多くの人から名著だと言われていたこの本(医学書院による紹介ページ)をようやく読みました。果たせるかなそうで、コミュニケーションやコミュニケーションの教育についてもいろいろと考えさせられました。(そもそも私はこれまで買った医学書院の「シリーズ ケアをひらく」で失望したことはまったくありません。医学書院の「かんかん!」というWebサイトや、編集者の白石正明氏なども含めて、医学書院は私が今、もっとも信頼している出版社の一つです。
以下は、私がこの本を読んで作成したお勉強ノートです。引用は原文通りですが、要約にはかなり私自身の理解(誤解)が入っています。※印は私の付記です。この本にご興味をおもちになった方は、以下の要約を鵜呑みにすることなく、必ずご自身でこの本をお読みください。
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■ 要約:非流暢な発話や会話といった複合的な現象をコンピュータで解析するよりも、むしろ「自律性をもったクリーチャによって会話の現象を生み出す」という方向の方が問題を整理できるのではないか。 (p.30)
■ 要約:一つ一つの発話の意味や役割などをはっきりさせようとすればするほど雑談らしさから遠のいてしまい、I-R-E (Initiation - Reply - Evaluation) 構造のパターンなどに似てしまう。 (p. 32)
■ 要約: 雑談らしさを高めるには機械の発話で、 (1) 実質語を抑えて指示語を多用しお互いの間で指示内容を共有しあっているような雰囲気を作り、 (2) 「やなぁ」などといった発話のモダリティを示す表現を使い感情が表現されているようにして、(3) 発話の音量を少し落とすこと、が役立った。 (pp.33-34 )
■ 要約: 雑談の主な働きは、お互いだけの意味空間を作り、相互の感情の流れを共有し、お互いの関係性やつながりを確認することではないのか。 (p.35)
■ 要約: アシモ(ホンダの二足歩行ロボット)の歩く姿に人が共感するのは、「静歩行」モード(重心を足底に常に保持しての歩行)ではなく、「動歩行」モード(静的なバランスを崩して倒れ込みながら出す足で地面の反力を受け、それにより動的なバランスを維持する歩行)で動いているからではないか。 (pp.64-65)
■ 要約: アシモの身体と地面の間には、「委ねる/支える」という連携がある。この連携は「賭け/受け」、「投機的な振る舞い (entrusting behavior) /グラウンディング (grounding) とも表現できる。
■ 要約: なぜ「委ねる」かといえば、自分の行為(あるいは行為の意味)が不確定であるからである (indeterminacy)。 (p.66)
※ただし、著者は indeterminacyに対して「不定さ」ということばを使っている。
■ 要約: この「委ねる/支える」の関係は、適当に売店を探す場合(「とりあえずある方向に歩き出す」(委ねる)/「その方向から得られた視覚情報で次に進む情報を得る」(支える))や、落書きをする場合(「なにげなく線を描く」(委ねる)/「その線によって立ち現れてきた可能性で次に描く線について考える」(支える)」にも見られるだろう。 (pp.68-69) これらにおいては「支える」ことが同時に次の動きを誘発する「委ねる」過程にもなっているので、この関係は「委ねる/支える=委ねる/支える=委ねる/支える=委ねる・・・」という連鎖として表現できるのではないか。これらの連鎖が創り出す意味は、どちらの側も事前にもっていたものではなく、この動きの連携が組織するシステムの中ではじめて生じてきたものといえるだろう。
※ これは「まずやってみてから考える」や「手で考える」といった世間の知恵をうまく説明しているように思える。
■ 要約: 上記の関係は、想起や発話にもありうる。まずことばを発して(委ねる)、そのことばを拠り所にして(支える)次のことばを出し(委ねる)、さらにそのことばを基盤にして(支える)想起や発話を精緻化する(委ねる)といった関係である。 (p.73) なにげなく出されることばは「思考の道具」になっているのかもしれない。 (p.74)
※ これも「言いながら考える」、「相手の反応によってさらに考えを深める」というように日常生活で見られる現象をうまく説明している。
■ 要約: たとえば子どもは、親に「ねぇねぇ」と話しかけた時に生返事しか受けなかったら不満を抱くが、それは自らの「委ね」が「支え」られなかったこと、すなわち自らの行為(の意味)が不確定なままに終わった (p.82) から、あるいは(ルーマン流に言うなら)コミュニケーションという社会的システムが成立しなかったからではないか。
■ 引用: ひとつの発話は、先行して繰り出された相手の発話を支えるというグラウンディングの役割と、相手からの支えを予定しつつ言葉を投げかけるという役割の二つを同時に備えている。この発話に備わる双方向の機能によって、「相手を支えつつ、同時に相手に支えられるべき関係」を形作る。(中略)不定なまま繰り出されたなにげない発話は、相手からの応答を得て、意味や価値を与えられる。その相手からの応答は、先の発話を支えると同時に、こちらからの支えを予定して繰り出されたものだ。 (p.84)
※ バフチン的な言語観に重なる発言だろう。あるいは当事者研究が「自分自身で、共に」などと言い、仲間(聞き手)の重要性を強調すること、さらには日常生活で「話を聞いてもらってありがとう。ようやくすっきりした」ということにも重なるだろう。
■ 要約: 歩行における身体と地面の関係と、会話における話し手と聞き手の関係は似ているが、会話は、聞き手が「応答責任」を感じる限りにおいて会話が成立するという脆い関係であるという点で、歩行と異なる(地面は必ず身体を支えるが、無視という端的な現象でも明らかなように)聞き手は必ずしも話し手を支えるわけではない。(p.93)
※ 大地のように自分の行動を何でも受け止めてくれて(支え)、かつその自分の行動に応じた反力をもつ反応(委ね)をしてくれる人は、最良の聞き手と言えるかもしれない。
■ 要約: 他人からの語りかけに対して、私たちが無意識に応答責任を感じてしまうのは、自ら委ねることの脆さを知っているからではないか。お互いに不確定性あるいは不完全さを共有していることが、コミュニケーション(あるいは「場」)の成立の要因となっているのではないか。 (p.94)
■ 要約: 私たちは自分の発話の意味が完全にわからないまま(不確定なまま)発話して相手に委ねて、相手からの反応に支えられることによって自分の発話の意味をより理解してゆくのではないか。 (pp.102-103)
※ さらに言うなら相手からの反応を得る前の意味を「(自)意識での意味」、反応を得てからの意味を「コミュニケーションでの意味」とは区別できないか?
■ 要約: SST (Social Skill Training) は通常、個体能力主義的な考えに基づいているが、べてるの家でのSSTは、仲間の前で自分ができないことを開示し、その練習をしますと宣言してから練習を始める。そのように自らの弱さの開示を仲間に委ね、仲間がそれを支えてその人の練習を見守ることがSocial Skillとはいえないだろうか。 (p.104)
※ この洞察には、思わず唸ってしまった。私たちは「社会的」という概念を、個体・個人主義的な概念でしか理解していないことも多いのかもしれない。
■ 要約: 発話は、他者(聞き手)だけではなく、まわりの環境にも支えられて成立している。発話を行為主体(話し手)だけから一方的に考えるのはおかしい。(p.108) 話させる教育は、話し手を訓練するだけではなく、話し手を囲む環境をデザインすることにも配慮しなければならない。
■ 引用: 最初に繰り出す投機的な行為(エントラスティング entrusting)さえあれば、それを受け止める行為(グラウンディング grounding)がおのずと出てくる。そういう感覚が持てるかが大事なんです。
※ 「委ねてみたら、必ず支えられる」ということは(言語)教師が学習者に保証するべき大原則ではないのか。しかし現状では大半の(言語)教師は、I-R-Eのパターンで発話し、学習者は「自分が何か言えば、必ず評価されてしまう」と思い込んでいるのではないか。そう考えると、教室では優等生ばかりが発言し、そうでない学習者は、たとえ自分なりの考えがあったとしても沈黙の方を選ぶということも納得できる。
I-R-Eのパターンでの教師の発言が、「委ね/支え」の関係性を成立させないのは、教師の発問も評価も自己完結的なものであり(教師はあるべき正解、あるいはあるべき会話の道筋を予め知っている)、根源的なところで学習者に支えられることを必要とはしていないからではないか。
教師の発問で、「委ね」となり学習者からの「支え」を必要とするものは、典型的には答えのない開かれた問い (open question) であるが、正解がある閉ざされた問い (closed question) で「委ねる/支える」関係を構築できるような問い方はないだろうか(ゆっくり考えたり、優れた実践者の問い方をこの観点から観察したい)。
■ 引用:「やり直しすることが前提で言葉は作り出されている」という閃きがあると、いろいろな意味で楽だと思うんですよ。コミュニケーションにしても英語学習にしても。要するに個体能力主義とかデカルト的な話だと、頭の中で一生懸命作り出すことだけが言語活動だって捉えちゃうんだけど、実は相手の表情を見ながら少しずつ言葉を使っている。僕らの体っていうのは、システム科学でいうと「オープンなシステム」であって自己完結していないんです。環境と整合させながら言葉を生み出している。 (p.111)
※ 現在の英語教育は、自己完結的なモノローグの完成品を産出することばかりを教えて、不確定的で動態的なコミュニケーション(会話や対話)の発話を促すことは教えていないのではないか。「英会話」の活動といっても、その発話だけでほぼすべての意味と機能が明らかなような模範文を記憶し再生することばかり訓練していることが多いので、学習者は、いざ現実世界で英語を使おうとすると、完璧に自己完結した英文がとっさに作れずに、沈黙してしまうことではないか。
もちろん自己完結的な文・文章を作る技能(それは書き言葉の産出技能と言い換えられるかもしれない)を教えることは(特に上級者において)重要であるが、初級者にとって大切なのは、とにかく相手に発言を委ねること、そして相手からの支え(それは同時に相手からの委ねでもある)に応じてさらに発言を委ねる術を学ぶことではないか。
最近、英語教育の周縁部にいる優れた実践者の多くが、「即興」での発言の重要性を述べているが、「即興」もこの「委ね/支え」の観点から分析できるかもしれない。
■ 引用: 個人に能力をつけてから、という考え方事態が、逆に個人の能力を伸ばすチャンスを奪っているのかもしれませんよ。 (p.112)
※ これも至言。特に、TBLT (Task-based Language Teaching) を毛嫌いするPPP (Presentation-Practice-Production) の信奉者はこの発言の意味合いを深く考えるべきではないか。
■ 要約: すべての行為が、他者に「委ね」として認識され、他者からの「支え」を誘発するわけではない。「委ねる/支える」関係を成立させるには(思い切って言い換えるならコミュニケーション関係を成立させるなら)、自らの「不完全さ」を悟りつつ他者に委ねる姿勢をもてるかどうか、つまり、「他者へのまなざし」をもてるかどうかが重要なのではないか。 (p.116)
※ 岡田氏は、これをさまざまなロボットの作成の観点から語っているが、私はどうしても日常生活での、コミュニケーションを取りやすい人/取りにくい人で考えてしまう。教員養成でも重要な視点なのかもしれない。
■ 要約: 発達研究の視点は、子どもの能力ではなく、子どもを取り囲む養育者の関わり方に向けたれているという。「この子どもは○○することができる/できない」という個人帰属の議論は避けられつつあるともいう。 (p.196)
※ 英語教育界では、ここ最近、Can-do statementが金科玉条のようになっているが、そこには強い個体能力主義、能力の個人帰属の考え方がないだろうか。
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