この記事も、フッサールのまとめと同様、2014年6月7日に椙山女学園大学(星ヶ丘キャンパス)で行われるJACET中部支部大会(大会テーマ:第二言語習得論からみた大学英語教育 ―量的アプローチと質的アプローチの共存―)でおこなわれるシンポジウム発表のための「お勉強ノート」の一つです。
この本は、40歳代後半のユングが、20年間にわたる臨床・討論・自己分析などの経験から得た知見を、歴史的にも用語的にもすでに存在する知見と関係づけ(1ページ)、自らの知見の広範囲な妥当性を示そうとしたものです。この記事では、人の心に関する学問が、狭義の自然科学とは異ならざるをえないことを示すため、まずユングのタイプ論を簡単にまとめ、それから、心の学問としての心理学のあり方について彼がどう考えたかをまとめます。基本的に翻訳書に基づいたノートですが、時折原著を参照し、ドイツ語を補ったりしています。
■ タイプ論
ユングは、構え (Einstellung)の二つと機能 (Funkution) の四つを掛け合わせてとりあえず8つのタイプを設定します(354ページ)。「とりあえず」と言いますのは、タイプの特定は困難で、かつ、人間は一つのタイプに固定したままであるとは限らないからです。
構えのタイプとして想定するのは、内向型 (der Introvertierte) と外向型 (der Extravertierte) の二つです。内向型は客体(Objekt, 対象)から離れるような (abstrahierend)態度をとり、外向型は客体(対象)に向かって積極的 (positiv) な態度を撮ります。
四つの機能のタイプは、合理的 (rational)な思考と感情と、非合理的 (irrational)な感覚と直観です。 合理的とは、「偶然性や非合理的なものを意識的に排除し」、「現実の出来事のうち無秩序なものや偶発的なものに一定の型を押しつける、あるいは少なくともそうしようとする」(388ページ)ことを意味します。
思考 (Denken)とは、「それ固有の法則に即して、与えられたさまざまな表象内容を(概念的に)連関づける心的機能」(452ページ)です。ユングはさらに「方向づけをもった思考の能力」 (das Vermögen des gerichteten Denkens) を「知性」 (Intellekt) と呼びます。
感情 (Fühlen) は、「一定の概念的な意味連関を作ろうとする意図ではなく、何よりも主観的な受け容れるか拒むかという意図をもってなされる」(463ページ)判断をする機能です。別の言い方をすると、感情の内容 (Gefühl)とは、一定の価値 (Wert) を付与する活動でもあります。
思考と感情は、それぞれ一定の型や主観的な価値を対象に当てはめるという点で「合理的」とみなされます。
これに対して「非合理的」とは、「理性に反する」 (widervernünftig)という意味ではなく、「理性の外にある」(außervernünftig)、つまりは、地球には月が一つあるとか、塩素は元素の一つであるとか、単なる偶然とか、理性では説明できないという意味です("irrational"という語の理解には、やはり注意が必要です。関連記事:全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について。翻訳において新造語はできるだけ避けるべきですが、思い切って「合理外の」ぐらいに訳してもいいのかもしれません)。
その非合理的(あるいは合理外の)タイプとしては感覚と直観があります。
感覚 (Empfindung)とは、物理的な刺激を知覚に伝える身体的な心的機能であり、感情と混じり合うことはありますが、感情とは別の事柄として理解されています(458ページ)。
直観 (Intuition) とは、知覚を「無意識的な方法によって」伝える心的機能であり、直観においては「どんな内容も出来上がった全体」(475ページ)として表されます。
この思考・感情・感覚・直観が四つの機能ですが、この四つで十分なのかという問いに対して、ユングは次のように答えています。
感覚は現実に存在するものを確認する。思考は存在するものが意味することを認識できるようにしてくれるし、感情はそれがいかなる価値をもっているかを、そして最後に直観は今そこに存在するものの中に潜んでいる、どこから来て今後どうなるのかという可能性を示してくれる。(576ページ)
かくして、とりあえずユングはこれら四つの機能が、外に向かうか内に向かうかの二種類にさらに分化し、八つのタイプになるという類型を立てました。
■ 一つのタイプだけでは限界がある
これら八つのタイプが一人の人間の中でまんべんなく発揮されれば、それは素晴らしいことでしょうが、たいていの場合、人は自分が十分意識できている主要機能と、相対的に意識的な補助機能をもっており(438ページ)、残りの二つの機能は無意識的になっています。例えば思考が主要機能(直観が補助機能)である人にとって、感情(と感覚)は無意識的になります。しかし、この無意識というのは、感情の内容を意識化しないというわけではありません。もちろんその人は自らの感情の内容を認識しますが、それはその人の意向に逆らって現れるものであり、その人の意識は感情の内容にいかなる有効性も影響力も認めようとしないのです(554ページ)。
さて、近代においては、とりわけ思考(そして知性)が合理的(あるいは理性的)として称揚されてきました。その合理性は、想定した客体・対象をうまく説明できることから裏付けされていますが、これは逆に言うと、合理外の偶然的な要素などを排除することにより成立していることです。ですから、合理性は現実のすべてを扱っているわけではありません。
ユングは言います。
現実に存在する客体(すなわち単なる想定された客体ではない)を合理的に説明しつくすなどということはユートピアないし理想である。想定された客体だけが合理的に説明しつくすことができる、というのはこれには思考のもつ理性にによって想定された以上のものははじめから入っていないからである。経験科学 (empirische Wissenshaft) も合理的に限定された客体を想定する、というのは偶然的なものを意図的に排除することによって現実の客体をまるごとでなく、つねに合理的観察の目をひく部分だけを取り上げるからである。(477ページ)
しかし合理性あるいは理性は、いわば近代の証として特権的な地位を得ています。外向型の思考タイプの人はこの状態に満足するでしょうが、満足できないのが、「非合理的」(合理外的)な感覚タイプや直観タイプの人、あるいは概念図式ではなく主観的な価値に重きをおく感情タイプの人、さらには関心が外界の客体・対象ではなく内界の客体・対象にもっぱら向かう内向型の人一般でしょう。これらの人々は、近代科学の主流に対して異論をあげますが、それはたいてい党派間の争いとなってしまいます。
ユングは、そういった争いを外面的な歩み寄りによって丸く収めようとするのではなく、この対立を心理的な問題として考察する方が有益であり、それにより、それぞれのアプローチが存在する権利があることがわかってくると考えます(524ページ)。
こう考えるユングの前提は次のようなものです。
私は、人間心理とはほとんど無関係であり、それゆえ客体でしかありえない自然現象なら、唯一の正しい説明というものがありうると確信する。同様にまた、客観的に記録する装置では捉えることのできない複雑な心的過程は必ず、その主体 (Subjekt) が産み出す説明しか受け付けない、すなわち概念の提唱者は自分が説明しようとする心的現象に合致するような概念しか産み出せない、と確信する。(526ページ)
ここで大切なのは、ある人の心について理解する際は、その人の心を理解しようとする者も人間の心をもった者であり、ここでは理解の客体と主体がともに人間の心であるということです。つまり、心理現象を説明するということは、これもまた一つの心理現象であるということです。ユングは言います。
しかし複数の説明が《避けられない》ことは心理学理論の場合宿命的なことである、というのは何らかの自然科学の理論とはちがって心理学における説明の客体は主体と同じ性格をもっている、すなわちある心理現象を説明するのはやはりもう一つの心理現象でなければならないからである。こうした容易ならぬ障害のために思想家たちは古くからやむをえず奇妙な逃げ道をとってきた。すなわちたとえば心理現象の彼方にあり、それゆえその支配下にある心を客観的に考察できるという「客観精神」を仮定したり、あるいはこれと大差ないが、知性とは自分自身の外に出ても自らのことを定立し考察できる能力であると仮定したのである。(529ページ)。
こういった「奇妙な逃げ道」をフッサールが「客観主義」と名づけたのは、前の記事でまとめた通りです。英語教育研究あるいはSLA研究でいうと、量的アプローチだけしか認めない人々は、そういった仮定を疑い得ないものとして質的アプローチなどを排除しようとします。しかし、人が人の心を解明しようとする限り、解明者の心のあり様も主題化せねばならず、また解明者も一様ではない以上、どうしても心理学理論は複数にならざるを得ず、中には両立が困難な説明もあると結論せざるをえないでしょう。
ユングも次のように言います。
しかしわれわれが知性を用いて極めようとするものは何であれ、それが誠実な作業であって、楽をするための、論拠先取りでないかぎり、逆説 (Paradox)と相対性 (Relativität) とに行き着くことになる。心的現象を知的に理解すれば必ず逆説と相対性に到達するのであり、このことは知性がさまざまな心的機能の一つでしかなく、その本性上人間が自らの客観像を構成するさいの一手段でしかないことからしても確かである。知性だけで世界を理解できるなどと考えてはならない。世界は感情によっても同じようによく理解できるのである。それゆえ知性による判断は、よくて真実の半分でしかなく、またそれが誠実であるならば必ず自らの不十分性を認識せざるをえなくなるのである。(530ページ)
仮に量的アプローチの研究者が、英語授業に関して、美しいまでの合理的な説明をしたとしても、その合理性は論拠先取りによる現象世界の設定の限定性によるものであり、授業はその限定的世界を大きくはみ出すものです。教師や生徒は、量的アプローチの研究者が「主観的に過ぎない」とさげずむ感情的な価値観を個々人それぞれにもっています。教師も生徒も、「割り切れない」(=非合理的・合理外的)な事物を感覚に取り入れていますし、合理的な説明がつかない直観にもとづいて行動したりもしています。優れた実践者は、それらのできるだけ多くに対応しようと努力する中で、自らという人間を知りながら、一人ひとりの生徒を知ってゆきます。
そういった実践者の複雑で、矛盾(Paradox)や相対性にあふれた多彩な色彩の知恵を、平板な単一色で塗りつぶすことは止めようというのが、ユング的に考えた場合の結論となるかと思います。
しかし、結論を急ぐことなく、ユングが心理学のあり方についてどう語っているか、もう少し見てゆくことにしましょう。
■ 心理学のあり方
ユングは、心理学における認識には、認識者の個人的な偶然性(persönlich Zufälligkeit)必然的に伴っていることを強調します。
学問的な理論形成や概念形成のうちには多くの個人的偶然性 が伏在しているのである。精神物理学的判断だけでなく、心理的・人格的判断(注)もある。われわれは色を見るのであって波長を見るのではない。この周知の事実は他のどの学問よりもまず心理学こそが肝に銘じておかなければならないことである。個人的判断の作用は観察する時にすでに始まっている。人は自分の位置から一番よく見えるものを見るものである。(16ページ)
(注)翻訳書は"psychologische persönlichen Gleichung"を「心理的個人的誤差」と訳していますが、私は「心理的・人格的判断」と意訳しました(「判断」という訳語を敢えて使った背後にはポラニーの論の影響があります。関連記事:インタビュー研究における技能と言語の関係についてhttp://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2006.html#070517)。念のため、上記の部分の原文を下に写しておきます。
In wissenschaftlicher Theorie- und Begriffsbildung liegt viel von persönlich Zufälligkeit. Es gibt auch aine psychologische persönlichen Gleichung , nicht bloß eine psyychophysische. Wir sehen Farben, aber keine Wellenlängen. Diese wohlbekannte Tatsache muß nirgends mehr beherzigt werden als in der Psychologie. Die Wirksamkeit der persönlich Gleichung fä schon an bei der Beobachtung. Man sieht, was man am besten aus sich sehen kann. (8)
「人の心は一様であり、どんな人がどんな人の心を解明しようとしても、その結果は同じでなければならない」というのは、「客観主義」の信奉者の信念でしょうが、ユングはそれに反対します。
心理ないし心理的原理は一つしかないという仮定は、正常人がもつ擬似学問的な偏見から来る耐えがたい暴虐である。「人間」とその「心理」という一般的な言い方がつねになされ、その心理はいつもきまって「・・・にすぎない」へと還元される。同様に「現実」という一般的な言い方によって、あたかも「現実」が一つしかないかのように語られる。しかし現実とは一人ひとりの人間の魂のうちに働いているものに他ならない (Wirklichkeit ist nur das, was in einer menschlichen Seele wirkt) のであって、ある種の人々が実際にあると信じたことを偏見に従って一般化したものではないのである。そのさい議論がどんなに学問的になされようとも、次のことを忘れてはならない。すなわち学問は生の 「全体」ではなく、それどころか心理的な構えの一つにすぎず、人間の思考の一つの形式にすぎないのである。(48-49ページ)
「客観主義」によると科学は、いつか人間の心理を一つの真実に収斂させてしまうことになっていますが、そもそも認識をする者も人間である以上、人間の心は認識者の心のうちの働きにおいて捉えられるのであり、認識者の心のあり様によって異なって現れるわけです。私たちはそのようにさまざまな人間の多様な理解が錯綜する世界に住んでいて、なんとかその多様性にうまく対応しています。これが世間知というか生きる知恵であり、学説というのは、その知恵のごく一部しか定式化していないと言えるでしょう。その部分知が、生きる知恵を凌駕すると考えるのは知の暴虐でしょう。
もちろん、心理学も狭義の「科学」にとどまろうとすれば、感情や想像力(Phantasie 翻訳書では「夢想」と訳されているが、ここではいわゆる「アクティブ・イマジネーション」(能動的想像力)の意味(あるいはそれに類する意味)(488ページ)でこのことばが使われていると判断し、「想像力」と訳すことにする)を排除するか、知的に抽象化して捉える必要があります。しかし心理学を現実の世界に応用しようとすると事情が変わってきます。ユングは言います。
ところが科学を現実の世界に応用するとなると事情が変わってくる。それまでの王であった知性はここでは単なる補助手段となり、たしかに学問的には洗練された道具かもしれないが、しかしもはやそれ自体が目的でなく単なる条件にすぎない小道具でしかなくなる。知性および科学はここでは創造的な力と意図に奉仕させられるのである。これもまた「心理学」ではあるが、しかしもはや科学ではない。これは言葉の広い意味での心理学である、つまり創造的な性格をもった心理的活動であってその中では創造的想像力が首座を占めるのである。創造的想像力と言う代わりに、こうした現実的な心理学 (praktischen Psychlogie)においては生きること (Leben) 自体に中心的な役割が与えられていると言ってもよいであろう、というのは一方ではなるほど生産的創造的想像力こそが科学を補助手段として利用するが、しかし他方ではまさに外的現実の多様な要求が創造的想像力の活動を刺激するからである。(66-67ページ)。
想像力は実践者が常に使っているものですが、何せ内界の出来事で、外的・物理的な証拠が得られないものですから、いわゆる「実証主義」(=「客観主義」の一派)の人々は、想像力に関して研究することを拒みますが、研究が現実的なもの、実生活での働きを期待されるものであろうとするなら、想像力について適切に考える必要があります。たとえ、それによって、これまでの狭義の「科学的心理学」の枠組みを超えることが必要でも。(関連記事:マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html)
想像力といったこれまでの狭義の科学の枠組みを超える事象について考えることを拒否するなら、なるほど「科学性」は保たれるでしょうが、それは果たして望ましいことでしょうか。ユングは言います。
科学を自己目的とすることはたしかに崇高な理想であるが、しかしそれを徹底的に追求すると科学や技術の数と同じだけのたくさんの自己目的を産み出してしまう。この結果たしかにその時点で脚光をあびる機能が高度に分化・専門化されはするが、しかしそれによってまたその機能が世界や生から遠ざかり、さらには個々の領域の数は増えるが、しだいに相互の関係をすべてうしなっていくことになる。こうなると個々の領域においてばかりでなく、専門家へと分化・上昇していく、ないし加工していく人間の心にも、貧困化と荒廃が始まる。(67ページ)。
この箇所の引用は、私はJ-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/j-postl-2014.html)でも行いましたが、私は上記の状態が「英語教育学の発展」の状況に重なっていると懸念しています。(この発表の様子は下の動画で見ることができます)。
「英語教育学」なるものの発展あるいは進歩が私たちの目指すものではないでしょう。目指すものは、現実世界の改善であり、英語教育を通じて私たちがより幸福になることです。
重要なのはけっして合理的な真理を考え出したり発見したりすることではなく、現実の生が受け容れることのできる道を発見することだからである。(97ページ)
かくして、ユングのいう広い意味での心理学は、現実世界で生きる人間のためのものとなりますが、それはユング派の実践的研究者あるいは研究的実践者の活躍で立証されている通りです。ユング派は、臨床経験に基づきながらも、(教条的な方法論ではなく)使う用語の定義を大切にしながら(440ページ)、研究と実践を同時に深めていっています。
英語教育研究に従事する者は、こういったあり方に学ぶべきではないかというのが、私の考えです。
関連記事
C.G.ユング著、ヤッフェ編、河合隼雄・藤縄昭・出井淑子訳 (1963/1972) 『ユング自伝 ― 思い出・夢・思想 ―』 みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/01/cg-19631972.html
C.G.ユング著、小川捷之訳 (1976) 『分析心理学』 みすず書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/01/cg-19681976.html
C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1996.html
C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1995.html
小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2011/03/blog-post_3321.html
河合隼雄 (2009) 『ユング心理学入門』岩波現代文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2009.html
河合隼雄 (2010) 『心理療法入門』岩波現代文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2010.html
河合隼雄 (2009) 『カウンセリングの実際』 岩波現代文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/2009_25.html
河合隼雄 (2009) 『心理療法序説』(岩波現代文庫)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/04/2009.html
村上春樹(2010)『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2010_31.html
小川洋子(2007)『物語の役割』ちくまプリマー新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/10/2007.html
J-POSTLは省察ツールとして 英語教師の自己実現を促進できるのか ―デューイとユングの視点からの検討―(「言語教育エキスポ2014」での発表)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/03/j-postl-2014.html
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。