2008年6月27日金曜日

「自由な恵与」もしくは「贈与なき贈与」について

ナチスへの参与の事実をもって、ハイデガーの哲学を完全に否定・根絶できれば話は楽なのかもしれませんが、彼の哲学には妙に引きつけられるところがあります(種類も程度も違うかもしれませんが、実生活でのひどい人格にもかかわらず、ワーグナーの音楽が私たちを魅了することにも似ているのかもしれません)。

以下は、(故)梅木達郎先生の『支配なき公共性』(洛北出版)からの引用です。この本および『脱構築と公共性』(松籟社)を最近私は非常に面白く読み、またこの二冊から多いに学ぶことができました。特に以下の部分は、なぜか個人的にとても心に残ったので引用させていただく次第です。梅木先生および『支配なき公共性』を没後出版してくださった梅木先生のご友人に感謝します。

『支配なき公共性』の「輝ける複数性」の中で、梅木先生はカントについて語るハイデガーを引用します(その底にはデリダやアレントの哲学が流れています)。この中のキーワードである"Interesse"を、梅木先生は他の多くの訳者と同じように「関心」と訳されていますが、私は以下ではそのことばを勝手に「利害=関心」という訳語に変えています。"Interesse"の多義性をより直接的に表現したいというのがその理由です。本来なら、このようなことをする際には、ハイデガーおよびカントの原典をきちんと読む必要があるのでしょうが、現在の私にはそのような時間、というよりそもそもそのようなことをきちんとやれるドイツ語の学力がありません。この「利害=関心」という訳語の変更は前-学術的な私の勝手な置き換えと考えてください。


ある事物に利害=関心をもつとは、それを得ようとすること、それを所有し、使用し、意のままに処置しようとすることである。私たちがそれに利害=関心を寄せているものと共に、あれやこれやの事柄があり、始められるのである。私たちがある事物に利害=関心をもつとき、私たちはそれを、その事物によって意図し意欲している事柄への意図の道筋と関係の中へ引き入れる。私たちが利害=関心を寄せる事物は、どの場合にもすでに、それ自体としてではなく、つねに他のある事物への顧慮の中でとらえられている。[...] あるものを美しいと思うためには、私たちは出会ったものをそれ自体として純粋に、それ自体の位階、品位[Würde]において現前せしめなければならない。私たちはその事物を、前もってある他のものへの顧慮--それが私たちに楽しみをもたらしたり利益になるなどという目的や意図--のもとに計算してはならない。美そのものに対する態度は、カントに従えば、自由な恵与[freie Gunst]である。私たちは出会うものをあるがままのものとして解放し、そのもの自体に属するもの、そしてそれが私たちにもたらすものを、そのものにそのまま恵与せねばならないのである。[...] 「利害=関心」についての誤解は、利害=関心の排除とともに対象へのあらゆる本質的関係が停止されるという誤った考えに導く。じつはその反対である。対象そのもの、純粋にそれ自体としての対象への本質的関係は、「没-利害=関心」[ohne Interesse](注)によってこそ開始されている。見落とされているのは次のことである。そのときはじめて対象が純粋な対象として出現するに到るのであり、そしてこの「出現に到ること[In-der-Vorschein-Kommen]」が、こうした輝く光のうちへの現出こそが「美しい」という語の意味する美である。
梅木達夫『支配なき公共性』洛北出版、259-260ページ
Martin Heidegger, Nietzsche: Der Wille zur Macht als Kunst, pp. 127-128
『ニーチェ、芸術としての力への意志』126-127ページ


この引用を受けて、梅木先生は「カントの美学はハイデガーの存在論に通じてゆく」(262ページ)と述べ、「恵与」を「贈与」かつ「贈与の無化」とします。さらに対象を事物だけでなく他者にも広げ、次のように論じます。


これは贈与であり、かつ贈与の無化である。なぜなら「われわれ」が与えるものは、われわれが所有していないもの、むしろそのものがわれわれにもたらしてくれるもの [was es uns zubringt] だからである。相手もまた、相手自身に本来的に帰属するものを受け取る。この「贈与なき贈与」において成立する関係は、自己固有化でもなければその逆の脱固有化でもなく、めくるめく反転する決定不可能性における自己固有化の端的な中断である。だがこの中断によって、他のものに固有なものが、固有なまま、恵み返される。この「存在するがままにゆだねること [Seinlassen] 」、この「自由な恵与 [freie Gunst] 」によって、互いを他のその固有性において侵害することもなければ、支配したりされたりすることもなしに、おのおのの尊厳において、かつ自由に、相手の存在を喜び愛しながら、相互が並び立つことができる。
梅木達夫『支配なき公共性』洛北出版、263ページ



かつて私が敬愛する方は、「四十歳過ぎて生きとる奴はみんな俗物や」と笑いながら仰いました。私は本日四十五歳となりました。立派な「後期中齢者」(笑)ですし、社会的にもある程度の人格的成熟が求められる年齢となりました。ですが現実の私は、おそらく自分が自覚している以上の俗物で、「利害=関心」の道筋と関係によって、私が出会う事物、そして人間に接している(あるいは接することを拒んでいる)のでしょう。そうしてその事物、そして人間が持つ「美しさ」を損なっているのでしょう。

それともこのようなことを言うのは、甘美なだけの青臭い机上の空論だけなのでしょうか。わかりません。


しかし私は、自分が出会う事物、そして一人一人の個人に、それ/彼/彼女が本来持つものを贈り返すことによってのみ、自分をなんとか認めることができるような気すらします。

いや、そう思うことは、既に私が出会う事物や人の美を、私の利害=関心で損ねてしまっているのでしょうか。

せめて美をこれ以上損ねるような生き方はしたくないと思います(おそらくはこれからも損ね続けるでしょうが)。

論は錯綜してしまいましたが、本日は、何人かの方々から、私が本来所有していない恵みを恵与していただきました。ありがとうございました。感謝します。


(注)『支配なき公共性』ではこの補記は、[dans ohne Interesse]となっています(259ページ)

2008年6月14日土曜日

組曲『マルクス経済学』

「マルクス」と聞いた瞬間、直立不動してしまう方(←そんな奴今時いねぇ 笑)や、逆に虫酸が走る方(←こちらは沢山いらっしゃる 爆)にはお勧めできませんが、この動画は相当笑えました。


可能ならば二つ目のニコニコ動画で見ることをお勧めいたします。

歌声と書き込みがこの表現の現代性をパワーアップしていると思います。







単純な因果法則について

今回の秋葉原通り魔事件についての様々な意見をミクシィやブログで読んでいるうちに、前から考えていたことが気になったので、本日はそのことを文章にしてみます。

私が言いたいことは、今回の事件に限らない一般的なことですが、わかりやすいように最初にこの事件の例を簡単に使い、後にそれを離れた抽象的な論にします。

今回の凶行(Xと呼びます)に関する意見を単純化するなら、様々な人が「社会が悪い」もしくは「個人が悪い」といった形で自説を主張されていることが少なくないように思えました。仮に社会をA、個人をBとするなら、「社会が悪いから今回の凶行が起きた」という意見はAX、「個人が悪いから今回の凶行が起きた」という意見はBXというように表記できるかと思います。

ここで今回の事件を離れて抽象的に語ります。

AX、あるいはBXというのは単純な因果法則による説明方法かと思います。しかし、このような単純な因果法則で物事を説明しようとする方々は、往々にして、自分の考える原因以外の原因をあげて説明しようとする人々に強い反感を表すようにも思えます。つまりAXを信じる人は、BXを主張する人をとうてい理解できないとし、逆にBXを主張する人は、AXの主張をする人に強い反発の意を表したりします。

こういった方々も、そもそもは単純な因果法則の説明をしようとしていたのではないかもしれませんが、意見の交換の中で、だんだんと「AXか、BXのどちらか決着をつけよう!説明はどちらか一つだけが正しくなくてはならない!!」といった感じになり、水掛け論ともいえる議論が応酬することが多いと思います。(繰返し言いますが、これは今回の事件だけに限った話ではありません。私はこのような議論の展開はいろいろな場面で観察できると思っています)。

もちろん単純な事象においては、単純な因果法則での説明が適しています。自然科学がその典型でしょう。

しかし複合的(complex)な事象においては、単純な因果法則の説明は不毛かもしれません。

まずもってAもしくはBという「原因」も幅の広い概念で、とても一義的に同定できるものではありません。

つまりAは様々でありうるわけですから、A1XもありえればA2NOT Xもありえます。B1Xもあれば、B2NOT Xもあるでしょう。しかし私たちはしばしばA1A2、またB1B2の差異は考えずに、おおざっぱにAもしくはBということばだけで語ろうとします。

AXと信じる人は、B2NOT Xといった事象をもっぱら考えて、BXを否定しようとします。逆にBXと信じる人は、A2NOT Xという事例を引っ張り出して、AXをナンセンスとします。こういった意見の対立は、AおよびB内部の区別を明確にしないかぎり、不毛かと思います。さらに上記で述べましたように、ABはしばしば日常概念であり、あまりにも曖昧で多義的でかつ融通無碍なところがありますから、AおよびBの内部区別は極めて困難かと思います。

もしここに別の日常概念CDを原因と考える人が出てきて、CXDXを主張するなら、さらに水掛け論が増えるだけになるかもしれません。彼/彼女らもCDを明確な概念として使っていないからです(自然科学者ならすぐに同意するように、日常概念は絶望的に曖昧です。人文・社会系の研究者はそこを何とか少しでも明解にしようと専門概念を創り出しますが、それが明確な概念か、また仮に明確な概念だとしても、市井の人がそのことばを明確に理解して使用するかは定かではありません)。

複合的な事象の場合、きわめて単純に説明するなら、

A x B x C x D …. W → X

と考えるべきかもしれません。

ここでの小文字のxは複数の要因が相互作用を起こしていることを表しています。しかもこの相互作用には時間的要素もありますから、わかりやすくいえばある「弾み」でA x Bの相互作用(例えばA1 x B2)が非常に強くなり、それがたまたまC(例えばC3)に強い影響を与えといった偶発性(contingency)で、(A x B) x Cの要因が非常に重要に思えることもあるでしょう。しかし別のケースなら例えば(A x D x Fの要因が非常に強くなる場合があるでしょう。

要因の組み合わせは数多くあり、それぞれの要因には様々なバラエティ(A1, A2, A3 ….An)があるわけですから、

A x B x C x D …. W → X

の図式はきわめて抽象的な因果図式であり、具体的に結果を予測する因果図式ではないことになります。

私たちは「ある結果にはある原因があるはずだ」という因果図式自体は否定しません。しかし「ある特定の原因だけが、ある結果を常に生じさせる(他の原因がその結果を生じさせることはない)」といった単純な因果法則に関しては、複合的な事象の説明としては、懐疑的にならざるを得ません。

もちろん事象の説明とは常に単純化の試みであり、単純化そのものを否定するつもりもありません。しかし事象の説明には、その事象の複合性に適した単純化の度合いというものがあり、それを超えての過度の単純化は、事象の解明ではなく、事象に関する不毛な言説を産み出すだけに終わりかねないと考えます。

AXを主張し、BXを否定しようとする人は、BNOT XとなるようなBの事例 (B1, B2, B3….Bn) をできるだけ数多く指摘し、それを決定的な「証拠」とします。BXを信じる人はその逆をやるだけです。

さらにAX(あるいはBX)を信じる人は、その信念の単純性により、自説と異なる因果法則を否定せざるを得ません。単純な因果法則だけでしか考えない人にとって、他説の容認は、自説、ひいては自分のアイデンティティの否定になってしまうからです。かくして単純な因果法則を主張する人々は、議論を重ねるにつれ一層固陋になってゆくのかもしれません。

お気づきの方も多いようにこれはいわゆるcomplexity(「複雑性」と訳されることが多いですが、私は「複合性」という訳語の方がいいのではないかと思っています)の議論を私なりに拙い方法で言い換えているに過ぎません(また特にルーマンの『目的概念とシステム合理性』の中での議論の仕方を不器用に再現しているだけです)。

比較的概念の明確な定義が可能な自然科学でさえ、要因の相互作用および偶発性が多すぎる場合は、単純な予測を諦め、単純な因果法則の措定を放棄します(もしどうしても単純な因果法則を主張したい場合は、「他の条件が同じならば」(ceteris paribus; other things being equal) という魔法のことばを使わざるを得ません。これが魔法のことばであるのは、現実世界では他の条件は決して固定的に同じではないからです)。

ましてや概念が(自然科学者に言わせれば絶望的に)曖昧な人文・社会的事象の場合は、単純な因果法則でのみ考えようとするのは不毛であるどころか、逆効果ですらあるのかもしれません。

過度の単純化は、過度の神秘化と同様、反知性的態度と言えるかもしれません。

以上、抽象論・一般論として述べました。

2008年6月12日木曜日

「当たり前の理屈が通らない」

私は内田樹先生のブログの愛読者ですが、この度の最新記事にも深く共感しますので、リンクをはり、一部抜粋します。
http://blog.tatsuru.com/2008/06/12_1100.php


(前略)

文科省が大学に提出を要求するペーパーの要求のうちいくつはもうほとんど「ものぐるひ」のレベルに達している。

そこには、「教育目的」と「教育方法」を記述し、そのプログラムがどのような「教育効果」をもたらしたかを数値を明らかにしたevidence based で述べよ、というようなことが平然と書かれている。

(中略)

教育のアウトカムのもっとも本質的な部分は数値的・外形的に表示することができない。

しかし、どうも官僚のみなさんにとって、数値的・外形的に表示できない教育的効果、あるいは「それが何を意味するのかを実定的な語法で語り得ない」教育効果は「存在しない」のと同義のようのである。

それと同じ事態は社会生活の全般に及んでいる。

(中略)

変化を計量するためには、座標軸のゼロに相当する「変化しない点」を想定しないといけない。相対的な変化量を確定するためには、「測定枠組み」そのものは変化してはならない。

だから、「スコア」や「タイム」が数値的に表示されるスポーツでは、「身体の使い方を根本的に変える」ということにつよい抵抗が働くのである。

身体運用OSそのものの「書き換え」に際しては、「何を測定してよいのかわからなくなる」ということが必ず起きる。

それまで自分が「能力」の指標だと理解していた度量衡が「無効になる」というのが、「ブレークスルー」ということだからである。

変化量を記号的・数値的に表示せよ、というルールは「ブレークスルー」というものがあることを想定していない。

価値評価の度量衡そのものが生成する「パラダイムシフト」を想定していない。
「ものさし」では重さも、光量も、音響も、手触りも、時間も量れない。

世界の厚み深みについて理解を深めようと思ったら、手持ちの「ものさし」ですべてを計測しようとする習慣を捨てなければならない。

そんな当たり前の理屈が通らない。

(後略) 


「当たり前の理屈が通らない」ことへの焦燥感は私も強く感じます。

ひょっとして文科省の人々も含めて日本の「知的エリート」は、知的な「ブレークスルー」あるいは「パラダイムシフト」をあまり経験したことがないのか。

それにしても現実世界に対応しようとすれば、ブレークスルーあるいはパラダイムシフトを続けなければならないのに、なぜ?

もし「単純で頑なな知性」が日本を席巻しようとしているのなら、私は怖い。

そんな知性の持ち主も怖いし、そんな知性を唯々諾々として受け入れる人たちも怖い。

2008年6月10日火曜日

「秋葉原通り魔事件」について考える

松永英明氏の個人編集による「閾ペディアことのは」は、2008年6月8日のいわゆる「秋葉原通り魔事件」についての概要を伝えていますが、非常に興味深いのは、犯人が犯行前の数日間に書き込んでいた掲示板への投稿内容です。

秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月3日

秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月4日

秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月5日

秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月6日

秋葉原通り魔事件掲示板書き込み6月7日


■書き込みに見られるポイント

これらの書き込みを私なりにまとめますと、次のようなポイントが見えてくるように思えます。


[A]青年期にしばしば見られる対人関係からの悩み
(1)彼女も友人を得られないという絶望
(2)表層的なつきあいでさえも得られないという悲しみ
(3)自分は不細工だから彼女ができないという考え

[B]近年の日本で横行する拝金主義・外見主義
(4)全ては金だという考え
(5)金でなければ外見の良さ(イケメン「イケメソ」と表記)が必要という考え
(6)自分は彼女・友人・つきあい関係・金・イケメンを持たないし、これからも持てるはずがない存在であるという自己規定

[C]最近の日本の社会構造に関する認識
(7)「負け組」としての「勝ち組」への怨念
(8)負け組になったのは「自己責任」だと責められることに対する自虐と反発
(9)派遣社員である限り仕事に喜びも未来もないという絶望

[D]青年期に見られうる短絡
(10)自分は決して理解されないという怒りとそこからかいま見える理解して欲しいという強い欲求
(11)著しい孤独感・虚無感
(12)生きる意味・希望の喪失
(13)彼女さえいれば全てが好転するという妄想

[E]人間社会が初めて経験する匿名ネット空間での言語使用現象
(14)多いときは数分ごとにこの掲示板に一、二行の文を書き込むという言語使用
(15)誰か特定の人でも自分自身にでも向けているというわけでもない、不特定多数に向けた言語使用
(16)不特定多数に「晒されている」ことを自覚しつつも、その不特定多数に期待も信頼もしていない言語使用

[F]匿名ネット空間での言語使用の帰結
(17)自分の気分を書き込むだけのことが多いから、気分の共有を超えた社会的あるいは構造的な連帯にはつながりにくい。
(18)特定の人格に向けて発せられたことばではないから、読み手からの反応にきちんと対応する必要もあまりなく、他から刺激も攪乱も受けない自閉的な自己言説の再生産に終始しがちである。
(19)不特定多数に「晒されている」だけであるから、社会の他者への共感も理解も積極的に求めず、その結果、自分が変わるとか自分の世界が広くなることもほとんどない。



(1)から(3)は、[A]「青年期にしばしば見られる対人関係からの悩み」としてまとめることも可能かと思います。異性の恋人や同性の友人を強く求めながらも、青年期の自意識過剰や、対人関係での経験不足からこのような悩みを持つ青年は、別段現代日本だけに存在するものでもないと思います。

しかし(4)から(6)は、80年代のバブル時期に隆盛となり、その後ますます日本社会に浸透していった考えかとも思われます。少なくとも毎日テレビを見ていて、これらの思いから自由であることは困難でしょう。これらの考えを仮に[B]「近年の日本で横行する拝金主義・外見主義」と名づけます。

(7)から(9)は2000年代に急速に日本を支配するようになった価値観です。労働界のみならず教育界も「勝ち組」「負け組」の構造を変えようもない自明の前提として扱い、いかに自分が「勝ち組」になるか、あるいは「負け組」にならないかの競争をしているようです。これらの認識をここでは[C]「最近の日本の社会構造に関する認識」と呼ぶことにします。

(10)から(13)は特に現代日本だけに限られた考え方でもないかと思います(ただ個人的には(13)は、チープなアニメなどの物語の見過ぎなどが関わっているのではないかとも思っています)。ここではこれらを[D]「青年期に見られうる短絡」としてまとめます。

(14)から(16)は、大げさに言えば人類が初めて経験する言語使用空間で起こりつつある現象です。これは[E]「人間社会が初めて経験する匿名ネット空間での言語使用現象」と呼ぶことにしましょう。

(17)から(19)は、[E]の言語使用がどのような帰結を持ちうるか(あるいは持ち得ないか)ということです。


■書き込みの分析の試み

これらの分類で、強引な一般化(あるいは単純化)をしますと、どの社会でも珍しくない[A]の心情は、[B]という文化背景で、他の社会(あるいはこれまでの社会)と比べて、より惨めなものとして感じられているのかもしれません。しかしその惨めさを本当に絶望的なものにしているのは、2000年代から日本が創り上げようとしている社会構造です。私は[C]の認識は、認識を持つ者が問題なのではなく、その認識を生み出してしまうような社会構造、そしてその社会構造こそは唯一の社会のあり方であるとする現社会構造を維持しようとする固定観念(イデオロギー)こそが問題だと考えています。

こうして[B]と[C]を経た[A]は、これまでにない形で[D]の短絡につながります。しかし短絡をしたとしても、人は本来、ことばを使うことによって、お互いの関係、ひいては社会を変えることができます。しかし様々な理由から、少なからずの若者が匿名ネット空間ぐらいにしか言語使用の空間を持ちません。そしてその空間は[E]という、これまでになかったような言語使用しか許さない空間です。

これまで人は、他の人格に向けてことばを発していました。壁に向かってぶつぶつ言う人、公園のベンチで一人ぼそぼそ語る人の異常さは、周りの人も気がついたでしょうし、本人でさえも気づいていたでしょう。しかし、現在、匿名ネット空間に一連の書き込みを取り憑かれたように続ける人は私たちの周りもいて、私たちはそれに気づいていないだけかもしれません。彼/彼女の姿は何ら異様なものとして現れず、携帯を駆使する現代人の群れにとけ込んでいるかもしれません。彼/彼女自身も、壁に向かって話をするのならともかくも、携帯あるいはパソコンに次々と、誰でもなく、おそらくは自分自身でもない人、つまりはnobodyに、何の期待もせず、信頼もせずにことばを次々に発することを当たり前のように思っているかもしれません。しかしそのnobodyがいないこと(携帯やパソコンへの匿名書き込みができないこと)にはおそらく耐えられないでしょう。その意味でネット依存症・中毒の人はたくさんいるはずです。ですが、その自覚はおそらくあまりない。

もちろん昔でも日記という形で自分自身にしか語りかけない言語使用をすることもありました。しかし日記という媒体は、ある程度の見通しを確保し、自らが書いたことを振り返る機会も与えました。そうして人は自省し、考えを深めました。しかし携帯の画面は、物理的にきわめて小さな空間しか与えません。思索を深める媒体とはとてもいえません。しかも掲示板には次々に他人の書き物が現れ、自らの書き物は埋没してゆきます。かくして短くおそらくは衝動的な言語を人は携帯に次々に打ち込むだけとなります。

そうして莫大な量の言語が匿名ネット空間にはき出されても、それは社会を変えるような強靱な構造ももたないし、ひたすら自分が自分の思い込みを拡大的に再生産するだけで、自分の世界が広がることもありません。自分が変わることも相手が変わることもありません。現実世界ならそのようにつまらない話をする人からは他人は去ってゆきますが、不特定多数の匿名者はネットの向こうにいつまでもいる(はずです)。かくして自閉的でありながら、他人を求める矛盾した言語使用は、虚しくいつまでも再生産されます。ある意味でこれは無間地獄かもしれません。



■現代日本社会の課題

私たちは、格差を平準化する統計資料で見るなら、世界の中でも豊かと言われる国に住んでいます。しかし二十代の若者の中で正規雇用を受けるのは約半分とも言われます。残りの半分は、これから何十年もの経済的な不安と希望のなさに耐えなければなりません。国民年金も四割の人々が払っていないと言います。彼/彼女らにとって、国家とは信頼のおけるものではありません。国家だけでなく、ひたすら自分と自分の家族だけが「勝ち組」でいることだけにしか関心がない社会も、信頼のおけるものではありません。

そのように孤立した人間が増えればどうなるのか。

今回のようなの自暴自棄の犯罪はもうたくさんです。私たちはもう少し日本社会を考え直す必要があるでしょう。

研究者について述べれば、[A]の問題に関しては、心理学者などが研究を充実させるべきでしょう。[B]の問題に関しては人文学者が、金や外見に対抗できる、いやそれを凌駕できる文化についての研究を行うべきでしょう。[C]に関しては経済学者、いや今となっては死語になってしまったかもしれない「政治経済学者」が、いわゆる新自由主義的な社会以外のあり方についてきちんと研究すべきでしょう。[D]については、哲学者などが判断とは何か、生きるとは何か、意味とは何かを市井の人々にわかるような形で語るべきでしょう。[E]については言語とコミュニケーションの研究者が、この新たなネット空間での言語使用を少しでもいいから研究すべきでしょう。[F]については社会系の学者が、ネット空間を通じての新たな連携の形を模索するべきでしょう。

市民は市民で自力で考え、さらに上記のような研究も参考にしながらも考えて、何らかの行動を起こすべきでしょう。自分で起こさなくても、少しでも共感できる行動には、自分が納得できる範囲で連帯すべきでしょう。

最近、日本に関する閉塞感を感じることが多いです。ペシミズムに逃避するのではなく、きちんと考え、きちんと行動したく思います。

教育からことばの力を奪うな

菅野覚明先生の『武士道の逆襲』(講談社現代新書)というのは素晴らしい本でした。

この本については改め私自身の勉強のために整理したいと思いますが、本日はまずそこで紹介された『今昔物語集』(巻二十五)のエピソードを紹介します。


ある時、藤原親孝という武士の家に強盗が入り、その強盗が親孝の子どもを人質にとって立てこもった。我が子を殺されそうになり困り果てた親孝は、近くに住む源頼信に涙ながらに相談に行く。だが頼信は笑って言う。「子どもぐらい突き殺させてしまえ。そういう覚悟があってこそ兵(つわもの)である。だが、まあ、私がちょっと行ってみよう」。頼信は強盗の立てこもる倉庫に行った。

強盗は頼朝の姿を見てやや怖じ気をなしたが、それだけいっそう刀を幼子に突きつける。かまわず頼信は強盗に告げる。「お前が人質を取ったのは、自分が生き延びたいためか、それとも子どもを殺すのが目当てか。はっきり答えろ」。強盗はもちろん命が惜しいためだと答える。頼信は言う。「それなら刀を捨てよ。この頼信がこう言うのだから、捨てぬとはいわせぬ。子どもを突き殺させて、黙ってみている俺ではない。俺がどんな男かは、お前も知っているだろう」。強盗はこれを聞いてあっさり投降した。
(菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社現代新書)54-64ページの記述を要約)


我が子が殺されそうになっている親孝への、頼信の「子どもぐらい突き殺させてしまえ」ということば、あるいは強盗への「この頼信がこう言うのだから、捨てぬとはいわせぬ」という頼信のことば、これらはもちろん頼信という強烈な人格と、武士としての友人(親孝)、あるいは彼の世評を知る強盗との関係があってこそ活きる台詞です。

このエピソードから「人質事件の時には、家族には『人質は諦めろ』、犯人には『言うことを聞け』と言え」などといった無人格的なマニュアルを作るのは噴飯ものの愚の骨頂です。ことばの力とは人格と人格の間で生じるものだからです(ご賢察の方も多いように、私はここでアレントの言う"power/Macht"概念を念頭においています)。

ですが、このようなことばの力の性質をわきまえない、言葉厳しく言うなら、愚かな言語観が教育界ではしばしば見られます。

ブログ「英語教育にもの申す」も次のように主張しています。


 「静かにしなさい」「黒板を見なさい」と注意したところで、そんな空気がなければ、根本的な解決になっていないのに、「静かにしろ」「授業を聞け」というのはどうして? 「勉強しない」「集中しない」のであれば、そこを乗り越えていく過程の中で、生徒と教師の成長があるのにね。「正しいこと」「筋を通すこと」で全てが解決できるなら、世の中はもっと楽になっているのになぁ。生徒(子ども)にだけそれを押しつけるのは、教育なのでしょうかね。
http://rintaro.way-nifty.com/tsurezure/2008/06/post_a25d.html


ことばというのも、ことばを発する者と聞く者のこれまでの履歴と関係がなければ、力をもちません。相変わらず私は自分のことを棚に上げて駄文を重ねておりますが、教師の力量がなければ、またその力量が生徒に素直に感得されていなければ、ことばはむなしく浪費されるだけです。そして教師の力量は、生徒とのことばのやり取りから生じる力によってその教師の評判として周りに認められるものです。ことばに力を持たせるには、ことばに関わる人々に人格的関係を許さなければなりません。その人格的関係の中で、はじめてことばの力は生じるのです。

しかし、私の元に寄せられたある方からの私信メールは次のような教育現場の実態を報告しています。


「少人数指導なので、2人の教師の指導が一致するよう、教科書とワークブックしか使ってはいけない」
「ワークシートを勝手に作ってはいけない。基本的にプリント禁止」
「もし作るなら、前日までに作成し、伺い書を添付して管理職の許可を受けなければいけない」
「板書を必ずおこない、文法説明をする」
「週1回、指導教諭が授業指導に来て、予め決まった授業案通りに授業をやってみせなければいけない」「指導教諭は英語ではなく他教科の教師。その時間は、冗談も無ければ、生徒に合わせての授業多少の変化も、一切無し」


一瞬絶句してしまうような状況ですが、私にメールを下さった方は嘘や誇張を言う人ではありませんから、本当なのでしょう。

ここでは授業での教師のことばが何と考えられているのか。教師が生徒とのそれまでの流れから発する授業中ことばの力というものを何と考えているのか。

もちろん教師が発することばの力が意図したように働かないこともある。しかしそれは生徒からのことば、さらに教師からの応答のことばで修復できるではないか。ことばには力がある。人格的関係の中で発せられる限りにおいて、ことばは身体的暴力にも制度的強制力にも代替できない独特の力を持つ。教育からことばの力を奪うな。

授業のことばとは、上の教室ではまるで工業製品のようです。設計図通りに同じ製作をすれば、同じ製品ができるとでも言いたいのでしょうか。そうやって同じ製品を作ることが、教育の公平性だとでも言うのでしょうか。このような製品管理が生徒と教師を育てるものだと思っているのでしょうか。


ブログなどの開かれたメディアでは表現は控えめにするべきでしょう。


しかし私にはこの指導教諭は馬鹿にしか思えない。

この指導教諭にこのような指導を指示する上級管理職も馬鹿にしか思えない。

このような馬鹿に教育を牛耳らせてはいけない。


教育からことばの力を奪うな。

ことばから力を奪うな。
ことばから人格を奪うな。
人格からことばを奪うな。
人格から力を奪うな。

教師を人間として、ことばを自由と責任を持って使う者として扱え。


間接的にしか聞いていない話なので、コメントは控えておこうかとも思いましたが、もしこのような事態が全国各地で行われているならと思い、ここにこの文章を書きました。

私はここに私が「馬鹿」と面罵した方々と何時でも議論する用意があります。このような「指導」に理があるというのなら、ぜひその理を公衆の前でつまびらかにしていただきたい。その理が納得できるものであれば、私は私の罵倒を撤回し謝罪します。しかしそうでなければ私はそのような人々を馬鹿と呼び続けます。

2008年6月6日金曜日

私は教師、職業的偽善者です。

偽善者ですから、自らの明確な意志と意図を持って善を演じます。
演じる善ですから、それは主観的な善でなく、多くの人が善とみなす、いわば客観的な善です。
これは私が教師という職業についている限り、定義上行うものです。
職業的な偽善ですから、私利私欲のための偽善ではなく、私にお金をくださる皆々様のための偽善です。

私が本来善人なのかなどということはどうでもいいことです。
(そもそも私は、「本来の私」などというのがどのようなものかわかったためしはありません)。

私は職業的な偽善者ですから、どうぞ安心して信頼してください。



*****

上のような言い方は多くの人にとって意味不明なのだろうか。あるいはことさらに奇を衒ったものに聞こえるのだろうか。しかしこういった態度こそは社会的知恵だったのではないか(マキャベリをきちんと読み返したい)。

何度も言って恐縮ですが、名越康文先生のエッセイは長文ですが、心ある人に何度も読んでもらいたい文章です。上の考えは特に、下の二つのエッセイに触発されて書きました。



http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02751_04

http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02768_05

世界を心に閉じこめる近代人

私たちは、あることがわからない時、それを実験で明らかにしようとしばしば発想します。自然にしてもそう。教育でもそう。混沌としてわからない教育という現象も、きちんと統制を行い、厳密に実験をすれば、その実験の厳密さにしたがって私たちは教育を理解できます。実験の結果は検証された仮説として一般性をもちます。その一般性をもって私たちはその他の教育の営みも理解できます。実験や仮説で扱えない他の要因は、残念ながら理解の範疇外にあります。私たちは仮説と実験を厳密に構築できる限りにおいて世界を理解するのです----あるいは、近代人は、それこそが正しい世界理解だと信じて疑いません。

アレントの『人間の条件』を再読して面白かったことの一つは、私たちが自明視している「近代」というものを歴史的な視点でよりよく理解できたということです。世間的な流行でしたら「ポスト近代」でしょうが、私の限られた経験の範囲では、「ポスト近代」の研究書よりも「近代」の研究書の方が面白いことが多い。ヨーロッパが歴史的に築き上げた「近代」を日本は短期間に輸入してしまったものだから、「ポスト近代」と言われても、おそらくはヨーロッパ人ほどには痛切に感じない。むしろ少なくとも私にとってはポスト近代の思想よりも、近代の思想の方がよりラディカルで面白い。ちょうど後期ヴィトゲンシュタイン(『哲学的探究』)にはすぐに共感できても、知的にチャレンジングなのは前期ヴィトゲンシュタイン(『論理的哲学的探究』)なように。あるいは凡百のポストモダニストよりも、私ははるかにスピノザを読みたいように。さらにはニーチェよりもイエス・キリストの方が私にとってははるかにラディカルであるように。いずれにせよ「ポスト近代」を「新代」とか「未代」とか新しい言葉で呼ばずにあくまでも「ポスト近代」という言葉で理解していることを私たちが選んでいるならば、「近代」の理解は「ポスト近代」理解以前になされるべきでしょう。いや、近代の批判的理解こそがポスト近代の理解なのかもしれません。

閑話休題。話をアレントの『人間の条件』に戻しますと、彼女は第六章で集中的に近代を考察します。ここでもやはりデカルトが近代的思考の端緒として重用視されます。

周知のように、デカルトは諸々の事象を不確実だとして切り捨てた後に、自意識の中で何か(例えば疑い)が起こっていることだけは確かだとし、確実性を自意識の中に求めました。


In other words, from the mere logical certainty that in doubting something I remain aware of a process of doubting in my consciousness, Descartes concluded that those processes which go on in the mind of man himself have a certainty of their own, that they can become the object of investigation in introspection. p. 280.


この発想により、確実なものは私たち皆が外の世界に見ているものから、一人一人が心の中に意識しているものへと転じてしまいました。さらに共通感覚(common-sense, Gemeinsinn)も、共通世界(common world, die Gemeinsamkeit der Welt)から撤退して、世界と関連をもたない内的な能力になってしまいました。そのような近代的な思考法にいて理想的なのは、外の世界からの刺激や攪乱を必要としない数学の知識となりました。


Cartesian reason is entirely based "on the implicit assumption that the mind can only know that which it has itself produced and retains in some sense within itself." Its highest ideal must therefore be mathematical knowledge as the modern age understands it, that is, not the knowledge of ideal forms given outside the mind but of forms produced by a mind which in this particular instance does not even need the stimulation -- or, rather, the irritation -- of the senses by objects other than itself. This theory is certainly what Whitehead calls it, "the outcome of common-sense in retreat." For common sense, which once had been the one by which all other senses, with their intimately private sensations, were fitted into the common world, just as vision fitted man into the visible world, now became an inner faculty without any world relationship. This sense now was called common merely because it happened to be common to all. What men now have in common is not the world but the structure of their minds, and this they cannot have in common, strictly speaking; their faculty of reasoning can only happen to be the same in everybody. p. 283


そのような考えに適合したのが製作(Work, Herstellen)という営みです。アレントによるならば、近代の科学は、真正なる秩序を証明したと言いながら、実は、仮説を立てて実験し、その実験をもって仮説を検証したと言っているに過ぎません。ここでは仮説的な自然が扱われているだけです。人間は自然をそれを自ら製作できる限りにおいて理解しているという発想が強固になり始めました。


If, therefore, present-day science in its perplexity points to technical achievements to "prove" that we deal with an "authentic order" given in nature, it seems it has fallen into a vicious circle, which can be formulated as follows: scientists formulate their hypotheses to arrange their experiments and then use these experiments to verify their hypotheses; during this whole enterprise, they obviously deal with a hypothetical nature. p. 287


たしかに近代人は、複雑なる現象を、このように仮説と実験の枠組みに閉じこめることにより、それまで人間が持ち得なかった確実性を得ました。さらにそれを演繹することにより、これまでに無かった力(power, Vermögen)を手に入れました。テクノロジーとはこの実験と仮説的演繹思考の成果でしょう。しかし、近代人はそうすることによって、自分を、自分の心の中という牢獄に入れてしまいました。ですから、自分の心の枠組みに存在しない現象に出会うと、その現象は、適切な表象を持ち得ず、近代人から逃れ去ってしまうのです。この点、近代以前の人間の経験の仕方の方が深かったのかもしれません。彼/彼女らの方が、自らを超えた現象なり存在を、神という彼/彼女らが信じることができた存在を通じてでも、不可知ながらに彼/彼女らに影響を与えるもとのとして受け入れることができたでしょうから。


In other words, the world of the experiment seems always capable of becoming a man-made reality, and this, while it may increase man's power of making and acting, even of creating a world, far beyond what any previous age dared to imagine in dream and phantasy, unfortunately puts man back once more -- and now even more forcefully -- into the prison of his own mind, into the limitations of patterns he himself created. The moment he wants what all ages before him were capable of achieving, that is, to experience the reality of what he himself is not, he will find that nature and the universe "escape him" and that a universe construed according to the behavior of nature in the experiment and in accordance with the very principles which man can translate technically into a working reality lacks all possible representation. p. 288



さて、ここで話を英語教育研究の方へと大きく変えます。英語教育研究においては、まだまだ上記のような「近代」の発想法ばかりがはびこり、それが唯一絶対の方法だと思い込まれてはいませんでしょうか。いやさすがに唯一絶対とまではいかずとも、それが理想の方法だと惰性で思われてはいませんでしょうか。

ポスト近代が近代の否定ではないように、私も近代の実験的仮説-演繹思考を全面否定するつもりなど毛頭ありません。しかしそれを全面肯定すること、そしてそのあまり、それ以外の思考法を排除することに対しては反対せざるを得ません。

実践者は、一つの仮説的思考にこだわらず(あるいは「居着かず」)、その思考を超えるもの、自分の心を超えるものに対して感度を上げて、それに攪乱されながら、何とか実践をつないでゆき、自らの仮説を拡張、あるいは複数化して現実への対応度を上げます。自分の思いに拘らないことが、実践者が必要とすることの一つかと思います。

昨日の記事で取り上げさせていただいた名越康文先生は、医者という実践家について次のように述べます。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/06/blog-post_05.html


別の言い方をすれば,医者をやっていれば1回1回,患者さんに対して,ビックリするなり,納得するなりという個別の体験があってもまったく不思議じゃないということですね。しかも,その1回の体験というのは,それまでの体験から培われてきたパラダイムを一気に突き崩してしまうことさえある。「エッ! そんな感じ方してたの? じゃあ,この患者さん以前の100人の患者さんに対して,僕はそんな思いをさせてきたの?」というようなことが,医者になれば必ず起こる。そこから目を背けないのでほしいと思います。
 そういう体験を通じて「そうか!」という納得にいたる。そのときに一歩,人はバージョンアップするのです。でも,そのときの感覚に固執しているとその経験は必ず陳腐化します。どれほど衝撃的な体験でも,100日も経てば日常に退屈してきて,自分が100日前に気づいたことを「冷静になるとつまんないな」と思うようになる。そういう体験を常に更新し続けることが,臨床家ではないかと僕は考えています。
 理屈からいっても,患者さんは日々変化しているし,医者も日々進化している。感度が上がれば上がるほど,「違うのが当たり前」なんです。


あるいは武術家の甲野善紀先生は、最近の日記で『願立剣術物語』42段目を引用されておられます。
http://www.shouseikan.com/zuikan0806.htm#1


"手の内身構え敵合などよき程と心に思うは皆非也。吉もなし、悪もなし。我が心におち、理におち、合点に及ぶは本理という物にてはなし。私の理成るべし。古語に「道は在て見るべからず。事は在て聞くべからず。勝は在て知るべからず。」"


私が言いたいのは、近代の実験的仮説演繹思考は一つの方法に過ぎず、ましてやその中の一つの仮説は多くの可能性の一つに過ぎず、それに拘ってしまっては実相を失ってしまうのではないかということです。自分の仮説、あるいは近代の実験的仮説演繹思考そのものを相対化し、それらへの拘りから自由になってこそ私たちはより現実に対応できるでしょう。

同じようなことを群馬大学大学院医学系研究科の清水宣明先生もおっしゃっています。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review2006.html#060705

私も及ばずながら甲野善紀先生らの動きを追うことによって、こういった近代以前には明らかだったこと、そして近代以後にも再び明らかになるべきことをできるだけ文章化しようとしています(よかったら私のブログ・ホームページ用の検索エンジンで「甲野」と入力して調べて見てください)。



私がまた悪い癖で必要以上に悲憤慷慨しているだけかもしれないけれど、でもどうしてこんな簡単なことを世間はわかってくれないのだろう。なぜだろう。

もし疑うことすら不可能なぐらい近代の枠組みが私たちの心身に浸透し、それを元にして現在の権力構造が維持されているとしたら、近代的発想こそは私たちが自覚しなければならないイデオロギーです。

関西大学「英語指導力開発ワークショップ」

関西大学で、田尻悟郎先生らが中心となっての下記のワークショップが開催されます。
詳しくは、関西大学のホームページをご覧下さい。

http://www.kansai-u.ac.jp/ws/boshu.html

■募集要領

1 募集人数 40名

2 応募資格
国・公・私立中学校・高等学校において外国語科(英語)を担当する教諭または講師

3 実施期間
【第1フェイズ】  テーマ「生徒の心のつかみ方」
平成20年8月1日(金) 4日(月)~7日(木) 【計5日】
【第2フェイズ】  テーマ「よりよい英語授業を求めて」
平成20年8月25日(月) 26日(火) 
9月27日(土) 
10月11日(土) 18日(土) 【計5日】

4 実施場所   関西大学千里山キャンパス岩崎記念館

5 受講料
正課の授業科目の聴講料に相当する金額を予定しております。
金額・入金方法はあらためてお知らせいたします。

6 単位の認定
所定の成績を修められた方に修了書を授与し、関西大学大学院外国語教育学研究科(博士課程前期課程)において4単位を認定します。この単位は、将来関西大学大学院に進学される場合、正式な単位として換算されるものです。

2008年6月5日木曜日

名越康文先生の文章

友人が教えてくれた以下の名越康文先生の文章には非常に深いものがありました。私はこれからこの文章を何度も折ある事に読み返すことと思います。以下の引用の文章にピンとくるものを感じた方はぜひ下のURLをクリックして全文をお読み下さい。


生身の患者と仮面の医療者
- 現代医療の統合不全症状について -
名越康文(精神科医)

http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02727_07



予測や予定がすべてご破算になった時こそ,人間は成長できるし,また真価を問われると思うのです。


「答えがないのに問わざるを得ない問い」


学生時代から今に至るまで,僕には「命を救う」というテーゼの意味がよくわからない。「命を救う」というテーゼが間違っているというわけではなく,文字通り,「わからない」。


そういう現実の他者とのコミュニケーションがあってはじめて,自分の脳内世界と物質世界の間での,自己の立ち位置を確認することができるわけです。


平穏な日常生活のなかに,少しずつ,他者から撤退していく動きが垣間見える。さらに,その動きが少しずつ加速している。傷つきたくない,自分の庵の中でひっそりと生き続けたい。社会に守られながらも,対人関係からゆっくりと撤退し,自己の居場所を少しずつ縮める,そういう生き方が広がっていることが,僕は少し恐ろしい。スピリチュアル・ブームは,そうした「自己完結を求める意識」が社会的に広がっていることとシンクロしているように思うのです。


 「自己完結を求める意識」は,スピリチュアル・ブームに限らず,ほうぼうに認められます。僕らは「他者から遠ざかる」というと,空間的に他者から遠ざかることを連想します。しかし,いま生じているのは,自己の境界線をどんどん自分の内面の,奥深くに持ってくるということです。つまり,満員電車でギュウギュウ詰めになって,どれほど身体レベルの接触があったとしても,自己の境界線は犯されないくらい,内側に「自分」をつくってしまう。こうなると,もう「他者」とコミュニケーションすることは致命的に困難になります。


これはEBMに限らずあらゆるムーヴメントに言えることです。あらゆるプログラムは完成度を高めれば高めるほど縮小再生産し,最終的には破綻する。だから,考えなければいけないのは常に「それが破綻した後のこと」なんです。古くからある宗教とか,職人文化のなかの学びを注意深く見ると,常に教条的なものを自ら破壊するようなシステムになっている。そういう「縮小再生産から免れようとする知恵」が盛り込まれている。
 そういう意味では,新しい研修制度が「ジェネラリストを育てよう」という題目で運営されているのはいいことかもしれませんね。なぜなら,「ジェネラリストとは何か」ということが,誰にとってもいまひとつ明確じゃないから。
今,研修を行っている皆さんはある意味で幸運です。システムが大きく変わる時期で,いまひとつ目的が明快じゃなくて,「今,自分は何を学 ぶべきなのか」について,自分自身でしっかりと考えなくてはいけない。それはもちろんたいへんなことなんですが,そうでなくては本当に大切なことって学べ ませんからね。


イチロー選手の振る舞いはすごく演劇的です。先のセリフにしたって,ものすごくパフォーマンスが見えますよね。しかもそのパフォーマンスは,外向けでもあるけれど,むしろ,イチローをイチローたらしめるための,内側に向けてのパフォーマンスだと思うんです。そのことは,イチローがテレビドラマに出たとき,すごくよくわかりましたよね。ドラマに出たイチローを見て,多くの人が本物のイチローよりもイチローらしいと感じた。それはとりもなおさず,イチローという存在自体が,ある種の「演技」によって成り立っていたということだと思うんです。


 別の言い方をすれば,医者をやっていれば1回1回,患者さんに対して,ビックリするなり,納得するなりという個別の体験があってもまっ たく不思議じゃないということですね。しかも,その1回の体験というのは,それまでの体験から培われてきたパラダイムを一気に突き崩してしまうことさえあ る。「エッ! そんな感じ方してたの? じゃあ,この患者さん以前の100人の患者さんに対して,僕はそんな思いをさせてきたの?」というようなことが, 医者になれば必ず起こる。そこから目を背けないのでほしいと思います。
 そういう体験を通じて「そうか!」という納得にいたる。そのときに一歩,人はバージョンアップするのです。でも,そのときの感覚に固執 しているとその経験は必ず陳腐化します。どれほど衝撃的な体験でも,100日も経てば日常に退屈してきて,自分が100日前に気づいたことを「冷静になる とつまんないな」と思うようになる。そういう体験を常に更新し続けることが,臨床家ではないかと僕は考えています。
 理屈からいっても,患者さんは日々変化しているし,医者も日々進化している。感度が上がれば上がるほど,「違うのが当たり前」なんで す。そういう「違い」が,「医者」というフィルターによって隠蔽されているということに,あまりに無自覚であってはいけないんじゃないか。立場性を忘れ, フィルターの存在を忘れてしまうと,患者と医者の間には壁などないかのように思えてしまう。しかし,壁の存在を常に意識しつつ,その感覚を更新していくと いうことこそが,臨床家が成長するプロセスなんですよ。


立場性は絶対に越えられない壁です。しかし,越えられないものを越えようと試みるという,矛盾した取り組みこそが臨床です。「絶対に越えられない」ということを頭で考えていても駄目で,越えようとしても越えられないという体験を繰り返さないと,実践家としてはやっていけません。越えようとしない人間に,「越えられないなあ」という実感は生じないし,「越えたい,コミュニケーションをとりたい」という強い欲求も生まれません。下手に「越えられないけど越えようとがんばるのがいいんだ」なんて考えても駄目ですね。このあたりは,言葉で書くと必ずといっていいほど誤解が広がる部分ではありますが,少なくとも頭で考えているだけでは,感性や意欲は徐々に失われていくでしょう。
 絶対に越えられないからこそ,越えようとする。それによって初めて,越えられないということ,越えたいということ,両方の実感が生じる。矛盾していて,わかりにくいと思いますが,人が成熟するプロセスにおいて,こういう「越えられないものを越えようとすること」というのは絶対,欠かせないんです。


「問うこと」「問い直すこと」「問い続けること」,これが,その人の中のほんとうのクリエイティブさというか,ほんとうにその人の人生を前に進ませていく根本なんじゃないかと思います。



2008年6月2日月曜日

大谷泰照『日本人にとって英語とは何か』大修館書店

現在、大修館書店『英語教育』10月増刊号「英語教育図書 - 今年の収穫・厳選12冊」の原稿を準備していますが、その中で読んだ大谷泰照『日本人にとって英語とは何か』(大修館書店)は素晴らしい本でしたので、ここでも短くお伝えしておきます。

なぜ私はこの本を薦めたいのかということについては、上記の原稿で詳しく説明しますが、下記の一節はその論旨とは独立して、広く英語教育関係者、政策決定者、市民が共有すべき見解かとも思いましたので、ここで引用します。


すでに述べたように、政府は今日、5000人を超えるALTを海外から招致している。しかし、はるばる来日した彼等が、時にはその6割もが、1年後には契約更新をすることもなく帰国してしまうことも考えれば、その膨大な国のALT用予算の半分でも、なぜ日本人外国語教師の海外研修に使おうとしないのか。彼らなら、ALTとは違って、わずか1年どころか、定年に至るまで、長期にわたって海外研修の成果を教育現場に還元し続け、国民の血税をはるかに有効に活かすことが出来るはずである。なお、平成15年度、文部科学省派遣による日本人中学・高校英語教師の海外12か月研修者は、わずかの11人に過ぎない。(206ページ)


この本の面白さは、もちろんこの主張だけに尽きるものではありません。様々な具体的データで、深い現実的思考が展開されています。しかも読みやすい。皆様、どうぞこの本をお読み下さいませ。

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