2017年4月28日金曜日

5/20(土)に広島大学で、演劇的手法による英語教育の無料ワークショップとシンポジウムを開催。先着50名で締切は5/12。申込みはお早めに!



以下のように、演劇的手法を通じて英語を教える第一人者である小口真澄先生(英語芸術学校マーブルズ主宰・代表講師)をお迎えして無料ワークショップを開催します。「学校英語教育がよくなるためでしたら」と貴重な時間をさいてくださる小口先生には心から感謝します。

ワークショップ終了後、小口実践をどう学校英語教育に活かすかという観点から、英語教育研究者と小口先生とで対話し、さらには会場全体でも対話を行うシンポジウムも行います。

参加のためには申込みが必要です。先着50名で締切は5/12(金)の深夜ですので、急いでお申込みください。












公開ワークショップとシンポジウム
英語教育の身体性



■ 日時
2017年5月20日(土) 14:00-18:00


■ 会場
広島大学(東広島キャンパス)学士会館レセプションホール
https://www.hiroshima-u.ac.jp/access/higashihiroshima/busstop_higashihiroshima/aca_2


■ 趣旨
 英語教師は、ことばの教師でありながら、これまで英語の形式性ばかりにこだわり、身体性を軽んじてきたのではないでしょうか。私たちが英語を使う際の形式的整合性はもちろん大切ですが、それよりも重要なのは英語が自分の「こころ」(言語化以前の感情)と「からだ」(感情化以前の情動)に即していることではないでしょうか。
 この集まりでは、劇を通じて英語・英会話を教える第一人者である小口真澄先生(英語芸術学校マーブルズ主宰・代表講師)をお迎えし、そのワークショップを全員に経験していただきます。その後で、「英語教育の身体性」というテーマでシンポジウムを開催します。シンポジウムでは、科研のメンバーが小口実践をどう活かせるかという観点から、小口先生にいくつかの質問を投げかけて対話をします。その後は、参加者全員で対話を行います。
 (注)この企画は科研成果公開の一部です。
「教師教育者・メンターの成長に関する研究―熟達者と新人の情感性と身体性に着目して―」(課題番号:15K02787)
シンポジウムには、この科研のメンバーのうち、今井裕之(関西大学)、樫葉みつ子(広島大学)、玉井 健(神戸市立外国語大学)、長嶺寿宣(熊本大学)、山本玲子(京都外国語大学)、柳瀬陽介(広島大学) が登壇します。


■ 対象者(参加可能者)
英語教育に興味・関心をもつ方ならどなたでも参加できます。学校や会話学校などで英語を教えている方や英語教師志望の大学生はもとより、英語教育に興味をもつ中高生や一般市民の方も歓迎します。
入場は無料ですが、申込みが必要です。先着50名で締め切ります。
会場の一体感を高めるため、原則として参加者は全員ワークショップに参加していただきます。ワークショップの録画・録音・撮影は禁止いたします。


■ 申し込み(締切:5/12(金)の深夜



■ 日程

14:00-16:00 ワークショップ
「英語DEドラマ ~みんなで レ・ミゼラブルのDo you hear the people sing を~」
16:30-18:00 シンポジウム
「英語教育の身体性」
19:00-20:00 夕食会(希望者のみ・有料)
大学近くのどこか別会場で


この企画に関する連絡先

柳瀬陽介
(広島大学教育学研究科)
yosuke(アット)hiroshima-u.ac.jp
電話: 082-424-6794








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「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り

(続)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
 
(続々)「公開ワークショップとシンポジウム:英語教育の身体性」の参加者の振り返り
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/blog-post_18.html

2017年4月27日木曜日

他教科の院生・教員との対話から学んでいる英語教育専攻大学院生の振り返り



私が所属している広島大学教育学研究科教科教育学専攻の修士課程では、昨年から「共通科目」として10の異なる教科を専門とする大学院生・教員が共に学ぶ授業を開始しています。初年度の成果は、研究報告書としてまとめ、以下のホームページで公開しています。


異教科間で対話し協働できる教員の育成に関する研究


以下は、その共通科目の一つである「教科教育学研究方法論」(概要 詳細)の最初の授業に参加した大学院生(M1)の振り返りの一部です。

近代知の専門化があまりに進行して知が細くなってしまい、知を統合できる人材、あるいは異なる専門家と対話ができる専門家が少なくなってしまったという指摘はずいぶん昔からありますが、それを克服する積極的あるいは実質的な努力はそれほど多くないのではないかと個人的には感じています。

この「教科教育学研究方法論」を始めとした広島大学教育学研究科教科教育学専攻の試みは、ますます複合化・高度化する知識社会で活躍できる実践者・研究者を育成する試みです。ぜひご注目いただけたらと思います。






*****

■ MY


私は今回の講義について、以下の3点に焦点を当てて振り返りたいと思います。結果的に振り返りを自分の研究領域に引き付け過ぎていますが、教科横断的な講義の中でシェアしたいという想いの基に書かせていただきました。なお、私は英語教育研究を専門としています。

① 教科間の対話の重要性
② 現代社会の中での英語教育研究の役割
➂ 他領域での対話の経験の後、英語教育研究者間で行う対話


① 教科間の対話の重要性

 教科間連携という言葉は私たちにとって新しい言葉ではありません。私が大学に入学した4年前には、すでにそうした連携の必要性は唱えられていました。しかしながら、4年間の大学生活の中で受講した講義の中に、異なる教科の教員志望者の間での対話がメインとなるものはありませんでした。またそうした状況から容易に想像できる通り、学部の卒業論文等にもそうした類のテーマが選択されることは無かったと記憶しています。私が専攻していた領域は言語に関わるものでしたが、同じ言語に携わる領域である国語科教育や日本語教育の学生や先生方と、講義等で公式に対話の機会をいただいたことはありませんでした。

 ここには様々な問題が関わっていますが、その中の一つの理由は「外国語教育=英語教育」という狭小な認識が、現代社会において暗黙の前提となっていることに加え、当の英語教育研究の関係者の中にも、そのような認識を未だに固持している方が少なくないことです。英語教育研究を専門にしているからこそ強調したい点ですが、現在の日本の英語教育は「英語至上主義」、「実用主義」、「数値至上主義」を基盤として動いています。そこに複言語主義的、英語の学習、使用を通して、英語だけでなく母語や他の諸外国語を知る、学ぶという視点はほぼ無いと言って良いでしょう。英語教育研究の関係者が今後まず行うべきは、他領域の研究者の方々との連携、それを可能にする対話です。少なくとも、同じ言語を対象とする研究領域の方々との連携が存在しない状態では、学習者たちはもとより、彼ら/彼女らの教育に携わる私たちの視野は狭まる一方です。


②現代社会の中での英語教育研究の役割

 今回の講義で取り上げられた3.11というテーマを受け、私も英語教育研究者の立場から何ができるか考えました。英語を扱っているので、「海外からの情報の受信、国内からの発信」ということを推しても良かったのですが、それは英語教育研究に携わる他のM1生が力説してくれると思っていたので、私自身は「言語について語ること」について考えることを強調しました。先述の通り、現代の英語教育の趨勢は英語の実用的な価値を強調する方向に傾いています。もちろん、災害時を含め、現代の日本社会における英語使用の重要性を否定するつもりはありません。しかしながら、英語を使うことに対する焦点が存在する一方で、使用されている英語について分析的、メタ的な視点を持つことの重要性に関しては、あまり大きな関心が持たれていないのではないでしょうか。例えば、英語を聞く力や読む力、話をする力等を向上させることによって、海外との連携の一助となることも可能ですが、英語教育が担う役割はそれだけではありません。例えば海外のニュースと日本のニュースの情報を様々な観点から比較したり、英語をメタ的に分析する力を母語の分析に利用し、政治家等々のレトリックに対処することを可能にしたりする力を養うこともその一つです。本講義のように教科の垣根を越えて意見を発信できる場をお借りし、真に学習者と社会全体に貢献できる英語教育を、他教科の知見を可能な限り利用しながら模索しなければなりません。



➂他領域での対話の経験の後、英語教育研究者間で行う対話

 ②で述べたことと重なりますが、英語教育の研究者間でも各々の意見は大きく異なることがあります。さらに、そうした意見の分断は時折大きなものになってしまいます。だからこそ、他の領域の新鮮な知見を利用しつつ、自分たちの研究を相対化する必要があるのです。私は自分自身の研究テーマが「言語について語ること」に密に関連していますが、だからといって言語使用に関する研究を否定することは決してありません。ともすれば極端な方向に振り子が振れる英語教育研究なので、教科横断的な対話の実践を通し、その経験をさらに英語教育研究者間でシェアすることによって、私たちの研究領域をバランスよく発展させていきたいと考えています。



■ MK

学部時代から対話概念を学び、対話的ディスカッションを経験してきた教英生にとってはおなじみとなった形式の講義でした。

 これまで対話を行ってきたのは同じ価値観を共有し、英語科の文脈を理解してきた人たちであったのに対して、今回は専門の教科が異なるゆえに、自分たちとはまた異なる観点から意見を述べることができる人たちであったという点で、大変興味深い経験ができたと考えています。以下、①他教科との対話、②英語科としての立場 にしぼり話をします。 

 「3.11が明日起こるとしたら自分はどう感じ、考え、行動するのか」というテーマは初めて集まったメンバー同士で語り合うには重たすぎるテーマかもしれないな、と考えていたのですが周りを見ると多くのグループがすでに意見を述べ合っています。こちらでもすぐに会話が始まり、理科の観点から地学における防災論、そしてそれを用いた「津波」に対する防災教育の話、社会科からは市民性教育の観点から非常時に市民が錯綜する情報を多面的に判断し行動するあり方を、家庭科からは”家族・家庭”を再認識させる働きかけや防災教育についての話をいただきました。特に興味深いと思ったのは理科の方が発した、災いを忘れると書いて「忘災」という言葉が出ているが、今回の震災を語り継ぐためにどのような取り組みができるか?という問いです。そこから話は発展して広島においても原爆ドームを残すか残さないかで大きな議論があったが結果として残されているのは忘れないためである、だとか被ばく経験を広島がどのように語り継いでいるかが参考になるだろう、ということまで話すことができるのは、ひとえに対話的環境が醸し出す自由な雰囲気のおかげでしょうか。他教科と学びを共有するというのは刺激的な体験です。私がそう感じるように、周りの方にもそう思っていただけるような情報を共有せねばならないと考えました。

 最後に、自分自身が3.11に英語教育学を学ぶものとしていかに貢献できるのか考えたことについて言及します。震災という非常事態において、人と人がトラブルなく協力できること、共に仮設住宅で生活できること、意思を伝え合うことができることというのは非常に重要な問題です。コミュニケーションを教える役割を担ってきた言語教育の中でも英語教育、とりわけ学校教育における英語科はこのことについて多くを貢献することができていなかったのではないかと考えます。極端な言い方になりますが中・高等学校においては受験合格という出口を最重要視した暗記科目と遜色のない現状、コミュニケーション重視を打ち出したとは言え中身のないペラペラ英語話者を量産してしまいそうな英語教育政策を見るに、「非常事態に他者とどのようにうまくやっていくか」、そしてそれはいかにして教えていくのかという実は重要な発想が欠けているように思えます。英語教育が根底として何を目的としているのかという問題は、実はまだまだ問い直しが可能な事柄なのかもしれません。

 震災と教育を自分の中で結びつける視点をいただくことができた今日の授業に感謝するとともに、これから他教科の視点をどんどん取り入れていくことができることに期待します。



■ MM

今回の講義を通じて、対話(dialogue)という言葉の意味とその重要性を再認識しました。対話とは、話し手と聞き手の間で発生する差異について考えることを繰り返すことによって、一緒に新しいものを創造していくことであると理解しました。グループでの話し合いにおいても、多くの差異が発生しました。

例えば、数学専攻の方は、数量的・数値的に、体育専攻の方は、身体や健康、運動に関連させてトピックにアプローチしていました。個人的に印象的だったのは、ベトナムからの留学生の方のお話です。その方は、震災当時はベトナムにいたそうですが、Facebookを使って震災に関する記事を共有したり、日本に向けての応援メッセージを送ったりしていたそうです。また、震災の後には、日本の防災教育の凄さについて話題になったこともあったそうです。

この話題は、国が違えば、物事を見る角度、持っている情報が異なるということの一例ですが、同様のことは、やはり教科に関しても言えると思います。グループ内の専門が異なる者、つまり、持っている情報や思考様式に何らかの異なりがある人間が集まり、話し合うことによって、お互いの想定を越えた意味の差異が発生し、多種多様な考えに触れることができました。改めて、学校現場は性質上、教科という枠によって断片化しており、共有性が薄れた、それぞれが非連動的な意味を有する集団の集合体になっており、これからの通教科型、教科横断的な指導を実施していくためには、異なる教科の人と対話をしていくが初めの一歩だと思いました。

また、同時に対話をすることの難しさを痛感しました。教科が違う事でそれぞれが持つ情報の差が発生するのは当然として、お互いの人間性(社交的/非社交的、積極的/消極的など)も大きく対話をしていくうえで重要であると実感しました。対話に対する態度、対話の雰囲気作り、進行の仕方など、どのようにすれば対話がうまく成立するかをこの講義の中で考えながら実践していきたいと思います。



■ IM

今回の講義を通して,感じたことが3つある。

 まず最初に,自分の視点の偏りである。「もし明日3.11が起こったとしたら〜教科教育学の研究者または教師としてどう感じ考え行動するか?」という問いについて,グループで話し合いをした時,私は石巻市の大川小学校で7割の児童が津波の犠牲になったことに関連して教師として何ができるかという話をした。そして,対話が繰り返される中で,「英語の教科としては何ができると思いますか。」と聞かれた。この時,自分の視点は教師としての視点が強く,教科教育学の研究者としての視点は弱いのだということに気づいた。

 次に,教師は児童生徒と十分に対話できているのかということである。柳瀬先生の「よい対話とは」というお話の中に「偏見なしに他人に影響を与えようなどとせずに傾聴する」ということがあった。学校においては,教師の一方的な指示や押し付けになっていることが多いのではないかと感じた。これは,教師自身に自分の思考や意図は絶対的に正しいという思い込みがあるからではないだろうか。児童生徒の成長を促すためには,時にはそれらを捨てる覚悟も必要なのではないかと感じた。

 最後に,学校現場で教科間の融合ができたら何が生まれるだろうという期待である。中学高校では教科の指導が単独で行われる。他教科との連携や融合はほとんど行われていない。しかし,社会に出れば各教科で身につけた知識や技能が単独で使用されることはほとんどないのかもしれない。このことを踏まえると,教科間の融合で生まれるものは教育上有益であるはずだ。

 他教科の人たちの意見を聞き,対話することで新たな視点を持つことができた。またそこからお互いの考えを掘り下げ,それを共有することで新しい考えを生み出すことができるということを実感した。



■ SK

今回の他教科(時には他校種)の学生の皆さんとの交流を経て私が感じた事をまとめて復習とさせて頂きます。

私たちのグループで話題に挙がったのがいわゆる「習熟度が低い」学習者に各教科でどう対応しているか?というものでした。

つい最近、私が所属していた学部のコースの先生が英語科では、依然として「英語嫌い」に対する十分かつ有効な研究がされていないというお話がありました(様々な背景を踏まえたお話であったのでここではそれについて深く触れることは避けます)。このお話を聞いた後ということもあって、他教科の皆さんの非常に明確で分析的な「○○嫌い」に対する知識・思いに本当に感銘を受けました。

その中でも保健体育科の学生さんがされていた話が特に興味深いものでした。その方は、幼児の体育教育に携わった経験があるそうで、その際に習熟度の差の例として「早生まれの児童と」と「遅生まれの児童」の例を挙げられていました。保健体育教育に全く見識のない私でも一年間という発育段階の差を抱えながら、共に同じ学習環境を共有していることのすさまじさは容易(専門とされている方には失礼かもしれませんが)に想像できました。このような大きな「差」に対する工夫、配慮を当然の前提として保健体育の教育は、なされるそうです。

 正直なところこのお話を聞いた時に私の「英語教育」に対する考えはなんと横暴で乱雑なものだろうとショックを受けました。他方では、上の例のような緻密で責任を持った研究(教育)をなされている一方で、私という教員志望の学生は、知らず知らずのうちに弱者を切り捨てるような理念を持ってしまっていたことを痛感しました。

 今回は保健体育の教育を例に挙げましたが、他の教科の皆さんも本当に私に常識や固定概念を見直す機会を与えてくれる素晴らしいお話をしてくださりました。次回以降も多くの私の「常識」を覆して下さるのが楽しみです。



■ YR

今回の授業では、自分が勤務する学校での職員会議などの話し合いについて、新しい視点をもつことができた。教科の違い、経験年数の違いから、議論が平行線になったり、しっくりいかないことがある。しかし本当は、議論の前に、それぞれの先生と対話をしていることが大切なのだと思った。

 3.11に関するテーマについて、対話をするとなった時に、どんなものになるのか想像がつかなかった。しかし、指定討論者の意見を聞いた時に、専門性があるということの素晴らしさに感銘を受けた。避難生活によるエコノミー症候群を心配すること、初めての経験に言葉を失い、新たな言葉を紡いでいくこと、これまでと今とこれからの思いを形にして残すこと、数字や値を正しく理解し、ただ不安になるのではなく理性的になること、内容に結びつく英語で外とつながっていること、次に起こることを予測することなど、それぞれの専門を立場とした意見は、その専門がもつ力を教えてくれた。

 それから自分のそばにいる院生との対話は、面白い内容となった。「うまく話がまとまらない」というメンバーもいたが、同じことについて考えようとする姿勢が大事だと思った。自分の専門性があるからこそ、気づき、行動することができる。だから、専門性を磨き、他との融合のために対話していく人間になりたいと思った。発表してみて、私はどうしても意見をまとめる癖がついているという発見もあった…。



■ TK

われわれ教師は児童生徒に本当に「役に立つこと」を教えているのだろうか。

そんなことを考えるきっかけとなった講義だった。

児童生徒から「こんなん勉強しても何の役にたつん?」という質問を受けたことがないだろうか。

もしくは自分自身が学習者のとがそのような質問や疑問を感じたことはないだろうか。

そんな質問が来たとき私は

「自分がこの学習を役に立つものに変えていくんだよ」と答えている。

役に立つかどうかはだれにもわからない。学習者が「役に立つかどうか」で判断し知識技能の習得を取捨することはリスクがあるともいえる。

教師として知識・技能を児童生徒に伝え、思考・判断・表現力をはぐくむ場を与えてきたつもりであるが、3・11のような未曾有の事態において、役に立つと思われていた既存の知識や技能はどれほど役に立ったのだろうか。

逆に「役に立たない」と思われていた学習が「役に立った」こともあるのではないだろうか。

講義では社会科・理科の生徒が発表した後、音楽科の生徒が「音楽は、社会や理科みたいに役にたたないかもしれないが」と話し始めた。

しかしグループで対話を進めていく中で、他教科学生達からの音楽の有用性について発言を集め、音楽の役割・効果が明らかになってきた。

ともすれば、即効性を、あるいは受験というフィルターを重要視した知識技能伝達型の授業を行いがちである我々に、ふと立ち止まって考えることの重要さを与えてくれた講義であった。



2017年4月25日火曜日

When Borders Closeの解説記事




以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下をまず読んでから英文を読むと理解が容易になるかと思います。ただ、正確な翻訳・抄訳ではありませんのでご注意ください。

題材は、現時点では誰でも自由に読めるインターネット上の記事です。ただしアクセス回数に制限がありますので気をつけて下さい。

 ■の次にある数字は、受講者にBb9で配布する資料の行番号です。受講者の参照の便のためにつけました。


When Borders Close
by Ruchir Sharma
Nov. 12, 2016.
Sunday Review, The New York Times


この記事は、大方のメディアの予想に反してドナルド・トランプ氏が大統領に選出された直後に書かれたものです。この頃に書かれた記事としてはめずらしく、冷静で長期的な視点をもった論考だと思い、私はEvernoteに保存していました。


日本の英語教育界では、およそ単純すぎるグローバリズム観がしばしば表明されます。「グローバリズムだから英語を使わなければならない」、「英語を使えばグローバリズムに対応できる」などです。これらのスローガンの前提としては「グローバリズムは疑いなく受け入れるべき」、「グローバリズムは今後も続く」といったものもあるかと思います。

これらが勇ましい与太話で終わっていればいいのですが、これらの考えは中高の現場での英語教育に大きな影響を与えていますし、大学においても英語だけで卒業・修了できる学部・大学院が無批判的に厚遇されるといった形でさまざまな影響を与えています。

この記事を読んだだけでグローバリスムがわかるとか、世界の未来が予測できるといったことがあるはずもありませんが、スローガンに煽られて思考停止状態になることに楔を打ち込むことはできるでしょう(もっとも権力側にいてオコボレをもらえる限りにおいて思考停止状態になることは存外に快適なもののようです。ですが、それは弱者を蹂躙し社会を歪ませる頑強となることを私たちは忘れてはいけません)。

以下の分析を通じて、日頃から各種報道を批判的に読み比べながら考える習慣を身につけましょう。きわめて個人的な意見ですが、世界の動きや社会の情勢には無関心なまま、資格試験の得点向上だけを考えている英語オタクには公教育の英語教師になってほしくはありません。





*****

追記(2017/05/09)
以下、"deglobalization"には、「反グローバリゼーション」という訳語を充てていますが、ひょっとしたら「脱グローバリゼーション」という訳語の方が無難なのかもしれません。この訳語についてはしばらく考えます。


■ 6-7
確かにグローバリゼーションの時代には繁栄があったが、その受益者はもっぱらエリート層だった。


■ 8-9
経済危機が訪れると、不満をもった層はナショナリズムを唱え、自由貿易やグローバル金融や移民に制限を加えようとする扇動者を支持した。グローバリゼーションは停滞し、反グローバリゼーション (deglobalization) が始まった。


■ 11-12
この経済危機は第一次世界大戦と共に1914年に始まり、40年間にわたる移住と貿易の増加に終わりを告げた。


■ 12-14
これは、1980年代に始まり2008年のリーマンショックで停滞するまで続いたグローバリゼーションのブームと似ている。今日、グローバリゼーションはまたもや後退している。


■ 19-20
新たな反グローバリゼーションの時代が始まった。この時代はしばらく続きそうである。


■ 23-27
チンギス・カン以来、国境 (border) を越えたヒト・モノ・カネの流れは数十年周期の波で前進と後退を繰り返している。1914年に始まった後退は30年間続き、世界経済を弱体化し人々の不平感をつのらせ、やがてはそれは第二次世界大戦という形で暴発した。2008年に始まった後退はまだその力を増している。経済成長の鈍化やインフレや勃発する(国際的)衝突などの影響を自覚するべきだ。


■ 29-33
1914年と2008年の類似性は驚くばかりである。1914年以前の蒸気船と世界貿易への英国の参入は、2008年以前のコンテナ輸送・インターネットと世界貿易への中国の参入と似ている。


■ 37-41
グローバリゼーションによって引き起こされた20世紀初頭の社会的緊張 (social tensions) も現代と似ている。もっとも裕福な1%のアメリカ人の収入は1870年からどんどん上がり始め1920年代にはピークに達し、「金ぴか時代」の金権政治 ("gilded age" plutocracy) に至った。民衆の不満は広がり、1929年の世界大恐慌以降は特に政治家が国境を閉ざしがちになった。


■ 43
20世紀前半にアメリカは内向きになった。


■ 49
1930年代の最初の頃、アメリカは移民の受け入れを事実上中止したともいえる。


■ 54
国境を閉ざすことで競争と商業活動が停滞し、大恐慌 (the Depression) は長引いた。


■ 54-56
この時期のアメリカでは「アメリカが第一」 ("America First") と唱える 大衆主義者 (populist) は非主流派にすぎなかったが、ヨーロッパやアジアでは大衆主義者が軍事的独裁 (militarist autocracies) の権力を奪取し第二次世界大戦につながった。


■ 59-62
世界貿易が1914年のピークに戻るのはようやく1970年代になってからであった。資本の流れが戻ったのはそれよりも遅い1990年代である。しかしこれらの貿易と資本の流れが速くなると、それは金融危機につながることとなった。


■ 64
現在から見ると、(リーマンショックの)2008年は、(第一次世界大戦の)1914年と同じような転換点であったように思える。


■ 65-67
貿易の国内総生産(Gross Domestic Product)  に占める割合を世界的に考えるなら、1973年の割合は30%だったが、それが2008年には60%にまで上がっている。しかしリーマンショック以降は55%にまで落ちている。


■ 69-71
資本の流れについても同じように国内総生産に占める割合で考えるなら、2007年は16%であったが今ではそれが2%にまで落ちている。


■ 73-75
人の流れも少なくなっている。たしかにヨーロッパへの難民は引きも切らないが、世界全体で考えるなら貧しい国から豊かな国への人の移住は、2011-2015年ではその前の5年間から400万人減った1200万人となっている。


■ 78-81
1930年代と同じように、世界的な貿易や投資や移住の減少によって、世界経済は弱体化している。この新たな反グローバリゼーションの時代は長く続くかもしれない。その理由の一つとして、第二次大戦後のグローバリゼーションの秩序が、ロシアや中国と言った新興国での独裁者と西側民主主義諸国での大衆主義的な政治家によって攻撃を受けていることがある。


■ 84-87
2008年以来、インド、ロシア、中国、アメリカといった国々で保護主義的な政策が取られてきた。保護主義的障壁が一つの産業でできあがってしまうと、それは他の産業にも波及してゆく傾向があるので注意が必要である。


■ 89-93
1980年代に中国が世界貿易に参入して以来、中国の人口爆発によって世界貿易は加速した。原材料を、中国、後にはポーランドやメキシコといった国々に作られた工場へと運ぶことにより世界は繁栄した。2008年以前の世界貿易ブームはこれらのサプライチェーン (supply chain) の中での商品移動によるものが多かった。


■ 93-95
しかしこの流れは変わった。特に、中国が貿易への依存度を低め、中国の工場が国内での生産に乗り出したことが大きい。


■ 97-99
このグローバリゼーションの停滞の理由をオートメーションや中間層の仕事が少なくなっていることに求める者もいる。


■ 99-101
しかしテクノロジーを重視する者たちは、政治的現実 (political reality) を見失っている。今の政治的な流れは、移民と貿易に反対する立場をとっている。反グローバリゼーションの意味合いを認めなければならない。


■ 103-105
二つの世界大戦の間の時代に、反グローバル的な綱領によって国際競争が少なくなり、インフレも手伝って経済成長は弱まった。今日、大衆主義者 (populist) は国内産業を保護して富を共有することを訴えているが、これは前例の繰り返しとなるかもしれない。


■ 107-110
国内での富の再分配は、人々の収入格差を狭める健全な効果をもつかもしれない。だが保護主義が強くなれば、国々の間での富の格差は大きくなるだろう。第二次世界大戦以来、貧しい国が輸出抜きに経済発展した例はほとんどない。


■ 114-117
もっと心配なのは、国境を閉ざすことの地政学的な影響である。2008年以来、開かれたグローバル秩序がよろめき始め、民主主義国家の増加も止まった。Freedom Houseの調査では、2008年以来、自由が高まった国は60あるものの、100以上の国々で自由は後退した。民主主義国家では外国人嫌い (xenophobic) が増加し、独裁国家はより抑圧的になった。


■ 121
自由が後退している国々の政府は国境を閉ざし、軍事力を強化している。


■ 126-127
20-10年前までの軍事費は世界的にほぼ横ばいであったが、ここ10年間の軍事費は東アジアで75%、東ヨーロッパで90%、サウジアラビアで97%上昇している。


■ 129-130
第一次世界大戦で粉々に砕けた希望は、ますます相互につながった世界 (increasingly interconnected world) により、軍事衝突は過去のものになるだろうという希望だった。この希望はここ数十年間再浮上していたが、国々のつながりはほころびかけているし、緊張は広がり、「我が国こそ第一」という大衆主義 (populism) は、アメリカも含めた国々で強くなってきている。


■ 135-137
ヒト・モノ・カネのグローバルな動きはこれから停滞し続けるだろう。過去から学べることは、昼の後に夜が来るように、グローバリゼーションの後には反グローバリゼーションが来るということである。反グローバリゼーションの時代は、グローバリゼーションの時代と同じぐらい続くかもしれない。





2017年4月19日水曜日

今年の昼読はさらに多言語空間になりそうです。



今週から始まった「昼読」ですが、二回目の本日は特にさまざまな言語での読書会となりました。

参加者は院生5名、留学生1名、教員2名の合計8名。

読んだ本の言語は英語とロシア語がそれぞれ2名。あとはフランス語、ドイツ語、中国語、日本語の6ヶ国語となりました。








読書、とりわけ外国語の読書を継続することはそれほど容易ではありません。次から次に来る細々した仕事に追われて後回しにされがちだからです。

「昼読」で(外国語でのものも含めた)読書の習慣が形成されればと思います。

加えて、最後の10分間での意見交換は本当に面白いです。

世界が広がり深まります。

「昼読」は緩やかな集まりですから、ご興味をお持ちの方はお気軽に月・水・金の昼休みに教育学研究科A210室にお立ち寄りください(誰もいなくてもどうぞ勝手に入って下さい)。







留学生も含む学部生による「対話」についての振り返り



ここ最近、私はさまざまな機会を通じて「対話」の実践を促進しています。

以下は、学生間の対話を導入した学部4年生の授業(「現代社会の英語使用」)の第一回目の授業での感想の一部です。一人は留学生ですので、日本語の慣用法からは少し逸脱した書き方もしていますが、意味理解にはまったく支障がありませんでしたので、敢えて修正などはしませんでした。「慣用から少し逸脱しているとしても、これだけ深い内容を伝えられるのなら、この日本語は一つの個性として認められるべきではないか」と考えたからです。

このように母国語話者による修正を最小限に抑える方針(=意味理解に支障がでる場合や意図していない誤解を生んでしまっている場合以外は基本的に修正しない方針)については、アメリカの大学の多くのライティングセンターでは採択されていると聞いたことがありますが、自分自身でその方針についてそれほど共感していたわけではありません。ですが、今回は実際の留学生の日本語を読んで上のように感じた次第です。

もちろん修正についてはいろいろな意見があるでしょうし、文章執筆の目的によっても方針が異なるだろうことは承知していますが、今回は敢えて修正なしの方針を取りました。

ともあれ、以下の「対話」についての学部4年生の意見をお読みいただけたら幸いです。





*****


■ 個々それぞれが物事の一面しか見えていなくても、真理と連動性を全員が目指して対話をしていくと、個々の誰の考えであったものでもない、あらたな考えを創造できる。相手の言っていることが一見話題とは関係ないように思われるかもしれないけれど、連動性が頭にあれば、「それはどのように関係するの?」と質問をして議論を深めていくことができる。「相手を変えてやろう」と思っていると相手の意見を聞くことができない。

 けんかにならないように、などと思って反論しないでいると、対話にならない。傷つけない言い方ができれば、相手を思いやりつつ相手とは異なる意見を言い合えて、対話が進んでいく。

  対話ができた経験があるか、という問いに対し、私は授業や実習で授業を作るための話し合いがそれに該当するだろうと始め思った。しかし、講義中の対話で指摘してもらった通り、授業を作る話し合いは決められた時までに終わって授業を作りきらないといけないという点では、私たちが講義中に捉えた対話の在り方とは少し異なる。具体的に授業を作る話し合いの際は、時間的な制限によって妥協せざるをえない時もあるだろう。他に、わたしはサークルの運営についてサークルのメンバーと話し合うときも対話であったのではないかと思っていたが、その中にも、何月何日までに決めないといけない、など時間的な制限がついていたものがあり、それらも少し違うのだと思った。

そこで後々、対話をした経験は本当になかったのだろか、とさらに考えてみた。ずっと部活やサークルの話になるが、大学の吹奏楽団のみならず、中高の部活についても、母や運営上の関係が強い相手と部活の課題やその解決について話すことがあった。大体、そのときは明確な答えが出るわけではなくてむしろ「難しいね」などとひとまずは話を終えるのだった。そしてまたしばらくして同じ話をする。少しずつしか進展はしなかった。なかなか解決できない、という思いはあるが、いつか答えが見つかるのではないかという前向きな思いは常にあって、辛いとか悲しいといった否定的な思いにはさほどならなかった。対話ができた関係というのは、相手を信頼して安心して発言ができるし、相手も自分の意見を聞いてくれると思って発言できる関係であるから、そのような関係を持てたことはありがたいと思った。

 上司など上下関係がはっきりある相手には、反対の意見を言い出すのも難しく思われる。そういう関係でも対話を意義あるものとして成り立たせるには、上司の側に工夫が必要だろうと思う。あるいは、講義中の意見でも出たように、お互いを知らない時も、反対意見を出すことに抵抗を覚えることがあるだろう。このような時に、対話をうながす態度や話し方ができるようでありたいと思った。それらがどのようであるかということを考える際に一つ思い当たったのは、講義中の対話を見てもらって「間と話しだしの捉え方が人によりけり」と言われたことだった。間の感じ方、これだけ空いたら話せる、という感じ方は違うことを、特に他の国の方と話す時に感じたことがあったが、それは実際には国籍に関係なく生じる個人差である。発言権をバランス良く回す必要があるし、それだけでなく、質問をしたりして議論に巻き込んでいかなければより良い対話にはたどりつけないと思った。


■ 人の呼吸を感じる、という言葉が印象的だった。思い返してみると、高校の部活の試合では「よく相手の動きを見ろ」と言われた。しかし「相手が動いていないのに自分から動いていた」と試合後には同じ助言を何度ももらった。大学のサークルでは「周りの音をよく聞いて」、「口の形を見て」、と言われていたが、いつもずれてしまった。今回の授業で、人の呼吸を感じるということ、表情からその人の感情や動きを読み取る、ということはとても大切なことだと改めて思った。

アイコンタクトを取っているつもりで、何も見ていないのと一緒の時がある。人が目の前にいるのに、ただ浮かんだ言葉をそのまま口から吐き出すだけの時がある。それは討論どころかコミュニケーションですらない。話していて心地よいと感じる人の特徴は表情や言葉の表現など多くあるのだが、そのうちの一つに、自分が「しゃべりたい」と思ったときにそれを察して、すっと話してから聞き手へと自然にうつるということも挙げられるのではないかと思う。

先日教英の友達と、コミュニケーション能力が高いというのは、ただ笑って話ができるというだけではないのではないか、内容も含めて言えるものではないのか、という話をした。コミュニケーション能力の定義は様々であるが、相手意識は不可欠であるのではないか。こう言ったら、相手はどう思うか、どう返すか、話の流れはどう変わるか、そこまで少しでも見通しをもって話ができれば、相手を大切にしたやり取りが可能になるのではないかと感じた。


■ 
 対話によって、話し手と聞き手の間、意味の完全な一致は前提とされず、意味は差異があることを認めており、むしろ差異があるからこそ、新しいものを作り出すことが出来るという解釈によって、対話の本当の目指すことを考え直した。対話の中に、聞き手は普通に話し手が思っていたこととまったく同じ意味での反応をしないのは、人はそれぞれの背景と価値観を持っており、その価値観によって、自分しか持っていないスクリーンを通じで対話をしているからであろう。そして、対話の中で、自分が言おうとしたことと相手が理解したことの間の差異、本当は対話者それぞれ思考方式の差異だと考えた。その差異から生み出した同じ言葉に対して違うの理解、つまり同じ言葉について考え方の他の可能性そのものは、対話の参加者たちが創造した「共通な新たな内容」ではいかと思った。 

 理想的な対話を作るため、原則的には、対話の議題は定めないことだが、実際に対話をする時に、たとえテーマを決まっていなくても、その対話の最初の発話者によってある話題が提出したら、後の発話者もその人が言ったことあるいは議題に関わる内容しか言えないようになるのは普通だと思う。また、完全に自分の偏見を見捨てて他人に傾聴することも、あるいは自分の思うことをすべて自由に述べることも対話にとっては大切だが、そういった対話をするのがやはり実際の生活でいろいろな場面でも難しいことだなと意識思った。

 対話の参加者の間での意味に差異から何かあたらしいものが生まれてくるのように、私達が言葉にしたことと自分の本当の思考やぼんやりとしか意識できない思考過程の間にきっと何らかの差異があるのだろう。その差異によって、自分の思いに対して新しい認識を得られるかもしれない。それが、私達が言語から自分について学べることなのではないかと考えた。


■ 後半の「対話」というものについて実際に対話をして見るときには,これほど日本語で対話をすることが難しいのかと驚きました。私たちのグループの対話の進め方は,提示されている質問に対して一人一人が意見を述べていくという形でしたが,後から振り返って見れば,これは対話とは到底言えないものであったのではないかと考えてしまいます。対話とは,異なる意見・異なる背景を持った人と話し合う中でなんとなくこれが真実なんだろうね,というものへと近づこうとする試みであると考えますが,私たちが行っていた話し合いではただひたすらに自分の意見を述べるだけで,人の意見を受けて自分の考えを変えたり反論して見たりすることが一切なかったように思います。母国語で対話をすることは造作ないだろうという考えは,私たちが日本語そのものに関する知識は十分なのでしょうが,対話をする経験や意義などを持っていないことに気づいていなかったからこそ持ってしまうのでしょう。


■ 対話についてですが、自分がこれまで思っていたものよりはるかに創造的で高度な営みであるということがわかりました。今回の対話体験を通して一番心に残ったのは聞き手の「受容力」です。特に、聞き手は話し手とまったく同じ意味での反応をするわけではない、という点が印象的でした。自分がとにかく伝えているだけでは相手に伝わらない、したがって相手の理解を踏まえて(受け入れて)少しずつお互いが良いと思う方向にすり合わせていかなければならないことになります。ここで自分を押し付けたりせずに、傾聴する姿勢を持たなければ対話は成立し得ません。




追記 (2017/04/25)

母国語話者以外が書く言語について、 ある学生さんがさらにコメントを書いてくれましたので、ここに転載しておきます。

*****

 その言語の慣用から多少逸脱していても、それは一つの「個性」として捉えられるのではないか、というお話が印象的だった。自分自身、母国ですら完全に使いこなせているわけではないだ、ということを大学に入ってやっと痛感した。「正しい」言語とは何か、ということを母語である日本語を例に考えたとき、「詩」が浮かんだ。詩において、違和感すら与える形容詞と名詞の組み合わせや、倒置法などの不規則な語順こそが、読み手の感情を動かす個性として生きるということが多々ある。

(中略)

 言語において、母語話者が権力を持つ、ということはない。母語としない人からこそ気づかされること、学ぶことも多い。そして、外国語を通して母語への認識を深める、ということはこのようなことからも言えるのではないかと考えた。

 つまり、文化や概念の異なる国の言語を取り扱う際、それぞれの単語や語順などに対する認識には、多少ずれが生じるものであるようだ。それならば、まったく違和感のない文章よりも、むしろ、その人の持つ文化や概念をそのままに、思考を飾ることなく言葉にした文章こそが、その人の言いたかったことを最も身近に感じられる表現へとつながるのではないかと感じた。加えて、他の言語を学習する際、その言語のみでなく、それを使用する人々のもつ概念や文化についても、私たちは学んでいく必要があるようだ。





2017年4月17日月曜日

教英入学式での挨拶

以下は、4月3日に教英の入学式で私がした挨拶です。学生さん共々、初心を忘れないために掲載します。






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学部新入生への挨拶


新入生の皆さん、「ご入学おめでとうございます」ということばを聞き飽きてきていませんか?

確かに大学合格をゴールとしか考えていない人たちには、大学入学はめでたいことでしかないでしょう。しかし、私のように大学入学から卒業までの学生さんの姿を長年見てきた大学教師にとっては、大学入学はスタートでしかありません。

このスタートをうまく活かせるか活かせないかはまさに皆さん次第です。

大学の教師も施設も、皆さんがこれから作る友人も、あるいは保護者も、皆さんの代わりに皆さんそれぞれの人生のレールを引いてくれません。(いや、むしろ、引かせてはいけません)。だから、今は、入学を嬉しく思いながらも、気を引き締める時期だと私は思っています。

とりわけ私が懸念している新入生は、高校卒業までの生活で、自分の「からだ」と「こころ」の実感を忘れてしまった人です。

よく高校の先生などには「大学入学までは我慢をしろ。入学したら好きなことをすればいいから」と言う人がいます。

若い人の中には、そんなことばを鵜呑みにして、自分が「からだ」や「こころ」で感じるさまざまな想いを抑圧してしまった人がいます。「勉強とは自分の嫌いなことを我慢してやること」などと思いこんでしまっています。

そんな人は、大学に入学しても自分は本当は何がしたいのかがわかりません。感性をつぶされてしまったからです。いや、少し厳しい言い方をすれば、自分の感性を他人につぶされてしまうことを許してしまったからです(ここで「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という茨木のり子さんの詩を思い出す人もいるかもしれません)。

そんな人も、しばしば自分は好きなことをやっていると思い込んでいます。ですが、実際は、周りの人がやっていることを、「みんなやっているから」という理由だけでやっているだけです。

だから「みんな」に合わせて、「みんな」の顔色をうかがってばかりです。自分の「からだ」と「こころ」で感じること、そしてその感じたことを表現することができません。表情ですら自分で自由に出せません。自分の考えはひたすらに隠そうとすらします。

だから、一見楽しそうな顔をしていても、実は不安です。あるいはたまにある例ですが、人前では過剰なまでに「幸せな自分」という役を演じて、実際のところは疲れ切っています。

そんな人は、自分の「こころ」--言語以前の未分化な感情-- と「からだ」-- 感情以前の身体内での細かな蠢き-- を忘れてしまっています。そんな人には、身体の底からの意欲は湧きません。心の底からの情熱も出てきません。だから深い知性も身につきません。

だから皆さん、一人になること (solitude) を怖れないでください。

教英は先輩後輩の「縦のつながり」と同級生同士の「横のつながり」に恵まれた素晴らしい場所です。

しかし、自分の個性を大切にしてください。

自分の「からだ」で感じたこと、「こころ」で想ったことを大事にして、それをことばにしてください。流行りのことばをうまく使いこなすのではありません。自分にぴったりのことばが見つかるのを辛抱強く、しかし貪欲に待ち続けて下さい。それこそがことばを学ぶことだと私は考えています。

大学時代に、自分の「からだ」と「こころ」を取り戻してください。あるいはそれらを忘れないまま入学した人は、それらをどんどん育てて下さい。

そして自分のことばを見つけてください。さらには、そのことばで他人に語りかけてください。また、そんなことばで語りかけてくる他人に耳を傾けてください。深い友情を築いてください。今は漠然としか感じられていない自分の可能性を実現させて下さい。

もし皆さんがそんな学生生活を送ることができたら、私は卒業式に心から「おめでとうございます」と言います。

だから今日はおざなりな「おめでとう」は言わず、こう言います。

互いに自分の「からだ」と「こころ」を大切にしましょう。そこから出てくる深いことばで語り合いましょう。

深いことばで学ぶ大学へようこそ。







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大学院新入生への挨拶



大学院に進学された皆さん、ご入学おめでとうございます。

大学院では、学問という古来からの営みにこれまで以上に真剣に従事します。
この営みは、お上手を言い合ったりする世渡りや、巧みに忖度を行う保身や出世とは異なります。

もちろん出世はともかく、世渡りや保身は大切ですから、それらはそれらでうまく行ってください。

しかし、こと学問の時間、研究の場においては、人間関係や利害関係や権力関係よりも、自分自身の納得を大切にしてください。

研究において、自分でどうしても納得できないことに対しては、怖れずに「わからない」と言って下さい。そして自らの疑問を口に出して下さい。納得できていないことに対して "Yes" と言わないでください。

逆に自分が納得できないからといって、その内容をむやみに "No" で否定しないでください。それは現在のあなたの知的限界によって理解できないだけであり、その内容が間違っているわけではないかもしれないからです。

納得できないことに対しては、"Yes" とも "No" とも言わず、疑問を表明してください。疑問すら出ずに不全感ばかり感じる時は、それを肯定も否定もせずに自分の中に静かに留めておいてください。そして数週間後、数ヶ月後、数年後、ひょっとしたら数十年後に「ああ、こういうことか」と膝を打ってください。

人類は有史以来、紆余曲折はあれど、学問(およびそこから派生した科学)と民主主義を大切にした流れでこれまでの歴史を作ってきました。学問(科学)においても民主主義においても、人間関係や利害関係や権力関係とは独立に、お互いの納得を求める営みです。私はそんな人類の歴史を大きく肯定する人間として大学に勤めています。

現在、世界各地で民主主義の後退が懸念されています。その中には学問や科学の成果をあからさまに権力が否定しようとする動きすらあると思われます。こんな時代に、大学・大学院が、研究を世渡りや保身や出世の道具にしてしまってはいけません。それは人類の歴史に対する冒涜だとすら私は考えます。

お互い学問という営み、研究という精神を大切にしてゆきましょう。

それが世界中に二千年以上にわたって存在し続けた数え切れない先達と、私たちの後に続くこれまた無数の人々に対して私たちがもつ義務であり、喜びだと考えます。

と、偉そうなことを言いましたが、実は私自身が一番、きちんとした研究ができずに心苦しく思っているというのが現実です。

皆さん、互いに切磋琢磨して学びましょう。

大学院へようこそ。


Difference Engineの解説記事



以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下をまず読んでから英文を読むと理解が容易になるかと思います。ただ、正確な翻訳・抄訳ではありませんのでご注意ください。

題材は、現時点では誰でも自由に読めるインターネット上の記事です。ただしアクセス回数に制限がありますので気をつけて下さい。


 ■の次にある数字は、受講者にBb9で配布する資料の行番号です。受講者の参照の便のためにつけました。


Difference Engine: Luddite legacy
The Economist, Nov 4th 2011 by N.V.


以下のパブリックコメントでも書きましたが、これからの(英語)教育は、AIの台頭を考えておかねばなりません。おそらくは近い将来にスマホによって代替できるような定型的な「英会話」能力ばかりを目指しているようではいけないと私は考えています。


中学校指導要領(外国語)についてもパブリックコメントを提出しました


皆さんも以下の記事を読んで、これからの社会と教育のあり方について考えてください(というより考える習慣・考え続ける習慣・考え抜く習慣を大学時代に身につけておいてください)


■ 2
Difference engineとは「階差機関」もしくは「差分機関」と翻訳されている、歴史上の機械式用途固定計算機。現在のコンピュータの前身ともいえる。


Ludditeはいわゆる「ラッダイト運動」のこと。世界史上の常識ですから、今一度確認して下さい。マルクスの批判にも注意。英語教育はビジネスや資本主義のあり方に大きく左右される営みだから、経済や世界史についてはきちんと理解しておこう。


■ 7-9
「ロボットは組合費を払えないだろう」と労働組合の長に言い放ったヘンリー・フォードに対して、労働組合長が「誰がフォードの車を買うんだい?」と言い返したという(真偽不明の)エピソードは、企業が発展するには、その企業の商品を買うだけの購買力をもつ人々(中間層)が必要だということを示している。


■ 11-15
生産性の向上に伴い商品を購入できる消費者の数も増えなければならない、ということをヘンリー・フォードはよく理解しており、彼は自社の従業員にその当時としてはかなり高給を支払った。


■ 22-24
経済学者は上記のエピソードを、オートメーションやイノベーションといったテクノロジーの進展が生産性を上げ、生産性の向上が物価を下げ、需要と雇用を増やし、経済が発展する古典的な例だと考えている。


■ 24-27
上記の経済学者の認識は、ラッダイト運動(の失敗)以来、経済学の「常識」となっている。


■ 29-31
ラッダイト運動の頃、たしかに失業者は出たが、もしラッダイト運動の主張が正しいとしたら、現在の私たちはすべて職を失っているはずである。だが、現実には職がある以上、経済学者の「常識」は正しいと思われる(少なくともこれまでは)。


■ 35-37
「しかしもしテクノロジーの進歩がこれまでになく速くなっている現在、なぜアメリカでは失業者の割合はこれほどに高いのだろうか?実際、景気は悪くないのに、失業者が減らないのはなぜだろうか?」というのが、このエッセイの中心的な問いとなる。この記事は、リーマンショックからの回復が見られた2011年に書かれている。その後アメリカでは2017年から労働者の鬱憤を代弁する(ように少なくとも見せている)トランプ氏が大統領に就任したことからしても、労働者の苦境は引き続き続いている。

「景気は回復したのに、雇用が増えない」、「収入の平均値は上がっているのに、中央値は上がっていない」ということについては、下の記事を参照。

井上智洋 (2016) 『人工知能と経済の未来』 (文春新書)


■ 48-50
このアメリカの労働者の苦境に対する従来の説明は、現在の経済の成長率は十分に高くないというものである。


■ 55-56
この従来の説明には一面の真理があるが、その説明は、テクノロジストが懸念してきたが経済学者が取り上げようとしなかった重大な変化を見逃している。


■ 57-61
経済学者が認めたがらない重大な変化とは、雇用が増えないのはテクノロジーの進歩が十分ではないからではなく、むしろ逆にテクノロジーの進歩が急激にそして不可逆的に高速化したからというものだ。コンピュータによるオートメーション、ネットワーク、AIなどは社会に決定的な変化を与えた。特にAIは、機械学習、言語翻訳、言語認識、パターン認識、などによりこれまで人間がやってきた仕事を時代遅れのものにしている。


■ 63-67
これは産業革命以来の、機械が人間の筋肉労働にとって代わることにより仕事がなくなったが、同時に人間が新たな仕事を生み出してきた歴史とは異なる。今やオートメーションは、定型的な仕事(ルーティーン)だけでなく知性を必要とする課題、あるいは創造的な課題にまで及ぼうとしている。分岐点 (a tipping point) 越えが既に起こり、これまで頭脳労働によってそれなりの収入を得てきた中間層が広い「草刈り場」 (swath)  となったのかもしれない。


■ 69-72
企業からすれば、AIソフトが安くなったので、高い賃金を人間に払いたくないだろう。


■ 74-77
100年前には農業労働者の割合は労働人口の約半分だったがそれが現在は2%強にまで減っている。これと同じことがホワイトカラーの労働者に起きようとしているのかもしれない。


■ 81-83
メディア学者の一人は、イノベーションが起こりこれまで以上に高い教育がなされたとしても、ホワイトカラーの仕事が新たに創生されるということはないだろうと述べている(つまり、上記の経済学の「常識」が通用しなくなるということだ)。


■ 85-89
「ラッダイト運動は間違いだった」という考えには二つの前提がある。一つは、機械は生産性向上のために労働者によって使われるということ、もう一つは、労働者の多くは機械を操作できるということである。しかし、機械そのものが賢く (smart) になり、機械自身が労働者となったらどうなるだろう。言い換えるなら、資本が労働となったらどうなるだろう(注)。

(注) 従来は、資本(剰余金)をもつ資本家は、労働力をもたないので、資本を投入して設備を購入し労働者を雇用して生産をすることにより、さらにその資本を増やすという枠組みで資本主義が動いていた。しかし、資本家が人間の労働者を雇わずに済むとしたら、資本家は労働者として働く賢い機械を買うだけで自らの資本をさらに増やすことができる。

資本主義については以下の記事を参照。

マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ

モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房

池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社

組曲『マルクス経済学』(笑)

ジョン・ホロウェイ著、大窪一志・四茂野修訳 『権力を取らずに世界を変える』 同時代社


■ 97-101
AIによって取って代わられるのはホワイトカラーの知識労働者と中間管理職だけではない。データ分析、ビジネス情報分析、意思決定を行うAIソフトが人間の労働力よりも安く購入できれば、いわゆる専門職 (professional) も仕事を失うだろう。


■ 103-104
一例として放射線科医を挙げることができる。現在は長年の大学教育を経てそれなりの高給を得ている放射線科医はもうすぐAIに仕事を取って代わられるだろう。


■ 109-110
法律家も同じように、判例を検索し事件の評価をして結果を要約する賢いアルゴリズム(AI)に仕事を取って代わられるかもしれない。


■ 116-119
もちろん機械が増えれば、機械の維持などの仕事も新たに出てくるだろう。だがそういった仕事もすぐに安い労働力をもつ国々の労働者に取って代わられるか(オフショアリング)、機械の維持を行う機械によって取って代わられるだろう。


■ 122-125
もしテクノロジーが指数関数的に向上するのだとしたら、ラッダイト運動が間違っていたのは、テクノロジー発展が比較的平坦な上昇しか示していなかった時期の時なのかもしれない。だが産業革命から200年余りたち、テクノロジー発展が指数関数的上昇の急勾配の時期に来ているとしたらどうなのだろう。


■ 129-133
ある推計によると40%近くの仕事はやがてコンピュータ上のソフトウェアに取って代わられるとのこと。10年以内のうちにそれらの仕事の多くが消え去るだろうとも言われている。


■ 143-1449
それほど悲観的な見解をとっていない者もいる。機械に対抗して (against) 働くのではなく、機械と共に (with) 働けば、AIの発展は脅威ではなく好機であるというのがその意見である。その例としてAmazonやeBayでの仕事が挙げられている。


■ 155-156
やはりラッダイト運動は現代においても間違っているのかもしれない。だがこれからの仕事が、これまでと同じような形(例えばフルタイム雇用)で続くかどうかはわからない。


■ 156-159
人間を人間たらしめている能力、つまり想像力、感性、創造性、適応力、即興力などによって、私たちは直感を得るし自発的な行為をすることができる。これらの能力は、機械にはなかなかもてないものだ。


■ 162-165
たしかにいくつもの仕事が機械に取って代わられるだろうが、機械は人間の能力を増大化するものである。もし新しい「人間と機械のパートナーシップ」が、人々に経済的報酬だけでなく、仕事の尊厳も与えてくれればすばらしいことになるだろう。ともあれ、一つだけ確かなことは、世界はこれまでとは違ったものになるということだ。




2017年4月12日水曜日

2017年度前期も「昼読」を開催します。


食事と運動があなたの身体を作るように、読書と対話があなたの心を作ります。

インスタント食品ばかり食べて、身体を動かさない毎日があなたの身体を鈍らせてしまうのと同じように、教科書や研究論文以外はSNSでしか文章を読まず、当たり障りのない浅い会話(あるいは仕事上の話)しかしない毎日はあなたの心を貧困で鈍重なものにしてしまうでしょう。

貧困で鈍重な心は、あなたの人生の可能性を潰してしまうだけでなく、その抑圧的で独断的な性質で他人の人生の可能性も押しつぶしてしまうかもしれません。


せめて大学では自発的な読書の習慣を大切にしませんか?






「昼読」は、自発的に集まり、各自がそれぞれ静かに好きな本を読んだ後、その読後感を共有する集まりです。感想の共有という活動は、あなたの世界を広げ、深めてくれます。

授業期間中の4/17-7.28の月・水・金の昼休みに教育学A棟のA210室に集って下さい(昨年とは部屋が異なりますのでご注意ください)。

遅刻・早退・欠席自由です。昼食を食べながらの参加も結構です。広島大学の構成員でしたら学生・教職員を問わず、どなたでも歓迎します。

緩やかに集まり、短くとも深い時間を共有しましょう。


代表管理人:柳瀬陽介(英語教育学講座)
メールは広大アカウントの前に"yosuke"をつけてください。



関連ブログ記事:
2016年度後期の「昼読」を終えて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/02/2016.html
昼読再開 + ハリー・ポッター仏語版を読んだ学部4年生の感想
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/4.html
前期の昼読を終えて(学部4年生M君の感想)
 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/08/4m.html
2016年度も月・水・金に「昼読」を行います
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/03/2016.html
月・水・金の昼休みに「昼読」を始めます。英語・日本語文学・第二外国語での読書会です。
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/09/blog-post_29.html



2017年4月11日火曜日

The scientists who make apps addictiveの解説記事



以下は、学部4年生用の授業「現代社会の英語使用」の題材の一つとして使う英文を読むための補助資料です。以下をまず読んでから英文を読むと理解が容易になるかと思います。ただ、正確な翻訳・抄訳ではありませんのでご注意ください。

題材は、現時点では誰でも自由に読めるインターネット上の記事です。


The scientists who make apps addictive
by Ian Leslie
October/November 2016
The Economist



■の次にある数字は、受講者にBb9で配布する資料の行番号です。受講者の参照の便のためにつけました。


私たちの多くにとって、もはや欠かすことのできない存在となったアプリがどのようにデザインされているかについて考察してみましょう。アプリ上での英語使用も、結局はそのデザインの枠組みの中でのことに過ぎないと言ったら、悲観的すぎますでしょうか・・・




*****


■ 5-17

心理学者スキナーの行動心理学については教職教養の一部として知っておこう。

キーワードとしてはreinforcement (強化)、operant conditioning (オペラント条件づけ)、スキナー箱 (Skinner's Box) などがある。

ちなみに「オペラント」というカタカナはわかりにくいが、英語で “operant” は、 “behavior (as bar pressing by a rat to obtain food) that operates on the environment to produce rewarding and reinforcing effects”などとも定義されている。カタカナ語の多用を嫌う私としては、どうして「オペラント条件づけ」などと言わずに「行動による条件づけ」、「行動的条件づけ」、「動作的条件づけ」などと翻訳してはいけないのだろうなどと思ってしまう。そうすれば大学生時代の私のように、この概念と「古典的条件づけ」の違いがわからないなどと悩むことも少なくなるのではないかとも考える。(乞うご教示)。


■ 19-21

心理学では1950年代以降、認知心理学 (cognitive psychology)が隆盛となった。認知心理学と行動心理学の違いも教職教養の一部として知っておこう。


■ 22-26

しかし行動心理学は死に絶えることなく、現代では「行動デザイン」 (behaviour design) として再浮上している。その創始者(の一人)が、この記事の中心的話題となるB.J. Fogg https://bjfogg.com/ である。


■ 34
Uber(ウーバー)については最近の話題の一つとして知っておこう。


■ 59-62
Foggは、教育系のソフトウェアや金融管理プログラムなどにも、行動心理学が活かせると考えた。


■ 64-67
社会心理学では、人間の行動特徴の一つとしてreciprocity互酬性)が提唱されているが、Foggの実験では、人間はコンピュータといった機会に対してもこの原則を適用させていることが示された。


■ 68-71
そうなると互酬性の原理にしたがってアプリを設計すれば、人間の行動を変えることが可能になる。しかしこの行動デザインの倫理性についてはまだ十分に検討されていない。


■ 76-80
しかし、現在のアプリには実際、行動デザインの原理が多用されているが、それらは巧みに用いられ人々に気づかれることも少ない。


■ 82-84
Foggの講演を聞いた者は、「危険だ!」と言う者たちと、「ビジネスチャンスだ!」と言う者たちのふた手に分かれた。


■ 86
実際、行動デザインは巨万の富を産んだ。
 

■ 91-92
しかしFoggは、行動デザインの倫理面についてますます懸念を深めている。


■ 94-99
誰かが何かをする時には以下の3つの条件が同時に揃わなければならない。(1) その事をやりたいと願っていること、(2) その事をすることが不可能ではないこと、(3) その事をやるように促されること。


■ 105-106
しかし、大人と子どもでは行動が違ったりする。たとえば、大人は簡単な事ならやるが、子どもはたとえ簡単なことでもゲームのようでないとやらない。


■ 108-110
人に何かをやらせる時は、その人のやる気(モチベーション)を高めようとするが、それよりもその行動そのものをその人に適したものにすればいいのかもしれない。


■ 123-127
うまくデザインされた「ホット」なトリガー (trigger 誘発装置)は、人がまさにそれをやりたいと思っている時にちょうどいい難易度で行動を誘発させる。


■ 131-135
「ホット」なトリガーで情動が高まると、その行動を自動的に選択するようになる。(飛行機のビジネスクラスでの待遇を考えてみてもいい)。


■ 140-141
「人をいい気分にさせろ」ということは、「人に強大な力を得たと思わせろ」と言い換えられるかもしれない。


■ 151-156
Foggの理論以降に台頭したFacebookやInstagramなどのSNSは行動デザインを駆使している。SNSでもっとも「ホット」な誘発装置(トリガー)は、他人である。友人やフォロワーの反応によって、人はSNSにのめり込む。


■ 161-165
たしかにフォローやコメントがついたら嬉しくなるものだが、そればかりを追求するとやがてストレスが溜まってしまう。


■ 175-177
Foggはかつて彼が教えた者たちを見てこう思う。「彼ら・彼女らが作っているのは、良い世界だろうか、それとも金儲けの機会だろうか。私はテクノロジーから人々が自由になることを願っていたのに・・・」


■ 179-184
スキナーがネズミを対象とした実験で解明したことは、報酬を一定にせず、変化させると、余計にその行動に「はまってしまう」 (hooked) ということだ(the principle of variable rewards)。


■ 186-190
Facebookにフォローやコメントがつくかどうかが気になってはまってしまうというのは、まさにこの「報酬変化の原則」である。


■ 192-198
ある学者は、誘発要因は外部に存在するのではなく、その人の内部に存在するようになると理論化している。例えば、人は、もはや気づかないうちに特定のアプリを欲するようになっているからである。


■ 211-216
インターネットの初期には、「情報によって人々を啓蒙する」という理念が掲げられたが、現在は「人々の注意をひきつけ離さないようにしてサイトやアプリで儲ける」ことが中心になってしまった。多くの会社は、私たちの心理的な弱さ (psychological vulnerabilities) を食い物にしている。


■ 218-220
例えば、Facebookは人がプロファイルの写真を変えたら、それをニュースフィードで大きく取り上げるが、それはそういった時に人がもっとも社会的承認(「いいね」やコメント)を欲していることをFacebook社が熟知しているからだ。


■ 231
ある人 (Harris) は、デザイン倫理学者およびプロダクト哲学者という肩書を考えて、デザインの倫理性について真剣に考えようとした。


■ 235-139
しかしそのHarrisもやはり独立して、独自にデジタルテクノロジーの危険性について警鐘を鳴らすことにした。行動デザインはクリックだけの些細なことに思えるが、全世界的に広がれば、巨大な権力となり人間の自由選択が侵されるとも考えるからだ。


■ 241-245
Harrisが常に唱えているのは「メニュー画面を制する者は、人々の選択を制する」である。現代人は、いくつかのアプリだけでさまざまな決定をしているので、それらのアプリのメニュー画面をデザインする者は京大な権力を有することになる。


■ 255-258
アプリ会社は、人々が欲するものを得る手助けをしているだけだ、と言うかもしれないが、現代人が毎日何回もスマホにアクセスすることを考えるとアプリ会社は人々の選択に強い影響力をもっているといえる。


■ 263-266
行動デザインの先駆者はギャンブル産業である。スロットマシンは報酬変化の法則の力を利用している。客は、次にどれだけの儲けがあるのか(そもそも儲けがあるのか)わからずに、スロットマシンから離れられなくなる。


■ 274-278
カジノは客の「機器利用時間」を最大化しようとしている。ギャンブラーはカジノの機器を離れることなく食べ物や飲み物を注文することができるし、照明、装飾、音響、香りなどの環境要因は周到に計算されている。


■ 283-285
数学者は、客がどれぐらい金を払い続けるかを計算している。さまざまな計算で、リスクについて異なる考えをもつ客にも対応し、できるだけ客がお金を使うように報酬の出し方を調整している。


■ 290-300
「ゾーン」もしくは「フロー」というのは、ある活動に完全に集中してしまっている状態のことだが、それに倣った「マシン・ゾーン」ということばもある。多くのギャンブラーは、カジノで「ゾーン」に入ってしまった経験をもつ。


■ 295-300
カジノでは、客に負けが続くとどこからともなく「幸運大使」 (luck ambassador) が来て無料チケットをくれたりする。だが、この登場は、アルゴリズムが、客のそれまでのパターンをデータとして計算した上でのことである。この「幸運大使」の登場により「臨界点」 (pain point) に近づいていた客も、カジノにとどまり続ける。


■ 302-306
カジノに興味をいだく教育産業関係者もいる。学習者が「臨界点」に達しそうになったら「幸運大使」を登場させればいいのではないかと考えるわけだ。


■ 309-315
まるで世界が、それぞれの人にとってのスキナー箱になっているみたいだ。人々が消費者として接するインターフェイスはどれもがスロットマシンのようになっている。だが、このスロットマシンはポケットに入るぐらい小さい。


■ 324-330
テクノロジー界には、行動デザインは人々によい習慣をもたらす進歩であり、何ら問題ではないと考える人もいる。


■ 334-337
「誰も、その人が望まないことをさせることはできない」というのは本当だろうが、ギャンブルにおいてその関係性は非対称的である。ギャンブラーはゾーンの快楽自体が目的となっているが、ギャンブル産業にとってゾーンは利益を得るための手段にすぎない(ギャンブル産業はゾーンという報酬を変化させて、ギャンブラーをかなり操ることができる)。


■ 339-345
システム全体が、デザイナーに有利になっているといえるだろう。グーグルやアップルがやっていることも、結局は、機械利用時間を最大化するために、報酬を変化させることだ。


■ 352-355
AIを恐れる人もいるが、AIは既にインターネットという形で登場している。インターネットでは私たちをはめてしまう方法が次々に開発されている。


■ 357-359
理屈の上では、この誘因と報酬 (incentive and reward) の循環から逃れることはできる。だが逃れる人は少ない。受け入れてつながる (accept and connect) 方が簡単だからだ。私たちは監禁学 (captology) によって喜々として監禁されているのかもしれない。