Todd
Rose (2017)
Penguin
Books
Chapter
1
The Invention of the Average
■ 「平均的な脳」はない?
2002年にUC
Santa Barbaraの神経科学者Michael Millerは言語記憶 (verbal memory) に関してfMRIを使った研究を行いました。ミラーは被検者の脳を丁寧に調べ、他の科学者がやるのと全く同じようにすべての画像を重ね合わせて言語記憶に関する平均的なfMRI画像を作りました。しかし彼は、他の科学者があまりやらないことを行いました。その平均的な画像を一人一人の画像と比べてみたのです。するとそれらは平均画像とはおよそ異なっていました。実際すべての画像はそれぞれが異なったものでした。
J Cogn Neurosci. 2002 Nov 15;14(8):1200-14.
Extensive individual differences in brain
activations associated with episodic retrieval are reliable over time.
DOI: 10.1162/089892902760807203
ミラーは困惑します。なぜならば神経科学は、何らかの形で平均的な脳 (the Average Brain) というものがあると仮定しており、大抵の人の脳はその平均的なのに近いと想定しているからです。少なくともいくつかの脳は平均的な脳に近いはずです。しかし彼のデータは、すべての画像が平均的な画像とはかなり異なっていることを示していました。
ミラーは著者のローズにこう語ります。
「これで確信したのは、私たちが観察していた個々人のパターンは、ランダムノイズではなく、それぞれの個人が課題を遂行したやり方についてのなにか体系的なものだということだ。それぞれの人の記憶システムは、独特の神経パターンで構成されているということだ」
“That convinced me that the
individual patterns we were seeing was not random noise but something
systematic about the way each individual performed the task, that each person’s
memory system consisted of a unique neural pattern,”
Rose, Todd. The End of Average:
How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.287-288). Penguin Books Ltd. Kindle
しかし困惑するのは神経科学のミラーだけではないと本書の著者であるローズは考えています。
人間について研究するすべての学問分野は、長い間、同じ中核的な研究方法に依拠している。人間の集団を実験条件に置き、その条件への平均的反応を確定し、その平均を使ってあらゆる人々に関する一般的な結論を定式化する研究方法である。
Every discipline that studies human beings has long relied on the same
core method of research: put a group of people into some experimental
condition, determine their average response to the condition, then use this
average to formulate a general conclusion about all people.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.304-307). Penguin Books Ltd. Kindle
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.304-307). Penguin Books Ltd. Kindle
このように、序論での20世紀中頃の二つの例に加えて、現代の科学での例を出して、平均を計算上産出することはできても、その平均を具現化している実例は必ずしも実在しないという論点をさらに明確にした後、ミラーは、私たちが平均を重視するようになった要因を作った二名の人物についてこの章で解説します。
■ アドルフ・ケトレー(「平均こそは真の姿」)
彼は現在でも使われているBMI指数を考案した人でもありますが、彼は数学の学位を得たのち、社会科学におけるニュートンになろうと「社会物理学」(social physics) の構築を試みます。彼の方法の一つは平均の利用でした。天文学では観測データがなかなか一定しないことから、同じ観測を何度も繰り返しそのデータを合計して平均することによって、最も確からしいデータを得るという方法が使われていました。彼はこの「平均の方法」 (method of averages) を人間に適用することを思いつきました。
たただここで重要なことは、天文学の場合には同じ対象(たとえば土星)に対する観測を繰り返してそのデータを平均するのに対して、ケトレーが考えた社会物理学においては一人の人を何度も観測するのではなく多くの人を観測して平均を求めることです(たとえば、一人の身長を何度も測って平均を出すのではなく、1000人の身長を測って平均を出す)。この点の重要性については第3章で述べますので、今は詳しくは述べません。しかし大切なのはケトレーが平均という計算方法を見出したなどというのではなくて、ケトレーが平均が意味 (mean) することを定式化し、それがその後の社会科学の常識となってしまったということです。
ケトレーが定式化した平均の意味とは、たとえば人でいうなら、平均的な人とは真なる人間を表象している (the average person represented the true human being) のであり、平均的な人とは異なる個々人は誤差 (error) であるというものです。
今日、私たちは後に述べるゴルトンの影響で、平均を凡庸 (mediocre) とみなしていますが、ケトレーは平均人 はそれ自体が完璧である (the
Average Man was perfection itself) という考え方を提示しました。
この考え方は多少形を変えた上で現在も残っています。
今日私たちは平均的な人間が完璧だとは考えないが、それでも平均的な人は、集団の典型的な代表、つまりは類型であるとは思っている。人間の心には、人々について考えるやり方を簡略化し、なにかの集団―たとえば「弁護士」「ホームレス」「メキシコ人」―のすべての成員はある共通の特徴をもちその特徴にしたがって行動すると想像してしまう強い傾向がある。ケトレーの研究は、この衝動に科学的正当性を与え、それが休息に社会科学の要石となってしまった。
Though today we don’t think an average person is perfection, we do
presume that an average person is a prototypical representative of a group—a type. There is a powerful tendency in
the human mind to simplify the way we think about people by imagining that all
members of a group—such as “lawyers,” “the homeless,” or “Mexicans”—act
according to a set of shared characteristics, and Quetelet’s research endowed
this impulse with a scientific justification that quickly became a cornerstone
of the social sciences.
Rose, Todd. The End of Average:
How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.403-406). Penguin Books Ltd. Kindle
序論についてまとめた前の記事でも書きましたが、ここでも私なりに補足します。私たちは「平均」を重用し、それに特別な意味付けをしているようです。考えてみれば平均は代表値の一つに過ぎず、代表値にはその他にも中央値や最頻値もありますし、そもそも一つの代表値で考えるべきか、複数の(代表)値の配列状況―つまりは行列―で考えるべきかについては検討が必要なはずですが、私たちはすぐに平均値でもって事を済ませようとします。また、複数の異なる項目の値を合算して合計点を出し、それを決定的なデータと考えたりしますが、それも個々の項目の値の違いを一種、平均化して消去させるものだということも前に述べたとおりです。私たちは平均の考え方についてあまりにも無批判的なのかもしれません。
このように、同一対象への複数の観察結果を平均するという自然科学(天文学)の方法を、異なる対象への観察結果を平均するという形に変えて人間科学(社会物理学)に適用し、「平均」に特別な意味合いを与えたケトレーですが、彼の「平均」の考え方は、ゴルトンに継承され、そして変形されます。
■ ゴルトン(「平均からの差で階層が定まる」)
彼はケトレーとまったく異なり、平均とは、凡庸さ、粗雑さ、平凡さ (mediocre, crude, and undistinguished) を示すものだと考えました。彼は平均的な人間を「凡庸」 (the Mediocre)、平均よりもはるかに高い値を示す人間を「高位」 (the
Eminent) 、低い値を示す人間を「痴愚」 (the Imbecile)[差別語]と呼び、それらの人間はそれぞれの階級
(rank) をなしていると考えました。
簡単に言うなら、ゴルトンはケトレーの考え方のうち、「集団の平均的な成員は集団の類型を表している」という考え方は継承しつつ、「個人の平均からの偏差(違い)は誤差を表す」という考え方は拒絶したかったのだ。この明らかな矛盾をゴルトンはどうやって解決したのだろう。彼は道徳的・数学的な柔術を使った。彼は「誤差」を「階級」と再定義した。
Put simply, Galton wanted to preserve Quetelet’s idea that the average
member of a group represented that group’s type, but reject Quetelet’s idea
that an individual’s deviation from average represented error. How did he
resolve this apparent paradox? Through an act of moral and mathematical
jujitsu: he redefined “error” as “rank.”
Rose, Todd. The End of Average:
How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.467-472). Penguin Books Ltd. Kindle
こうしてみるとゴルトンはかなり偏った人間だったように思えますが、相関 (correlation) は彼がさまざまな特性と階級との関係を立証するために考案した方法です。彼は統計学者としては優秀でした。
ゴルトンは「平均からの偏差の法則」 (the law of deviation from the average) ―訳語はこれで適切なのかどうかわかりません。どなたかご教示をお願いします― を彼の統計学の基礎としました。ある個人について重要なことは、その人が平均と比べてどれだけ良いか・悪いかというものです。(All of his statistical inventions were predicated on what Galton called
the “law of deviation from the average”: the idea that what mattered most about
an individual was how much better or worse they were than the average.) (Kindle
の位置No.488-489).
■ 平均の時代
まとめてみますと、ケトレーの類型に関する考え方は1840年代にヨーロッパを席巻しました。ゴルトンの階級の考え方は1890年代に広がりました。そして1900年代初頭には、ゴルトンの考えであった「人々というものは能力によって低い者から高い者へと集団的に区分できる」という考え方がほとんどすべての社会科学・行動科学に浸透しました。
ここで私なりに補っておきますと、このケトレー-ゴルトンの考え方は、一次元つまり一本の数直線で人々を分類する考え方です。私はこのような考え方を「一元的客観性」や「数直線的客観性」と呼びますす。
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この種の考え方はあまりにも浸透しているので、これについて疑問を覚えない方も多くいるかもしれません。しかし一本の数直線で一元的に人間を評価する代わりに、多元的に評価することを考えてみてはどうでしょうか。一元的・数直線的な人間評価でしたら、「ああ、あの人は(偏差値が高い)○○大学出身だから大丈夫」といったものがあります。その数値(偏差値)だけで、その人に関するほとんどすべてがわかるといった含意さえもっているこのことばを日常生活で聞いたことがある人もめずらしくないと思います。これに対して人間を、たとえば、優しさ・我慢強さ・思慮深さ・行動力・記憶力・論理的推論力・言語的表現力・身体的表現力・社交性・創造性・・・・などのさまざまな観点から多元的に評価するなら、Aランク、Bランク・・・といったように単純な人間の分け方にはけっして同意できないでしょう。
たまたま昨日見た新聞記事に、中学校の道徳の教科書の検定に合格した8社の教科書のうち5社の教科書で、「思いやり」や「愛国心」などの項目について、生徒が自分自身を数値や記号を使って自己評価する欄を設けているということが報じられていました。(朝日新聞2018年3月28日)。その記事によりますと、文科省はこの内容について否定的で「対話や授業の様子から見取るのが基本であり、教員が評価の参考にすることは想定していない」とのことですが、恐ろしいのは、多くの教科書会社が、自主的に、道徳性(あるいはその下位項目とされる「思いやり」や「愛国心」)といった多元的に評価されるべき理念を、5,4,3,2,1やA,B,Cといった一次元の値(順序尺度)に収束しようとしていることです。教科書会社が「この方が売れる」と考えたのか、教科書を執筆した教育学者が「この方が生徒のためになる」と考えたのかわかりませんが、私からすれば恐ろしいことです。ケトレーとゴルトンの考え方が、本当に浸透している証拠と考えるべきでしょうか。
話を本のまとめに戻します。著者のRoseは、ケトレーのゴルトンの考えに導かれてできた「平均の時代」についてまとめます。
平均の時代―1840年代のケトレーによる社会物理学の発明から現在にいたる文化的時代区分―は、社会のほとんどすべての者に無意識のうちに共有されている二つの前提によって特徴づけられる。ケトレーの平均人の考えとゴルトンの階級の考えである。私たちはケトレーのように、平均は正常性を示す信頼できる指標であると考えるようになった。それは特に心身の健康状態や性格や経済状況において顕著だ。私たちはまた、人がなすことの狭い範囲を測定することで決められた階級で人の才能は判断できるとも考えるようになった。これら二つの考えが、世界中で現在、教育システム、多くの雇用慣習、従業員業績評価を構成する原則となっている。
The Age of Average—a cultural era stretching from Quetelet’s invention
of social physics in the 1840s until today—can be characterized by two
assumptions unconsciously shared by almost every member of society: Quetelet’s
idea of the average man and Galton’s idea of rank. We have all come to believe,
like Quetelet, that the average is a reliable index of normality, particularly
when it comes to physical health, mental health, personality, and economic
status. We have also come to believe that an individual’s rank on narrow
metrics of achievement can be used to judge their talent. These two ideas serve
as the organizing principles behind our current system of education, the vast
majority of hiring practices, and most employee performance evaluation systems
worldwide.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.495-501). Penguin Books Ltd. Kindle 版.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.495-501). Penguin Books Ltd. Kindle 版.
つまりケトレーとゴルトンによって、「特定個人を理解できるのは、その人が属する集団との関係によってのみであり、それゆえ、新しい社会科学の観点からするならば、個人というものはほとんどまったく無関係なもの」 (any particular person could only be understood by comparison to the
group, and therefore, from the perspective of the new social sciences, the
individual was almost entirely irrelevant) (Kindle の位置No.509-511) という考えが広まったわけです。
もちろんこの考えに批判的な人もいました。たとえば1864年のエッセイでイギリスの詩人 William
Cyples は、平均を巧みに使いこなすばかりの科学者や官僚を「平均主義者」
(averagarians) と呼んで批判しました。
しかし、個人を類型と階級に当てはめることで理解できるという考え方は現在も強く残っていることは何度も言うとおりです。著者は言います。
類型にあてはめることと階級にあてはめることは、まったく基本的で自然で正しいことのように思われるようになったので、私たちはもはや、そのような判断は常に判断される個人の個性を消去してしまっているという事実を意識しなくなった。ケトレーから一世紀半たった今、まさに19世紀の詩人や医者が恐れたように、私たちは皆、平均主義者となってしまったのだ。
Typing and ranking have come to seem so elementary, natural, and right
that we are no longer conscious of the fact that every such judgment always
erases the individuality of the person being judged. A century and a half after
Quetelet—exactly as the poets and physicians of the nineteenth century
feared—we have all become averagarians.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.541-543). Penguin Books Ltd. Kindle.
Rose, Todd. The End of Average: How to Succeed in a World That Values Sameness (Kindle の位置No.541-543). Penguin Books Ltd. Kindle.
現代日本の私たちも「平均主義者」になってしまったことは、上の道徳教科書のエピソードだけでなく、これまた昨日私がたまたま読んだ内田樹先生のエッセイから読み取れます。
内田先生は、国語教育の重要な目的は、生徒が自分の「ヴォイス」(その人固有の「声」)を見つけることであると考え、次のように講演を締めくくっています。
そして、「ヴォイスの発見」は、査定したり、点数をつけたり、他人と比較して優劣を論じたりするような営みではありません。そんなことをすれば、むしろ深く傷つけられてしまう。これは、今の学校教育システムが成績査定と縁を切らない限りはどうしようもないのですが。でも、成績をつけることはとりあえず国語教育にとっては有害無益なことだと僕は思っています。仕方ないとはおもいますが、国語についてだけは、本当は成績をつけてほしくない。どうして子どもたちの知性や、想像力や、自分自身の限界を超えようという自己超越の努力に点数をつける必要があるんですか。そんなものは点数化して語るべきことではないんです。彼ら一人一人の問題なんですから。
http://blog.tatsuru.com/2018/03/28_1751.php
http://blog.tatsuru.com/2018/03/28_1751.php
もし国語教育の目的が、学習者一人ひとりが自分の「ヴォイス」を見い出すことなのでしたら、確かに、学習者が平均からどれだけ離れているかといった集団との関係でで評定することなど有害無益でしょう。それぞれの学習者が一人ひとりで見出そうとしている、を「類型」や「階級」に入れてしまうことで、彼・彼女らが一人ひとりで見出そうとしている、他ならぬ自分に適した、声、語り方、ことばの選び方、ことばの組み合わせ方、論の進め方、記述対象との距離のとり方、相手との関わり方、言いよどみ方、などなどの細やかな側面を乱暴に切り捨ててしまうからです。
と、このような話をしますと、口を尖らせながら「そうは言っても、学校教育に評価は必要ではないですか」と反論、というより思考拒否の意を示してくる人がいますが、私が問いたいのは、「どのような場面で、なぜ、学校教育に評価―正確に言うなら評定 (rating) や測定 (measurement) ―が必要なのですか?それを明らかにしたら、その他の不要でおそらくは有害無益な評定や測定を廃止しませんか?」ということです。
この本のまとめをこれからも続けることで、学校教育における評価(評定・測定)についても考え続けたいと思います。
追記
このまとめ記事は、翻訳書を参照する前に書いたものです。