以下は、統合情報理論 (Integrated Information Theory) についてまとめられた Tononi (2008) のうち、哲学的な含意に関する箇所の一部 (pp.232-234) を私なりに翻訳したものです。存在と記述といった論点を整理するために役立つのではないかとも考えました。(翻訳からのリンクは、私が加えたものであり、原文に存在するものではありません)。
今回の翻訳部分については自然科学的知識が前提とされている箇所が多くありますので、とりわけ私の誤解・誤読・誤訳を怖れます。間違いがあればご指摘ください。すぐに修正します。
Giulio Tononi (2008)
Consciousness as Integrated Information:
a Provisional Manifesto
(Biol. Bull. December 2008 vol. 215 no. 3 216-242)
基本的性質の一つとしての意識
統合情報理論によるなら、意識と統合情報は同一のものである。この同一性は統合情報理論が始まった時になされた現象学的思考実験から予測されたことだが、存在論的な帰結を有している。意識は疑いえなく存在している(実際のところ、存在に関して疑問の余地がないのは意識だけである)。もし意識が統合情報であるのなら、統合情報は存在する。さらに、統合情報理論によれば、統合情報は質量や電荷やエネルギーと同様に、基本的性質の一つとして存在している。ある機能的なメカニズムがある状態にあるならば、その事実ゆえに、統合情報は統合情報として存在していなければならない。具体的に述べるならば、統合情報は、ある質
(統合情報が生み出すクオリアの形) と量
(統合情報の「最大の」Φ)を有した経験として存在する。
もしこれらの前提を受け入れるならば、次のように考えると基本的特性としての意識について考えやすくなる。私たちは今や、宇宙を、質量・電荷・エネルギーの莫大な集まり
– 惑星や恒星から銀河にいたる輝く大きな存在物(輝きはエネルギーや質量を反映している) -- を含んだ巨大な空間だと考えることに慣れている。この考え方 (つまり、質量・電荷・エネルギー) からすれば、私たち一人ひとりは、存在しているものの中で非常に小さな部分を占めるにすぎない -- 実際、わずかな塵以上のものではありえない。
しかし、もし意識(ということは、統合情報)が基本的性質の一つとして存在しているなら、そこから上の考え方と同じぐらい妥当な宇宙観を導きだすことができる。宇宙は巨大な空間で、そこにはほとんど何もなく、ところどころにわずかの統合情報 (Φ) -- わずかな塵ぐらいと言っていいだろう -- があるだけだ。質量・電荷・エネルギーの観点からすれば莫大な集まりがあるところですら、そのことに変わりはない。他方、私たちが知っている宇宙の小さな片隅には、非常に輝いている存在物が並外れて集中して存在しており、その輝きは周りにあるものすべてをはるかに凌駕している
(輝きは高いΦ値を反映している)。輝くΦ恒星の一つ一つは個々人の主要複合体である(おそらく、個々の動物の主要複合体でもあろう)。13 このようなΦ中心の考え方は、少なくとも質量や電荷やエネルギーによって充たされた宇宙という考えと同じぐらいには妥当なものであると私は論証している。いや、Φ中心の考え方の方がより妥当だとも言えるかもしれない。なぜなら、十分に意識的であることは (高いΦ値をもつことは)、[ あなたが ] あなたであるということには何らかのものがあるということを含意しているからだ。他方、もしあなたが質量や電荷やエネルギーがあるということでしかなかったら、[ あなたが ] あなたであることにはほとんどあるいはまったく何もないことになるかもしれない。この立場からすれば、高いΦ値をもつ存在物は、多くの質量をもつ存在物以上の強い意味で存在しているとも思える。
興味深いことに、統合情報理論とは異なる視点から、情報は、通常の物理的特性よりも、存在論的な意味において先立つと提唱されてきた (bitからitへという視点 Wheeler and Ford, 1998)。この考え方は正しいかもしれないが、統合情報理論によるならば、情報という用語を「統合情報」と入れ替えてのみその正しさは保たれる。14 私がこれまで論証してきたように、統合されていない情報は経験と関連しておらず、そのことゆえに、それ自身として存在しているとは言いがたい。情報は、ある意識をもった観察者がそれを利用して自分の中の主要複合体で何らかの区別をした時に、間接的な存在を与えられるだけである。本当のところ、同じ「情報」も異なる観察者にはきわめて異なる帰結を生み出しうるのだから、情報は観察者を通じて存在しているのであり、情報自体で、情報自身が構成要素となって存在しているのではない。
内的特性の一つとしての意識
基本的特性の一つとしての意識は、内的特性の一つでもある。このことが意味しているのは単純で、統合情報を生成している複合体は、外的視点とは関係なしに、ある形で意識的であるということだ。実在しているようなシステムの統合情報量を測定しようとしたらどれほど困難かを考えるとき、この点が特に重要となる(クオリアの形の計測がもっと難しいことは言うまでもない)。ある複合体の境界線や、それが生成する統合情報の量や、それが特定する情報の関係性の集合や、Φが最高値になる空間-時間の量を知りたいと私たちが願うなら、私たちはやる気が挫かれるほどの大量の計算をしなければならない。システムをあらゆる可能なやり方で刺激し、ベイズ規則を使って現在の出力から過去の状態の確率を推定し、可能な確率分布と現実の確率分布の間の相対エントロピーを計算しなければならない。さらに、同じことを、(複合体を見つけるために)すべての部分集合に対して行い、(それぞれのクオリアの形を得るために)結合のあらゆる組み合わせに対しても行わなければならない。最後に、それらの計算を、統合情報を生成するための最適時空サイズを決定するために複数の時空の規模で行わなければならない(後述)。言うまでもなく、これらの計算を現在行うことができるのは、もっとも小さなシステムに対してのみである。もう一つ確実に言えることは、複合体自体は、こういった計算をすることができないし、またする必要もないということである。複合体は何らかの形で内的に意識をもっている。実際のところ、複合体は意識を生成しその量を特定するために関係するすべての確率分布を「計算」する必要などほとんどないが、それは、ある質量をもつ物体が他の物体を惹きつけるためにどれだけの重力質量を必要とするかを「計算」する必要がないのと同様なのである。
統合情報のこの側面を別の言い方で表現するなら、意識は外的には傾向性もしくは可能性として特徴づけることができるということである。この場合の傾向性もしくは可能性とは、複合体が、自らのメカニズムのあらゆる組み合わせを通じて、自らのありうる状態に対して区別をする可能性のことであるが、内的な視点からすればこの区別は否定できないほどに現実のものである。奇妙に聞こえるかもしれないが、物理的システムに関係している基本的量というものも傾向性や可能性として特徴づけることができる。しかしそれは現実の結果をもたらす。例をあげるなら、質量を可能性として特徴づけることはできる
--たとえばある物体が力によって加速された場合に生じるだろう抵抗としてなど
-- だが質量は、もし他の質量をもつ物体が周りにあるなら、それらを実際に引きつけるといった疑いようもない現実の結果を生じさせる。同じように、統合情報に対するメカニズムの潜在性力は、メカニズムが現実には特定の状態にあるという事実によって、現実のものになる。M. M. Forsterのことばを言い換えるなら、この事実を次のように表現できるだろう。「私は、私が実際になすことを見る前に、いったどうやって私が何であるかを知ることができるのだ」。
存在することと記述すること
統合情報理論によるならば、ある時点で複合体が生み出す情報の関係性を完全に記述すれば、その複合体のその時点での経験に関してすべてが述べられたことになる。その他に何も付け加える必要はない。17 しかし、統合情報理論が含意しているもう一つのことは、意識をもつためには
-- たとえば赤の原色を活き活きと経験するためには -- 高いΦを有する複合体という存在でなければならないということだ。その他に方法はない。もちろん、完全な記述は経験が何でありどのように生成されるかについての理解を与えてくれるが、記述は経験の代わりにならない。存在することは記述することではない。この論点が議論を引き起こすことはないと思われるが、それでも、意識の科学的説明に対する有名な議論があるから言及しておく価値があるだろう。その議論の典型は、23世紀の神経科学者メアリーについての思考実験である (Jackson, 1986)。 メアリーは、色覚に関する脳内過程のすべてを知っているが、生涯を通じて白色と黒色しかない部屋に住んでおり、これまで色を見たことがない。18 この議論では、メアリーは色覚に関する完全な知識はもっていても、色を経験するということはどういうことかということを知らない、ということになる。意識の経験についての知識には、脳内過程に関する知識から演繹することができない何かがあると結論される。だが、意識とは存在することであり知ることではないということが実感されるなら、この議論は力を失う。統合情報理論によるなら、存在するということは、自らの過去の状態についての情報を生成するという意味で、内側から「知る」ということを含意している。記述することは、そうではなくて、外側から「知る」ことを含意している。この結論は何ら驚くべきものではない。考えてもみてほしい。私たちは核分裂によりどのようにエネルギーが生成されるかについてはきわめてよく理解しているが、実際に核分裂が起こらない限り、いかなるエネルギーも生成されない -- どれだけ記述がされようとも、記述が存在の代わりになることはない。
脚注
13
宇宙のその他の場所にもそのように輝く物体はあるのかもしれないが、現在のところそれを裏付ける証拠はない。
14
原理的には統合情報の考え方を、量子情報も含むように拡張することができる。統合情報と量子の考え方の間には興味深い平行関係がある。たとえば次のことを考えていただきたい。 (i) 量子の重ね合わせとメカニズムの可能なレパートリー(ある意味で、メカニズムが作動する以前では、メカニズムは可能な出力状態のすべての重ね合わせで存在している)。 (ii) デコヒーレンスとメカニズムの現実のレパートリー (メカニズムが作動しある一定の状態に入ると、メカニズムは可能なレパートリーを現実のレパートリーに収縮する。 (iii) 量子もつれと統合情報(二つの要素を互いの独立を保ったまま刺激できない限りにおいて、二つの要素は情報的には一つのものである)。
統合情報理論の考え方と関係性量子力学 (Rovelli, 1996) によって提唱されているアプローチには合致する箇所がある。関係性のアプローチは、システムの状態は、別のシステムである観察者(あるいは同じシステムの部分である観察者)との関係ではじめて存在すると主張している。これに対して統合情報理論は、システムは自らの過去の状態を「計測」することができるという限りにおいては、システムが自分自身を観測することはできると主張している。もう少し一般的に述べるなら、統合情報理論にとっては、複合体だけが実在する観察者であり、任意の要素の集合がどれでも実在する観察者であるわけではない。一方、物理学は、情報が統合されているかいないかについて無関心である。
他の興味深い論点として、情報が保存され統合情報が明らかに増加することと、情報の有限性の間の関係がある(量子ビットの観点においても、ある物理システムに利用可能な情報量は有限である)。さらに一般的に述べるなら、物理学における情報のパラドックスの幾つかについて、内的視点、つまり、統合情報として考察することは有益であるように思える。内的視点と統合情報においては、観察者は観察対象と一にして同である。
[ 補注:奇妙なことに、原著論文では脚注の15と16は17の後(234ページ右側)にある ]
17
実在するだろうシステムに対して、完全な記述を行うことは実際上、無理であることを繰り返し述べることは有益であろう。
18
もっと適確に述べるなら、メアリーは前述の全色盲の患者のようなものであろう。さもなければ彼女は色のついた夢を見ることができるかもしれないからである。
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