この本は、医師でありかつ脳性まひの当事者でもある熊谷晋一郎さんによる、自らの身体(および官能)に関する当事者研究です。「なぜ自分はこのようにしょっちゅう転倒してしまうのだろうか」という問いに対して、「それは脳性まひだから」というおざなりの答えですまさずに、熊谷さんは次のような記述・説明を目指します。
もっと、私が体験していることをありありと再現してくれるような、そして読者がそれを読んだときに、うっすらとでも転倒する私を追体験してもらえるような、そんな説明が欲しいのだ。つまり、あなたを道連れに転倒したいのである。(22ページ)
読者の一人として、私は転倒させられました(たとえそれが私のからだで想像できる範囲の転倒であったにせよ)。医学的知識に加えて、神経科学・認知科学の知見、そして何よりも周到な自己分析と紋切り型に回収されない分析的記述に私は魅了されました。「当事者研究」についての関心から、昔買ったままにしていた本書を読みましたが、脳・意識・からだ・世界についていろいろと考えさせられ、啓発されました。
以下は、いつものように私なりの関心からの本書のまとめです(熊谷さんが意図していた主旨からは若干外れているでしょうからご注意を)。
1 脳・意識・からだ
脳、意識、からだの三者を語る場合、しばしば「脳/からだ」という対立で意識が無視されたり、「意識/からだ」という対立で脳が忘れ去られたりします。しかしこれら三者は、分けて考えることができるものの、互いに連続したものであり、外国語習得を含む技能獲得のことを解明するためには、これら三者の関係を的確に理解しておく必要があります。
1.1 脳と運動
自らの障害を説明するために、熊谷さんはまず脳と運動に関する科学的知見を整理します(24-31ページ)。その整理をさらに簡潔にまとめますと、次のようになるかと思います(まとめには私のことばが入っていますのでご注意ください。繰り返すようですが、この本に興味をもった方は必ずご自身でこの本を読んでください)。
運動が起こる順序は次の5段階に分けられる。
(1) 補足運動野・運動前野での運動プログラムの作成
補足運動野・運動前野(参照:ブロードマンの脳地図)で、これから行う運動プログラムが作られる。
(2) 後部頭頂葉での自らの意思の知覚
運動プログラムが後部頭頂葉に遠心コピーされ、人はそこではじめて自分の中にこれから行う運動への意思を感じることができる。
(3) 後部頭頂葉の内部モデルによるシミュレーションと、それによる未然の運動の感覚
後部頭頂葉にある内部モデルというプログラムで、運動プログラムのシミュレーションがなされ、人はそこで、まだ実際にはからだが動いていないにもかかわらず、自分の意思にしたがってからだが動いたかのように感じる。
(4) 一次運動野での計算と指令による実際の運動
シミュレーションの終わった運動プログラムが一次運動野に転送され、筋肉運動などの計算が行われ、運動指令が送られ、実際にからだが動く。
(5) 実際の運動結果からのフィードバック
運動結果が一次運動野や前部頭頂葉にフィードバックされる。フィードバック情報は大脳基底核で(1)の運動プログラムと比較され、右下部頭頂葉で(3)の内部モデルと比較される。比較の結果、乖離があれば、運動プログラムや内部プログラムが修正される。
この5段階で注目に値する点として、熊谷さんは、(1)と(2)の前後関係、(3)と(4)の前後関係、および(4)から(5)の遅延時間の三点をあげます。
(1)と(2)の前後関係については、人は意思を立ちあげてから運動プログラムを作成するのではなく、人が意思を自覚する以前に脳は(当人からすれば無意識の領域で)運動プログラムを作動させているということです。
(3)と(4)の前後関係は、人は実際に動くよりも前に、自分が動いているという感覚を得ているということです。(関連記事:「自由意志」―神経科学・村上春樹・仏教― やれやれ )
(4)から(5)の遅延時間とは、運動指令が出てから、その運動結果が大脳皮質にフィードバックされるまでに0.2~0.3秒程度、意識に上るまでには0.5秒程度の時間がかかってしまうということです。
これらの知見を、脳-意識-からだの関係からまとめますと、次のようにまとめられるのでしょうか。 (a) 脳が運動開始のための準備をするのは、その運動への意思を意識の上で覚えることに先立つ。
(b) 意識は、実際にからだが動く前に先立って、運動の感覚を覚える。
(c) からだは脳の予測(シミュレーション)によって動きはじめるが、もし予測が外れた場合、そこからのフィードバック情報を得るのは0.2~0.3秒程度遅れてからである。
(d) 意識がフィードバック情報を得るのは0.5秒程度遅れてからである。意識によって動くことは、無意識(非意識)の脳の働きで動くことに比べて、圧倒的に遅い。
このように人間が、無意識的運動プログラムと意識的内部モデルという二種類のシミュレーション予測をもとに動いているということは、素人考えですが、武術でしたら、「客観的」に見たらそれほどまでに速いとも思えないAの動きに対して、Aの相手をしていたBは「まったく見えなかった。気がついたら倒されていた」と語る技につながっているのかもしれません(私も何度もこのような技をやられたことがあります)。Bがこれまでに経験したことがないし、経験から予測することもできないような動きをAがすれば、Bはシミュレーションができず動きにまったく対応できないでしょう。ですから、実際に相手に当て身を入れられたり投げられたりして、からだからのフィードバックをBが意識化したときには、相手のAは涼しい顔をしてBを見下ろしているというのは納得できるように思います。
脱線ついでに書きますと、約1年前にThe New York Timesに掲載されたエッセイで、Andy Clark(最近、翻訳書『現れる存在―脳と身体と世界の再統合』が出版されました)が、人間の知覚 (perception) において、予測 (prediction)が基盤となっていることをわかりやすくまとめていました。以下は、予測を有効に使う脳のメカニズムが示唆している意味合いをまとめたパラグラフです。
All this, if true, has much more than merely engineering significance. For it suggests that perception may best be seen as what has sometimes been described as a process of “controlled hallucination” (Ramesh Jain) in which we (or rather, various parts of our brains) try to predict what is out there, using the incoming signal more as a means of tuning and nuancing the predictions rather than as a rich (and bandwidth-costly) encoding of the state of the world. This in turn underlines the surprising extent to which the structure of our expectations (both conscious and non-conscious) may quite literally be determining much of what we see, hear and feel.
このような脳の予測をAndy Clarkは"predictive coding"と呼んでいるようです。以下は、Edgeでの解説です。
The basic idea is simple. It is that to perceive the world is to successfully predict our own sensory states. The brain uses stored knowledge about the structure of the world and the probabilities of one state or event following another to generate a prediction of what the current state is likely to be, given the previous one and this body of knowledge. Mismatches between the prediction and the received signal generate error signals that nuance the prediction or (in more extreme cases) drive learning and plasticity.
いずれにせよ、脳・意識・からだの関係については、もう一度まとめ直しますと、
(i) 無意識(非意識)の脳の働きが、予測により実際の運動や知覚に先立ってプランを立て人間はそのプランにより動き始めること、
(ii) 意識がそのプランを自覚するのは無意識(非意識)の脳の働きよりも遅れてのことであること、
(iii) からだからのフィードバックを脳が得るには時間がかかること、
(iv) 意識がフィードバックを得るにはもっと時間がかかること、
(v) 運動や知覚の修正は脳や意識がフィードバックを得た後におこなわれること、
となるかと思います。
こうしてみると、予測の基になる無意識(非意識)での蓄積、すなわち経験の質と量が、素早く的確な動き・知覚には大切だなと改めて考えさせられます。外国語学習でもインプット(リスニング・リーディング)の質と量が十分でないうちに、アウトプット(スピーキング・ライティング)を強要しても、そのアウトプットは非常にぎこちない(時間はかかるし、状況にも即していない)ものであることは、私たちが日頃観察していることですが、それは上記の説明からも納得できるように思います。
1.2 意識と運動
上の項で、意識は運動のいわば「主人」ではないこと、つまり意識(だけ)が動きを開始し制御していることではないことが確認されました。意識は動きのプランを無意識(非意識)の脳に遅れて自覚し、からだからのフィードバックも無意識(非意識)の脳より遅れて自覚するにすぎません。
考えてみますと、人間には200以上の骨、100以上の関節、約400の骨格筋があると言われています。意識だけで、これら一つ一つに迅速かつ的確に指令を出しこれらを制御するのは無理というものでしょう。
熊谷さんは、ロシアの運動生理学者ベルンシュタイン (Nikolai Bernstein) の「身体内協応構造」(『デクステリティ 巧みさとその発達』)の考えに基づき、からだには「多数の筋肉が各々ばらばらに意識からの指令を待っているようなトップダウンの「縦の関係」だけでなく、意識からの指令を待たずに、ある筋肉の動きが他の筋肉の動きと、緩やかなつながりを持ちながら互いに拘束しあっている「横の連携」がある」ことを示唆しています。
私たちの日常感覚でも動きが動きを呼ぶ、あるいはからだのあり方が次のからだのあり方を決めるように思えることは多々あります(私はここで不如意な外国語での発話の失敗や、武術の稽古でなかなか抜けない日頃の惰性的な動きなどを考えています)。ともあれ、からだは脳や意識だけでなく、からだ自身によってもコントールされていると考えてもいいのでしょう。
それでは意識は無用の長物かといえば、そうではありません。意識が進化の過程で出現したからには何らかの機能があると考えるべきでしょう。実際、意識は人間に立ち止まって考えることを可能にしています。(無意識・非意識の)脳や、互いに拘束しあっているからだの諸部分の、いわば自動的で固定的なパターンをいったん脇において、行動を抜本的に変容させる長期的な戦略を練ることは、意識の得意とするところではないでしょうか(もちろんその際、意識は言語などの媒体を巧みに使用することが多いのですが)。
脳・意識・からだを、連続的に考え、かつその3つそれぞれ固有の働きをより理解することが必要かと思います。
2 二者間の三種類の関係
この本で私がとりわけ興味をひかれたもう一つの論点は、人間関係の種類です。熊谷さんは、脳性まひ患者として、他人であるトレイナーに自分自身の身体運動に介入されるという経験を、とりわけ子ども時代に多く積みました(近年でも介護を必要とする時などにはやはり他人からの介入を受けます)。熊谷さんは、トレイナーである他人と、トレイニー(トレイニングの受け手)としての自分の関係から、(A)「ほどきつつ拾い合う関係」、(B)「まなざし/まなざされる関係」、(C)「加害/被害関係」の三種類の類型を設定します。ただしこれらの三種類の二者関係は、従事している目標によって、不安定に推移しうるものです(199ページ)。
2.1 ほどきつつ拾い合う関係
「ほどきつつ拾い合う関係」とは、合気道の「取り(捕り)」(技を掛ける側)と「受け」(技を受ける側)の間の関係性と似ているかと私は思いました。合気道では技を掛ける側(取り)だけでなく、技を受ける側(受け)に高度な技術が必要です。合気道で技を受けるとは、技に掛かるまいと抵抗して踏ん張ることではなく、かといって、ただ何もせずに技に掛かるがままになることでもありません。合気道では、技を掛けられた方は、相手の動きに即しつつも自らの自主性というか自立性を決して失わずに、いつでも反撃できる態勢を保ったまま、しかし最終的には相手の技に敢えて掛かります。合気道の稽古は約束稽古(=試合形式の自由な応戦ではない、役割を予め決めた稽古)なので、技に掛けられたほうが突然に逆転して反撃をすることは通常しませんが、技を掛けられる方は、相手を受け入れながらも自分で能動的に動き、常に(いってみるなら)「受動的能動性」を保ちます。あるいはことばを換えるなら、相手との関係性で動きながらも自らの独立性を保つ「相対的独立性」を稽古しているといえます。この「受け」の稽古は、いかなる状況でも自己を失わない稽古でもあるといえるかと思います(すみません、私は合気道の初心者なので、この記述は粗すぎたり間違っているかもしれません。でも素人の妄想をさらに重ねれば(苦笑)、こういった「受動的能動性」あるいは「相対的独立性」は社交ダンスの動きなどにもあるのではないでしょうか)。
熊谷さんが説明するトレイナーとトレイニーの関係において、トレイナーがトレイニーの「腕を引っ張り」、トレイニーの「腕が伸びる」という現象でも、もし両者が「ほどきつつ拾い合う関係」にあれば、単にトレイナーが能動的でトレイニーが受動的ということではありません。
トレイナーは、私の腕の伸びぐあいや筋肉の張りを感受しながら、「腕を引っ張る」力の強さを調節しているのであって、そういう意味では、私の「腕が伸びる」が能動的で、トレイナーの「腕を引っ張る」が受動的ともみなしうるのだ。このように、私の腕の動きとトレイナーの腕の動きのあいだには、相互に情報を拾い合い、影響を与え合う関係が、ある程度成立している。
このようなときには、私の動きによってトレイナーの動きをある程度操ることができる。たとえば、腕を引っ張ってほしければ、わずかに私の腕をトレイナーの側に差し出して、もどかしそうにぎこちなく私の腕を伸ばそうとすればよい。そうすると、トレイナーは催眠術にかかったように、私の腕を伸ばしにかかるだろう。
このようにお互いが相手の腕を探り合っているときは、二人の意識の中で「私の腕」と「トレイナーの腕」が、これから関係を取り結ぼうとする接触点としてまなざされている。こうして、二人の身体が調和しつつあるときというのは、二人のまなざしが注がれる先がそろってくる。 (75ページ)
上の合気道の説明は、技を受ける側(受け)の立場から行いましたが、技を掛ける側(取り)の方から説明しても、「ほどきつつ拾い合う関係」が合気道でも成立していると思います。技を掛ける方は、決して相手を引っこ抜くように馬鹿力で技を掛けてはいけません。相手の抵抗がもっとも少ない方向を瞬時にかつ刻々と感知し、その方向に、意識的な力を最小にして技を掛けるのが合気道の稽古です(しかし同時に、両者のからだ全体の態勢関係から最大の力が出るように態勢を調節することも行なっています)。
こうしてみると、合気道は、人間関係への感性の稽古であるとも言えるかもしれません(さらに言うなら、からだのあり方から心のあり方を知り、からだを整えることで心も整える稽古であるのかもしれません ― 繰り返しますが、私は自分の一知半解を恐れます。てか、合気道、まったくの白帯だし(爆笑))。
「人間関係への感性の稽古」は、熊谷さんの表現を借りるなら、身体の調和、およびまなざしの注ぎ先がそろうこと、でしょうか。熊谷さんは、二人の身体が調和しまなざしの注ぎ先がそろうと、二つの身体が融合するとも表現します(75ページ)。そこではお互いが「相手の動きを想像的に取り込む作業」 ―一種の予測と言ってもいいかと思います― を通じて、相手の動きの中に入っていくからです(75ページ)。そうして二者がお互いの動きの中に入り合っていくと、二人のまなざし先もそろってきます。
こうして調和が目指されているときに、互いが相手の身体に入り込みあい、まなざしを二人が共有することになる。このような、つながりつつある二人が共有する「一つの対象に向かう複眼的なまなざし」を、「融和的なまなざし」と呼ぶことにしようと思う。このまなざしは、私一人の身体やそこからの単眼的な視点に収まっていないという意味で、客観性を備えていると言える。(76ページ)
この「客観性」ということばは印象的です。この場合の「客観性」とは、決して無関心な第三者による観察といった客観性ではなく、複数の目が一つの対象(それは世界の実在物であったり、心の中に描いているシミュレーションやプランでもあります)を見つめている、いわば「複眼性としての客観性」と言えるでしょうか。(純粋な疑問: ここでintersubjectivityという用語を使うべきでしょうか)。枠組みや関心を共有する他者と、まなざしの注ぎ先がそろい、未来への見立ても重なりあうときに成立する「客観性」について、考えを深めていきたいと思います(「客観主義」への批判としての参考記事:ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店、マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店、ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房)
2.2 まなざし/まなざされる関係
ここでの「まなざし/まなざされる関係」とは否定的含意をもって描かれています。トレイナーとトレイニーの関係でいえば、トレイニーをまなざすトレイナーを、熊谷さんは次のように表現します。
課題訓練中のトレイナーというのは、生身の身体を持った「ほどきつつ拾ってくれる他者」というよりは、手も視界も届かないはるか高い場所から一方的に私をまなざすばかりの「超越的な他者」であった。そしてまなざしは、すべて私のほうへと向いていた。(132ページ)
このまなざすトレイナーは、トレイニーの心身の状態にほとんど関心をいだかず共感もしようとしないまま、冷徹な第三者として(あるいはトレイニーの世界からすれば「超越した者」として)「客観的」に裁定や指示を下そうとしている者といえるでしょう。
浅薄で頑なな「客観主義」がはびこるにつれ、リハビリテーションや教育の場にも、このような超越的=客観的な裁定者・指導者が「よい」トレイナーや教師としてもてはやされようとしているのかもしれません。あるいは、現場のことをほとんど理解できない者が「客観主義」的に机上で作った制度によって、本来は相手に寄り添うことを目指すべきトレイナーや教師が、超越的=客観的な裁定者・指導者になるように仕向けられているというべきでしょうか。
英語教育の世界でも文部科学省主導で、ちょっと前は「興味・関心・態度」を、素早く「客観的」に評価する方法などが仰々しく語られていました。昨年は、雨後のタケノコのようにCAN-DOリストの作成についての講習会が開かれました。一体この騒ぎはなんでしょうか。これらの制度で、学習者がのびのびと成長するのでしょうか(それともこの制度は、「お上の世界の大人の事情」に現場教師と学習者を合わせるための騒ぎでしょうか)。私はこれらの制度を善意あるいは焦りから設計する為政者や研究者の前提に、「超越的=客観的な裁定者・指導者こそが合理的であり科学的であり、英語教師もかくあるべきだ」といった考えが無批判に抱かれ、それが時に暴走しないかと懸念しています。
話を戻しますと、少年時代のトレイニングで、熊谷さんはトレイナーに「ほら、頼らずにもっと主体的に動かして!」と言われておそるおそるからだを動かしてみるとすぐに「ちがう!」と言われ続けました。「まなざし/まなざされる関係」でまなざす側がまなざされる側に求める「自発的に」ということばは、同時に「自らすすんで私 [=まなざす側] に従え」という命令も含まれていると熊谷さんは分析します。一方的にまなざされる側の「主体」とは、まなざす側の命令への「従属」とセットになっているのです(70ページ)。
熊谷さんは次のようにまとめます。
このような関係では、私の体だけではなく、私の努力の仕方や注意の向け方などの内面までもがトレイナーによって監視されている。これはつまり、体だけではなくて心にも介入されているような事態である。
このようにして《まなざし/まなざされる関係》のような状況では、うまく動けない責任を「私自身」に負わされるような焦りが生じることになる。そしてその焦りが、私の身体内協応構造を強め、悪循環へと陥らせていくのである。(70-71ページ)
「違う!」と叱責しかしないスポーツコーチの前でパフォーマンスをしなければならないことや、問い詰めるしかしない教師の前で発言しなければならないことを思い起こすなら、自分のからだと心の主体性が奪われ、からだはますますこわばり、心はますます焦る経験をした記憶がある人は多いのでしょう。
もちろん人間の社会化に、他者の心身の取り込みがあるとしたら、「まなざされる」者の心身が、「まなざす」者の心身のあり方に影響を受けるというのは不可避です。私たちは他者のあり方をいろいろと取り込みます。しかし自分の心身に他人の心身が過剰に侵入してくると、これは自己を失うことにつながりかねません。指導において指導者の焦りや「善意」から、学ぶ者の力を損ねているかもしれないことに、私たちはもう少し思いを馳せるべきでしょう(そういえば『発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』ではこのあたりの分析がなされていました。後日読み返さなくては)。
2.3 加害/被害関係
加害/被害関係とは、上のまなざし/まなざされる関係が固定化され暴力的になった関係といえましょうか。そこにあるのは「痛みと怯えと怒り」あるいは「固まりと恐怖」です(67ページ)。熊谷さんはこう述懐します。
トレイナーの動きは、私の動きとはまったく無関係に遂行されていて、私の体が発する怯えや痛みの信号はトレイナーによって拾われない。トレイナーは交渉することのできない他者、しかも強靭な腕力を持った他者として私の体に力を振るうのだ。 (67ページ)
(英語)教育において、この三種類の関係はどのように観察されるでしょうか。
教師と学習者の関係は、ほどきつつ拾い合う関係でなく、まなざし/まなざされる関係、いやそれどころか加害/被害関係に固定化されていませんでしょうか。
同様に、指導主事や外部講師といった教育行政権力者も、教師に対して、ほどきつつ拾い合う関係でなく、まなざし/まなざされる関係、いやそれどころか加害/被害関係に固定化されていませんでしょうか。
私としては、これらの考えをきっかけに、いろいろと観察と思考を重ねてゆきたいと思います。
3 からだと環境
3.1 からだと規範
と、あたかも「ほどきつつ拾い合う関係=善、まなざし/まなざされる関係=悪」とでも含意してしまうような書き方をしてしまいましたが、前にも短く述べたように、社会化には、まなざす他人の視線を取り込むということがあります。
人は皆、成長のある段階で、実際の他者にまなざされながら規範を覚えていく。やがて規範をほぼ習得し終えることになると、他者がいなくても自分で自分を監視するようになる。さらに規範が体の一部のように当たり前のものになれば、とりわけ自分や他者から注がれる監視のまなざしを意識しなくてもよくなり、いわば「心の欲するところにしたがいて矩を越えず」の状態になる。
これはつまり、自由意思に基いて主体的に動いているという感覚のままで、規範から逸脱しないという状態になれるということだ。「まなざし」や「規範」というものが、世界についての予期や行動原則を構成する内部モデルの別名だと考えれば、それは、他者の内部モデルを、自らの内部モデルとして取り込んだ状態ともいえるだろう。 (126ページ)
つまり私のからだは、自分自身のからだでありながらも、他者の規範を取り込んだからだとなるわけです。からだを、単に生理学的対象と見るのは明らかに限定された見方であり、からだを考える際に、私たちは規範といった社会性を考慮する必要があります。
3.2 からだの動き
規範を内部モデルと抽象化・一般化するなら、私たちは自分のからだが動く際に関与している対象(人間や物体)と内部モデルを共有していると、なめらかに動くことができるとなります(「物体との内部モデル共有」というのは少々奇妙な表現ですが、要は、物体の動きの物理法則を私たちが理解しているということです)。
運動を繰り出す側とそれを拾う側とのあいだに、あらかじめある程度「こう出れば、こう返ってくる」という了解事項を共有する必要がある。それは、応答するのがモノであっても人であっても、である。応答する側には、相手が大体どのような運動を繰り出すかについての予測があるからこそ運動を拾うことができるのだし、運動を繰り出す側についても、その予期を大きく裏切らない運動を繰り出す限りにおいてそれを拾ってもらうことができるからだ。 (164ページ)
この内部モデル共有と二者(私と他者・モノ)の関係については、二つの順番が考えられます。一つは、まなざし/まなざされる関係で見られる「内部モデルの習得→つながり」、もう一つは、ほどきつつ拾いあう関係で見られる「つながり→内部モデルの習得」の順番です。
「内部モデルの習得→つながり」の順番でからだの動きを考えれば、私は他者(典型的にはトレイナー)が示す「正しい動き」を学び、その規範を内面化しかつその規範通りに自分のからだを動かせるようになって、はじめて他者とつながることができると考えます。
しかし、「つながり→内部モデルの習得」の順番もあります。そこで私は、他者やモノといった環境とのほどきつつ拾い合う」関係に身をゆだねながら、他者やモノとの交渉によって、自らのオリジナルの動きと内部モデルを立ちあげます(161ページ)。そしてさらに交渉を重ね内部モデルを洗練してゆきます。これが「つながり→内部モデルの習得」です。
外国語学習においては、圧倒的に「つながり→内部モデルの習得」の順番で物事が考えられていると思います。しかし、外国語学習においても「つながり→内部モデルの習得」の順番で物事を考えることはできないか、というより実際にその順番で考える方が自然な現象は実際にあるのではないか。教師と生徒の関係も、「内部モデルの習得→つながり」だけで考えて、教師が生徒を馴致してはじめて教師と生徒の関係が築けるのか、それとも教師と生徒が互いにつながろうとしながら、内部モデルが立ち上がってくるのか -- 無論、現実世界には両方の順番があるのでしょうが、片方の順番でしか物事を考えないようにはなりたくないと思います。
いろいろと考えさせられる本でした。皆さんもご興味があれば、ぜひご一読を。
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石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013.html