同じ「言語学」とはいえ、語用論と統語論・意味論はずいぶん性質が違う。
一言で言えば、語用論は、実際の言語使用、コミュニケーションに関わる分野であり、他方、統語論(=文法論)や意味論は、そのコミュニケーションで使われるコード、つまり意味の形式的体系に関わる分野です。そして後者、意味の形式的体系に関わる分野は、意味のコード化に関わる統語論(=文法論)と、形式的にコード化される意味に関わる意味論に分かれる、ということになります。(小山 2012, p. 45)
この語用論と統語論・意味論のアプローチの違いは、言語を「システム・センテンス」から考えるか「テクスト・センテンス」から考えるか ― あるいは"sentence"から考えるか"utterance"から考えるか ― という認識の違いにも現れる。「システム・センテンス」とは理念的措定であり、「テクスト・センテンス」とは現実のコミュニケーションに現れるものである。
つまり、抽象的な、実際には現れない(理念的、イデアールな)体系としての文と、実際に使用される文とは位相が違い、それはたとえば数学で言う「三角形」という概念(理念)と、鉛筆と紙などで(つまり実際に)引いた三角形とは一致せず、後者は、たとえば顕微鏡などを使って厳密に見れば常に必ずジグザグを含んでおり、理念的な、完全な「三角形」は現実に現れることはない、というのと同じことです。理念的な体系としての文(「システム・センテンス」と呼ばれます)は、理念的な三角形と同じく、理念的な、つまり抽象的で潜在的な存在に過ぎず、実際の世界、コミュニケーションが行われる実際の世界に現れるのは、もちろん、実際のコミュニケーションで用いられる文(「テクスト・センテンス」と呼ばれます)、厳密に見れば常に必ず異なった発音で、常に必ず異なったコンテクストで、常に必ず異なった言及指示的内容を持った文なのです。(小山 2012, pp. 76-77)
この異なる言語観は、さらにコミュニケーションに関しても異なる見解を生み出す。統語論・意味論・「システム・センテンス」と親和性が高いのが情報伝達モデルであり、語用論・「テクスト・センテンス」と親和性が高いのが、コミュニケーションを「社会文化的なコンテクストの中で起こる人と人、人と物、物と物の邂逅(遭遇、出会い)に焦点化した」出来事としてコミュニケーションを捉える「出来事モデル」(小山 2012, p. 162)である。
「出来事モデル」で、コミュニケーションは以下のように考えられる。
(1)相互に接触している人や物、つまりコミュニケーション参加者たちや、それらと結びついたその他のコンテクストにある人や物などを、そのコミュニケーションのコンテクストとして指し示す(指標する)という「コンテクスト化」(contextualization)の作用を持つもの、(2)そして同時に、そのようにコンテクストを指し示すことを通して、そのコミュニケーションの起こっている場所、そのコミュニケーションにとっての「今ここ」(オリゴ)[origo = deictic center] を基点とした場所に「言われていること」のテクストと「為されていること」のテクスト、つまり言及指示的テクストと社会指標的(相互行為的)テクストを創り出す(テクスト化す)作用を持つものであると考えられています。(小山 2012, p. 162)
「出来事モデル」のコミュニケーション観に基づき、小山先生は、この本(『コミュニケーション論のまなざし』)について次のように述べる。
この本は、私の「作品」、テクストであるのではなく、最終的には、もちろん、私たち [ =著者である私、出版社、印刷会社、小売店など生産、流通、販売に関わる主体] と読者との間で生起する出来事としてのコミュニケーションによってテクストとなるもの、テクスト化されるものであり、読者がこの本をどう読むか、この本との出会いにどう向き合うかによって、この本の意味は創り出されていくのです。
(中略)
1回1回異なる出来事、刻々と移り変わるオリゴを中心としたコミュニケーション出来事を通して生み出されるもの、それがテクストとコンテクストであると、このモデルでは考えられているのです。(小山 2012, p. 168)
この「出来事モデル」はコミュニケーションに関して四つのテーゼを導き出す。(1)コミュニケーションは出来事であり、情報量に簡単に還元できない。(2)コミュニケーションはいつも必ず、歴史的、文化的、社会的環境(コンテクスト)で起こるものであり、コンテクストは背景にあるものではなく、コミュニケーションがその中で起こる場であり、コミュニケーションの過程の中心にある。(3)話し手や聞き手も、コミュニケーションの過程の中の構築物、つまり、コミュニケーションという出来事によってコンテクスト化されテクスト化されるもの、にすぎない。(4)コミュニケーションを媒介とした結びつきが社会であり、社会の中で個々の出来事の「意味」が決定され、個々人が形成されてゆく。(小山 2012, pp. 169-170)
と、私はこの本の部分を(直接あるいは間接の)引用であるという事を慣習的な形式(インデントや出典情報)で示しつつ、このブログに書き写してきたが、この引用を中心とした私の文章も、私なりのコミュニケーションであり、私なりのコンテクストとコンテクストの創出である(私のオリジナリティはこの本の著者である小山先生のオリジナリティとまったく比較にならない小さなものであるにせよ)。
私はこの『コミュニケーション論のまなざし』という本にある経緯で出会い、その出会いから私なりの場ができて、その場というコンテクストを、引用中心の文章という形でこのブログにテクストを創り出すことによって、創り出している。この私のコミュニケーションの始動は、また何らかの経緯でこのブログ記事に接した様々な読者にそれぞれのコミュニケーションという出来事を始動させるかもしれない(たとえそれが「なんだこのブログ記事。わけわかんねぇ」といったものに過ぎないかもしれないにせよ)。
引用という行為は、テクストAより高次元に立って、テクストAの部分を選択的に提示するテクストA'を創り出すという点で、ある意味、メタ・コミュニケーションであるとも言えると私は考えるが、私はそのメタ・コミュニケーションを行うことによってテクストAによるコミュニケーションから切り離された高みに立ったわけではない。むしろ、私はテクストAの引用を用いたテクストA'の創出により、テクストAが始動させたコミュニケーションの中に参入している。これがコミュニケーションの特徴の一つでもある。「このようにして、メタ・コミュニケーションはコミュニケーションの一部を成す、つまり、コミュニケーションはメタ・コミュニケーションを含みこんで行われる」(小山 2012, p. 34)わけである。
チャールズ・サンダーズ・パースと邂逅したローマン・ヤコブソン、そしてデル・ハイムズ、シルヴァスティンを経て小山先生によって伝えられたコミュニケーション論への招待を、私は誤読しているのではないかと恐れる。しかし、たとえそれが誤読であったとしても、それは ― 決して開き直るつもりではないのだが ― 現時点でなしうる私のコミュニケーションであり、私はこの本に出会ったという出来事を、沈黙という消極的な形でなく、たとえ引用中心に過ぎないにせよブログ記事を書くという形でこの本が始動させたコミュニケーションに参入したい。
部分的な引用に私見を述べただけのこの文章で、私はこの本がもつ読者をぐいぐいと引きつける力を伝え損ねたのかもしれない。しかし、もし少しでも何か感じることがあれば、この本を読んでほしい。教科書的な記述で、細部だけは暗記できるぐらいになっても、大局的に言語やコミュニケーションについて語れない方は、ぜひこの本を読んで欲しい。あるいは語用論と統語論・意味論の性質の違いになにかしっくりとこないものを感じている方も読んで欲しい。何かがつながる感覚を覚えるはずだ。
いい意味で教科書的な『コミュニケーション学』と、力強い思考の流れを感じさせるこの『コミュニケーション論のまなざし』を私は、言語とコミュニケーションについて考えたい人すべてに薦めたいし、私の授業の「言語コミュニケーション力論と英語授業」の参考書としても指定したい。
関連記事:コミュニケーションとしての授業: 情報伝達モデル・6機能モデル・出来事モデルから考える
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/6.html
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