2018年1月29日月曜日

広大教英卒業の江澤隆輔先生、山岡大基先生、胡子美由紀先生による著作



年々と自由に使える時間が少なくなり、また使える体力も少なくなっているため、私は多くの方々からいただいた本の感想をこのブログに感想を書くこともなくなってからずいぶん長くなりました。本をお送りくださった皆様方には本当に失礼ばかり重ねております。

それでもこのたび、広大教英の卒業生が相次いで本を出版しましたので、所属講座としてもこれは誇るべきことだと思い、ここに短い紹介文を書かせていただきます。

1冊目は江澤隆輔先生による本です。タイトルは『苦手な生徒もすらすら書けるテーマ別英作文』で明治図書からの出版です。








タイトルから想像しますと、この本は単なるドリル集ワーク集と思われるかもしれませんが、実際は大きく異なり、非常に手堅く丁寧に考え抜かれた実践の知恵がまとめられた本となっています。この本は単なるドリル集ワークショップではありません。それぞれの項目に対して、著者の明確なねらいが書かれています。

職業柄、私も多くの授業を見させてもらいますが、授業案で単元の目標や生徒観といったここで言うねらいに相当する項目がきちんと書かれている授業者の授業とは大抵が素晴らしいものです。

江澤先生もこの本で、それぞれの活動が中学校3年間の中でどのように位置づけられるか、そして具体的には英語の学びとしてどういったことに気をつけるべきか、ということを的確に書いています。その上でドリルやワークが与えられるのですが、それに対しても模範解答だけではなく生徒の解答例やよくある間違いといった、深く実践をしている教師ではないと知ることができない実践の深い知恵が惜しげもなく書かれています。

この本は、江澤先生の実践が「ベネッセ教育総合研究所 VIEW21 2017 英語4技能育成特集号」に取り上げられたことを機会に編集者の目に止まり出版にいたったとも聞いています。鋭敏な編集者に見出され編集されたこの本は非常に良い本だと思います。



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次の本は山岡大基先生による『英語ライティングの原理原則』(テイエス企画)です。




山岡先生はおざなりの、どこかで聞いたことがあるようなことを安直に繰り返して言うような事は決してしない実践研究者です。実践の中で工夫され試されたことを、自ら文章化しそしてれについて反省的に思考することで鍛えぬかれた知恵をわかりやすく具体的に伝えるスタイルが山岡先生の流儀です。

この本ではそんな山岡先生の実践と思考のエッセンスが、日本語話者が英語でいわゆる「意見文」を書く際に体得しておくべき16の原則および7つの工夫として書かれ、練習問題とその解答例もつけられた本です。

16の原則は、
◎原理原則 1 センテンスは「前半」と「後半」に分けて考える
◎原理原則 2 文の前半は「トピック」、後半は「コメント」を述べる
◎原理原則 3 読み手の疑問に答える文を書く
◎原理原則 4  1つの文では1つのことだけを言う
◎原理原則 5  1つのパラグラフは1つのトピックについてだけ述べる
◎原理原則 6 パラグラフは最初に「着地点」を示す
◎原理原則 7 パラグラフではセンテンスに役割分担をさせる
◎原理原則 8 パラグラフはストレートに「まとまり」を作る
◎原理原則 9 トピック・センテンスは十分に絞り込む
◎原理原則 10 パターンに沿って「まとまり」を作る
◎原理原則 11 パラグラフは「抽象から具体へ」
◎原理原則 12 「既知→未知」の情報構造を作る
◎原理原則 13 「フォーク型」でつなげる・「階段型」でつなげる
◎原理原則 14 文には明確な役割を与える
◎原理原則 15 意見文は3段構成で書く
◎原理原則 16 読み手に納得してもらえるように書く
です。

7つの工夫とは
1 能動態を使う
2 人を主語にする
3 日本語的発想による名詞句は避ける
4 情報の関連性と重要度で語順や構造を柔軟に入れ替える
5 分詞構文を活用する
6 具体的に表現する
7 パラレリズムに配慮する
です。

見ていただいたらわかるように、英語を書くことの経験を積みそれについて考えた者ならなるほどと膝を叩きたくなるような工夫がまとめられています。(ちなみに山岡先生は、Routledge社から出版されたAkira Tajino (ed.) (2017) A new approach to English pedagogical grammar: The order of meaning. の著者の一人でもあります)。




山岡先生のこの本の英文の音声ファイルはダウンロードをすることができます。その意味でも、大学受験で英作文を本気でやろうとする高校生や、英文レポートを書く大学生、あるいは各種資格試験のスコアアップを図る方あるいはそういった方々を指導する英語関係者には良書ができたと言えるのではないでしょうか。

著者の意図は、単なる技術的書を上梓するだけにとどまらず、前書きにもありますように、ことばの力という実社会で生き抜くための平和的な武器を1つ手に入れるために英語を書く力をつけるという目標理念に貫かれております。英語ライティングに興味のある方はぜひご覧ください。


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3冊目の本は、大変紹介が遅れてしまいましたが、胡子美由紀先生による『英語で行う英語授業のルール&活動アイディア』(明治図書)です。




この本は胡子先生の前著に引き続き、人生という大きな文脈で中学生をどう育てるかとう中学英語教師の知恵が書かれております。

その知恵を端的に申し上げますならば7ページにもありますように、以下のことに留意して授業を組み立てることになります。

1 生徒が自分の伝えたい内容メッセージを持っていること
2 生徒が頭と心を使いよく考えること
3 生徒同士が伝え合う場面があること
4 生徒が英語を発話できる発音を身につけていること
5 生徒の中に仲間を受け入れようとする温かい気持ちがあること
6 教室の適切なクラスマネジメントがあること

しかしこういった知恵を文字面だけで見てしまうと、これは常識的なことに過ぎないと思われる方もいらっしゃるかもしれません。ですが胡子先生のような優れた実践者の具体的で深い記述を読むと、こういった「常識的なこと」の深さ広さがよくわかってきます。

これから中学校でも「英語の授業は英語で行うことを基本とする」という方針―私個人の意見を言いますならば、現実をよく見ていない焦った方針―が文部科学省の学習指導要領によって推進されます。その方針をむやみに文字通りに墨守すれば、教師は英語で授業を行うことばかりに注意を取られ、生徒がますます取り残されることが十分に予想されます。文科省が思考力・判断力・表現力や、アクティブラーニング、もしくは主体性・対話性・深さあるいはといった理念で示した方向とは逆方向に向かっていくかもしれません。

現在小学校英語教育の導入が問題になっており、実際これは本当に大変な問題ですが、小学校英語教育が変わると中学校英語教育も大幅に変わらざるをえません。いわば上からは英語で授業をしなさいという変化、下の方からはこれまた早急に教科化された小学校英語教育によって英語を学んだ子どもたちが入ってくると言う変化に挟まれて、中学校教員はこれまで以上に創意工夫が必要になるでしょう。そういった中、胡子先生のような優れた実践者の本を読み、自分たちが直面していることの意味を探り、その意味に向かって英語教育実践を開拓することはますます重要になってゆきます。

小中高の現場で教えながら本を出版することは並大抵のことではありません。それを、自らの教育に対する情熱と、鍛え抜かれた仕事力でなしとげた教師が、最近だけでも三名もいるということは、私たち広大教英が誇ること(そして現在教英を預かっている教員が頭を垂れなければならないこと)だと思い、ここに小文を連ねた次第です。

こういった著作、そしてこういった著作を上梓しようとする志に励ましを受け、毎日を過ごしてゆきたいと思います。






2018年1月22日月曜日

復旧しました(2018/01/23) → 現在、資料ダウンロードができなくなっています(お詫び)


以下の件は解決し、ファイルもダウンロードできる状態に復旧しました。お騒がせいたしました。

2018/01/23
柳瀬陽介

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現在、私がファイル公開のために使っているクラウドサービスとの間で手違いが生じ、私のブログからダウンロードできるはずのファイルがすべてダウンロードできない状況になっております。

現在、復旧に向けて手続きを進めております。

しばらくご不便をおかけすることをお詫び申し上げます。

2018/01/22
柳瀬陽介

2018年1月8日月曜日

伊藤穰一、ジェフ・ハウ著、山形浩生訳 (2017) 『9プリンシプルズ:加速する未来で勝ち残るために』早川書房



 私は最近、「情報革命」という今では古びてしまったようなことばの意味を再認識していますが、そのきっかけとなったのがこの本です。買って数度読み返し、原著もチェックしました。以下は、私なりのこの本のまとめと蛇足(⇒印)です。まとめにも私の見解(そして誤解)が混入していますので、この本に興味をもたれた方はぜひご自身でこの本をお読みください。


■ この本の前提

 無意識・前意識の想定や信念の集合(エピステーメーやパラダイム)がそれぞれの時代を特徴づけている。現在は、技術(特にムーアの法則のペースで高度化する大規模集積回路と、あらゆるものをつなごうとするインターネット)の進展が私たちの社会的理解を追い越してしまった時代であり、絶え間ない変化が続く時代なのでこれまでとは異なった新しい考え方が必要となっている。

 現在は、「複合性」 (complexity) 、「非対称性」 (asymmetry) 、 「不確実性」 (uncertainty) という条件のもとで変化が生じ続けている。ますます高度化する技術のおかげで、複雑に絡まりあった関係性の中で(複合性)、小さな存在でも大きな存在を脅かすような変化を起こしうる(非対称性)など、誰にとっても先が見通せない時代となっている(不確実性)。未来は予測できないという前提で、組織やキャリアを再構築するには、本書で述べる9つの原則などを理解することが重要だ。

 著者の一人の伊藤穰一は、MITメディアラボの所長であるが、この本の9つの原則はそこで共有されているものである。だがその9つの原則以前の前提は、「教育よりも学習を優先させる」 (putting learning over education) ことである。他人からの働きかけを待つのではなく、自分で動くということだ。

⇒現代を特徴づけることばとして、VUCA (Volatality, Uncertainty, Complexity, Ambiguity) もあるが、要は、世の中ががますます複合的になり(複合性)、短期間のうちに小が大をひっくり返すことも珍しくなくなり(激変性)、先行きはますます不透明になっている(不確実性)ということだろう。

関連記事
山口周 (2017) 『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』 光文社新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/09/2017.html

しかし、状況が大きく変わってもなかなか変わらないのが人間の基本的な考え方・行動様式である ("Old habits die hard)。別にこの本が真理を告げているわけでもないが、私たちは自分たちの常識や前提を根底的に疑う必要があるだろう。言い換えるなら、哲学を実践することが必要ということだ。



1 権威よりも創発 (emergence over authority)

 創発は、ネットワークでつながった大量の小さな個体が単純な基本的な選択を行う時にネットワーク全体で示す、どの個体の能力も超える性質であり、その例は粘菌、バクテリア、神経細胞、人々と枚挙にいとまがない。これまでの組織論では、権威ある指導者が指令を出して、成員はそれに従うといった考え方が強かったが、これは創発の考え方とはまったく異なる。権威主義的なシステムは漸進的な進歩しかできないが、創発システムは急速な変化に素早く対応できる非線形イノベーションを育みうる。

⇒創発概念に関して、私は20年ぐらい前に、ハイエクの自生的秩序 (spontaneous order) の概念に非常に啓発された。以下は今から10年以上前の2006年に出版していただいた本の中の一節です。この中で、私は英語教育の新しい形は、創発させるべきと主張しています。その主張は近日中に紹介するシンポジウムの中でも繰り返し語っています。

英語教育界を、(義務教育以上の)各学校をエージェントとする自己組織的あるいは自生的秩序的なシステムにしてしまうわけです。

 これは日本の英語教育界全体を一つの統合的な「組織」とする従来の発想とは異なると私は考えています。この「組織」(organization)とはハイエクの概念(理念型)で、ある特定の目的のために設計された命令体系を持った秩序のことです 。組織の典型例は企業ですが、私の主張したいのは、英語教育界というのはいまやあまりに巨大で複雑でありすぎるので、もはや特定の目的だけで全てを指令するのは困難であり、そもそも従来もそのような指令体系は十分には持っていなかったということです。中高の英語教員は約6万人ですが、その英語教育界が、例えば従業員数(単独)65,994人のトヨタ自動車株式会社 と同じような規模と機能の指揮命令体系を持っているとは私にはとても思えません。ですから日本の英語教育界を、文部科学省を頂点に抱く「組織」と考えるよりも「自生的秩序」として考えようというのが私の意見です。

 「自生的秩序」(spontaneous order)とは、同じくハイエクの概念で、誰もその結果を予見することも設計することもなかった進化過程の所産です。それは異なる多様な目的を首尾よく追求することを可能にし、かつそのように複数の異なる目的が様々に追求されることによって成立する秩序です。この秩序の典型例は社会です。私の主張は、英語教育界を組織より自生的秩序の側に近づけて認識しようというものです。

(中略)

ですから私としては、英語教育界全体はあくまでも自生的秩序として、全体計画は最小限の公共的なものに抑えて、しかし(義務教育以上の)各学校はそれぞれが組織として、その自律性を高め、それらが相互影響を与え合うなかで、英語教育界が進化してゆくという認識を明示的に共有するべきと考えます。英語教育の原理は各学校内外の関係者のコミュニケーションによって決められ修正されてゆくものであるという合意こそが英語教育が目指すべき道だと私は考えます。






2 押し出す力よりも引き出す力 (pull over push)

 これまで集団を組織する場合は、集団成員を囲い込みその成員に指揮命令を与える(=「押し出す」)アプローチが主だったが、ネットワーク時代には、さまざまにつながった不特定多数の人々から、必要なものを必要な時に「引き出す」アプローチの方が効率的である(典型例が3.11の震災の後の日本政府の対応とSAFECASTの働きの差)。変化の激しい現在においては囲い込んで抱え込んだ資産は管理維持ばかりにコストがかかる負の資産になるかもしれない。やはり時代はストックからフローの時代へと変化しているのだろう。

 ネットワークの中で弱いつながりをもつ人々からは思いもかけない提供が得られる、強いつながりをもつ人々からは運動を確固たるものにする働きが得られる。そのためには日頃から探究的で好奇心に満ちあふれて開かれたネットワーク構築に力を注ぎ、自分が他人から何かを「引き出す力」(社会関係資本と言い換えていいのだろうか?)を育てておく必要がある。

⇒この章はことさらに面白く、深いことを語っているようなので、私は今、この章で再三引用された The Power of Pull: How Small Moves, Smartly Made, Can Set Big Things in Motionを読んでいるところです。






3 地図よりも方位磁石 (compasses over maps)

 予測不能な世界では、目標地点までの最適経路を記した詳細な地図を作るコストが非常に高くなる、というより事実上不可能なため、大まかな方向を示す方位磁石を頼りに、その都度その都度に道を見つけ出して、目標地点あるいは予想外のすばらしい地点にたどり着く方が合理的である。

 メディアラボのメンバーは、「比喩的に言えば、独自のアルゴリズムを走らせていて、相互に、さらには各種の内外システムと相互作用」し、全体として「ありえないほど複合的でとてつもなく活発で、最終的には自己適応的になるシステム」 (an impossibly complex but very vibrant and, in the end, self-adapting system) を作り出す。メディアラボのどの部分も全体をすべて理解することもコントロールすることもないが、みんなだいたい同じ方向には向かっている。メディアラボのメンバーは「独自性、インパクト、魔法」 (Uniqueness, Impact, and Magic) という基本原則を共有しているだけである。

 伊藤穰一は、頭がよく好奇心に満ちたメンバー全員を理解したり予測したりすることは不可能だということを受け入れた上で、所長としてはルールや戦略でなく文化を、ミッションステートやスローガンではなく独自の神話体系 (a system of mythologies) をむしろ大切にしている。

⇒いかなる組織もこの原理で運営されるべきとまでは言いませんが、少なくとも創造的であるべき研究組織(ゼミ、講座、学会など)はこのようにありたいと思います。その際に大切なのは文化であり、その文化をどのように伝えるか(メール、ブログ、イベント、音楽など)という伊藤氏のことばは洞察にみちていると思います。組織の文化・神話体系をどう活性化させるかという身体的な側面に私たちはもっと注目するべきでしょう。



4 安全よりリスク (risk over safety)

 中国のシンセン (Shenzhen) は、今や世界のものづくりの最先端都市である。実験や失敗といったリスクの許容度がアメリカよりもはるかに大きい文化をもつことがシンセンを最先端都市にした。今やシンセンはシリコンバレーと同様に独自の生態系をもっているといえる。

⇒これについては、オーディオに興味がある私としては以下の記事を興味深く読んだ。シンセンで「機器の概要を伝えて設計を頼むと、3、4日後にはプロトタイプになって送られてくるのだという。そんなスピード感で仕事ができる人はほかに知らないし、日本のメーカーに頼んだりすると、そもそもその仕事を受けるかどうかの議論だけで数週間が経過するといった具合で、話にもならない」という。

深圳のエンジニア社長から感じた、中国オーディオメーカーが持つ強さの理由
https://av.watch.impress.co.jp/docs/series/dal/1094812.html



5 コンプライアンスよりも不服従 (disobedience over compliance)

 言い切ってしまうなら、「言われた通りにする、あるいは誰かの青写真にしたがうことでノーベル賞をとった者はいない」 (Nobody has ever won a Nobel Prize by doing what they're told, or even by following someone else's blueprints)し、「市民不服従なくしてアメリカの公民権運動は起こらなかった」 (the American civil rights movements wouldn't have happened without civil disobedience) のだ。ナイロンやスコッチテープは、研究所の上司の管理を巧みにかいくぐった反抗的な科学者によって発明された。こういった科学者は不服従という道を選んでも、自由に研究することの情熱を絶やさなかった。また、インターネットの先駆者はだれもビジネスプランなどもたなかったし誰かに許可を求めることもしなかった。

 こういった人々に、予め上司が、何が「正解」でどうすれば「合格」なのかを伝えるようなことをしてはならない。また、不服従を選びながら何かに熱中している人は、ただ口先だけで上司の批判をしている人とは異なり、実際に手を動かして何かを創造しようとしていることも忘れてはならない。

⇒このあたりに関しては、山口周氏による『世界で最もイノベーティブな組織の作り方』で紹介されるエピソードが圧倒的に面白い。私は山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』以来、山口氏の著作に注目しています。哲学(美学)とビジネス経験に裏打ちされた山口氏の論考はとても現実的で、私はいろいろ学ばせてもらっています。


 
6 理屈よりも実行 (practice over theory)

 変化が加速する時代では、理屈を立てている暇があればとにかく実行してその経験(成功や失敗)から学んだ方が早い。理屈に基づいた計画がなければ、許可を待つこともないし修正変更をすることにも躊躇はいらない。理屈に基づいて予め定められた数値目標 (metrics) が重視されると、漸進主義 (incrementalism) だけになりイノベーションの芽がつまれる。

 また、現在、プログラミング教育で計算機的思考能力を育む試み実を結びつつあるが、そういった能力は標準化テスト (standardized tests) で測定することは容易ではないことも忘れてはならない。だが、ほとんどのアメリカの学校は標準化テストで管理されている。

⇒ 上の論点は、私が今年の8月9日に登壇させていただくLET全国大会パネルディスカッションにも関わるので、興味ある箇所の拙訳を以下に掲げる。


「このままでは、金持ちのための学校と貧乏人のための学校という二種類の学校制度に分かれてしまうかもしれない」と、言語学者・教育者・ゲームデザイナーのジェイムス・ジーは語る。貧乏人向けの学校はテストのための教育をして、共通カリキュラムに即したままで、「基礎は保証するが、子どもをサービス職向けの人材にしてしまう」。これに対して金持ち向けの学校では問題解決やイノベーションや新たな知識を生み出すための技能が強調される。「こちらの子どもはグローバルシステムでうまくやってゆけるようになるだろう」。

Ito, Joi. Whiplash: How to Survive Our Faster Future (p.164). Grand Central Publishing. Kindle 版.


 教育と学習を区別した上で学習について語る際に私たちが伝えたいのは、伝統的な一方向でトップダウンの知識伝達システムを、活動的に他人とつながりながら学ぶことを学習者に教えるシステムに変えようということだ。教育とは他の人があなたに対してなすことであり、学習とはあなたが自分自身に対して行うことだ。

 学習を志向するシステムは、学習者の興味に価値をおき、学習者が自分の興味を発見し追求するために必要なツールを与える。生徒に、自分用のカリキュラムを作成し自分にあったメンターを探し出して友だちと知識を共有することを許すなら、制度化された教育機関でもエビデンスに基づいて教育の方法と順序を決めるアプローチを使いながらこのシステムを導入することができる。

 学習者を夢中にするためには、学習志向システムの社会的な側面がことさらに重要である。ジョン・デューイはおよそ1世紀前にこのことに気づき (14)、学習者の生活と学習を綻びなく統合することを求めた。これまでに多くの研究が、人がもっとも学ぶのは、学習内容を、自分の興味や自分の個人的な人間関係や自分が追求したい機会に合わせた時であるといことを明らかにしてきた。しかし、アメリカを始めとした多くの国々でいまだに伝統的な教育システムが、数値目標を基盤として学習者を孤立させるアプローチを採択している。このアプローチは、12年間ほど十分に厳しい教育を与えれば子どもは急速に変化する社会・経済環境において卓越できる技能を身につけるだろうと想定しているが、これは時代遅れのモデルである。(15)

(14) John Dewey. (1913) Interest and Effort in Education.
https://en.wikisource.org/wiki/Interest_and_Effort_in_Education
https://archive.org/details/interestandeffor00deweuoft
(15) The educational value of creative disobedience
https://blogs.scientificamerican.com/guest-blog/the-educational-value-of-creative-disobedience/
Ito, Joi. Whiplash: How to Survive Our Faster Future (p.167). Grand Central Publishing. Kindle 版.

 このモデルは丸暗記と個人ベースのテスト受験をいまだに重視しているが、これはインターネットにアクセスできない山頂にHBの鉛筆だけもたせて座らせていることと同じだ。しかしこれからの数十年でもっとも成功するのは、自分のネットワークから自分が必要とすることを学習して、生じてくる新たな課題に対応できる人である。ここで「教育よりも学習」という原則が、「押し出す力よりも引き出す力」という原則と重なり合う。学習者に知識をストックさせるよりも、学習者に権力を与えて自分のネットワークから自分が必要とするものを必要とする時に引き出させるべきだ。そうすれば学習者は、生涯を通じて自分を助けてくれる自分の社会的ネットワークを成長させ豊かにしたうえでうまく使いこなすために必要な技能も育てることができるだろう。

Ito, Joi. Whiplash: How to Survive Our Faster Future (p.168). Grand Central Publishing. Kindle 版.


7 能力よりも多様性 (diversity over ability)

専門家が寄ってたかっても解けない問題がある場合は、その種の専門家とはまったく違った能力をもった部外者を招いた方が快活する場合が多い。しかしその際に重要なのが多様性である。クラウドソーシングの効力は、クラウドの多様性の関数 (a function of the diversity that naturally occurs in any large group of people) とも言われている。能力は重要だが、全体的に考えるなら能力は収穫逓減となる (Ability matters. But in the aggregate it offers diminishing returns: Scott E. Page.)。

参考記事
The Value of Openness in Scientific Problem Solving
https://hbswk.hbs.edu/item/the-value-of-openness-in-scientific-problem-solving
Scott E. Page The Difference: How the Power of Diversity Creates Better Groups, Firms, Schools, and Societies.
https://press.princeton.edu/titles/8757.html



8 強さより回復力 (resilience over strength)

 変化の激しい時代には、強さを求めて予めさまざまな資源を確保し手続きを整備しておいたり失敗を否定したりすることよりも、失敗を受け入れて素早く対応しやり直すことの方が合理的である。著者の一人のジェフ・ハウのことばを引用するなら「勝とうとすることによって、必ず負けてしまう。成功をおさめようとすれば、勝ち負けなどはなく、展開する出来事がありそれに対する反応のあり方だけがあるのだということを受け入れなければならない」 (By trying to win, I’ll always lose. Only when I accept that there will be no winning or losing, just events unfolding and the way I chose to react to them, do I succeed. (p.213)) のである。

⇒研究は、もちろん確かな知識を伝える活動で、その成果は論文や本といった完結した形で結晶化されるべきだろうが、その一方で、どんどん仮説を提示しては修正してゆく形の活動も重要になっていくだろう。ケヴィン・ケリーの考え方にもつながるが、そもそも研究の「成果」とは、論文や本などの「結果」である以上に、変化生成してやまない活動の「過程」つまりは文化と考えることも可能だろう(冒頭に述べたように私は今、常識や前提を疑うという実験を行っている。そもそもこのブログという活動もそのような実験なのだが)。



9  モノよりもシステム (systems over objects)

 現実世界問題を解決するためには、しばしばモノを供給するだけでは不十分で、その現場にシステムを作らなければならないことが多い。このアプローチの発展形が参加型デザイン (participatory design) やコデザイン (codesign) であり、そこでは関係者全員がシステムのデザイン(構築・運営)に何らかの形で携わる。このシステムも複合的な自己適応的システムであり、誰もその結果を予測することもコントロールすることもできないが、それぞれの参加者は自分たちの介入を認識し理解し責任を負うことはできる。これはロボットや車のデザインではなく、子どもを育ててその発達に影響をもたらすことに似ている。

Participatory design
https://en.wikipedia.org/wiki/Participatory_design

⇒これはとても深い洞察だし、現実の諸問題を見ていてもその通りだと思う。学校現場にしても、何かの新しい機械や教授法を導入しただけで問題が改善することなどほとんどない。私たちは、当該共同体という社会システムに入り込み、そこでその中の複合性・不確実性・激変性を身体で感じながら、相互作用の網を作り上げてゆかねばならない。共同体を単純系と考え、自らが外部者としてあるモノをそこに投入するだけでその共同体を思うように変化させることができるというのは、fatal conceitなのかもしれない。


■ 結論

現在私たちが必要としている新しい考え方への移行は、四足動物が二足歩行を学ぶことに匹敵するほどの認知的進化 (cognitive revolution) なのかもしれない。

⇒この比喩は秀逸。少なくともインターネット以前の私たちの知的生活と、現在の知的生活は、徒歩とバイクぐらいには異なるだろう。私たちの知的な行動範囲は桁違いに広がっている。もっともその行動範囲がネコ動画やゴシップに向かっているだけなのかもしれないし、徒歩で旅していた頃の方が考えが深かったのかもしれないが・・・



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山形浩生×伊藤穰一「面白いものは探しに行くのではなくて、フィルターを外すと見えてくる」:『9プリンシプルズ』インタヴュー
https://wired.jp/2017/08/01/yamagata-joi/

バラク・オバマと伊藤穰一の対談(書き起し翻訳)
https://wired.jp/special/2016/barack-obama/

YouTube動画:バラク・オバマ×伊藤穰一 on WIRED (日本語字幕付き)





 






2018年1月5日金曜日

ケヴィン・ケリー著、服部桂訳 (2016) 『<インターネット>の次に来るもの 未来を決める12の法則』 NHK出版


雑誌Wiredの初代編集長であるケヴィン・ケリー氏の近刊についてまとめました。私は翻訳書を読んだだけで原著をチェックしていませんが、この翻訳は非常に読みやすく、読者の一人として大変ありがたく読みました。

私は20年前にホームページを始めた頃、情報革命で時代が大きく変わっていることを痛感していたつもりでしたが、情報革命ということばから新鮮さが失われた今頃になって、この革命の大きさを再び痛感しています。革命期に重要なのは、考え方を根底的に変えることです。その困難なことを少しでも行うために、このお勉強ノート(プラス私の駄言(⇒印))を作成しました。



 


この本は現在の大きな流れを12の法則にまとめて解説していますが、翻訳書はその流れをすべてカタカナで表記しています(もっとも、前書きに訳者なりの訳語は書かれていますが)。私個人は、「翻訳においてはできるだけカタカナ語を排すべき」「英語の知識を前提とした日本語訳は翻訳としては不十分」といった信条をもっていますが、これほどに世の中の流れが早いと、この翻訳書のように(あるいは落合陽一先生のように)カタカナ語を多用することも仕方がないのかなとも思えてきます。ある程度の知識を得るための日本語使用には、英語の知識が前提とされている時代に入ってきたのかもしれません。改めて日本の言語教育について考えなければと思います。

参考記事
水村美苗『日本語が亡びるとき ―英語の世紀の中で』筑摩書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/2008_16.html
橋本治(2010)『言文一致体の誕生』朝日新聞出版
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/09/2010.html
福島直恭(2008)『書記言語としての「日本語」の誕生 ―その存在を問い直す』笠間書院
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/08/2008.html


ともあれ、以下は私なりのまとめ(と駄言)です。12の法則は、私なりに漢字に翻訳してみました。


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1 過程化 (Becoming)

 今や製品は(たとえばデジカメでも)、買ったら終わりではなく、買った後もアップデートが続き、製品は過程化している。変化は止まらないので、変化していることが当たり前となる。

 インターネットも創造されてから8000日程度だが日々変化し、私たちはその変化になかなか気づかなくなってしまっている。しかし20年前のインターネットと現在のインターネットは別物と言っていいぐらいである。しかしこの変化の多くは、コンテンツの運営会社というよりも利用者がさまざまな入力をしたからだ。2050年の人間が今の状況を見たら、現在は可能性のフロンティアが広がっている時代に思えるだろう。

⇒「変化し続けることが常態」という前提を受け入れ、なおかつ変化に対して鋭敏であることが必要だとしたら、学校教育はそういった考え方と感性を教えているのだろうか。むしろ抑圧していないだろうか?


2 頭脳化 (Cognifying)

 私たちが気づかないうちに、さまざまなAIが製品やサービスに組み込まれて、それらの作動を改善している。今後は「XにAI機能をつける」という形でいくらでも事業計画が立てられるだろう。

 グーグルも、当初から「検索エンジンを作る」というより「AIを作る」ことを目指していた。グーグルはAIを使って検索機能を改良しているのではなく、検索機能を使ってAIを改良している。あらゆるものの頭脳化は、クラウド・コンピューティングによって強化される。クラウド・コンピューティングはネットワーク効果(収穫逓増の法則)に従う。

 AIはますます強力になるだろうが、それらのAIの99%は、特定機能だけをこなす「弱いAI」であり、自意識をもつような「強いAI」はほとんど作られないだろう(むしろ私たちは進化するAIに自意識が生じないように設計するべきなのかもしれない)。AIが人間とは異なる思考をすることは短所でなく長所であるととらえるべきだ。AIということばは、Alien Intelligenceの略号となるかもしれない。AIによって私たちは「人間とは何か」という洞察を深めることができる。

 これからの仕事を、私たちとロボットの関係から分類すると次の4つに分けられる。

(1) 人間ができるが、ロボットの方が上手にできる仕事
(2) 人間にはできないが、ロボットができる仕事
(3) 我々が想像もしなかった仕事
(4) まずは、人間にしかできない仕事

 私たちはロボットと競争するのではなく、ロボットと協調して働くことが求められる。

⇒「外国語学習にAI機能をつける」とはどういうことだろう。スマホでもできるDuolingoのアプリぐらいしか今のところ思い浮かばない自分の想像力の貧困さが嘆かわしい。

上の四種類を教師の仕事でいうなら、(1)として採点業務が、(4)として個々の学習者に寄り添うことがすぐに思い浮かぶが、(1)をすぐにスタートさせることもできず、かといって(4)に大きな自信をもっているわけでもない。想像力を働かせ、自分の人間らしさを開拓しなければと思わざるを得ない。


3 流動化 (Flowing)

 インターネットは、データを瞬時に複製し世界的に流通させることができる。私たちは今、コンピュータ化の第三段階にいる。

(1) 古いメディアの模倣をする段階(例、「デスクトップ」「フォルダー」「ファイル」)
(2) ウェブの原理での体系化が始める段階(例、ファイルはページとなり、ページはフォルダーでなくウェブに並べられる)
(3) 流れとストリーミングが主流になる段階(例、瞬時の反応や決済。多くをリアルタイムで処理)

 この流動化の傾向が強まるにつれ、コピーできないもの(例、信用)の価値が高まり、データは他のデータとリンクされ協働的な生成の流れに乗ることが重要になった。

⇒私はホームページ・ブログを始めて20年になるが、まだ十分に流動化の波に乗れていない(というより、英語圏の潮流には入り込めてすらいない)。もっと自分の活動を流動化して、折々にその流れの勢いを論文という形に結晶化しなければと思う。


4 投映化 (Screening) 

 グーテンベルグの印刷革命は世界を変えたが、今や私たちは50億を超えるデジタルスクリーンが世界を変える過程の中にいる。デジタルスクリーンではことばと画像・音声が徐々に融合している。また「本」も完成・完結したものから、編集されタグ・リンク付けされシェアされ書き足されたりする(ウィキペディアのことを考えてみよう)。言い換えれば、デジタルスクリーンへの投映化へと移行するにつれ、本も過程化・頭脳化・流動化する。科学でも同じことが起こっている。

 またデジタルスクリーンは私たちに見られるだけではなく、私たちを見ることもできる。私たちの行動を観察して即時にそれに対応することもできる。このことによってさらに革命的な変化がもたらされるだろう。

⇒この点、学校教育の中心媒体が印刷本と黒板というのはいかにも時代遅れだと思う。と言う私とて、板書をパワポで投映しその形で学生に配布し、学生からの感想をBb9に書かせているぐらいだから、私のコンピュータ化もまだ「古いメディアの模倣をする段階」にすぎない。もっとコンピュータ化を進めなければ。


5 共有資産化 (Accessing)

 ウーバーは一台も車を所有せず、フェイスブックは一つもコンテントを作っていない。エアビーアンドビー (Airbnb https://www.airbnb.com/) は一軒も不動産を所有していない。だがこれらの企業は、資産を共有資産に変えて、それにアクセスするプラットフォーム(制度基盤)を作り上げて繁栄している。私たちの行動様式が「所有権の購入」から「アクセス権の定額利用 (subsription)」へと転換している。

 プラットフォームは、組織と市場に続く、人間の仕事を体系化する第三の方法である。プラットフォームは組織よりも自由で、市場よりも制限されている。プラットフォームの制度基盤の上に参加する人や組織は、互いに一種のエコシステムを作り競争と協調が混じり合った形で共存共栄している。プラットフォームを提供する会社はAPIを公開し多くの人や組織を自分のプラットフォームに招いている。

⇒下のサイトは、小規模のプラットフォームを作ったつもりだったが、まだ十分に機能してはいないし、もっともっと作業を効率化できるはずだ。

広大教英生がお薦めする英語動画集
http://kyoeivideoselection.blogspot.jp/
広大教英生がお薦めするGraded Readers
http://kyoeigradedreadersselection.blogspot.jp/

 また、自分としてはSNSのプラットフォームをうまく使いこなしたいが、Twitterもまだうまく使いこなせていないし、Facebookはどうも好きになれずほぼ放置している。LinkdInやACADEMIAも放置したままだ。このブログは、少しは知的資産の共有化に貢献しているかもしれないが、ブログ内の検索精度が悪く自分でも使い勝手を改善したいと考えている。


6 共有社会化 (Sharing)

  現在、世界にはデジタル版の社会主義のようなものが発生し始めているのかもしれない。これは中央集権主義で統制経済を行ったソビエト型の社会主義とはまったく異なり、国境のないインターネットの上で分散的なネットワークを形成している。ブログやYouTubeやSNSを見ても、コンテンツの作成者はそれを無償で提供しそれが共有されることを臨んでいる。またクラウドファンディングに参加する者は創造的な人を育てるために協働している。

 こうしたテクノロジーによる共有は、分散した人々の協調という新しい政治のOSなのかもしれない。編集者やキュレーターに相当する媒介・介入があれば、大衆の創造力はすばらしいものを生み出し、それは共有されるだろう。

⇒「社会主義」ということばにはアレルギーをもつ人も多いかもしれないが、私たちがますます「社会」(つまりは異なる人々のつながり)の力を実感しているのは事実だろう。もちろん悲観論を述べるなら、私たちはますます同好の士とばかりつながることを求めてエコー・チェンバー効果にやられていることになるが。



7 自動選別化 (Filtering)

 莫大な量の情報は、うまくフィルターで選別されないととても人間には処理できなくなる(Herbert Simon "a wealth of information creates a poverty of attention and a need to allocate that attention efficiently among the overabundance of information sources that might consume it")。フィルタリング(自動選別)システムは頭脳化され、共有資産・共有社会化され、流動化されて永遠の過程となるだろう。そのシステムはどんどん洗練され、うまく工夫すればフィルターバブルの悪影響からも逃れられるかもしれない。

⇒フィルタリングシステムとして以前はRSSを使っていたが、今はそれがTwitter(のList機能)になっている。しかし肝心の自分の専門の分野については、出版社からのメールぐらいで、後は昔ながらの口コミぐらいである。これも改善しなければ。


8 再編創造化 (Remixing)

 リミックスとは何も新しい現象ではなく、私たちはこれまでも古いものを組み合わせては新しいものを作ってきた。デジタルテクノロジーは、古いデータを再編し新たなものを創造することを飛躍的に容易にした。映像文化の中心にいるのは、もはやハリウッドのプロデューサーというよりは、世界各地に分散しているYouTubeへの投稿者であろう。その製作時技術は日々進化している。

⇒極端なことをいえば、論文を書く時もこのリミックスが重要。この過程を機械化して効率をあげないととても論文が書けないような気がする。これは早めに行動に移そう。


9 相互作用化 (Interacting)

   機械と人間の相互作用は、ますます洗練され多感覚的になる。VR (Virtual Reality) の精度は現時点でも相当に高い(William Gibsonの "The future is already here — it's just not very evenly distributed." ということばは、1990年に彼が20を超えるVRのデモを徹夜で見た翌朝に語られた)。また、現実世界に映像を投影するAR (Augmented Reality) も日々進展している。やがて機械と人間の相互作用は、コンピュータを脳に直接つなぐことにいたるだろう。

 VRは、パソコン、モバイルに並ぶ破壊的変化を起こすプラットフォームとなるかもしれない。

⇒VRについては私の理解・経験は完全に欠落している。今後注目しなくては。


10 自動記録化 (Tracking)

  自分のあらゆるデータを自動的に測定し記録し続けるセルフ・トラッキングのシステムは、被験者一人 (N=1) の実験といえるかもしれないが、それは自分という固有の人間にとっては貴重なデータ (quantified self) となる。このデータがフィードバックされれば、自分の身体は以前なら感じることができなかった感覚を感じることを学ぶことができるかもしれない。

⇒iPhone/iPadの環境だと、興味あるサイトはすぐにEvernoteに入れられるが、デスクトップPCだとそれが少し(数秒)の手間がかかり、その手間のせいで記録を怠り、後で悔やむことが多々ある。せめて自分の知的関心に関するデータは半自動的に記録できるようなシステムを作っておきたい。


11 発問化 (Questioning)

  インターネットとAIによって質問の答えを得るコストが劇的に下がった今では、答えを得るよりも良い質問を発することの方が大切になってくる (Pabro Picaso "Computers are useless. They can only give you answers.")。すぐに答えが出ずに、新しい思考やイノベーション、ひいてはさらなる発問を生み出す発問をすることを私たちは学ぶべきだ(それはひょっとしたら機械が最後までできないことかもしれない)。

⇒これに関してはまったくその通り。学校教育はここに力を入れなければならないが、試験制度改革を見ているとその方向を目指しているとはとても思えない。


12 新生化 (Beginning)

 後世の歴史家からすれば、現在は、人類が初めて互いにリンクし一つの大きなものとなった時代の始まりと思えるかもしれない。私たちはそのつながりに頭脳化した物体も加え、そのつながりを一つの超知能にしている。これは地球史上もっとも驚くべき出来事なのかもしれない(ケリー氏はこのつながりを「ホロス (holos)」と呼んでいる)。

 ホロスは、おそらく人類を支配するような「強いシンギュラリティー」とはならず、人間と機械が複雑に相互依存するシステムとなるだろう。

⇒この歴史観は妄想といえば妄想といえるかもしれないが、私はこのような大局観は重要だと思う。少なくとも自分がいる時代を遠くから眺める想像力は大切にしたい。





落合陽一 『魔法の世紀』『これからの世界をつくる仲間たちへ』『超AI時代の生存戦略』


私は複数の友人が口にする著者の本はできるだけ読むようにしています。落合陽一先生のこの三冊の本(この記事の一番下に掲示しています)もそうやって読みました。読んでみて、現代とはどういう時代なのかについての理解が深まったような気がします。以下は、私なりのまとめですが、いつものように私の誤解や偏りにみちた要約で、しかも今回は自分の考えも混ぜ込みましたので、興味をもった方は必ずご自身で本をお読みください。


■ 魔法の世紀とデジタルネイチャー

落合先生は、現代という時代を「魔法の世紀」(=ほとんどの人にとっては魔法としか思えない技術が当たり前に使われる時代)として、世界を「デジタルネイチャー」(計算機自然)としてとらえます。

デジタルネイチャーとは、「物質、精神、身体、波動、あらゆるものをコンピュータの視座で統一的に記述していくような 計算機的自然観」です(『これからの世界をつくる仲間たちへ』 (Kindle の位置No.1355-1357))。この自然観に基づいて創られ進化する世界は、 「人間とコンピュータの区別なくそれらが一体として存在」 する世界となります。(『魔法の世紀』 (Kindle の位置No.1851-1853))。


■ 人間とコンピュータの共生

このデジタルネイチャーの考え方の根底には、「人間とコンピュータはどちらがミトコンドリアなのか」(『これからの世界をつくる仲間たちへ』 (Kindle の位置No.1329))という問いがあります。ミトコンドリアは、もともとは独立した生物でしたが、(人間を含む)真核細胞生物はミトコンドリアを飲み込んで、以来、真核細胞生物とミトコンドリアは共生しています。それでは人間とコンピュータでは、コンピュータの方がミトコンドリアなのかといえば、落合先生はそれほど簡単な話ではないと考え、人間とコンピュータの上位概念としてデジタルネイチャーを設定したわけです。

このデジタルネイチャーの考え方によれば、人間とコンピュータは入り混じり共生していることになります。これはそれほど突飛な考え方ではなく、私たちがEメールやSNSを使いこなしているようでいて、実はかなりそれらに追われ巻き込まれていることを思い起こせば、今の私たちはデジタルネイチャーの中に生きているという考えもそれほど無理なく受け入れられるでしょう。


■ 人間とコンピュータの間の対話

人間とコンピュータが共生するとなると両者がどのように対話をするのかという話になります。もちろんその対話(あるいはインタラクション)も、人間がもっぱらコンピュータが提供するサービスの受益者・消費者として振る舞う場合は、人間の直感に近い形で対話ができます(すぐれたサービスはそのように作られていますから)。それでも、いろいろなアプリを思い出してくださればいいのですが、人間はそれなりにコンピュータの論理に基づく操作法を学ばねばなりません。

ましてや人間がコンピュータ(サービス)を作り出すことになれば、究極的にはプログラム言語を学ばねばなりません。もちろんプログラミング言語を操るのは一部のプログラマーだけでしょうが、そのプログラマーに作ってもらいたいプログラムのアイデアを語ったり、それ以前に自分がやりたいことを整理する時には、多くの人も、論理的に思考しなければなりません。ブルーナーの言い方を借りるなら、論理-科学的 (logico-scientific) ・科学規範的 (paradigmatic) 様式で考え、言語を使用しなければならないとなるでしょう。

関連記事:J. Bruner (1986) Actual Minds, Possible Worlds の第二章 Two modes of thoughtのまとめと抄訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/10/j-bruner-1986-actual-minds-possible.html

論理-科学的様式の言語で語れるように物事を解釈し説明する力を、落合先生は「言語化能力」としています。

言語化能力とは解釈力や説明能力のことであって、 語学力のことではありません。どんなに英語が流暢でも、解釈が低レベルで説明が下手なのでは、話を聞いてもらえない。重要なのは語学力ではなく、相手が「こいつの話は聞く価値がある」と思えるだけの知性です。(『これからの世界をつくる仲間たちへ』 (Kindle の位置No.1506-1508))

この落合先生の見解は、同じく計算機科学の新井紀子先生の見解にも重なります。

単に流暢な英会話ができたとしても、国際社会を生き抜けるわけでも尊敬を集められるわけでもありません。実はそこで語られているのは、数学をベースにした科学技術言語なのです。そのことを日本人はもっと自覚すべきでしょう。

関連記事:新井紀子 (2010) 『コンピュータが仕事を奪う』 日本経済新聞出版社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/09/2010.html

英語教育においても、ただとにかく喋れる・書けるようになることーーいわゆる「語学力」の向上ーーを目指すのではなく、論理-科学的様式で語り・書くことーー「言語化能力」を目指すことを目指すことが重要となるでしょう。

もちろん論理-科学的様式で言語を使うことは、英語といった第二言語の教育だけで訓練するものではなく、第一言語で訓練することでしょう。また、その訓練は国語だけでなく数学や理科や社会などの教科、およびそれらの教科を超越したプロジェクトで行われるべきでしょう。

極端な話をすれば、第一言語で論理-科学的様式をマスターしたら後はなんとかなると言えるかもしれません。実際これまでも「語るべき内容をもっていれば、後は通訳を雇えばいいだけのことだ」といった意見もありましたが、いかんせん通訳を雇う費用が大変でした。しかし、現在では、標準的な言い方・書き方ーー多くの場合、論理-科学的様式の言語使用ーーを入力すればスマホの翻訳アプリでもかなり信頼できる翻訳が無料でできます。

人間中心の世界観に基づき人間と人間の間のコミュニケーションだけを考えていたこれまででは、論理-科学的様式の言語使用は科学者やエンジニアといった一部の人だけのものだったのかもしれません。ですが、仕事や生活でコンピュータと共生が前提となる時代では、論理-科学的様式の言語使用の重要性は非常に高くなるでしょう。


■ 論理-科学的様式の言語と物語様式の言語の間の翻訳

それでは言語教育は論理-科学的様式の言語だけに集中すればよいのかといえば、そうではないでしょう。なぜならどんどんと新しいコンピュータ(サービス)を作り出そうとすれば、今のところは論理-科学的様式の言語では表現できないが、人間としては確かに感じている「意味」を語ることーーブルーナーの用語なら物語様式の言語で語ることーーも重要になってくるからです。(少なくとも今のところの)コンピュータは物語様式で思考することが不得手です。デジタルネイチャーに住まう魔法の世紀だからこそ、逆説的に物語様式が重要になるわけです。

そうして物語様式の言語使用を進化させたら、その言語使用を論理-科学的様式に翻訳することが重要になるでしょう。同時に、コンピュータ(サービス)を商品として普及されようとしたら、その商品の論理-科学的様式の論理を物語様式の語りに翻訳することも重要になるでしょう(アップルのプレゼンテーションがその例でしょうか)。

参考記事:スティーブ・ジョブズのプレゼン術を徹底分析!〜歴史的名演「iPhone」とベストプレゼン10選〜
http://conlabo.jp/stevejobs-presentation-556

こうなると、これからの言語教育は、論理-科学的様式の言語使用、物語様式の言語使用、両者間の翻訳の3つが柱になるのかもしれません。さらに言語教育を第一言語教育と第二言語教育に分けて考えますと、それぞれの言語教育での3つの柱に加えて、第一言語と第二言語間でそれぞれの様式で翻訳することという第4の柱も加えられます(異言語・異様式での直接翻訳は困難なので、まずは言語間次に様式間、あるいはまず様式間次に言語観という順序で間接的に翻訳をすることが現実的でしょう)。しかしこの第4の柱である異言語間同様式翻訳のうち、論理-科学的様式間の異言語翻訳は、コンピュータによってずいぶん支援(あるいは代替)できるものとなるでしょう。この言語教育の整理を図示したのが下の図です。





■ 人間の意欲(モチベーション)

物語様式の思考・言語使用を人間がコンピュータに補うべきなのは上で述べた通りですが、人間はコンピュータに意欲(モチベーション)も補う必要があります。現時点でのコンピュータは自らの意欲をもたないからです。「私はこれがコンピュータでできるようになってほしい」という意欲がなければ、コンピュータは「何でもできるはずだが何にもしない箱」になってしまいます。

しかしコンピュータに人間の意欲を教える時にも、最終的には論理-科学的様式の言語使用に落とし込む必要があります。コンピュータをプログラミングする前に、まずはプログラマーなどの協働者に人間言語でその意欲に価値があるを伝えなければならないからです。落合先生によれば、その際に大切なのが、5つの問いあるは3つの観点からの言語化です。

5つの問い
(1)  それによって誰が幸せになるのか。  
(2)  なぜいま、その問題なのか。 なぜ先人たちはそれができなかったのか。  
(3)  過去の何を受け継いでそのアイディアに到達したのか。  
(4)  どこに行けばそれができる のか。
(5)  実現のためのスキルはほかの人が到達しにくいものか。
『これからの世界をつくる仲間たちへ』 (Kindle の位置No.1150-1154)

3つの観点
(1) モチベーション:なんでそれやるの?
(2) 抽象化した意味:それはどういう意味があるの?どんな機能なの?
(3) 使った結果:それを使うとどんないいことがあるの?今後どうやって使ったらいいの?
『超AI時代の生存戦略』 (Kindle の位置No.993-998)

このようにして自らがもつ意欲を形にすることが重要ですが、もちろんそもそも自分に意欲があることが前提です。これも逆説的に聞こえるかもしれませんが、デジタルネイチャーにおいて、ヒューマンネイチャー(人間の自然=身体)の重要性はますます高くなるでしょう。


■ クリエイティブ・クラス (the Creative Class)

こうして言語化能力を、論理-科学的様式の言語と物語様式の言語でも、第一言語と第二言語でも、両様式間でも両言語間でも高め、人間の意欲をコンピュータに教え、デジタルネイチャーでより快適で幸せな生活を可能にするなら、その人は決して仕事を失うことはないでしょう。そのような人は、クリエイティブ・クラス (the Creative Class 創造者階級) という社会階層に属すると呼ばれるでしょう。

参考記事:the Creative Class
https://en.wikipedia.org/wiki/Creative_class
https://www.questia.com/library/120081994/the-rise-of-the-creative-class-revisited

私たちは人工知能 (AI) のことを考えると、「AIに仕事を奪われる」といった恐怖感に襲われ「AI 対 人間」という構図で考えがちですが、実はそれは「クリエイティブ・クラス 対 非クリエイティブ・クラス」という構図、あるいは落合先生のことばを借りるなら「機械親和性の高い人間」とそうでない人間の「戦い」(『超AI時代の生存戦略』 (Kindle の位置No.187-188))として考えるべきなのかもしれません。

ここで公教育の責任もより重大になってきます。機械的親和性が高く、言語化能力に富み、創造的な人間を育てないと、デジタルネイチャーが生み出す豊かさを享受することができない人を増やしてしまうかもしれないからです。

落合先生の本からは、(言語)教育についてもいろいろと考えさせられました。

落合先生の講演(約40分)は下でも見ることができます。






■ 三冊について

私見に過ぎませんが、一番読みやすいのが『これからの世界をつくる仲間たちへ』、読み応えがあるのが『魔法の世紀』、挑発的なのが『超AI時代の生存戦略』でしょうか。1月末には新刊も出るようです。


『これからの世界をつくる仲間たちへ』



『魔法の世紀』



『超AI時代の生存戦略』





2018年1月4日木曜日

松尾豊 (2015) 『人工知能は人間を超えるか』、松尾豊・塩野誠 (2016) 『人工知能はなぜ未来を変えるのか』



これからの教育を考える上で、人工知能との共存という視点は欠かせないと考えますので、まったくの素人レベルで人工知能について少しずつ勉強しています。この記事は松尾豊先生の入門書を読んで作ったお勉強ノートの一つです。文系の悲しさで、肝心のディープラーニングについての理解が不十分で、初歩的あるいは派生的な話題について少しまとめただけです。それでも、私の誤解も入っていると思いますので、ご興味をもった方は必ず原著をご参照ください。

■印は私なりのまとめ、⇒印は私の蛇足です。なお、私は両書ともにKindle版で読みましたので、以下にはKindle版の位置番号を書いています。


*****


■ 3つのAIブーム (『人工知能は人間を超えるか』 Kindle の位置No.44とNo.633とNo.960)

第一次ブーム(1956-1960年代):推論・探索で特定問題を解く。しかし、いわゆる「トイ・プロブレム」しか解けない。
第二次ブーム(1980年代):コンピュータに「知識」を入れる(エキスパートシステム)。しかし人間からの知識抽出が大変だし、知識の数が増えると相互矛盾が生じるなどの問題が起きた。
第三次ブーム(現在):ビッグデータとディープラーニング(「特徴表現学習」)。「ライトウィエイト・オントロジー」でコンピュータにデータから自動で概念間の関係性を見つけさせる(例、IBMのワトソン)。

⇒現在、AIがブームになっている背景要因の一つは、ウェブでビッグデータが集まったこと。私の身近な経験でいっても、SpotifyGoodreadsのお薦め機能は非常に適確だったが、それには多くの人々の嗜好データが入っているから。そのビッグデータを活用できるようになったのはディープラーニングという方法が開発されたため。



■ 科学的前提 (『人工知能は人間を超えるか』  Kindle の位置No.450)
「人間の知能は、 原理的にはすべてコンピュータで実現できるはず」

⇒多くのコンピュータ科学者は、この前提で仕事を続けている。ただ、シンギュラリティといった「強いAI」がすぐに到来すると考える人は、実際に人工知能開発に携わっている科学者・エンジニアには多くない模様(もちろん専門家というのは大きく誤りうるものだが・・・)。


■ 人工知能の4つのレベル (『人工知能は人間を超えるか』 Kindle の位置No.530-No.553)
レベル1: 人工知能と呼ばなくてもよい制御プログラム。制御工学やシステム工学で実現。
レベル2: 古典的な人工知能。推論・探索や知識ベースで入力と出力を関連づける。
レベル3: 機械学習を取り入れた人工知能。パターン認識をベースにビッグデータで進化。
レベル4: ディープラーニング(「特徴表現学習」)を取り入れた人工知能。機械が特徴量自体を学習する。

⇒レベル3から4への発展は、私のような素人にはピンとこないが、専門家にとっては衝撃的なこと(その認識の差を少しでも埋めるため、私はこのように恥ずかしいお勉強ノートを作っています)。


■ 「特徴量」とは (『人工知能は人間を超えるか』 Kindle の位置No.772)
特徴量とは「データの中のどこに注目するか」ということであり、それによってプログラムの挙動が変化する。

⇒この「特徴量」が重要概念の一つ。特徴量を設計する科学を「フィーチャーエンジニアリング」と呼ぶが、日本語訳には「素性工学」、「特徴量工学」、「素性設計」があるが、松尾先生は「特徴量設計」という訳語を選んでいる。(『人工知能は人間を超えるか』 Kindle の位置1407-1408)。以下のインタビューとスライドも参照のこと。

松尾豊:人工知能テクノロジーの現状と可能性
https://www.worksight.jp/issues/607.html
松尾豊:人工知能は人間を超えるか(スライド)
https://www.ipa.go.jp/files/000048577.pdf


■ これまでの機械学習の難点 (『人工知能は人間を超えるか』 Kindle の位置No.1333-No.1349)
どんな特徴量を入れるかという「特徴量設計」 (feature engineering) は、人間が考えて行うしかなかった。

⇒下のWikipedia解説も参考のこと
Wikipedia: feature engineering
https://en.wikipedia.org/wiki/Feature_engineering


■ ディープラーニングとは (『人工知能は人間を超えるか』 Kindle の位置No.1442-No.1773)
ディープラーニングとは、機械が自ら特徴量をつくり出す機械学習であり、多階層のニューラルネットワークで実現される。

⇒ディープラーニングについては、松尾先生の本を読んで私なりにまとめを作りましたが、そのようにあやふやな理解を書くよりも、下の動画解説を見た方がはるかによいので、動画を埋め込んでいます(英語ができる人なら、『人工知能は人間を超えるか』を読めばこの動画のあらましは理解できるはずです)。


But what *is* a Neural Network? | Chapter 1, deep learning



■ 人間の仕事 1 (『人工知能は人間を超えるか』 Kindle の位置No.2317-2330)
人工知能が発展する中で、人間の仕事として重要なものとして残るのは、「大局的でサンプル数の少ない難しい判断」と「人間に接するインターフェース」、および「人間と機械の協調」であると考えられる。

⇒これらのうち、多くの人が選べる仕事は「人間に接するインターフェース」として働くことだろう。だが、もちろん人間と機械の間のインターフェースであるので、機械の考え方を理解し「人間と機械の協調」を志向しなければならない。全員がプログラマーになるわけでもないのに、プログラミング教育 ("Learn to code") が推奨される理由の一つはここにあるだろう。


■ 人間の仕事 2 (『人工知能はなぜ未来を変えるのか』 Kindle の位置No.2663-2665)
定型的な問題の解決は機械に任せるにせよ、ある問題には答えが出るのか出ないかを調べるとか、答えが出ない時にどう対処するかとか、答えがある問題にどう変えるかといったところもこれから大切になるだろう。

⇒これは相当に高度な知性だが、今後の教育はそういった知性の涵養を目指さねばならないだろう。


■ 人間が得意なこと (『人工知能はなぜ未来を変えるのか』 Kindle の位置No.666-708)
人間は、生物として少ないデータからいかに人より早くパターンを見つけるかという競争をやっている。また、人間は目的に応じて判断の基準を変えている。自分の興味に基づいて生き物的な関心に基づいて順位をつけているとも言える。

⇒ "How much you learn"に関して人間は機械に敵うわけもないが、"How fast you learn"なら勝負できるかもしれない(素人的妄想)。ちなみに、"How fast you learn"ということの前提は"How fast you unlearn"ということ。いわば自分の古いOSを捨てて、アップデートする、あるいは新しいOSをインストールするようなことがますます重要になってくるのだろうか。


■ 人間の癖 (『人工知能はなぜ未来を変えるのか』 Kindle の位置No.835-906)
人間は、相関関係よりも因果関係で物事を捉えようとする。人間は言語的に何らかの理由をつけてストーリを作って納得しがち。

⇒これはよく知られた人間の特性。私たちは下手をすると相関関係ですら因果関係として解釈しがち。


■ ストーリーを作るとは (『人工知能はなぜ未来を変えるのか』 Kindle の位置No.986-993)
機械学習的に言うなら、ストーリーを作ることは、別のドメイン(領域)の知識を持ち込むこと。転移(トランスファー)によって、学習速度を高める技術とも言える。

⇒「ストーリー」とは、部分的情報から抽象化された素材と筋書きの相互作用のパターンだが、機械はまずこの抽象化が不得手。さらに、ある現在進行中の事象に対して、別の分野でのストーリーをもちこんで、それなりにうまく予測を立てることは機械はもっと不得手。


■ ストーリーによる学習 (『人工知能はなぜ未来を変えるのか』 Kindle の位置No.2702-2706)
人間は、幼い頃から聞き語りや本や映画などで多くのストーリーに接しているがそうした経験を転移させることによって、今・ここという特異な状況の理解を効果的に行っている。この人間的な力は今後とも伸ばすべきだろう。

⇒安直な言い方だけれどこういった「人間的な知恵」「人文的な素養」について、物語論を勉強することによって理解を深めたいというのが私の現在の目標の一つ。

関連記事:J. Bruner (1986) Actual Minds, Possible Worlds の第二章 Two modes of thoughtのまとめと抄訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/10/j-bruner-1986-actual-minds-possible.html


■ 人間の言語 (『人工知能はなぜ未来を変えるのか』 Kindle の位置No.2680-2681)
人間の言語は、一単語に多くの意味が入っており、話し手のニューロンの発火の状態を、5-10分程度の時間である程度、聞き手に伝えることができる。機械の観点からすればこれは相当すごいことである。

⇒ルーマンの用語を借りるなら、「現実性」に「可能性」が統合されてこその意味。人間の意味には可能性があるからこそ、上のような離れ業ができる。しかし、現在では意味の可能性の側面がどんどんないがしろにされている。

関連記事:意識の統合情報理論からの基礎的意味理論--英語教育における意味の矮小化に抗して--全国英語教育学会での投映スライドと印刷配布資料
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/blog-post_9.html


■ 大局的予測 (『人工知能はなぜ未来を変えるのか』 Kindle の位置No.1072-1080)
数年単位の動き(例、中国の動向)は、原理的に数十年でもサンプルが10回しか取れないから、他の事象からの転移による予測が有効。こういったサンプル数が少ない中のストーリー予測は人間の方が得意

⇒ただし言うまでもなく、このような大局観を得るのは相当に困難。しかし、だからこそ得る価値があるのであり、教育も短期間で獲得・測定できる項目の教え込みばかりでなく、このように長期的に培うしかない知恵の習得を目指すべきではないのか。


■ 「意識」とは (『人工知能は人間を超えるか』 Kindle の位置No.591)
機械が特徴量を生成する段階で、自分自身の状態を再帰的に認識し、機械が考えていることを機械自体がわかっている「入れ子構造」が無限に続く場合に、そこには「意識」と呼んでよい状態が出現するのではないか。

⇒「意識」については私が個人的に興味をもっているのでここに短くまとめた。


■ 意識の存在理由 (『人工知能は人間を超えるか』 Kindle の位置No.1403-1407)
自己意識の存在理由は、人工知能に世界をシミュレートする装置を入れることで説明できる。人工知能が何かを行おうとする際は、世界のモデルを自己の中にもつ方がよいが、この世界のモデルの中には自己という存在が要請される。この自己の中の自己を観察することが自己意識となる。

⇒この考え方はJulian Jaynesの考え方と似ている。
関連記事:Consciousness according to Julian Jaynes
http://yosukeyanase.blogspot.com/2010/03/consciousness-according-to-julian.html


■ 記憶とは (『人工知能は人間を超えるか』 Kindle の位置No.1546)
記憶とは、何らかの実体を引き出しの中から取り出すような単純な話ではなく、膨大な情報から何を抜き出すかを決める特徴量を抽出することだと考えられる。ゆえに、特徴量の異なる人からは違う記憶が生み出されるのではないか。

⇒これも個人的興味でのまとめ。「意識」も「記憶」も松尾先生にとっては派生的なテーマであると私は理解している。