― と考えておいた方が何かとうまく説明ができるのではないか、というのが私の考えですし、anomalous monismについてきちんと理解しておきたいと思う所以です。

私の初歩レベルの武術稽古にしても、今は「まずは右足を出して」などと意識で動きを確認しながら新しい技を繰り返し練習していますが、おそらく私のからだは「まずは右足を出して」といった意識のことばを理解しているのではなく、意識のことばとは別種類の、いわば神経回路言語を理解しているのではないかと思います。つまり私の意識が「まずは右足を出して」などと言っている間に、私のからだは自然とその時の私と相手の身体構造の関係からして、重力の流れを断たない最小抵抗の動きを感知しそれを学習しているのではないかと思います。意識のことばと、からだのことばは違うというのがここの(比喩的)論点です。さもなければ、思わぬ時に意識も間に合わない瞬時にからだの方が勝手に動いて、最適の動きをできるようにはなりません。再度たとえを使いますなら、飼い主は飼い主の思考と言語で話し、犬は犬の思考と言語で自己理解しているとでも言えましょうか。


■自動化で意識がなくなるのではない

上で自動化を「意識的に行なっていたことを、意識しなくても(=無意識に)できるようになること」と簡単に定義しましたが、これまでの議論からすると、「意識的に行なっていたこと」とは<からだへの間接的な指示>であり、「意識しなくても(=無意識に)できるようになること」とは<からだが自分でできるようになったこと>となります。後者が達成されると、<からだへの間接的な指示>という前者の意識の働きは不要になりますが、このことは意識の働きが消える・消えなくてはならないことを必ずしも意味するわけではありません。意識は、おそらくは本来の仕事であるはずの、思考レベルで明らかになった大局観と現状が齟齬をきたしていないかをチェックする高次レベルのことのために使われるはずです。

読者の皆さんの中には、「何をそんなに細かなことを議論しているのだ」と思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、私は、意識の働きとからだの働きをきちんと理解していないと、技能習得において意識を過剰あるいは過少に働かせたり、からだを過少あるいは過剰に働かせたりという、理に合わないことをしてしまうのではないかと考えていますので、このような考察をとりあえずはブログを使って行なっています。

意識とからだの関係を考える際には、武術でもスポーツでも、音楽でも芸術でも、とにかく心と身体をまるごとに使っている経験があると、その経験を基盤に考えることができますので、便利です。和田先生もメールの最後に「あとは、体育会系的な比喩が言語教育の実践をきちんと説明し得ていることを、読者や学生さんたちがどの程度「実感」をもって理解できるかにかかっていますね。こういうところが、案外難しいものなんですよね(笑)」と書いていらっしゃいますが、このような説明は、(大げさに言うなら)心身一如(あるいは心身一如を目指したこと)の経験がある人にはすぐわかるし、そんな経験などまったくない頭でっかちで、無味乾燥の記号操作が知性だと信じているような方には、まるで何を言っているのかわからないものなのかもしれません。この意味で、私は子ども時代に、子どもが強いられてではなくて、自発的に何かに熱中することの重要性を強く感じますが、それはまた別稿で。



追記

私は約20年前、英語教育の世界で哲学(ウィトゲンシュタイン)の話をし始めた当初、ずいぶん冷たい扱いを受けました(世間には「私はそんなことわからない」と誇らしげに語り、その理解できない事を話す人間を悪し様に言い、さらには冷たい仕打ちをする方もいらっしゃるものだということをその時に学び、今日に至っています)。

現在では「英語教育にも哲学は必要ですね」と言い始める方は何人か出現しましたが、身体論についてはそのような方はまだ数える程です。私の被害妄想でなければいいのですが、こういった身体論もしばらくはそのような扱いを受けるでしょう。しかし、広い世間にはきっとわかってくださる方がいらっしゃいますから、私はそういった一握りの方々のために文章を書きます(そして自分の錯誤を正してゆきます)。「身体論などわからない」と豪語される方、具体的な疑問や反論はお受けします。しかし具体的な論点が一切わからないのなら、せめて邪魔だけはしないでください。







追追記

「意識とからだは別のことばをしゃべっている」ことに関して別の例をあげますなら、私が大学1年生の時に、英語のRの音を訓練したときのことを思い出します。意識の方では発音教本に基づき「日本語の時のように、舌で上顎を弾かないようにして、舌を巻いて上顎に接触させないままに息を出す」などということばをしゃべっておりましたが、その通りに口舌をなかなか動かせない(私は少なくとも数ヶ月ぐらいしないとこのように口舌を動かすことができませんでした)からだのことばは、(意識のことばからすれば)「うーぁーぉー」ぐらいにしか聞こえない新しい身体感覚(身体マップ)の獲得への試みでした。私の意識は「舌を巻いて上顎に・・・」などと語りつつつ、私のからだは「うーぁーぉー」などと語っていたように思います。





受験対策より、何か熱中できることの方が大切




私の新しいゼミ生には、演劇経験のある者や、これまでずっと剣道に打ち込んできた者、はては自称「ギターバカ」などがいますが(笑)、技能習得については、彼・彼女らにはそれぞれの経験を引き合いに出して説明をするとすぐに納得してもらえるので助かります。

「ギターバカ」の学生さんは、実はある私立進学校の出身なのですが、その学校では教室に「目指せ偏差値70以上」と大書されたポスターが掲げられ、志望校に特化した受験指導がなされ、勉強について自分で考える必要はまったくといっていいほどなかったそうです。私のゼミ生は、そんな学校に行きながらも、時間はできるだけギターに使い、受験勉強には必要最小限の時間しか使わなかったそうです。

その結果、歩いていてもギター演奏のことについて考えているような自称「ギターバカ」になったそうですが、私は彼にギターがあって本当によかったと思っています。もし彼にギターのように自分の感性と思考のすべてを捧げられるような対象がなかったら、彼は受験には合格するものの、自分で感じることも考えることもできない「単に広大に来ただけのバカ」になっていたのではないかと恐れるからです(「バカ」「バカ」と乱暴な言葉を多用してごめんなさい。しかし少なくとも彼と私の間では信頼関係ができていますので、この言葉を使っています)。

彼(および他のゼミ生)は、それぞれの心身没入経験がありますから、それを基盤に感じて考えることができます。ですから、これから読書と執筆の経験を積み重ねてゆけば、学術的にも成長できるものと思います。ですが、もし学生さんが、これまで「砂を噛むような思い」あるいは「紙を食べるような思い」をして我慢しながら丸暗記を繰り返し、自分の感性を殺し、思考力を根絶やしにしていた結果、現在の大学に来たのでしたら、基盤となるべき自らの心身が育っていないのですから、言葉を振り回すだけのような文章を書くだけに終わるかもしれないと私は怖れます。

世間の多くの人は大学合格を、とりあえずの教育のゴールと考えますが、大学で教鞭を取る私からすれば、大学合格は単なる通過点に過ぎず、要はどれだけのことが「身についている・身につけることができるか」だと痛感しています。

身についていない丸暗記の学力では、対応力が育ちません。丸暗記だけの学生さんは、まさに頭でっかちで、身体的感性が育っていません。身体的感性が育っていないから、知的感性が乏しく、心の底からの内発的な学習意欲がありません。だから大学での勉強も、まさに「勉め強いる」ものとなり、単位を取るだけのためにできるだけ要領よく短時間で済ませ、後にはさっぱり何も残らないものになります(あるいは人に褒められたいがためという外発的動機づけでしか勉強しません)。ですから生きるための力はほとんど育っていないのですが、自分自身では学校で好成績をとったのだから優秀なはずだというプライドがあるため、余計にその落差に苦しんだりしかねません。

と、ずいぶん勝手なことを言いましたが、私の率直な意見を言いますなら、大学に来るまでは、できるだけ自分の心身のすべてを捧げて熱中するような経験を優先し、しかしそれだけでは世間的に通用しにくいから最低限の勉強と受験対策をしてもらった方が、後々伸びると思います。逆に、受験対策を最大化し、自分の心身で感じることも考える事も抑圧したままに大学に来ると、たとえ大学はこれまでの要領で卒業することができたとしても、その後の人生で何かと苦労するのではないでしょうか。

日本が人口増に伴い右肩上がりで安定的に経済成長していた頃は、「大学に合格さえすれば」人生の(経済的)成功は約束されたように思われてきたかもしれませんが、日本が人口減に向かい、さらにグローバルな資本主義競争にさらされている昨今「大学に合格さえすれば」と、若い人の心身をすり減らすような受験対策ばかりすることは実は非常に危険なことではないかと私は危惧します。






追記

そういえば、私は動画紹介サイトで、過去にこう書いていました。


私からすれば、体育・音楽・芸術・技術家庭などこそが、学校教育の基盤科目であり、その上に国語と算数(数学)の基礎科目があり、さらにその延長として社会・理科・英語といった発展科目があると考えるべきだと思います。この世界の中の身体を基盤とした直観知の発達を抜きに、ペーパーテストの点数だけ上げても、そんな「エリート」は現実世界で役に立たない(時に現実世界の障害になる)からです。
http://greatpresentationvideos.blogspot.com/2011/10/rsa-animate-divided-brain.html


からだをまるごと使った経験がますます少なくなり、塾ではどうしても即効的なテスト得点向上が目指されるだけに、体育・音楽・芸術・技術家庭などのからだと心をまるごと育てる科目がどんどん重要になってくると思います。昨今の「教育改革」は、まるで逆のベクトルをもっているようですが。