2010年1月8日金曜日

イデオロギーあるいは時代精神として考え直す「教育改革」

平成19-21年度大学院教育改革支援プログラム「Ed.D型大学院プログラムの開発と実践」主催国際シンポジウム「 先生の先生 」 になる ― 教職課程担当教員の組織的養成をめざして― (Becoming a Teacher for Teachers : Toward a Systematic Preparation for Teacher Education Faculty)に参加しました。

特に面白かったのが

アイヴァー・グッドソン 教授 ( ブライトン大学 )
Ivor Goodson ( University of Brighton )
“ Becoming a Teacher: Comparative Studiers in Western Countries of Teacher Education ”

でした。

ここではその感想を書いておきます。

グッドソン先生が強調したのは、彼が"Paradox of Performativity"と呼ぶ現象です。

England, Finland, Greece, Ireland, Portugal, Spain, Swedenの7カ国を比較研究した結果わかったことの一つは、教育改革 (restructuring of teaching) に政府がもっとも力を注いで教師の生産性を高めようとした国ほど、優秀な教員が離職しているということでした。また、教員が政府の教育改革方針をもっとも遵守した (compliant) 国であるイングランドは、PISA調査では西欧諸国では最低のレベルに位置し、政府が教育改革を押し付けるのではなく教員の判断を尊重し、ある意味、改革運動にもっとも逆らっていた (resistant) 国であるフィンランドがPISA調査では最高レベルに位置していたということです。

教師を追い込めば追い込むほど、教師の実践が悪くなっているというのがこのパラドックスです。

私がここで質問をしたのは、「なぜこれだけ自明な結果があるにもかかわらず、日本人も含めた多くの人が『教育改革』に引きつけられるのだろう」ということでした。

グッドソン先生の答えは、第一にまずこのパラドクスの現象を知っている人がそれほど多くはないのではないのかというものでした。しかし、その後の他の人も含めたやり取りで明らかになっていったことは、英国のような国では教師と市民・政治家の間の信頼がかなり失われているが、フィンランドなどの国では信頼が保たれているということでした。

私なりに敷衍しますと、教師と市民・政治家の間に信頼が保たれている場合は、教師の経験的な判断を市民・政治家が尊重し教師が実践家としての感覚を大切にした教育ができます。しかし信頼が失われた場合は、市民・政治家はその時代のしばしば独断的な考え (イデオロギーあるいはZeitgeist: 時代精神) を教師に押し付けると説明できないでしょうか。教育改革は、現代のイデオロギーあるいは時代精神に支配されたものだということが私の見立てです。

イデオロギーや時代精神は、その社会の支配的言説であり深い前提となっていますから、それに適うことは正しく、適わないことは誤りであると衆目は一致し、そのイデオロギー・時代精神自体を反省するとか問いただすということは通常なされません。



この意味で私がここ10年以上懸念しているのが、まずはカタカナ語として導入され続いて日本語に急速に取り込まれた概念です。例としてrestructuring, accountability, complianceがあります。

Restructuringはもともと90年代の経営学用語で、この言葉は「リストラクチャリング」というカタカナ語で日本に導入され、最初は「根本的な事業構造の改変」を意味していました。ですが、やがて「リストラ」と日本語化するにつれこの語は「人員整理・解雇」をもっぱら意味するようになり、「リストラ」は「仕方がないこと」と正当化されるようになりました。

Accountabilityはもともと会計学の用語で、お金を実際に預るという権力 (power) を握る人が暴走しないようにきちんとaccount (会計) を説明 (account) することを義務づけるといった意味で、非権力者による権力者のチェックといった意味でした。このaccountabilityという言葉は90年代の中頃にカレル・ヴァン・ウォルフレンが、responsibilityとの対比で日本でも積極的に使われるようになりました。『人間を幸福にしない日本というシステム』という本では、レスポンシビリティーとは権力者が個人の意識のなかで自覚している責任感であり、アカウンタビリティーとは権力者が組織外の一般人に自分たちの権力行使をきちんと説得的に説明できることとされていました。ですがやがてこのアカウンタビリティーが「説明責任」という訳語で定着する頃には、説明責任はしばしばより大きな権力を持つ者 (教育でいうなら教育委員会など) がより小さな権力しか持たない者 (例えば現場教師) を管理・支配するための膨大な数値データ・書類作成を意味するようになりました。このシステムを疑う現場教師には「説明責任は当然の義務です!」という叱責ばかりが返ってくるぐらいにこの用語・概念は正当化されるようになりました。


Complianceについては例えば郷原信郎氏の『「法令遵守」が日本を滅ぼす』新潮新書や『思考停止社会』講談社現代新書などをお読みいただきたいのですが、郷原氏によると、もともと「組織が社会的要請に適応すること」を意味していたcomplianceが「コンプライアンス」とカタカナ語として通用するようになると「葵の御紋」化し始め、さらに「法令遵守」という語で通用するようになると「規則や法令の機械的遵守」を意味するようになり、思考放棄が社会に蔓延し社会の柔軟性や創造性を奪っているのかもしれないのです (注)。「法令遵守」といういわば当たり前のことを踏まえていろいろと思考し判断するのが現実世界の人間かと私は考えますが、「法令遵守」と聞こえた瞬間「気をつけ!」を命じられたように直立不動になり思考放棄してしまうぐらい、この言葉は過剰に正当化されていませんでしょうか。


「リストラ」や「説明責任」そして「法令遵守」は私たちのイデオロギー・時代精神とは言えないでしょうか。これらの言葉を聞いた瞬間、私たちはその正当性や妥当性を疑うことを忘れ、その権威にひれ伏すことをあまりにも当然視していませんでしょうか。私たちはこれらの言葉に対してきちんと思考できなくなっているのではないでしょうか。あるいは生半可な思考で抗弁しようとしても、社会全体がそういった抗弁をすぐに抑圧するようになっていませんでしょうか。

現代日本の「教育改革」においても、「リストラ」「説明責任」「法令遵守」などがイデオロギー化した時代精神となり、必要以上に強調され、時に益より害をなすようになってしまっているのではないかと私は考えます。私たちは「リストラ」「説明責任」「法令遵守」などに代表されるような「教育改革」というイデオロギーの罠にかかってしまっている (trapped) のではないでしょうか。

それならば私たちの課題は、「リストラ」「説明責任」「法令遵守」あるいは「教育改革」というイデオロギー・時代精神の正体を突き止めることになります。ここで気をつけなければならないのはイデオロギーや時代精神が生じるにはそれなりの要因があったに違いないわけですから、イデオロギーや時代精神の全面的な否定、それへの感情的な反発は逆効果になりうるということです。この意味で私たちは「反時代的考察」ではなく「脱-時代的考察」「脱-近代的考察」「ポスト近代的思考」を行なうべきと言えるのではないでしょうか。

私の取りあえずの考えは「リストラ」「説明責任」「法令遵守」などという用語・概念は、そもそも資本主義システムがより効率的・効果的に作動するために導入されたものなので、私たちがもっとも丁寧に概念分析しなければならないのは「資本主義」だということです。かなり昔から存在したはずの資本主義と現代の資本主義はどのように異なるのか。それは産業・工業化の徹底なのか、「貨幣」の非実在化・非等価交換性の進行なのか、消費の自己目的化なのか、人間と自然の搾取なのか・・・きちんと考えなければならないように思います。

資本主義の分析・批判といってもそれは安っぽい「反資本主義」のイデオロギーをかかげることではないことはもはや自明でしょう。私たちは資本主義のただ中にいながらそれを乗り越えなければならないということは、ホロウェイが『権力を取らずに世界を変える』で述べていることかと思います。



「Ed.D型大学院プログラムの開発と実践」のシンポがグッドソン先生の基調講演のように根源的な思考を伴うもので開始されたのは喜ぶべきことだったかと思います。さもないとこのようなシンポも「どのように我が大学院も生き残り予算と人員を獲得するか」といった(安っぽい) マーケティングのような話に終始しかねないからです。

教育関係者が「生徒・学生をカスタマーとして尊重する一方、外部に向けて積極的にマーケティングを展開していかなければならない」と信じて疑わないような社会の「教育改革」には危険を感じます。




(注) 似たような懸念を私は「個人情報保護」や「男女共同参画」にも感じているのだが、これについては私はまだよく勉強していないので即断は控える。






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2010年1月3日日曜日

C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房

ユングのこの自伝の翻訳にあたって、訳者は以下のような懸念を表明している。



[この本が] どの程度理解され、受け入れられるかについては、正直に言って、相当の危惧を抱いている。しかし、どれだけ多数の人が、ユングを理解してくれるかという点よりも、これによって少数でもユングの真の理解者が現れることの方を期待すべきであろう。(第1巻 289ページ)


私自身がユングを誤解している可能性をまず指摘した上で言うなら、自らの思考と観察をもって合理主義を得たのでなく、学校教育などで教条的に合理主義を受け入れただけの人はユングを拒否するだろう。他方で自らの思考と観察をもって合理主義を得るどころか、教条主義的な合理主義さえ受け入れる知的訓練すら経験していない人はユングを誤読し恣意奔放な教条に陥るかもしれない。要は ― 私はおそらく自分のことを述べているのだろう ― 頭の弱い人間はユングを誤解する。

いずれにせよこのユング自伝を適切に読解できるかどうかは、プロローグ冒頭の次の一節を適切に解釈できるかで判断できるだろう。この一節を感情的な拒絶または大げさな共感抜きに、冷静に理解できるならユング自伝は素晴らしい読み物となるだろう。以下は自然科学か人文学に進かを迷ったあげく医者として訓練を受け精神医学を選び、独自の途を切り開いたユングが自伝を開始する言葉である。


私の一生は、無意識の自己実現の物語である。無意識の中にあるものはすべて、外界へ向かって現れることを欲しており、人格もまた、その無意識的状況から発達し、自らを全体として体験することを望んでいる。私は、私自身のこの成長過程を科学の用語をもってすることはできない。というのは、私は自分自身を科学的な問題として知ることができないからである。

内的な見地からすると我々はいったい何であり、人はその本質的な性質において何のように思われるかを我々は神話を通してのみ語ることができる。神話はより個人的なものであり、科学よりももっと的確に一生を語る。科学は平均的な概念をもって研究するものであり、個人の一生の主観的な多様性を正当に扱うにはあまりにも一般的すぎる。

そこで今83歳になって私が企てたのは、私個人の神話を物語ることである。とはいえ私にできるのは、直接的な話をすること、つまりただ「物語る」だけである。物語が本当かどうかは問題ではない。私の話しているのが私の神話、私の真実であるかどうかだけが問題なのである。(第1巻 17ページ)


別の箇所でユングは次のようにも述べる。


すべての私の著作は私の内界から課せられたつとめであるとも考えられるだろう。つまり、それらの源泉は運命的な強迫である。私が書いたことは、私自身の内から襲ってきたことである。私は私に話させようとする精神 (スピリット) を許容した。私は自分の著作に対する強い反応や、強力な共鳴など当てにしたことはない。 (第2巻 30ページ)



ユングがこのような境地に立ったのは、彼が徹底的に臨床家として観察をし、観察を通じて直観を得て思考しなければならなかったからだ。彼は事実の人であった。

長年の臨床的事実に鍛えられたユングは「方法」について次のような見解を抱く。


心理療法と分析は人間一人一人と同じほど多様である。私は患者をすべてできるだけ個別的に扱う。なぜなら問題の解決はつねに個別的なものであるからである。普遍的な規則は控え目にしか仮定されない。(第1巻 191ページ)

もちろん医者はいわゆる「方法」に精通していなければならない。しかし彼は何か特殊な日常化された接近法におちこまないように用心しなければならない。一般に、人は理論的仮定に用心しないといけない。今日のところそれは妥当かもしれないが、明日は他の仮定が妥当だということになるかもしれない。私の分析では、理論的仮定は何の役割も演じはしない。私は故意にきわめて系統的でないのである。私の考えでは、個人を治療するさいには個別的な理解だけしかない。我々はあらゆる患者に対しちがった言葉を必要としているのである。ある分析では、私がアドラー派の対話を語っているのが聞かれるし、もう一方ではフロイト派のそれが聞かれることもあるのである。(第1巻 191-192ページ)


自らの内的なものを尊重するユングは当然にして他人の内的なものも尊重する。


私は患者を何かに変えようとは決してしなかったし、何かの強制も行なわなかった。私にとっていちばん重大なのは、患者が物事について彼自身の見解をうるということである。私の治療のもとで、運命の命ずるままに、異教徒は異教徒に、クリスチャンはクリスチャンに、ユダヤ人はユダヤ人になるのである。(第1巻 201ページ)


ユングは、意味ある偶然 (=「共時性」 (英 synchronicity; 独 Synchronizität)) は信じても、機械的な偶然は信じなかったのかもしれない。少なくとも主体的に生きようとする人間にとっての「偶然」に関しては。


生き生きとした精神構造では、ただ機械的な仕方であらわれるものはなく、すべては全体と関連して、全体の理法に適合するものである。すなわち、すべてが目的をもち、意味があるということである。しかし意識は全体を見通していないので、ふつう意識はこの意味を理解することができない。(第2巻 66ページ)



ユングの生涯あるいは研究とは、彼が「無意識」と呼んだ領域に限りなく自分を開きながら、同時に意識 (およびその中心の自我) をおよそ明晰に保ち続けることだったとまとめられるかもしれない。だからこの自伝で散見されるのはおよそ強力な自我 (あるいはヨーロッパ人としての自覚) と臨床家としての徹底した現実感覚をもつユング像である。この強力な自我と現実感覚がなければユングは、ヘルダーリンニーチェのように自らの無意識に翻弄され狂気に陥っていたかもしれない。


心筋梗塞と妻の死を経験した後のユングは次のような心境を得ている。


病後にはじめて、私は自分の運命を肯定することがいかに大切かわかった。このようにして私は、どんなに不可解なことが起こっても、それを拒むことのない自我を鍛えた。つまりそれは、真実に耐える自我であって、それは世界や運命と比べても遜色がない。かくして、敗北をも勝利と体験する。内的にも外的にも、かき乱すものはないもない。それは自己の持続性が、生命や時間の流れに耐えているからである。しかしこれらはただ、運命の計らいに、出過ぎた干渉をしないときにのみ流れ去ってゆくのだ。 (第2巻 136ページ)


しかしこの耐える自我は、ユング自身から来るものでありながら、ユング自身を超えたものから来るものでもあったように思える。そういった「超人的」なるものについてユングは次のように言っている。


しかし、私には超人的な力があった。私がこれらの空想の中に経験しつつあることの意味を発見せねばならないということについて、最初から私の心の中には確信があった。無意識のこれらの襲撃に耐えてゆくとき、私は私よりもっと高い意志の力に従いつつあるのだという確固たる信念をもち、そのような感情は、私がその仕事を仕遂げるまで私を支え続けてくれたのであった。 (第1巻 253ページ)


こうして強力な自我と鋭敏な意識をもって、ユングは無意識に向かい合う。そして患者が、患者自身の自我と意識でもって自らの無意識に向かい合うことを支援する。この向かい合いから自我が経験する意識と無意識の統合は、まさに経験されるだけのものであり、それを「客観的」あるいは「科学的」に記述することはできない。それぞれの人格が強く絡む経験を、無人格的な言語で記述することは不可能あるいは不適切であるからだ。私たちは自分自身に対してあるいは他人に対して人格的であろうとするなら、自分自身や他人との出会いを人格的に生き抜くことができるだけであり、それをことさらに無人格化した科学の言葉で記述・説明してもそれは虚しいこと (あるいは退屈なこと) に過ぎない。


かつて無意識内容だったものを意識に統合する場合、その人自身の内部でなにが起こっているか、言葉で記述することはほとんどできない。それはただ経験されうるだけである。それが主観的出来事であることは論をまたない。われわれは自分自身について、自己の存在様式について、ある特有の感じを抱き、そしてこのことは疑うことのできない、疑ってみても意味のない、事実なのである。それと同様に、われわれは他者に対しても、独特の感じを抱き、そしてこのこともまた疑いえない事実である。われわれの知るかぎりでは、これらの印象と意見のすべての間にありうる不一致を排除できるような、より上位の権威は存在しない。変化が統合の結果として生じたのかどうか、その変化の特質がどのようなものであるかといったことは、相変わらず主観的確信の問題のままである。確かに、それは科学的に立証できる事実ではなく、したがって公認の世界像からはもれ落ちたものである。けれども、実践的には非常に重要な、成果のある事実であることには変わりがなく、現実的な心理療法家や、少なくとも、治療に関心のある心理学者にとって、この種の事実を見過ごすことはできないはずである。 (第2巻 121ページ)


医者として自然科学の訓練を受けながら、心の不可思議さに正面から向かい合い、その葛藤をくぐり抜けたユングにとって浅薄な合理主義は ― 自らを批判することを忘れた合理主義は ― 批判されるべきものであった。


合理主義と教条主義は現代の病である。つまり、それらはすべてのことについて答えをもっているかのように見せかける。しかし、多くのことが未だ見出されるだろうに、それを、われわれの限定された見方によって、不可能なこととして除外してしまっているのだ。 (第2巻 138ページ)


かくしてユングは統合失調患者についても患者を切り捨てた態度を決して取ることなく、患者のそのような人生に意味を見出そうとする。(「べてるの家」によって統合失調症について最初に学んだ私のような人間にとってこの見解は (すくなくとも机上では) すぐに受け入れられるものであった)。


私は精神医学は最も広い意味で、病めるこころと正常と思われる医者のこころの間の対話であると主張した。それは、病める人格と治療者の人格との間に深いかかわりをもつようになることであり、両者ともに原則として等しく主観的なものである。私の狙いは妄想や幻覚が精神疾患に特異な症状ではなく、人間的な意味をも持っていることを示すことにあった。 (第1巻 164ページ)

我々は精神病者の中に何ら新しく、未知なものを発見しはしない。むしろ、我々は我々自身の性質の土台に出会うのである。 (第1巻 186ページ)



以上の私のまとめは、あまりにも量的研究方法に教条的に拘る日本の英語教育界に対する私の強い不満から主として「方法」に関したものだけになってしまった。だが伝記の面白さはもちろん具体的な記述にある。この自伝も数々のエピソードは圧倒的に面白い (私は特にユングの非ヨーロッパ圏への旅行の記述を非常に面白く読んだ)。もしユングに興味が出たら、ぜひこの本を、強力な批判意識と、その批判意識すら超える無意識の力の両方のバランスを保ちながらご自身でお読み下さい。

最後にユングが学生時代に見た象徴的な夢とユング自身によるその夢の解釈を引用してこの拙いまとめを終わります。


ほぼこのころに、私を驚かしまた勇気づけもした夢をみた。どこか見知らぬ場所で、夜のことだった。私は強風に抗してゆっくりと苦しい前進を続けていた。深いもやがあたり一面にたちこめていた。私は手で今にも消えそうな小さなあかりのまわりをかこんでいた。すべては私がこの小さなあかりを保てるか否かにかかっていた。不意に私は、何かが背後からやって来るのを感じた。振り返ってみると、とてつもなく大きな黒い人影が私を追っかけてきた。しかし同時に私はこわいにもかかわらず、あらゆる危険を冒してもこの光だけは夜じゅう、風の中で守らなければならぬことを知っていたのである。目が覚めた時、私は直ちにあの人影は、「影入道」つまり私のもって歩いていたあかりで生じた、渦まくもやに映った私自身の影だとわかった。私はまた、この小さなあかりが私の意識であり、私のもっているただ一つのあかりであることもわかった。私の自分についての理解は私のもっている唯一の宝物であり、最も偉大なものである。暗闇のもっている力に比べると、きわめて小さくかつ弱いけれども、それはなおあかりであり、私だけのあかりである。

この夢は私には重大な啓示だった。その時私はNo1 [若きユングはいわゆる自我をこのように呼んでいた] が光の運搬人であり、No2 [これは若きユングがいわゆる無意識を指すために使っていた言葉である] はNo1に影のように従っていることがわかったのである。私の仕事はあかりを守り、透徹した生命力の方を振り返ってみないようにすることだった。 (第1巻 135ページ)



⇒『ユング自伝―思い出・夢・思想 (1)』

⇒『ユング自伝―思い出・夢・思想 (2)』





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C.G.ユング著、小川捷之訳 (1968/1976) 『分析心理学』 みすず書房

1930年に当時60歳であったユングがロンドンでおよそ200人の医師たちを前にして行なった講義と討論を記録した本書は、ユング自身による最良のユング心理学入門書とも呼ばれています。

ここでは私がその本を読んでのまとめを書きます。著作権保護のため、できるだけ私の言葉に翻訳したまとめにしておりますので、ユング心理学に興味を持ち始めた方は必ずご自身で本書を読んでください。心理学の専門家でもない私の以下のまとめをユング心理学の知見として引用することは ― そんな人はいないと信じますが ― まったくお勧めできません。なおウィキペディアには既に分析心理学に関するページがありますので、ご興味がある方はそちらもご覧下さい。

■無意識を私たちは扱えるのか: 無意識とは臨床経験から仮定せざるを得ないものであり、しかも私たちはそこから出現するとさらに仮定されている意識的なものしか扱えない。 (19ページ)

■意識と無意識の関係: 意識から無意識が生じるのではなく、無意識から意識から生じる。意識だけを働かせ無意識を抑圧することは不自然な努力であり心的疲労を招く。(22ページ)

■意識と自我: 自我が無ければ何も意識されない。意識とは、心的諸事実と自我の関係である。(25ページ)

■自我とは何か: 自我の構成要素は、第一に自分の身体に対する認識であり、第二に自己の記憶データである。自我はこれら心的諸事実の複合 (complex) と呼ぶことができる。 (25ページ)

■自我と無意識、意識: 複合体としての自我は独特の誘引力をもち、無意識や外界から様々な内容を引き出し、それが意識となる。 (25ページ)

■外的な心的諸機能: 感覚・思考・感情・直観がある。 (26ページ)

■感覚 (sensation): 外的な物事の「存在」を教えてくれる機能。 (26-28ページ)

■思考 (thinking): 物事が「何」であるかを教えてくれる機能。 (27-28ページ)

■感情 (feeling): 物事の「価値」を教えてくれる機能。 (27-28ページ)

■直観 (intuition): 「時間を超えて」物事の全体像を教えてくれる機能。 (28-29ページ)

■四機能の構造: 以上の四機能は十字形の配置で捉えることができる。上に思考、下に感情、右に直観、左に感覚、上下左右の線が交差する中央に自我を考えよ。 (35ページ)

■優越機能と劣等機能: 人は上下のどちらかを優越機能、もう片方を劣等機能としてもち、左右についても一方を優越機能として、他方を劣等機能としてもつ。優越機能はより「分化されて」おり、劣等機能は「未分化」であると表現される。 通常、二つの優越機能ではどちらかの方がより優越であり、二つの劣等機能ではどちらかがより劣等である。(36ページ)

■未分化な劣等機能: 感情が劣等機能、すなわち未分化な人は、情動の塊のようなものに捉えられ翻弄される。(思考が未分化だと単純な考えに振り回されると言えるだろう)。劣等機能において私たちは太古の性格に連なっている。劣等機能には開いた傷口があり、そこからあらゆるものが侵入してくる可能性がある。 (36-40ページ)

■分化された優越機能: 優越機能において人間は比較的文明化された自由意志を持っているとされる。 (40ページ)

■内的な心的諸要素: 記憶・主観的構成要素・興奮・侵入がある。 (41ページ)

■記憶: 無意識的内容を再生する能力。 (42ページ)

■(意識の諸機能の) 主観的構成要素: 意識を働かせる際に伴う不正確か不適当な主観的反応。 (42-43ページ)

■興奮: これはもはや (主観的構成要素以上に) 機能とは呼べない。興奮とは情動 (emotion) と興奮 (affect) が入ってくるところであり、機能ではなく出来事である。 (44ページ)

■侵入 (invasion): 無意識(「影」)が意識に押し入ってくるほどの支配的な力をもっている領域。 (45ページ)

■二種類の無意識: 個人的無意識と普遍的無意識。 (63-65ページ)

■個人的無意識 (personal unconsciousness): 個人的起源をもつ意識下の精神 (subconscious mind)。 (63ページ)

■普遍的無意識 [しばしば「集合的無意識」とも訳される] (collective unconsciousness): 特定の人に由来しない (impersonal)、人類一般 (mankind in genral) に固有な型 (元型 archetypes)。 (64-65ページ)

■普遍的無意識の生物学的根拠の可能性: 人類が身体においては解剖学的構造を共有しているのなら、心においてもある普遍的な内容を共有していると考えることもできるだろう。 (70ページ)

■球体としての心: 心を球体として考える。その中央最深部には普遍的無意識があり、それを個人的無意識が囲む。個人的無意識の外部には内的な心の領域である侵入・興奮・主観的構成要素・記憶がその順番に内から外へと層になっている。さらにその外部には外的な心の領域があるが、そのもっとも内側には最も劣等な機能が来る。その最も劣等な機能の反対の機能が最も優越した機能として心の最外部に来る。最も劣等な機能と最も優越した機能の間にあるのが、二番目に劣等・優越である機能である (上下左右で説明した四機能のうち、例えば上下が最も優越・劣等となれば左右が二番目に優越・劣等となる)。 (73-74ページ)

■コンプレックス: 連想が凝縮したコンプレックスは自我のような意志力を持ち、統合失調症においては幻覚として、小説の創造では作者から離れた生命をもったキャラクターとして登場したりする。 (114-117ページ)

■ユングの夢分析: 夢分析において、ユングはコンプレックスの正体を解明したいのではなくて、夢 (無意識) がコンプレックス (自分自身) に何をしようとしているのかを解明したいと考えている。 (129ページ)

■夢分析の方法: 一部しか知らない言語で書かれたテクストを解釈する文献学者の方法と同じ。わかる一部との相似性を見つけて注意深く解釈する (「拡充」 (amplification))。 129-130ページ)

■「自然」としての夢: 自然はどのような過ちも犯さない。正誤は人間のカテゴリーであり、自然に馬鹿げたことはない。人間がただ理解できないだけである。夢に対する態度も、自然に対する態度と同じであるべきである。 (134ページ)

■人間は完全を期せないがそれを目指すべきである: 心の四機能(思考・感情・直観・感覚)がどれも等しく優れているということはありえない。私たちは優越機能によって人間として独立することが可能になるが、劣等機能によって無意識や本能あるいは人類と強く結びついている。ユングの原則は「完全を期そうなどと考えては駄目です。しかし、それがどんなことであっても、まっとうしようとは努めなさい」というもの。 (152ページ)

■古代の治療の意味: 古代の医学では、個人の病気を非個人的 (impersonal)な水準に高めれば治療効果が得られることが知られていた。神話や伝説で、ある人の病気が普遍性のある病気、さらには神の病気であることが示されると、その人は孤立しておらず人間・世界・神と結びつけられているという認識を得て、その認識が治療効果を生む。 (159-160ページ)

■古代の治療の現代的意義: 現代においても、精神的苦悩を個人的な失敗のせいにしてしまわず、人間共通の苦悩、時代の問題と了解することは、苦しむ者に人間性を取り戻す可能性を与える。 (161ページ)

■神話や元型の適用について: 夢分析を機械的に行なうことは危険である。夢はその人個人の心的組織が自己統御をしようとして示す自然な反応であるから、夢のイメージについてはまずその人自身がどのように感じるかを常に尋ねなければならない。 (172ページ)

■心理学的方法: 心理学においては、心が観察の対象 (object) であると同時に観察の主体 (subject)であり、手段 (means)でもあるという悪循環にあることを忘れてはならない。心理学において絶対に正しい人は一人もいない。私たちにできることは自らの方法・認識を謙虚に開示して、お互いの特徴を比較することである。 (18、206ページ)

■転移と投影: 転移とはもともとフロイトの造語であるが、転移をより一般的な投影の特殊形態と認識することは重要である。 (221ページ)

■投影: 投影とは対象に主観的な内容を付与することである。葉っぱを緑とするのも一種の投影である。なぜなら葉っぱと私たちが称しているものが発しているのは波動に過ぎず、私たちがそれに緑色という内容を付与しているからである。 (だがこの投影は人類でほぼ一致している投影である)。 (222ページ)

■転移: 転移とは、投影の中でも通常、特定の二人の人間の間で生じるものである。転移は概して情動的で強迫的であり、身体的でもある。 (223-224ページ)

■自体愛的な人間の転移の事例: 自体愛的 (auto-erotic) な人間は、自体愛的な孤立により自己を閉ざしているが、反面、人間的なふれあいを絶望的なまでに求めている。しかし自らは何一つしようとしないし、近づいてくるどんな人間も認めようとしない。ある優秀なアメリカ人女性精神分析家は、「非常に有能」であったが、ある男性患者が彼女に対して転移を起こし、「彼女は彼を愛しているが、それを決して認めようとしないだけだ」という投影をされて困り果てていた。ユングがその女性精神分析家に接すると、彼女は女性としての感情生活がほとんど未発達であることがわかった。ユングは、男性患者の転移は女性精神分析家が招いたとも考えられると解釈する。つまり、女性精神分析家の未発達な感情的側面が、同じように感情的に未発達な男性患者を引きつけ、女性精神分析家が女性であることをわからせようとすることが男性患者の使命だとその男性患者に本能的に思わせる「罠」として働いたとユングは見立てた。この転移はお互いに感情的に未発達な男女の無意識の間に起こったことだと解釈できる。 (238-239ページ)

■自らの未発達領域を引き受けること: ユングはその女性精神分析家を結局夢分析で治療したのだが、夢分析を通じて自分自身の無意識に少しずつ向かい合い始めた女性精神分析家は、自体愛的な防御の時期を経て感情の爆発的な発露を経験した。彼女は、ある日泣き崩れ、ユングに対してひざまずきユングに対する強烈な愛情を告白する。しかしこれは転移に過ぎず、それを予期していたユングの冷静な対応により彼女は時間をかけて自分を見出す。「あなたは自分の中に閉じこもっていて私に何も示してくれません。ですから、あなたが何かを表現しないかぎり、私には何もできないのです」という一般原則は彼女の場合も当てはまった。 (237-241ページ)

■治療者・分析家が自分自身を知ることの重要性: 女性精神分析家と男性患者、後にユング(治療者)とその女性精神分析家 (患者) の関係に見られるように、転移は相互無意識 (mutual unconsciousness) と混交 (contamination)によってしばしば生じるので、治療者・分析家が可能な限り自分自身について知ることが非常に重要である。 (242ページ)

■転移の治療の第一段階: 転移を扱う場合、患者に転移という投影を行なっていることを知らせること (客観的側面) だけでなく、この転移を引き起こしていると思われるイメージの主観的な価値 (subjective value) を認識させ、そのイメージを患者の心理に同化させなければならない。 (259ページ)

■転移の治療の第二段階: 転移という投影のうち、意識化によって解消されるべき個人的内容と、心の構成要素に属しているので削除することができない非個人的内容を識別させる。非個人的内容は人間が人間であるための重要な要素である。非個人的イメージを転移・投影する行為を解消させることは可能だが、その内容まで解消させるべきではないし、また内容を解消することは不可能である。 (260ページ)

■転移の治療の第三段階: 転移の対象への個人的な関係と、根源的な非個人的要因をはっきりと区別させる。非個人的要因を転移から抽出し、かつその重要性を理解した患者はしばしば宗教的・非宗教的イメージを受け入れ始める。 (266-267ページ)

■転移の治療の第四段階: 非個人的イメージを、転移の相手から引き離なさせ、それを何か他の形で対象化させ、かつその形象化された非個人的イメージを自らの中に取り込ませる。実は自分が切望していた非個人的要因は元々自分の中にあったことを認識させる。このイメージを「非自我の中心」 (non-ego centre) とすることにより、患者は何かへの依存状態から脱することができる。東西の宗教はどれもこの状態を目指しているといえる。 (269-270ページ)





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