2015年11月16日月曜日

統合情報理論 (Tononi 2008) の哲学的含意の部分の翻訳




以下は、統合情報理論 (Integrated Information Theory) についてまとめられた Tononi (2008) のうち、哲学的な含意に関する箇所の一部 (pp.232-234) を私なりに翻訳したものです。存在と記述といった論点を整理するために役立つのではないかとも考えました。(翻訳からのリンクは、私が加えたものであり、原文に存在するものではありません)。

今回の翻訳部分については自然科学的知識が前提とされている箇所が多くありますので、とりわけ私の誤解・誤読・誤訳を怖れます。間違いがあればご指摘ください。すぐに修正します。


Giulio Tononi (2008)
Consciousness as Integrated Information:
a Provisional Manifesto
(Biol. Bull. December 2008 vol. 215 no. 3 216-242)







基本的性質の一つとしての意識

  統合情報理論によるなら、意識と統合情報は同一のものである。この同一性は統合情報理論が始まった時になされた現象学的思考実験から予測されたことだが、存在論的な帰結を有している。意識は疑いえなく存在している(実際のところ、存在に関して疑問の余地がないのは意識だけである)。もし意識が統合情報であるのなら、統合情報は存在する。さらに、統合情報理論によれば、統合情報は質量電荷エネルギーと同様に、基本的性質の一つとして存在している。ある機能的なメカニズムがある状態にあるならば、その事実ゆえに、統合情報は統合情報として存在していなければならない。具体的に述べるならば、統合情報は、ある質 (統合情報が生み出すクオリアの形) と量 (統合情報の「最大の」Φ)を有した経験として存在する。

  もしこれらの前提を受け入れるならば、次のように考えると基本的特性としての意識について考えやすくなる。私たちは今や、宇宙を、質量・電荷・エネルギーの莫大な集まり 惑星や恒星から銀河にいたる輝く大きな存在物(輝きはエネルギーや質量を反映している) -- を含んだ巨大な空間だと考えることに慣れている。この考え方 (つまり、質量・電荷・エネルギー) からすれば、私たち一人ひとりは、存在しているものの中で非常に小さな部分を占めるにすぎない -- 実際、わずかな塵以上のものではありえない。

  しかし、もし意識(ということは、統合情報)が基本的性質の一つとして存在しているなら、そこから上の考え方と同じぐらい妥当な宇宙観を導きだすことができる。宇宙は巨大な空間で、そこにはほとんど何もなく、ところどころにわずかの統合情報 (Φ) -- わずかな塵ぐらいと言っていいだろう -- があるだけだ。質量・電荷・エネルギーの観点からすれば莫大な集まりがあるところですら、そのことに変わりはない。他方、私たちが知っている宇宙の小さな片隅には、非常に輝いている存在物が並外れて集中して存在しており、その輝きは周りにあるものすべてをはるかに凌駕している (輝きは高いΦ値を反映している)。輝くΦ恒星の一つ一つは個々人の主要複合体である(おそらく、個々の動物の主要複合体でもあろう)。13 このようなΦ中心の考え方は、少なくとも質量や電荷やエネルギーによって充たされた宇宙という考えと同じぐらいには妥当なものであると私は論証している。いや、Φ中心の考え方の方がより妥当だとも言えるかもしれない。なぜなら、十分に意識的であることは (高いΦ値をもつことは)、[ あなたが ] あなたであるということには何らかのものがあるということを含意しているからだ。他方、もしあなたが質量や電荷やエネルギーがあるということでしかなかったら、[ あなたが ] あなたであることにはほとんどあるいはまったく何もないことになるかもしれない。この立場からすれば、高いΦ値をもつ存在物は、多くの質量をもつ存在物以上の強い意味で存在しているとも思える。

  興味深いことに、統合情報理論とは異なる視点から、情報は、通常の物理的特性よりも、存在論的な意味において先立つと提唱されてきた bitからitという視点 Wheeler and Ford, 1998)。この考え方は正しいかもしれないが、統合情報理論によるならば、情報という用語を「統合情報」と入れ替えてのみその正しさは保たれる。14 私がこれまで論証してきたように、統合されていない情報は経験と関連しておらず、そのことゆえに、それ自身として存在しているとは言いがたい。情報は、ある意識をもった観察者がそれを利用して自分の中の主要複合体で何らかの区別をした時に、間接的な存在を与えられるだけである。本当のところ、同じ「情報」も異なる観察者にはきわめて異なる帰結を生み出しうるのだから、情報は観察者を通じて存在しているのであり、情報自体で、情報自身が構成要素となって存在しているのではない。



内的特性の一つとしての意識

基本的特性の一つとしての意識は、内的特性の一つでもある。このことが意味しているのは単純で、統合情報を生成している複合体は、外的視点とは関係なしに、ある形で意識的であるということだ。実在しているようなシステムの統合情報量を測定しようとしたらどれほど困難かを考えるとき、この点が特に重要となる(クオリアの形の計測がもっと難しいことは言うまでもない)。ある複合体の境界線や、それが生成する統合情報の量や、それが特定する情報の関係性の集合や、Φが最高値になる空間-時間の量を知りたいと私たちが願うなら、私たちはやる気が挫かれるほどの大量の計算をしなければならない。システムをあらゆる可能なやり方で刺激し、ベイズ規則を使って現在の出力から過去の状態の確率を推定し、可能な確率分布と現実の確率分布の間の相対エントロピーを計算しなければならない。さらに、同じことを、(複合体を見つけるために)すべての部分集合に対して行い、(それぞれのクオリアの形を得るために)結合のあらゆる組み合わせに対しても行わなければならない。最後に、それらの計算を、統合情報を生成するための最適時空サイズを決定するために複数の時空の規模で行わなければならない(後述)。言うまでもなく、これらの計算を現在行うことができるのは、もっとも小さなシステムに対してのみである。もう一つ確実に言えることは、複合体自体は、こういった計算をすることができないし、またする必要もないということである。複合体は何らかの形で内的に意識をもっている。実際のところ、複合体は意識を生成しその量を特定するために関係するすべての確率分布を「計算」する必要などほとんどないが、それは、ある質量をもつ物体が他の物体を惹きつけるためにどれだけの重力質量を必要とするかを「計算」する必要がないのと同様なのである。

  統合情報のこの側面を別の言い方で表現するなら、意識は外的には傾向性もしくは可能性として特徴づけることができるということである。この場合の傾向性もしくは可能性とは、複合体が、自らのメカニズムのあらゆる組み合わせを通じて、自らのありうる状態に対して区別をする可能性のことであるが、内的な視点からすればこの区別は否定できないほどに現実のものである。奇妙に聞こえるかもしれないが、物理的システムに関係している基本的量というものも傾向性や可能性として特徴づけることができる。しかしそれは現実の結果をもたらす。例をあげるなら、質量を可能性として特徴づけることはできる --たとえばある物体が力によって加速された場合に生じるだろう抵抗としてなど -- だが質量は、もし他の質量をもつ物体が周りにあるなら、それらを実際に引きつけるといった疑いようもない現実の結果を生じさせる。同じように、統合情報に対するメカニズムの潜在性力は、メカニズムが現実には特定の状態にあるという事実によって、現実のものになる。M. M. Forsterのことばを言い換えるなら、この事実を次のように表現できるだろう。「私は、私が実際になすことを見る前に、いったどうやって私が何であるかを知ることができるのだ」。



存在することと記述すること

  統合情報理論によるならば、ある時点で複合体が生み出す情報の関係性を完全に記述すれば、その複合体のその時点での経験に関してすべてが述べられたことになる。その他に何も付け加える必要はない。17 しかし、統合情報理論が含意しているもう一つのことは、意識をもつためには -- たとえば赤の原色を活き活きと経験するためには -- 高いΦを有する複合体という存在でなければならないということだ。その他に方法はない。もちろん、完全な記述は経験が何でありどのように生成されるかについての理解を与えてくれるが、記述は経験の代わりにならない。存在することは記述することではない。この論点が議論を引き起こすことはないと思われるが、それでも、意識の科学的説明に対する有名な議論があるから言及しておく価値があるだろう。その議論の典型は、23世紀の神経科学者メアリーについての思考実験である (Jackson, 1986) メアリーは、色覚に関する脳内過程のすべてを知っているが、生涯を通じて白色と黒色しかない部屋に住んでおり、これまで色を見たことがない。18 この議論では、メアリーは色覚に関する完全な知識はもっていても、色を経験するということはどういうことかということを知らない、ということになる。意識の経験についての知識には、脳内過程に関する知識から演繹することができない何かがあると結論される。だが、意識とは存在することであり知ることではないということが実感されるなら、この議論は力を失う。統合情報理論によるなら、存在するということは、自らの過去の状態についての情報を生成するという意味で、内側から「知る」ということを含意している。記述することは、そうではなくて、外側から「知る」ことを含意している。この結論は何ら驚くべきものではない。考えてもみてほしい。私たちは核分裂によりどのようにエネルギーが生成されるかについてはきわめてよく理解しているが、実際に核分裂が起こらない限り、いかなるエネルギーも生成されない  -- どれだけ記述がされようとも、記述が存在の代わりになることはない。






脚注

13
宇宙のその他の場所にもそのように輝く物体はあるのかもしれないが、現在のところそれを裏付ける証拠はない。

14
原理的には統合情報の考え方を、量子情報も含むように拡張することができる。統合情報と量子の考え方の間には興味深い平行関係がある。たとえば次のことを考えていただきたい。 (i) 量子の重ね合わせとメカニズムの可能なレパートリー(ある意味で、メカニズムが作動する以前では、メカニズムは可能な出力状態のすべての重ね合わせで存在している)。 (ii) デコヒーレンスとメカニズムの現実のレパートリー (メカニズムが作動しある一定の状態に入ると、メカニズムは可能なレパートリーを現実のレパートリーに収縮する。 (iii) 量子もつれと統合情報(二つの要素を互いの独立を保ったまま刺激できない限りにおいて、二つの要素は情報的には一つのものである)。

統合情報理論の考え方と関係性量子力学 (Rovelli, 1996) によって提唱されているアプローチには合致する箇所がある。関係性のアプローチは、システムの状態は、別のシステムである観察者(あるいは同じシステムの部分である観察者)との関係ではじめて存在すると主張している。これに対して統合情報理論は、システムは自らの過去の状態を「計測」することができるという限りにおいては、システムが自分自身を観測することはできると主張している。もう少し一般的に述べるなら、統合情報理論にとっては、複合体だけが実在する観察者であり、任意の要素の集合がどれでも実在する観察者であるわけではない。一方、物理学は、情報が統合されているかいないかについて無関心である。

他の興味深い論点として、情報が保存され統合情報が明らかに増加することと、情報の有限性の間の関係がある(量子ビットの観点においても、ある物理システムに利用可能な情報量は有限である)。さらに一般的に述べるなら、物理学における情報のパラドックスの幾つかについて、内的視点、つまり、統合情報として考察することは有益であるように思える。内的視点と統合情報においては、観察者は観察対象と一にして同である。

 [ 補注:奇妙なことに、原著論文では脚注の151617の後(234ページ右側)にある ]

17
実在するだろうシステムに対して、完全な記述を行うことは実際上、無理であることを繰り返し述べることは有益であろう。

18
もっと適確に述べるなら、メアリーは前述の全色盲の患者のようなものであろう。さもなければ彼女は色のついた夢を見ることができるかもしれないからである。









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以下は、統合情報理論 (Integrated Information Theory) についてまとめられた Tononi (2008) のうち、意味 (meaning) に関する箇所 (p.218とpp.238-239) を私なりに翻訳したものです。意味、意識、情報といった基礎概念を整理するために役立つのではないかとも考えました。(翻訳からのリンクは、私が加えたものであり、原文に存在するものではありません)。

いつものように、私の誤解・誤読・誤訳を怖れます。間違いがあればご指摘ください。すぐに修正します。


Giulio Tononi (2008)
Consciousness as Integrated Information:
a Provisional Manifesto
(Biol. Bull. December 2008 vol. 215 no. 3 216-242)






p.218 

  このこと [ フォトダイオードとあなたは似たようなことをしているように見えるが、実は異なることをしているということ ] を理解することは簡単だ。スクリーンが光るか暗くなるかだけである代わりに、スクリーンが赤色、緑色、青色と変わり、次には、次から次へと、これまで作成されたすべての映画の画面を映し出すと想像してみよう。フォトダイオードは、それぞれの画面の光の量が閾値を超えているかいないかについて信号を出し続けるしかない。フォトダイオードにとって、物事は二つの状態のうちのどちらか一つでしかありえない。したがってフォトダイオードが「光っている」と報告するとき、それが意味していることは、「こうである」「ああである」において「こうである」ということだけである。しかし、あなたにとっての光っているスクリーンは、単に暗いスクリーンと異なるだけでなく、その他の多数の映像とも異なっている。だからあなたが「光っている」と言うとき、その報告が本当に意味しているのは、「この特定の状態である」「無数の状態である」において「この特定の状態である」ということ、たとえば、赤色のスクリーンでも、緑色のスクリーンでも、青色のスクリーンでも、ありとあらゆる映画の映像の中でもこの映画の映像でもあの映画の映像でもない、ということである(映像に伴っている音、匂い、思考、およびそれらのあらゆる組み合わせについても同様であることは、言うまでもないだろう)。明らかに、あなたにとってはどの映像も違って見える。このことから、あなたの脳内のあるメカニズムが、あなたが見ている映像を、他のすべての映像とは区別することができるに違いないと思われる。だからあなたが「光っている」と言うとき、あなたがそのことについて考えていようといまいと (普通は考えていないものだが)、あなたは、多数の可能な事態の中での区別を行ったわけである。ということは、あなたは大量のビット数の情報を生み出したわけである。

  この論点は、単純すぎてかえってわかりにくいかもしれないので、フォトダイオードは光の検知に関しては私たちと同じように思えるのに、なぜ私たちのように光を見て理解することがまったくできないのか、-- 実際のところ、フォトダイオードは「見て理解する」ことがまったくできない -- についてもう少し詳しく考えておくことが有益かもしれない。うまくゆけば、フォトダイオードに欠けているものを実感することによって、光を意識的に「見て理解する」ことを私たちに可能にしているものが何なのかについてよくわかるようになるかもしれない。

  ここで重要なのは、私たちにはできるがフォトダイオードにはできないたくさんの区別が、今問題になっている明暗の区別の意味にどのような影響を与えているか、ということを実感することだ。たとえば、フォトダイオードには、有色光と無色光を区別するメカニズムがなく、有色光の中でもどの色の光かを区別することなどおよびもつかない。その結果、フォトダイオードにとっては、どんな光もある一定の閾値を超えているかぎり同じである。だからフォトダイオードにとって「光」が、有色光ではない無色光であることを意味することはまったくできないし、ある特定の色であることを意味することができないことについては言うまでもない。また、フォトダイオードには、均質な光と、暗い背景に浮かび上がった明るい形  -- 明るくて見えている形なら何でもよい -- を区別するメカニズムをもたない。だからフォトダイオードにとって、光が、ある形 -- もちろん無数の特定の形のうちの任意の形 をとらない均質な光を意味することはまったくできない。さらに悪いことには、フォトダイオードは、自分が視覚的属性(光の「視覚性」)を検知していることを知らない。フォトダイオードには、明暗といった視覚的属性を、たとえば熱量や重量や音量といった非-視覚的属性から区別するメカニズムがないからだ。私たちが知る限り、フォトダイオードはサーミスタと変わりない。フォトダイオードは、自分が明暗の知覚をしているのか熱冷の知覚をしているのかを知るすべがない。

  まとめるなら、フォトダイオードができる唯一の特定は、これかあれか、だけである。それ以外の特定はできない。それ以外の特定をするためのメカニズムがないからである。したがってフォトダイオードが「光」を検知するときの「光」が、「光」が私たちに意味していることとおなじことであることはとうていありえない。フォトダイオードにとっての「光」は、それが視覚的属性であるということも意味していない。これに対して、私たちが「光」を十分に意識しながら見て理解するとき、私たちはひそかにずっと特定的である。私たちは、ああでなくこうである(暗でなく明である)と特定しているのと同時に、私たちが区別しているものが何であれ、それは無色(どんな特定の色をもたない)であり、無形(どんな特定の形ももたない)であり、聴覚的・嗅覚的・触覚的でもなく思考的でもない視覚的なものである等などの特定をしている。つまり、私たちにとって光ははるかに豊かな意味をもったものであるが、それはまさに、私たちが「光」と呼ぶこの特定の事態を、多数の他の可能な事態と区別するメカニズムをもっているからである。

  統合情報理論によるなら、いかにして私たちが純粋な光を他の可能な事態から区別しているかということによってひそかに付け加えられたこの意味こそが、意識のレベルを上げているのである。この大切な論点は、「引き算」か「足し算」によってよくわかっていただけるかもしれない。引き算によって、私たちが「光」を意識していることのレベルが、段々と下がり -- 無色性を失い、無形性を失い、視覚性までも失い --、意味がどんどんと剥奪され、フォトダイオードと同じように「二つのうちの一つの状態」になってしまうことを実感できるかもしれない。足し算によって、同じように「光」を見ながらも、その光が他の無数の可能な事態と異なるかを特定することにより、意味がどんどんと増していくことを実感できるかもしれない。どちらにせよ、統合情報理論が言っていることは、メカニズムが純粋な光と、そうでないものをより多く区別すればするほど(光が何を意味するかより多く特定すればするほど)、意識のレベルは上がるということである。









pp.238-239

意識と意味

  統合情報という考え方、もっと一般的に言うなら、あるクオリアを構成している情報の関係性の集合は、意味の考え方、もっと一般的に言うなら、意味論と関係している。ここでは短いながらも、意味がどのように情報を統合することができるシステムを要求するのか、さらに具体的に言うなら、意味がどのように概念によって獲得されるのか、について論考したい。

  統合情報理論にとっては、意味を生成するのはメカニズムである。さらに言うなら、意味を生成できるのは、ある単一の複合体の中にあるメカニズムだけである。メカニズムは確率分布(メカニズムが適用される前後関係)を違う確率分布に変更し、そのことにより、ある情報の関係性を特定する。要は、メカニズムはある状態をありえないとして排除し、ある状態をありうるとして取り入れるということである。ここに意味論との平行関係がある。意味論では、文の意味がその文が真か偽となる可能世界によって意味の特定がなされるからである。また、意味論と同様に、メカニズムが作動する前後関係によって意味は変わってくる。しかし統合情報理論にとっては、意味が意味をもつのは、複合体の中だけである -- 互いに接合していない複合体に属している複数のメカニズムが意味を生成することはない。実際のところ、意味があるというのは、一人ひとりの個人が経験することであり、その意味はその意味のクオリアによって完全にかつ一義的に特定される。たとえば、単一のq矢印を生み出しているフォトダイオード22はほとんど何も意味しない(つまり特定しない)が、大きく複合的なクオリアははるかに多くを意味する(つまり特定する)。統合情報理論は、考慮すべき可能世界についても精確である。可能世界とは、複合体の最大エントロピー分布によってもたらされる状態である。異なる主体の「頭の中」の意味が、どのように外的世界を指示しているかは別の問題であり、内的関係性と外的関係性を合わせることについての考察が必要である(後述)。

  概念とは、ある一定の事態を一緒にまとめている複数のもつれたq矢印であり、そのまとめかたはより単純なまとめかたの合計に分解することはできないということを思い出してほしい(Feldman, 2003も参照のこと)。図10が示しているのは、それぞれ四つの入力要素(センサー S)と四つの出力要素(検知器 D)から構成される二つのシステムである。「コピー」システム(図10A. 2左のカメラの例に似ている)では、それぞれの出力要素は異なる入力要素と結合されており、それぞれのセンサーと検知器の対は、 “S = D”という関数を実行している。コピーシステムは、全部で4ビットの情報を伝えているが、そのシステムは四つの別々の複合体に分解できるので、このシステムは統合情報を生成してはいない。それぞれのセンサーと検知器の対は1ビットの搭乗情報と単一の情報の関係性 q矢印)を生成しているが、これは可能なもっとも単純な概念に相当している。物事はああでなくこうであるだけだ(図1のフォトダイオードと同じである)。

  今度は「概念的」なシステムについて考えてみよう(図10B)。このシステムでは、それぞれの出力要素は、四つすべての入力要素と結合しており、さきほどよりも複合的なブール関数で入力に対して作用する。23  たとえば、出力要素5は「平衡」関数を四つの入力要素に対して実行しうる(奇数個の入力がオンだったらオンになり、そうでなかったらオフになる)。要素6は「対称」関数(オンとオフの入力配列が対称的だったらオンになる)、要素7は「隣接」関数(オンかオフの入力要素が、同種の入力要素と隣接していたらオン)、要素8が「等量」関数(オンとオフの入力要素の数が同じならオン)である。24 このシステムでは、それぞれの出力要素(求心的な結合)によって生成されるq矢印がもつれており、四つの求心的結合が協働して生成する情報は、それぞれの結合が独立して生成する情報の和よりも大きい(たとえば、平衡関数が計算されるのはすべての入力が同時に考慮されたときだけである)。前述したように、もつれたq矢印はQにおける概念を構成するが、ここでは単一の出力要素がすべての四つの入力要素を包括的に統合していることで [ 概念が ] 具現化している。さらにこのシステムでは、四つの出力要素は異なる概念を特定しており、それゆえ一連の入力の異なる側面についての情報を生成している。25 したがって、最初の出力要素がオフであることは「偶数」の入力を意味し、二番目がオンであることは「対称」を、三番目がオフであることは「非隣接性」を、四番目がオンであることは「等量性」を意味している。出力要素へのすべての求心路が一緒になって生成されたq矢印ももつれており、すべての求心的結合が協働的に生成した情報は、それぞれの出力要素への求心路が独立して生成した情報の和よりも大きい。26 これが意味することは次のようにまとめられる。事態はこのあり方 -- 偶数で対称的で非隣接的で等量 -- であり、多くの他のあり方ではない。概念的システムは文字通り一連の入力に意味を加えた。さらに、概念的システムはこの概念を単一体の存在物 --高い統合情報をもつ複合体 -- として実現したのであり、それぞれが部分的な概念しか実現しないより小さな存在物の集まりとして実現したのではない。

  本当のところ、まさに意味は見るものの目に宿る。一連の入力自体に意味はないが、それが(高いΦに相当する)豊かな概念構造をもつ複合体によって「読まれた」瞬間に意味をもつ。さらに、たくさんの異なる概念をもつ複合体は、何に対しても意味を「読み込む」。言うまでもないことだが、環境を解釈するために意味があるような概念をもつように複合体を形成することはいい考えである(たとえば、そういった概念は未来の入力を予測するのに役立つ)。最後に、システムがより多く概念化すればするほど、そのシステムはより多く「理解」する。もしくは、もしシステムが環境を予測するように作られたなら、そのシステムはそれだけ「知って」いる。あなたが中国語を知らないのに、たくさんの中国語の文字を提示されたと想像してみよう。概して、あなたはそれらの文字を「中国語の文字に違いない」というカテゴリー(概念)にまとめるだろう。どの文字もあなたにとっては同じだからである。しかし中国語を習ったなら、それぞれの文字は、新しい個別の意味を獲得するだろう(この文字はこの意味で、あの文字はあの意味) -- 入力は同じだが、意味は大きくなった。27





 図10 意味


(A) 「コピーシステム」。それぞれの出力要素は、異なる入力要素と結合しており、それぞれのセンサー (S) と検知器 (D) の対に対して “D =S” という関数を実行している。コピーシステムは入力の4ビット情報をすべて伝えるが、このシステムは四つのバラバラの複合体に分解できるので、統合情報は生成していない。センサーと検知器のそれぞれの対は1ビットの統合情報と一つの情報の関係性 q矢印)を生成しているが、これは可能なもっとも単純な概念に対応している。物事はああでなくこうであるということである(図1のフォトダイオードと同じ)。

(B) 「概念的」システム。それぞれの出力要素は、四つの入力要素すべてと結合しており、入力に対してより複合的なブール関数を作用させている。それぞれの出力要素(つまり、求心的な結合)によって生成されたq矢印はもつれている(四つの求心的結合によって協働的に生成された情報は、それぞれの結合が独立して生成した情報の和よりも大きい)。もつれたq矢印は概念を構成する。ここでは、最初の出力要素がオフであることは「偶数」の入力を意味し、二番目がオンであることが「対称」を、三番目がオフであることが「非隣接性」を、四番目がオンであることが「等量」を意味している。出力要素へのすべての求心路をまとめて考えて生成された情報ももつれており、次のような意味をもっている。物事はこのあり方 -- 偶数で対称的で非隣接的で等量の入力 であり、他のたくさんの他のあり方ではない。概念的システムが一連の入力に文字通り意味を加えたのである。さらに、概念的システムはこの概念を単一体の存在物 --高い統合情報をもつ複合体 -- として実現したのであり、それぞれが部分的な概念しか実現しないより小さな存在物の集まりとして実現したのではない。





脚注
22
ただ一つだけのq矢印からなるクオリアを生成しているフォトダイオードもしくは他の複合体。

23
ここでは、複合的なブール関数をもっと基礎的なメカニズムに分解する問題は割愛している。

24
これらの関数はそれぞれ、(記述の長さが最短で、最小の複合性しかもたない)最小の式にしたがって実行されたと考えられるべきであることに注意したい。明らかに、四つの入力をもつ最小式は、入力を一つしかもたない式よりも複合的である(たとえば、平衡関数は圧縮できないことで有名である)。

25
ここに記述された概念の組み合わせは、平衡、対称、隣接、等量がよく知られているから選ばれたものであり、情報の効率性で選ばれたものではないが、統合情報の観点から「最適」の概念集合を実現するブール関数を構想することはできる。たとえば、四つの関数をうまく選んで、平均すると四つの出力要素の集合が協働的に最大の統合情報を生成するようにし、一つの入力つながりに対して理論的最大値である4ビットのΦを生成するようにもできるかもしれない(これに対して、「コピーシステム」は入力の4ビットの伝えてはいるものの、1ビットの統合情報を四回生成しているだけである)。明らかに、たくさんの一連の入力の集合に対して最適に反応するシステムを作るのは(それがもし可能なことだとしても)非常に困難である。そのようなシステムを単純なブール関数を構成部品として使うことを考えると、その困難性は一層明らかである。

26
ここでも、入力の情報のすべて(ここではすべての一連の入力に対して4ビットの統合情報)を保つ最適概念システムを作ることは困難である。

27
極端な例としてあげられるのが、テレビ画面に現れる「砂嵐」ノイズのパターンを見ることである。「テレビの砂嵐」の概念に含まれ、同じものとして扱われるテレビ画面は非常に多い。しかし、もし最適概念システムがあれば、それはどの画面も独自の種類の画面として概念化するだろう(たとえば第17番目の対称性と第11番目の対称をそれぞれ一定量示して、第6種目の隣接性をもっている、など)。ある意味で、どのノイズ画面も驚くほど深く豊かで意味がある独自のパターン、おそらくは芸術作品として読まれることだろう。










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