2013年9月30日月曜日

2013年度後期から私の授業ではポートフォリオ評価を導入します。




2013年度後期から私の授業ではポートフォリオ評価を導入することにします。学生の皆さんに、何よりも自分自身が学んだ実感をもってもらうことが目的です。

以下に、そのポートフォリオ評価の原理と原則について簡単に記しておきます。とはいえ、私自身はポートフォリオ評価の専門家でもありませんので、授業が進行するにつれいろいろと変更点も生じるかもしれませんが、それらはその都度訂正するとして、ここでは基本方針を書いておきます。




■ ポートフォリオとは何か

ポートフォリオ (portfolio)とは、もともと「書類入れ」を意味しますが、それが比喩的に使われ、教育の世界では学習者が学んだことを一望できるようにしたファイルなどのことを意味するようになりました。

ただし私は、ポートフォリオは、あくまでも学習者自身が編纂したものだとして規定します。教師が学習者のために、学習者の成果をまとめてあげてつくるものを私は意味しません。この意味合いでのポートフォリオの定義は、ポートフォリオは、「学生が、あるカリキュラムにおける自分自身の努力・進歩・達成を示すための学習成果を有意義にまとめたもの」("a purposeful collection of student work that exhibits the student's efforts, progress, and achievements in one or more areas of the curriculum" http://www.pgcps.org/~elc/portfolio.html) です。



このように規定するのは、下記をポートフォリオ評価の目的とするからです。



ポートフォリオ評価の目的


・自己指導型の学びを奨励する。

・自分が学んだことについての視野を広くする。

・学ぶことについての学びを促進する。

・教示されたことと評価することの接点を創り出す。

・学習者が、学び手としての自分自身の価値を見出す方法を提供する。

・学習者が、お互いに支えあって成長してゆく機会を提供する。

[Portfolio Assessment (http://www.pgcps.org/~elc/portfolio.html) のWhy Use a Portflio?を翻訳]




ですから、学生である皆さんが作る自分自身のポートフォリオには、学びの記録に加えて、以下の要素を必ず入れてください。



ポートフォリオ必須追加項目


・ポートフォリオ作成の際の内容選択の基準(Criteria for selection)

・このポートフォリオの長所を判断するための基準。(Criteria for judging merits)

・このポートフォリオにより自己省察が深まったことの具体的な記録。(Evidence of a student's self-reflection)

[Portfolio Assessment (http://www.pgcps.org/~elc/portfolio.html) のWhat is a Portflio?の一部を翻訳(意訳)]






■ ポートフォリオの具体的な作成法

私の(ほとんどの授業)では、授業の予習(理解した箇所と理解できなかった箇所の明示)と復習(振り返り)をWebCT (ただし2014年度よりBlackboard Learn R9.1 (Bb9)に移行とのこと)に書いてもらっていますから、それをポートフォリオ作成のための材料の一つにしてください。 加えて、随時学んだことをポートフォリオに追加してください。学びによって、授業以外の生活が変わったら、ぜひその具体的な記録をつけ加えてください。

なおWebCTシステムに投稿をする際は、いきなりWebCTシステム上に書き込むのではなく、いったんエディターやワープロで文章を完成させてからそれをコピーしてWebCTシステムに貼り付けてください。前者の方法ですと、誤って未完成原稿を投稿しあとで削除できなくなったりすることがありますし、後者の方法ですと、自分で文章をじっくり読んで推敲できます。後者の方法でお願いします。


・使用するアプリ

ポートフォリオは、標準的なアプリでしたらどのアプリ上に作成しても構いません。それを学期末の指定期日までにWebCT(またはBb9)に掲載してください。外部サーバーにポートフォリオを作った場合は、そこへのリンクを掲載してください。


・ポートフォリオ内容の精選

ポートフォリオの内容は、上記の「ポートフォリオ評価の目的」に即した上で、自分が特に定めた(同じく上記の)「内容選択の基準」に即して選んでください。

後に書きますように、皆さんが作ったポートフォリオは相互に読み合って評価することにします。ですから、きちんと内容選択をせずに、いたずらに長いだけのポートフォリオはマイナスの評価になります。「内容選択の基準」をよく考え、なおかつ、その基準を他人にもわかるように明記してください。

・自分のポートフォリオに関する自己評価

皆さんには、自分のポートフォリオに対して自己評価をしてもらいます。

A: 授業の目的を高度に達成しており、学びの深さ・広さの点で、クラス内だけでなく、外部にもこのポートフォリオを公開するだけの価値がある。(優秀作品は、実際に柳瀬のブログなどで公開します)。

B: 授業課題をきちんと遂行したという点で授業の目的を達成はしているが、学びの深さ・広さは、授業前に自分が予想した程度のものであった。

C: 授業課題を毎回きちんと遂行したとは言い難いが、単位取得のための最低限の勉強はしたと思われる。

D: 授業課題を適切に遂行したとは言えず、授業の目的を達成したとは言えない。

ただし、A~Cには、 +か-をつけることができることとします。つまり成績を上から下まで並べますと、

A+ > A > A- > B+ > B > B- > C+ > C > C- > D 

となります。


この自己評価を適切に行うためにも、上記の「ポートフォリオの長所を判断するための基準」を明確に記入してください。

このポートフォリオ作成は、ある意味で、就職などで必要になる自己アピールの訓練でもあります。自己アピールとは、ハッタリをかますことでもなく、マニュアル本にある「こう書いたら合格する」表現を切り貼りすることでもありません。冷静に自分を見つめ、その自分を社会的に公正な観点から評価し、良い所は良い(悪い所は悪い)として 、自分の資質や能力について他者に対して納得してもらうことです。(私見ですが、「品の良さ」には、「自分自身に対する適切な態度が取れること」が大きく絡んでいると思います)。就職活動の時になって慌てて自己アピールのやり方を学ぶのではなく、日頃のポートフォリオ作成から、自分自身に対する冷静で公正な判断ができるように学んでおいてください。


・ポートフォリオは他人との比較ではなく、過去の自分との比較のためのもの。

私はポートフォリオを、過去の自分と現在の自分の比較のためのものと規定します。ですから、最終成果が他人と比較して芳しいものでなくとも、自分自身での成長を感じたら高い自己評価を出しても結構です。しかし、その際には、上記の「自己省察が深まったことの具体的な記録」を特に詳しく書いてください。その際は単に量的な向上だけでなく、自分の内面(認識や思考)がどのように変容したかを丁寧に自己観察した上で記述してください。


・クラスのポートフォリオの中でのベスト5を決めてください(他者評価)。

全員のポートフォリオがWebCT(もしくはBb9)に掲載されたら、自分以外の提出ポートフォリオをよく読んで、その中でももっとも良かったとあなたが思う5つのポートフォリオを選び、その提出欄のコメント欄に選択の理由とメッセージを書いてください。他人の優れた点を具体的に見い出し、それを素直に表現し、他人を励ますことは社会生活でも大切なことです。他の人のポートフォリオは、よく読んでください(また、ポートフォリオ作成者は、このように他人から読まれることを予め織り込んで、読みやすく・わかりやすく・美しいポートフォリオをデザインしてください)。





・授業の総合評価は、自己評価と他者評価(ベスト5)に柳瀬の評価を加味して出します。

自己評価は卑下することもなく、一人よがりになることもなく行ってください(いたずらな謙遜や根拠なしの自己主張を避けてください)。

他者評価(ベスト5の選定)は、他の人が行っている他者評価に影響されることなく、自分なりの判断基準で評価し、かつコメント欄にその判断基準を明確に示してください。

柳瀬はそれらの自己評価と他人評価を最大限尊重しながらも、教員としての視点で評価を下し、最終的な評価を決定します。なお、その評価は合格(A~C)、不合格(D)の4段階です。




・S(秀)を取るためには、別に自主課題を提出してください。

ポートフォリオでは最高でAまでしか出しません。Sを取りたかったら(あるいはBをAに、CをBにしたかったら)、別に自主課題を提出してください。自主課題は、http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/blog-post_08.htmlに説明されているもの、あるいはそれに類したものでしたら結構です(課題設定に迷ったらご相談ください)。学期末までに提出してください。





・何よりも自分で読み返したくなるポートフォリオを作成してください。

最終的にあなたのポートフォリオには、柳瀬から何らかの評価が下されますが、それよりもはるかに大切なのが、自分で成長が実感できることです。自分の成長を、自分の身体でしみじみと感じられることが何より大切です。成長を実感できたら、そのポートフォリオは、自然と自分で読み返したくなるものであり、いつまでも残しておきたくなるものになると思います。そのようなポートフォリオを作ってください。

大学時代の教員や友人とは、やがて会うこともなくなるかもしれません。しかし、自分自身とは一生付き合い続けます。何よりも自分自身を納得させることを再優先してください。

皆さんの実り豊かな学びを祈念し、そのために私のできる限りの支援をしてゆきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。







ある卒業生からのメール ~「遠回りするとはどういうことか」



先日の「目標に向かって一直線に進むことのリスク」 ~ ある学部4年生の述懐 を読んだ卒業生がひさしぶりにメールを書いてきてくれました。そのメールから個人情報に関する部分を削除・編集した上で、このブログに掲載することをその卒業生が快諾してくれたので、以下に掲載します。学生の皆さん、どうぞご参考に。



*****




柳瀬先生、ご無沙汰しております。

卒業生の○○です。

私が暮らしている△△でさえ、記録的な酷暑の夏から急速に涼しい秋へと移り変わりつつありますので、盆地にある西条はなおさら気候の変動が大きいことと思いますが、いかがお過ごしでしょうか。

先生のブログを楽しみに拝読しております。

このたびのゼミ生の方の手記を読ませていただき、「遠回りするとはどういうことか」という具体的事例を自分になら示せるのではないかと、半ば自分勝手な判断ではありますが、感想を述べさせていただければと思いまして、メールさせていただきます。

学部生を終えようとしていた当時、私は「このまま自分は英語教師になっていいものか。全然経験が足りないじゃないか。」と自問自答、行き過ぎて自己否定を繰り返し、自己肯定感が異常に低下していました。

現に、私は学部4年生で教育実習に参加できず、たくさんの方々のご支援があって卒業論文を完成させることができ、なんとか卒業はできたものの、教員免許は持っていませんでした。

次の年に科目等履修生として、教育実習に参加、まだまだ体調や気分が不安定だったため、同じ班だった後輩たちや指導教官の先生方にも迷惑を掛けつつも、何とか単位を取得でき、晴れて教員免許を取得できました。

科目等履修生として教育実習がある時期以外の日々は、飲食店で朝から夕方まで、夜は塾や家庭教師でフリーターとして過ごしました。

そこで得た資金をもとに、次の年は英語力向上と環境を変えることによる体調改善を目論んで、また卒業論文でALTをテーマとしたことがきっかけとなり、10か月の間、日本語教師ボランティアとしてオーストラリアの私立学校2校で働く経験をすることができました。

私は大多数の大学生が通る道から大きく外れ、「英語教師を目指して大学で純粋培養され、そのまま教師になっていいのか」という学生時代の悩みを抱く理由はなくなりました。

しかし、科目等履修生の年、オーストラリアにいた年に、私は、大多数の同級生が進む道から外れていることへの劣等感や焦りのようなものを感じていました。

教員として1年、2年とキャリアを積み上げていく人、大学院生として忙しく研究に取り組み自己研鑽に励む人、厳しい就職活動を乗り越えて一般企業で働く人。

そういった道ではなく、日本ではフリーター、オーストラリアでは無収入だったわけですから。

「隣の芝生は青く見える」とはよく言ったものです。

日本に帰って来て、フリーターをしながら教員採用試験を目指そうと思っていたころ、高校時代に塾で教えていただいた恩師から学習塾を紹介していただきました。

アルバイトの面接の席で塾長から、「正社員で働いてみないか。教員採用試験も考慮してあげるから。」と言われ、先述の通り劣等感でいっぱいだった私は、社員として働き始めました。

まさかの中小企業勤務のサラリーマン生活スタートです。

塾業界は少数の大手を除いては大多数が個人塾であり、この塾長先生方はみなさん、とても実年齢からすると若々しく、40代まではまだ若手、50代で中堅、60代、70代でもバリバリ、中には80代でも現役の先生方がいらっしゃいます。

みなさん、総じて実年齢よりもずっと若々しいのが印象的です。

これは、日々子どもたちと接し続けているから感性が若いままでい続けられる、というのもあるかもしれませんが、一番大きな要因は、変化を恐れない姿勢だと思います。

たとえば、HPやブログ、SNSなどで60代、70代の先生方もどんどん情報を発信しています。

また、現在、塾業界では、未就学児童の幼児期教育、パズルを用いた能力開発、幼稚園までではほぼ全て英語を使った活動があるのに小学5年生になるまで学校で英語学習が行われないことに不安をもつ親御さんが多いというニーズから小学校低学年の英語学習、といったものがトレンドなのですが、そういったものにいかにチャレンジしていけるか。

学習塾は教員免許などなくても開くことができますから、最初はほとんどみんなど素人です。

でも、教材の販社 [柳瀬補注: 塾専用教材の業者が主催する研修会] や私立学校の研修会に参加させていただいたり、先進的な活動をされている塾に見学に行ったりしながら、手探りでなんとかしようと日々努力しています。

大手塾がブランド力も財力も持っていますし、個人塾は無数にありますので、必要とされなくなれば、いずれ淘汰される運命にあります。

学校がカバーしきれない部分を補う究極の隙間産業です。

隙間を見つけたらそこを埋める必要性を訴え、採算が合う範囲内でいかに質の高いサービスを提供するか考えます。

生徒に必ず声をかけてコミュニケーションをとり、困っていることを見つけたらその解決法を提案する、おせっかいを焼くことが仕事だと自分に言い聞かせています。

ほとんどゼロから、無数の失敗を乗り越えて今に至ります。

仕事に就いてから学ぶことというのがとても多いのですし、職業人として働く限り、いくつになっても成長しようとする不断の努力が必要です。

ゼミ生の方が学生の時点で幅広い経験をされようとする姿勢、それは働き始めたらとても重要です。

でも、それらに今手がつかないことを責めて負のスパイラルに陥るよりも、得意なこと、これまで3年半頑張ってこられたことをどんなに狭くてもいいから続けていただけたらと思います。

お話を伺いますところ、英語だけでなく小学校の教員免許取得にサークルにバイトなどで活躍されたとのこと、十分幅広いと思います。

少なくとも専門の英語だけは毎日のラジオ体操のように隙間時間でもできるようなことを続けたり、今すでにされているような、英語教育関連の書籍を次々と読んで引き出しを増やしたりといったことなど。

就職した後、引き出しから出す、すなわち授業で実践してみてうまくいかなければそこで反省し、改良を加える。

その繰り返しで成長していけると思います。

仕事を始めてからが勝負です。

消極的にならず、どんどん新たな挑戦をしてください。

失敗してください。

しっかり悩んでください。

大学卒業から10年ぐらいになりますが、教員をずっと続け、2校目・3校目の勤務校に進んだ人、修士課程を終えて教員を続けている人、博士課程を終えて大学に残っている人、私学や新卒で入った企業に勤め続けている人、は確かにいます。

でも一方でいろいろな人生を歩む人がいます。

校種を変えた人、教員採用試験を受けて私学から公立へ変わった人、学校から学習塾に移った人、学習塾から他業種の企業へ転職した人、公立の教員を辞めて海外で過ごし帰国後再び教採を受けて復職しようとする人・・・

そのきっかけも、仕事に悩んで、というのもあれば、結婚や子育てなど生活を考えて、というものなど、様々です。

大学で学んだ教育であったり英語であったりとは関係のない業種で頑張っている人もいます。

表に出さないだけで、みなさんそれぞれに苦難や悩みを抱えつつも、必死に生きているのだと思います。

私が教英で出会い、一緒に頑張ってきた人たちには、いい意味で、真面目に生きていらっしゃる方が多いと感じています。

たとえどのような道を進んでいるにしても、です。そのような人たちを見たりお話を聞いたりする中で、ひたむきに「目標に向かって一直線に進む」ことができる教英の環境は、後々の人生の幹となる部分を培ってくれる、素晴らしい環境なのではないかと思います。

たとえ大学卒業後すぐに教員になっても必ず苦難にぶつかります。

中には大学で学んだ知識で乗り越えられることもあるかもしれません。

でも、起こりうる多種多様な困難を克服するには、自分の持てるもので体当たり的に立ち向かうしかないと思います。

私も働きながら痛感することですが、ぶつかってみないと分からないことが世の中にはとてもたくさんあるのです。

どんなに能力があっても、また、どんなに努力を積み上げてきたとしても、運やめぐり合わせにより、思うような未来が待っているとは限りません。

どんなに頑張っていても正当に評価されなかったり、どう考えても自分が正しいのに理解してもらえず虐げられたり、といった環境的なものから、突発的な事故や病気、怪我といった肉体的なものなど様々な苦境が起こりえます。

歯を食いしばって耐えるのもよし、自分に合った環境に移るのもよし。

息切れしたら休んでもいい、潰れると思ったら逃げてもいい。

幸せになるためなら現状を、想定していた将来像を変更してもいい。

積み上げたものが崩れても、別の場所で他のものをもう一度積み上げればいい。

一番大切なのは生き続けること。

それが人生トータルで成長することにつながると思います。

「英語教師になる」という目標をもった人たちが集い研鑽しあう中で培った、一途に何かに取り組む根本的姿勢をどうか覚えていてください。

職業や生き方は私とはまったく異なりますが、今でも教英の先輩方、同級生、後輩たちの姿を直接話したり連絡を取ったり、またSNSで拝見したりするなかで、今でもたくさんの刺激と元気をいただいています。

また、学校訪問などで教英や広大教育学部出身の先生であるというそれだけで繋がりが深まる体験を何度か経験し、改めて、卒業してからそのありがたみを実感しました。

学校の先生になられるならば、なおさらそういった経験も多いことでしょう。

そんな学び舎である教英にいたことを、私は今でも幸せに思います。

以上、立場をわきまえない失礼な記述等ありましたらお詫びいたします。

拙文にて失礼いたしました。






2013年9月28日土曜日

「目標に向かって一直線に進むことのリスク」 ~ ある学部4年生の述懐



私の学部ゼミ生の一人に、とても感性に優れ、深く考えることができる人材がいます(彼と映画や音楽について話ができるのは私にとって、とても楽しみです)。先日彼と話をしていて、彼がこれまでの学部生生活について思うことをいろいろと語ってくれたので、私は「もしよかったらその話を文章にまとめてくれないだろうか。まとめることはあなたのためになるし、その文章を共有してもいいのなら、その文章を読んだ人のためになるし」と提案しました。

彼は快諾し文章を書いてくれましたので、ここに転載します(もちろん彼の許可は得ています)。文章は彼が書いたままですが、タイトルだけ「学生生活が残っている皆さんへ」から、「目標に向かって一直線に進むことのリスク」へと変えました。

学生の皆さん、どうぞご参考に。




*****



目標に向かって一直線に進むことのリスク



揺るがない一つの目標があるとして、それに向かって真っ直ぐ進み続けることは、非常に大切なことであると思います。事実、その結果自分の夢を叶え、大成している人は数多くいます。私も、大学入学時から「英語教師になる」という一つの目標を持っていました。他の道には目もくれず、一つの大きな目標に向けて、一直線に進んできたつもりでした。

しかし、私が後悔していることが一つあるとすれば、その「リスク」を自覚しないまま、目標付近まで辿り着いてしまったことにあります。そのリスクとは、「狭めること」と「閉じること」です。これにもっと早く気づいていれば、大学生活をより有益なものにできたはずなのですが、「時すでに遅し」です。

 私の大学生活は、まさに高校生の時に思い描いていた理想の通りでした。サークル、バイト、飲み、旅行等々、大学生としての生活は、本当に毎日が充実していました。

 もちろん、勉強面も充実していたと思います。周囲には、同じ目標に向けて努力し助け合える仲間や先輩・後輩もいれば、熱心に指導してくださる素晴らしい教授の先生方もいらっしゃいました。短期ではありますが留学もできましたし、良質で実りある教育実習も経験することができました。入学して3年半経った今でも、教英は英語教師を目指すには最高に整えられた環境であると自信を持って言うことができます。

私は、高校の英語の教員を目指してこの教英に入学しました。この最高の環境の中で、一つの目標に向けて整備された道を真っ直ぐ進んでいけば、必ず成長できると確信していました。本棚に英語や英語教育に関する本が増えると、夢に近づいているような気がして、誇らしく思うようになりました。
 
その一方で、教英に在籍しているだけで学びの範囲は英語や英語教育に限定されやすくなります。これが「狭める」リスクです。本やニュース記事も、読むのは英語や英語教育に関するものが主で、他の分野や一般的な教養は疎かにしてしまっていました。自分の場合、「勉強した感」と妙なプライドだけが積み重なっていきました。そんな奇妙な満足感が崩れたのは、自分の「専攻」について考えていた時のことです。

―語彙や文法知識の少なさ、英語のスキルなどを考えると、「英語専攻」とは自信を持って言えない。「第二言語習得論」「言語学」「教育学」などはどれも基礎的な授業や概論を受けたに過ぎない。「英語教育学専攻」が一番近い気がするが、それも未知なことの方が多い。他にも、「CLTってどんなもの?」「M. Berlitzって誰?」と聞かれても、即座に回答できない。自分は、大学で何を勉強していたのだろう―

この悩みの原因は、自分の怠慢が原因であることは明らかです。きっと頭のどこかで、「真面目な良い子」になって授業を受け、いい成績を修めておりさえすれば、いい英語教師になれると考えていたのだと思います。与えられたものだけで満足し、学んだことを深化させて理解したり、自分に足りないものを自ら補完したりする努力を怠っていたことを認めざるをえません。

しかし、それに気づいてからも購入する本は英語教育に関する本ばかりでした。これが「閉じる」リスクでした。せめて自分の専門ぐらいは知識を得ようと、それに没頭しようとすればするほど、他の分野に対する興味までも閉じてしまったのです。しかし、それらの本でさえも全て理解できる訳はなく、自信や学びに対するモチベーションは一層低下していきました。そして、次第に他への興味を閉じつつ学びの範囲を狭め、その狭い範囲の分野でも自信が持てなくなるというスパイラルに陥りました。最悪なことに、そのうちに、ぶれないはずだった「一つの目標」さえも揺らぐようになってしまいました。

初めにも述べたように、揺るがない一つの目標があるとして、それに向かって直進し続けることは、非常に大切なことです。しかし、万が一その目標がぶれてしまった時には、何に頼れば良いのでしょうか。これは個人的な意見ですが、そんな時に頼れるのは、実は「寄り道」や「回り道」の経験だと思います。私は、小学校免許も取得しようと、副専攻として初等コースの授業も受講してきました。しかし、少し前までは小学校教員になるつもりはほとんどなく、なぜこんな大変な選択をしてしまったのだろうと考えることもありました。しかし、小学校実習を経験し、小学校なりのやり甲斐を発見することができてからは、小学校の教員も新たな選択肢として考えることができるようになりました。同時に、小学校との比較を通して、当初の目標や、自分が「高校でやりたかった授業」を再認識することができるようになりました。

今まで自分は、「忙しいから」「興味が無いから」「目標に関係ないから」という言い訳をして、多くの寄り道や回り道を回避してきました。その結果、自分が成長する機会や選択肢を自分の手で狭めてきてしまいました。目標とそこに至るための整備された道のりが「絶対的かつ確実なもの」だという思い込みが、自分をそうさせてしまったのだと思います。確かに、寄り道や回り道は今の目標には直結しないかもしれません。しかしその経験は、自信に繋がったり、自分自身が成長する契機となったり、追い詰められた時に選択肢を広げる助けとなったりします。

もちろん、自分の専門を深めることも大切です。しかし、自分の経験から言うと、やはりそれに固執して自分の学びを狭めたり、興味を閉じたりすることは賢明ではありません。大学の4年間はあっという間です。狭めたり、閉じたりせず、どれだけ寄り道や回り道ができるか。それが後悔なく、学びの多い4年間を送る秘訣だったのだと、今強く感じています。






2013年9月25日水曜日

アルフレッド・クロスビー著、小沢千恵子訳(2003)『数量化革命』(紀伊国屋書店)のまとめを書いていたら、いつの間にか、大阪府教育委員会が、公立校入試で英検やTOEFLやIELTSのスコアを使うことを決定したことについて語っていた(汗)





なぜヨーロッパ文明はこれほどに近代世界で君臨したのだろうか ― この問いは、さまざまな研究者によって答えられてきたが、この本の著者クロスビーもこの問いに答えようとする。彼はその答えを、『史上最悪のインフルエンザ 忘れられたパンデミック』ではヨーロッパ人が世界各地にもたらした生物学的影響に、『飛び道具の人類史―火を投げるサルが宇宙を飛ぶまで』では武器に求めるが(注)、三部作の最後となるこの本『数量化革命』では、西ヨーロッパ人の思考様式に求める。科学とテクノロジーもこの思考様式あってのことである、と著者は考える(9ページ)










(注) 病原菌と武器という二つの要因については、ジャレット・ダイアモンドも『銃・病原菌・鉄』で主題として取り上げている。





ヨーロッパの思考様式を大きく変えた時期は、1250年から1350年の間、おそらくは1275年から1325年の50年の間と著者は推定する。この間に、機械時計や大砲が作られ、ポルトラノ海図、遠近法、複式簿記などが出現したからだ。この50年間以上の革命的変革の時代は、ラジオ、放射能、アインシュタイン、ピカソ、シェーンベルクらが出現した20世紀初頭まではなかったと著者は言う (34-35ページ)。この革命的変化の原因を解明することは「気が挫けそうになるほど難解なテーマ」 (71ページ)である。

以下は、この本の私なりのまとめだが、「気が挫けそうになるほど難解なテーマ」を、簡単に整理してしまった私のまとめには偏りや誤りが含まれているに違いない。だから興味をもった人は少なくともこの本を読むべきだろう。また今回はこの本の英語原書を参照することもしていない。以下を読む方はそれを十分にご理解いただきたい。



なお■印からの記述は、この本のまとめであり、⇒印からの記述は、私の蛇足である。くだらない追加の上に、偉そうな教師口調になっていることはご勘弁ください。





■ 以前のヨーロッパの思考形式

著者は、近代世界を席巻したヨーロッパの思考様式を「新しいモデル」と呼び、それ以前の思考形式を「敬うべきモデル」と呼んでいるが、その敬うべきモデルでは、現実世界が本質的に不均質であることを説明しようとした(41ページ)。区分した時代も、それぞれの時代は質的に異なるものとみなされていた (47ページ)。

時間においても、中東の1日24時間 (うち、昼間が12時間 『ヨハネによる福音書』11章9節)をそのまま受け継いだものの、赤道よりかなり北方に位置するヨーロッパでは昼と夜の長さは年間を通じて大幅に変わる。したがってヨーロッパ人は、一日を昼と夜に区分した上で、それぞれを12等分して時刻を定める不定時法を採用した(つまり、一時間の長さは季節によって、また同じ日でも昼夜によって違うものとなった) (51ページ)。時間は、太陽の位置や教会の鐘で知ればいいだけのものであった。

また、加算、減算、除算の記号も、等号も平方根を表す記号も当時はなく、数字ももっぱらローマ数字が使われた。ローマ数字は計算するときには、標記が長くて読みにくく面倒なので、計算をする際には計算盤(アバクス)を使用した (63ページ)。

⇒この本では数量化による「新しいモデル」を主題として扱うため、どうしてもほとんど質的な思考だけの旧来のモデルを批判的に扱うが、現代の私たちの課題は、どう数量化モデルと質的モデルを共存させるかであろう。





■ 数量化の加速

やがてヨーロッパには、旧来の三層構造 (農民、貴族、聖職者) の枠を突き破って、新しいタイプの人々が現れはじめた。彼らは都市の住民 (ブルジョアジー)で、商人や法律家や写学生などであり、おおかたの貴族や聖職者よりも読み書き能力と計算能力に秀でていた。これらの人々の多くは、自然の力を利用した動力機械で富を築いた (75ページ)。次第に旧来の特権階級も彼らなしには文明生活が送れなくなってきた。(78ページ)。

新しいタイプの人々は、しばしば商業活動に動機づけられ、正確さと物理的現象の数量的把握、そして数学を重視する「新しいモデル」の思考形式を発達させた(82ページ)。

やがて大学ができはじめ、スコラ学者が台頭したが、彼らは本の題目をアルファベット配列で図書目録を作ること、書物の内容を小分けにして目次として表すことなどを始めた(88-89ページ)。本を題目のアルファベット順に並べることなど、当たり前のことのように思えるが、それまでは本は内容の重要度によって並べられていた。当然のことながら、重要度の判断は難しいので、誰でも配列できるアルファベット順というのは画期的だった。

しかし、数量的な思考形式を普及させたより重要な原因は、やはりお金の普及であろう(95ページ)。お金は確かにローマ帝国でも使われていたが、揺籃期の西ヨーロッパではそもそも交易があまり行われず、その多くが物々交換であり、金属貨幣はそれが含有する金属の価値以上の抽象的な価値をほとんど有していなかった (96ページ)。

しかしやがて商業と都市が発展すると、自治都市や国家が金属貨幣を作り始め、西ヨーロッパは現金を使う貨幣経済に移行した。このことは、あらゆる品物がただ一つの基準に還元されるという認識をもたらした。さらには品物だけでなく、奉仕や労働の義務も金銭で代替できるようになると、時間にも価格がつけられると考えられるようになった (97ページ)。

⇒題目の重要性ではなく、題目の頭文字で目録を作るという抽象的なシステムは、その抽象性(あるいは無意味性)により、誰でも目録を作成し利用することを可能にした。現在も私たちはこのアルファベット順を利用しているが、コンピュータにより、これにタグをつけたり相互リンクをつけたりなどして、アルファベット順の無意味な配列に、意味あるつながりも加えようとしている。GoogleのKnowledge Graphは、機械が自動的に人間の知性に近い意味体系を作ろうとしているすごい技術である。






また、数量化を進行させたものとしてやはり貨幣を使用する経済活動を忘れるべきではない。私たちはもっと真剣に貨幣という媒体の特徴と帰結について考えるべきだろう。

関連記事

マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/blog-post_14.html

モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/20121993.html





■ 時間

機械時計の登場により、均等な時間が普及したが、これは労働者に賃金を払う資本家に歓迎されたと思われる。これで昼の時間が短くなり、不定時法によりすぐに時が経っていた冬季でも、資本家は、なされた労働量以上の賃金を払わずに済むようになった。ドイツ では1330年に、イングランドでは1370年頃に定時法が採用されるようになった。 (112ページ)。現代式の統制された労働時間は、14世紀前半には出現したことが記録に残っている (117ページ)。

⇒私たちは、例えば「沖縄時間」などを、いい加減すぎる時間感覚の例として取り上げるが、「適当」に集まったりする方がよほど人間的であるように私には思える(というより電波時計を常用しなければならないと思い込むぐらいに、時間に縛られている私は、個人的にはそのような時間感覚に憧れている)。むしろ機械時計に支配されて、30秒でも開始時間が遅れれば大騒ぎになるため、監督官が複数の電波時計で時間管理をしているセンター試験などの時間感覚の方がよほど異常と考える(あるいは感じる)べきではないのか。





■ 空間

旧来の地図は、キリスト教の神や異教の神々あるいは怪物にまつわることばや絵がちりばめられたものだったが、1296年に羅針路を引けるような実用的な沿岸航海図(ポルトラノ海図)が作られた。この海図は、狭い海峡を短距離で航海する限りは十分実用に足るものであった (130-131ページ)。

コペルニクスが地動説で空間概念を一転させたことは周知の通りであるが、重要なのは彼が主に数学によって自分の論理を表現した科学者だったということである。数学により結論を導き出すのは、プトレマイオス以来、約千年間にわたってないことであった (139ページ)。

⇒長距離航海にはふさわしくないポルトラノ海図は、やがて16世紀からメルカトル図法にとって変わられるが、メルカトル図法の作成には数学が不可欠である。





■ 数学

計算盤には、途中の計算記録が残らないので検算ができないといった欠点があったが、インド・アラビア数字をつかった「筆算」で、計算の全過程を書き残し検算もできるようになった。以前は計算結果はローマ数字で書き、計算過程は計算盤(アバクス)で表現されるだけであったが、もはや計算結果も計算過程の数字と同じインド・アラビア数字で記されるようになった (129-131ページ)。+と-の記号は、1489年にドイツで印刷された書物に初めて登場した (136ページ)。

数学がより普及するにつれ、数字の意味合いが変化し始めた。数字は、量だけを表し、いかなる質も表現しない記号であり、それゆえに汎用性と有用性があるものとみなされはじめた (161ページ)

⇒筆算とは、計算の過程を書き残すことができるので、計算間違いを正すことができるということを私たちは当たり前のこととしているが ―あるいは長い計算を電卓でなく表計算ソフトでやると、途中の間違いを正すことができることを考えてもらってもいい―、こと文章を書くことについては、まだいきなりワープロに文章を書き付けて、思考と執筆の過程を記録しないままに、完成品を作ろうとしている人は多い(学部生はほとんどがそうだろう)。

学生のために老婆心で述べると、文章執筆も、筆算と同じように、思考と執筆の過程を残すべき。私は、論文などを書く場合は、だいたい以下の過程で行う。

(1)メモやノートやPC上のファイルにとにかく情報やアイデアを書きつける

(2)パワーポイントなどでマインドマップのような図を書く

(3)アウトラインプロセッサーで論の流れを作る

(4)書きやすいテクストエディタで下書きをする

(5)読みやすいワープロに下書きをコピーして推敲する

(6)さらに読みやすいようにワープロ原稿を印刷してペンで推敲して、それを最終原稿に反映する



私は、それなりにきちんとした文章を書こうとすると、こうしないととても書けない。ブログ記事でさえも(3)と(4)のステップは欠かせないぐらいだ。もちろんこれらの過程は次々に進むのではなく、(1)から(5)のそれぞれの過程(特に(2)と(3))で、私は何度も考え直し書き直す(配列し直す)。そうやって私は自分の思考の「検算」をしている。私は大した論文はまったく書けていないが、論文執筆で一番苦しいし時間もかかるのは(2)と(3)だ。

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まとまった文書の作成法
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コンピュータ上で「思考」をするために
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/11/blog-post_03.html

また、数字という媒体、およびその数字を扱う数学という体系は、これ以上もないほど抽象的で形式的であるがゆえに、汎用性と有用性があり、何よりも面白いものであることは、数学者にとって当たり前のことであるが、私のように数学で落ちこぼれた者はなかなかわからないことだろう。数学教師は、数学の「面白さ」をぜひ、数学嫌いにも体感させるような工夫をしてほしい。

私は遅まきながら、名著『虚数の情緒』を少しずつ読んでいるが、ゆっくり考えながら読むとやはり面白い。といっても、なかなか時間と気持ちの余裕が得られず、まだ三分の一ぐらいしか読んでいないけれど(泣)。









■ 読み書き能力

鉄筆や羽ペンで情報を伝達したり記録する習慣は、13世紀に急速に普及した 。これにより聴覚文化から視覚文化へと大きく変わり始めた (178ページ)。14世紀初期までには新しい筆記体、単語を区切って書くこと、句読法が考案された。やがて黙読という視覚だけに頼る習慣が普及した (181ページ)。

視覚文化をより普及させたのは、作曲家、画家、会計係である。彼らは実際的な仕事を、視覚的かつ数量的に表現した (183ページ)。

⇒聴覚ではなく視覚により知識を伝達することは、もはや当たり前のことのようにも思えるが、これだけICT機器が普及し、情報の複製や加工が容易になっているのに、まだ聴覚中心で視覚情報は(時間のかかる)黒板だけという授業が多いというのはちょっと信じがたい。

最近話題になっているのが、反転授業Flip teaching (or flipped classroom)で、その考え方だと、講義ビデオは学習者が事前に(あるいは任意に)見ることとして、学校で学習者は教師や他の学習者と語り合って理解を深め興味を発展させるが、メディア生態学 (media ecology) からすれば、これが当然の流れのように思える。

従来は読み書きメディアが潤沢でなく(印刷本はやはり高いしかさばるものだ)、それゆえ書記言語の読み書き能力の普及にも自ずと限界があったと考えられる。だから教育の主眼は読み書き能力に置かれたのかもしれない。

だが、ICTの発展によりメディアは、書記言語も潤沢に供給することができるようになり、さらには視聴覚的な口頭言語もどんどんと供給できるようになった。加えてSNSなどでメディアの相互連関性も増し、今や書記言語も含めた情報はありすぎるぐらいである。

そうなると読み書き能力は、教育の主眼でなく、もはや前提となり、今後は読み書き能力を踏まえた上で、他人とコミュニケーション的に協働できる力、および、そのコミュニケーションを欲する知的感性が教育の主眼となっていくべきなのではないか。

関連記事

メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性と複合性 (HTML版)
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たまたまNHKの「スーパープレゼンテーション」で見た下のビデオ(Mitch Resnick: Let's teach kids to code)などを見ても、教育は根源的に変わりうるし、変わるべきではないのかとも思える。








■ 音楽

旧来、聖歌は口と耳だけで伝承されるものだけだったが、信仰を普及させるため、聖歌はネウマ記譜法で書きとめられるされるようになった。早くも860年には、伝統的旋律の上にもう一つの完全平行な旋律が書き加えられたが、これはポリフォニーを生み出す道を切り開くものであった (194-195ページ)。言い方を変えると、作曲家は、時間とともに変動し消え去る音の流れを、その細部にいたるまでコントロールする術を獲得したのである (207ページ)。

⇒よくヨーロッパ中世は「暗黒の時代」などとも呼ばれるが、中世音楽のポリフォニーを聞いていると、むしろ近代音楽のホモフォニーの方が単純に思える。私は楽器は何もできなくてただ音楽を聞いているだけのオタクだけど、クラシック音楽も30年ぐらい聞いていると、近代のホモフォニーの旋律と和声の関係は少しはわかるようになってきた。でも、中世のポリフォニーの複数声部の関係をきちんと味わうことはまだまだできていない(また、オーディオ装置もそれなりのものでないと複数声部の聞き分けは難しい)。ギヨーム・ド・マショーパレストリーナの音楽なんて、すごいと思うけれど、こういった高度な音楽の発展も、記譜法により、音を対象化・可視化し、音を操作性することによってはじめて可能になったといえる。










ちなみにバッハのブランデンブルグ協奏曲は、時に通俗名曲のように扱われるけれど、ポリフォニー性を強調した演奏を聞くと、すごい音楽だと思える。



ちなみに私はこのガーディナーによるCDをノルディックサウンド広島で、知り、購入しました。私にとってこのお店は、本当に魂のための泉のような場所です。





■ 絵画

中世の絵画では、複数の「現在」が同じ絵の中に描かれている場合も多かった (217ページ)。だが光学や代数や建築などの利用で遠近法が普及し始めた。

私たちが写実的 (realistic)という場合、それは幾何学的に正確で、地図の代わりにも使えるということを意味しているが (244ページ)、これはもちろん遠近法に基いている。

⇒小学校に行くと、二年生ぐらいまでの絵はとても面白いが、学年が上がるとだんだんと「大人」が書くような絵になってくる。私たちは「大人」のような絵画こそが、正しい表現だと信じて疑わないが、こういった表現法も私たちが学習したものであって、唯一の表現法でないことは子どもの絵画や画家の表現を見ても明らか。

ただ、「大人の」描き方が、おそらくはもっとも(上記の意味で)「実用的」なのだろう。ただしこの場合の「実用的」とは、万人に理解可能・利用可能な標準的な「実用」を意味する。私たちの「大人」の文化とは、「こういうことになっている」という標準化への強烈な圧力によって構成され維持されているのだろうか (中二病的考察www)。





■ 簿記

複式簿記が導入される前は、商人は取引で「バベルの塔にも比すべき混乱」にあった (259ページ)。複式簿記は、商業で広く使われたため、哲学や科学以上に世の中の認識を広く変えた (279ページ)。

⇒簿記ではないが、私のような人間の行政仕事でも複数のプロジェクトが同時進行すると、やらなければならないことのリスト、それぞれの重要度・締切・進捗状況などをわかりやすい表形式にまとめていないと、とてもやりきれない (表で整理しても、時にハゲる (爆))。逆に言うと、近代生活の生産性は、このような表管理を前提としているから、近代生活でお金を稼ごうと思うと、必然的にこのような視覚的管理法に慣れざるを得ないと言えるのではないか。





■ まとめ

ヨーロッパで発展し、近現代世界を席巻している思考形式は、次のようにまとめられる (289ページ)

(1) 考察する対象を、その本質を示す最小の要素に還元する。

(2) その要素を、均一な単位量に分割する。

(3) 分割した単位量の数を数える。

(4) この数量化は単純化や誤差を伴うが、言語的な表現より正確であるので、数量化により厳密な考察や実験が可能になる。

(5) 数量表現は、言語表現と異なり、言語使用者の思惑から独立されるので、その数量を出した人間の思い込みからも自由な推論が可能になる。

(6) 数量化により、現実世界の認識と法則化、さらに現実世界の操作が可能になる。



つまり、数量化とは、現実を人為的に操作する認知枠組として優れており、これによりヨーロッパ人は「正確さ、時間の秩序、計算可能性、規格性、官僚性、厳正さ、一定性、緻密な整合性、日常性」を獲得した。いうまでもなくこれが現代文明の「合理性」である (291ページ)。



⇒上のまとめをさらに私なりに翻訳すると、(1)は要素還元性、(2)は単位分割性、(3)単位計測性、(4)と(6)は数量操作性、(5)数量共有性、と言い換えることができる。

つまり、西洋近代の「合理性」 (rationality)とは、連続して変化してやまない現実を、次のような認識論 (epistemology) で対象化し、操作可能にしているとも言えるのではないか。

(a) 「要素」という観念で分解・分断し、その合計が全体だとする。 (要素還元性)

(b) 要素をさらに「単位」という観念に合わせるように、細かな違いは繰上げ・繰下げて、あるいは無いものとして、分割する。 (単位分割性)

(c) 近似値として得られた単位の量をさらに比較して、その比 (ratio) をもって計測となす。 (単位計測性)

(d) 現実を、要素の単位量の比の関係で考察することにより、現実を単純な数量モデルで表現することができる。その数量モデルに基いて、現実を切り分け対象化し操作する。 (数量操作性)

(e) 数量は、要素による分解と単位による近似化と計測化を共有する人々にとっては共通のものとみなされるので、数量モデルはそれらの人々に共有され利用される。 (数量共有性)


(c)から、わかることの一つは、西洋の「合理性」 (rationality)とは、まさに「比」 (ratio)で考えることに他ならない、ということだ。そのように「比」で考えるためには、「要素」と「単位」という観念の枠に、現実を振り分け。押し込めなければならない

その認識論と操作の文化を共有することで、高度で大規模な共同作業を可能にし、世界を大きく変えたのが西洋近代なのだろう。



著者は、フランシス・ベーコンのことば (1605年)を引用しているが、それがこの「数量化革命」を的確に表現しているので、ここに再掲する。



自然哲学に属する諸学問が考察する事象の多くは、数学の助けと仲介なしには、十分こまかい点にいたるまで発見されることもなく、十分明らかに証明されることもなく、十分たくみに実用に供されることもない。そして、このような数学の助けと仲介を受ける学問には、遠近法、音楽、天文学、宇宙論、建築学、機械工学などがある。 (285ページ)




こうしてみると、やはり西洋近代の"The measure of reality" (本書の原題)という認識論は偉大なる文明であることが再認識できる(まあ、難しいこと言わずとも、コンピュータを使って車に乗るだけで、そんなことはすぐにわかるのだけれどwww)。





*****






しかしその偉大さを十分に認めた上で、さらに駄弁を重ねてみる。

西洋近代の「現実の計測」 (The measure of reality)は、要素分割の妥当性と単位の精密性を前提としている。

要素分割の妥当性とは、現実をその要素に分解することが、現実認識として適切かどうかということだ。要素分解の後に、多くの重要な現実の側面が残っていてはいけない(さもないと「現実」を近似的にでも復元することができなくなる)。

単位の精密性とは、あまりにも単位が粗すぎたら、単位量による数量化が、現実の表現とは言いがたくなるので、単位を十分に細かなものにしなくてはならないことを意味する。早い話が、何百万画素のスクリーンの代わりに、数十画素のスクリーンで見るならば ―モザイク画面を考えてもいいだろう― 私たちは何が写されているのかわからない。また、単位があまりに荒いと、繰上げと繰下げの幅が大きくなり、同じ単位量の二つのものが同量であるとは言いがたくなってくる(トン単位の計測器では、私たちはみんな同じ体重だろう)。

この要素分割の妥当性の前提によって失われている(少なくとも失われがちである)のが、要素の関係性 (現実の全体性)である。現実を要素に分解してしまって、それぞれの要素を独立のものとして扱えば、現実にあるはずの要素の関係性が見失われる。もちろん複数の要素の関係性を数量的に表現することは可能だが、それでもその要素が十分に現実を代表するだけの数がなかったら(別の言い方をすれば枚挙しているとは言えないなら)、その関係式は、現実の全体性を見失ったもので、現実の反映とはとても言えない。

また、単位の精密性の前提がさらに前提していることは、その単位を計測する方法(機器)が標準化されていることである。計測器は校正されなければならない。





さて、ここで言語テストについて考えてみる。「コミュニケーション」を測定すると称されているテストは、そのテストで「コミュニケーション能力」をいくつかの要素に分解する。ただし実際には測定コストがかかりすぎるといった現実的な理由から、スピーキングやライティングが排除されている場合も多い。スピーキングが取り入れられたとしても、しばしば、それはモノローグの形でのスピーキングをテストしているだけであり、相手の出方次第で適切に変化しなくてはならないインタラクションの力をテストはしていない。ここで、そもそも私たちはコミュニケーション能力(あるいは英語力)を、四技能で分けるという要素還元について健全な疑いをもつべきだろう。

関連記事

Bachman and Palmer (2010) 'Describing language use and language ability' in "Language Assessment in Practice" (OUP)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/11/bachman-and-palmer-2010-describing.html

「四技能」について、下手にでなく、ウィトゲンシュタイン的に丁寧に考えてみると・・・
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/11/blog-post.html



仮に四技能への要素還元を認めるにせよ、それぞれの技能内での要素設定という問題が残っている。どの要素とどの要素をもって「リーディング」とするのか、といった問題だ。これは計測に関する技術的な問題ではなく、何をもって「リーディング」とするかという観念に関する問題 ―多くの人が嫌う言い方をすれば哲学的な問題― だ。

これらのことを考えると、「コミュニケーション能力」のテストとは、現実のコミュニケーション能力の実態を忠実に反映しているものではなく、まあ、それなりに、多くの人から異論が出ないぐらいに要素と単位を設定して数値を出したものと言えるだろう。たとえに過ぎないが、身長と体重だけを測って、運動能力がどのくらいあるかを推測しているぐらいのものではないか 【もちろん身長と体重だけで運動能力が十分に推測できるわけなどない】 (しかし、現実問題としては、手間を省くため、力士やプロ野球選手の選抜ではこういった単純な測定を一次試験としている)。テストの点数とはそのぐらいのものだと認識して利用すべきではないのか。

たまたま今日知った報道によると、大阪府教育委員会は、英語の4技能を測定する指標として、英検、TOEFL、IELTSを選び、「これら3つの検定試験について、独自の指標を設定。満点を100とした場合、英検では準1級を100、2級を80、TOEFLではiBT60点を100、50点を90、40点を80、IELTSではバンドスコア6を100、5.5を90、5を80とみなして、入試の英語得点と比較し、高い方を採用する」という(http://resemom.jp/article/2013/09/24/15300.html)。

ある意味、「いいかげん」な点数化のように思えるし、大阪府の入試と英検・TOEFL・IELTSの相関性(併存的妥当性 concurrent validity)についてのデータが(おそらく)ないのは致命的かもしれないが、もし上記の点数化が、それなりに併存的妥当性のデータがある(はずの)標準化された試験(英検・TOEFL・IELTSやそれらに類する試験)の間で行われるというのなら、私はこれはそれなりに「現実的」なやり方だと思う。

もちろん、そうなると各種試験を数多く受けるだけの金銭的余裕がある生徒が有利になるなど、別の意味で「現実的」な問題が生じてくる。これは大問題で、小さい頃貧乏だった私としては看過できないが、この問題はここでは扱わないことにする(扱い始めると議論が拡大して収集がつかなくなってしまう)。

つまり、私がここで言おうとしているのは、

英語コミュニケーション能力(あるいは英語力)の標準的なテストとは、現実のコミュニケーション状況での対応力を測るテストとしては、力士がどのように相撲で活躍できるかを推測するために行う身長と体重の測定や、選手がプロ野球でどのように活躍できるかを推測するために行う50メートル走と遠投の測定、と同じような妥当性と信頼性をもつ実現可能性の高い 【あるいは低い】 テストである、とぐらいに考えるべきではないか、
ということである。

また、つけ加えて言いたいのは、

テストを一種類だけに限定するのは、そのテストの要素還元性・単位分割性・単位計測性だけに依存してしまうことである。それは現実を著しく歪めてしまう恐れがあるから、テストはできるだけ多種多様である方がよい。もちろんその多種多様性は、妥当性に関する観念的な(哲学的な)考察に基づき、かつ併存的妥当性を始めとしたデータをそれら複数のテストに関して蓄積することを前提とした上での多種多様性である。言ってみるなら、私たちはコミュニケーションのテストに関して、もっとコミュニケーションをしなければならない。


関連記事
コミュニケーションのテスト、テストのコミュニケーション
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/Luhmann.html#080204







このブログ記事は、『数量化革命』のまとめとしては、上にも書いたように、それなりにアウトラインを決めて書いたのだが、最後に「さらに駄弁を重ねてみる」と書いてからは、アウトラインも決めずにどんどん書いてしまった(←自ら教えることを自分で実行しないダメ教師の例 汗)。その箇所からの論には揺れなどもあるだろうし、後日修正しなければならないところもあるかもしれないけれど、本日はとりあえず試みに書いた文章(エッセイ)としてこの文章を掲載しておくこととする。馬鹿は書いて失敗をしなければ自分がどのくらい馬鹿であるか、わからない。お粗末。









追記

誤解のないように書いておくと、私は「大阪府教育長・中原徹氏の英語教育改革論を、英語教育界は無視できないし、無視するべきでもない」という記事も書いたし、上でも大阪府の方針に対してどちらかといえば肯定的なトーンで書いたが、そうだからといって、私が中原徹氏の個人的なシンパであるわけではない。私は是々非々のスタンスを貫いているつもりだ。だから、各種試験を受けるための金銭的負担については、上にも述べたように、問題だと考える。


追追記 (2013/09/30)

ひょっとして私の上の文章を誤解している人がいるかもしれないと思え始めたので 【 】の箇所を補った。



その後加わった関連記事

全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/blog-post.html
科学者の見識と科学の限界の可能性について ―E. O. ウィルソンの『人間の本性について』から考える―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/e-o.html

2013年9月20日金曜日

「言語教育と生きること」 (10/27(日)全国大学国語教育学会ラウンドテーブル 会場広島大学)





標記のラウンドテーブルに話題提供者の一人として登壇します (10/27(日)全国大学国語教育学会 会場広島大学)。国語教育、日本語教育、英語教育の登壇者が、それぞれの立場から、しかしそれぞれの立場の通念的自己理解を超えて「言語教育」について、「生きる」ということから考えてゆきます。

詳しくは後日、全国大学国語教育学会のホームページで告知されるはずです。非会員も大会当日に直接会場で参加申し込みをすれば参加できるとも伺っています。もしご興味のある方がいらっしゃいましたら、ぜひお越しください。ラウンドテーブルの席上で、そしておそらくはそれに引き続いて起こるはずのインフォーマルな議論の場で色々とお話しましょう。

以下は、そのラウンドテーブルの予稿集原稿です。関係者の許可を得て、本日、このブログにも転載します。(なお、私の原稿にはスペースの関係で予稿集には含めることができなかった注も加えています)。






言語教育と生きること



コーディネーター  広島大学     難波 博孝
話題提供者     早稲田大学    細川 英雄
          広島大学     柳瀬 陽介
福岡女学院大学  原田 大介
梅光学院大学   永田 麻詠
指定討論者     プリンストン大学 佐藤 慎司


キィワード:言語教育、生きる、国語教育、英語教育、日本語教育






0. ラウンドテーブルの趣旨 (難波博孝



このラウンドテーブルは、「言語教育が、人が生きていく上で救いになるのか、それとも、抑圧や迫害になるのか、もし後者のことが起こるとしたらそれはなぜか、それを防ぎ、前者のような言語教育を行うにはどうしたらいいか」そのことを探るものである。

 このラウンドテーブルでは、日本語教育から細川英雄氏、英語教育から柳瀬陽介氏をお呼びし、国語教育の側から原田大介・永田麻詠両氏とともに、また、日本語教育研究者でありながら広く言語教育に関心のある佐藤慎司氏を討論者に迎えて、フロアの皆さんとともに考えて行きたい。  







1. 一個の言語活動主体としての充実へ (細川英雄)

 
戦後、外国人のための日本語教育の出発点において強く意識されたことは、国語教育の文学鑑賞に重きを置く、いわば内容主義からの離脱だった。その結果として、日本語教育は、合理的な精神に基づく形式主義を標榜するようになる。それはすなわち、日本国家がたどった植民地主義への批判であり、新しい出発としての「国際化」への道筋だった。 しかし、形式主義を標榜するあまり、文型・語彙等の学習項目リスト作成が目的化し、「見える」評価への執着が客観性神話と合体して、きわめて技術実体主義的なドグマに陥ってしまう。「教師養成」もまたこのドグマから抜け出せなくなったのは、いわば当然のことだとも言えよう。

このことは、1970年代後半から80年代初頭にかけてのコミュニカティブ・アプローチの洗礼によっても変わるものではなかった。1990年代後半からのポストモダンの潮流から、近年、そうした技術実体主義を批判的に見る方向が生まれたが、大方は、まだ80年代の学習項目と場面の組み合わせの方法技術論に終始している。

もちろん、ことばの教育にとって、構造とシステムへの省察は重要な課題である。むしろ、この構造とシステムの関係を明らかにすることがことばの科学の使命であると言えよう。しかし、学習とは、決して知識の集積ではないし、また、構造とシステムの獲得は、決して一方向的な教授によって身につくものではなく、その個人の全身によって活動の全体として体得されるべきものである。

このように考えるとき、ことばの教育とは、「ことばを教える」ことではなく、「ことばによって活動する」場をつくることとなろう。このことは、「教師養成」にとっても同様である。「教師養成」というシステムを実体化させ,そこで,これこれのことを行うという制度自体,あまり意味のないことがわかる。

「教師」は実践そのものの中にあり,「養成」も実践そのものの中にあるからだ。「教師」になるために必要なことは,その職業としての実体的な知識ではなく,混沌たる「全体」の中に身を置く行為そのものだといえる。混沌とした「全体」を生きること,これ以外に術(すべ)はなしと私は考えるからである。もちろん,その「全体」の環境は周到に準備されなければならないが,これは「教師養成」に限ったことではない。教育実践そのものが,混沌とした「全体」なのだ。この「全体」の中で,どのように他者を受け止めつつ,自己を主張し,どのような議論を展開できるかが,すべての個人に課せられた「生きることを考えるための」実践研究なのである。

インターカルチャー(相互文化性)とは、いわゆる「異文化能力」などではなく、複数のアイデンティティを保持しつつ行われる、個人から地球規模までのさまざまな文脈における、他者との相互関係性そのものを指し、「言語教育」とは、この地球上の、さまざまな人々と、ともに生きていくための社会を形成するための、基盤的な、ことばによる活動の場とその形成を指す。したがって、ここでいう「言語教育」とは、言語を教えることを目的化しない、しかし、言語による活動の場(共同体)を保障し形成する教育のことである。

ここでは、教師・学生・学習者という行為者の活動を結ぶものとしての教育実践が問われることになるだろう。それは、それぞれのアイデンティティを問う意味でもある。 言語教育として考えたとき、言語習得を目的としない言語活動とその活性化が一つの意味を持つことになる。それは、ともに生きる社会において、一人ひとりが充実した言語活動主体として、個人と社会を結ぶにはどうしたらいいかという課題でもある。 個人一人一人が、自分の問題関心から問題意識へという方向性を持ち、ことばによる活動を軸に、他者を受け止め、テーマのある議論を展開できるような場(共同体)を形成することこそ、いま必要であろう。それは、母語話者・非母語話者という区別を超える活動、つまり統合的な学習/教育をめざすことであり、そのことは、日本国内の文脈で言えば、国語と日本語という境界の解体を意味する。







2.英語教育と生きること(柳瀬陽介)

 
英語教育の主体 ―生きる主人公― とは誰(あるいは何)だろう?

近代学校のための教育学の発想では、しばしば主体は学習者ではない。近代教育学の多くは、教師という主体が学習者という客体(対象)をどう管理・操作するかという発想で展開されているからだ(注1)。多くの授業で学習者は管理・操作の対象としてしか見られていない。では教師が英語教育で生き生きとした主体となっているかといえば、そうでもない。いまだに日本の英語教育学の主流である教授法比較などの実験研究は、実際は生態学的観察なしの少数の事例研究に過ぎないのに、あたかも二重盲検法での大規模のランダム化比較試験のように結果を一般化し、教師に「実証された」教授法を採択することを迫る(注2)。学習指導要領も教育内容だけでなく教育方法(「授業は英語で」)にまで指示し(注3)、教師は定められた内容と方法を忠実に実行すべき存在としてますます想定され主体性を奪われている。

言い切ってしまうなら、現代の英語教育の主体は、貨幣化しさらに資本化しつつある英語である。貨幣とはすべての商品の質を捨象しその「価値」を一元的に量化する特殊な商品であるが(注4)、英語はいまや世界のさまざまな言語表現の質を捨象しその「命題」を一元的に表現できるグローバル言語として認識されている。資本とは投資・運用された貨幣であり量的拡大を運命づけられた商品であるが(注5)、英語もいまや学校教育では標準化された数値で必ず量的拡大を達成せねばならない商品(=学校の「売り」)と認識されている。無論、学校教育の成果を問うことが間違いというのではない。問題は、成果がほぼ一元化すらされようとしている数値(例えばTOEFL)だけでしか評価されないことである。現代社会を動かす主体が、生活者や労働者どころか資本家ですらなく、生活者・労働者・資本家を、資本の量的拡大のために急き立てる資本主義の論理であると言えるなら、英語教育を動かしている主体は、学習者でも教師・教育学者・政策決定者でもなく、学習者・教師・教育学者・政策決定者を特定数値の量的拡大に急き立てている英語―より正確に言えば、そういった英語観(グローバル資本主義的英語観)―であると言える(注6)。もしこれが正しいのなら、グローバル資本主義への対応を通り越した順応(過剰適応)を必ずしも望まない者にとって、現代日本の英語教育は、救いではなく抑圧(時には迫害)となるだろう。

打開の途は、まず、教師・教育学者・政策決定者から主体性を奪っている、グローバル資本主義的英語観、そして、コミュニケーション能力を一元的に数値化できるとする数値フェティシズムを克服することにある(注7)。克服のためには、外国語習得を学習者の社会的主体化に求める複言語主義(複合的言語観)の認識を深め(注8)、次に教師の主体性を回復する教師の語り(注9)による実践研究(当事者研究(注10))で教育の質を探究しなければならない。特定の数値の増大だけに着目するいわば"monoculture"(単一栽培)的な量的研究(教育実践への工学的アプローチ)の限界をよく理解し、教育実践への生態学的アプローチへの理解を深めなければならない。英語の学びをめぐって相互に影響しあっている個々の学習者・学級・教師・社会の相互関係性をよく観察し、授業は教師が特定の数値で表現される英語力を向上させる営みではなく、個々の学習者・学級・社会を同時に育む試みであることを理解しなければならない(注11)。

さらに本来英語教育の主人公であるべき学習者の主体性を回復するためには、学習者の身体(=主(あるじ)である体(からだ))を授業で発見しなければならない。英語教育は従来とかく「知的教科」として身体を軽視するか、「トレーニング」(注12)として身体を意識に隷属化させていたが、神経科学のダマシオ(注13)も言うように、言語は身体内の情動、その感知である感情、そしてその発展である思考に基づいている。言語の基盤は(身体から隔離されたとしばしば誤って認識されている)脳ではなく、身体である。英語教育は竹内敏晴(注14)や野口三千三(注15)の洞察にも学ばなければならない。英語教育が生きることにつながるためには、多くの認識的展開が必要である。

(注)
1. 辻本雅史(2012)『「学び」の復権――模倣と習熟 』(岩波現代文庫)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/2012_14.html

2. 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/blog-post_05.html

3. 高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/01/blog-post_14.html

4. マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/blog-post_14.html

5. モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/20121993.html

6. 7/14講演会「英語教育、迫り来る破綻」に参加して
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/07/714.html

7. 「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/blog-post_5.html

8. Common European Framework of Reference for Languagesの摘要
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/common-european-framework-of-reference.html

9. 「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/20091011-12.html

10. 石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013.html

11. 教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/blog-post_7.html

12. 集中的入出力訓練(Intensive Input/Output Training)の具体的方法に関する整理
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/inservice.html#021223

13.Emotions and Feelings according to Damasio (2003) "Looking for Spinoza"
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/12/emotions-and-feelings-according-to.html

14. 竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/1999.html

15. 野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_21.html



当日投映スライド







当日配布資料









関連記事
英語授業と生きること ― あるいはいかに現代の英語教育がことばの力を十分に感じることを阻害しているかについて ―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/blog-post_4.html








3.生き延びるためのことばの学び ―障害当事者の立場から―(原田大介)
 

3.1. 学習者の実態から  通常学級に在籍する約6.5%の児童生徒に発達障害の傾向が見られる現状において、国語科授業はどう変わるべきなのか。発達障害者は自傷やうつと親和性が高く、自殺率も高い。このため、障害当事者が生き延びるための新たな「ことばの学び」観を早急に構築しなければならない。

このような現状をふまえ、本発表の目的は、障害当事者の立場から「ことばの学び」観を問い直し、国語科授業の可能性を考えることにある。

3.2. 障害当事者の内面では何が起きているのか

 本発表ではまず、個別の事例を検証することで障害当事者の内面で起きていることを探る。対象者は発表者自身である。発表者は精神障害者保健福祉手帳(3級)を持ち、医師より高機能自閉症とADHDと診断されている。また吃音の自覚症状がある。  

3.2.1. 高機能自閉症について

身体感覚の極端な過敏さと鈍感さがある。また、ことばを遠く感じ、理解するのに時間を要する。集団行動の場面において状況を把握できないことが多く、把握するには極度の集中力を要するため常に強いストレスに晒されている。

3.2.2. ADHD(注意欠陥多動性障害)について

注意力を持続させることが困難であり、会話場面では断片的にしか聞こえないことが多々ある。このため、ことばを記憶することが難しい。

3.2.3. 吃音について

音そのものを発生することが困難であり、自分が本当に言いたいことは言わず、発音・発声しやすい別のことばに言い換えてきた経緯がある。

3.2.4. 学童期をどう生きたか

上記の障害特性から、学童期における発表者の身体には次のようなサイクルが生じた。 (1)他者(とのかかわり)に怯え続ける?(2)自己肯定感が著しく低下する(一方で自身を守るための極端な自己万能感と歪んだ上下思想が生まれる)?(3)ことばが遠い上に、よりことばが上滑りするようになる?(4)自分のことばも含め何を信じてよいかわからず、存在としての「私」の輪郭が曖昧な状態が続く。

3.2.5. 国語科授業の時間をどう過ごしたか

正確な発音や発声を求める学習指導要領、正解の読みを求めるテスト、教科書は活字中心のため理解が困難、自分が学びたいことと国語科の内容が解離している等、授業に参加できない日々が続く。

3.3. 障害当事者が救いに感じたことばの学び

 国語科の時間に救いはなく、その時間以外の場で発表者が救いに感じた出来事が次の2点である。  

3.3.1. 出来事①

吃音スタタリングフォーラムで吃音の子どもや大人と出会い、初めて自分と「同じ」特徴がある者たちを知る。と同時にその者たちとのあいだにある「差異」に気づくようにもなる。「同じ」と「差異」を知ることで「私」の輪郭が少しずつ見え始める。合わせて吃音の本を読み、知識を得ることで、ことばを学ぶことの意義を知る。

3.3.2. 出来事②

大学院生の立場から論文作成の一環として、ライフヒストリーを作成して信頼する者たち(主に大学の指導教員や友人)の前で語る。そこで問いかけられたことをもとに、再度ライフヒストリーを作成して語る。この作業を繰り返したことで、断片的にしかなかった自分の記憶を再構築する。

出来事①②以降、「私」の輪郭を自覚し始めた発表者は信頼する者たちの前で「自分の思いや経験の言語化」を試みるようになる。閉じた「私」のことば(他者を寄せつけないことば)ではなく、開かれた「私」のことば(コミュニケーションのことば)を、対話を通して生み出そうとする意識が生まれる。

3. 4  国語科授業はどう変わるべきか―「生き延びるためのことばの学び」という観点の導入に向けて

「同じ」を知ることで「差異」を知り「私」の輪郭をことばで浮かび上がらせること、また、「私」と他者とのあいだにあるゆるやかな「つながり」を実感することが国語科授業の基本的な目標になる。当日の発表では、その具体的な方向性を論じたい。







4.教材論から考える国語教育の「救い」と「抑圧」―両義性に着目して―(永田麻詠)



4.1. はじめに

言語教育は人が生きていく上で「救い」となるのか、それとも「抑圧」となるのか。学習者にとって言語教育が「救い」として機能するためにはどうすればいいのか。このことについて発表者は、国語教育と性をめぐる問題を絡めつつ、特に教科書教材を取り上げて論を展開する。

本発表において国語教育と性をめぐる問題を関連させるのは、発表者自身、幼少期から女性であることの居心地の悪さや、徒労感と絶望感を抱えて生きてきたこと、またそうした性をめぐる居心地の悪さや徒労感・絶望感は、中・高・大学教員として勤務する中で多くの学習者に見られたことが理由である。国語科は学習者の「ものの見方・考え方」の形成や深化拡充に寄与する教科であるということは、学習指導要領解説国語編でも言及されている。この点からも「性をめぐる見方・考え方」は国語教育で扱うべき問題であると考える。

また、国語科において教科書教材は学習する上で大きな影響力を持つ。特に「読むこと」の学習では、何を読むのかが学習者の「ものの見方・考え方」の形成や深化拡充に直接影響すると思われる。こうした点から本発表では、教科書教材を考察対象として国語教育の「救い」と「抑圧」について論じる。

4.2.教材論から見える国語教育の「抑圧」

たとえば小学校国語科の教科書教材を見てみると、「話すこと・聞くこと」や「書くこと」の教材では具体的な言語活動を示す際や、話し手・聞き手・書き手として児童が自分自身を表現する場面で、「~さん」「~くん」「わたし」「ぼく」という語が用いられることが多い。また、伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項にかかわる教材「わたしたちのくらし」(三省堂二年副読本)では、くらしとかかわる語と絵が掲載されている。たとえば「生活する」「働く」「大人になる」などが挙がっている。なかには「結こんする」「子どもを産む」などがあり、「結こんする」という語の隣には男女の花婿・花嫁姿と思われる絵が示されている。これらのことから小学校国語科教科書では男女二元主義や異性愛主義が見られ、多様な性を生きる学習者にとっては国語科の学習が「抑圧」と機能すると言えよう。

また「読むこと」の教材には、女性/男性らしさの固定化や性別役割規範につながるものがあった。「女ながらも」という表現(長崎源之助「父ちゃんの凧」[学校図書4年上])など、好ましくない表現が確認できる教材もあった。さらに中学校の教材では、三田誠広「いちご同盟」が資料編として未だ採録されている(東京書籍3年)。本教材では、「病院で直美が苦しんでいるのに、俺が女に囲まれて笑っているのが、気に入らないんだろう」「直美は俺の心の支えなんだ。直美がいるから、女たちに囲まれていても、俺の心はぐらつかない」という記述がある。この記述からは直美という女性の神聖化が見られ、しかし結局はその他の「女たち」と同様、女性の他者化が起こっている。また登場人物・徹也の言動はステレオタイプの男性性に満ちており、強さやたくましさを男子生徒に押しつけかねない。こうした女性/男性らしさの固定化や性別役割規範、女性の他者化という価値観も、学習者に「抑圧」として機能する。

4.3.国語教育が「救い」となるために ―「抑圧」と「救い」の両義性―

以上のような「抑圧」をふまえ、国語教育が学習者にとって「救い」と機能するためには、「抑圧」と「救い」を両義的にとらえることが有効である。そして「抑圧」と「救い」の両義性を国語科授業で成立させるためには、学習者の「生活」に支えられた批判的思考力の育成が鍵となろう。当日の発表では、「エンパワメントとしての読解力」や文学教育における「虚構」と「生活」の両義性に触れながら、学習者の「生活」に支えられた批判的思考力の育成と、「抑圧」と「救い」の両義性について具体的に論じていく。





2013年度「英語教育図書:今年の収穫・厳選12冊」




大修館書店が発行している『英語教育 増刊号』に今年も「英語教育図書:今年の収穫・厳選12冊」を書かせていただきました。この書評については、江利川春雄先生から過分のおことばをいただきましたが、そこまではいかなくとも、この『増刊号』は来年に大幅な改編を計画しているとのことで、私も年間書評を書くのは最後になると思い、例年よりも少し思いきって書きました (と言ってもやはり遠慮しているところはあるのですが・・・苦笑)。

以下、いつものように、紹介した本を列挙します。また、今年は一言だけ、その書評から引用することにします。



大谷泰照『時評 日本の異言語教育』英宝社 





「慌ただしい昨今だからこそ、私は本書を年間書評冒頭の書としてすべての英語教育人に薦めたい」






山本玲子『子どもの心とからだを動かす英語の授業』青山社




「個人的には今年最大の収穫であった」






安井稔『ことばで考える』開拓社




「『桁が違う』という言葉があるが、比喩的に言えば、身長1.7メートルの私には、安井先生は一桁大きい17メートルの巨人どころか、二桁大きい170メートルの山のように思える」






大津由紀雄(編著)『学習英文法を見直したい』研究社 





「粗雑な議論に私たち専門家までもが巻き込まれないためにも、本書の多面的な分析に学びたい」







松村昌紀『タスクを活用した英語授業のデザイン』大修館書店 




「本書は、タスクの論考を通じて、これまでの日本の英語教育界の信念システム(あるいはドグマ)に果敢に挑戦する」






キース・モロウ(編)和田稔・高田智子・緑川日出子・柳瀬和明・齋藤嘉則(訳)
『ヨーロッパ言語共通参照枠 (CEFR)から学ぶ英語教育』研究社 





「私たちはCEFRを骨抜きにし、学習者(ひいては学習者を育てる教師・学校)を査定する管理と統制のための道具にしかねないのではないか」






シーラ・リクソン・小林美代子・八田玄二・宮本弦・山下千里(編著)
『チュートリアルで学ぶ新しい「小学校英語」の教え方』玉川大学出版部 






「対話形式の本書は、ゆっくり(しかし決して散漫にはならず)進み、読者の理解を深め広げる」






大塚謙二・胡子美由紀
『成功する小中連携!生徒を英語好きにする入門期の活動55』明治図書 





「WHY-WHAT-HOWが統合された実践的な英語科教育法の本といえる」






日野奈津子『英語教師のためのコーチング入門』明治図書 





「教師である私たちはティーチング(教え込み)に習熟するあまり、生徒に対する接し方が固定化してないだろうか」






江利川春雄(編著)『協同学習を取り入れた英語授業のすすめ』大修館書店 





「教育において私たちは人間という種の特徴である社会性をもっと活用するべきではあるまいか」






笹達一郎『すぐに役立つ! 365日の英語授業づくりガイドブック』明治図書





「複雑で多面的な現場の経験知は、表面的な矛盾を超えた深さをもっている」






瀧沢広人『英語教育のユニバーサルデザイン』 明治図書 





「英語教育界が各種障害をもった生徒を「同じでもなく、違うでもなく」(綾屋紗月)『つながりの作法』扱うことができた時、私たちも少しは成熟できるのだろう」






その他、二冊の本について「例年よりも少し思いきって」書きましたが、それはどうぞ増刊号をお読みください。









宮崎駿 『風立ちぬ』



[ 注意: 以下の文章にはネタバレの部分がありますし、論は中二病的展開となっております (汗) ]





宮崎駿のテーマの一つは原罪である。

『風の谷のナウシカ』では、巨神兵までも生み出した人間文明が、徹底的に地球生態系を破壊してしまった世界が背景となっている。

『もののけ姫』では、製鉄のため森林伐採する人々、不老不死の力を求めシシ神の首を狙う人々が主要人物として描かれる。

いずれの世界においても、人間とはそのような所業を行わずにはいられないものだといった世界観が表現されている。知識によって増大された欲望をもった人間は、生きる限り、自然を破壊し、聖性を蹂躙し、お互いを傷つけ殺しあうことを避けられないのではないか ―そういった原罪を避けられないのではないか― という問いかけが宮崎作品の中にはある。

今回の『風立ちぬ』は、原罪が人間社会のレベルではなく、主人公 ―宮崎駿の投影ではあるが、決して本人自身ではない― が有するものとして描かれている。そして主人公はナウシカやアシタカのように、人間の原罪を償い、この世を調停することもできない。いや、しようともしない。

といっても、主人公の堀越二郎 ― 実在した堀越二郎のイメージに基づいて創られた人物であり、決して実在の堀越二郎ではない ― は、強欲な人物ではない。幼少の頃はいじめられる下級生を助け、しかしその行為に高ぶることがない。震災で怪我をした女性を背負い助け、家の者に感謝されるも名も告げずに去る。親の帰りを暗がりでまつ子どもに買ったばかりの西洋菓子を差し出す(菓子は受け取られないが、彼はそのことを不満に思うわけでもない)。

だから主人公は、自らの利害だけに拘泥する男ではない。しかし、彼は鯖の骨の曲線美に見とれては食事中の友人に呆れられ、震災の火事で混乱する現場の中で一枚の絵葉書を見ては、美しい飛行機の夢に思いを馳せてしまう男でもある。彼は強欲ではないが、業は深い。美しい飛行機、ひいては美という業から彼は逃れることができない。

映画の中で、彼はしばしば夢の世界に入る(時にそれは世界的に有名な飛行機設計家カプローニの夢の世界とつながっている)。

ある夢の世界で、カプローニは主人公に尋ねる。「ピラミッドのある王国とピラミッドのない王国のどちらを選ぶ?」。

岡田斗司夫の解説によれば ―私はこの評論をずいぶん面白く読んだ。もっとも私が敬愛する若い友人はこの評論にはクリエイターに対する敬意がないと批判した― ピラミッドは、富と権力(そしておそらくは才能)の階層であり、上層にいる少数の者がそれらを謳歌し、下層にいる多数の者が上層の者を支えている。つまりカプローニが問うのは、「美しい飛行機を作ろうとするのなら、ピラミッドのある社会構造を認め、その中で生き、それを維持しなければならない。お前はその自覚や覚悟があるのか?」ということである。

だが主人公はその問いには直接答えない。「私は美しい飛行機が作りたいのです」とだけ彼は言う。それを受けてカプローニはさらに答えを迫るかと言えばそうでなく、カプローニは「これのことかね?」と急に登場した白い飛行機を指さすだけである。

まさにこれは主人公の夢の世界の出来事である。彼の夢の世界では(まだ)カプローニも誰も究極の答えを要求しない。彼は、自分が求めているのは美だけであると答えるだけである。これが彼の原罪であろう。

だが、ここで私たちは主人公を断罪するべきではない。主人公が本当に自分のことしか考えていなかったとしたら、夢の世界にはカプローニの問いさえ出てこないからだ。宮崎は主人公の夢の世界 ―美しい飛行機が飛び交う世界― を描く。しかし宮崎は、主人公がその世界から現実世界に戻ることができるきっかけを、カプローニの問いという形で残している。

かつてミヒャエル・エンデは、自身の『はてしない物語』について語り、「ファンタジー世界に行く者は必ず現実世界に戻ってこなければならない」と力説したと私は記憶している。エンデはファンタジー世界に閉じ込められる危険性を誰よりも知っていたのかもしれない。宮崎も「美しい夢」 ―私はこれを「ファンタジー」と読み替えることに問題を感じない― の怖さを自覚しているのだろう。

映画は進み、主人公は里見菜穂子と再会する。菜穂子は自らが(当時の)不治の病である結核を患う身であることを知りつつも、堀越との再会に心騒ぐ (二人の出会いでは最初の時も、再会の時も突風が吹く ―「風立ちぬ」―)。最初は菜穂子のことを思い出さなかった主人公も、再会に感謝する菜穂子の涙に促されてか、急激に心が騒ぎ始める。それからは絵に描いたような恋愛が展開し(そもそもこれはアニメである)、二人は菜穂子の父が戸惑うぐらいにすぐさま婚約を決める。

菜穂子は主人公のためにも病気を治そうと決意し、それまでためらっていた人里離れた療養所に行く。だが、そこは病人に対する病理学的な管理が人間的な配慮よりもはるかに勝っていたところであり、菜穂子は病院を抜け出し主人公に会いに行く。

二人は駅のホームで会う。主人公の胸元で菜穂子は「ひと目お会いしたら帰ろうと思っていました」と言うが、主人公は「帰らないで」と菜穂子に言う。

二人は主人公の上司黒川に、離れに住まわせてくれと頼む。いくら婚約中とはいえ、まだ結婚していない男女を一つの部屋に住まわすことはならぬと渋る黒川だが、主人公は黒川が面食らうぐらいに、「それでは今すぐ、結婚します」と宣言する。二人は互いの美に夢中である。

しかし結婚しても、戦闘機の設計に勤しむ主人公は、夜遅くしか菜穂子のもとに帰ってこない。帰ってきても持ち帰った仕事をする。一日中臥せっているだけしかない菜穂子はそれを受け入れ、「仕事をしているあなたを見るのが好き」と言う。

やがて主人公は徹夜明けで帰宅し、飛行機が完成したことを告げ、疲れから眠りに落ちる。

その後、主人公が試験飛行のために数日の予定で家を出た後、菜穂子は、主人公、黒川夫妻、(その日に再び会うことになっていた)主人公の妹に置き手紙を残し、ひっそりと黒川家を出て療養所に戻る。

続くシーンで映画は試験飛行の劇的な成功を描くが、その描写はやがて戦争の ―写実的というよりは象徴的な― 描写に移行する。主人公が設計した飛行機は無残な残骸として地に横たわっている。

画面はやがて草原となる。主人公とカプローニの「美しい夢」である。「ようこそ私たちの夢の王国へ」とカプローニは言う。主人公は「ここが夢の王国ですか。私は地獄かと思いました」とつぶやく。カプローニは「ちょっと違うが、まあ、同じようなものだ」と返す。ここでも宮崎は、主人公が美しい夢、あるいはファンタジーに囚えられてしまうことを防いでいる。

だがカプローニは「君を待っていた人がいる」とかなたを指す。そこにいるのは、パラソルをさした菜穂子。「あなたは生きて」と彼女はささやく。やがて風が立ち、画面は転がるパラソルだけを描き出す。菜穂子は死んでいることが示唆される。

ここにいたって、私たちは、「美しい夢」とは、映画の中の飛行機に関する明らかな夢だけでなく、菜穂子との出会いという、この映画自体もそうであることに気づく。主人公は、自らの美しい飛行機という夢からは覚めるが、美しい女性が自らの仕事を全面的に支え、やがて仕事が終わると美しいまま旅立ってゆくという映画の中にとどまる ― 映画とは所詮、「美しい夢」なのだ。

カプローニとの出会いは単なる主人公が見た明らかな夢だった (映画の中でも主人公が夢から覚める様子が描かれる)。だが、映画の中で描かれた菜穂子との出会いはそれと異なり、主人公の単なる妄想ではない。映画の中で、二人は確かに出会い、愛し合い、死別した。しかし ― 考えてみれば当たり前のことなのだが― その出会いと別れを「現実」とする映画自体が「美しい夢」なのだ。

宮崎はあるインタビューで、「今はもう、ファンタジーなんて描ける時代じゃない」と語気を強めていたが、やはり彼はファンタジーを描いたのではないか。確かにこの『風立ちぬ』は、『魔女の宅急便』や『崖の上のポニョ』のような、親子で楽しめる娯楽作品としての「ファンタジー」ではない。だが、これは宮崎が描かざるを得なかった「美しい夢」としてのファンタジーではなかったのか。宮崎は72歳において、このファンタジーを必要としていたのではないか。

主人公は、映画という「美しい夢」の中に入れ子構造で組み込まれた、カプローニとの夢の王国という「美しい夢」において、「ピラミッドのある世界とない世界のどちらを選ぶ」という問いに直接答えず、美しい飛行機を完成させる。しかし、その飛行機は戦争のためのものに他ならず、それは人を撃ち、人に撃たれ、無残な残骸として地に落ちた。主人公は「美しい夢」(ファンタジー)のもう一つの面を知る。

だが、この映画自体という「美しい夢」(ファンタジー)がもつ、別の一面は映画の中では直接には描かれない。宮崎は映画『風立ちぬ』そのものという「美しい夢」のもう一つの面に無自覚なのだろうか。宮崎は自ら創りだしたファンタジーの世界に閉じ込められてしまったのだろうか。

いや、そんなことはない。ありえない、と私は考える。

宮崎は、映画の試写会で「恥ずかしながら、はじめて自分の映画を見て泣いてしまいました」と述べた。彼は、映画という美しい夢の「もう一つの面」を痛切に感じつつ、それでも、そう生きるしかなかった自分を全否定することもできず、涙を流してしまったのではないか ― これは根拠のない推測であるが、私はこう考える。いや、私は単にこう考えたいのかもしれない。

憑かれたようにアニメという美しい夢(ファンタジー)を描いてきた宮崎の人生について、あれこれと低俗週刊誌のような詮索をするつもりはない (私の友人は、岡田氏の評論はまるで週刊誌のように低俗だったと批判していた)。しかし、宮崎の生涯を通じての「美しい夢」の追求には、代償があったはずだ。


人は、美を追求するとき、しばしば自他の醜を見ないふりをする。醜を抑圧し、美を求める。だが醜はそこにある。人が人である限り。

善についても同じだろう。善を志向する者は、しばしば自他の悪を殊更に否定しようとする。悪を消し去り、善を求める。だが悪はそこにある。人が人である限り。

正もそうだろう。正を求める者は、しばしば自他の邪を認めようとしない。邪のない正を求める。だが邪はそこにある。人が人である限り。

真もそうではないか。真を求める者は、しばしば自他の偽を軽侮する。偽のない真を発見したと主張する。だが偽はそこにある。人が人である限り。

愛も同じではないか。愛を語る者は、しばしば自他の憎を信じない。憎のない世界に自分の愛はあると語る。だが憎はそこにある。人が人である限り。

聖についてもしかり。聖について語る者は、しばしば自他の俗を否認する。俗などないかのように聖を求める。だが俗はそこにある。人が人である限り。

美・善・正・真・愛・聖を求める者は、しばしばピラミッドの高みに立つ。自らの醜・悪・邪・偽・憎・俗を、自らの下層に隠す。さらには、他人を下層に置き、醜・悪・邪・偽・憎・俗を押し付ける。下層の他人を踏みしめながら美・善・正・真・憎・聖を語る。

美・善・正・真・愛・聖を求めながらも、しばしば自らそれを裏切らざるを得ないこと ― これも人間の原罪ではないのか。『風立ちぬ』は、この原罪を描き、示していないか。


もし人間には原罪があるのなら、そこからの救いはないのだろうか。(もちろんキリスト教はキリスト教としての答えを原罪に対して用意しているが、ここではそれは語らない)。

カプローニの問いを忘れること、そもそも「ピラミッドのない世界」など考えることが無意味だと考えることが救いだろうか。

そうとも思えないことは、古今東西の歴史が示していないか(あるいはそうとも思えないのは私の幼さなのか)。

カプローニの問いを忘れられないのなら、宮崎は、おそらく彼の最後となる作品で、人間の、ひいては彼自身の原罪を示し、絶望をもって映画を閉じたのだろうか。


私はそうは思わない。

映画の最後に「おわり」の文字が出てきたときの画面は、さまざまな色を帯びた空であった。自然であった。彼は最後の画面を、アニメーターとしては自ら描けない、水彩画調の背景画で自然を描くものにした。それが宮崎の監督としての決断だった。最後の画面で宮崎はスクリーンの上に自然を再現させようとした。


私にはこれが、救い、あるいは救いの表現であったように思える。


私たちは、美・善・正・真・愛・聖を求める中で、醜・悪・邪・偽・憎・俗をしばしば否定し、そのことによって美・善・正・真・愛・聖を損ねてしまう。

かといって私たちは、美・善・正・真・愛・聖を忘れ去ることはできない。醜・悪・邪・偽・憎・俗の中にだけに生きることもできない。

ならば美醜・善悪・正邪・真偽・愛憎・聖俗の一切を包み込み、かつそれらの区分をすべて無効にするもの ―自然― こそは、私たちの救いではないのか。自然を表現することは私たちの救いではないのか。

私たちは自然により生まれ、自然のもとに帰る。私たちが頭でどう考えていようとも、私たちが自然から離れることはない。ならば私たちの努めとは、自然を忘れないこと、自然を損ねないこと、可能なら私たちなりに自然を再現することではないのか。

自然の偉大なる全体の調和を忘れず、損ねず、可能な限り自分たちなりに「人間にとっての自然」として再現すること ― 人間なりに自然の中で自然に暮らし自然を保つこと― これが私たちのなしうる佳きことではないのか。

美を求めながらも醜を受け入れ、善を求めつつそこに悪があることを認める。正を追い求めながらも邪を受け入れ、真を目指しながらもそこに偽があることを認める。愛を求めながらもそこにある憎を認め、聖を目指しながらも俗にとどまる ― これが人間にとっての自然ではないのか。

人間が、人間にとっての自然を忘れないためには、自然 ―大自然そのもの― を忘れず、可能な限りそこにとどまることが必要ではないのか。自然を損なうことを可能な限り止めることが必要ではないのか。私たちの生命とは自然からの恵みである。ならば恵みの感謝を、自然を守り、自然を再現すること ― 私たちのなしうる佳きこと― で表すのが人間の努めではないのか。

宮崎駿は、美醜・善悪・正邪・真偽・愛憎・聖俗の一切を包み込み、かつそれらの区分をすべて無効にする自然を描いた画で、映画を終えた。人間は自然の調和の中に生きている ― 私にとっては、これを思い起こすことができることこそが、人間にとっての救いだと思える。





2013年9月16日月曜日

Education as a Social Function (Chapter 2 of Democracy and Education)



[この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]



以下、引用はProject Gutenbergからしますが、つけられたページ番号はDover editionのページ番号です。なおProject Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。

http://www.gutenberg.org/files/852/852-h/852-h.htm#link2HCH0002

■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。以下のスライドは、私にとって特に印象的なことばをまとめたものです。












第二章: 社会的機能としての教育
Chapter Two: Education as a Social Function




1. 環境の性質と意味 (1. The Nature and Meaning of Environment)

■ 社会はさまざまな形で新参者を社会に取り組む。教育は、成長の条件に注意しながら育て (fostering)、養い (nurturing)、育成する (cultivating) 過程である。

We have seen that a community or social group sustains itself through continuous self-renewal, and that this renewal takes place by means of the educational growth of the immature members of the group. By various agencies, unintentional and designed, a society transforms uninitiated and seemingly alien beings into robust trustees of its own resources and ideals. Education is thus a fostering, a nurturing, a cultivating, process. All of these words mean that it implies attention to the conditions of growth.  (p. 10)

⇒太字強調してある"conditions of growth"に今後注意して読んでゆきたい。


■ 教育において心理的なものはどのようにコミュニケートされるのであろうか?

Since what is required is a transformation of the quality of experience till it partakes in the interests, purposes, and ideas current in the social group, the problem is evidently not one of mere physical forming. Things can be physically transported in space; they may be bodily conveyed. Beliefs and aspirations cannot be physically extracted and inserted. How then are they communicated? Given the impossibility of direct contagion or literal inculcation, our problem is to discover the method by which the young assimilate the point of view of the old, or the older bring the young into like-mindedness with themselves.  (p. 10)

⇒このコミュニケーションの問題は、前の章からの継続であるが、下で答えが与えられる。ちなみに私は、"interests, purposes, and ideas"や"eliefs and aspirations"を総称して「心理的なもの」と呼んでいるが、私はこの総称があまり気に入っていない。よい表現はないものだろうか。


■ 心理的なものがコミュニケートされるのは、ある種の反応を呼び込む環境の働きかけ (the action of the environment)によってである。

⇒全訳をしてみる。

一般的にまとめて答えるなら、ある種の反応を呼び込む環境の働きかけによって、となる。社会で求められている考えを新参者に金槌で叩き込むわけにはいかない。社会で必要とされている態度を新参者に貼り付けるわけにもいかない。しかし個人の存在基盤である特定の素材 (medium)により、新参者は他のものよりあるものをより見てより感じるようになる。他の者とうまくやってゆけるようにある種の計画を立てるようになる。ある考えは強められある考えは弱められるが、それは考えというものが他人の承認を得るための条件だからである。かくして新参者の中に、ある行動体系、つまり、ある行為の性向が作られる。

The answer, in general formulation, is: By means of the action of the environment in calling out certain responses. The required beliefs cannot be hammered in; the needed attitudes cannot be plastered on. But the particular medium in which an individual exists leads him to see and feel one thing rather than another; it leads him to have certain plans in order that he may act successfully with others; it strengthens some beliefs and weakens others as a condition of winning the approval of others. Thus it gradually produces in him a certain system of behavior, a certain disposition of action.  (pp. 10-11)

⇒こうなると"medium" ―ここでは「素材」と訳した― とは何か、というのが問題になる。(この語は社会的な理論ではしばしば重要語として扱われ、しかも翻訳語を見出すのが難しいからやっかいだ)。

追記(2016/07/05)
院生との対話の中から、"medium"は「素材」と訳してみるとよいのではないかと思い始めました。よって、このページの訳語は以前の「媒体」から「素材」に変更してみました。


■ 「環境」 (environment) や「素材」 (medium)は、単なる「身近なもの」 (surroundings) ではない。

⇒全訳

「環境」や「素材」という用語は、ある個人を取り囲んでいる身近なもの以上のことを意味している。これらの用語は、身近なものが、個人の行為の傾向性と連続していることを意味する。無生物ももちろん身近なものと連続しているが、比喩表現でもない限り、無生物を取り囲んでいる状況が環境を構成しているとは言わない。非生命体は、自らに与えられる影響に対して関心をもたないからである。だが、生き物、特に人間にとっては、離れた時空に存在するあるものが、物理的に近くにあるものよりも、より本当の環境となるかもしれない。人に変化を与えるものが、その人の真正なる環境である。

The words "environment," "medium" denote something more than surroundings which encompass an individual. They denote the specific continuity of the surroundings with his own active tendencies. An inanimate being is, of course, continuous with its surroundings; but the environing circumstances do not, save metaphorically, constitute an environment. For the inorganic being is not concerned in the influences which affect it. On the other hand, some things which are remote in space and time from a living creature, especially a human creature, may form his environment even more truly than some of the things close to him. The things with which a man varies are his genuine environment.  (p. 11)

⇒私は、なんとなくここでハイデガーの『存在と時間』の議論を思い出す。

参考:Exploratory Practiceの特質と「理解」概念
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2008/10/exploratory-practice.html

また、『認知科学の方法』(初版は1986)は私が大学院生時代に非常に感銘を受けた本で、今でも読む価値を失っていないと思うが、この本は『コンピュータと認知を理解する』を基盤に書かれた本で、さらにこの『コンピュータと認知を理解する』はハイデガーの『存在と時間』をもとにして書かれた本である。









■ 私たちは環境(あるいは素材)により私たちになる。

⇒全訳

短く言うなら、環境とは、ある生き物の特徴的な活動を促進か妨害、刺激か抑制する諸条件である。水は魚にとっての環境であるが、それは水が魚の活動 --魚が生きること--に不可欠であるからである。北極点は北極探検家の環境にとっての重要な要素であるが、それは北極点が、たとえ北極探検家が北極点に到達できようができまいが、探検家としての活動を規定し、その人を北極探検家たらしめるからである。生きることは、(仮にそのようなことがあればの話であるが)単なる受け身でいることではなく、行為することを意味するからこそ、環境や素材は、生きるという活動の支えや障害となる条件という意味をもつのである。

In brief, the environment consists of those conditions that promote or hinder, stimulate or inhibit, the characteristic activities of a living being. Water is the environment of a fish because it is necessary to the fish's activities -- to its life. The north pole is a significant element in the environment of an arctic explorer, whether he succeeds in reaching it or not, because it defines his activities, makes them what they distinctively are. Just because life signifies not bare passive existence (supposing there is such a thing), but a way of acting, environment or medium signifies what enters into this activity as a sustaining or frustrating condition. (p. 11)

⇒もちろん人間なら、単に生理学的に生命を維持している状態などは別にするなら、その人間をその人間にしているのは、その人間が何を自分にとっての社会的環境としているかに依存している。



2. 社会的環境 (2. The Social Environment)

■ 他者とつながる者には必ず社会的環境がある。

⇒ここも全訳。

他者と結びついている (associated) 者には必ず社会的環境がある。その存在者がなすこと、またなしえることは、他者の期待・要求・賛同・非難にかかっているからである。他者とつながっている (connected) 者が、他者の活動を考慮に入れずに自らの活動を行うことはできない。他者の活動は、その者の傾向が作られていく際の必須の条件だからである。ある者が動けば他者は影響を受けるし、また逆にその者も影響を受ける。

A being whose activities are associated with others has a social environment. What he does and what he can do depend upon the expectations, demands, approvals, and condemnations of others. A being connected with other beings cannot perform his own activities without taking the activities of others into account. For they are the indispensable conditions of the realization of his tendencies. When he moves he stirs them and reciprocally.  (pp. 11-12)

⇒社会的存在は、相互に影響を与え合っている存在である。


■ 人間の教育的な教え (educative teaching) と、動物の訓練 (training) は、明確に峻別できるものではない。単純に嫌なものを避けているうちに、心的な性向 (mental disposition) が育まれることもあるからだ。しかし、いつもそうだというわけではない。だから教育 (education) と訓練 (training) は、やはり区別されなければならない。

Human actions are modified in a like fashion. A burnt child dreads the fire; if a parent arranged conditions so that every time a child touched a certain toy he got burned, the child would learn to avoid that toy as automatically as he avoids touching fire. So far, however, we are dealing with what may be called training in distinction from educative teaching. The changes considered are in outer action rather than in mental and emotional dispositions of behavior. The distinction is not, however, a sharp one. The child might conceivably generate in time a violent antipathy, not only to that particular toy, but to the class of toys resembling it. The aversion might even persist after he had forgotten about the original burns; later on he might even invent some reason to account for his seemingly irrational antipathy. In some cases, altering the external habit of action by changing the environment to affect the stimuli to action will also alter the mental disposition concerned in the action. Yet this does not always happen; a person trained to dodge a threatening blow, dodges automatically with no corresponding thought or emotion. We have to find, then, some differentia of training from education. (pp. 12-13)

⇒教育と訓練の重なる点と異なる点の両方を理解することが重要。


■ 餌付けによる訓練で、馬を人間との共同作業に組み込むことはできるが、馬は餌に興味があるだけで、共同作業に伴う考えや情動を共有しているわけではないから、人間との社会的な仲間になっているわけではない。

A clew may be found in the fact that the horse does not really share in the social use to which his action is put. Some one else uses the horse to secure a result which is advantageous by making it advantageous to the horse to perform the act?he gets food, etc. But the horse, presumably, does not get any new interest. He remains interested in food, not in the service he is rendering. He is not a partner in a shared activity. Were he to become a copartner, he would, in engaging in the conjoint activity, have the same interest in its accomplishment which others have. He would share their ideas and emotions. (p. 13)

⇒訓練と教育の区別をするための議論の一環。


■ 子どもも訓練は受けているものの、教育は受けていないことはしばしばある。

Now in many cases -- too many cases -- the activity of the immature human being is simply played upon to secure habits which are useful. He is trained like an animal rather than educated like a human being. His instincts remain attached to their original objects of pain or pleasure.  (p. 13)

⇒英語教育には技能訓練の側面が必ず必要だが、それでは英語の教育的側面とは何だろう?


■ 他人の反応を意識しながら共同活動 (common activity) に参加し、社会的に振る舞うことにより、他人と同じ観念や情動がわき起こってくる。

But to get happiness or to avoid the pain of failure he has to act in a way agreeable to others. In other cases, he really shares or participates in the common activity. In this case, his original impulse is modified. He not merely acts in a way agreeing with the actions of others, but, in so acting, the same ideas and emotions are aroused in him that animate the others. (p. 13)

⇒このデューイの考え方を「行動主義」と言い切っていいだろうか?(これは、かつてウィトゲンシュタインが自らの哲学に対して掲げた問いと同じであり、同じ答えをもつ)
行動主義

⇒"the same ideas and emotions are aroused"といった表現にも注目したい。


■ 教育は、社会的環境の整備に始まり、情動や考えの共有に終わる。

⇒全訳

ある人に、目に見え手に取ることができるやり方で、行為が誘発されるような刺激を与える諸条件を整えることが、[ 教育の ] 第一歩である。その人を、他人とつながっている活動の仲間や相棒 (sharer or partner) にして、その人が、活動の成功は自分の成功と思うようになることで[ 教育の ] 歩みは完成する。社会的集団の情動的態度が自分の態度になってきたら (is possessed by the emotional attitude)、その人はその社会的集団が目指す特殊な到達点 (special ends at which it aims) や成功するために取る手段に対してすぐに気づくようになる。言い換えるなら、その人の考えや観念は、社会的集団の考えや観念と似たような形を取るようになる。その人は、社会的集団が有する知識とほぼ同じ知識をもつようにもなるだろう。その知識こそが、その人が習慣的に追い求めることの材料となるからである。

Setting up conditions which stimulate certain visible and tangible ways of acting is the first step. Making the individual a sharer or partner in the associated activity so that he feels its success as his success, its failure as his failure, is the completing step. As soon as he is possessed by the emotional attitude of the group, he will be alert to recognize the special ends at which it aims and the means employed to secure success. His beliefs and ideas, in other words, will take a form similar to those of others in the group. He will also achieve pretty much the same stock of knowledge since that knowledge is an ingredient of his habitual pursuits. (p. 14)

⇒ここは、教育 (education) のことを語っていると思われるので、上記の訳に [   ] を補った。また、(   )に原語を補ったところは私が翻訳で悩んでいるところ。


■ 言語が他人に直接観念を伝えるのではなく、言語を通じて人々は同じように行為することにより観念は伝えられる。

⇒ 言語獲得を考える上で重要な箇所なので全訳。

知識を得る際に言語は重要であるが、そのことから人は、知識はある人から他の人へと直接に手渡せるという通念をもつようになったことに間違いはない。その通念によれば、ある観念を別の人の心に伝えるためには、その人の耳に音を伝えればいいだけであるかのようである。だから知識伝達はまったくの物理的過程として理解されてしまう。しかし、きちんと分析するならば、言語から何かを学ぶことも、先に述べた原理に基いていることがわかるだろう。子どもが例えば帽子の観念を獲得するのは、帽子を他の人々が使うように使うことによってだということには異論はないだろう。子どもは帽子をかぶり、他人にかぶるよう勧め、外出の時には他の人に帽子をかぶらされたりする。そうやって子どもは帽子の観念を獲得するのである。

⇒ ウィトゲンシュタインの言語使用説とほぼ同じことを述べている。

The importance of language in gaining knowledge is doubtless the chief cause of the common notion that knowledge may be passed directly from one to another. It almost seems as if all we have to do to convey an idea into the mind of another is to convey a sound into his ear. Thus imparting knowledge gets assimilated to a purely physical process. But learning from language will be found, when analyzed, to confirm the principle just laid down. It would probably be admitted with little hesitation that a child gets the idea of, say, a hat by using it as other persons do; by covering the head with it, giving it to others to wear, having it put on by others when going out, etc. (p. 14)


■ 言語は、言語共同体の人間との経験の共有につれて獲得される。

⇒ここもとても重要なので全訳。

言語はさまざまなことについての学びの主な道具となることが多いので、言語がどう使われるかについて確認しよう。赤ん坊はもちろん、単なる音、雑音、音調から [言語との付き合いを] 始めるが、それらにはまだ何の観念もない。音は反応を導くための刺激の一種に過ぎない。ある音は赤ん坊をなだめる効果をもち、ある音は赤ん坊をぴくりと動かすなどである。「ボ-ウ-シ」という音も、もし多くの人々が行う行為とのつながりの中で発せられなければ、チョクトウ語の音、つまりぱっと聞いただけではもごもご言っているだけの音と同じように意味のないままになるだろう。母親が赤ん坊を外に連れ出すとき、母親は赤ん坊に何かをかぶせながら「ボウシ」と言う。外に行くことは赤ん坊にとって興味深いこととなる。母子は共に物理的に外出するだけでなく、外出に共に関心をもつ。外出を共に楽しむのである。活動の他の要因と共起ことにより、子どもにとって「ボウシ」という音は、母にとっての意味と同じ意味をもちはじめる。「ボウシ」という音は、それを伴う活動の記号となる。言語とは、相互に理解可能な音から成り立っているという事実だけで、言語の意味は経験を共有することに依存しているということが示されるだろう。

Since language tends to become the chief instrument of learning about many things, let us see how it works. The baby begins of course with mere sounds, noises, and tones having no meaning, expressing, that is, no idea. Sounds are just one kind of stimulus to direct response, some having a soothing effect, others tending to make one jump, and so on. The sound h-a-t would remain as meaningless as a sound in Choctaw, a seemingly inarticulate grunt, if it were not uttered in connection with an action which is participated in by a number of people. When the mother is taking the infant out of doors, she says "hat" as she puts something on the baby's head. Being taken out becomes an interest to the child; mother and child not only go out with each other physically, but both are concerned in the going out; they enjoy it in common. By conjunction with the other factors in activity the sound "hat" soon gets the same meaning for the child that it has for the parent; it becomes a sign of the activity into which it enters. The bare fact that language consists of sounds which are mutually intelligible is enough of itself to show that its meaning depends upon connection with a shared experience. (pp. 14-15)

⇒「ボウシ」という音の意味は、ある特定の種類の物体を指示しているだけでなく、いわばその物体を水上に現れた部分とする、水面下に膨大な部分をもつ氷山全体を指すと喩えることができるだろうか(しかも私たちはその氷山がどれほど大きいのかを知ることはない)。

⇒ この言語獲得観を、あなたの言語獲得観と比較してみよう。


■ 経験とは、共同の活動で人々の間に能動的なつながりができること。

⇒ ここも重要なので全訳。

つまり、「ボ-ウ-シ」という音が意味を獲得するのは、「帽子」という物体が意味を獲得するのとまったく同じ経緯をたどる。つまりある一定のやり方で使われるという経緯である。「ボ-ウ-シ」という音も「帽子」という物体も、子どもにも大人にも同じ意味をもつようになるが、それはこれらが共有されている経験の中で使われるからである。同じように使われることが確実なのは、これらの物と音が最初に使われるのが共同活動 (joint activity)においてであるからである。これらの物と音は、子どもと大人との間の能動的なつながり (active connection) を築く手段として使われるからである。同じような観念や意味が生じるのは、子どもと大人が互いを相棒として、互いの行動に依拠し影響されるような行為を行うからである。

In short, the sound h-a-t gains meaning in precisely the same way that the thing "hat" gains it, by being used in a given way. And they acquire the same meaning with the child which they have with the adult because they are used in a common experience by both. The guarantee for the same manner of use is found in the fact that the thing and the sound are first employed in a joint activity, as a means of setting up an active connection between the child and a grownup. Similar ideas or meanings spring up because both persons are engaged as partners in an action where what each does depends upon and influences what the other does.  (p. 15)

⇒ 「経験の共有」と言っても、ただ単に同じ場所にいて同じ目に遭うというだけでなく、同じような関心を抱き、同じ活動に従事して、お互いのつながりを感じることまでも意味していることに注意。


■  音をS、物体をTで表記し、それらに似たものをS'とT'で表すと、共同活動の中でS-Tのつながりができると、S-S'のつながりもでき、T-T'のつながりもできる。(もちろん S'-T'のつながりもできる)

⇒全訳

人々が共同で何かを行う中で、音が他の物体とつながりの中で使われて意味を獲得すると、その音は、似た音とのつながりの中で使われるようになり新しい意味を獲得することがある。これはそれらの音が表すそれぞれの物体がつながるのと同じである。

After sounds have got meaning through connection with other things employed in a joint undertaking, they can be used in connection with other like sounds to develop new meanings, precisely as the things for which they stand are combined. (p. 15)

⇒この部分だけを読むととても抽象的だが、この議論は14ページの「ギリシャ兜」などの日常生活では出会わない単語の意味を、人はどのように獲得するのかという問いを受けてのものであり、下に続く文での説明に続くもの。

私の解釈は次のようなもの。子どもは「カ-ブ-ト」という音と「兜」という物体を共同の生活経験で共に使う中で ―ここでは議論のために、子どもの共同体では兜がよく使われているとしよう― 「カ-ブ-ト」という音と「兜」という物体のつながりは(それらを使う大人とのつながりと共に)強くなり、「カブト」ということばが獲得される。そのうち子どもは「ギ-リ-シャ-カ-ブ-ト」という音を聞き始め、それを「カ-ブ-ト」という音とつながるものとして認識する。そうすると子どもは実際には見たことがないにもかかわらず「ギリシャ兜」なる物体を、日頃よく見る「兜」の物体のつながりの中で認識するようになる(要は「カブト」ということばの類推で「ギリシャカブト」ということばを理解し獲得する)。


■ 本や他人からの話から新しいことばを獲得した子どもは、そのことばを使っていた人たちと心の中で相棒になる (becomes mentally a partner)。子どもは、想像力を使って、その人たちと活動を共有するのである。もちろんこれだけで完全な意味を獲得することは難しい。

 Thus the words in which a child learns about, say, the Greek helmet originally got a meaning (or were understood) by use in an action having a common interest and end. They now arouse a new meaning by inciting the one who hears or reads to rehearse imaginatively the activities in which the helmet has its use. For the time being, the one who understands the words "Greek helmet" becomes mentally a partner with those who used the helmet. He engages, through his imagination, in a shared activity. It is not easy to get the full meaning of words.(p. 15)

⇒類推 (analogy) の重要性については私もきちんと勉強したい。





■ 他人との生活の中で役割をもたない単語は意味を獲得しない

⇒全訳

したがってこう結論する。観念を伝えたり獲得したりするために言語を使用することは、物体が共有されている経験や共同の行為において使われて意味を獲得する原理を拡張し洗練させたことで説明される。言語の意味の獲得が、物体の意味の獲得の原理と矛盾することはない。単語が、目に見える形であれ想像上であれ、共有された状況で[重要な役割を果たす]要因にならない場合、単語は単なる物理的刺激にすぎず、意味も知的価値ももたない。そのような単語は一定の活動を続けるが、そこには何の意識的な目的も意味もない。

We conclude, accordingly, that the use of language to convey and acquire ideas is an extension and refinement of the principle that things gain meaning by being used in a shared experience or joint action; in no sense does it contravene that principle. When words do not enter as factors into a shared situation, either overtly or imaginatively, they operate as pure physical stimuli, not as having a meaning or intellectual value. They set activity running in a given groove, but there is no accompanying conscious purpose or meaning. (p. 16)

⇒ 私が単語帳の丸暗記(英語と日本語訳の対連合学習)では、英語が使えるようにならないと主張する理由の一つはこれ。



3. 社会的素材の教育的性質 (3. The Social Medium as Educative)


■ 社会的環境は人々を一定の活動に組み込み、その活動により人々は一定の心的・情動的性向を有するようになる。

⇒全訳

これまでの議論を総括するなら、社会的環境は個々人において行動の心的・情動的性向を形成するが、それは社会的環境によって、個々人が、ある種の衝動を喚起し強化し、ある目的にかない、ある帰結を生じさせる活動に従事させられるからである。

Our net result thus far is that social environment forms the mental and emotional disposition of behavior in individuals by engaging them in activities that arouse and strengthen certain impulses, that have certain purposes and entail certain consequences.  (p. 16)

⇒心的な世界は、自分しかアクセス出来ないようにも思えるが、その起源の一つは社会的環境である(もう一つの起源は、もちろん私たちが共有している身体である)。


■ ある種のものがある種の認識の「対象」(object)となり、他の種のものがならないのは、協同生活に促されてのことである。

In accord with the interests and occupations of the group, certain things become objects of high esteem; others of aversion. Association does not create impulses or affection and dislike, but it furnishes the objects to which they attach themselves. The way our group or class does things tends to determine the proper objects of attention, and thus to prescribe the directions and limits of observation and memory.  (pp. 16-17)

⇒ "Realism"の立場なら、対象とは、人間の営みとは独立な所与であるが、デューイはそうは考えない立場である。あなたはどちらの立場に親近感を覚えますか?


■ 認識は学校以前・以外の日常生活によって作られている。学校教育がなしうることは、その認識をさらに活用したり洗練したりすること、さらには日常生活では得がたい認識対象を与え、日々の活動をより意味に充ちたものにすることである。

Just as the senses require sensible objects to stimulate them, so our powers of observation, recollection, and imagination do not work spontaneously, but are set in motion by the demands set up by current social occupations. The main texture of disposition is formed, independently of schooling, by such influences. What conscious, deliberate teaching can do is at most to free the capacities thus formed for fuller exercise, to purge them of some of their grossness, and to furnish objects which make their activity more productive of meaning. (p. 17)

⇒学校教育を、日々の営みの延長上に考えていることに注意。


■ 社会環境の影響は微妙で広範囲に及ぶものだが、とりわけその影響が強いのは、言語習慣 (habits of language)、マナー (manners) ―小さな道徳でもある―、趣味の良さや審美眼 (good taste and esthetic appreciation)の三つである。

While this "unconscious influence of the environment" is so subtle and pervasive that it affects every fiber of character and mind, it may be worth while to specify a few directions in which its effect is most marked. First, the habits of language. ... Secondly, manners. ... And manners are but minor morals. Moreover, in major morals, conscious instruction is likely to be efficacious only in the degree in which it falls in with the general "walk and conversation" of those who constitute the child's social environment. Thirdly, good taste and esthetic appreciation. But in general it may be said that the things which we take for granted without inquiry or reflection are just the things which determine our conscious thinking and decide our conclusions. And these habitudes which lie below the level of reflection are just those which have been formed in the constant give and take of relationship with others.

⇒それが何を意味するものであれ、「よい」社会抜きに、「よい」教育ができるわけはない。その意味では一般社会の市民が学校の教師に対して関心をもつのと少なくとも同じぐらいの関心を学校の教師は一般社会の市民に対してもたなければならないと私は考える。教育が社会や社会のあり方を決める政治と無関係ではありえない。



4. 特殊環境としての学校 (4. The School as a Special Environment)

■ 教育とは、究極のところ、環境の制御であって、人は「直接的に」教育することはできない。

⇒非常に重要な箇所だと思うので全訳

良かれ悪しかれ続いている教育の過程についてこれまで言及してきたが、この言及で大切なことは、未成熟な子どもが受ける教育を大人が意識的に制御できる唯一の方法は、子どもが行動する ―したがって考え感じる― 環境を制御することだけであることに私たちが気づくことである。私たちは直接的には教育しない。環境によって間接的に教育するだけである。これは、偶然の環境が教育を行おうが、成果を生み出すために環境をデザインするかどうかにかかわらず言えることである。また、いかなる環境であれ、それが教育効果に即して意図的に管理されているのではないのなら、それは教育的影響に関しては、偶然の環境であると言える。

The chief importance of this foregoing statement of the educative process which goes on willy-nilly is to lead us to note that the only way in which adults consciously control the kind of education which the immature get is by controlling the environment in which they act, and hence think and feel. We never educate directly, but indirectly by means of the environment. Whether we permit chance environments to do the work, or whether we design environments for the purpose makes a great difference. And any environment is a chance environment so far as its educative influence is concerned unless it has been deliberately regulated with reference to its educative effect. (p. 18)


■ 学校は、社会が複雑になり、かつ、日常生活では修得しがたい書きことばで知識の蓄積がされるようになると発達する。

Roughly speaking, they come into existence when social traditions are so complex that a considerable part of the social store is committed to writing and transmitted through written symbols. Written symbols are even more artificial or conventional than spoken; they cannot be picked up in accidental intercourse with others. In addition, the written form tends to select and record matters which are comparatively foreign to everyday life. The achievements accumulated from generation to generation are deposited in it even though some of them have fallen temporarily out of use. Consequently as soon as a community depends to any considerable extent upon what lies beyond its own territory and its own immediate generation, it must rely upon the set agency of schools to insure adequate transmission of all its resources.  (p. 19)

⇒ 学校が未来の社会の知識の基盤を規定することになるだけに、教育内容の選定は重要。


■ 学校での教育的環境と学習者の結びつきには、少なくとも三つの特徴がある。第一の特徴は、複雑な文明社会の知識内容を一気に学ぶことはできないので、学校は社会環境を簡素化し、選択し、易から難へと適切な順番に並べる。さもないと知識内容は伝わらず、子どもはせいぜい混乱するだけである。

This mode of association has three functions sufficiently specific, as compared with ordinary associations of life, to be noted. First, a complex civilization is too complex to be assimilated in toto. It has to be broken up into portions, as it were, and assimilated piecemeal, in a gradual and graded way. The relationships of our present social life are so numerous and so interwoven that a child placed in the most favorable position could not readily share in many of the most important of them. Not sharing in them, their meaning would not be communicated to him, would not become a part of his own mental disposition. There would be no seeing the trees because of the forest. Business, politics, art, science, religion, would make all at once a clamor for attention; confusion would be the outcome. The first office of the social organ we call the school is to provide a simplified environment. It selects the features which are fairly fundamental and capable of being responded to by the young. Then it establishes a progressive order, using the factors first acquired as means of gaining insight into what is more complicated. (pp. 19-20)


⇒簡素化し、選択し、順番を整えるのが、知識内容そのものではなく、環境であると書いてあるところに注目したい。


■ 学校での教育的環境と学習者の結びつきの二番目の特徴は、学校は不要であったり望ましくない環境を取り除くという選択をすることである。学校は過去のすべてを伝え、保つことに責任をもつわけでなく、よりよい未来社会をつくるものを伝え、保つことに責任がある。

In the second place, it is the business of the school environment to eliminate, so far as possible, the unworthy features of the existing environment from influence upon mental habitudes. It establishes a purified medium of action. Selection aims not only at simplifying but at weeding out what is undesirable. Every society gets encumbered with what is trivial, with dead wood from the past, and with what is positively perverse. The school has the duty of omitting such things from the environment which it supplies, and thereby doing what it can to counteract their influence in the ordinary social environment. By selecting the best for its exclusive use, it strives to reinforce the power of this best. As a society becomes more enlightened, it realizes that it is responsible not to transmit and conserve the whole of its existing achievements, but only such as make for a better future society. The school is its chief agency for the accomplishment of this end. (p. 20)

⇒ここで、教育は明らかに価値に基づいた営みであることが再確認される。


■ 学校での教育的環境と学習者の結びつきの三番目の特徴は、学校は伝えられるべき教育的環境を選択するだけでなく、それをバランスよくまとめ、子どもが自分の属する社会的集団の限界を超えることができるようにすることである。

In the third place, it is the office of the school environment to balance the various elements in the social environment, and to see to it that each individual gets an opportunity to escape from the limitations of the social group in which he was born, and to come into living contact with a broader environment. Such words as "society" and "community" are likely to be misleading, for they have a tendency to make us think there is a single thing corresponding to the single word.  (p. 20)

⇒ これに続いて、下の引用があり、現代社会の分断と統合について教育がなすべきことが語られる。


■ 現代社会とは、小さな社会がいろんな度合いで、ゆるくつながった社会である。

As a matter of fact, a modern society is many societies more or less loosely connected. Each household with its immediate extension of friends makes a society; the village or street group of playmates is a community; each business group, each club, is another. Passing beyond these more intimate groups, there is in a country like our own a variety of races, religious affiliations, economic divisions. Inside the modern city, in spite of its nominal political unity, there are probably more communities, more differing customs, traditions, aspirations, and forms of government or control, than existed in an entire continent at an earlier epoch.  (p. 20)

⇒ルーマンの『社会の社会』の翻訳者は、"Gesellschaft"(society)をわざわざ「全体社会」と訳しているが、上記の"a modern society is many societies more or less loosely connected"という意味での「現代社会」は、「全体社会」と言い換えるとわかりやすいかもしれない。しかし、私は「全体社会」と聞くと、どうも全体主義のことを想起してしまうので、どうもこの「全体社会」ということばには馴染めない。

参考記事
N.ルーマン著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009) 『社会の社会 1』法政大学出版局
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/06/n-2009-1.html


■ 現代社会は、多種多様・多層的に分化しながら、ゆるくつながりあっているので、そのつながりを一つのまとまりにするためには、教育が若者に均質でバランスのとれた環境を提供する必要がある。

In the olden times, the diversity of groups was largely a geographical matter. There were many societies, but each, within its own territory, was comparatively homogeneous. But with the development of commerce, transportation, intercommunication, and emigration, countries like the United States are composed of a combination of different groups with different traditional customs. It is this situation which has, perhaps more than any other one cause, forced the demand for an educational institution which shall provide something like a homogeneous and balanced environment for the young. Only in this way can the centrifugal forces set up by juxtaposition of different groups within one and the same political unit be counteracted. The intermingling in the school of youth of different races, differing religions, and unlike customs creates for all a new and broader environment. Common subject matter accustoms all to a unity of outlook upon a broader horizon than is visible to the members of any group while it is isolated. The assimilative force of the American public school is eloquent testimony to the efficacy of the common and balanced appeal. (p. 21)

⇒この点からすると、単なる制度・予算上の公営、私営といった区分を超えて、学校教育とはすべからく、公共的で公有すべきpublicなものと言えるだろう。


■ 学校教育は、社会のまとまりを促進すると共に、そのまとまりの中にある多様性や差異にどう対応するかということを教えなければならない。

The school has the function also of coordinating within the disposition of each individual the diverse influences of the various social environments into which he enters. One code prevails in the family; another, on the street; a third, in the workshop or store; a fourth, in the religious association. As a person passes from one of the environments to another, he is subjected to antagonistic pulls, and is in danger of being split into a being having different standards of judgment and emotion for different occasions. This danger imposes upon the school a steadying and integrating office. (pp. 21-22).

⇒この多様性と差異の点を忘れると、教育は抑圧的なものになる。かといって、多様性と差異ばかりを強調すると、教育はまとまりのある政体を生み出すこともできなくなるだろう。


要約 (Summary)

The development within the young of the attitudes and dispositions necessary to the continuous and progressive life of a society cannot take place by direct conveyance of beliefs, emotions, and knowledge. It takes place through the intermediary of the environment. The environment consists of the sum total of conditions which are concerned in the execution of the activity characteristic of a living being. The social environment consists of all the activities of fellow beings that are bound up in the carrying on of the activities of any one of its members. It is truly educative in its effect in the degree in which an individual shares or participates in some conjoint activity. By doing his share in the associated activity, the individual appropriates the purpose which actuates it, becomes familiar with its methods and subject matters, acquires needed skill, and is saturated with its emotional spirit.

The deeper and more intimate educative formation of disposition comes, without conscious intent, as the young gradually partake of the activities of the various groups to which they may belong. As a society becomes more complex, however, it is found necessary to provide a special social environment which shall especially look after nurturing the capacities of the immature. Three of the more important functions of this special environment are: simplifying and ordering the factors of the disposition it is wished to develop; purifying and idealizing the existing social customs; creating a wider and better balanced environment than that by which the young would be likely, if left to themselves, to be influenced.

⇒自分のことばでまとめてみて、かつ、できるだけ自分の生活実感と重ねあわせてください。





授業を受講している院生のコメント抜粋です。










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