このブログを読んでいただいている方々のご愛顧に感謝し、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。ここ最近年賀状を書いておりませんので(←横着かつ失礼。信頼なくすぞ 汗)、この記事と下のメッセージカードで年末年始の御挨拶とさせていただきます。2009年がよい年でありますように!
柳瀬陽介
このブログの主目的は、(1)英語教育について根本的に考え直すこと、(2)英語教育現場の豊かな知恵をできるだけ言語化すること、(3)英語教育に関する良質のコミュニケーションを促進すること、です。このブログでの見解などは柳瀬個人のものであり、柳瀬が所属する組織や団体などのものではありません。
このブログを読んでいただいている方々のご愛顧に感謝し、皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。ここ最近年賀状を書いておりませんので(←横着かつ失礼。信頼なくすぞ 汗)、この記事と下のメッセージカードで年末年始の御挨拶とさせていただきます。2009年がよい年でありますように!
柳瀬陽介
自分はどうしょうもない奴やと思うたり、もうどないしてええかわからんわと泣いたり、お人好しで損ばかりしたり、おべっかが言えず出世でけへんかったり、「まあまあ怒らんとってや」と仲裁して逆に怒られたりしとっても・・・
まあ、ええんとちゃうか。考えようによっちゃ、そっちの方が幸せやで。
左の頬にエルボー・スマッシュをくろうたら、連続してミドル・キックも右腹に受けてやるのが、プロレスラーとしてのたしなみと違うか。
まあ、怒ったり、裁いたりばっかりしとってもあかんで。赦したりや。そうせんと、あんたも赦された気になれんとちゃうか。
やっぱ、最後は愛やで。ラブ・アンド・ピースいうやっちゃ。イエィ!
<対象学年>
○ 小学校第6学年、中学校第3学年の原則として全児童生徒を対象
<実施教科>
○ 教科に関する調査(国語、算数・数学)
・ 主として「知識」に関する調査
・ 主として「活用」に関する調査
○ 生活習慣や学習環境等に関する質問紙調査
・ 児童生徒に対する調査
・ 学校に対する調査
<調査の目的>
○ 国が全国的な義務教育の機会均等とその水準の維持向上の観点から各地域における児童生徒の学力・学習状況をきめ細かく把握・分析することにより、教育及び教育施策の成果と課題を検証し、その改善を図る。
○ 各教育委員会、学校等が全国的な状況との関係において自らの教育及び教育施策の成果と課題を把握し、その改善を図るとともに、そのような取組を通じて、教育に関する継続的な検証改善サイクルを確立する。
○ 各学校が各児童生徒の学力や学習状況を把握し、児童生徒への教育指導や学習状況の改善等に役立てる。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/zenkoku/07032809.htm
(1) 各地域の学力・学習状況を把握する
(2) 各学校の学力・学習状況を把握する
全国的な学力調査につきましては、昨年11月に私が発表しました「甦れ、日本!」の中で、その実施について提案したところであります。本年6月21日に閣議決定されました「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2005について」や、中央教育審議会義務教育特別部会の審議経過報告などにおいても、その実施の方向性が既に示されているところでございます。これらを受けまして、平成18年度概算要求に盛り込むべく準備を進めた結果、各学校段階の最終学年の小学校6年生と中学校3年生の国語、算数・数学について、全児童生徒が参加できる規模で平成19年度に調査を実施することとしたいと考えております。私といたしましては、全ての学校に対して、児童生徒の学習到達度・理解度を把握し検証する機会を提供することが重要であると考えておりまして、調査が円滑に実施されるように引き続き努力してまいりたいと考えております。
http://www.mext.go.jp/b_menu/daijin/05090201.htm
小学校英語の開始,ゆとり教育からの完全脱却,中学校の単位増,高校での科目再編成など,英語教育に大きな変化が起きている今,そうした変化に振り回されず,変えるべきものは変えても,変えてはならないものは守る,それを見極めるにはどうすべきか。「変えてはならないもの」を理念的な考察と実践の両方向から導き出す。
(1)これまでの言語学・応用言語学での議論とその問題(2)言語コミュニケーション力の三次元的理解(3)言語のpowerに関するアレント的分析(4)Mind-Body ProblemとCommunication-Mind Problem:ルーマン的分析その1(5)現代社会と言語コミュニケーションの共進化:ルーマン的分析その2(6)ポストモダン・ポストコロニアル的言語コミュニケーション力論
・日時: 12月27日(土) 10時~16時30分(9時30分より受付)・場所: 広島県立生涯学習センター・会費: 5000円 (大学院生 3000円 大学生 1000円)・内容:10:00-11:00 講座1 「これがナッちゃんの授業だ!」竹石奈津子 (横浜市立蒔田中学校)11:15-12:30 講座2 「これがサチコの授業だ!」森川幸智子 (広島県立海田高等学校)12:30-14:00 ランチ (一緒に食べに行きましょう)14:00-15:00 講座3 「こだわりのビンゴゲーム~10周年記念原点回帰」西山正一 (米子市立福米中学校)15:15-16:30 講座4 「チャットで、楽しくコミュニケーション活動」樫葉みつ子 (徳島市立富田中学校)
科学主義は、権力をイデオロギー的に正当化する様式のなかでも、もっとも洗練されたものである。というのも、科学主義は、普遍主義をイデオロギー的に中立なもの--「文化」とは無関係なもの、さらにいえば政治の領域とも無関係なもの--として提示して、科学者が獲得する理論的知識の応用を通じて、人類にもたらしうる善を主たる源泉として、その正当性を引き出しているからである。(151ページ)
しかし、もっとも重要なことは、科学が、道徳的批判の説得力と客観性を低く評価することで、権力を道徳的批判から守る盾となったということである。人文学者は--批判的人文学者は特に--無視しうる存在となった。彼らの分析は科学的ではないからである。これは、近代世界システムの自己正当化過程の最後の仕上げであった。(154ページ)
European universalism is used to justify imperialism, Western expansionism. Obviously, variants exist in sophisticated arguments. The first, the most brutal (as in Iraq today), consists in saying that the others are barbarians, whom we must tame. A second variant, a little more subtle, studied by Edward Said under the name of "Orientalism," claims that the others are different beings, fixed in their differences, to whom we must bring true civilization -- an argument that one finds in Samuel Huntington in particular. Lastly, a third type of argument is that of scientific truth to which one appeals to impose the Western point of view. And, as it so happens, this alleged scientific truth is held by the most powerful countries in the world!
http://www.monthlyreview.org/mrzine/doubre260308.html
ギデンズは英語圏で、そして英語しか読めない社会科学者から、先駆的な理論として高く評価されてきたが、ルーマンの著作を真面目に読んだ人間なら誰でも気づくように、ルーマンの薄い模写(コピー)でしかない。だからこそ、広く読まれ広く受け入れられている。英語かドイツ語かのちがい以前に、その薄さ濃さが、現時点での二人の受容の広さ狭さを決めている。私たちはまだルーマンに追いついていないのだ。(25ページ)
例えば、ルーマンと同じ主題を後追いするA・ギデンズなどと読み比べると、それ[=議論の展開のさせ方、その深度の開き方が魅力的であること]はよりはっきりする。ギデンズは良識的であり(現代においてそれは決して無視できない次元(ディメンジョン)である)、現在の英語圏では例外的に深い社会学者でさえあるが、至高の密度の差はいかんともしがたい。(184-185ページ)
カントは、経験の対象の認識に限られる理性の認識能力を踏み越えて形而上学的対象(例えば「神[の存在]」「魂[の不滅]」「世界[の涯て]」)を認識使用とする試みを超越的(transzendent)として、厳しく批判しこれを斥ける一方で、経験を成り立たせている、その可能性の条件の究明、経験構造の分析(例えば経験の形式としての「時間」「空間」「カテゴリー」)に関しては経験対象の領野を踏み越えはするが超越論的(transzendental)と称し、これを認めたのだった。(243ページ)
ディスコースとディスコース・オーダー:実際のディスコースは、社会的に形成されるディスコース・オーダー、つまり社会制度と関連する様々な慣習の集合、によって決定される。
資本主義社会における階級とパワー:ディスコース・オーダーは社会制度および社会全体の中のパワー関係によって、イデオロギーを基に形成される。
構造と実践の弁証法:ディスコースは社会構造によって決定されると共に社会構造に対して影響力をもち、それゆえ、社会の継続と社会の変化に貢献する。(19ページ)
教育とは、子どもの自分を取り巻く環境に対する批判的意識と批判的な自己意識、そして自分の協同社会の形成と再形成に貢献する能力を発達させることである。
したがって、子供たちに、人間によって作り出され、人間によって変えられる社会環境のどの要素をも、まるでそれが自分たちが制御できない自然環境の一部であるかのように示すことは教育ではない。しかし、伝統的に学校で伝えられてきたのは、まさに、言語に対するそのような疎外的な見解なのである。(291ページ)
多くの批判研究が、現在、新自由主義批判を中心に収束しつつある。私の考えでは、ここが、批判的談話分析がまた、新自由主義的新世界秩序をめぐる現在の闘争にその努力を集中すべきところなのである。新しい資本主義の結果である人間の共同体と自然資源の大規模な破壊が、それが作り出す富みによって正当化されるか否か以上に大きな問題は存在しない。(318ページ)
批判的社会研究を、偏っていると批判する人たちがいる。もちろん、解放のための知識的関心に献身的に関わることは、実際に、一方の側に立つことを意味する。しかし、学術的研究の中立性に関する錯覚は、確かに、現在までに粉砕されるべきであった。過去20年間にわたり、大学は、経済を支配している人たちの要求を満たすための先例のないほどの社会生活の動員の一部として、ますます公然と新しいグローバル経済の片腕になるよう変貌してきた。大学や他のレベルでの教育とは、ますます還元主義的な考え方で、人々を仕事に備えさせるべきであると見なされている。資金を提供されている研究のほとんどが、企業や政府のための国家的優先事項として指定されている分野のものである。(318ページ)