2014年2月21日金曜日

信田さよ子 (2013) 『愛情という名の支配 [新装版]』 海竜社




1997年に出版され、その後文庫化もされたが、長く読み継がれているので新装版として再刊された書籍である(文庫版は今は絶版)。著者は、もし今書きなおすとしたら、当時はまだ事情が明らかでなかったDV(ドメスティック・バイオレンス)について説明を加えたいとするが、基本姿勢は変わらないので当時のまま出版したとのこと。実際、読んでも、古臭さはまったく感じられず、この「愛情」あるいは「善意」や「正論」の形を借りた「支配」の問題は、日本社会がもっと意識化しなければならないものだと思わされる。

本書の55-57ページには、本書の特徴の一つであるアダルト・チルドレン(以下、AC)の定義がある。それを、(少し抽象的な言葉でまず表現するなら)いわば関係論的・偶発的・言語行為的に行うことを著者は提唱し、ACを個人帰属的・単純因果論的・他者断定的に行わないことを勧める。

第一の関係論的定義というのは、ACは、他者との関係性の中から生じたものであり、その人の性格や思考といった固有的で変容しがたい要因にACを帰属させないことである。「あの人は、ああいう人だからAC」とACを個人の特徴に帰属させるのではなく、あくまでも人がおかれた人間関係(特に親との関係)の中でACを考えるやり方である。

第二の偶発的定義というのは、親や家族の機能不全をACの一つの(しかし重要な)「起因」と考え、一定の親や家族をもつと必ずACになると単純因果的に考えないことを意味する。人は時に「あの親がACの原因だ」と親を犯人視してしまうが、それだと親を根本的に変容させないとACの苦しい状況は終わらないことになる。だが、実際、親は変わらなくてもその家族のACの状況は変わることが多くの症例で知られている。ゆえに、特定の親や家族関係は、ACという現象を発生させるにいたった起因の一つに過ぎないと考えることができる。もちろん起因の一つといっても、それは重大な起因であったのだが、大切なことは、それはACという結果を因果的に必ず引き起こしてしまう原因ではないので、ACに苦しむ者は、その状態から脱却することが可能であるということだ。

第三の言語行為的というのは、ACをよくあるように一定のチェックリストによって他者が判定したり診断する概念と考えるのではなく、あくまでも当事者(自分)が、そうであるかもしれないと自己認知・自己申告・自己宣言するものと捉えることである。言語行為(speech act)とは、言語を主体的に使いこなすことで新しい社会的現実を創り出すことだが、ここでは自らのAC宣言によって、自分が解放され「自分の中にあった謎が溶け、ジグソーパズルのピースが収まった感覚を持ち、楽になった」(57ページ)と感じることができるようになることがACという概念の適切な使い方だと著者は考えている。

この言語行為は、「べてるの家」の当事者研究でも見られる。従来、さまざまな問題に苦しむ当事者は、専門家(第三者)に「あなたは○○です」と「科学的」な判定を下され、それを自らのアイデンティティとして引き受けるしかなかったが、べてるの家では、そういった専門家の知識を参考にはしつつも、あくまでも当事者(自分)が、当事者を大切に思ってくれる人(いわば第二者)との語り合いの中から主体的に自分のアイデンティティを見出してゆく。「科学的真理」の立場からすれば、「主体性」などというものは「主観性」に過ぎず(実際、英語で表現しようとすると共に"subjectivity"となりかねない)、そんな概念をもちだすのは「非科学的」となるかもしれないが、現実世界の問題が解決する方法をできるだけ丁寧に探りだす試みを仮に学問と称するならば、当事者の主体性を重視することはきわめて学問的な態度である(倫理的であることは言うまでもない)。

以上を踏まえて、著者は「ACは肯定の言葉」、「ACは自分が生きづらいと感じた主観を肯定し、ACと自己認知して楽になったことを肯定するのです」(58ページ)とする。



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本書のもう一つの特徴として私がとらえたのは、本書は萌芽的でしかないものの、評価や理解あるいは正論の暴力性を示唆していることである。

著者は、カウンセリング現場で、周りからの「理解」「期待」「アドバイス」などに支配されて苦しんでいる人々に多く出会う。周りは「善意」や「正論」あるいはこの本のタイトルにも使われている言葉である「愛情」から、「理解」し「期待」し「アドバイス」をしているつもりかもしれないが、当事者にとってはそれは苦しいものであり、当事者はまさに「愛情という名の支配」を受ける。

著者は(きわめて断片的で引用情報もない形ではあるが)ここでフーコーのことばを引く。



それ [=当事者の苦しさ] をよく表しているのが、哲学者ミッシェル・フーコー [表記は原文に従った]の言葉です。

「私たちは評価や正常化する判断が、社会制度の重要な機構としての、司法や拷問にとってかわった社会に生きている」

簡単に言うと、取っつかまえて牢屋に入れたり拷問するのではなく、評価されたり、これは正常化することですよ、と言ってアドバイスしたりすることが、実は拷問とか刑務所に入れられているのと同じ機能を果たしているということです。そういう社会に私たちは生きているということです。

「それは、間断なき視線にさらされた社会なのである」とも書いてあります。誰の視線かというと、他者の私たちを評価して、私たちを支配する人たちの目によって絶えずさらされているということです。 (114-115ページ)




教師という仕事をやっていると、たえず自分は「善意」と「正論」に基づいた「愛情」深い存在と自認し、児童・生徒・学生を「理解」し、「期待」をかけ、「アドバイス」したりする。もちろんそれらの認識や行為がすべて錯誤で邪悪なものであるとまでは言わない。しかし、時にそれらは、そこから外れる児童・生徒・学生を、自らの思うとおりにコントロールし、支配してしまうことにつながりかねないこと、そしてその支配を教師は自覚していないかもしれないことは、恐ろしい可能性ではあるが、その可能性については自己省察が必要だろう。

教師だけでなく、この本の主テーマである親、あるいは上司といった権力者は、やはりフーコーやアドラーについても少しは勉強しておいた方がいいのかもしれない(もちろん、「生兵法は大怪我のもと」ではあるのだが)。











だが、本書で描かれている多くの親、そして一部の教師や上司やその他の権力者は、正論にしがみつく。



その人たちがなぜ正論にしがみつくか。それ以外の軸を知らないからです。それ以外の軸とは何かと言うと、幸せか不幸せか、気持ちがいいか悪いか、呼吸が楽か苦しいか、という軸です。そういう軸をどこか軽視しているところがあります。幸せか不幸せかということを知らないと、正しいか間違っているかという軸にしがみつくことになります(122ページ)




繰り返すようだが、正論や「正しいか間違っているかという軸」が全く不要というのではないだろう。それは社会を動かしている知恵の一つだろう。だが、そればかりが判断基準だというのは怖い。その怖さは正論を声高に伝える権力者にはまったく感じられないが、その権力者に抑圧され支配され苦しむ者は心身で感じている。

「幸せか不幸せか、気持ちがいいか悪いか、呼吸が楽か苦しいか、という軸」、言ってみるなら「からだで感じる軸」を私たちは大切にしなければならない。というより優先すべきはからだで感じる軸だろう。正否の軸は、社会的便宜として形成されてきただけであり、その軸が多くの者を苦しめるのなら、そんな軸は捨ててしまうべきだ。



いろいろな意味で面白い本であった。上の記述は私の悪い癖で小難しい文章になってしまったが、本書の文章はとてもわかりやすいことを最後に付記しておく。














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