以下の記事は、「広大教英ブログ」からの転載です。
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この記事は、前の記事(ハンナ・アレントの講義から学校教育について根源的に考え直す)の続きです。
この授業(後半)では、
アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析
などを参考記事としながら、6-Way StreetのDVD (上巻その2)の田尻先生のセクションを視聴して皆で考え語り合いました。
DVD: 6-Way Street
私自身の考えを忌憚なく言うと、よい英語教師になるために重要なのは、常識、愛情、英語力の三つです。それらを一つにまとめるなら感性です。
感性の働きとは関係のない豆知識ではなく、人々が共有するあらゆる種類の感覚 (common sense) が私のいう「常識」です。教条的な善意に基づく一方向の働きかけではなく、社会的動物としての人間が本能的にもつ温かな心(あるいは「惻隠の情」)が私のいう「愛情」です。限られた知識・技能だけを測定する資格試験の高得点ではなく、その人とその場に即した形で発露されるのが私のいう「英語力」です。
若い世代が、下で語られる田尻悟郎先生のように、自らの感性を信じて学校教育の新しい形を開拓してくれることを期待しながら私は大学で授業をしています。
「こんな先生に出会いたかった! ~豊かな人生を送るために子どもたちに伝えること~」
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■ 田尻先生の実践されたスピーチの授業のビデオはとても印象的でした。あのビデオを見て一番に感じたことは「自分が本当に何かを伝えたい時、自然に顔は上がり相手の目を見るし声に力が入り抑揚が出る。だから、声の大きさとかアイコンタクトとか評価する必要がない。」ということです。
この授業でも行われていたように、評価ではなく感想にすることで、自分の言いたいことがどう相手に伝わったのか、感想を書く側も自分の気持ちをスピーチした人に伝えることができ、お互いの気持ちを共有できると思います。スピーチだけど、そこには聴く人がいて対話が生まれるのだと思いました。
■ 授業の後半では、田尻先生の実践をハンナ・アレントの枠組みで考えようとしました。
スピーチをしているのを見た時に、初めて見た私にも彼らの人格が分かるような気がして、それは彼らが借り物の言葉ではなく、自身の気持ちを伝えるために英語を使っているからそう思えるのだと思いました。なんと言葉にしてよいかよくわからないのですが、楽しそうでした、スピーチをする方は聞いてほしいと思っているし、クラスは彼らのスピーチを聞きたいと思っている。たとえ音声を消したとしても、表情が、からだがもうしゃべっている、というような印象でした。
このスピーチが生まれてくるまでの田尻先生のバックアップはどんなものだったのだろうと気になるます。彼らが自分の気持を話したいと思うのはトピック設定や進行過程がふさわしいだけではないのは当然のことです。普段から、少しずつ自分を安心して開示できる場をつくっていき、語りによって自己開示できるようになっていったのだと思います。
スピーチを終わるときの彼らの嬉しそうな顔がまだ忘れられません。言語だけに囚われず、コミュニケーションを取る力をつけられるように、というのを肝に銘じておきたいと思います。
■ 授業内でも様々な視点からの田尻先生の授業への感想がありましたが、いままで見てきた授業との違いが一番大きかったのが、先生がどのように生徒と関わってきたのかが授業を見ただけでわかることができたという点です。
たった十数分のビデオだったのに、先生がいかに生徒のことを思っているか、生徒同士の関わりが充実していたか、ということが伝わってきました。これも田尻先生が生徒をテストで点をとらせるように育てるのではなく、人間として成長させようとした結果だったのではないかと思います。
これはスピーチにおいて3人目の生徒に「思い」を伝えさせるように内容を変更させた点からも見受けられます。多くの教育現場でこの授業を真似して失敗してしまった例があったといいますが、この実践方法のみが重要のではなくて田尻先生の生徒を思う気持ちが本当に大事だったから、そのような接し方ができていなかったらうまくいかなかったのだと思います。先生と生徒が、または生徒同士が人間として関われるような場を作れる授業があのような場面を生むことができたのだと思います。
■ 田尻悟郎先生の授業動画を視聴して感じたことが大きく2つあります。
まず一つ目に私が中学生の時に受けたスピーチの指導では、ナンバリングや、声の大きさ、発音、スピード、姿勢等に関することでしたが、本当に伝えたいことを伝えている人と、それを一生懸命聞いてくれる人がいれば、そんなことは本当にちっぽけなものにすぎないのだと感じました。しかし実際には多くの学校で、スピーチを聞いた後にチェックリストを用いて友だちの発表を評価しています。
今回の映像の中で2番目に登場した男の子のパフォーマンス?はそういったジェスチャーやポスチャーを遥かに超えたところにあったと思いますし、3番目の男の子も滑らかさや発音などで評価されてしまっては、あまり良い評価にはならないでしょうが、多くの人の心を動かす素晴らしいものでした。この授業は「からだ」から出た「ことば」をみんなが「からだ」で感じ、それをまた「ことば」にして感想を書くという言語の力を話しても聞き手も感じられるものだったと思います。
2つ目に感じたことは、授業でも発表させていただきましたが、スピーチも一種のやりとりと捉えることができるのではないかということです。今までスピーチというと基本的には個人で、または団体で行う一方通行的な発表だと感じていましたが、スピーチは聴いてくれる仲間がいるからこそ成り立つのであり、今回の映像の中で言うと、練習の段階から先生のサポートがあり、先生だけに限らずクラスメイトの協力・演出があり、決して一人で成し遂げられるものではなかったと思います。聞き手が目を合わせてくれる、頷いてくれる、自分の発表を聞いて涙を流してくれる、これらすべてを含めて彼のスピーチが成り立っているように感じました。
この授業を見て、教育実習などでライティング活動をする際に今回はこういう場面設定で、みんなはこういう役ということにしよう、と現実味のない架空の設定を生徒に押し付けていたのではないかと反省しました。今まで私は英語を使わないといけない場面、状況はどんなときだろう?とばかり考えていましたが、そうではなくてもっと英語という言語、教科だからこそ生徒たちができることを考えていかなければならないと思いました。
■ 授業の後半は前回の授業、そして前半のアレントの意味論を踏まえ、田尻悟郎先生の実践をみました。三人の生徒が自分の宝物について英語でスピーチをする映像を見たのですが、これは本当に圧巻でした。それぞれの発表時間はおよそ三分弱ほどだったと思うのですが、その時間で十分彼らの性格を理解、ないしは想像することができました。これは本当に驚くべきことで、他の普通の中学校で、英語で自分の宝物を紹介してもらっても恐らく、「全員同じ」に映るのではないかと思います。生徒がみな自分の身体感覚にぴったり来る言葉を選んで使っているからこそ実現していることだと思います。
田尻先生は「コミュニケーションの仕方を教えるのが英語の授業」というふうにおっしゃっていました。これは多くの先生がわかっていることだと思います。しかし、実際に行動に移す人はすごく少ないのではないかと思います。田尻先生はこの考えを実践しています。田尻先生の実践では、「英語でスピーチをする」ということが最終目標となっておらず、「自分/他人を知る」ということが最終目標になっているように感じました。英語のスピーチはそのための「手段」といして機能していたのではないかと思います。加えて、どの生徒も自身を持って自分の宝物を発表していました。これは学級内に信頼関係がないとできないことだと思います。教員がまずすべきことは「学級という生徒の居場所」を作ってあげることだと思いますが、田尻先生の素晴らしいこと、これを「英語教育」をつかって実現させたことだと思います。
■ 後半では田尻先生のスピーチの授業を見ました。あの風景を見て考えたことは、教室空間の中で「人間の複数性」と「独自性」を持つことが許されており、それを生徒が説明できなくてもしっかり感じ取れているからこそ、自分と相手の個性を尊重し「聞く」といった姿勢が作られているんだなということです。
本来英語で自己表現することは、日常生活で必要ないことにもかかわらず泣く生徒が現れるほど、そのスピーチの「意味」は語られており、教室がある意味人間らしい意味世界の縮図になっているからこそ成り立つ活動だと思います。
また、一つのものがもたらす意味はそれぞれの人が持つ経験によって変わるものだと生徒が学ぶことができる授業だとも思いました。さらに、実習において私たちはやはり教科指導を主軸においていましたが、現職の先生方はこのようにしてい学級経営も同時にこなしているのだと勉強になりました。言語という強みを生かして、生徒が安心できる居場所づくりに少しでも貢献できるようになりたいです。
■ 今回の授業で、学校で授業をすることの意味をふまえて英語の授業について考えることができた。学校は複数性が当たり前の社会である。一人で考えることや知識を得ることは学校でなくてもできる。しかし、教室で学ぶからこそコミュニケーションで使えることを実践しながら習得できる。複数性があるからコミュニケーションの必要性も自然と感じるだろう。田尻先生のスピーチの実践でも相手に向かって話すことを意識において話し方はもちろん内容も工夫がされていた。スピーチというといやがる生徒も多くいると思うが、それを授業実践として成功されている先生は本当に生徒からの信頼も厚いのだろうということが伝わってきた。
教科の指導と生徒指導を一体化するのは自分も受けたことがなく教科のことだけ専念してしまいそうだ。だが、結局は生徒指導がうまくできている先生の授業が学ぶことの多い授業になると思う。今は方法論を学ぶことも大切だが、しっかり考えることや最低限の英語力をまずは身につけるように努力したい。
■ 今回の授業では田尻実践を見てみたが、あの素晴らしい実践の裏には、生徒が「英語を使う意義」を感じていることと、「日ごろからの信頼関係の積み重ね」の二つが大きな要因としてあると感じた。
まず、「英語を使う意義」について、生徒は「英語科の時間に英語を使うことでクラスメイトに何かしらのメッセージを伝えられる」という意識が生徒の中にあると感じた。つまり、英語を使うことを目的として、表面的に英語を話しているのではなく、何かしらのメッセージを伝える手段として英語を活用していると言える。そのためにも、日ごろからauthenticで、生徒に話したいと思わせるような言語活動を行っていると考える。このような活動を続ければ、生徒のうちには「しっかりとメッセージを伝えたい。」という話者としての意識や、「相手はメッセージを伝えようとするのだからしっかり受け止めないと。」という聞き手としての意識を身に着け、教室が徐々に心地よくコミュニケーションをとることのできる場所へとなっていくのだと考えた。
2つ目の「日ごろからの信頼関係の積み重ね」は、生徒間と、生徒と教師間の2つについてである。生徒間については、先述の通りで、しっかりとメッセージを聞き取ってくれる相手としての信頼感があるからこそコミュニケーションに積極的になれると考える。生徒と教師間の信頼関係については、まさに3人目の生徒とのやり取りが示す通りで、普段から生徒を観察し、また、生徒も「この先生になら心のうちを話せる」という信頼関係がなければ、あのような発表を強いることは大きなリスクを伴うはずである。
英語教育について学び、教育実習などの実践を通して「英語力」「コミュニケーション能力」といった「能力」を育てるためにどうすればいいかばかり考えてしまいがちだったが、それ以前に「人を育てる」ということがあるはずである。コミュニケーションツールである英語と「人間関係」や「信頼づくり」は切っても切り離せないものなのだから、そこに今一度意識を戻すことで自然と英語教育に適した雰囲気や環境は作れるのではないかと考えた。
■ 田尻先生の授業では「英語科」というものが英語を教えるだけの教科学習になっておらず、学級経営、学校経営のようなものの手段の一つとして英語を使っているという感じがして、この実践での一番の成果は生徒と生徒の心がつながったことであり、その生徒同士のコミュニケーションの媒介として英語が使われているというだけで、生徒からしたらとても自然な形で英語が身についているなと感じました。
聞き手からしたら英語のスピーチとなると日本語によるスピーチと比べてより一層聞き流してしまいそうなものだが、ここでは「伝えたい」「受け取りたい」という本当のコミュニケーションの姿がみられて聞き手の生徒からも意欲的に対話しようという姿勢が見られました。スピーチにおける「1対多」という物理的な形式を感じさせない「1対1×多」を感じられるような場面でした。
教科学習を超えたこの授業において一人一人の生徒を評価しようだなんてことは確実に不可能だなと感じました。
田尻先生の実践の真似が横行したということについて、例えば教育実習で1か月程度だけあるクラスに放り込まれた時に実習生が田尻先生の授業を模倣してもそれこそ単なる猿真似に終わってしまうと感じました。というのも映像で見たような場面に至るには先生と生徒、そして生徒と生徒間の深い人間関係を築くための長い期間とかかわりが必要だからです。あの実践の心臓は先生と生徒、生徒と生徒の開かれた人間関係にあると思います。ここからも教科学習を超えた実践であったということが言えると感じました。
■ 前回の授業ではハンナ・アーレントの複数性という考えを学んだ。我々は物事を評価する時にその価値をひとつの視点からのみ考えがちだが、アーレントは複数の、様々な視点を持つことが必要だと主張していた。これはまさしく教育の場においても言えることであると思う。前々回の授業とも被ってくるが、数直線的な見方しかできていないようでは、そもそも英語力の評価そのものがナンセンスなものになる。一見当たり前のように思えるが、それがしばしばまかり通ってしまうのが今日の英語教育の現状である。
僕が中学生の頃の英語のテストは教科書の本文を暗記するだけで点が取れた。それさえしていれば成績は5段階で5がついた。この数値だけを見れば、この生徒は英語が良くできる、とみなされるのだろうが、実際はそうはいかないのは明らかである。その時の5を取った生徒の中で流暢に英語を話せる生徒は何人いたか、他人の心を動かすようなスピーチができる生徒が何人いたか、と考えると、その数は限りなくゼロに近かったと思う。仮にいたとしても正当に評価されることなく、テスト至上主義に埋もれてしまっていただろう。生徒の英語力を測る物差し(視点)はテストの点数しかなかったのである。そして、そのテストの実態は、教科書の本文をただ暗記するだけである。
このような実例は全国探せばいくらでもあるだろう。テストの点や資格試験が、その人の英語力を評価する唯一の存在になってしまっている。そもそも評価する必要があるのか、という意見もあるがそれはとりあえず置いておいて、英語のレベルに関わらず誰もがそれぞれ個々に評価を受けるにはどうすれば良いのかを考えた。そうずれば貨幣化した点数や資格試験に縛られることなく、学習者が伸び伸びと英語を勉強できるからである。その答えに対するヒントのようなものを得たのが、田尻先生の授業からであった。
田尻先生の授業では、それぞれが自分の特性を活かし、心の底から自分の言いたいことを発表していた。英語のできる子はきれいな英語で話し、ユーモアの好きな子はそのユーモアを活かし、最後に登場した、一見朴訥な印象を受ける子からは、自分が本当に伝えたいことを話しているのが見て取れ、涙を流す生徒も出てくるほど彼のメッセージは心を揺さぶるものだった。なかなか実践例のない授業だろうが、生徒の技能評価に囚われない授業を目指し、自分自身も勉強しないといけないなと感じた授業だった。
■田尻先生の授業から僕らが勘違いしてはいけないことは、「田尻先生は生徒の心だけを大切にしていて、現代の英語教育で取り沙汰される正確な英語の運用能力を完全に無視している」わけではないということです。映像は1年間365日のうちのほんの一瞬でしかありません。その見えない時間に、先生がどんな指導をされているのかわかりません。ですが、少なくとも言えるのは、田尻先生と生徒の間には、確かな尊敬と信頼があるのだということです。
きっと教員になって最も悩むのはこれです。もちろ授業が当たり前のように上手くできるだなんて思っていませんが、その大変さの中には関係性づくりも含まれていて、これこそが大部分を占めるのだと思います。一人一人別々の感情を抱えた生徒を30人と、暴力以外の方法で関係を作っていくのは、想像もできないほど難しいことです。僕は塾講師をしていますが、塾にも多種多様な生徒たちが通ってきてくれます。そんな生徒たちと、学校のように30人を同時に相手にすることはありませんが、それでも一人一人と正面から仲良くなるのはいつも難しいです。しかしそれぞれの個性を考えてんか良くなっていくのは楽しいです。どうやったら笑うのか、何が嫌いなのか、考えた上で毎回接するようにしています。
■ 今回の講義では前半にハンナ・アレントの意味論について考え、後半に田尻先生の授業実践を観て考察をした。
前回は客観性、今回は意味論を考えていったのだが、まず最初に思ったのが前回の講義で学んだ多元的客観性というのが今回の意味論と似ているように思った。様々な観点からある対象を見て、多面的に考えていくことによって客観性を構築していくのが多元的客観性であるのに対し、今回の意味論では、複数性を前提として、複数の視点・観点から出てくる意味を擦り合わせていく、という点が類似しているように感じた。両者共から、「複数性/複数の視点から物事を考える」というキーワードが伺えた。publicという一つの単語からその複数性が伺えたように、ある単語一つ一つや、ある方法や意味を一つに決めつけてしまうことは恐ろしいことで、現実性、意味を見出すために複数性が必ず介在しなければならないことを学んだ。
では実際の英語教育でその「意味」というところを子どもたちは考えることができているだろうか。教師は考えさせることができているだろうか、と考えてみると、成る程イエスとは答えられないであろう。子どもたちは「意味」を考えることもなくI’m fine thank you and you.という決まり文句を言い、普段の会話では考えられないつながりの教科書の英文に気づくことなく音読をしている。何を問われても皆と同じような答えをしなければならないと感じ、それができないために英語に不快感を感じてしまう、苦手意識を感じてしまう、と思ってしまう子どもたちも多いのではなかろうか。英語教育はもっと生徒一人ひとりの複数性を重んじ、一つの型にすべての生徒を当てはめようとすることをやめなければならない。「複数性を認めてあげる環境づくり」を教育者はしていかなければ、「個性」「社会性」を育てることはできないのではないかと思う。現実的に複数性を重んじることは、非常に大変なことだというのは想像できるが、それをやってのけたのが田尻先生であった。
田尻先生のスピーチ活動の動画を観たが、スピーチをする生徒一人ひとりの個性が垣間見れた授業であった。クラスの雰囲気は非常によく、クラスの生徒それぞれが他の生徒のことを理解しているようにも感じた。ではなぜそのような複数性がいい方向に作用するクラスになったのかと考えたところ、田尻先生は「複数性を重んじる環境づくり」という課題をその人と為りをもって解決していったのではないかと私は考える。生徒一人ひとりをしっかり観察し、たくさんコミュニケーションを取り、生徒のために汗水たらして働くことを惜しまない。そういった先生の人と為り、人間性が生徒の心・信頼を掴んだのではないかと思った。田尻先生の授業は生徒発信で、生徒さんたちは英語を学んでいるのというよりも、英語で色んなことを学んでいる姿が見受けられた。
実際の英語教育ではこの視点がずれているのではないかと思う。この文法を教えたいから、この語句を使わせたいからその方向に仕向ける。そのような教えたい知識からの始動ではこのように自分らしさ表現したり、興味を持ったりすることも難しいのではなかろうか。進んで学ぼうとする時というのは、何かを伝えたいけど伝えられない、こんなことを表現したいなどと思った時に初めて出てくるものではないかと思う。田尻先生のように、生徒の人間らしさ、人間的な成長を促す一手段として英語教育を捉えていくことが、これからの英語教育にとって重要ではないかと考える。
これだけ現在の英語教育について批判していながらも、自分が田尻先生のような、生徒の個性を育てながら英語の能力も付けさせることができるかと問われたら99%できないとは思うのだけれど、田尻先生のような効率の良い英語の教授法のモデルを知れたことは、今後の自分にとって明らかにプラスになったと確信している。
■ わずか中学3年生にして,ましてや使い慣れていない第二言語の英語で,あれだけのスピーチができることに驚きを隠せません。A君が,涙をこらえてスピーチをしていましたが,口から出ているのは英語で,でも,心でその英語を噛みしめて,その意味を感じているのだと,まさにこころとからだで英語を使用していました。生徒の伝えたい,という気持ちを引き出すような内容を選ばせる先生もすごいですが,別に伝えたくない内容だったらスピーチをする意味がありません。Speakerと聴衆の,目に見えるコミュニケーション(聴衆のリアクション)であったり,見えないコミュニケーション(聴衆のこころに何か影響を与えること)であったりがあるからこそのスピーチだと実感しました。
田尻先生の実践をまとめた,『生徒の心に火をつける』という本を以前購入し,読んだことがあります。今日の授業で扱ったスピーチ実践についてもたしかこの本に書かれていたなと思い出し,本棚から取り出してみました。印象的だった部分を引用させていただきます。
「スピーチの評価に関しては,内容,態度,発音,声の大きさなどでは評価しない。それは練習段階で教師が指導するものであり,教師と生徒,あるいは生徒同士が苦労し,協力して準備したものであるので,減点法で評価することは私も生徒も好まないからである。また,リハーサルの段階で,英文をすらすら言えるだけでなく,意味を分かったうえで聴衆に語りかける口調でできなければさらに練習を課すので,本番を迎えたときはかなりのレベルに達している。したがって,本番を迎えた時点で満点を与えるようにしている。」
もし,評価論の授業で今日見た3人の生徒の評価をしてくださいと言われたら,1番目の女子生徒は英語も端正で,聴衆にアイコンタクトもとっているし,非常に堂々としているからA評価,2番目の子は,英語を使っている時間よりも体を使ってパフォーマンスをしている時間のほうが長いからB評価かな,とかそういうふうに考えてしまいます。非常に恥ずかしくなりました。
本番で満点を与えるためには,練習段階ですでに満点の状態にしなければなりませんが,本によると,まず原稿をALTや先生に読んでもらって添削してもらい,それを発音してもらい,先生はそれをMDに録音して渡したそうです。生徒はそれを何度もシャドーイングしたのち,100回自分で音読,read and look upで暗記できたら放課後に先生にリハーサルを見てもらい,ここで及第点に到達すればあとは本番のみですが,改善点のある生徒にはさらに課題を出して,何度も何度もリハーサルに付き合います。先生もなかなか合格は与えません。先に合格した生徒は先生役に回って,なかなか合格できない生徒を一生懸命支えます。
これは生徒同士,先生と生徒のコミュニケーションであり,英語教育を使って生徒指導をしていると言えるでしょう。英語教師に必要な3要素として,常識・愛情・英語力がありましたが,この愛情の部分が,生徒の「伝えたい」を本気で支える,先生の献身的な姿勢に現れていました。
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