2018年3月23日金曜日

講座卒業式での挨拶




以下は、本日の講座卒業式で私が行った挨拶の原稿です。二つのバージョンを作り、二つ目を元にして語るつもりでしたが、実際は一つ目の原稿の部分も少し入れながら、二つ目の原稿を思いっきり口語口調にして語りました。

改めて学生の皆さんに感謝し、皆さんのご健康とご多幸をお祈りします。



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Ver. 2




皆さん、ご卒業・ご修了おめでとうございます。

皆さんの多くに対して私はチューター・指導教員でありましたので、今年は特別の感慨があります。皆さんの話を聞くことでで私は人間的に少しは豊かになることができました。皆さんの笑顔の写真を撮ることで私もそれだけ幸せになれました。まずはそのことに対して感謝申し上げます。

さて私はこの最後の機会に皆さんに何を申し上げたものかとしばらく考え続けておりました。

その時思い出したのは、私自身が確か学部を卒業する時にある先生から言われた一言です。

その先生はこうおっしゃいました。「社会人になったらどんな職場であれ三年間は黙って働き続けなさい。不平や文句をいうのはその後です」。

30年前に贈られたこの言葉ですが、これを私は皆さんにはお贈りしません。

だって考えてもみてください。日本の権力構造の最上部にいる人たちが、ここ最近、何をやっているか。私の見立てに過ぎませんが、行政がその本分を忘れるどころかその権力を濫用しています。司法もそれに追従するありさまです。立法府も情けないありさまです。メディアも及び腰でしかありません。政治の話だけではありません。経済にしても多くの一流企業がデータの改竄をしています。ブラック企業と言われても仕方がない働き方を従業員にさせ過労死に至らせています。教育の場でもいじめが絶えません。指導の名を借りたハラスメントもいたるところで報告されています。

ある人は現状を「日本の底が抜けた」と表現しました。

そんな社会で、どうして皆さんが三年間も、ものを言う権利を否定されなければならないのでしょうか。そしてより重要なことに、沈黙を強要された者は、発言する文化も意欲もしばしば失ってしまいます。どうして皆さんが、沈黙を学ばねばならないのでしょうか。

ですから私が皆さんに贈ることばはこうです。「発言するべきときには発言してください。そして同時に他人の声に耳を傾けてください」。

最初の三年間であれいつであれ、声を上げるべき時は声を上げるべきです。しかし発言には責任が伴います。発言の前には、自分の主張を吟味します。その論拠は適切か、必要な物的証拠(の見込み)はあるか、自分の主張はどんな結末に至るのか、別の考え方はないのか、などなどと検討しなければなりません。そしてはじめて発言します。私は決して皆さんに無責任な放言や「脊髄反射的」な発言、あるいは罵詈雑言を勧めているわけではありません。

声を上げることと同じように大切なことは、他人の反応に耳を傾けることです。もちろん単純な誤解に対しては反論しますが、自分の誤りを指摘されたら訂正します。自分とはまったく異なる考えが出てきたらそれをひとまず受け入れてその枠組で考える努力をします。そして聞き手と共に、正しさを追求してゆきます。勝ち負けの議論ではなく、共に正しさを追求する対話を始めます。相手への敬意は常に忘れてはなりません。

もうすでにお気づきでしょう。これは学問の方法です。

みなさんがこれまで大学・大学院で学んできたのは、社会においてもこの学問の方法を貫くことができるようになるためです。それが科学的な真実であれ社会的な正義であれ「正しさ」を追求するためです。私は今、「追求」と言いました。「獲得」とは言っていません。究極的な正しさ、英語でいうなら大文字のTruthは、どんな人間にも獲得できるものではありません。私たちは謙虚にそれを追い求め続けるだけです。

私たちが「正しさ」への畏敬の念を失った時、社会は乱れます。人々から素直な微笑みが絶え、狡猾な冷笑や権力者に阿る偽笑が横行します。強者ばかりが栄華を楽しみ、弱者にますますの負担を強います。声を上げる者を迫害しその存在を抹消しようとします。人類の歴史にはそういった時代が何度も何度も生じています。それが人間というものでしょう。だからこそ私たちは学問の灯を絶やさず、少しでも学問を発展させようとしているのです。これも人間なのです。

皆さんは、学士号・修士号・博士号取得という形で、学問を修めた人間としての社会的認証を得ました。

しかし本当に大切なのはこれからです。

皆さんの学問がこれからの人生で活かせなければ、学位記なんてただの紙切れです。どうぞ学問的な態度で社会の問題について考え行動してください。

学問を修めた人間としての皆さんの社会での活躍を祈念いたします。

以上を私の贈ることばといたします。本日はおめでとうございます。





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Ver. 1





皆さん、ご卒業・ご修了おめでとうございます。

皆さんの多くに対して私はチューター・指導教員でありましたので、今年は特別の感慨があります。皆さんの個性を知ることができたことで、私の人間に対する理解も深まりました。皆さんのおかげで私は人間的に少しは豊かになることができました。まずはそのことに対して感謝申し上げます。

さて、そんな皆さんに対してこれまで私ができたことは「学ぼう」と言い続けることだけでした。今から皆さんは社会に出て、(大学院に進学する一部の皆さんを除きますなら)これまでよりも多くのさまざまな人達と会うことになります。今までは学校という、境遇が似た同年齢集団の中にいましたが、これから皆さんは、さまざまな背景と異なる考え・感性をもつ多くの人々に出会う場、つまり社会に出ることになります。

しかし、その社会は、今、どのような状況にあるのでしょうか。私見にすぎませんが、ここ数年間の国会の様子が一つの判断材料でありますなら、日本社会はあまりよい状態にはないようです。行政や司法が矜持を失い始め、立法府もその見識を失いつつあるように思えます。世間では「日本社会の底が抜けた」や「世も末だ」といった言葉さえ聞かれます。

そんな悲観的な時代認識も手伝いまして、私は最近、ふと親鸞について読みたくなり、何冊かの本を手に取りました。親鸞が活躍した鎌倉時代におきましては親鸞以外にも多くの仏教徒が仏教を再生させましたが、その一つの背景要因としては「今は末法である」という認識が鎌倉時代に広く共有されていたことが考えられます。

末法とはご存知のように仏教思想の歴史観の一つで、仏陀が入滅して時代が経てば経つほど仏法が廃れ時代が悪くなるという考え方です。最初の時代(正法・しょうぼう)では「持戒」すなわち、戒律が保たれています。次の時代(像法・ぞうぼう)では「破戒」つまり、戒律が破られてしまいます。そして末法の世になると「無戒」つまり戒律の存在すら人々に意識されなくなるわけです。

実際その頃の仏教界は非常に堕落していたとも伝えられています。そういった中で出てきたのが鎌倉時代の新仏教でした。これらの新仏教は、仏陀以来の仏教の伝統に即しながらも、それを再解釈し再構成して日本の新しい文化を作り上げました。以来、日本にもさまざまな苦難や堕落の時代もあったかと思いますが、少なくともこれまでの日本は、世界人々に対して恥ずかしくない文化を誇ってきました。

しかしながらここ最近の、日本の底が抜けたような状態を見ていますと、ある意味、現在は末法ではないかとすら思えてきます。これまでの規律や価値観が破られるどころか、その規律や価値観の存在すら忘れられ始めているように思えるからです。

皆さんはそういった社会に出て行きます。そうは思いたくありませんが、そこでは既に権力構造の上の方から、世の理(ことわり)とは、「勝てば官軍負ければ賊軍」や「長い物には巻かれろ」であり、「負ける方が悪い」と思われ始めているのかもしれません。ひょっとしたら皆さんの中にすら、「世の中ってそんなものでしょう」と思ってらっしゃる方もいるかもしれません。

しかし「陰極まれば陽に転ず」とも言います。「末法」という悲観的な時代認識は、実は、吉兆なのかもしれません。鎌倉時代の仏教のことを考えても、ひょっとすると、皆さんの世代というものは、日本が新しい価値観を作り出す偉大なる世代なのかもしれません。

皆さんはこれから社会に出てさまざまな矛盾や葛藤に遭遇するでしょう。今まで学んできたのはその時のためです。問題に出会ったら、もう一度過去の文化を学び直し、新たに考えてください。さもないと自分をごまかして不幸な人生を送るかもしれません。あるいは他人を上手に見捨てるかもしれません。そして社会全体を荒廃させるかもしれません「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」といったのは宮沢賢治ですが、私は彼のことばを信じています。

どうぞ学び続けることを忘れないでください。これからの日本社会には人口減や格差の増大、あるいは人工知能の台頭など、さらに大きな課題がのしかかってくるでしょう。しかしそれは偉大なる挑戦の機会でもありえます。未来がどうなるかはわかりません。なぜなら皆さんが未来を創るからです。私も死ぬまで学び続けます。ですから最後の最後まで私は皆さんに「学ぼう」と訴えかけます。皆さんのこれからの学びに期待します。本日はおめでとうございました。


三木清 『親鸞』
倉田百三 『出家とその弟子』
宮沢賢治 『農民芸術概論綱要』
釈徹宗 『法然親鸞一遍』


追記

今回私は、高校時代に影響を受けた本の一冊であった『出家とその弟子』を含めた上記の三冊の本を青空文庫で読みましたが、これらの文化的遺産がボランティアの方々の貴い努力でネット上の無料の公共財産として保たれていることに改めて感銘を覚えます。

私がなぜ今回、親鸞について学びたくなったのかは自分でもよくわかりません。現代の政治に対する怒りを感じながらも、そこで正義を騙ろうとする自分にどこか違和感を覚えるからこそ親鸞について読み返したくなったのかもしれません。まあ、うつ傾向・自責傾向の強い人間の心性と言われればそれまでなのですが(笑)。


『出家とその弟子』の以下の部分などは私の心をとらえました。



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親鸞 私は自分を悪人と信じています。そうです。私は救い難き悪人です。私の心は同じ仏子を呪いますもの。私の肉は同じ仏子を食いますもの。悪人でなくてなんでしょうか。

親鸞 あなたの苦しみはすべての人間の持たねばならぬ苦しみです。ただ偽善者だけがその苦しみを持たないだけです。善くなろうとする願いをいだいて、自分の心を正直に見るに耐える人間はあなたのように苦しむのがほんとうです。私はあなたの苦しみを尊いと思います。

親鸞 あなたは「業」ということを考えたことはありませぬか。人間は悪くなろうと努めたとて、それで悪くなれるものではありません。また業に催されればどのような罪でも犯します。あなたは無理をしないで素直にあなたの心のほんとうの願いに従いなされませ。

親鸞 そのとおりだ。百の悪業に催されて自分の罪を感じている悪人よりも、小善根を積んでおのれの悪を認めぬ偽善者のほうが仏の愛にはもれているのだ。仏様は悪いと知って私たちを助けてくださるのだ。

親鸞 救いには一切の証はありませんぞ。その証を求めるのはこちらのはからいで一種の自力です。救いは仏様の願いで成就している。私らは自分の機にかかわらずただ信じればよいのです。業の最も浅い人と深い人とはまるで相違したこの世の渡りようをします。しかしどちらも助かっているのです。

唯円 私は縁という事を考えると涙ぐまれるここちがします。この世で敵どうしに生まれて傷つけ合っているものでも、縁という事に気がつけば互いに許す気になるだろうと思います。「ああ私たちはなんという悪縁なのでしょう」こう言って涙をこぼして二人は手を握る事はできないものでしょうか。

親鸞 人を愛しなさい。許しなさい。悲しみを耐え忍びなさい。業の催しに苦しみなさい。運命を直視なさい。その時人生のさまざまの事象を見る目がぬれて[ママ]来ます。仏様のお慈悲がありがたく心にしむようになります。南無阿弥陀仏がしっくりと心にはまります。それがほんとうの学問と申すものじゃ。

かえで 私は学問も何も知りませんよ。
唯円 そのようなものは信心となんの関係もありません。悲しみと、愛とに感ずる心さえあればいいのです。

親鸞 みんな仲よく暮らしてくれ。わしのなくなったあとは皆よく力をあわせて法のために働いてくれ。決して争うな。どのような苦しい、不合理な気がすることがあっても、仏と人とに呪いをおくるな。およそ祝せよ。悲しみを耐え忍べよ。忍耐は徳をおのれのものとするのじゃ。隣人を愛せよ。旅人をねんごろにせよ。仏の名によって皆つながり合ってくれ。



追記 (2018/03/27)

現在、change.orgで「子どもたちに教育の質を保障する為ブラック残業の見直しを!教員の残業代ゼロ法「給特法」を改正してください」のキャンペーンが進行しています。私も賛同しました。

以下は、その訴えの一部をコピーしたものです。

皆さんも一人ひとりでお考えになり、よかったらご賛同ください。

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私は、現職教員です。
学校に勤めて6年、毎年のように心の病で倒れる同僚を見てきました。
このままでは教育の質は保障できない…生徒に申し訳なく感じます。

現場は今、相当に疲弊しています。
教員の日常、有名な話が「トイレに行く時間もない」「食事の時間は5分」。
国の調査では、中学校教員の一日の休憩時間は約10分でした。
家に帰っても授業準備、テスト作成、採点…。

国会では、いわゆる残業代ゼロ法案が議論されていますが、公立教員の残業代ゼロ法  “給特法”  は、すでに50年前に制定されました。
それが、どのような結果をもたらしたのか…。
画像の通り、どの業種よりも酷い時間外労働が発生しています。
小学校教員の5割以上、中学校教員の7割以上が過労死ラインです。

ブラック部活が問題になっていますが、部活のない小学校でも過酷な時間外労働が発生しているのです。
なぜでしょうか。
その鍵となるのが、給特法です。
現状とかけ離れた給特法は、すぐにでも抜本改正して欲しいと訴えます。

私は、教員のことだけを考えているのではありません。
学校はブラックだということが認知されてきました。
教員志望者は減る一方です。
採用倍率の低下は、確実に教育の質を落とします。
教員の不祥事も、ますます増えることになると思います。
このような学校に、大切な子どもを通わせる事ができるでしょうか。
国の根本が揺らいでいる事態であると、現場にいて日々感じます。

以下略

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