「英語教師のためのコンピュータ入門」という授業で、平均・分散・標準偏差・z得点・偏差値といった概念を扱いました。授業では、私が挑発的な問いかけをして、学生個々人に考えさせ、学生同士で話しあわせました。授業後の振り返り課題として、これらの概念を自分なりに例や喩えを出しながら、日常語に翻訳する課題(※)を出しました(こういった活動の意義については下の記事に書いています)。
実践者として現場で考えるための方法論
※ 翻訳 (translation) は、異言語間だけでなく、同一言語内でも使われる概念です。もちろん、後者の場合、ジャンルやレジスターが異なるように翻訳することが多いのかもしれませんが。
"After Babel: Aspects of language and translation" by George Steiner
学生さんの翻訳(そして例や喩え)は非常に面白いものでした。また、翻訳を行っての感想も書いてもらったのですが、それを読むと、こういった翻訳(言い換え)が非常に有効であること、しかし中学・高校時代にはほとんどこういった活動をしていないこと、翻訳しようと苦労することで概念理解がすすむこと、概念理解がすすみ「なぜこうなのか」がわかると学ぶ気が湧いてくること、教師は教える内容についてはこのような翻訳をやっておかねばならないこと、などのことを学生さんは実感したようです。
今回は英語教育専攻の学部一年生が高校数学(統計)の日本語を、自分で実感できる日本語に翻訳する(その際、適宜、例や喩えを補う)という課題でしたが、英語教師としての課題は、やはり英語科の学習内容を、目の前にいる学習者に伝わるように翻訳することだと思います。
実際、優れた英語教師は学習内容をさまざまに翻訳して学習者に伝えます。その翻訳は、数学での翻訳のように厳密なものではなく、それぞれの教師がそれぞれの学習者に伝わりやすくした翻案であったり新たなストーリー(フィクション)を作りあげたりすることであったりしますが、教師は徹底的に考え、その話を聞く生徒は納得します。これが教師の重要な能力だと思います(こういった能力を認めないのなら、コストのかかる人間教師はクビにして、教室にはコンピュータだけを設置すればよいなどという乱暴な意見にも反論できなくなるでしょう)。
しかし、下の学生さんのことばによれば、現在の中学校・高校(そしておそらく大学)の多くの教室では、こういった考えさせる活動はしていません。その理由としては、教師自身が大学時代に考える経験(そして喜び)を十分に味わっていなかったことや、浅薄な「客観性」概念理解に基づくテスト文化で「考える」ことが構造的に軽視されていること、などあるかと思いますが、そういったことへの考察は後日にまわして、ここでは印象的だった学生さんのことばをそのまま引用します(ただし赤色は私がつけたものです。また、[ ]は私が挿入した補注です)。
■ 今回の課題は今までで一番頭を使い苦しんだものでした。
[高校時代に] データの分析を習った時は、この問題にはこれを使うというのはわかっても、何のために求める数値なのかわかりませんでした。
今回自分なりに調べたり考えてみて少しわかった気がしますが、この説明に自信はありません。
それは自分の理解がまだ不十分だからだと思います。
誰かに物事を説明するためには確かな知識と深い理解が必要なのだと改めて思いました。
それに加えてわかりやすい言葉を使い、文章を組み立てる力も必要です。
人に1教えるには10知っていなければない、という言葉に共感しました。
■ 私は中学生の時から数学が苦手だったので、この課題がでたときは正直やりたくなかったです。しかし、この課題をすすめていくうちに標準偏差などを数式で習った時よりも、なぜこういう計算をするのかといったことが理解できていった。それと同時になぜ今まで式を覚えるだけで理由まで知ろうとしなかったのかと思った。今回の課題だけにかかわらず、「なぜ」が分かれば自然と興味もそそられるし嫌いなものが好きになれるチャンスだと思うので「なぜ」と思うことをこれからも意識して心がけていこうと思う。
■ [柳瀬先生の挑発的な問いでの主張に関しては] 直感的には誤りであることが分かるけれど、それを言語化して説明しようとすると、本質を理解しなくてはいけないから、答えに窮する。
本質理解の助けとなるのが、図表やイラスト、例えである。教師は学習者のストレスをできるだけ減らさなければならないし、言語説明だけの単調な授業を避けるためにも、こうしたものを積極的に使って説明を行わなければならないと思う。
「わからないこと」、そして「悔しいこと」は(人によっては)学習において原動力となる。学ぶときに大事なのは、「自暴自棄にならないこと」だ。これが今回の授業で一番強く感じたことだ。
僕は、「数学的なもの」へのアレルギーがとても強くて、たぶん解消するにはとても時間がかかるだろうし、少なくとも今のところは、解消したいとは思わない。数学の面白さや有用性をほとんど体感したことがないし、それでいて(試験以外では)困ったことがないからだ。でもいずれ数学の知識がないために困るときや、恥をかくときがくるかもしれない。
僕にとって数学は、疑いなく「逃げたいもの」「見たくないもの」だ。これから先、僕たちは、英語から逃げようとする生徒に何度も出会うだろう。そんなときにどうやって彼らを英語という教科に向き合わせたらいいのだろうか。教師の勉学に対する姿勢は、生徒の勉学に対する姿勢にも影響を与えるのではないか。
■ 高校時代に覚えた事項ですが、今回予習をする際にきれいさっぱり記憶から抜け落ちていてとても驚きました。
やはりきちんとした理解を伴わない暗記は全く役に立たないのだなあと痛感しました。
■ 高校時代、数学で勉強し、どれも聞いたことがあったはずだが、ただ意味もわからず公式だけを覚えていたと実感させられた。(というより意味が分かっていなかったから公式すら全く覚えられなかった。)
今回、自分でしっかり考えてみたり、先生や友達が示す具体例などを聞いて前よりは理解できたつもりだ。しかし、こうやって文章に起こしてみると、上手に説明することができない。しかし、自分で文章に書き起こしている過程で、自分が何を理解できていないのかを把握することができ、それを自分で調べたり考えたりすることで理解をより深められた。非常にいい勉強になったと思う。何事も、人にきちんと教えられるくらい理解できて初めてきちんと理解できたと言えるのだと感じた。
■ 以前はよく使っていた言葉であったが、今では疎遠となっていた。しかも分散や標準偏差を求める公式はわかっていたものの、それがどういった意味なのかなんて考えてもいなかった。
答えがでたらそれでいい。公式さえ覚えていりゃあ数学はそれなりにできてしまう。しかしそんなのではつまんない。英語でもそうだ。テストでいい点をとるために文法や構文を覚えるだけではつまんない。なぜこんな公式になるのか、どうしてこんな構文がつくれるのか。そんなことを考えてみると楽しく学べそうだ。
■ この課題をやってよかったと思います。高校生の時なんて分散も標準偏差も求め方しか覚えずそれがなんなのかを知らずに過ごしていました。実際、数学の問題でも「分散を求めよ」「標準偏差を求めよ」というそのまんまの問題しか出されたことがないので、細かい所それらがなんであるのかなど気に留める機会すら有りませんでした。しかし今回自分なりに調べて、昔、機械的に暗記したものに意味を与えることができ、なるほどこういうものだったのかあとしみじみ思うことができました。高校生の頃のぼくに伝えに行きたいと思いました。
■ [翻訳や例や喩えを使った説明をするうちに] だんだんと口調が軽くなってしまって、素の自分に戻っていた。
「自分の中で3回理解しないと人には教えられない。だから人に教えようとしたらどんどん身につくようになる。」
中学の理科の先生の口癖だ。確かにそうだなと改めて感じさせられた。わかったつもりが伝えられない。伝えたつもりが伝わっていない。
教えることの難しさを改めて痛感した。悔しいと思う。
悔しい。もっと人に説明できるようになりたい。
うざったいくらいに説明する人になりたい。
もう「説明おじさん」なんて呼ばれるくらいに、人に教えるのが上手い人になりたい。
■ どうやって分かりやすく説明しようかなと考えるのはすごく楽しかったです。しかし、しんどさ、これで理解してもらえるかという不安も同時に感じました。万人に分かってもらえる説明は無い、ということを聞いたことがあります。しかし、教師は勉強を分かりやすく教えてなんぼのものだとだと僕は思います。完璧な説明を相手にしてはイタチごっこのようになってしまうのでしょう。でも、イタチとの距離を少しでも縮める、つまり、少しでもベストに近い説明をずっと追求し続けることが教師にとってとても肝要ではないかという気がします。
■ これまでの課題の中で最も難しく感じました。数学は得意科目であったため分散や標準偏差という言葉を見た時、ぱっとそれを求める公式が頭に浮かびました。しかし、実際にそれらの値はどのような意味を持っているのか、何のために求めるのかといったことを考えるとその答えは全く思いつきませんでした。今まで機械のように分散=公式、標準偏差=公式といったように特に意味を理解せず無理やり頭に叩き込んで、テストでは何とか点数が取れるようにしていたのだなと思いました。確かにこれでセンター試験やその他の入試で問題を解くことはできていましたが、知識を自分のものにはできていなかったのだと痛感しました。今まで自分がやっていたことが何も意味のないただの作業になっていたのだなと実感しました。
また、自分の言葉で分かりやすく相手に伝えるということの難しさを改めて実感しました。頭のなかでは何となく理解していてもそれを自分なりに表現し相手に伝わるようにすることがとても難しかったですし、今回の課題が十分相手に伝わっているかと言ったらそうではないと自分でも思います。教師がいくら自分で理解していてもそれを生徒にわかってもらえるよう説明出来なければ何の意味もありません。これからはこのような自分の言葉で分かりやすく相手に伝える練習も必要だと痛感しました。
■ 問題を解くために平均や分散などの公式を覚えるのは簡単。ただ、今回みたいにこれらの単語を簡単にわかりやすく翻訳することは想像の上を行く難しさだった。小学生に「円周率って何?」ってバイト先で聞かれて「んんんん…」となった感覚と近い気がした。解を求めるのは式を丸覚えすればいい。けどその式の意味を、簡単に説明できることとは全く別次元のものだと再認識。何かの定義を伝えるというのはこんなにも言葉が出てこないかと。逆にこれができる人はそのものの本質を理解できているからだと思う。よく「人に教えることができて理解が深まる」というけど、今回思ったのは、「理解が深いからこそ教えることができる」んじゃないか。英語の文法だって、自分は今までの積み重ねでわかるかもしれない。でも理解が浅いと、教える時に「こんな感じや」としか言えない。説明できるようになるまで理解を深める。いままで自分が問題を解けるくらいに理解ができていれば特に問題がなかった。これから教員になるのに、その程度の理解では何も伝えることができないなと思った。
追記(2016/01/20)
本件に関する感想が本日も若干ありましたので、下に掲載します。
■ 個人的に、受験のときに統計とかの分野は苦手だった。そのせいもあって典型的な文系になった。受験勉強のときには全く覚えられなかった偏差値や標準偏差の求めかたが、今回の課題を通してできてしまった。あのときはやらされていた感が強かったのと、問題集を解くだけだったのでいつになっても覚えることができなかった。何回もやっていたのになぜか受験が終わるまで結局解けなかった。なのにいまになって1日でできるようになった。不思議な感覚。受験勉強とは違う、学びってこのことなのかなぁと思った。なんとなく、さっぱりしたような、スカッとしたような、楽しいような気持ちだった。
■ 今回授業を通して、学びについて思い直すことがありました。高校生の時、どうしてこの式になるのか、どうしてこれで値が求まるのか、考えようとすることはほとんどありませんでした。今回少しだけではありますが、式の意味することを理解して、自分から数学をやり直そうとまではいかないものの、楽しいなとは思いました。表面上の理解、暗記だけではつまらないというのは当たり前だなと思います。教壇に立つ時には、生徒にいかにして楽しく学んでもらうか、これは教育に携わっていく限り、永遠の課題になるかと思います。
■ 今まで授業中に取り扱ったり、問題として解いたことはあったものの、初めて課題として自分の力だけで偏差値を求めました。これから使う機会が増えるだろうなと感じたと同時に、使おうとしなければまた使い方を忘れてしまうんだろうなと感じました。
高校時代のような単に問題を解くためだけのものではなく、自分のために活用できるよう、理解を深めていきたいと思いました。