この記事は、筆者の所属する教科教育学専攻で作成する報告書(『異教科で協働できる教員を育成するための実践的研究 (1) -教科教育学専攻の共通科目の始動を通じて-』)に提出した原稿に、筆者が自重し削除しておいた部分(青色部分)も加えて掲載するものである。
なお、この記事(および報告書原稿)は、2016(平成28)年度から新設された教科教育学専攻の共通科目(必修)の一つである「教科教育学研究方法論」のシラバス(「授業の目標・概要等」に基づいていることも付記しておく。
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教科教育学研究方法論 -社会の複合化への対応という観点から-
■ 社会の複合化
社会のグローバル化と高度知識化が進行している。社会はますます複合化している。多くの要素が絡み合い、だれもその展開が予測できない社会となりつつある。ある場所の一つの問題は、ある境界線の範囲内にとどまることなく他の様々な場所の諸問題とつながる。加えて、一つ一つの問題を解くためにも高度な知識が必要なのに、諸問題が絡み合い問題解決がきわめて困難になる。高度な知識をもつ専門家は、自分の枠にとどまることが許されず、他の専門家と協働的に問題解決しなければならない。さらに、その問題解決は、政治的判断などに資するために一般市民にわかりやすく伝えられなければならないが、これもまた容易ではない。複合性の高い現代社会が、私たちに要求している知的水準は、どう考えても高い。
高度な知的水準が求められるというのは、近未来の話ではない。例えば3.11直後の日本は大混乱に陥った。放射線被害に関する科学リテラシー、原子力発電に関する技術的理解、さまざまな支援活動を効率的にするための数学的理解、緊急時における社会的・法的諸権利の理解、問い直された人間らしい生活についての理解、実利に直結しない文学的・芸術的表現の意義の理解、原子力の軍民利用に関する日米関係の歴史理解、日本の状況についての海外への発信状況についての理解、ロシアやドイツを始めとした非英語圏からの原発関連情報の理解、等などの多岐にわたる領域の理解を同時に薦め、しかも相互に関連させながら諸問題の解決にあたらねばならない状況に追い込また。そして問題はまだまだ残っている。「残ってはいない」 ( "Everything is under
control") と信じて疑わないとしたら、上記のリストにマスメディアのあり方も加えるべきだろう。
あるいは子どもとスマホの関係を考えてもよい。子どものスマホ利用について保護者や社会がどう取り組むかを考えるには、SNS上でのことば遣いがもたらす問題についての理解、スマホ利用の技術的・社会的・法的・健康上のリスクの理解、噂の広がりに関する簡単な数学的理解、パスワードの安全度についての技術的理解、生活リズムのあり方に関する医学的理解、新しい画像・動画表現の可能性についての芸術的理解、言語を超えた交流についての外国語理解、等などを進め、それらに基いて考える必要がある。スマホを一律に禁止しても、それは生徒が所属学校の権力空間を離れた瞬間に、一気に反動的にスマホの世界に耽溺する事態を招くだけであろう。複合化した社会に、単純な解決法はない。
■ 差異の統合
社会の複合化への対応は、「差異の統合」という表現でもまとめることができる。各教科での研究が専門化すればするほど、それぞれの教科教育学研究の違いは大きくなる。ますます業績産出に追われる現在、たとえば同じ言語教育である英語科教育学と国語科教育学の研究者が互いの研究活動にあまり興味を示さない、したがってお互いに語り合えないという状況は、もはや珍しくはない。だから例えば英語科教育学者が
-どの教科教育学者も大同小異だろうが-、数学科教育学者や音楽科教育学者と教育について共に話し合おうとしない(そもそも話し合えない)ということは多々ある。そんな教科教育学者に育てられた教師が他教科の教師と語ろうとしない(そもそも語れない)というのも容易に想像がつく。知識の高度化に伴う専門化で、知識の差異が大きくなることは現代社会の一つの特徴であろうが、その差異は統合されなければならない。
差異の統合を重要な論点とするのは、意識についての統合情報理論 (Integrated Information Theory) を提唱する神経科学者のトノーニ氏である。氏は共著の中で、現代医学における各種の専門家がチームで医療にあたることの必要性と困難性について述べる。現代の医学のレベルで高度な治療を行おうとすれば、さまざまな専門医を集めたチームを結成し、その中でコミュニケーションをとって治療方針を定める必要がある。しかし現代の医学の専門化は高度に進展しているので、少しでも専門が違う専門医とのコミュニケーションは容易ではない。むしろ特に高度な専門性をもたない一般医(町の診療医)を集めたチームのほうがコミュニケーションは容易である(「この患者は諦めるしかない」といった結論はすぐに出るだろう)。
だが専門家がお互いの知識の差異をコミュニケーションの試行錯誤で統合させた時には、素晴らしい先進的な治療が可能になる。しかし、差異の統合とは、差異を消滅させることではない。専門家同士が集まっても、それぞれが他人に理解されないままに自論をモノローグ的に語り続けるだけのコミュニケーションしかとれなければ、社交上の発話(相互作用)は多くなろうものの、互いのもっている貴重な差異は活用されず、新しいものは何も生まれない。コミュニケーションは差異の否定や隠蔽に向けてではなく、差異の肯定と活用に向けてなされなければならない。
トノーニ氏がこの医療チームの例を出したのは、実は、人間の脳が行っている偉業を説明するためである。脳のニューロンの一つ一つは、非常に特異的・限定的な働きしかしない。しかし大脳においては、それらが相互作用を行い、それぞれの差異を脳全体として統合している。この差異の統合により人間の大脳は極めて創造的になっていると氏は考える。
「差異と統合が同時に成り立つのは難しく、めったにあることではない。というのも、相反する性質だからだ。実際、あるシステムの構成要素のそれぞれが専門化し、差異が生まれれば生まれるほど、相互作用が難しくなり、それゆえ統合も困難になる。一方で、要素間の相互作用が活発であればあるほど、それぞれの要素は均一的なふるまいをしがちである。そうなると、システムの総合的な差異の度合いが低くなる。脳のどこかで、そしてなにかしらの方法で、この反発する力が、奇跡的なバランスを保っているに違いない。」(トノーニとマッスィミーニ 2015, 126ページ)
差異の統合が、脳のレベルだけでなく、私達のコミュニケーションのレベルでも困難であることは事実である。だが、困難を経ずして創造がないことも事実であろう。私たちは事実に向き合い、将来の世代のための教育を創造する社会的責任を担っている。
■ 複合化に対応せざるを得ない学校教師
このような現実世界の複合化がつきだす課題を自覚してか、日本の多くの小中高でも、教科を超えた研究主題を掲げて、学校をあげて児童・生徒の生きる力を育成しようとしている。例えば、「知識基盤社会における生徒の育成」、「グローバルリーダー・地方創生リーダーに求められる能力・態度の育成」、「社会的自立の基礎となる資質・能力及び態度・価値観の体系的な育成」、「協働的問題解決ができる子どもの育成をめざして」といった研究主題はよく聞かれる(だが、同時にそういった研究主題がお題目としては掲げられても、実際は、各教科がバラバラに、半ば惰性的に従来の研究を繰り返す出すだけというのもよく見られることではある)。
学校教師は、もはや自分の専門教科だけに自足・自閉していることは許されないのではないか。学校現場でよく聞く話だが、自分の教科のことについてしか語れないし興味も持たない教員は、しばしば学校内でのチームワークも苦手で、学校をあげての取り組みができない。また、そういった教員の教科指導も優等生相手の受験指導だけでしかないことが多い(受験指導しかできず、その教科を学ぶ意味を学習者に実感させることができない教師は言語道断と筆者は考えるが、そのことについてはここではこれ以上述べない)。
中高の教師は自分の専門教科を教えつつ、それを現実社会で使いこなせる力に発展させなければならいない。それが社会的責任というものではないだろうか。「そうはいっても、まずは受験に合格しないと・・・」と反論する教師は、しばしば生徒に「受験が終わるまでは余計なことは何も考えず何も感じず、受験対策だけをしろ。受験が終われば好きなことができるから」と説諭する。だがその結果、知的感性がつぶされ、晴れて合格して入学した大学で、自分が本当に好きなことがわからず、結果、付和雷同的行動しかできない学生を残念ながら筆者は時折観察している。そのような学生は、卒業論文で苦労する。自分がやりたいテーマが見つからないからである。就職活動でも苦労する。自分が何を大切にしたいのか、何になら妥協できるのかがわからないからである。就職すればさらに苦労する。暗記と再生の受験勉強的単純知的労働は得意でも、様々な要因を同時に考えて、その中から良さそうな解を見つけては試行錯誤を繰り返し、さらに良さそうな解を探すといった高度な知的探究ができないからだ。そういった若者(元受験エリート)は、早晩「社会では使い物にならない」と烙印を押されるか、遠くない将来に人工知能 (AI) に仕事を奪われるかもしれない。明らかに学校教員は、自分の狭い枠だけにとどまらずに思考し協働できる若者を育てなければならない。
■ フィンランドの先行事例
実際、フィンランドの総合学校(1年生~9年生、7~16歳)では、従来の教科別の教育に加えて、複数の教科にまたがった横断的な教育を行うことが2016年から義務化された。以下、フィンランド大使館のホームページの記述を要約する。
この新たな取り組み(「テーマ別授業」)では、「地球温暖化」や「欧州連合」といったテーマを、数週間にわたるひとつのプロジェクトとして学ぶ。授業では、教師も各生徒と話し合い、目標をどこにするのか一緒に決める。今までの教育の問題の一つは、生徒がなぜ特定の成績をつけられたのか必ずしも理解していない点にあるとフィンランド国家教育委員会・基礎教育課のアンネリ・ラウティアイネン氏は考えている。生徒を積極的に目標設定の話し合いに巻き込むことによって、生徒のやる気を上げられるというのが氏の見解だ。もちろんこのテーマ別授業は、教師と生徒の役割関係も変える。教師は単なる情報提供者ではなくなり、生徒もただ受身の聞き手ではなくなる。「学校が、互いに学び合えるコミュニティになってほしいと考えています。これにはもちろん、大人が子どもから学ぶことも含みます」と同氏は語る。
だが、そのような取り組みは、OECDの学習到達度調査(PISA)によって得られた「学力世界一」の評判を落としてしまうことにつながるのではないかという懸念もあろう。それに対して、フィンランド教育の専門家で、現在はハーバード大学教育学大学院で客員教授を務めるパシ・サルベリ氏は語る。「そうかもしれませんが、それがどうしたというのでしょう」。氏はPISAを始めとした教育測定さらにはその国際的競争について次のように述べる。「フィンランド的考え方では、PISAランキングの意義は取るに足りません。PISAは血圧測定のようなもので、時々自分たちの方向性を確かめるうえではよいですが、それが永遠の課題ではないのです。教育上の決定を行う際、PISAを念頭に置いてはいません。むしろ子どもや若者が将来、必要とする情報こそが大事な要素となります」。
この自主性・自律性は、ひょっとしたらフィンランドの自治体・学校・教師の裁量権の大きさとも関係しているのかもしれない。サルベリ氏は、フィンランドが他国と異なる大きな点は、自治体や学校、教師が、生徒が何をどうやって学ぶのか決められることであると語っている。教え方の決定権は現場にあり、生徒たちにとって何がベストかは現場が判断できると氏は説明している。
このフィンランドの状況は、国が一律に学習指導内容を決め、教科によっては指導方法も検定試験での達成目標まで定められている日本の状況とあまりに異なっている。しかし、社会の複合化に対応しようとしている事例の一つとして、フィンランドの事例を参考にしないという道理はないだろう。教育に関する日本の権力構造が一気に変わることは望むべくもないが(権力構造の変化は民主的に、ということは長い時間をかけて起こるべきだ)、教科の枠組みを超えた授業を試みることはできる。
■ 「教科教育学研究方法論」が目指すこと
こういった社会の複合化に起因する現状を踏まえて、教科教育学専攻の院生必修である「教科教育学研究方法論」の授業では、ますます複合化する社会で教科教育学が抱える今日的および将来的課題に対して、研究者ならびに実践者が柔軟かつ現実的に対応するために必要となる研究の方法論を学ぶことを目指す。ここでいう「方法論」は、"method"(調査や実験の技術的手続き)というよりは、"methodology"(そもそもどのような研究をどのように行うべきかといった認識論)である。この授業では、参加者が研究に対してより広く深い考え方ができるようになることを目指す。
これからの研究者と実践者には「知の革新」が必要であろう。指導教師や先輩がやっている研究をただ真似て再生産するのではなく、院生一人ひとりがそれぞれ独自の視点で教科教育学研究を刷新し、新しいアプローチで現実世界の問題に対応することが期待されている。
もちろん、一人ができる研究には限りがある。誰もあらゆる研究の"method"を自由自在に駆使して多種多様な研究ができるわけではない。着実に研究論文を執筆するためには、自分の得意な"method"に集中することも必要であろう。
しかし研究者共同体の一員としては、できるだけ多くの種類の"methodology"を理解することが必要である。さまざまな分野の研究論文をそれなりに正しく理解し、研究者共同体の中での対話に参加できるようになるべきだ。複合的な世界に対処するためには、私たち自身が複合的にならなければならない。自らの知識のさまざまな集合体を組み合わせ、自分でも驚くような知的創造ができる複合的な知性をもたなければならない。
この授業を通じて、院生がさまざまな研究方法についてのあり方について学び、未来を切り開く研究者・実践者となってほしい。
参考文献
フィンランド大使館:フィンランドの学校がこう変わる!Q&A 10選
トノーニとマッスィミーニ(著)、花本知子(訳) (2015) 『意識はいつ生まれるのか ―
脳の謎に挑む統合情報理論』亜紀書房
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