綾屋紗月さんは自らの半生を我が子に語る文章の中で、幼児期から自分が感じている感覚をこのように表現します。
植物やモノと話しているときには、うきうきした気分がします。春の雨あがりの地面にしゃがむと、あたたかくて湿気を含んだ土の匂いが立ち上ります。顔を近づけると枯れ草の中に小さくて潤んだ青い葉っぱがたくさん顔を出しています。「こんにちは! こんにちは!」「いい天気だね!」小さくてかわいい声が聞こえます。「ほんとね、今日はあったかいね」 お母さんもそれに応えます。(2009, 21)
共感する皆さんも多いのではないでしょうか。私もこのような感覚になるときがありますし、できればいつでもこんな感性を保っていたいとも思います。
綾屋さんは、我が子が生まれたときの様子を次のようにも描写します。
「生まれたての赤ちゃんなんて、ただ泣くだけできっと何もわかってないだろう」。そんな予想は見事にはずれました。生まれてすぐから赤ちゃんはとてもおしゃべりなのです。なんでもわかっていそうな潤んだきらきら光る目で、赤ちゃんはお母さんのことをじぃっと見つめます。興味津々であたりを見回します。おっぱいが飲みたいときには初めは口をとがらせて舌をすばやく動かしていますが、それでも気づいてもらえないと我慢できずに泣き始めます。機嫌がいいとひょこひょこと体全体を小刻みに揺らします。音楽を流すと動きをとめて聞き入り、やがて眠ります。機嫌が悪いときの泣き方は、初めは意味がわからなかったけれど、「あれかな、これかな」と試行錯誤しては泣きやむということを繰り返すうちに、「おなかが気持ちわるい」「苦しいから抱っこしろ」「ねむい」と、だんだんおたがいに通じる「鳴き声のそれぞれの意味」ができあがっていきました。 (2009, 77-78)
世の中の多くの人が、こんなふうに赤ちゃん、あるいはことばに不如意な人とコミュニケーションを取ることができたら、世界はどれだけ優しい場所になれるでしょう。私はこのような人に憧れます。尊敬しているといってもいいでしょう。
石川賢治さんの月光写真展を訪れたときの様子については、綾屋さんは次のように語ります。
暑い夏のギラつく日差しから一転、こぢんまりとした展示室内は涼しくて薄暗く、写真同様の青い世界に仕立ててあり、虫や波の音が静かに聞こえてくる。まるで一足早く秋の月夜を迎えたようで、胸の奥をぎゅっとつかまれるような、あの秋の夜長の寂寥感におそわれながら、私は大きなパネル写真の前で、どっぷりと自分の身体が月光の世界に溶け込んでいく感覚を味わった。 (2008, 178)
わかります。この感覚は私もわかります。私もできればこのような感覚を共有できる人と共にいたい。
この感覚の細やかさは、まさに繊細なものです。写真展での体験について綾屋さんは次のように続けます。
一巡した後、せっかくだから写真集を買おうと思い、展示室から販売コーナーへ移動する。しかし明るい蛍光灯の下に出てしまうと、それまで体をまとっていた安全で静寂な闇がはがれ、急に服を脱がされたかのように居心地が悪くなった。白い光のなかでいくらぱらぱらと写真集をめくってみても、あの展示室のなかで、全身であじわった写真との一体感を追体験することができない。こりゃあ、だめだ。 (2008, 178-179)
この体験に基づき、綾屋さんは自分の感覚を次のようにまとめます。
私は写真集の購入をあきらめ、もう一度展示室に戻った。いちばんのお気に入り写真の真ん前のベンチに腰かけて、再び写真のなかへ溶けていく。薄暗く青い光。虫の声。自分が森のなかで暮らす野生動物であるかのような気分になってくる。遠くで他の動物が歩き、カサカサと葉が擦れ、枯れ枝がパキッと折れる音も聞こえてきそうだ。全身が耳。あらゆる気配を耳で感受する。 「そうか。自分の感覚は月夜の森のような世界にちょうどいいのか」と、そのときふと思い至った。 (2008, 179)
月夜の森のような世界にちょうどいいような感覚をもった人 ― 私はそのような感覚を理解できます。しかし私は俗世にまみれ権勢に巻き込まれ、次々にそんな感覚を「常識」や「知識」、あるいは「正しいこと」や「善いこと」と俗世で呼ばれている鈍感な概念で否定していて、それが結構嫌だったりします。だから自分は、このような感覚をもった人に憧れます(こんな感覚をもった異性がいて、その人と一瞬でも波長がぴたりと同調したら、私はその人にたまらなく惹かれてしまうかもしれません)。
しかし綾屋さんは、この精妙な感覚によって、たまらない寂しさも感じています。植物やモノと親密な関係を結んでいた幼稚園時代は、同時にお友だちとガラスで隔てられていたように思える時代でした。綾屋さんは我が子に次のように説明します。
でも幼稚園のお友だちのおしゃべりというのは、どのあたりがおもしろくて何が楽しいか感じとれないのです。会話のやりとりも成立しません。お友だちの遊ぶようすと自分のあいだには、まるで大きな透明のガラスがあって隔てられているようでした。でもときどき、あるはずのガラスがふっとなくなって、ふいに触ってきたり話しかけてきたりすることがあるので、いつガラスがなくなってしまうのかがわからず、お母さんはいつも体をカチコチにしていました。 (2009, 22)
若い時代の綾屋さんは ―おそらく20歳前後の頃でしょうか―、しばしば「夕日が沈むのを見なくちゃ!」と急いで部屋を飛び出していました。次も我が子に自らの若い日々を語る文章です。
ああ・・・・・そうです。お母さんはただ、一日が終わってしまう身を斬られるようにせつないこの夕暮れどきに、いっしょにいてくれる心の通い合った人がほしいのです。そしたらこうやって焦って自転車をこいで夕日に会いに行かなくても、夜が来ることに怯えなくても、そのときにいるその場所で、ゆっくり安心してその人といっしょに夕日を見送り、夜を迎えることができるでしょう? (2009, 70)
この綾屋さんの感情を上では簡単に「寂しさ」と書きましたが、実は綾屋さんが味わっていたのは、それ以上の強烈な経験、そしてその連続でした。通常の人ならとても耐えられない、そして実際綾屋さんもしばしば耐えられなくなった経験の到来でした(詳しくは下に挙げてある本を読んで下さい)。
強烈な経験とまではいかずとも、綾屋さんは日常生活にもしばしば困難を覚えます。たとえば空腹ということ。綾屋さんは、空腹を感じどこかで何かを食べるということも、なかなか決定できません。鋭敏な感覚をもつ綾屋さんは、身体からのさまざまな感覚を等しく感受します。多くの人ならただ単に「おなかがすいた」としか感じないときに、綾屋さんは手足、頭皮、頭、頬、鼻、肩、背中、胸、胃、下腹部、足などなどのさまざまな部位に、さまざまに異なる身体感覚を覚えます。そのうちに「ボーっとする」「動けない」「血の気が失せる」「頭が重い」などの、ややまとまった身体感覚や、「イライラ」「悲しい」「気持ち悪い」といった観念性の高くなった心理感覚が大きくなってきます。
綾屋さんは、これは空腹だからではないかと推測しますが、しかし「風邪をひいたのか」「疲れているのか」「悩みでまいっているのか」「生理なのか」とも感じられて、空腹という判断がなかなかできません。
空腹という判断が仮についたとしても(あるいは「昼時だから、これらの感覚は空腹を指しているものだとしよう」と仮に決めたとしても)、綾屋さんはなかなか食べるものを決定することができません。体全体、舌、喉、腸、血液、はそれぞれに食べるとしたらどんなものを食べたい・食べたくないと様々なメッセージを送ってくるからです。(2008, 15-42)。
これらは身体内からのメッセージですが、綾屋さんは身体外部からもさまざまなメッセージを大量に受け取ります。綾屋さんはしばしばどうしていいかわからなくなります。
このような綾屋さんを時に他人は「感覚鈍麻」と呼びます。判断と行動が遅いからノロマだと思われているのでしょう。しかし綾屋さんからすれば、この状態は「細かくて大量である身体内外の感覚が、なかなか意味や行動としてまとめあがらない」(2008, 73)のです。感覚が鈍いなんてとんでもない。
あまりにも多種多様な感覚情報を大量に感受する綾屋さんは、ときにフリーズしてしまいます。「はやく決めて行動しなければならない」という社会的圧力を強く感じるときにはパニックにもなってしまいます。すると他人は綾屋さんを「感覚過敏」と呼びます。「なんでもないときに、大騒ぎして」と非難の目を向けます。しかし綾屋さんの自己観察・自己記述によれば、これは「多くの人が潜在化しがちな身体内外からの感覚を絞り込めず、そのまま拾ってしまい、それらをパニックなどのかたちで表出してしまう」(2008, 74)わけです。
綾屋さんは、自分という人間について観察し続け、それをパートナーに支えられながらことばで記述する過程を重ねて、次のように自分を総括します。
「いった私は何者なのだろう・・・・・」。その答えは、「人よりも身体の内外の感覚を細かく大量に感受する者」であったということができそうである。 (2008, 169)
精神科医はそんな綾屋さんを「アスペルガー症候群 (自閉症スペクトラム)」と診断します。「普通の人」とはおよそ異なる自分が何者であるかがわからず長年苦しんでいた綾屋さんは、この一種の「アイデンティティ」を得たことでしばらくは安定感を覚えますが、やがて「アスペルガー」として一括りにされることにも息苦しさを感じるようになります。綾屋さんが求めているのは、「同じでもなく違うでもなく、お互いの多様性を認めた上で、仲間としてつながり続ける」 (2010, 95) ことなのです(強調は柳瀬)
しかし「アスペルガー」という診断から、専門家そして専門家のことばをそのまま受け入れる一般人は、綾屋さんを含めたアスペルガー症候群(自閉症スペクトラム)と診断された人々を、「(1) 相互的社会関係能力の限界 (2) コミュニケーション能力の限界 (3) 想像力の限界」という三つ組の特徴だけでと捉えようとします (2010, 14)。私自身、「言語コミュニケーション力の三次元的理解」でアスペルガーについて言及したことがありますが、口頭で説明するときには「私はアスペルガーについて詳しく知りませんので、多くは言えませんが」といいながらも、上記の説明を鵜呑みにしていました。
ですがこの見立ては、外側からのものにすぎません。綾屋さんは次のように言います。
しかしこれはのちにも述べるが(第三章)、あくまでも外側からの見立てに過ぎない。特徴とされるそれらの現象がなぜ生じるのかを、私の内側からの感覚で言えば、「どうも多くの人に比べて、世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく、拾ってしまう傾向が根本にあるようだ」という表現になる。世界のなかでモノや人がてんでバラバラに統一感なく発している情報を、いやそもそも自分の身体の内部において、身体の各部分が一致することなく蹴って気ままに発している情報も、自分にとって大事かどうか、必要かどうかという優先順位をつけにくく、等しく感じ取ってしまうのである。 (2010, 15)
対人コミュニケーションに関して、綾屋さんは他人の心が想像できないのではありません。逆にあまりに多種多様の情報を大量に感受し、それを基に多種多様で大量の推論を高速で行おうとするから、他人のように如才なくしゃべることができないだけです(実際、綾屋さんはワープロに向かえば比較的落ち着いて考えをことばにすることができます (2010, 38))。綾屋さんは他人とのコミュニケーションについて次のように述べます。
話している言葉は聞こえるし、言語としての意味もわかるのだが、人々の楽しさが伝わらないし、真意が見えない。なぜ彼や彼女がそのように動き、そのような話し方で、そのような言葉を話すのか、といった人びとの「意図」の可能性をあまりにもたくさん推測してしまうために、ひとつに決めきれず、「読めない」のである。(2008, 80)だからもしコミュニケーションを綾屋さんのペースで行うことが許される場があれば、綾屋さんも他人とのコミュニケーションが少しは楽にできます。
「あなたは楽しんでいるように見えますが、ほんとうのところどうですか?」
「さっきのセリフには力強い意気込みが感じられましたが、じつは社交辞令ですか?」
「展開が早くてついていけなかったのですが、五つ前の話題に戻ってもいいですか?」
と、自分の判断が正しいかどうかをそのつど相手に聞いて確認できるのなら、そのやりとりがどれだけ私のバリアフリーに貢献し、ラクになるだろうと思う。しかし、私の周辺をとりまく常識的社交の枠がそれを許さず、確認することができないため、相手の意図や感情の高ぶりぐあいを把握できないことになる。 (2008, 140)
*****
「アスペルガー」だけでなく、私たちはしばしばさまざまな判定を下します。その判定が「専門家」によるものだと私たちはそれを「診断」や「決定」などと呼び、それを権威ある疑いのないものだと思い込みます。
さらに一般化しますと、「X」というカテゴリーは、自動的に「NOT X」というカテゴリーを生み出します。そうすると私たちは学校でならった集合論に導かれて「X」カテゴリーの成員すべてに当てはまる本質(あるいは必要十分条件)があり、「NOT X」の成員にはそれは一切ないと考えてしまいます。「考えるな、見よ!」とはウィトゲンシュタインの警句ですが、私たちはそう考え、考えた末の判断だからこの判断は正しいに違いないと思い込みます(このような思考法に対する批判の一例は、レイコフの『認知意味論』にも見ることができます)。
「X」という判断は、この世界を「X / NOT X」に裁断します。両者を分断し、その間の溝を決定的なものとします。これは区別ですが、容易に差別に転じます。
しかしウィトゲンシュタインの「親族的類似性」ということばを待つまでもなく、綾屋さんの述懐を読めば、「アスペルガー」とされる綾屋さんと、「アスペルガー」と診断されない私(そしておそらくはあなた) の間には決定的な溝はないことはわかります。私は綾屋さんとつながっています。私の感覚世界は綾屋さんの感覚世界は、さまざまにつながっており、そのつながりにおいて私はおそらく綾屋さんを理解できます(おそらくあなたもそうでしょう)。綾屋さんの世界は私の世界(そしてあなたの世界)とつながっています。
人間は、集合のベン図のように峻別はされません。仮に私たちがある人びとを「X」(あるいはNOT X」)と呼んでも、「X」と呼ばれる人びとは、「NOT X」と呼ばれる人びとと、決定的・本質的に異なっているわけではありません。
繰り返します。私たちは分断されていません。私たちはさまざまな点でゆるやかにつながっています。分断されていない私たちを、無理に分断するのは差別です。私たちのつながりを図で表現しようとすれば、むしろ下の図のようにになるでしょう。
しかし私には偉そうに語る資格はありません。私は、「X」というラベルをある人に付けることによって、そこで思考を中止していました。「X」という概念を自分が調べて知ったことを誇り、「あなたはXである。なぜならば・・・」と裁断し、それを知識の善用、知的な親切と思い込んでいました。私が行うべきことは、そういった我見の押し付けではなく、その人とただ時空を共有し、そこから生じる相手の自然な動きに、私なりの共感あるいは違和感を自然に表出し、その両者の動きの差異を互いの感覚で微細にすり合わせることだったのに。
私に限らず、「知的」と自負する人びとは、しばしば本質主義的カテゴリー観に基づく「X」という知的概念で、人びとや物事の間のつながりを切断します。その断定を自信をもって行えば行うほど自分を「知的」と錯誤します。そういった「知的」な人びとの知性は、身体内外からの多種多様な情報を繊細に受容する感性と切り離されています。だからそういう人が「理性的」に知性を発展させたと信じているとき、その考えはしばしばおぞましく非情なものです。
私たちは知性を感性に従属させなければなりません(所詮、私たちは動物なのですから)。同時に私たちは、感性に従属する知性を理性の導きに従わせねばなりません(私たちは、「善」や「正義」や「神」といった超越論的理念を思考できる動物なのですから)。感性と理性から離れてしまった知性は危険でしばしば残酷です。
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話を戻します。綾屋さんが自分を観察し記述し、他者に理解されることばは、綾屋さんの力となりました。それまで自分も世界も訳がわからなかったのに、他者と共有されることばにより、綾屋さんはこの世界の中の自分の位置を知ります。他者との近さと遠さ、共通点と相違点を知ります。自分という人間の輪郭が定まってきます。そのときの感情を綾屋さんは、
「わたしができた!」という快感と解放感と満足感 (2010, 39)
とも表現します。
綾屋さんのことばは、読者の一人である私の力ともなりました。綾屋さんのことばは、私の中にもするすると入ってきました。私は綾屋さんを理解することで、自分も理解できました。私という人間も、私という人間が暮らすこの世界も、より理解でき親しみがもてるようになりました。これがことばの力でしょう。
このように、トラブルの渦中にある人が、その人を理解しようとする人(決してその人に自分のカテゴリー的裁断を押し付けようとしない人)と共に、ことばを見出してゆく営みは「当事者研究」と呼ばれます。「べてるの家」の実践が有名で、綾屋さんもパートナーの熊谷さんと、このべてるの家の営みなどから学ぼうとしています(その部分の引用は上にはありません。綾屋さんと熊谷さんの当事者研究理解については、改めてまとめたいと考えています)。
私は、自分の研究活動の柱の一つとして、「英語教育現場の豊かな知恵をできるだけ言語化すること」を掲げてきました(このブログタイトル「英語教育の哲学的探究2」の下を御覧ください)。それは今後共続けてゆくつもりですが、今回、この文章を書いてみてはっきりと自覚できたことは、これまでの私の「言語化」とは、あくまでも私の言語化が中心だったということでした。私が実践者の実践に対して、解釈(下手をすれば断定)を下すものでした。しかし今後は私による言語化だけでなく、実践者自身が言語化を試み、自らと自らの実践に対して、他者に通じることばを見つけることの支援をもっと自覚的に行うべきかと思います(ちょうど脳性マヒをもつ熊谷さんが、アスペルガーをもつ綾屋さんの言語化を、互いの弱さを基盤として支援したように)。英語教育という営みにおける「当事者研究」の可能性を探りたく思っています。
今回の綾屋さんの語りにしても、「客観主義」者が嫌う主観性に満ちたものです。しかしフレイレやレイコフとジョンソンらの論考を検討することで、これは確信に変わってきましたが、私たちが主観性を払拭した世界の客観主義的客観性を得ることなどできません。得ることができると主張するならそれは愚かな欺瞞か傲慢というべきでしょう。「客観性」のために私たちが行うべきことは、自らの理解を広く公にし、様々な主観性によって吟味されながらも保たれる理解を、できるだけ精確に表現することでしょう。
「客観主義」者ならさらに、綾屋さんの報告は「一つの事例に過ぎず、一般性がない」と批判するかもしれません。客観主義に基づく量的研究なら一般性のある知見が得られるのに、というわけです。しかし客観主義に基づく量的研究が一般性のある知見を得られるのは、少なくとも以下の条件を充たした場合です。
(1) 研究で使われる客観主義的カテゴリーが、現実世界を忠実に反映している。
(2) 実験は、客観的カテゴリーを有する成員の母集団からの、ランダムサンプリング(あるいはそれに準ずるサンプリング)によって抽出された標本を対象に行われている。
(3) 実験で使われる数量化は厳密なものである。
しかし、(1)について言えば、「日本人初級英語学習者」や「ESL学習者」なんてカテゴリーはいい加減なものに過ぎません。それらのカテゴリーの本質(あるいは必要十分条件)なんて、理論的にも操作的にも厳密に定義できません。これらのカテゴリーは、現実世界をきわめて粗雑に見ることによりのみ成立しています。それなのに、そんなカテゴリーを使った研究を根拠に、「日本のあなたの教室でも、英語だけの授業をしなさい。タスク中心です。ドリルはやってはいけません」などと現場教員に公的研修会などでお説教をするSLA研究者の神経が私には理解できません。そんな研究者の粗雑な知性の乱暴な推論よりは、現場教員の、クラスの一人ひとりの一日一日の違いをきめ細かく見ようとする、繊細な感性に基づく判断の方を私は信じます。
(2)にしても、きちんとランダムサンプリング(あるいはそれに準ずるサンプリング)法を用いている研究は、英語教育界ではほとんど見当たりません。たいていは、研究者が協力を要請しやすい集団を任意に選んでいるだけです。それが悪いというのではありませんが、そのようにきちんとサンプリングをしていないのに、きちんとしたサンプリングを前提としている推測統計学などを使うということが私には理解できません。前提を充たしていないのに、どうして「実験により、この教育方法の有効性は実証された」などと、どうして偽りの一般性の主張をするのでしょう。
(3)についても、例えば5件法の順序尺度を、間隔尺度扱いすることは日常茶飯事で、しかも尺度の基盤となる理論もいいかげんという研究も多くあります。数量化以降の計算はパソコンソフトで行った「正しい」ものだとしても、数字そのものがいい加減なわけですから、量的研究の主張を額面通り取るわけにはいきません。
少なくとも現在の英語教育界での多くの「量的研究」の知見の「一般性」はこのようにいい加減なのに、どうして質的研究をカテゴリカルに排斥するのでしょう。これは明らかな勉強不足、あるいは傲慢な学界権力専有だと私は考えます。
しかし一方、もし質的研究を、質的研究であるというだけの理由で排除されることが英語教育界からなくなったとしても、それはすばらしい質的研究が次々に生まれることは意味しないでしょう。
私たちはまだ実践を言語化することに慣れていない。主観性を、間主観的に広く共有してもらえるような表現法にまだ習熟していない。私たちは、実践者としてのことばを育てる必要があります。そして当事者研究をそのための一つの方法と考えたいと私は思っています。
綾屋さんの話から、またいつものように英語教育界の話になってしまいました。英語教育界の話はさておき、綾屋さんの文章はいいです。少なくとも私は好きです。私は力をもらえました。世俗で濁りきった権勢の力ではなく、私たちの生命とこの世界が根源的に有している力を。よかったらぜひご一読を。
2 件のコメント:
柳瀬先生、今晩は。
ただいま、こっち地方の気温は-6℃。
北海道東部太平洋側地方は、本来ならば、今頃雪はまだこんなにないのに、もうすでに20cm以上の根雪になっています。市の除雪費用はすでに底をついたらしい……。
綾屋さんのことを知って、いろいろ考えました。
うちの学校の児童で、発達障害や学習障害を持っているのではないかと思われる人達の中には、選択的聴取ができずに、苦しんでいると思われる人がいるようです。そういう人には、静かに学べる環境を提供するのが私たちのすべきことです。あるいは、逆に、視覚認知、空間認知が苦手な人は、漢字の習得に苦しんでいると思われます。日本語では、漢字の形と意味を覚えて使いこなす力の占める割合がとても大きく、抽象語句の習得にも影響が出ているようです。
様々な背景を持つ人達にも学習権を保障するということを、どう実現していくのか、本当に考えてしまいました。できるできないという結果や教師や教科書が示す筋道や方法でわからせることにだけ腐心していることとか、あるいは、わかる、できる、ということを求めずに、単にテストで点数を取らせるということが目的化しているということとかを反省しなければならないなぁと思っています。
ポッピーママさん、
コメントをありがとうございます。
「様々な背景を持つ人達にも学習権を保障するということを、どう実現していくのか、本当に考えてしまいました」というのは、まったくその通りだと思います。
この点、当事者に耳を傾け、当事者のことばを紡ぎだすことは重要だと思います。もちろん、みんながみんな、綾屋さんのように自らの体験を言語化できる状況にはないかもしれません。しかし綾屋さんですら、音声言語では自らが発した音が自らの思考の邪魔となってなかなか語ることも考えることもできなかったのですが、書記言語を自分のペースで打ち出し自分のペースで見直すことができるワープロというメディアを得て、ことばを紡ぎだすことの困難が少しは緩和したと書かれています。
工夫と配慮でもって、当事者のことばの力を引き出し、当事者のことばからその他の者が学べるような文化をもっと普及すべきかとも思っています。
寒い北海道、ご自愛ください。
北海道といえば、来年の8/10-11に札幌市の北星学園大学で全国英語教育学会が開かれます。もしお越しでしたらぜひお会いしましょう。
それでは
2012/12/26
柳瀬陽介
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