2016年4月15日金曜日

David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念





オープンダイアローグに対する興味から、理論物理学者であり哲学的な論考も多く行っているDavid Bohm デイヴィッド・ボーム による ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)についての本 (On Dialogue 『ダイアローグ』) を読みました。

原著は現在、Routledge Classicsのシリーズの一冊として刊行されていますし、丁寧な前書きが経営学の泰斗 Peter Sengeピーター・センゲ)によって書かれていることからも、この本が現在も重要な著作として扱われていることがうかがわれます。









この本は非常に興味深く、私がこれまでコミュニケーションや意味などについて学んできたこととの整合性も高かったので、ここにいつものような「お勉強ノート」を作っておきます(今回のノートは、第一章の On Communication と第二章の On Dialogueに基づくものです)。日本語の訳本は大変参考にさせていただきましたが (訳本の翻訳は非常にこなれたすばらしいものです)、以下の訳文は私が翻訳・抄訳したものです。私は自分なりに何とか翻訳することで原文を理解することを好んでいるので拙訳を試みた次第です。



「対話」とは?

ボームの言う ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ) は、必ずしも通俗的に使われている dialogue と同じ意味は有していません。定義部分なので、原文と翻訳を示しておきます。

In such a dialogue, when one person says something, the other person does not in general respond with exactly the same meaning as that seen by the first person. Rather, the meanings are only similar and not identical. Thus, when the second person replies, the first person sees a difference between what he meant to say and what the other person understood. On considering this difference, he may then be able to see something new, which is relevant both to his own views and to those of the other person. And so it can go back and forth, with the continual emergence of a new content that is common to both participants. Thus, in a dialogue, each person does not attempt to make common certain ideas or items of information that are already known to him. Rather, it may be said that the two people are making something in common, i.e., creating something new together. (p.3)

そのような対話においては、話し手が何かを言っても、聞き手は通常、話し手が思っていたのとまったく同じ意味での反応をするわけではありません。むしろ意味は、ただ類似しているだけであり、同一のものではないのです。ですから、聞き手が反応をした時、話し手は自分が言おうとしたことと、聞き手が理解したことの間に差異を見出します。この差異について考えることによって、話し手には何か新しいことがわかってきます。それは自分の見解と聞き手の見解の両方にとって関連のあることです。これは相互に繰り返され、双方にとって共通な新たな内容が次々に現れます。ですから対話における人々は、自分にとって既知の思考や情報を共通のものにすることが試みられているのではありません。そうではなく、二人は共に何かを作っている、つまり何か新しいものを一緒に創造しているのです。

この対話概念は、明らかに情報伝達的なコミュニケーション観とは異なります。意味の同一性を前提とせず、意味の差異から生まれるものを大切にするというこの対話概念は、従来のコードモデル的な情報伝達的コミュニケーション観とはまったく違います。

深読みをするなら、話し手と聞き手という二つの主体のそれぞれによる想定を越えた意味の差異が新たな意味を生み出すという点で、このボームの見解は、話し手か聞き手のどちらかが対話生み出すものではなく、対話が対話を生み出す、コミュニケーションがコミュニケーションを生み出すと考えるコミュニケーション観と解釈できるのかもしれません。

いや下手に「コミュニケーションを生み出すのはコミュニケーションであり、人間ではない」というルーマン的な考え方に引きずられずに、ここは理解の不一致が、自分だけでなくお互いにとって大切な点を明らかにしてくれることをボームの見解が強調していることを指摘すればいいだけなのかもしれません。

私を含めた凡人にとって、理解の不一致はしばしば不愉快なものですが、実はそれこそが「お互い」という新しい次元 話し手と聞き手それぞれの自我を越えた新たな次元 を示してくれるものだと肯定的にとらえることは、対話を豊かなものにする知恵なのかもしれません。

もちろん、こういった対話は、相手を言い負かしてやろうといった態度では成立しないものです。上の引用に続いてボームは次のように言います。

But of course such communication can lead to the creation of something new only if people are able freely to listen to each other, without prejudice, and without trying to influence each other. Each has to be interested primarily in truth and coherence, so that he is ready to drop his old ideas and intentions, and be ready to go on to something different, when this is called for. If, however, two people merely want to convey certain ideas or points of view to each other, as if these were items of information, then they must inevitably fail to meet. For each will hear the other thorough the screen of his own thoughts, which he tends to maintain and defend, regardless of whether or not they are true or coherent. (p.3)

もちろんそのようなコミュニケーションが何か新しいものを創造できるのは、参加者がお互いに、自由に、偏見なしに、他人に影響を与えようなどとせずに傾聴することができる限りにおいてのことです。どんな参加者にとっても第一の関心事は真理と連動性でなくてはなりません。そして、自分の古い思考や意図を放棄し、必要に応じてそれらとは異なるものへ進むことができなくてはなりません。しかし、もしお互いが思考や観点を、まるで細切れの情報のように相手に単に伝達することしか望んでいないのならば、それらの人々に出会いは生じません。なぜならそれぞれが相手の言うことを、自分の思考というスクリーンを通じて聞いており、それぞれがその自分の思考を、真理であろうとなかろうと連動性を有したものであろうとなかろうと、お構いなしに擁護し守ろうとするからです。

‘Truth’ ‘coherence’ は、ここではとりあえず「真理」と「連動性」と訳しましたが、これらはボームの論においての重要概念ですので、後日改めてこれらについては言及するかもしれません。現在、私は、「真理」を「誰の思考によってもとらえきれない全体」、「連動性」を「すべてがつながっていること」ぐらいに理解していますが、もちろんこれらの理解は今後深めてゆかねばなりません。

特に ‘coherence’ は訳すのが難しい語で、訳本では「一貫性のあること」や「コヒーレンス」と訳されています。私としては「つながり」か「まとまり」、あるいは「連続性」などと訳そうかとも思いながら、今なお迷っているところです。ちなみにボームは、通常の光とレーザー光線の違いを引き合いに出して、 ‘Ordinary light is called “incoherent”, which means that it is going in all sorts of directions, and the light waves are not in phase with each other so they don’t build up. But a laser produces a very intense beam which is coherent.’ (p.15) と、 ‘coherent’ ‘incoherent’の違いを説明していることも付記しておきます。

こういった対話・ダイアローグを可能にするにはいくつかの具体的な工夫も大切です。座るときは円座となり、指導者 (leader) や議題 (agenda) は定めない方がいいでしょう。もちろん、世話人 (facilitator) がいて、対話で何が起こっているかを時折説明する方がいい場合もありますが、その際も世話人のやるべきことは、世話人という役割が不要になるように対話を育ててゆくことだと心得るべきです (p.17)

さまざまな状況における実際の対話にはいろいろな条件や制約があり、妥協や折衷案も生じてくるでしょうが、理想的には対話は、あらゆる可能性に開かれた自由なものであるべきであり、結論を出さなければならない、発言しなくてはならない(あるいは逆に、ひたすら聞いていなければならない)、といった私たちの思い込みからも自由でなければなりません。

In the dialogue group we are not going to decide what to do about anything. This is crucial. Otherwise we are not free. We must have an empty space where we are not obliged to do anything, nor to come to any conclusions, nor to say anything or not say anything. (p.19)

対話を行うグループの中で、私たちは何をするべきであるといった決定は何事についても行いません。これは決定的に重要なことです。そうでなければ、私たちは自由ではありません。私たちは、何かをするとか、結論を出すとか、何かを言わなければならない(あるいは言ってはならない)とかいう義務から解放された何もない空間をもたねばならないのです。

結論を出すことより早急な結論を控えることを重視することはオープンダイアローグでも強調されており、多声性 (polyphony) の原則では、「私たちが目指しているのは、お互いが相補いながら理解することであり、全員一致の合意を得ることではありません」 ( “The goal is to generate joint understanding, rather than striving for consensus.” ) と明確に述べられていました。これらの主張からすると、私たちは自分たちの「対話」の概念を一度根底的に問いなおした方がいいのかもしれません。


また、語源的に言うなら “dia-” “two” でなく “through” を意味するのであり、対話とは二人で行われるものだけを指すのではなく、何人の間の話し合いでも対話でありえ、時には自分自身との対話も可能であるというボームの主張 (pp.6-7) も覚えておくべきでしょう。




「意味」とは?

私は統合情報理論を通じて意味の概念について再考をしているところなので、ボームの意味論についてもここでまとめておきたいと思います。


ボームは対話を、物事をバラバラに分析した上で人々が勝ち負けを争う議論 (discussion) とは異なるものとして考えます。議論とは異なり、対話では勝ち負けはないとボームは言います。

In a dialogue, however, nobody is trying to win. Everybody wins if anybody wins. There is a different sort of spirit to it. In a dialogue, there is no attempt to gain points, or to make your particular view prevail. Rather, whenever any mistake is discovered on the part of anybody, everybody gains. It’s a situation called win-win, whereas the other game is win-lose – if I win, you lose. But a dialogue is something more of a common participation, in which we are not playing a game against each other, but with each other. In a dialogue, everyone wins. (p.7)

しかし対話では誰も勝とうとはしません。もし対話で誰かが勝つ人がいるとしたら、それは全員です。対話には [議論とは]異なる種類の精神があるのです。対話では、誰も得点を稼ごうとしませんし、自分の特定の見解を広げようともしません。誰かの間違いが発覚した時にはむしろ、それは全員が何かを得ることにつながります。これはウィン-ウィン(両得)と呼ばれる状況で、私が勝てばあなたは負けるという勝ち負けのゲームとは異なります。対話は、共に参加するものであり、私たちは敵対しながらではなく、共にゲームをします。対話では全員が何かを得るのです。

ボームは、 “dialogue” “dia-” (through) の意味から生じていることから、対話における意味の流れ、あるいは意味の動きを重視し、意味とは人々をつなげるものだと述べます。

The picture or image that this derivation suggests is of a stream of meaning flowing among and through us and between us. This will make possible a flow of meaning in the whole group, out of which may emerge some new understanding. It’s something new, which may not have been in the starting point at all. It’s something creative. And this shared meaning is the “glue” or “cement” that holds people and societies together. (p.7)

この語源から浮かび上がってくる映像・イメージは、私たちの間を動いて流れてゆく意味の流れです。この意味の流れによってグループ全体で意味が動き始め、そこから何か新たな理解が創発してきます。この理解は初めて現れたもので、対話が始まった時点では存在すらしなかったものかもしれません。この共有された意味は、人々と社会をつなげる「接着剤」であり「セメント」です。

意味が静的・固定的なものでなく、動的・推移的なものだということは、統合情報理論でも示唆されていたことですが、ボームはさらに続けて社会や文化について言及します。

I am saying society is based on shared meanings, which constitute the culture. If we don’t share coherent meaning, we do not make much of a society. And at present, the society at large has a very incoherent set of meanings. In fact, this set of “shared meanings” is so incoherent that it is hard to say that they have any real meaning at all. There is a certain amount of significance, but it is very limited. The culture in general is incoherent. And we will thus bring with us into the group – or microcosm or microculture – a corresponding incoherence.  (p.32)

私の論点は、社会は共有された意味に基づき、共有された意味が[社会の]文化を構成しているということです。もし私たちが連動した意味を共有しないなら、社会らしいものを作り出すことはできません。しかし現在、概して社会には互いにほとんど非連動的な意味が共存しているだけです。実際、これを「共有された意味」とするにせよ、これはあまりにも非連動的なので、本当の意味とは呼びがたいものになっています。もちろんこのような状況にも一定の意義はありますが、しかしそれは極めて限られたものです。現代の文化は一般的に非連動的です。かくして私たちは自分たちのグループ 小宇宙や小文化とも呼んでもいいでしょうにも非連動性を持ち込んでしまいます。

このあたりのボームの批判は、断片化 (fragmentation) や科学 (science) の論点とも重なりますが、ここではボームの論の引用を続けます。ボームは、そのように断片化する社会に、つながりやまとまりを取り戻そうとします。

If all the meanings can come in together, however, we may be able to work toward coherence. As a result of this process, we may naturally and easily drop a lot of our meanings. But we don’t have to begin by accepting or rejecting them. The important thing is that we will never come to truth unless the overall meaning is coherent. All the meanings of the past and the present are together. We first have to apprehend them, and just let them be; and this will bring about a certain order. (pp.32-33)

しかし、もし [互いに非連動的な現代社会の] すべての意味が一堂に会するなら、私たちは連動性へ向けての努力を行うことができるかもしれません。その中で、私たちは自分の意味の多くを自然に苦もなく手放すようになるかもしれません。しかし私たちはこの努力を、自分の意味の取捨選択から始める必要はありません。大切なことは、意味が全体的に連動的でないでないかぎり、真理には到達できないということです。過去と現在のすべての意味はつながっています。最初、私たちは意味のつながりを理解しなければなりません。意味のつながりをそのままにしておきましょう。そうすれば何らかの秩序がきっと生じるはずです。

しかしこういった努力はもちろん容易なことではありません (真理の徒であるはずの学者先生が、自分のものとは少しでも異なる流儀を取る研究者との対話ができないことからも、それは明白です ボームは、アインシュタインとボーアの間に起こった悲劇も紹介しています)。しかし、対話によって、私たちは思考とコミュニケーションを連動させることができるのではないかとボームは述べます。

Now, you could say that our ordinary thought in society is incoherent – it is going in all sorts of direction, with thoughts conflicting and canceling each other out. But if people were to think together in a coherent way, it would have tremendous power. That’s the suggestion. If we have a dialogue situation – a group which has sustained dialogue for quite a while in which people get to know each other, and so on – then we might have such a coherent movement of thought, a coherent movement of communication. It would be coherent not only at the level we recognize, but at the tacit level, at the level for which we have only a vague feeling. That would be more important. (p.16)

もちろん、社会における私たちの通常の思考は非連動的だと言えます。私たちの思考はあらゆる方向に向かい、異なる思考が衝突し、互いを潰し合っています。しかしもし人々が共に連動的に思考することができるなら、それはとてつもない力となるでしょう。このことを私は言いたいのです。もし私たちが対話の状況を創り出すなら 長い間対話を続け、人々がお互いを知るようになったりするなら 私たちも、思考の連動的な運動、コミュニケーションの連動的な運動をもつことができるかもしれません。これは私たちが認識できる水準だけでなく、私たちがぼんやりとしか意識できない暗黙の水準においても連動的なものです。これはより重要な点と言えるでしょう。

ここで重要な概念として「暗黙の」 (tacit) という用語が出てきましたが、この側面が、思考と意味においてきわめて重要であるとボームは述べます。

“Tacit” means that which is unspoken, which cannot be described – like the knowledge required to ride a bicycle. It is the actual knowledge, and it may be coherent or not. I am proposing that thought is actually a subtle tacit process. The concrete process of thinking is very tacit. The meaning is basically tacit. And what we can say explicitly is only a very small part of it. I think we all realize that we do almost everything by this sort of tacit knowledge. Thought is emerging from the tacit ground, and any fundamental change in thought will come from the tacit ground. So if we are communicating at the tacit level, then may be thought is changing. (p.16)

「暗黙の」ということばが意味することは、語られないということ、記述できないということです。自転車に乗る時に必要な知識を思い起こしてもらえればいいでしょう。これは現実の知識ですが、連動的なものもあれば非連動的なものもあります。私はここで、思考とは実際には精妙で暗黙的な過程であると述べているわけです。思考することの具体的な過程はとても暗黙的なものです。意味も基本的には暗黙的なものです。私たちが明言できることは、意味のほんの一部にすぎません。私たちがなすことのほとんどすべては、この種の暗黙的知識によってなされていることを皆さんもお分かりだと思います。思考は暗黙の基盤から創発するものであり、思考の根本的な変革も暗黙の基盤から到来するものなのです。ですからもし私たちが暗黙の水準でコミュニケーションを行っているなら、おそらく思考も変革しているのです。

「暗黙の水準でのコミュニケーション」、すなわち明確なことばが饒舌に述べられているわけではないのだけれど、参加者の意識がどこか連動し、それぞれの中で、あるいは参加者の間で、何かがうごめいているような感覚を得られるコミュニケーションが行われていたら、実はそれは根源的な水準で参加者の思考が変容しているのだというこのボームの見解は、私たちのコミュニケーションの実際を思い起こすなら的を射ているようにも思えるのですが、皆さんはどうお考えでしょう。

Dialogue is really aimed at going into the whole thought process and changing the way the thought process occurs collectively. (p.10)

対話とは、実のところすべての思考過程へと入ってゆくことを目指すものなのです。対話集団的な思考過程のあり方を変革します

このように「対話」や「意味」に関するボームの論は、「思考」とも深く関わっていますが、「思考」についてはまた後日まとめたいと思います。


要約

以下に、これまでのボームの論を、私なりにまとめてみることにします。私のまとめですから、私なりの解釈や誤解(あるいは「意味の差異」!)が入っているかもしれませんが、これも対話を始めるためと思い、私なりの要約を書きます。要約に添えられたページ番号は、その要約の基になった原著ページです。

(1) 対話では、意味の完全な一致は前提とされない。 (p.3)
(2) 対話では、参加者の間での意味の差異から何か新しいものが生まれてくるが、それは参加者全員にとって関連のあるものである。 (p.3)
(3) 対話は、伝達による情報共有ではなく、参加者が一緒に何かを創造するものである。 (p.3)
(4) 対話が成立するためには、参加者が他人に影響を与えようなどとすることなく、偏見なしに耳を傾けることができなくてはならない。 (p.3)
(5) 対話では、真理と連動性が最重要視されなければならない。 (p.3)
(6) 対話では、必要ならば、自分のそれまでの考えを擁護したり守ろうとすることなく、捨て去らなければならない。 (p.3)
(7) 対話は、何をどう言うべき(言うべきでない)といったことや、必ず結論を出さなければならないといった義務感から解放されて行われなければならない。 (p.19)
(8) 対話に勝ち負けはない。どんな参加者も相手を打ち負かそうなどとしてはいけない。 (p.7)
(9) 対話では、意味が参加者の間で動き始め、意味の流れが生じ、それが共有される。
(10) 共有される意味の流れが、新たな理解を生む。  (p.7)
(11) 共有される意味の流れが、人々と社会をつなぐ。  (p.7)
(12) 共有される意味の流れが、文化を構成する。 (p.32)
(13) 現代社会では、意味が連動的でなく、人々や社会が分断されている。 (p.32)
(14) 連動的でない意味は、本当の意味とは呼びがたい。 (p.32)
(15)互いに連動していない意味を一堂に会させることにより、連動への努力を始めることができるかもしれない。  (p.32)
(16) 意味を連動させようとする対話では、参加者が考えを取捨選択することもあるかもしれないが、もっとも大切なことは、意味全体が連動していないかぎり、真理には到達できないということを自覚することである。 (p.33)
(17) 現在の意味も過去の意味も、あらゆる意味は共に存在しており、その意味の共存を認めることから新たな秩序が生まれる。(p.33)


私は「コミュニケーション能力」を研究テーマの一つにしています。最初は言語学と応用言語学のコミュニケーション能力論の狭さを感じ、それを分析哲学(ウィトゲンシュタインやデイヴィドソンなど)のコミュニケーション論をつなげることを試みました。その後、アレントやルーマンなどのコミュニケーション論に惹かれ、最近は情報統合理論などから意味について考えなおしたり、当事者研究やオープンダイアローグなどからコミュニケーションの現実の営みについて学んだりしています。ボームのこの本は、これらの論考と整合性が高く、何より現実のコミュニケーションを理解する上で非常に役立つ本だと思ったのでこのようにお勉強ノートを作りました。今後ももう少しこの本についてまとめてゆきたいと思っています。




追記(2016/04/18)

授業用の資料として、この記事内容に関するスライドを作りました。








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