2015年3月10日火曜日
「決めつけるな」
教育界では、最近どんどんと評価や効果測定が求められており、その度合は加速しているようにすら思えます。数ヶ月や数週間のプログラム、ひいては一時間の授業に対して、いくつかの観点が定められ、それらの観点での評価・測定を数段階の数値(順序尺度)で出すことが教師の重要な仕事となっています。それにより教育の成否がわかるというわけです。
教育の営みがいくつかの数値に還元されるなら、たしかに管理はやりやすいでしょう。というよりそれを管理と呼ぶならば、小学生レベルの読み書きと算数ができるなら誰にでも管理はできます。
しかし考えてみませんか。このような評価・測定と管理は誰のためなのでしょう。何のためなのでしょう。これらは学習者のためなのか?学習者の個性の育成のためなのか?これらははたして「教育的」なのか・・・
キリスト教聖書の有名な表現に "Do not judge, or you too will be judged." というのがあります。「人を裁くな。自分が裁かれないようにするためである」とも訳されますが、私は昔からこの句の意図するところがピンと来ませんでした。「裁く」という日本語が、少なくとも私の語感では日常生活でそれほど使われる言葉ではないからです。また、「自分が裁かれないようにするため」という表現は、いかにも弱腰に聞こえます。
しかし "judge" を「決めつける」と訳すと、それなりに日常倫理として納得できます。「人のことを決めつけるな。自分が決めつけられたら嫌だろう」。
人のことを決めつけてかかることは、たしかに人を萎縮させたり憤慨させたりします(差別とは集団的な決めつけのことです)。あるいは人を増長させ高慢にします(差別をする人間は、やたらと居丈高になります)。そうなると、決めつけること ―judgeすること― は、慎重にも慎重に行わなければならないことになります。どこからどう見ても揺るがないぐらいの根拠があったとしても、そもそも根拠そのものの価値も変わりえます(価値の変化は社会につきものです)。また、決めつけられた人とて変わりえます(変化し続けることが生命の一つの特徴です)。そうなると倫理的な原則として「決めつけるな」と言い切ってもいいのかもしれません。
3/7(土)と8(日)に休暇村蒜山高原で、第二回ゼミ合宿を行いました。私は学生さんのことを決めつけていたつもりはありませんでしたが、いかに彼ら・彼女らを浅くしか理解していなかったかと思わされました。よく「部下は上司を三日で理解するが、上司が部下を理解するには三年かかる」とも言われますが、たしかに教師という権力的な立場にいると、意図や自覚がなくても、権力的な見方ばかりをしがちになるのかもしれません。私は「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」という文章で、教師は、学習者や共同研究者や自分の無意識とは異なる機能をもちながらも、それらとは対等であるべきと書きましたが、そのことを自分はまだ十分に体得はできていないことを思い知らされました。
第二回ゼミ合宿も、第一回同様、いくつかのお楽しみ企画をはさみながらも、「自分が好きなこと・関心があること・こだわっていること」を発表することが中心でした。話題は、「自作PC」、「サッカー戦術」、「現代短歌」、「四国の旅」、「フェルメールの魅力」、「海釣り」、「ウィスキー」、「子どもを叱ることができる親と子どもと雑談する余裕を作れる教師」、「ヒッチハイクも含めた一人旅」、「自己分析」、「メタルギターのテクニック」など多岐にわたりました。
どれも分析が素晴らしく、かつ発表技術も高度なので、それらの話題のことをあまり知らない他のメンバーも本当に楽しめました。私は写真撮影について発表しましたが、正直なところ、発表のレベルとしては学生さんの発表の方が高かったと思います。それよりも何よりも、上に書いたように、私としては一人ひとりがこれだけ深いことを感じ考えていたのだというのが改めての驚きであり、教師としては反省した次第です。
この合宿の企画・準備・運営を引き受けてくれた修士一年の三人は大変な時間と労力をかけてこの合宿を成功させてくれました(疲れが残っていなければいいのですが)。本当に忙しいのに参加してくれた社会人(卒業生)の二人は、成長と成熟を後輩の前で体現してくれました。現役としては最後の参加になる修士二年の三名は、それぞれのスタイルで「さすが」と思わせる風格を示してくれました。学部四年生の二人は味わいのある個性を示してくれました。まだゼミ活動もほとんど始まっていないのに参加してくれた学部三年生の三人は、新しい風を吹き込んでくれました。彼ら・彼女らに心から感謝します。何名かのゼミ生が所用で参加できなかったのがとても残念でしたが、今後、また参加してもらえればと思っています。
若い人というのは本当に伸びるのだなと思わされます。また、若い人の潜在能力というのを教師は存外に見過ごしている、それどころか、不用意な「指導」でつぶしてしまっているのではないか、と怖ろしく思えてきます(これは本当に怖ろしいことです)。
教育界における評価や測定の流行が、「決めつける」悪癖の蔓延につながらないよう気をつけなければと思います。
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2 件のコメント:
偏差値、テストスコアなど世の中の評価数値はなんとなく枠組みの中に納まることを前提に作られているような気がいたします。変化の大きい時代では、枠を飛び出すような評価を自他ともに持つべきとの気がしております。たとえば、100点満点のひとづくりでなく、枠をこえた200点、1000点を認めるような評価があってもいい、、。
匿名さん、
コメントをありがとうございます。
教育を、工業やビジネスの論理で語り管理することがあまりにも当たり前になりすぎているように思えます。その違和感をことばにしなければと思っています。
2015/03/15 柳瀬陽介
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