2015年3月24日火曜日

JOPT科研シンポでの講演のスライドと配布資料



以前の記事でも予告しましたように、3月26日(木)に筑波大学東京キャンパス(丸ノ内線茗荷谷駅から徒歩2分)で開催される(科研(基盤研究A:日本語会話能力テストの研究と開発)に基づくJOPT (Japanese Oral Proficiency Test)シンポジウムで90分の講演をさせていただきます。


さきほどようやく講演のスライドと配布資料を完成させることができましたので、ここに掲載します。






ご参加の方は、講演前か公演中にスライドのファイルをダウンロードしていただければと思います。このスライドの印刷媒体は会場でお配りしませんが、配布資料に関しては、私が会場でお配りします。

岩波ブックレット『小学校からの英語教育をどうするか』でごく簡単にしか述べることができなかったことも、多少詳しくお話できるかと思います。この講演スライド・配布資料と合わせてブックレットをお読みいただければ、ブックレットで書ききれなかったことも多少はご理解いただけるのではないかと思います。

若干でしたら空席もあると聞いておりますので、もし参加ご希望の方があれば、JOPTサイトからお申込みの上、ご参加ください。










2015年3月11日水曜日

上山晋平 (2015) 『高校教師のための学級経営 365日のパーフェクトガイド』明治図書



  この本は急いで紹介する必要があると思いましたので、ここで簡単な紹介をさせていただきます(注)。この本のタイトルには『高校教師のための・・・』とありますが、中学校教師、そして大学教師にも有益な本です。大学教師の一人として私も学ぶこと大でした。これを4月になる前に読んでおいてよかったと思います。
 
  学校教育の要は、学習集団づくりです。個人学習でしたら、現在はさまざまなメディアで可能ですから、学習集団を単なる個人の集まりと考えると、学校教育などおよそ非効率とも考えられます。しかし多くの人が経験から知っているように、人は、よい仲間に恵まれたら、個人では考えられないような成果を出し得ます。そしてその成果はその仲間にもよい影響を与えます。
 
  学校は、学習者の立場からすれば、よい仲間に「恵まれる」かどうかという場所ですが、教師の立場からすれば、それぞれの学習者にとってのよい仲間を「作れる」かどうかという場所です。よい学習集団ができるためには、最初は教師の働きかけが必要です。そしていったんよい学習集団ができれば、後はその学習集団が一つの生命のように育ち、多様な成果を示し、教師を驚かせるということも、ベテラン教師なら熟知するところです。学習集団づくりは、農業なら土作りに相当するような非常に大切な仕事です。
 
  学習集団づくりのために大切なのは、もちろん4月当初です。学習集団をどのような方向に導きたいか、何が叱責の対象なのかなどといった所信表明で、学習者は教師の人間性をある程度見極めます。そして教師が、その所信を一貫して実行できるかどうかで、学習者は教師を信頼するかしないかを決めます。高邁な理想も、口先だけで実行できなかったら、学習者は教師をかえって軽蔑するかもしれません。有言実行が大切というのは、学校だけに限った話ではありませんが、若い人を導くためには特に大切かと思います。
 
  実行し続けるには、細かな工夫にみちた効果的なシステムが必要です。善意と良心だけでよい教育をしようとすれば、教師自身が疲労困憊するだけです。その点、この本は、教師としての理念と共に、教室現場に実に密着した工夫が多く紹介されています(私としてもも大変参考になりました)。忙しい教師も読めるように、うまく整理された本です。
 
  よいスタートは、その後の教師の苦労を激減させるだけでなく、その後の学習者の豊かな日々をもたらします。4月が始める前にぜひお読みください。
 
  詳しくは、明治図書のホームページを御覧ください。

 
  『高校教師のための学級経営 365日のパーフェクトガイド』


  この著者の上山晋平先生を私は10年以上にわたり存じ上げておりますが、どんどんと力をつけておられます。年齢は私よりずいぶんお若い方ですが、教育実践に関しては私の先生です。笑顔で担任教師・野球部部長・達セミ講師・家庭人などと多面的な活躍をされているところなど、本当にすごいと思っています。上山先生に限らず、優れた実践者はどなたも教育実践に関しての私の先生です。教育学部での私の重要な仕事の一つは、私がそういった先生方から学んだことを整理し分析し編集して学生に伝えることです。




 
 



(注)
   今年度私はたくさんのご著書を著者からご恵投いただきながら、そのどれに対してもこのブログで紹介できていません。誠に申し訳ございません。
   以前は、頂いた本にはそれなりの感想をブログに書くことを自分に対する義務、著者に対する礼儀としていたのですが、2012年晩秋のおたふく風邪以来、私はどうも体調が整わず以前のような調子で仕事ができないため、その義務と礼儀をはたしえていません。それどころか、今年度からは講座主任の仕事がさらに入ってきたので、日々の業務も遅れがちです。

  そういったわけで、ご著書をお送りいただいても、「これを読む前に、以前頂いたあの本を読まなければ・・・」と、感想どころか通読さえままならない状態です。既にご著書をお送りいただいた皆様には、ここで改めてお詫びします。また、もし今後私にご著書を送っていただくことをお考えの奇特な方がいらっしゃいましたら、残念なことに私は以前のようにブログでご著書のご紹介をすることができない可能性が高いことを予めご理解いただけたら幸いです。

2015年3月10日火曜日

「決めつけるな」



  教育界では、最近どんどんと評価や効果測定が求められており、その度合は加速しているようにすら思えます。数ヶ月や数週間のプログラム、ひいては一時間の授業に対して、いくつかの観点が定められ、それらの観点での評価・測定を数段階の数値(順序尺度)で出すことが教師の重要な仕事となっています。それにより教育の成否がわかるというわけです。

  教育の営みがいくつかの数値に還元されるなら、たしかに管理はやりやすいでしょう。というよりそれを管理と呼ぶならば、小学生レベルの読み書きと算数ができるなら誰にでも管理はできます。
  しかし考えてみませんか。このような評価・測定と管理は誰のためなのでしょう。何のためなのでしょう。これらは学習者のためなのか?学習者の個性の育成のためなのか?これらははたして「教育的」なのか・・・
 
  キリスト教聖書の有名な表現に "Do not judge, or you too will be judged." というのがあります。「人を裁くな。自分が裁かれないようにするためである」とも訳されますが、私は昔からこの句の意図するところがピンと来ませんでした。「裁く」という日本語が、少なくとも私の語感では日常生活でそれほど使われる言葉ではないからです。また、「自分が裁かれないようにするため」という表現は、いかにも弱腰に聞こえます。
 
  しかし "judge" を「決めつける」と訳すと、それなりに日常倫理として納得できます。「人のことを決めつけるな。自分が決めつけられたら嫌だろう」。
 
  人のことを決めつけてかかることは、たしかに人を萎縮させたり憤慨させたりします(差別とは集団的な決めつけのことです)。あるいは人を増長させ高慢にします(差別をする人間は、やたらと居丈高になります)。そうなると、決めつけること ―judgeすること― は、慎重にも慎重に行わなければならないことになります。どこからどう見ても揺るがないぐらいの根拠があったとしても、そもそも根拠そのものの価値も変わりえます(価値の変化は社会につきものです)。また、決めつけられた人とて変わりえます(変化し続けることが生命の一つの特徴です)。そうなると倫理的な原則として「決めつけるな」と言い切ってもいいのかもしれません。
 
 
  3/7(土)と8(日)に休暇村蒜山高原で、第二回ゼミ合宿を行いました。私は学生さんのことを決めつけていたつもりはありませんでしたが、いかに彼ら・彼女らを浅くしか理解していなかったかと思わされました。よく「部下は上司を三日で理解するが、上司が部下を理解するには三年かかる」とも言われますが、たしかに教師という権力的な立場にいると、意図や自覚がなくても、権力的な見方ばかりをしがちになるのかもしれません。私は「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」という文章で、教師は、学習者や共同研究者や自分の無意識とは異なる機能をもちながらも、それらとは対等であるべきと書きましたが、そのことを自分はまだ十分に体得はできていないことを思い知らされました。
  
 
 
  第二回ゼミ合宿も、第一回同様、いくつかのお楽しみ企画をはさみながらも、「自分が好きなこと・関心があること・こだわっていること」を発表することが中心でした。話題は、「自作PC」、「サッカー戦術」、「現代短歌」、「四国の旅」、「フェルメールの魅力」、「海釣り」、「ウィスキー」、「子どもを叱ることができる親と子どもと雑談する余裕を作れる教師」、「ヒッチハイクも含めた一人旅」、「自己分析」、「メタルギターのテクニック」など多岐にわたりました。

  どれも分析が素晴らしく、かつ発表技術も高度なので、それらの話題のことをあまり知らない他のメンバーも本当に楽しめました。私は写真撮影について発表しましたが、正直なところ、発表のレベルとしては学生さんの発表の方が高かったと思います。それよりも何よりも、上に書いたように、私としては一人ひとりがこれだけ深いことを感じ考えていたのだというのが改めての驚きであり、教師としては反省した次第です。


  この合宿の企画・準備・運営を引き受けてくれた修士一年の三人は大変な時間と労力をかけてこの合宿を成功させてくれました(疲れが残っていなければいいのですが)。本当に忙しいのに参加してくれた社会人(卒業生)の二人は、成長と成熟を後輩の前で体現してくれました。現役としては最後の参加になる修士二年の三名は、それぞれのスタイルで「さすが」と思わせる風格を示してくれました。学部四年生の二人は味わいのある個性を示してくれました。まだゼミ活動もほとんど始まっていないのに参加してくれた学部三年生の三人は、新しい風を吹き込んでくれました。彼ら・彼女らに心から感謝します。何名かのゼミ生が所用で参加できなかったのがとても残念でしたが、今後、また参加してもらえればと思っています。
 
  若い人というのは本当に伸びるのだなと思わされます。また、若い人の潜在能力というのを教師は存外に見過ごしている、それどころか、不用意な「指導」でつぶしてしまっているのではないか、と怖ろしく思えてきます(これは本当に怖ろしいことです)。
 
  教育界における評価や測定の流行が、「決めつける」悪癖の蔓延につながらないよう気をつけなければと思います。


2015年3月6日金曜日

柳瀬陽介・小泉清裕 (2015) 『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット)



昨日(2015/03/05)、20年間にわたって小学校英語教育を開拓してきた小泉清裕先生(昭和女子大附属昭和小学校)と共著で『小学校からの英語教育をどうするか』を出版させていただきました。出版の機会を得たことを心から感謝しております。


■ 第一の読者層:保護者・一般市民の皆さん

この本はブックレットという、多くの読者が手に取りやすい薄い小冊子(64ページ)ですから、わかりやすく書くことを徹底しました。英語教育の内部事情や言語学などの専門知識がなくても読んでいただけるように、内容をかみくだいて、できるだけ平易なことばで書きました。専門用語は時に大胆に言い換えて、わかりやすさを再優先させました。

専門概念の厳密さを損なわないように言い換えるのは必ずしも容易なことではありませんでした。その言い換えが成功しているかどうかは専門家の方々のご判断を仰がなければなりません。しかし、わかりやすいことばに「翻訳」する中で、少しは理解も深まり、単なる専門用語の解説ではない論考が展開できたのではないかとも思っております。

ですから、この本は、専門用語に関する生ぬるい啓蒙書や、既定の教育政策についての無難な解説書ではありません。民主主義国家での教育政策決定においてもっとも重要な役割を果たすべき保護者・一般市民の方々に、小学校から中学校・高校への英語教育のあり方についてよく考えていただけるように書いた本です。保護者や一般市民の方々が、政治家や教育行政者の言いなりになるのではなく、理にかなった要求をして、ともによりよい公教育を目指すことが私たち著者の願いです。

いや、この言い方は硬すぎるのかもしれません。子どもにとって一番近い存在である保護者の方に、子どもが育つために大切なことを見失ってほしくないというのが私たちの願いです。どうぞこれまで英語教育の本を読まれたことがない方も手にとっていただければ嬉しいです。


■ 第二の読者層:小学校教師の皆さん

この本は、わかりやすく書きましたので、英語教育にかかわる小学校の先生方(担任および管理職)や外部人材などの関係者の方々にもぜひ読んでもらいたい思っています。

小学校の先生方の少なからずは、実施しなければならない英語教育について途方にくれているというのが現実かもしれません。他の授業ではいきいきと活躍する先生が、英語の授業となった途端、借りてきた猫のようにおとなしくなり、自称「専門家」の意見にただただうなずき、「ご指導」を仰ぐといった場面があります。

しかし、小学校の先生方の自然な発想の方が、子どもが外国語を学ぶということについて適確であることは多くあります。自称「専門家」は、英語の習得過程についてたくさん論文を読んでいるかもしれません。あるいは、中高生や成人の英語学習についてさまざまな経験をもっているかもしれません。もしくは自分自身の「英語力」について、華々しい経歴をもっているのかもしれません。

しかし、そんな「専門家」も、現代日本の小学生という存在の実態についてはほとんど知らないことが珍しくありません。それゆえに、そういった「専門家」の「ご指導」が、小学校の実態に即していないことも残念ながらしばしばあります。

私たちの第一目的は「英語力の向上」ではないはずです。私たちが目指していることは「子どもの成長」です。子どもが成長する中で、それぞれの子が英語(外国語)についての理解を広げ習熟を深めることが私たちが願っていることではないでしょうか。

また、私たちは「小学生が、中高生や大人のように英語を学ぶこと」を目指してはいないはずです。小学生がその発達段階に応じて学びを広げ深めてゆくことが、私たちが望んでいることではないでしょうか。というより、小学生が本当に必要としていることではないでしょうか。

小学校教育についてもっとも深い理解をもつ人々は、小学校教師です。小学校教師の皆さんに、英語教育についてもっと自信をもっていただきたく思っています。薄い小冊子ですので、勉強会の資料としても使えるかと思います。英語教育に対して及び腰になっている小学校教師の方々、およびそんな教師をまとめてよい小学校を作り上げてゆかねばならない管理職の方々にこの本をぜひ読んでほしいと思っています。

実は発刊前に、何人かの小学校の先生(担任や校長職)この本の原稿を読んでもらったり、この本の趣旨をお話させていただきました。「よく仰ってくれました。ありがとうございます」や「誰かに言ってほしいことが、書かれています」といった肯定的な反応をもらい、著者としても間違っていなかったと思うことができました。

これまで英語教育についての本などほとんど読んでこなかった先生方も、英語教育の本を読むと同時に違和感も覚えてきた先生方も、本を読んだ末に「英語は他の教科とはまったく違うのだ」と思うにいたった先生方もすべて含めて、ぜひ小学校の先生方に読んでいただきたいと思っています。


■ 第三の読者層: 中高大の英語教育関係者の皆さん

最後の読者層は、中高大の英語教育関係者です。上で、中学校や高校の経験だけに基いて小学校英語教育に指図をすることの危険性を指摘しましたが、中高大の英語教育関係者には、その点だけにとどまらず、この本を読んでいただきたいと強く願っています。

この本のタイトルは『小学校からの英語教育をどうするか』となっており、中学校・高校と続く英語教育についてもかなり書いています。

あえて主張を単純化するなら、「小学校に、現在の中高の英語教育を押しつけてはならない。逆に、現在、小学校でわかり始めた学びの実態から、中高の英語教育を変革せねばならない」となります。現在の中高の英語教育の問題点を、「引用ゲーム」や「身体実感」といったことばから解明しようとしました。また、学習者や教師がおかれた社会的な要因を軽視して研究や政策を進めることの危険性についても書きました。

加えて、「グローバル化」や「エビデンス」など、教育界で最近過剰とも思えるほどに口にされることばについても書きました。これらのことばが指す実態は何で、それがなぜ重要なのかを、私たちは理解しているのでしょうか。理解しないまま、権力者がそれらのことばを振り回して命令を出す。中間管理職が「とにかくこうなっていますから」と力なく上意下達する。現場の人間が「一体何なんだ」と思いながらしぶしぶ命令に従う・・・もしこれが実態とすれば、一番の被害者は子どもとなります。

子どもを育てることは、日本にとって、いやどんな社会にとっても、もっとも大切なことです。間違えないで下さい。「英語力」を育てることでも、「グローバル人材」を育てることでもありません。それらは人間の成長と共に、自然と生じてくるものでしょう。子どもが情理をわきまえるようになり、一人の社会人として周りの人々と協力して、自他ともに幸福な人生を創りあげることこそが教育の目的ではないでしょうか。

英語教育を、小学校から考え直したいと私たちは考えています。そしてひょっとすると、それは私たちの社会のあり方について考え直すことにもつながるのかもしれません。

ブックレットという形態なので、何かと入手しやすいかと思います。ぜひお読みくださいますよう、お願い申し上げます。


岩波書店HP 書誌情報

岩波書店HP「編集部からのメッセージ」






追記

この本を書く際に、著者二人は編集者のNさんに本当にお世話になりました。常に適確な助言(時にダメ出し)を、忍耐強く懇切丁寧にしてくださったおかげで、この本は形になりました。Nさんの人間的な優しさを基盤としたプロフェッショナリズムがあってこそ、私たちはこの本を書き上げることができました。また、ゲラ原稿を読んで別の角度からのコメントをくださった編集部の方々にも御礼申し上げます。

著作というのは、著者だけの作品ではないということがよくわかりました。

すべての関係者の皆様に、厚く御礼申し上げます。