2009年6月30日火曜日

苅谷剛彦先生エッセイ「曲がり角の教育を社会学する」

紀伊国屋書店ホームページが、苅谷剛彦先生のエッセイ「教育を社会学する」と、苅谷先生推薦の教育図書22冊のブックガイドを掲載しています。

以下はそのエッセイの一部です。


教育の論じ方にはさまざまある。ここで紹介するのは、社会学の立場から教育を論じた著書の数々である。

なぜ社会学なのか。

ひとつには、教育という現象や営みは、教育だけをみているだけではわからないからである。とくに現代の教育が抱える問題の多くは、現代社会の変化と密接に関係している。しかも、その社会も、何十年という単位で生じる、大きな変化に直面している。(中略) 社会から切り離して、教育や子どもや若者の問題を語ることは無謀に思えるほどである。

二番目には、社会学という学問が、社会の内側にあって、自分たちを取り巻く社会そのものを問題にしようとする学問だからである。いいかえれば、社会の外側に何か超越的な基準を設けて価値判断をすることを警戒する神経を持ち合わせていると言うことだ。(中略) とりわけ、価値まみれになりがちな教育論議や、聖性を帯びやすい教育言説を読み解くためには、一度そこから距離をおく必要がある。社会学的な見方は、それを可能にしてくれる。

三番目の理由は、現代の教育の多くは、すぐれて組織的・制度的な現象であり、「システム」を通じて行われているからである。(中略) 印象論や体験論に基づく教育論もときに重要な知見を与えてくれるのだが、現代の教育がシステムとして成立していることを忘れると、思わぬ教育論議の暴走が始まる。それを避けるためにも、教育をシステムとしてとらえる社会学的な見方が求められるのである。(後略)





全文をお読みになりたい方、および推薦図書リストを見たい方は紀伊国屋書店ホームページをご覧ください。


苅谷剛彦 曲がり角の教育を社会学する



なお、このホームページには他にも以下のような教育図書案内もあります。良書の案内をお楽しみください。




福田誠治 選 未来の学力を子どもたちに


内田樹 選 大人になるための本


佐藤学 選 教育の挑戦--求められる教師像と教師論


柴田義松 選 子どもを動かす--心理学から見た効果的な教育技術


広田照幸 選  教室に現れる未来


ブックリスト・バックナンバー一覧





2009年6月23日火曜日

教育実習を終えた学生の感想

以下は教育実習を終えた学部四年生の書いた文章です。本人の許可を得て、固有名詞などを消去した上で掲載します。

これを読みますと、教育実習というのがもつ意義の大きさを痛感します。教育実習で真剣に指導をしてくださっている先生方にこの場においても深く御礼を申し上げます。



○○校で学んだこと K.D.

 今回、○○校に教育実習に行って学んだことはたくさんあるのだが、その中でも自分にとって大きかったと思う2点について今回は述べようと思う。

 まず、「教科書」が言語として持つ可能性について大きく考えさせられた点である。私たちが大学で受けた授業の中では、教科書の扱いについて、"教科書を使って何ができるか"ということを多く教わったが、今回の実習で、"教科書の英語を大事にした英語教育"というものを経験できた。○○の先生方は、教科書の中の英語というものをとても大事に扱い、その中から生徒に英語というものを教えるということについては、プロフェッショナルであると感じた。英語の読み方、発問の作り方、その視点、それを使って生徒に何を教えたいのか、どれをとっても自分にはなかった英語の読み方というものを教えてもらった気がする。また、一見するといわゆる訳読式の授業、または受験英語というものに重点を置いているように見える授業が多かったのは事実であるが、同時にそのことが、試験や入試だけではなく、英語なら何でも読めるという力というものを育てる授業というものに思えた。このような意味で、教科書がもつ言語材料、その使い方で大きく英語の授業は変わるのだということを学ぶことができた。

 もうひとつ、私が学んだ中で大きかったと思うのは、授業の中には"生徒"という一番大きな要素が存在するということだ。私は、大学で習った教授法をもとに、あんな授業がしたい、ということを一番に考えて指導案を作り、実習をしてきた。しかし、実際授業をしてみると、いかに自分が生徒のことを考えてなかったのかということがよくわかった。そして、授業の中で、生徒を観察し、その場で生徒が今どのような状況にあるのかを把握し、その場で対処するという能力というものが、実は教師の必要な資質の大きな部分を占めるのではないかということを、体験できた。指導案ガチガチの授業をする実習生には難しいことだと思うが、生徒が出す見えないサインにどれだけ気づいてやれるか、ということの大事さに気づくことができたことは、とてもいい経験になった。このことも含めて、生徒とともに授業を作っていく、という楽しさにも気づくことができた。

 最後にまとめとして、何よりも、楽しく実習を終えることができたことが一番うれしいと私は思う。そしてその楽しさを、授業をやりながら感じることができたので、自分が選んだ将来の選択は間違ってなかったのかなとも思った、そんなことを感じさせる実習をすることができてよかったと私は思う。





教育実習で学んだこと H.F.

 教材への深い理解が如何によい授業作りに必要不可欠な要素であるか―これが今回の実習を経て学んだ、最も基本的でしかし自分にとっては最大の事実でした。念入りな教材研究なくしては、発問を設定できないどころか、授業の構成、展開すら考えることができないことを知りました。それは高等学校においては勿論のこと、中学校に関しても言えることで、今まで教材研究をないがしろにしてきた自分の思う"授業"が如何に薄っぺらく内容の伴わないものであったかということに気付くことさえできたのです。

今まで「教材研究は大切だ」という考えをなんとなく言われるがまま、心に止めるようにしてきましたが、実感を伴うことはなく、その必要性を強烈に感じたことなどありませんでした。前回の実習の際は、教材研究よりも如何に生徒の気を引くかばかりを考えることに従事し、教材研究はせいぜいテクストの表層上の理解に留めるのみでした。確かに、生徒の授業参加を促すきっかけ作りは必要かもしれませんが、そのような子供だましが通じるのもせいぜい5~10分で、生徒が自ら知的に考え発見しなければ、その授業において「学んだ」ということになりません。そのあたりまえの事実に気付くきっかけになったのが、前回の実習での研究授業で、今回はその反省を活かし、教材研究に力を置くことをスタートとしたのです。

実際に教材研究をしてみてわかったことが、教材研究をすればするほどその教材で生徒が学ぶべきポイントが自ずと見えてくるということです。生徒はここでつまずき、そこで考え学ぶべきなのだろう、ということがわかり、そうすれば授業の構成や展開もそれに合わせて決まってくるという具合です。当たり前のことに聞こえるかもしれませんが、私にとってはこの発見こそが今回の実習を通して得た最大の収穫であり、実際の授業作りという真剣に取り組まざるを得ない情況を与えられて初めて実感することのできた事実でありました。

今回の実習を経て、教材というものに対する私の態度が大きく変わりました。教材への深い理解は最も初歩的であると共に"よい"授業作りをする上で必要不可欠な要素であるということに気付いたことは、今後の教師としての人生のファンダメンタルな部分を構成する要素となると確信しています。





教師のことばの力 M.T.

 私は教育実習を通して、生徒に英語を教える上で教師のことばの力がどれほど重要なものかを感じた。英語教師には、「ことばを教える」と「ことばで教える」という重要な二つの役割がある。この両側面において、教師自身がことばを適切に運用することが出来、ことばに対する鋭く豊かな感性を持っていることが、生徒を教える上で非常に重要である。それは、これらの教師のことばの力が、そのまま生徒の言語力に繋がったり、生徒に対する多大な影響を与えたりする可能性をはらんでいるからである。

 「ことばを教える」という側面から、教師のことばの役割をみると、教師は第一に目標言語を適切に運用のための知識を十分に持ち合わせている必要がある。それは、生徒に言語運用能力を付けさせる上では最も基本的なことであろう。また、教師は運用のためだけではなく、生徒がことばの面白さや、言語によって様々な異なる表現を学ぶことが出来るように、言語に対しての豊かな感性と鋭い感覚を持ち合わせていることが必要であるだろう。教師がそのような感覚を持って、教材を分析し、生徒に言語に関する多様な観点を提示してあげなければ、生徒自身が言語に関する感性を磨くことは難しいだろう。

 次に「ことばで教える」という側面を見る。私の言う「ことばで教える」というのは、教師が授業中に説明や生徒との会話などで用いる全てのことばが、生徒の教育になっているということを意味している。もちろん英語を授業で用いるならば、教師の放つことばが全てそのまま生徒のインプットになってしまう。そのため、教師は目標言語の文法力や発音、イントネーションに至るまで、自分の放つことばに敏感である必要があるだろう。また、日本語で説明をするときも、いかにわかり易く生徒に伝わるように適切にことばを用いることが出来るかということも教師にとっては重要な能力であろう。更に、教師のことばは生徒にやる気を起こさせたり、自己肯定感を抱かせたりするような役割もある。その反面、生徒を傷つけたり、劣等感を抱かせたりすることも出来る。教師のことばは生徒の人格形成にも関わる可能性がある。

 生徒に言語運用能力を身につけさせ、言語の感性を磨かせるには教師自身が十分な言語知識や言語に関する感性を身に付けている必要がある。また、教師のことばは生徒の言語力にそのまま繋がるだけでなく、人格形成にも関わる可能性がある。実習を通して「ことばを教える」と「ことばで教える」という両側面において教師のことばの力が重要な役割を果たしていると感じた。また自分にことばの力がまだまだ不足していると感じた。






2009年6月20日土曜日

日本の「奨学金」の現状

毎日新聞(2009年6月11日)は大学への奨学金の小特集を掲載しました。以下はその記事から得られた情報です。


■大学授業料
大学授業料は1975年度からの30年間で国立は15倍、私立は4.5倍になった。

■日本学生支援機構
事業費ベースで観ると無利子奨学金貸与はこの10年間で1.4倍になった。しかし有利子奨学金貸与 [柳瀬注:要はローンのこと] は10倍になり、貸与額全体の約7割となっている。

■返済が滞ると・・・
2009年3月初めに横浜市の男性(30歳)に日本学生支援機構に一通の文書が届いた。「貸与総額(約560万円)を一括返還しなければ、法的手段に訴えます」。この大学生は在学中にうつ病を発症し、卒業後も非正規雇用の仕事にしか就けず、年収は100万円に届くかどうかであった。彼は月2万4000円の返還ができず、1年ほど前から督促状を受け取ってはいた。

■「奨学金」とは
欧米では返済義務のない「給付型」の奨学金が主流だが、日本ではほとんどが「貸与型」であり返済義務がある。

■国の対策は
国は追加経済対策で無利子枠と返還猶予を倍増するが、今年度限りの対策に過ぎない。






中・高等教育無償化への日本政府の怠慢


上の記事(前の記事)で、日本の奨学金制度の不備を示唆する数字を引用しましたが、そもそも高校・大学(後期中等教育・高等教育)の無償化に対する国の努力は「国際人権規約」にて定められています(「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(A規約)第13条)。


第十三条

1 この規約の締約国は、教育についてのすべての者の権利を認める。締約国は、教育が人格の完成及び人格の尊厳についての意識の十分な発達を指向し並びに人権及び基本的自由の尊重を強化すべきことに同意する。更に、締約国は、教育が、すべての者に対し、自由な社会に効果的に参加すること、諸国民の間及び人種的、種族的又は宗教的集団の間の理解、寛容及び友好を促進すること並びに平和の維持のための国際連合の活動を助長することを可能にすべきことに同意する。


2 この規約の締約国は、1の権利の完全な実現を達成するため、次のことを認める。

(a) 初等教育は、義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとすること。

(b) 種々の形態の中等教育(技術的及び職業的中等教育を含む。)は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとすること。

(c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。

(d) 基礎教育は、初等教育を受けなかった者又はその全課程を修了しなかった者のため、できる限り奨励され又は強化されること。

(e) すべての段階にわたる学校制度の発展を積極的に追求し、適当な奨学金制度を設立し及び教育職員の物質的条件を不断に改善すること。



日本は1979年にこの国際人権規約に批准していますが(http://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/kiyaku/2b_001_1.html)、中・高等教育の無償化に関しては留保しています。外務省の説明は以下の通りです。

後期中等教育及び高等教育について私立学校の占める割合の大きい我が国においては、負担衡平の観点から、公立学校進学者についても相当程度の負担を求めることとしている。私学を含めた無償教育の導入は、私学制度の根本原則にも関わる問題であり、我が国としては、第13条2(b)及び(c)にある「特に、無償教育の漸進的な導入により」との規定に拘束されない旨留保したところである。

 しかしながら、教育を受ける機会の確保を図るため、経済的な理由により修学困難の者に対しては、日本育英会及び地方公共団体において奨学金の支給事業が行われるとともに、授業料減免措置が講じられているところである。

 なお、1995年の我が国における国と地方の歳出合計のうちの16.55パーセントが教育に費やされている。


中・高等教育の無償化へ向けて努力することを留保する外務省の論点は、(1)私学があること、(2)奨学金事業および授業料減免措置があること、(3)歳出合計の16.55%が教育費であることとまとめられるかと思います。

私なりに反論を試みますと、(1)に関しては税金に基づく教育バウチャーの導入などの制度改革で済む問題ですから、中・高等教育の無償化への努力に反対する原理的な理由ではありません。(2)の制度が不備なのは前の記事でも示したとおりです。(3)はその数字が何を意味しているかわかりませんので反論になっていません。むしろGDP支出との割合でいえば日本の教育予算は他国と比べて著しく低い(OECD調査では最下位)ことは周知の通りです。

したがいまして、私としては中・高等教育の無償化への努力を日本国政府は、国際人権規約に反して意図的に怠っていると判断せざるを得ません(注)。




グローバル資本主義社会・高度知識社会において質の高い教育を得ることは非常に重要な権利です。ですがその権利が日本では今次々にないがしろにされています。



「弱者」の権利の話をしても既得権益層にはなかなか通じないので(これは知性の欠如でしょうかそれとも品性の欠如でしょうか)、功利的な議論をします。

日本国全体をみた場合、一部の社会階層しか高等教育が受けられないようになることは、人材活用という点で国力を削ぎます。

そもそも、日本の国力は良質な中間階級にあると考えられてきました。「庶民」の教養や民度が高いので、日本の生産現場でもサービス産業でも良質な仕事が可能になり、また国全体の治安も保たれてきたと信じられています(私はこの信念を覆す強力な根拠や証拠を知りません)。

しかし現在起こっていることは基本的にはアメリカと同じで、トップ階層(いわゆる「勝ち組」)の庇護と中間階級の切り捨てです。中間階級が、経済の面でも健康の面でも知性の面でもますます不利な条件に追い込まれています。

この傾向がこれ以上続けば、もはや日本の生産現場やサービス現場の質は著しく低くなり日本の国力は損なわれるでしょう。また治安も悪くなり安寧な暮らしは消滅します。「観光立国」という政策も危うくなるでしょう。


まとめるなら、現在の日本国政府の教育への怠慢は、日本国民の個人の暮らしと国全体の力を損なう亡国の途です。私は日本国民の一人として、このような教育軽視に憤ります。

教育に関心をもつすべての皆さん、それぞれのやり方で声を上げてください。




追記: 「国際人権規約」の英語原文は以下のサイトで読むことができます。



「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(A規約)第13条の英語原文は以下の通りです。

1. The States Parties to the present Covenant recognize the right of everyone to education. They agree that education shall be directed to the full development of the human personality and the sense of its dignity, and shall strengthen the respect for human rights and fundamental freedoms. They further agree that education shall enable all persons to participate effectively in a free society, promote understanding, tolerance and friendship among all nations and all racial, ethnic or religious groups, and further the activities of the United Nations for the maintenance of peace.


2. The States Parties to the present Covenant recognize that, with a view to achieving the full realization of this right:

(a) Primary education shall be compulsory and available free to all;

(b) Secondary education in its different forms, including technical and vocational secondary education, shall be made generally available and accessible to all by every appropriate means, and in particular by the progressive introduction of free education;

(c) Higher education shall be made equally accessible to all, on the basis of capacity, by every appropriate means, and in particular by the progressive introduction of free education;

(d) Fundamental education shall be encouraged or intensified as far as possible for those persons who have not received or completed the whole period of their primary education;

(e) The development of a system of schools at all levels shall be actively pursued, an adequate fellowship system shall be established, and the material conditions of teaching staff shall be continuously improved.




(注)
岩田康晴氏によりますと、「高校や大学の漸進的無償化をうたう国際人権規約A13条を留保する国は日本とマダガスカルだけ」だそうです。





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Give us a chance/ チャンスを我らに

FBIがジョン・レノンを危険人物とみなし、様々な妨害・諜報活動をしていたことを知ったのはずいぶん前でしたが、その時は「たかだかミュージシャンに対して神経過敏だなぁ」ぐらいにしか思っていませんでした。

しかし映画「PEACE BED アメリカ VS ジョン・レノン」でジョン・レノンが、ベトナム戦争に反対してホワイトハウスを囲む数万人と共に"Give Peace a Chance"(「平和を我らに」)を繰り返し繰り返し歌うシーンは圧巻でした。この単純なメロディーと歌詞を延々と繰り返す人々のpowerは本当にすごい。


All we are saying is give peace a chance,
All we are saying is give peace a chance

拙訳

俺たちが言っているのは、
平和にチャンスを与えろってことだけだ

戦争は避けられないわけではない。
戦争にだけチャンスを与えるな。
平和にもチャンスを与えろ。

平和にチャンスを与えろ。
平和に機会(チャンス)を与えろ。
平和に可能性(チャンス)を与えろ。

戦争を止めたらどうなるかはわからない。
でもせめてチャンスを平和に与えろ。
機会と可能性を平和に与えろ。

俺たちが言っているのは、
平和にチャンスを与えろってことだけだ。
(これって理不尽なことかい?)



暴力を煽るわけでなく、口汚い言葉を罵るわけでもなく、ただ"Give peace a chance"と何度も何度も、何万人もの人々が歌う時、それはどんな手段でも凌駕できないpowerになります。アレントも言うように、人々のこういったpowerこそが「権力」なのです。このシーンを見たとき、当時の体制維持だけを願うFBIがジョン・レノンを心底怖れたことが私にもよくわかりました。



ひるがえって現代日本。「官僚支配を覆すことはできない」、「格差社会を誰も止めることはできない」といった悲観論がはびこります。目先の利いた者はいかに自分が「勝ち組」に近づくかに専念します。「負け組」や弱者は切り捨て、それは「仕方がないことだ」と言いくるめることが社会正義だといわんばかりの態度もしばしば見られます。


しかしそれはおかしい。




Give us a chance.

チャンスを我らに。



政治を変えるチャンスを与えろ。
選挙という機会と可能性を与えろ。
そもそもそのチャンスは私たちのものだ。

これ以上選挙をひきのばすな。
政治家や官僚や財界だけが政治を司るチャンスをもっているとでも言うのか。
国民にチャンスを与えろ。
(これって理不尽なことかい?)


教育を受けるチャンスを与えろ。
すべての子どもにまともに学ぶ機会と可能性を与えろ。
そもそもそのチャンスは子どもたちのものだ。

これ以上教育から子どもを締め出すな。
金持ちの子どもだけがまともに教育を受けられればいいとでも言うのか。
すべての子どもにチャンスを与えろ。
(これって理不尽なことかい?)



俺たちが言っているのは、
俺たちにチャンスを与えろってことだけだ。
(これって理不尽なことかい?)


チャンスを与えろ。俺たちに。
というよりも、チャンスを返せ。俺たちに。
チャンスは国民のものだ。


憲法第25条は何と言っている?

(すべて国民は、
健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を
有する)。

憲法第26条は何と言っている?

(すべて国民は、
法律の定めるところにより、
その能力に応じて、
ひとしく教育を受ける権利を
有する)。


国民が言っているのは、
チャンスを我らに。
(これって理不尽なことかい?)





Give peace a chance

動画

歌詞







Power of the People

かつてジョン・レノンは"Power to the people"という歌を作った。


しかしジョンは間違っている。

Powerは人々「に」 --"to"-- 与えられるものではない。

Powerは人々「の」 --"of"-- ものだ。

だから私たちが歌い上げるべきことは"Power of the people"なのだ。



日本国憲法前文の権威において私たちは歌う。


"Power of the people"


日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。



"Power to the people"

動画

歌詞





2009年6月18日木曜日

『京大・学術語彙データベース基本英単語1110』

大学教育で必要とされる学術英語に関するニーズを堅実な方法で確定し、それをわかりやすく使いやすい形に編集した単語集が発刊されました。大学英語教育関係者はもとより、高校や予備校の大学進学者にとってもぜひ手元においておきたい一冊かと思います。


京都大学はホームページで次のように説明しています。


「京大・学術語彙データベース基本英単語1110」を刊行します。(2009年6月11日)

 本書は、大学の全学共通教育(教養教育、一般教育)用英単語集として大学生の語彙教育に供するために作成されました。日本の大学生の語彙力低下が指摘されるなか、大学生を対象とした英単語集は、大学受験用英単語集に比べ圧倒的に数が少ない状況でした。また、文系分野から理系分野まで幅広くカバーするものに至っては、皆無といってよく、学士課程において、大学生が英語学習の拠り所とすべき指針は長い間、事実上存在しなかったわけです。このような背景のもと、本書は企画されました。

 本書に掲載された語の選出については京都大学(英語学術語彙研究グループ)が担当し、各語の意味と用例については研究社(編集部)が担当しました。

 本書の掲載語は、京都大学英語学術語彙研究グループが独自に開発した英語学術語彙データベースから選出されています。同語彙データベースは、本学の教員から推薦された英語論文誌に基づき、とりわけ学術研究の下地として必要な英語力とは何か、という問題意識から作成されました。英語論文誌の推薦には、本学の各学部・研究科が協力し、同語彙データベースに収録された語も文系・理系、特定分野という枠組みを越えて広範囲にわたっています。同語彙データベースに係る著作権については、京都大学発明評価委員会において、京都大学が同著作権を承継する決定がなされたことから、本書は、京都大学の知的財産(著作物)を利用した文系初の産学連携事業として位置付けられています。

 本書には、同語彙データベースから各語の出現頻度や出現傾向を反映する指標に従って選出された文系・理系共通学術語彙、および文系共通学術語彙、理系共通学術語彙が収録されています。このことから、本書は、全国の大学生・大学院生にとって、学部や学科を問わず役に立つことはもちろんのこと、実務で英語に携わる社会人にとっても参考になるものと思われます。
http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/news_data/h/h1/news7/2009/090625_1.htm



この刊行における京都大学英語学術語彙研究グループのアプローチの一端は、田地野彰、他(2008)「英語学術論文執筆のための教材開発に向けて―論文コーパスの構築と応用―」『京都大学高等教育研究第14号』で知ることができます(http://hdl.handle.net/2433/70823からPDFでダウンロード可能)。

学術的であり実用的な良質な出版物の刊行を心からお慶び申し上げます。


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2009年6月17日水曜日

倉島保美 『理系のための英語ライティング上達法』 (2000年、講談社ブルーバックス)

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]

工学部卒で、エンジニアとしてのキャリアを経て、今では数々の大学や企業で英語および日本語のライティングや論理的思考法、ディベートなどを教える著者は、「はじめに」で次のように明言します。


日本人の多くは、英語は懸命に勉強するのに、コミュニケーション技術はまったく勉強しません。その結果、文法上の誤りのために意味の通じない文を書く人はほとんどいませんが、構成上の問題で伝えるべきことを伝えられない人はたくさんいます。また、礼儀に欠ける文章を書く人もたくさんいます。 (3ページ)


本冒頭のこの明言は、私の心を捉えました。たしかにその通り。学生の卒論英語執筆の指導でも私は、学生の文章構成 (パラグラフ間とパラグラフ内) や全体を通しての文体感覚の統一を十分に指導できずに困っています (もちろん自分自身のライティングを上達させることの方が先ですが、ここではそれは棚に上げて話をしております)。そのような私にとって、この本はまさに「ビンゴ!」であり、以来、学生には折に触れてこの本を薦めています。


第1章で著者は「英語学習常識のウソ」を明らかにします。

第1のウソは「ネイティブの指導こそが効果的」というものです。ネイティブ・スピーカーによる文章添削は、多くの場合、細部の文法だけを修正するものであり、文章構成全体に関する効果的なコミュニケーションに関する指導がほとんどないからというのが著者の主張です。

第2のウソは「ライティング=和文英訳」というもの。著者によればライティング (英文作成) は次の5段階から構成されます。


1. 読み手を特定する
2. 伝達すべき情報を特定し、整理する
3. その情報を最も効果的に伝達するための文章構成を考える
4. その構成について日本語の文章を考える
5. その日本語を英文に直す

いわゆる「和文英訳」は5番目のステップに過ぎず、最初の4つの段階について訓練を重ねていなければ、わかりやすい文章は書けないというわけです(注)。

英語教育界には近年でしたら大井恭子・田畑光義・松井孝志『パラグラフ・ライティング指導入門―中高での効果的なライティング指導のために 』(2008年、大修館書店)といった好著があり、一部ではしっかりとしたライティング指導がなされていますが、大半の指導は、上記でいう5だけであり、特に1、2、3に関する指導はほとんどないのではないでしょうか。

実際、和文英訳の問題集の中には、読み手の特定 (および読み手の特定から決定される文体の選択) がまったく定められないままに、とにかく単文の問題が、構文ごとに並べられているものがまだ見られますが、そういった問題集では、構文は定着するとしても、わかりやすい文章を書く訓練にはならないでしょう。文体感覚の育成に関しては有害無益とすら言えるでしょう。(実際私が高校時代に丸暗記した有名な構文集などは文体の混乱に関してはひどいものでしたが、そのことに気づいたのはずいぶん後でした)。

このような単文を集めた例文集を暗記さえしておけばよいという信念は、筆者の言う第3のウソにつながってゆきます。筆者は例文集が手元にあれば、英文作成はすぐにできるというのはウソだと考えます。例文の状況と、今自分が行なおうとしているライティング状況に関する判断ができないと、例文のとんでもない使い方をしてしまうことがあるからです。


かくして筆者は第2部 「英語がすらすら書けるコツ」 でコミュニケーションのためのライティングの原則を解説します。そのエッセンスは65ページの章扉に要約されています。



●文章の展開法を知る
・パラグラフ単位で考えれば論理的にすらすら書ける
・何を述べるかから始めれば伝わりやすい
・パラレリズムを使えば書く負担がずっと減る

●文をなめらかにつなぐ
・既知から未知へと流せば文がつながる
・接続語句を使えば読み手の負担が減る
・主従を明確にすれば言いたいことが強調できる

●好感を与えるよう表現する
・丁寧度を知ればあらゆる状況に対応できる
・ちょっとした工夫で穏やかな口調になる
・表現を工夫すれば印象が変わる


この第2部の説明も、他の部分と同様、きわめて明確で具体的です (考えてみればこれはライティング上達に関する本なのですから、著者のライティングが素晴らしいのは当たり前なのかもしれません。しかし、私はこの本のわかりやすさには非常に好印象を得ました)。


第3部では各種状況でのライティングの具体例が解説されます。付録Aには「英文の質を上げる10のTIPS」、Bでは「E-MAILでの10の注意点」、C「英文作成を助けてくれる電子ツール」があります。随所に入れられているコラムも著者の経験に基づく具体的なものでなるほどと思わされるものです。


タイトルには「理系のための・・・」とありますが、それほど理系の専門的なトピックを扱っているわけではなく、むしろ論理的な文章展開に慣れていない文系やビジネス (事務職や営業職)系 の方が読んだ方が益するところが多いと言えるかもしれません。もしあなたがこの本を本棚で見かけても「私は文系だから・・・」と敬遠していたのなら、ぜひぜひ次回はこの本を手に取ってみて下さい。というより、英語教育関係者はもっともっと理系の英語使用を学び、「文系 vs 理系」という不毛な対立図式を過去のものにしませんか? 現代社会は文系の発想だけでも、理系の発想だけでも十全に語れないのですから。



(注) ライティング (英文作成) の第4段階の「英文を書く前に一度日本語の文章を書く」ということに関しては「日本語を経ずに直接英文を書く」方がいいとお思いの方もいらっしゃるかと思います。たしかに最初に日本語を書いてしまうと、英文がその日本語につられてしまうという悪影響が出かねません。しかし、いきなり英文を書かせると思考が不如意な英語に拘束されてしまい、内容が稚拙になってしまうという弊害もありえます。

このあたりはライティングの状況・目的・関係者を具体的に検討して、ケース・バイ・ケースで適切な方法を選ぶべきではないでしょうか。日本の英語教育界には状況を具体的に検討することなく、「方法Aと方法Bは、どちらが優れた方法か」などといった議論に血道を上げる方も時にいらっしゃいますが、もういい加減そういった不毛な議論は止めませんか。「メスと斧はどちらが刃物として優れているか」という議論は、刃物が使われている状況を考えずになされるとしたら、愚かと言わざるをえないと思います。



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アンサイクロペディア/Uncyclopedia

思考力と想像力の限りを尽くし、"high culture"と"sub culutre"の垂直的ヒエラルキーと各ジャンルの水平的棲み分けをしっちゃかめっちゃかにかき混ぜて、一見真面目で実はデタラメに馬鹿げた文章を作り出すなどということは、まさに知性の蕩尽。そんな文章を次々に読めるということは、私のようにひねくれた人間にとって最高の快楽です(笑)。


ふとしたきっかけで日本語版アンサイクロペディアを知りました。

アンサイクロペディア
http://ansaikuropedia.org/wiki/メインページ


「秀逸な記事」をいくつか読んでいただければ、これが皆さんにとっても面白いかどうかわかるでしょう (あ、真面目な方は読まない方がいいですよ)

秀逸な記事
http://ansaikuropedia.org/wiki/Uncyclopedia:秀逸な記事




英語教育関係者として注目したいのはやはり英語版。

Uncyclopedia
http://uncyclopedia.wikia.com/wiki/Main_Page


「秀逸な記事」も質・量ともに充実しています。

Best articles
http://uncyclopedia.wikia.com/wiki/Uncyclopedia:Best_of



このユーモアを支えているレトリックを簡単に解説したのがこのページ。

How To Be Funny And Not Just Stupid
http://uncyclopedia.wikia.com/wiki/Uncyclopedia:How_To_Be_Funny_And_Not_Just_Stupid

(日本語訳はこちら)
http://ansaikuropedia.org/wiki/Uncyclopedia:馬鹿にならずにバカバカしくやる方法



英語の文体感覚(およびその微妙なずらし)というか、おそらく現代アメリカ的といっていいだろうシニカルな笑いの感覚を知るにはこのUncyclopediaは面白いと思います。

てか、私は品が悪いからこういう笑いは大好き。イヒヒヒヒ。







2009年6月15日月曜日

周辺部キーの打指固定とショートカットキー

キーボード入力をする時は、「ホームポジション」にきちんと両手を置き、キーは定められた指で必ず打つようにすることはタイピングの基本ですが -- そしてこの基本が日本の学校ではあまりきちんと教えられていないことは驚くべき事ですが -- キーボード周辺部のキー ( [Ctrl] [Shift] [Tab] [Alt] など) も決まった指で打つ習慣をつけると、ショートカットキーの扱いが容易になり、キーボード入力がさらに迅速かつ快適になることをこのブログ記事で学びました (言うまでもなく、入力の際はできるだけキーボードから手を離さずに、マウスも極力使わないことが高速入力のためには重要です。あ、それからマウスはぜひトラックボールマウスをごひいきに ←愛好者を増やしたい 笑)。



その記事によると周辺部キーを押す場合は次の打指原則を徹底するべきです。



■左親指は[Alt]を押すために使う

■左人差し指は[X][C][V]などを押すために使う

■左薬指は[Tab]もしくは[SHIFT]を押すために使う

■左小指は[Ctrl]を押すために使う


■右人差し指は左矢印(←)を押すために使う

■右中指は上下矢印(↑↓)を押すために使う

■右薬指は右矢印(→)を押すために使う




ショートカットキーに関しては、以前にまとめたものが基本的なものですが、周辺部キーを押す指も固定すると、次のようなショートカットキーも常用したくなります。



■[Alt]+[Tab] アプリケーション間の移動

■ [Alt] + [Esc] 項目を開いた順に切り替える

■[Alt]+[スペース] メニューを出し、ウィンドウの終了・最大化・最小化など。ちなみに[スペース]の打指は右親指で固定



また、以下はMicrosoft WORD専用のショートカットキーですが、これらも覚えておくと確かに便利ですね。作業ファイルが大部で、締切が近いときなどは本当に少しでも処理速度を上げたいものですからね。(この情報はこのブログから入手しました)



■[Ctrl] + B 文字を太字に

■[Ctrl] + I 文字を斜体に

■[Ctrl] + U 文字に下線を

■[Ctrl] + [Shift] + < フォント サイズを縮小
■[Ctrl] + [Shift] + > フォント サイズを拡大

■[Ctrl] + [Space] 段落または文字の書式を解除

■[Ctrl]+[Home] 一番上にジャンプ

■[Ctrl]+[End] 一番下にジャンプ

■[Shift]+[Ctrl]+[Home] カーソルより上を全て選択

■[Shift]+[Ctrl]+[End] カーソルより下を全て選択




現代の知的労働ではかなりの時間をコンピュータ操作に費やさなければなりません。少しでもコンピュータ操作に習熟したいと思います。







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勝間和代氏の教育に関する二提言

勝間和代氏は現在、毎日新聞で「勝間和代のクロストーク」というコラムを書いています。勝間氏の率直かつ具体的な言論姿勢には私は共感しています(すべての著作を好きだとは言いませんが)。


勝間氏は最新コラムで



を取り上げ、少し前のコラムでは



を取り上げています。


私は前者の提案に関しては、地域そのものに格差がある以上、勝間氏のような策では教育格差は解消しないと考えますが、いずれにせよこのような形で公論が興っていることは注目に値するかと思います。


学校教育界において文部官僚は大きな力をもっております。文部官僚を動かすには財務官僚を動かさなければなりません。財務官僚を動かすには、相当に政治を動かさなければなりません。

しかし官僚も政治家も自分からは改革はしません。また、古今東西の歴史が証明するように、権力者はしばしば自己保身・自己利益のために権力を濫用します(これは人間が人間である限り避けがたいことなのかもしれません)。


そうなりますと、世の中を変えることなど不可能なのでしょうか。



いえ、私たちには人類的な遺産があります。


開かれた公正な議論により権力(power)を決定する民主主義という遺産です。



幸いウェブにより開かれた公正な議論をする環境は整えられました(無論、この環境も心ない狼藉者に荒らされたり、狡猾なテクノクラートにより秘かにコントロールされることもありますが)。


いかに固陋な官僚や政治家とて、開かれた公正な議論の理性的な蓄積には抵抗しがたいはずです。なぜならば民主主義という建前を否定することは官僚や政治家には(少なくともあからさまには)できないからです。


教師の皆さん、官僚や政治家がいつかあなたのために教育改革をしてくれることはありません。彼/彼女らは現状を知りません。知っているとしても自分の利益にならなければ身体をはっては動いてくれません(少数の例外の存在を信じたく思いますが、多くの官僚や政治家はそんなものでしょう)。


そもそも官僚や政治家は公僕(public servant)です。「公」の「僕(しもべ)」たる「公務員」は、日本国憲法が定める「主権」を有する私たち「国民」(日本国憲法前文および第1章第1条)「全体の奉仕者」(第3章第15条)であり、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利」(同)です。

国民「全体」という表現には私は強い違和感を覚えますが、それはそれとして、国民は自らの意思を明確にしなければなりません。(「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(第3章第12条))。


困難な現場にいる方、あるいはそんな方をご存知のご友人の方は、どうぞできるだけ効果的なやり方で声を上げてください。事実に基づいた論理的な議論は理解を招くはずです。

どうぞ「私一人が声を上げたって世の中は変わらない」などとおっしゃらないでください。言葉尻をとらえますと、「私一人の声で世の中が変わってほしい。しかも今すぐに。」などというのは傲岸不遜で危険な考え方です。

複数の人間が、それぞれに理性的に考えた末の声を出し合えば、私たちはどんな一人の人間にも到達できない知恵に達することができるはずです。それが民主主義の遺産かと思います。



すみません、また熱くなりました (←レトロな単純熱血バカ 笑)。






2009年6月10日水曜日

宇江裕明先生(尾道市立吉和小学校)による「ことばへの気づきを育む外国語活動の在り方」

広島県尾道市立吉和小学校の宇江裕明先生による研究「ことばへの気づきを育む外国語活動の在り方」のパワーポイントスライドをここでご紹介させていただきます。

宇江先生は広島県のエキスパート教員制度で一年間研修され、その一環として毎月一度私と話し合って、研究をまとめました。

現場の優秀な先生というのは非常に頭がよいというのは、同じくエキスパート教員であった道面和枝先生の時にも感じましたし、また日頃もしばしば痛感することですが、宇江先生も、最初に「研究とは」「論文とは」といったことを一、二冊の本で学んだ後は、急速に自身の問題意識を研究実践に形成してゆきました。私がやったことといえば、適切な本を紹介することと、宇江先生の語りをよく聞いて、それを整理したり、問い直したりするだけでした。

今回ここでご紹介するのは、先日の成果発表会で使われたスライドです。発表時間が10分なので、分析の詳細などについては触れられていませんが、研究の内容、およびプレゼンテーションの仕方など、現職の小・中・高の先生方に参考になるかと思い、ここに宇江先生の承諾を得て、公開します。

宇江裕明先生(尾道市立吉和小学校)による「ことばへの気づきを育む外国語活動の在り方」のパワーポイントスライドをダウンロードするためにはここをクリックしてください。



なお、スライドはぜひ「スライドショー」モードでご覧になることをお薦めします。小学校教員の細やかな配慮がわかるかと思います。





作図・作画ツールとしての一太郎

上の記事(次の記事)で紹介したスライドのイラストが、個人的にきちんとアレンジされたものでしたので、私が「どうやったらあんなに自分専用のイラストを作ることができるのですか?やっぱりアドビ・イラストレーターなんかを使っているんですか?」と尋ねましたら、宇江先生は「いや、一太郎で簡単にできますよ」とこともなげにおっしゃってくれました。

「小学校の先生にハサミと糊を持たせたら、何でも作るよなぁ」とはかねがね思っていたことですが、やっぱりパソコンの使いこなしもすごいんですね。

以下は宇江先生が親切にも一太郎で簡単に自分専用のイラストを作る方法をまとめてくださったものです。宇江先生の許可を得て、ここで公開します。





ファイルの中で使われている一太郎は少し古いバージョンですが、現在のバージョンでも同じようにできるはずです。

私は現在、一太郎を、他人から一太郎ファイルをもらったときに閲覧する時のためにしか使っておりませんが -- あ、ATOKシステムはパソコンの中に組み込んでいます。IMEの馬鹿さ加減にはつきあいきれませんからね -- これからは作図・作画ツールとしての一太郎の使いこなしを学ぼうかとも思っています。

児童・生徒に親しみのあるイラスト作成をご希望の方はぜひ上をクリックしてファイルをダウンロードしてください。










2009年6月3日水曜日

やまだようこ編 『質的心理学の方法』 新曜社

質的研究法について最初に入手すべき概説的入門書としては最良のものの一つではないでしょうか。といいますのも、第一部で理論的背景を解説し、第二部での各種方法論を説明し、第三部で質的研究法の学び方を示しているからです。この本を通読することにより質的研究法について幅広く、そして奥行き深く学べるのではないかと思います。

目次は次のようになっています。


第1部 質的心理学の研究デザイン
1 質的心理学とは
2 研究デザインと倫理
3 論文の書き方

第2部 質的心理学の研究法
4 ナラティブ研究
5 参与観察とインタビュー
6 会話分析
7 半構造化インタビュー
8 グループインタビュー
9 ライフヒストリー・インタビュー
10 ライフレビュー
11 テクスト分析
12 アクションリサーチ

第3部 質的心理学の教育法
13 質的心理学の教え方と学び方
14 ナラティブ研究の基礎実習
15 フィールドワークの論文指導
16 協働の学びを活かした語りデータの分析合宿
17 教育における協働の学び
18 ゲーミングによる協働知の生成
19 ワークショップによる対話教育


第一部第一章ではやまだようこ先生が次のように端的に質的研究を総括します。


仮説演繹法をとる実験的研究では、「イエス・ノー」や「因果関係」で明快に答えられる問いを提示するほうが良い研究ができる。たとえば「人がA行動をしたのはBが原因か?」という問い方をする。そして、答えが明確に出る実験状況を設定して操作する。
それに対して質的研究では、自由記述のように開かれた問い (オープン・クエスチョン) を発する。「人はAの文脈でどのように出来事を意味づけるか?」など、現場 (フィールド) で複雑な相互作用によって生起する「出来事」「文脈」に関心を抱いて、問いを発するのである。 (4ページ)


質的研究では、研究者自身も場のなかに組み込まれているので、研究者がどのような位置に立ち、どのようなバイアスをもって出来事を認識しているのか、自分自身のものの見方や方法論をたえず省察 (リフレクション) する必要に迫られる。 (5ページ)


また第二章では、サトウタツヤ先生が、質的研究では、量的研究の確率的標本抽出法のように、抽出する標本に母集団からの代表性を確率的にもたせようとするのではく、非確率的標本抽出法によって「研究対象となる事象について豊かな情報を与えてくれるような個体を選ぶ」 (26ページ) ことを述べ、質的研究と量的研究の根本的な発想の違いを明確にします。

しかしながらやまだ先生は、同時に最近の質的研究には、「過剰な「私語り」、私小説的な「身辺語り」や「告白」が氾濫している」 (12ページ) ことに警鐘を鳴らしています。

独自の個人としての「わたし」と信じられていたものが、いかに深く「他者」や「文化・社会」とむすびついているかを発見したことが、ナラティブを中心とした質的心理学の世界観と方法論の変革だからである。
(中略)
質的研究では、「一人称のわたしの視点を重視する」「二人称的に当事者の視点を聞く」「研究者が一人称のわたしの視点で論文を書く」ことが試みられる。しかし、それには、自他の関係性についての鋭い方法論的なスタンスと、省察性 (reflexivity) を必要とする。個人の主観や意思によって、どのようにでも世界の「現実」が構成されるかのように考えるとしたら、それは過去の主観主義や内省報告に基づく古典的な心理学研究への無自覚的な回帰になってしまうだろう。 (13ページ)



第二部の「質的心理学の研究法」はおそらくこれから質的研究を始めようとする人が最も熱心に読む箇所でしょうが、そういった具体的な手続きを学ぶ中でも次のような認識 (やまだようこ 「ナラティブ研究」) を理解しておくことは必要でしょう。


ナラティヴ研究では、広義の言語で語られたものを研究対象とするが、その語りが、「客観的現実」や「個人の内的世界」をどれだけ正しく反映しているかという問い方をしない。語りを、事実 (fact) の母集団の一部としてのデータやサンプルとしてみなし、どこまでが虚でどこからが実かを明確にしようとする見方は、ナラティヴ的な見方とはいえない。たとえ嘘が語られたとしても、その語りには、語りの形式 (フォルム) とルールがあると考える。人はいかようにも自由に嘘を語れるわけでなく、フィクションによって「真実」が語られる場合もある。また個人的な経験を語っているようでも、社会文化的な物語を引用して、自分流のヴァージョンをつくっているとも考えられる。 (64ページ)


その他にも「アクションリサーチ」の論考にも深い認識があることは、このブログの以前の記事でもお知らせした通りです。

わかりやすく、広く、深い入門書といえるのではないでしょうか。





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2009年6月1日月曜日

ある卒業生 (高校教師) とのメール交換

卒業生とメール交換をすることはしばしばあることですが、以下のメール交換は多くの方の問題意識と重なるかと思ったので、ここにメールを出してくれたHさんの許可を得て、Hさんと私とのメール交換を転載します。

Hさんにしても私にしても仕事の合間に書いたメールなので、きちんと推敲もされていませんし、特に私の最初のメールなどは、おざなりで「上から目線」的なコメントはお気楽すぎるものと批判を受けるものでしょうが、それはそれとして、皆様の問題意識の高揚とコミュニケーションを願ってここに掲載します。



■Hさんから柳瀬へ

かなりご無沙汰しています。先生お変わりはないですか。

今年度2ヶ月ほど授業をしてきたのですが,自分が疑問に思うことがいくつかでてきています。先生の考えを聞かせて頂けないかと思いメールしました。
返信は時間のあるときで構いませんので,よろしければ一読お願いいたします。

困難校の英語指導について

選択英語(少人数)で,英語を教えています(5~7名)。英語に興味はあるのですが,なかなか力が付かない現状にあります。4月からbe動詞,一般動詞,それらの疑問形という形で基礎力を養成しようとしてきたのですが,まさにざるで水をすくうかのごとく成果が見られません。また,疑問詞を伴う疑問文になると,生徒が飽和状態で,学ぶ意欲をなくしてしまいました。イメージは個人塾といった感じで,それぞれの小集団に合わせた課題を用意して,こちらが回りながら指導するといった形をとっています。力のない子・少人数ということを考えて,これがベターと思い選択したのですが,手応えもなく,この方法に迷いを感じています。

主な疑問点は以下の2点です。

(1) 文法積み上げ式,問題集中心は学習者の意欲をそぐのか。また,あまり英語の基礎力養成に役立たないのか。

(2) そもそも目標設定として,「英語をできるようにする」という設定は違っているのか。

これまでそれなりに勉強してきたつもりではありますが,最近よく分からなくなっています。
わかりにくい所もあるかと思いますが,何か感じるところがあれば返信して頂ければ幸いです。

H



■柳瀬からHさんへ

Hさん、

メールありがとうございました。

(1)文法積み上げ方式・問題集方式は間違った方法だとは思いません。ただ、それ以前に、生徒は正確かつスラスラと英語が書ける(書き写せる)でしょうか。そのあたりの躓きはどうですか?

また問題集の問題が「できる」というのはどういったレベルですか?何とか答えられるといったレベルですか?それとも結構スラスラ答えられるというレベルですか?教師がどちらを目指しているのでしょう?

よく言われることですが、日本の英語教育はなんんとかわかったら、次に進んでしまい、「できる」ところまで指導しないと言われます。

教師からすれば進度があるから「できる」ところまで指導する時間がないのかもしれませんが、基礎レベルのところをきちんと「できる」(=正確だけでなく快適にスラスラとできる)ところまでやっていないので、その後の学習が困難になっているということはないでしょうか(間違っていたらごめんなさい)。

(2)仮に生徒が卒業して英語を使う可能性が非常に低くとも、なんとか「英語ができる」ようにさせたいと私は願っています。といいますのも「無力感」を学んで卒業して欲しくないからです。(Learned Helplessnessという心理学概念を覚えていますか?)

ある意味、私は英語は走り高跳びと同じぐらいに社会的に有用性がなくともいいと思います。私自身、社会人になってから走り棒高跳びをしたことなど一度もありませんが、学校時代に走り棒高跳びで苦労したこと・楽しんだことは財産になっていると思います。

すみません、殴り書きなので意味がわかりにくいかもしれませんね。

またゆっくり話をしましょう。

柳瀬陽介



■Hさんから柳瀬へ

柳瀬先生,早速の返信ありがとうございます。

僕自身ほんの10分の休憩時間中に書いたものを読んでいただくのは気が引けたのですが,勢いで送らせてもらいました。

文法積み上げ方式は,決して自分で理想的だと思ってやっている手法ではなく,それに変わる明確なものを自分が持っていないためにとっている手段です。

授業は年間(最低1年,最高3年)をとおしておこなうため,やはり安定した型がないと自分自身が授業をおこなうのに不安になってしまいます。仮にすばらしいアイディアが単発で浮かんだとしても,それが先へと関連づいていかないと,実はあまり意味がないことにこの数年間で気づかされました。

僕自身,単発で何かやれと言われたら少々ごまかしたことが出来るかもしれませんが,何かできなかったことを出来るようにしたかといわれると自信がありません。

問題集に関して言えば,30名クラスですらすら出来る生徒が3名,出来ないながら頑張ろうとして取り組み,何らかの答えを出す者が7~8名,気分次第が7~8名,やる気以前にdog位しか単語がわからない生徒が10名弱といった所でしょうか。その多様性故にどう対応していったらよいかこんがらがっているのが実情です。

つまり,自分が何を説明しようと基礎的なこと(DoとDoesの区別がつかない,doctorの意味すら知らない)が抜け落ちている生徒は確実に存在していることへの無力感,すらすらできる生徒をのばせていない無力感等を正直結構感じちゃっています。

できるようにさせるにはかなり時間のかかる生徒,ともすれば時間をかければかけただけの効果が出るわけではなく,いらいらして切れてしまったり,英語を嫌いになったりという生徒は少なからずいます。まさに無力感です。そういうことから自分の今やっていることへの疑問がわいています。

「自分はかなり時間をかけ,添削もし,丁寧に教えているのだけれど,なぜ・・・?といった」

それは実はこれまで生徒指導上の問題で授業どころでは無かった実態から,3年かかって授業を普通に出来ることになったことから生じてきた苦しみなのですが。

自分は柳瀬先生の影響で,卒業後も中嶋洋一先生,田尻悟郎先生といった諸先生の文献やDVDを購入し学習してきました。ただ,ノウハウではなく自分の実践に落とし込むレベルには至っていません。それどころか,そういった学習をしたせいで,よけいな苦しみが生じてしまっている気もします(これは何の批判でもなく,自分の正直な感情です)。

中学生ではなく高校生(著しく英語が苦手かつ嫌い)に焦点を当てた先行研究はあまり無いのでしょうか?(柳瀬先生の2年前くらいの英語教育厳選図書の中の1冊には目を通しました。)

先生のメールにもあり,いろんなところで聞くのですが,「ゴールとして何を持つか」というのが結局ほぼ全てを決めるのだと思います。ただ,そのゴールとして何をイメージできるか,かちっとしたものを設定できるかといえば,これは非常に難しいことではないかと思います。『英語教育のゆかいな仲間達』といったような本で田尻悟郎先生が,「何よりもまず,ゴールを決めることです」と書かれていますが,「それが難しいから苦労してるんだよ」なんて思ってしまいます。

非常に長々と書いてしまいました。申し訳ありません。

僕としても先生といつか直接お話させていただければと思います。

H



■柳瀬からHさんへのメール

Hさん、お返事をありがとうございました。

これは真っ先に私が批判されるべきことなのですが、日本の英語教育界には、(1)大学に進学しない層への教育に対する関心が薄い、(2)学習者の実態に即した英語教育内容に関する研究が少ない、といった欠点があるかと思います。

(1)に関しては寺島隆吉先生の著作や、その他多くの優れた著作はありますが、日本の英語教育学界の研究者の大半は、大学進学できる学力層 (そしておそらくは社会階層) ばかりを無批判的に「学習者」として前提にしているかと思います。
しかし大学進学者は約50%なわけですから、約半数の生徒は日本の英語教育学界の多くの研究者からは顧みられていないわけです。約半数の生徒が顧みられていないということは、約半数の英語教師も顧みられていないということになります。
ですから今すぐ、「中学生ではなく高校生(著しく英語が苦手かつ嫌い)に焦点を当てた先行研究」を思い出すことはできません。ごめんなさい。

しかし、折しも、過度の個人競争を煽るような資本主義の暴走に対する反省がわき起こりつつありますが、日本の将来を考えるとき、約半数の生徒・教師が無視されるようなことはあってはなりません。これは私の今後の課題の一つとしたいと思います。


(2)ですが、日本では英語教育の方法に関する議論は盛んでも、英語教育内容に関する具体的な議論はここ二十年、三十年といったスパンでみると非常に少なくなってきているような気がします。
その例外は田中茂範先生の認知言語学的アプローチでしょうか。あるいは中学校とはいえ、瀧沢広人先生のいくつかの著作でしょうか。私自身、どうしても抽象的な議論を好むため、英語教育内容をもっと具体的に考えないと、「ゴール設定」というのもかけ声だけに終わってしまうのではないかと反省します。

さて、今回の一連のメール交換ですが、Hさんの名前を「H」とした上で、私のブログに転載するわけにはいかないでしょうか。Hさんの正直な述懐が多くの教師の共感を得るかと思ったので提案している次第です。ご検討ください。

それではまた。

柳瀬陽介



■Hさんから柳瀬へ

ブログに掲載されることは全く問題ありません。自由に使って頂いて構いません。

また何かしら疑問が浮かべばメールさせて頂きます。メールさせて頂くだけで心がかなりすっきりしました。ありがとうございました。

H